2008年9月30日火曜日

北海道の旅 2008/夏 (41) 「朽ち果て行く過去を眺め行く現在」

偶然という名の必然が存在するという偶然(意味不明)

というわけで、ついに「糠平湖に沈んでる橋」こと、タウシュベツ橋梁のたもとにやってきました。事前の下調べを殆どしていないことを考えれば、これは快挙です(自画自賛)。

今(いつ?)現在、Wikipedia に繋がらないようですが……。いずれ直ることを期待して、リンクしておきます。
ハイ、絶対にしません(笑)。

さてさて。森の中の小径を抜けると……。見えてきました。
これでは面白くないので、少し横に回ってみましょう。
少し近づいて、さらに横に回ってみます。
一応、反対側にも回ってみます。
最後に……。橋梁に近づいてみます。
タウシュベツ橋梁はコンクリート製のアーチ橋ですが、ちゃんと鉄筋が使われています。大間線や戸井線と言った、戦時期に建設された橋梁では、鉄筋を惜しんで竹が使われたケースもあったと言いますが、この橋梁が建設された時期は、まだそれほど金属類が惜しまれることは無かった、ということですね。

まぁ、「鉄橋ではなくアーチ橋」という時点で、鉄の使用量を惜しんでるじゃないか、とも言えるのですけどね(笑)。

ハードボイルドは男のマカロン(更に意味不明)

このタウシュベツ橋梁は、「文化財として保存し、修復すべき」という考えと、「朽ちるに委せるべき」という考え方があるようですが、時期によっては水没する橋梁を修復するのはナンセンスだと思いますので、やはり、朽ちるに委せるべきではないかと思います。そして、周りは今以上に賑やかになるべきでもない、と思います。土産物屋の売店や、有料駐車場の呼び込みはゴメンです……。

朽ち果て行く「北海道の近代化遺産」をしっかりと目に焼き付けつつ、もと来た道を戻っていったのでした。
写真ばっかの手抜き記事ですんません……! 月末なんで、これで勘弁してください~。

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2008年9月29日月曜日

北海道の旅 2008/夏 (40) 「部外者は林道の先にタウシぺッ橋梁を見た!」

たウシぺッ橋梁!

日は暮れつつありましたが、ここまで来て「タウシュベツ橋梁」を見ないわけにはいきません。なんせ案内板まで用意されているのですから。

というわけで、忘れる前にアイヌ語講座。

「タウシュベツ」は tat-us-pet(たウシぺッ)から来ているようです。意味は「樺の木のある川」。"tat" は、単独では「たッ」となるようですが、アイヌ語における「ッ」は、日本語における促音ほど強い音では無いようで、絶対「たッウシ」とはならないようです。

タウシュベツ橋梁への道

それじゃあ、参りましょうか。
タウシュベツ橋梁まではここから約 4 km ……ということは、その先は通り抜けができない、ということですね。逆に言えば、タウシュベツ橋梁までは通れるようになっている、ということです。気が利きますね(笑)。
部外者の林道通行について……。ハイ、部外者です。気をつけますです。
路面は……。なんと、と言うべきか、やはり、と言うべきか、見事なダートです。決して車高が高いとは言えないうちの車。超スローペースでダートを進みます。

すると……。対向車が。対向車がっ。対向車がっっ!! 夕暮れ時でゴメンゴメンな時間にも拘わらず、対向車と 4 台ほどすれ違ったのですね。これは……、他にもタウシュベツ橋梁を見に来た酔狂な人がいる……ということ、かもしれません。

道は、最初のくねくね道から一転、途中からはまっすぐ伸びています。もっとも、まっすぐになったところでダートはダートなんですけどね……。

後で気づいたのですが、まっすぐなダートは、士幌線の路盤跡そのものだったようです。

さて、4 km ほど走ったところで、少し開けたところにやってきました。
タウシュベツ川橋梁はすぐそこ!ですが、十二分に注意します(←

諸車乗り入れ禁止

林道が左に急カーブして、路盤跡と分岐する地点につきました。随分と年季の入った「タウシュベツ川橋梁 入 口」の看板が出迎えます。
ここからは、環境保護のため、車・バイクの乗り入れはできません。
つづく!

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2008年9月28日日曜日

北海道の旅 2008/夏 (39) 「第五音更川橋梁」

とりあえず、十勝三股を後にして、糠平湖に戻ります。17 時も過ぎましたし、そんなに寄り道はできません。が、しかし……。

音更川にかかる「滝ノ沢橋」を渡っているときに、ふと左手を見てみると……。
なんとも立派なアーチ橋が残っていたのですね。あわてて車を止めて周りを見渡してみると、なんか遊歩道のようなものが……。集蛾灯に吸い寄せられる蛾のごとく(笑)、小走りに先へ進んでいったのでした。
遊歩道の先は、アーチ橋のたもとでした。さすがにアーチ橋は崩壊の危険性があるからか、勝手に進入できないようになっています。
わざと、柵が入らないように写真を撮ってみました。この幅は、確かに鉄道橋の跡ですね。

そして、後ろを振り返ってみると……。
森の中をまっすぐ(いや、ちょっと曲がってるけれど)伸びる切り通し。なかなか絵になる風景かな……なんて思いました。思ったよりもマトモな状態なのは……もしかしたらちゃんと整備されているのかもしれませんね。

あ、このアーチ橋ですが、「第五音更川橋梁」と言うのだそうです。かつて幌加駅があった場所にほど近いところにあります。

「幌加」は horka-nay(ほカ-なィ)から来ているとのこと。意味は「後戻りする川」、つまり「U ターンする川」です。確かに、幌加川は北流して音更川に合流しているので、北から南に流れる音更川から見ると「後戻りする川」と言えますね。

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2008年9月27日土曜日

北海道の旅 2008/夏 (38) 「美しい日本と私」

美しい日本と私……でも「宿泊厳禁」

それにしても、三股集落が「かつて人口 1500 人を擁した」というのには、ちと驚きました。どうやら、かつては林業が盛んだったようですね。今では「三股山荘」というお店が一軒残るのみで、あとは自然に還りつつあるのは、昨日のアーティクルでご覧頂いたとおりです。

ただ、山の中でも開けた地形だからか、それともたった一軒でも営業している「三股山荘」の影響か、あまり寂しい印象は受けなかったですね。

さて、糠平から十勝三股の間は、国鉄士幌線が廃止される 10 年前から、代行バスが運転されていました。これは、おそらくその停留所(だったもの)です。
中に入ってみると……。
うはは(笑)。エキゾチックなジャピャーンをディスカバーするのは良くても、宿泊は厳禁なんですね(笑)。

今は来ません

「宿泊厳禁」の左側に貼ってある時刻表、これは、最終的には 1 往復に減便されたという「代行バス」の時刻表でしょうか。「今は来ません」との気の利いたひとことからも判るように、今は来ません(←
代行バスは 2003 年 9 月に廃止されたとのこと。だから、今は来ません(しつこい)。

不正確

停留所(の待合室)には、「十勝三股周辺概念図」なるものも掲出してありました。
良く見ると、左下にはこんな記載も……。
こうなると、ホントに「古代遺跡」があるのかも不正確に思えてきますね(笑)。

ちょいと風邪をひいたので、本日はこの辺で……。

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2008年9月26日金曜日

北海道の旅 2008/夏 (37) 「列車の走らない鉄道線」

タウシュベツ川橋梁はこっち」という看板に気づいたのは直前だったので、結局そのまま直進してしまいました。

かつての国鉄士幌線には、糠平(ぬかびら)の先には「幌加」(ほろか)、「十勝三股」(とかちみつまた)の二駅がありました。糠平から十勝三俣の間は、1987 年に士幌線が廃線になるまで、約 9 年間列車が走らなかったという、極めて珍しい区間でした。法的には「鉄道路線」として存続しながら、実際はずーっとマイクロバスで代行輸送を続けていたのですね。

1977 年、かつて人口 1500 人を擁した十勝三股は 5 世帯、14 人まで人口が落ち込み、十勝三股・糠平間の乗客数も一日平均約 6 人となり、営業係数も 22,500 円まで上昇した(士幌線全体では 1,497 円)。そのため 1978 年に国鉄はこの不採算区間の運行を休止し、上士幌タクシーによるバス代行輸送へと切り替えた。もともと利用客が少なかったため、住民による大きな混乱もなく、バス代行輸送へは短期間で移行が実現した。ところが、その時点で前述の改正鉄道敷設法別表第 141 号に定められた計画は有効であったため、同糠平~十勝三股間を廃止ではなく全国でも珍しい「部分運休」とし、以後も線路、駅舎等は一切手がつけられなかった(解体撤去はされなかったが特に保守点検もされなかった)。
(Wikipedia 日本語版「士幌線」より引用)

100 円の利益のために 22,500 円の経費

人口 14 人で乗客が平均 6 人ということは、人口比で 42 % ですよね。それって凄いことじゃ……(そう来たか)。営業係数は、100 円の利益を上げるためにかかる経費のこと……だった筈。100 円の利益を上げるために 22,500 円必要というのは、かつて「日本一の赤字線」との名を馳せた美幸線の営業係数 3,859(1974 年度)が霞んで見える、破壊的な数字です。

http://kiha-yuni.hp.infoseek.co.jp/haishi/keisuu/ha.html によると、美幸線が廃止された時の営業係数は 4,731 だった模様。1977 年度の営業係数は 2,817 とのことで、1974 年度よりは改善していたようです。

人間万事塞翁が熊(ぉ

そして、運休された糠平-十勝三股の間がどうなったかと言うと……。

1987 年の全線廃止においては、帯広~糠平間の線路等はほどなく撤去されたが、糠平~十勝三股間においては部分運休から九年の歳月を経て線路が草木に埋もれ、2 本のレールの間から木が生えるという惨状や、多数存在しているアーチ橋の劣化等といった物理的要因が重なり、全線廃止後も同糠平~十勝三股間に限ってはほとんどの遺構を放置するしかなかった。先に運休となった区間の線路が後まで残るという数奇な運命に加え、景観の美しさ、多数のアーチ橋等が鉄道ファンを魅了し、同線はいわゆる廃線めぐりの草分け的な存在となった。
(Wikipedia 日本語版「士幌線」より引用)
いやぁ、世の中どう転ぶかわからないものですね。実際こうやって、遺構をわざわざ見に来た人間もいるわけですから。

埋蔵近代化遺産

さて、幌加からさらに北に 8 km ほど進むと、かつての十勝三股駅跡に辿り着きます。
草むらの中の看板が気になったので、ちょっと寄ってみました。
なるほど……。前述の理由で撤去工事を行うことができなかったので、色んなものが草むらに埋もれたままになってしまったのですね。例えばこんなものが。

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2008年9月25日木曜日

北海道の旅 2008/夏 (36) 「『糠平湖に沈んでる橋』でも見に行こうかと(超アバウト)」

螺湾と「ラ王」(全く関係ありません)

そうそう。Day 5 の昼食の話。足寄に近づいたタイミングで、何故か「ラーメン食べたいなぁ」と。そんな中、螺湾(らわん)から足寄の中心街に向かう途中でラーメン屋を発見!

……だが、しかし。当時の心境を再現してみましょう。

「ここは足寄だぞ」「松山千春の出身地だぞ」「いやいや、その上鈴木宗男も足寄の産だと来た」「足寄は『村』じゃなくて『町』だぞ」「そうだ、きっとこれからどんどん町並みが開けてくるんだ……!」「中心部の駅近くに行けば、もっと選択肢があるに違いない……!!」

結局どうだったかって? ええ、もちろんのこと、己の不明を天地深く恥じ入りましたことですとも。おーっほっほっほっ。

「螺湾」は、山田秀三の解釈によると ra(w)-an-pet とのこと。意味は「低い川」。

足寄高校のみなさん、お邪魔しました

さて、足寄高校の脇をすり抜けてショートカットする企みが見事に失敗に終わった後(いやぁ、こんな地図見せられたら、ショートカットできそうな気がしませんか?)、芽登(めとう)から、芽登川沿いをひたすら北西に、糠平湖に向かいます。

「芽登」は metot(メとッ)から来ているのだとか。意味は「山奥」「深山幽谷」とのこと。

この、芽登川沿いのルート、ご覧のようにとっても快適な 2 車線道路……なんですが、しかも交通量が皆無に近いという……。すばらしいです北海道(笑)。

「糠平湖に沈んでる橋」でも見に行こうかと(超アバウト)

清水谷で右折し、国道 273 号線を北に進みます。まもなく黒石平に差し掛かります。確か、国鉄士幌線にもそんな名前の駅(停留所?)がありました。少し進むと、糠平ダムが見えてきました。そう、糠平湖はダム湖なんです。摩周湖や屈斜路湖、阿寒湖とは違って。

糠平ダムが建設される前から、国鉄士幌線はこの地に存在していました。ですので、線路の一部が水没しているのですが、水没した筈のアーチ橋が、渇水時には湖面から顔を出して何ともいい感じらしい、ということをひょんなことから知り、そいつを見に行こうかと思ったのですね。ええ、具体的な場所も名前もチェックせずに来たのですが(わはは

国道 273 号は、糠平湖の西側を、かなりまっすぐなルートで北に進みます。当てが外れたのは、ほとんど糠平湖が見えないことで……。ということは、どこかに湖に近づく道がある筈です。

タウシュベッツ?(微妙に違う)

そんなことを考えながら、車はいつしか糠平湖畔を過ぎようとしていたその時……。
場違いに小綺麗な看板が。なになに?
タウシュベツ川橋梁……ですか。うん、もしかしたらお目当てのものかもしれません。

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2008年9月24日水曜日

北海道の旅 2008/夏 (35) 「消えた『一万五千人』」

まぁ、雄別炭鉱の跡が跡形もなく消え去っていることは、ある程度想像がついていたので、まぁ(2 度目)そんなに驚くことは無かったのですが、予想を超えるペースで自然に還っていたのには、さすがに驚きました。

当時、戦後最大の炭鉱会社大手の倒産であった。

雄別鉄道の終点である鉱業所のおかれていた雄別地区(人口 15000 人)は閉山とともに他に雇用の受入先もなく人口が消滅した。このため役所、警察、郵便局、病院、映画館、小中学校、寺、神社などすべての都市施設が数ヶ月で停止閉鎖され、商店街は廃業、または阿寒町市街地や釧路市への移転を強いられた。雄別炭鉱の倒産業務に携わる社員以外、住民は全く姿を消し、閉山後数年で市街地は無人地帯と化した。また、尺別炭鉱のある音別町では、新尺別地区の住民の集団移転を行い、新尺別の町営住宅など各種施設を放棄し、公務員である職員の解雇を実施した。

資金繰りが原因でのあまりに突然の倒産であったため、地元自治体は築後 1 年も経過していない公立学校の校舎や公民館施設などを放棄することになったほか、地元住民の住宅の所有者が雄別炭鉱会社であったため、倒産後一方的に住宅を解体され生活の場を失うなど、地域住民の生活は一時的にパニックにおちいり悲惨な状況におかれた。
(Wikipedia 日本語版「雄別鉄道」より引用)
とまぁ、こういう訳だったわけです。「雄別炭砿記念碑」には「三千有余の従業員」とありましたから……、そうか、そこにはその家族と、住民のための産業もあった筈なんですよね。こんな静かな山あいに、一万五千人もの人が暮らしていたなんて、ちょっと想像はできないですね……。うーむ。

人生、投げたら……

そんなわけで、「夢の跡」すら緑に還りつつある雄別を後にして、再度阿寒湖に向けて走り始めました。程なく阿寒湖についたのですが……、うっ、うっわぁー……。

ちょっと車を止めるだけでカネを取られそうな、何とも「俗」な「観光地」なんですねぇ……。この手の趣向は性に合いません。写真のひとつも取らずに、完全無視でスルーを決め込みました。うむむむむ……。

阿寒湖を過ぎ、国道 240 号が、ふたたび国道 241 号と分岐する交差点に差し掛かりました。国道 240 号を直進すると、釧北峠を越えて北見相生に。左折して国道 241 号に入ると、足寄峠を越えて足寄に向かいます。

そして足寄は広かった

足寄は「あしよろ」だと思いがちですが、正確には「あしょろ」です。北海道には「庶路」なんて地名もありますが、足寄の語源は esoro-pet(エそロ-ぺッ)なんだとか。「~に沿って下る川」なのだそうですが、何に沿うのかわからないですね。

足寄峠を越えると、そこはすぐに足寄町。「なぁんだ、意外と足寄って近いじゃん」と思ったのも一瞬で、それは恐ろしく勘違いしていたことを思い知らされたのでした。そう、足寄町と言えば、つい最近まで日本一広い自治体としてその名をとどろかせていた、何しろ「広~い町」なのですね。足寄町だけで、香川県の全面積の 75% に等しいと言いますから……おわかりでしょうか。

足寄峠から、足寄町の中心街までは約 46 km。車でも 1 時間近くかかる計算になります。

そんな足寄町で見かけた看板をひとつご紹介。
なんともほのぼのしたキャラですが、これ、足裏をモチーフにしてるんですよね?(笑)

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2008年9月23日火曜日

北海道の旅 2008/夏 (34) 「強者どもの夢の跡は……夢の中へ」

遠い昼ご飯……

さて。屈斜路湖沿いを快適にスルーして、道路のつながり上、再度弟子屈に戻ってきました。そば屋に行こうかどうか迷いながら、結局立ち寄らずじまい。四日続けて、まともな昼飯にありつけない可能性もあると知りながら……。

いや、糠平湖には日没前に着きたかったので、意外と時間が無かったのですね。

ぷじょ乗りさんとの遭遇

国道 241 号線(阿寒横断道路)を西に向けて走っていると、山間部でぷじょ乗りさんに遭遇しました。銀色の 306 で、確か首都圏のナンバーだったと記憶しています。フェリーではるばるやって来られたのですね……。
ぷじょ乗りさんはセオリー通り、国道 240 号と合流する T 字路で、阿寒湖方面に右折して行きました。そういう私は、雄別炭鉱に行こうと思ったので、左折して阿寒川を下るコースを取りました。306 さんとはここでお別れです。

雄別への道

最近、釧路市と合併した阿寒町の中徹別というところで、「雄別は右だよ」という看板を見かけたので、右に回ってみました。

ちなみに、「徹別」は「てしべつ」と読むそうです。tes-pet で「梁の川」なのだとか。弟子屈と同じ「てし」シリーズですね。
うーむ、快適な 2 車線道路が多い北海道にしては、かなり狭いですね……。そうこうしているうちに、事態は悪化の一途を辿ります(笑)。
うわわわ……。ホテル知床への入り口に続き、またもダートに突入です。決して車高が高いとは言えないこの車、サンプガードをつけておけば良かった……なんて。

夢の跡は……今いずこ

てな感じで、あたふたとスロー走行を続けているうちに、何か記念碑の前に辿り着きました。「雄別炭砿記念碑」とあります。
裏側に回ってみましょう。
雄別炭鉱は、昭和四十五年二月に閉山になったのですね。最盛期には「三千有余の従業員」と「二千五百戸の炭住街」を擁したと言いますから、山あいではあるものの、そこそこの規模を誇ったことがわかります。釧路からここまで、石炭の輸送などのために、雄別鉄道が延びていたわけですね。

ところが……です。周りを見回しても、ずーっとこんな風景ばかり。
製材所?があった以外は、人の気配は見あたりません。まぁ、雄別炭坑の場合は、経営母体の破綻が閉山の原因だと言いますから、他の鉱山街とは状況が異なるのかも知れませんが、それにしても……あまりに跡形が無いのには、ただただ驚嘆するばかりでした。

国土地理院の地図へのリンクを用意しました。とくと現状をご覧下さいませ。

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2008年9月22日月曜日

北海道の旅 2008/夏 (33) 「逆流する喉元(ぉぇっ」

摩周湖は今日も霧だった

弟子屈からは、とりあえず摩周湖に向かいます。いや、せっかく近くまで行ったんだったら、ひととおり見ておきたくなるのが刃傷沙汰……あ、いやいや。
少し曇っているようにも思えますが、快適なドライブ日和です。

「摩周湖第一展望台」という所に差し掛かりました、が……。車を止めるだけでお金を取られそうです。お金が惜しいわけじゃ無いんですけど、どうにもこの手のビジネスモデルが好きじゃないものですから、先へと急ぎます。
あれ……。なんだか視界が悪くなってきましたね……。
うっわー、明らかに霧ですね、こりゃ。ここは「摩周湖第三展望台」という所のようなのですが、「第一展望台」のような観光地丸出しじゃ無さそうです。車は一台しか止まってませんが、とりあえず先の方に止めて、摩周湖を拝見、と行きましょう。

お約束の……

皆様お待ちかねの、摩周湖の写真です。
……霧だけやんっ(笑)。何ともお約束通りと言うか……。いや、真剣に感心しましたですよ。霧の摩周湖。摩周湖は今日も霧だった(笑)。

屈斜路湖は今日も……やや薄曇り?

ちなみに……。摩周湖の次は、そのまま屈斜路湖に直行しました。屈斜路湖沿いの道は、ご覧のように、かなり良い道が続きます。
では、皆様お待ちかねの……(もういい)。
一応、木陰の向こうには屈斜路湖が広がっている……筈……です、きっと。

逆流する喉元(ぉぇっ

屈斜路湖の語源は kut-charo(くッチャロ)で、「沼から水の流れ出る口」を指し示します。屈斜路湖は釧路川の源流ですので、そういった意味では間違いのない命名です。

アイヌ語の「kut」は「咽喉」、「char」は文字型……ではなくて「」という意味だそうですので、そもそもの意味は「喉元」「咽喉から胃袋へ入る口」ということになります。釧路川を「食道」、屈斜路湖を「胃袋」と考えると筋は通るのですが……それだと流れと逆になりますよね。

ただ、伝統的なアイヌの世界観では、逆流するのが正しいそうです。川は河口から遡るもの、というのが彼らの考え方だそうで、なるほどね、と思わせます。決して人間ポンプなんてことは……(こら

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2008年9月21日日曜日

北海道の旅 2008/夏 (32) 「一筆で……書けない Day 5 のルート」

一筆で……書けない

そういえば、Day 5 のルートをご紹介していませんでした(いや、誰も気にしていない筈)。Day 5 は、ただ釧路から帯広に行けば良いという、とっても余裕のあるスケジュールだったからか、かなりだらだらなルート設定となりました。実際、ガソリンを入れた後も、ルートに迷いがあったくらいですから。

四の五の言う前に、まずは地図ですね。
ご覧の通り、一筆書きには程遠く、とってもいびつです(笑)。チェックポイントを列挙しますと……。摩周湖屈斜路湖阿寒湖糠平湖鶴居村雄別炭鉱足寄町といったところなのですが、どのように線を引いても「雄別炭鉱」を入れることができなかったのですね。結局ご覧のような出戻りコースとなってしまいました。

距離は 416 km、推定所要時間は 10 時間 24 分です(わぁお)。

どっちが雄鉄線通?

まずは、何の変哲もないこの道路。
雄鉄線通」との標示があったので、「へぇ、これが雄鉄の跡だったのかな」などと思っていたのですが、地図を見ると、一本南の大通りが「雄鉄線通」となっていました。何かの間違いか、それとも、もともとの「雄鉄線通」はこの(比較的)狭い通りだったのか、真偽の程はちと判断がつきません。

あ、「雄鉄」は「雄別鉄道」のことです。釧路駅から雄別炭鉱までを結んでいた鉄道路線です。

とりあえず、雄別炭坑の現状は、後ほどご覧に入れます。

さて、チェックポイントのひとつにしていた鶴居村をあっさりと通り過ぎ、やがて国道 274 号線と合流し、弟子屈(てしかが)町に向けて進みます。途中、黄色いセンターラインが引いてある筈の道路で対向車が追い越しをかけてきたのにはビビりましたが、それはさておき。

北の大地の出雲そば

弟子屈町で見かけたお店の写真です。
いや、なんか北の大地で「出雲そば」を見ようとは思わなかったもので(笑)。場所が良いからか、意外と客の入りも良さそうでした。

消えた弟子屈駅

今頃気づいたのですが、弟子屈町の中心駅は「摩周駅」なんですね……。いつの間にか、「斜里駅」も「知床斜里駅」になっていたりしますが、ここもその例に違わず、観光地の名前を持ってきたようです。せめて「摩周・弟子屈」とか、そんな名前にすればいいのに……。

例によって例のごとく、語源シリーズですが、Wikipedia によると、次のようにあります。

町名の由来はアイヌ語の「テシカ・カ」(岩盤の上)から。
(Wikipedia 日本語版「弟子屈町」より引用)
ただ、手元にある、知里真志保・大先生の「地名アイヌ語小辞典」を見ると「ヤナ(梁)の岸の上」とあります。より正確には、知里真志保の解釈は、永田方正北海道蝦夷語地名解」(第 4 版)の内容を追認した形です。

まぁ、「て」という語自体に、「ヤナ垣」という意味の他にも「ヤナ垣のような岩礁」とか「岩盤」という意味もあるようなので、どっちも正解と言えばそれまでなんですけどね。

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2008年9月20日土曜日

北海道の旅 2008/夏 (31) 「ある交差点の怪」

ガソリンを給油して元気百倍!になった……のはいいのですが、少し気になることが……。まずは写真をご覧頂きましょう。
見たところ、何の変哲もない交差点の写真のように見えます。少し拡大してみましょう。
なるほど。「桂木 3 丁目」という交差点のようです。しかし、交差点の向う側にある信号機には……。
字が潰れてしまっていて見えないのですが、どう見ても「桂木 3 丁目」には見えません。どういうことかと言いますと、同じ交差点でありながら、看板に表示されている名前が違うのですね。

ヅラじゃない桂木 3 丁目だ!

確かに、理屈は理解できます。道路を境に町名が変わるのは良くあることです。ここの交差点も、東部の「桂木 3」、南部の「桂 5」、北西部の「芦野 1」の交点に当たるわけですから、「桂木 3」部分の信号柱に「桂木 3 丁目」を示す看板を立てるのは……間違ってはいないです。
地図をつけました。現地の位置関係を整理してくださいませ(笑)。ちなみにこの交差点では、南東から南西に向けて左折しました。

烏丸五条なのに四条烏丸な件(違う

このような例が多数見られることの証左として、次の交差点で撮影した写真もつけておきましょう。
今回も、少し拡大して見ます。
左奥が「愛国東 1 丁目 12」、右手前が「愛国東 2 丁目 10」です。

これで何が困るかって言うと……、カーナビのアナウンスが、大変なんですよ(笑)。「300 メートル先、愛国東 2 丁目 10 または 愛国東 1 丁目 12 を、右方向です」なんてことになってしまって……(これ、マジです)。松田優作ばりに「なんぢゃこりゃぁぁぁっ!」と叫んだ人も……いたかも知れません。世界の中心あたりで。

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