2010年7月31日土曜日

春の道央・道北の旅 2010 (66) 「日本最北を探すどーでもいい旅」

日本最北を探すどーでもいい旅

何となく二番煎じの感が漂う内容ですが、細かいことを気にしていてはいけません(←

「道の駅さるふつ」を出発して、北海道の北の果て「宗谷岬」を目指します。いや、択捉島がどーのこーのとか細かい話は……やめておきましょう。

土手が気になる

またまた、左手に土手が見えてきました。猿払村にはかつて国鉄天北線が走っていたのですが、天北線はこのあたりでは内陸沿いのルートを走っていた筈なので、これはその跡では無さそうです。
場所によっては、土手どころか、ちょっとした山のようにもなっています。
これ、あくまで想像なのですが、海沿いの強風で飛ばされた土砂が積もってできた丘、ではないかなぁ、と。段丘や海食崖と考えるにはあまりにきれいな形(斜面が限りなく平面に近い)ですし……そうですね、砂丘が緑化したようなものではないかと。いかがでしょうか(誰に聞いている?)。

ピンボケさんシリーズ

こちらのピントがボケまくりの写真は、宗谷岬の手前で撮影したものです。
いや、これが日本最北の登坂車線じゃないか、とか……。

同じくピンボケさんシリーズで。
これ、もしかしたら日本最北のチェーン脱着場かな、とか(←

北海道の北の果て

そうこうしている間に、宗谷岬に到着しました。
雨が降っているので、手を抜いて、写真は車内から撮影したもので済ませてしまいましょう。まぁ、ここに来るのも二度目ですし。

では……うわ!
絶妙のタイミングで車に通過されましたが、気を取り直して。

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2010年7月30日金曜日

春の道央・道北の旅 2010 (65) 「日本最北のトンネルって?」

それでは解答です(←

本日は、いつぞやの問題(Q: 「北オホーツクトンネル」の希少価値とは?)への解答、ということで……。

日本最北のトンネルって?

で、この「北オホーツクトンネル」ですが、日本最北のトンネル……では無いようです。ちなみにこの辺にあります。
この「北オホーツクトンネル」よりも北にトンネルが無いか、あわてて地図で探してみたところ……。

ありました。:)
豊富町の郊外と、幌延町の郊外を結ぶ「豊幌トンネル」というトンネルが見つかりました。「北オホーツクトンネル」が北緯 45 度 3 分、「豊幌トンネル」が北緯 45 度 4 分、ということで、ほんの少しだけ北に位置するようです。

西の海上から変化球が!

でも、まだ上には上がいました。
「北オホーツクトンネル」と「豊幌トンネル」の遙か西方にして、礼文島に位置する「桃岩トンネル」です。北緯 45 度 17 分と言いますから、間違い無く北に位置していますね。

……てな感じで、「日本最北のトンネル」を探しているのですが、実際の所はどうなんでしょう。簡単に探せると思っていたのですが、意外と苦労しています(情報求む!)。

オホーツク国道とは

では、本題に戻りましょう。「北オホーツクトンネル」には希少価値がある、という話でしたが……。まずは「北オホーツクトンネル」がある国道 238 号のおさらいから。

国道238号(こくどう238ごう)は、北海道網走市から稚内市に至る一般国道である。宗谷岬付近を通る日本最北の国道である。
北海道の国道(未開通区間除く)の中では最長で、未開通区間がある国道274号を含めても2番目に長い。
(Wikipedia 日本語版「国道 238 号」より引用)
ということで、開通済みの区間の長さが北海道で一番長い(319.7 km)、という国道だったりします。
このように、猿払村の一部分を除いて、ほとんどがオホーツク海沿いのルートとなっています。

解答

さぁ、勘の良い人ならもう「もしかして……」と、答にお気づきのことでしょう!

トンネル
北オホーツクトンネル(1,205m)
(Wikipedia 日本語版「国道 238 号」より引用)
というように、「北オホーツクトンネル」もしっかりと記載されています。……そう、もうお気づきでしょうか? 総延長 319.7 km の中で、トンネルはこの「北オホーツクトンネルしか無いのですね。山岳島嶼国の日本にあって、ここまでトンネルが少ない国道というのも、他に例を見ないのではないかと思うのですが、どうですかお客さん!

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2010年7月29日木曜日

春の道央・道北の旅 2010 (64) 「『いさりの碑』」

「いさりの碑」

さてさて。大変残念な事ながら、猿払村の「日ロ友好記念館」は、「万国の労働者よ、欠席せよ」ということで(←)中を見ることはできませんでした。あ、いや、別にストライキとかそういうのでは無いんですけどね。

さるふつ公園」のあたりには、「インディギルカ号遭難者慰霊碑」のほかにも、このようなモニュメントもあります。
これは「いさりの碑」という名前がつけられているのですが、そこに記されている文章がなかなか興味深いものなので、例によって全文引用しておきます。

いさりの碑

帆立貝漁場造成事業10周年に当り猿払の漁業のうつりかわりを振返って見る 我々の先人がオホーツクの海の魚貝類に生活の糧を求めたのは明治の初め頃のことだ それから一世紀になんなんとしている 春 4月5月 鰊の群来で海は乳白色になり獲っても獲ってもなくならないものと思われた 鮭鱒は海の荒くれ男と力比べをするように網もさけよとばかり乗網した 海扇と呼ばれた帆立貝は海の底に幾層にも重なり合っているのではないかと錯覚を起こさせる位生棲していた しかし之等の生物の運命も貪欲な人間の前には所詮は滅亡の運命が待ち受けていた 今日ではあらゆる資源は有限であることが認識されている しかし生物資源は自然と人間の適正な育成管理によって永続させることが出来る筈だ 私達も自然の摂理にかなった生物資源の育成管理を科学的調査と人智をあつめてやってみた 春夏秋冬 自然の摂理は一世紀の昔も今と変りなく繰返され生物の生命力は見事に部族と子族の反映に其の力強さを見せてくれた 今 オホーツクの海は先人の開拓した時のように帆立貝が見事に結実してたわわな実を見せている 鮭鱒もまた間もなくふ化事業の結実を見せようとしている 猿払の海を拓いた多くの先人の労苦と偉業を偲び其の意志を我も子孫もうけつぎそして実践することを肝に銘じ 今此の碑を建てる

人間は神々と力を競うべきではない
人間は自然の摂理に従うべきだ

昭和56年11月22日
 猿払村漁業協同組合
(宗谷郡猿払村さるふつ公園内「いさりの碑」より全文を引用)
記念碑であることは間違い無いのですが、全体的な調子が抽象的だったり具体的だったりで……なんだか面白いです。最後の二文がぐっと来ますが、Wikipedia を見てみると

  • 1954年(昭和29年)、この頃よりニシン水揚が激減。沖合のホタテ漁も乱獲により衰退し、漁民の多くが経済的困窮により離村を余儀なくされる。
  • 1963年(昭和38年)、及び1967年(昭和42年)にかけて相次いで炭鉱閉山。林業も衰退し、僅かに酪農を除いた村内の産業経済が完全に停滞。当時は「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」と言われるほどの有り様であり、住民の生活は困窮を極める。
  • 1971年(昭和46年)、猿払村漁業協同組合10年計画による初のホタテ稚貝放流事業を実施。以降、巨額を投じてホタテ放流事業に村の復興を賭ける。
  • 1981年(昭和56年)、ホタテ漁業造成事業を終了。以後、計画的な稚貝放流により驚異的なホタテ水揚を維持することとなる。
(Wikipedia 日本語版「猿払村」より引用)
ということなのだそうで……。「いさりの碑」締めの二文には軽度の矛盾が感じられるのも確かなのですが、まぁ、いいですよね。

ちなみに

軽度……ではなくて経度のほうはこんなところです。
はい、北緯45度越えですね。

ちなみに、「インディギルカ号遭難者慰霊碑」「いさりの碑」がある場所と、「日ソ友好記念館」(あ、今は「日ロ」でしたね)がある場所は、国道 238 号を挟んだ向かいどうしです。地下道もあるみたいなので、車を置いたまま歩くのも良いかと思います。

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2010年7月28日水曜日

春の道央・道北の旅 2010 (63) 「Пролетарии всех стран, извинитесь !」

「友好記」

日本最北の道の駅「道の駅さるふつ公園」で必見のものと言えば……。そう、こちらです!
相変わらず(←)閑散としていますが、中に入ってみましょう。
友好記」とあります。ちなみに万豚記の牛すじラーメンは大好きなのですが……関係ないですね。

「友好記念館」

ちなみに二年前に来たときはこのような状態だったのですが……
今から思えば、「念」の字が少し傾き加減にも見えます。ユリ・ゲラーが念を送っていたのかも知れません(←)。そして、この調子だと、「友」だけになるのも時間の問題かも知れません(←←

※現在、閉館しております。

それはそうと、もっと大きな違いが……、そう、今回はシャッターが下ろされてしまっています。せっかくこのために「日本最北の道の駅」を再訪したと言うのに、これじゃあんまりですよね……。

ただ、猿払村ホームページの日ロ友好記念館のページには、「※現在、閉館しております。」と書かれてしまっていますね。休館ではなく閉館というところに物悲しさをおぼえてしまうのですが……(もっとも「閉館しました」では無い、という見方もできるわけですが)。

日ロ友好記念館、昔の名前は……

ということで、もしかしたらもう二度と見ることができないかも知れない「日ロ友好記念館」の中身を、前回訪問時の写真からいくつかご紹介します。まずは、比較的そつなくまとまっている 1 階展示室から。
猿払村と言えば、ソ連船「インディギルカ号」が沖合で座礁した事件の現場だったりします。その縁もあってか、1972 年(ちなみに沖縄が返還された年でもあります)に「日ソ友好記念館」として建設されました。そんな経緯もあってか、インディギルカ号の遭難事故を中心とした展示が多いです。

日ソ友好記念館!

一方、2 階の展示室は、それはもう一大スペクタクルでして……。まず出迎えてくれるのが「鎌とハンマー」!
そして「レ1ニンの平和路線」、それから……
万国の労働者団結せよ!」と来ました。
ちなみに、「万国の労働者よ、ごめんなさい!」という有名なネタがあるのですが、ロシア語ではПролетарии всех стран, извинитесь ! となるのだとか。「万国の労働者よ団結せよ!」はПролетарии всех стран, соединяйтесь ! らしいのですが、何となく韻を踏んでいそうなところまでしか読めません(←

バックナンバーのご紹介(←

「日ソ友好記念館」につきましては、以下のバックナンバー(←)もごいっしょにどうぞ。

バック・トゥ・ザ・猿払村
インディギルカ号の遭難 ─バック・トゥ・ザ・猿払村─
海難事故の真実 ─バック・トゥ・ザ・猿払村─
万国の労働者団結せよ! ─バック・トゥ・ザ・猿払村─
妖気を発するメロン?(違う)
反動に反対するたたかいを指示しています
マルクス・レ1ニン主義
プリセツカヤと上賀茂神社とСССРとCCCP
ソビエトロシアでは、党があなたをショッピングする!
インディギルカ号の真実 ─バック・トゥ・ザ・猿払村─

万国の読者よ、ごめんなさい!

前回はご覧のように良く晴れていたのですが、
今回は残念ながら、雨交じりの曇り空でした。
万国の読者よ、ごめんなさい!

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2010年7月27日火曜日

春の道央・道北の旅 2010 (62) 「Q: 『北オホーツクトンネル』の希少価値とは?」

話題はデグナーのように転がる(←

えりも町目黒」の話から、気がついたら「エルンスト・デグナーは産業スパイ行為も働いていた」という話になっていますが、ずずずぃっと話を元に戻しましょう。

枝幸から浜頓別まで

えー、というわけで「枝幸町」からオホーツク国道を少し北に行ったところです。
左側に見える築堤は、旧・国鉄興浜北線の跡です。浜頓別から北見枝幸まで伸びていたローカル線で、枝幸からは雄武(おむ)を経由して興部(おこっぺ)に向かう路線(興浜線)と、仁宇布を経由して美深に向かう路線(美幸線)が伸びる予定でしたが、いずれも途中まで工事を進めながら事業中止の憂き目に遭っています。

では問題です

こちらは「北オホーツクトンネル」という、一見何の変哲もないトンネルなのですが、実はとても希少価値のあるトンネルだったりします。
Q: では問題です。このトンネルのどこに希少価値があるのでしょうか?

風力発電には良いですが……

浜頓別の町内にやってきました。二年前に初めてここを訪れた時は、道路と家々の間が広々としているのを見て「日本離れしている!」と驚いたものですが……。
気温 14 度はさておき、風速 8 m が意外と気になります。車で走る分にはそれほど影響は無いですが、自転車とかだと結構大変な筈です。

猿払パーキングシェルター

小雨が降るなか、ワイパーを作動させなかったので見事にピントがボケてしまっていますが……。こちら、「猿払パーキングシェルター」と言うものです。
見た目は山道などにある「覆道」と大差ないのですが、覆道が落石や雪崩から車などを守るためにあるのに対し、「パーキングシェルター」は地吹雪から車などを守るために設置されているという違いがあります。
覆道は「通り抜けられれば OK」なのに対し、パーキングシェルターは「避難所」となるため、駐車場としての機能があるのも大きな違いです。水洗トイレもあるのだとか。

実際、このあたりになると降雪量はそれほどでも無くても、降り積もった雪は春まで残るでしょうし、海岸沿いの風の強さも半端ではない筈なので、こういった設備が設けられることにも納得できます。さすがに防風林だけでは何ともならないのでしょうね。

日本最北の……

さて、パーキングシェルターからもう少し北に進むと、日本最北の道の駅「道の駅さるふつ公園」に到着です。
お目当てはもちろん……(次回に続く)

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2010年7月26日月曜日

エルンスト・デグナー、亡命の顛末とその手土産とは?

板垣死すともデグナーは死なず

えー、そんなわけで、図らずも鈴鹿サーキットの「デグナー」の名付け親になってしまったエルンスト・デグナーさんの話題をもうちょいとだけ続けます。

エルンスト・デグナー ( Ernst Degner,出生時の名前はErnst Eugen Wotzlawek,1931年9月22日 - 1983年9月10日 )は、ドイツ・グリヴィツェ(現ポーランド領)生まれのオートバイレーサー。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
ということなのですが、

経歴
第二次世界大戦後、彼は家族と東ドイツに移り住んだ。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
のだそうです。「生まれた国」はドイツなので、今やポーランド領になってしまった故郷に留まるよりはドイツ領内に住むほうがまだマシ、という判断だったのでしょうか。

「チャンバー技術」とは?

さて、このデグナーさん、長じてはロードレースの世界で大活躍することになります。

1957年から1961年にかけてデグナーは東ドイツのMZ社のオートバイを駆り、ロードレース世界選手権の125ccクラス、250ccクラスで活躍した。MZの2ストロークエンジンは同社の技術者 Walter Kaaden が発明した排気脈動を利用するチャンバー技術等によって高いパフォーマンスを誇っていた。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
チャンバー技術というのは何でしょうか。……なるほど、排気の跳ね返りを使って混合気の充填効率を高めるというやり方ですか。排気のエネルギーを使おうという発想はターボチャージャーのようでもありますが、もっとプリミティブな発想のもののようですね。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の著作権者である Agster 氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。: クリエイティブ・コモンズ表示 - 継承 3.0 Unported
まぁ、単純なギミックと言ってしまえばそれまでなのですが、なにしろ 1950 年代の話ですから、混合気の充填効率を高めるというアイディア自体が先取的だったのかも知れません。

亡命の手土産は

そして、米ソの冷戦構造が明確になってきたのもこの時代の話で、世界各地を回っていたエルンストには西側での暮らしに憧れを感じたのか、次のような行動に出ます。

1961年8月にベルリンの壁が完成した後、デグナーは彼の家族を西ドイツに亡命させる準備をおこなった。9月13日水曜日、彼の妻と2人の息子は西ドイツの友人の協力によって、車のトランクに隠れて国境を越えることに成功した。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
そう、西ドイツへの亡命です。そして、エルンスト本人はどうしたかと言うと……

一方デグナー本人は、その週末に開催となる第10戦スウェーデンGPに出場した。125ccクラスではホンダのトム・フィリスと年間タイトルを争っていたが、デグナーは3周目にエンジン破損でリタイアする。レース後彼はフェリーに乗り、デンマーク経由で西ドイツへの亡命に成功、家族と合流することができた。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
いつの時代もそうなのですが、レーサーはレースが終わるとさっさと荷物をまとめてサーキットを後にする習性があります。エルンストはこの「一般的な習性」を利用して、観客や関係者がサーキットに釘付けになっている間にさっさと西側への脱出を図ったと言うのですから、なかなか計算高い男だったようですね。

亡命が発覚後、東ドイツ側からは「わざとエンジンを壊した」と非難されることになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
と後ろ指を指されたのは当然のこと、更には

デグナーは1961年のスウェーデンGPの際に途中リタイヤしてそのまま西ドイツに亡命。その際にWalter Kaadenの設計したMZ製オートバイ用チャンバーの青図を服の下に隠し持っており、スズキに移籍後にその技術が西側諸国にもたらされた。
(Wikipedia 日本語版「チャンバー」より引用)
という、産業スパイ行為までやらかしているのですから始末に負えません。

人間万事塞翁が馬

そんな策士、エルンスト・デグナーですが、亡命の結果、

スウェーデンGPでフィリスは6位に終わり、タイトルの決定は最終戦アルゼンチンGPに持ち越されていた。当然デグナーはMZからの出場は不可能になったが、個人タイトル獲得のために他チームからの出場を模索していた。しかし結局東ドイツのモーターサイクル協会にライセンスを取り消されて出場は不可能となり、ホンダの125cc・250cc個人・メーカータイトル独占を許すことになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
チャンピオンの可能性があったにも拘わらず、レースに出場することができず、結局タイトルを逃してしまいます(最終ランキングは 2 位)。

とは言え、亡命&産業スパイ行為の見返りは早くも翌年にやってきます。

翌1962年シーズンには、デグナーは日本のスズキと契約し、この年から始まった50ccクラスでスズキにグランプリ初タイトルをもたらした。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

その時順位が動いた

そして、ついに「その時」を迎えます(←

同年11月に行われた鈴鹿サーキットのオープニングレース「第1回全日本選手権ロードレース」ではトップを独走中に転倒。その転倒したコーナーが「デグナーカーブ」と命名されることになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
いやー、これだけ波瀾万丈の人生を送った人だとは知らなかったです。単にデグナーでコケただけの人だと思ってましたよ……。この人のエピソードだけで 120 分番組一本行けますね。

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2010年7月25日日曜日

エルンスト死してもデグナーは死なず

「瑞祥地名」ならぬ「転倒地名」

昨日(2010/07/24)の記事「「ニシパコシキルシ」と「近藤が淵」」の続きのネタです。

「ニㇱパコシキルシ」と「近藤が淵」は、いずれも北海道は知床半島近くの地名あるいは旧地名、もしくは通称ですが、どちらも「誰かが素っ転んだ」ことがもとで名付けられた地名、という共通点を持ちます。で、昨日の記事を書いた後でふと気がついたのですが、もっと有名な例があったよな、と。

その名は「デグナー」

そう、残念ながら地名と呼ぶにはちと無理があるのですが、鈴鹿サーキットの「デグナー(カーブ)」がまさにそれです。下の図では⑧の部分にあたります。
(Wikimedia Commons より借用。このファイルはパブリックドメインです)
この図にも、ちゃんと Degner と書いてありますね。

デグナーさんの人となり

さて、この「デグナーカーブ」の名付け親となったデグナーさんは、一体どんな人だったのでしょうか。

エルンスト・デグナー ( Ernst Degner,出生時の名前はErnst Eugen Wotzlawek,1931年9月22日 - 1983年9月10日 )は、ドイツ・グリヴィツェ(現ポーランド領)生まれのオートバイレーサー。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
……ということで、なるほど。読めないと思ったらポーランド方面でお生まれになったようですね。ヨーロッパの中で、ポーランドの人名ほど難読なものは無いでしょう。プラヴォ・ヤズディさんも大活躍するわけです。

デグナーさんの経歴

……デグナーさんの話題に戻りましょう。

経歴
第二次世界大戦後、彼は家族と東ドイツに移り住んだ。1957年から1961年にかけてデグナーは東ドイツのMZ社のオートバイを駆り、ロードレース世界選手権の125ccクラス、250ccクラスで活躍した。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
当時の東ドイツは、ヴィルヘルム・ピークやヴァルター・ウルプリヒトの時代になりますね。それにしても、当時の東ドイツに世界選手権で戦えるバイクメーカーがあったとは驚きでした。てっきり、東ドイツにはトラバント(東ドイツを代表する小型乗用車)しか無かったのかと(←

MZモトラート(MZ Motorrad- und Zweiradwerk GmbH )はドイツのオートバイメーカー。かつてはDKWと名乗っていた(DKWの四輪部門はのちのアウトウニオン、現在のアウディに統合されている)。
第二次世界大戦後はMZと名を変え、トラバントとともに東ドイツの代表的な工業製品だった。
(Wikipedia 日本語版「MZモトラッド」より引用)
あ、やっぱりトラバントの名前が(笑)。

エルンストは転んで名を残した

デグナーさんのその後については色々と逸話があるのですが、その辺は後日に回すとして、「デグナーカーブ」の由来について。

翌1962年シーズンには、デグナーは日本のスズキと契約し、この年から始まった50ccクラスでスズキにグランプリ初タイトルをもたらした。同年11月に行われた鈴鹿サーキットのオープニングレース「第1回全日本選手権ロードレース」ではトップを独走中に転倒。その転倒したコーナーが「デグナーカーブ」と命名されることになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
とまぁ、1962 年と言いますからキューバ危機がどーのこーの、という時代の話です。そんな 50 年近く前に転倒したことが由来で、未だに「デグナー」という名前が生き残っていると言うのですから大したものです。

しかも、エルンスト・デグナーが転倒した時のレイアウトは、上図の ⑧ と ⑨ をゆるやかに繋いだカーブだったのですが、その後の改修で ⑧ と ⑨ の二つのコーナーに分けられてしまいました。にも関わらずデグナーの名前は生き続け、「デグナーコーナー」「デグナーの第一第二」といった表現が未だに多用されています。

エルンスト死してもデグナーは死なず

ちなみに、エルンスト・デグナーさんは 1983 年に心臓発作でお亡くなりになっているのですが、その名は鈴鹿サーキットの複合コーナーとして未だに生き続けています。まさに「エルンスト死してもデグナーは死なず」てな感じの話ですね。

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2010年7月24日土曜日

「ニシパコシキルシ」と「近藤が淵」

「えりも町『目黒』の謎」の続報

一昨日の記事にて

で、肝心の「目黒」の由来ですが……すいません、良くわかりませんでした。Wikipedia によると 1942 年に「猿留」から「目黒」に改称されたとあるのですが、理由や由来は記されていません。困りましたね……役場の人にでも聞いてみましょうか?(←
(Bojan International「北海道のアイヌ語地名(その5)」 2010/07/22 より引用)
と書いたのですが、役場の人に聞く前に(←)もう少しだけ調べてみました。どうやら「猿留」には「目黒さん」という有力者がいらしたらしく、いつしか「猿留」は「目黒」と呼ばれるようになり、1942 年に正式に地名となった、ということのように思われます。

北海道の地名(← そのまんま

北海道の地名は、9 割方がアイヌ語の地名をそのまま漢字にしたもの……のような気がする[要出典]のですが、中には今回のように「人名」をそのまま地名として拝借したものとか、「北広島」や「新十津川」のように入植者の出身地にひとひねり加えたもの、「岐阜」や「鳥取」のようにそのまんまのもの、などがあります。

「ニシパ コシキル ウシ」

アイヌ語の地名は、地形や特色(魚が捕れる、木が生えている、など)を具体的に伝えているものが多いのですが、中には変わった例もあります。永田方正氏の「北海道蝦夷語地名解」で「ニシパ コシキル ウシ」として紹介されている地名があるのですが、曰く、「アイヌ仰向キニ倒レテ雪ノ爲メニ死シタル處」なのだとか。

一方、この解釈に対して、知里真志保さんは「アイヌ語入門 ─とくに地名研究者のために─」(「わりと感じのいい,たのしい本である!」として有名です)において、この「にㇱパコシキルシ」は nispa-ko-sikiru-usi であるとして、「だんな・が・そこで・ひっくりかえった・所」との解釈を披露しています。

原文を要約してしまうと「味わい」が薄れてしまうので、少し引用してみます。

永田方正氏の解釈では,nispaを「アイヌ」と訳しているが,ただのアイヌをニㇱパなどと呼ぶはずがない。これはおそらく,幕府の役人などが,土地のアイヌどもを人夫にかりだして,威風堂々とここを通りかかったまではよかったのだが,そこのぬかるみに足をとられて引っくりかえった,などというような故事でもあって名づけられたものであろう。アイヌが引っくりかえったところで,起きあがればそれですむことで,たいして問題になることでもない。しかし,日本の役人が引っくりかえったとなると,当時としては大変な事件で,後世に地名を残すだけの値打があったと見なければなるまい。
(知里真志保「アイヌ語入門(復刻版)」北海道出版企画センター p.19 より引用)
ちなみに、この「ニㇱパコシキルシ」は、釧路から斜里に抜けるための「斜里山道」の途中の地名なのだそうです。「だんながひっくりかえった所」が地名として残るというのも、実におかしなものです。

「近藤が淵」

ところが、「歴史は繰り返す」とは良く言ったもので、今度は斜里の東隣の「羅臼町」に「近藤が淵」という地名が新たに誕生する(した)という話があります。これは「目黒」と同じく人名に由来する地名ですが、近藤さんは地元の有力者……というわけではなく、なんと「近藤さんが足を滑らせて海に落ちた所」が由来なのだとか。

この「近藤さん」は、夏休みの知床探検ツアーで小中学生を引率している際に、足を滑らせて海に転落してしまったのだそうです(命に別状は無かったとのこと)。たまたまそのあたりの土地を指す地名が存在しなかったそうで、仲間内で「近藤が淵」と称していたところ、それが地図に採録されることになった……のだとか。あの世で「ニㇱパコシキルシ」でひっくりかえった「ニㇱパ」も笑っているかもしれませんね。

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2010年7月23日金曜日

春の道央・道北の旅 2010 (61) 「Go North~♪」

擬態に注意(違

野原だと思って歩き始めたら、そこは実は雪解け水が溜まっていた谷地で、靴が泥まみれになってどうする!? という状態になったわけですが……。
(↑参考画像)
結論から言えば、それほど被害は大きいものでは無く、靴の泥を叩き落とせばそんなに目立たない状態にすることができました。一安心です……。

食料調達はセイコーマートで

歌登の中心地を過ぎ、枝幸に向かいます。
この写真を撮影した時点で午後 2 時を回っていたのですが、そういえば……朝から全く飲まず食わずだったのでした(!)。さすがにそろそろ空腹感を覚えたので、セイコーマートに立ち寄って食料などを仕入れます。

何とももったいない話ですが

歌登から枝幸までの道路も、ご覧の通りの立派なものですが、
よーく見ると、鉄道用のトンネルを埋め戻した跡が見えます。

海だ!

とうとう海が見えるところまでやってきました。ちょいと先に広がるのはオホーツク海です。
左折して、稚内を目指します。

この看板は……

バイパスと、市街地に向かう旧道の分岐点です。
奥の方に、ツルハドラッグ)の看板が見える……と思ったのですが、
「ツルハ」ではなく「ツルヤ」でした。(←

Go North~ ♪

引き続き、オホーツク国道(国道 238 号)を北に向かいます。

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2010年7月22日木曜日

北海道のアイヌ語地名 (5) 「目黒・音調津・広尾」

珍しく?「北海道のアイヌ語地名」を続けます。「そんなの興味ないよ」という方も多い……というか、大半の方が「もういいよ」と思ってらっしゃるかも知れませんが、まぁ、いいじゃないですか?(ぇ

目黒(めぐろ)

「目黒」は「えりも町」の東北部にある集落で、「目黒漁港」があるところです。このあたりは北海道の中でもサンマの好漁地で……なんて話があれば面白かったのですが(← リアル「目黒のサンマ」)、実際に目黒にサンマが水揚げされているかどうかは……良く分かりません。

ただ、サンマは根室や釧路、厚岸などの「北海道南東部の港」で多く水揚げされているのも確かなので、そう考えると目黒漁港でもサンマが水揚げされていても不思議ではありません。いえ、だからどーだ、というわけでは無いのですが(←

ちなみに、この「目黒」は、もともとは「猿留」(さるる)という地名だったそうです。山田秀三さんも sar-or で「葭原・の処」という意味か、と記しています(もともとは上原熊次郎説に準拠)。

で、肝心の「目黒」の由来ですが……すいません、良くわかりませんでした。Wikipedia によると 1942 年に「猿留」から「目黒」に改称されたとあるのですが、理由や由来は記されていません。困りましたね……役場の人にでも聞いてみましょうか?(←

音調津(おしらべつ)

o-shirar-un-pet
川尻に・岩・がある・川
(典拠あり、類型あり)
「音調津」は広尾町の南の方にある漁村です。このあたりは日本有数の音叉の産地としても知られる……わけはないですね。ごめんなさい。

山田秀三さんの解によると、o-shirar-un-pet で「川尻に・岩・がある・川」ではないか、とのことです。unus は、例えば us-i(──ウシ)という形では今も残っている場合が多いようですが、un-petun-nai といった場合は un がいつしか消えてしまうケースが多いようです。「音調津」もこの流れで「オシラルンペッ」が「オシラㇽペッ」になったのではないか、と。

「音叉」とか言っていた割には、後半は割とマトモなことを書いてますね(←

広尾(ひろお)

pir-or?
蔭・の処
pi-or?
石・の処
pirui-pet??
砥石・の川
pira-or?
崖・の処
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
中川昭一が生まれた広尾ではなく、父親の中川一郎が生まれたほうの広尾です(ややこしい)。

広尾は、十勝南部ではそこそこメジャーな地名……だと思うのですが、そういった地名に限って、その意味が判然としないのが厄介なところです。

上原熊次郎は pir-or(ピロㇿ)で「蔭・の処」とし、松浦武四郎pi-or(ピオㇿ)で「石・の処」としているそうです。永田方正は「『ピロヲ』は誤りで、pirui-pet(ピルイペッ)で『砥石・の川』だ」とする説を紹介しているほか、pira-or(ピラオㇽ)で「崖・の処」という説も別解として紹介しているとのこと。

山田秀三さんは、「蔭の処」説は捨てがたい、と考えていたようです。

昨日の記事と本日の記事も、山田秀三さんの「北海道の地名」草風館 を参考にさせていただきました(謝)。

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2010年7月21日水曜日

北海道のアイヌ語地名 (4) 「浦河・様似・幌泉・襟裳岬」

忘れた頃にやってくる「北海道のアイヌ語地名」のお時間です。先週は、かの「鳧舞」まで進んだのでした。

浦河(うらかわ)

前回の「静内」の項で、「『静内』という地名は、現在の『元静内』一帯を指す地名だった」といったことをご紹介しましたが、この「浦河」も同様で、もともとは現在の「元浦川」のあたりを指す地名だったそうです。

「ウラカワ」の意味は諸説あるようですが、「ヲラカ」で「(鹿の)腸」とする説(秦檍麻呂や上原熊次郎、松浦武四郎など)と、「ウラㇻ」で「もや」とする説(永田方正)が有力のようです。永田方正氏は「一説ヲラリペツにて沙深き川の義」とも書いていますが、そうすると「小樽」の親戚になるのかも知れません。

様似(さまに)

esaman-i?
カワウソ・ところ
saman-i?
横になっている・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「様似」は JR 日高本線の終着駅があるところです。永田氏風に「シャマニ」と綴ると、どことなく「ショムニ」っぽくなりますが……どうでもいいですね。

「シャマニ」は、いかにもアイヌ語っぽい音の地名で個人的にも結構お気に入りなのですが、永田方正氏は「エサマニ」(esaman-i)で「カワウソのいる所」との解を残しています。

これに対し、山田秀三さんは「頭の『エ』が気になる」として、saman-i で「横になっている・もの(川)」説も考えられるのではないか、としています。確かに、様似川は太平洋に注ぎ込む直前に、その流路を横に変えているので、山田さんの説も大変説得力のあるものです(さすがです!)。

幌泉(ほろいずみ)

en-rum
突き出ている・頭
(典拠あり、類型あり)
幌泉」は、現在の「えりも町」のかつての名前だそうです。そして、「幌泉」と「えりも」の語源は同じなのだそうです……と書くと、さすがに「?????」となる方が多いかと思います。かくいう私もそうでした。というか、未だに「???」という印象です。

というわけなので、少しじっくりと行きましょう。まず、「えりも」の語源は en-rum で間違い無いでしょう。もともとは「突き出ている・頭」といった意味で、意訳?すると「岬」という意味になります。

ちなみに、アイヌ語地名で「岬」を意味するものは他にも色々とあるので要注意です。

襟裳岬は、北海道でも有数の巨大な岬です。従って、「大きな岬」= poro-en-rum と呼ばれたとしても不思議はありません。この「ポロ・エンルㇺ」が「ポロイズミ」に化けた、という考え方が出てきます(松浦武四郎による)。

ただ、上の地図をよーく見ていただくとお判りになるかと思うのですが、「幌泉」と「襟裳岬」の場所は結構ずれています。「幌泉」は「えりも町」ではありますが、「襟裳岬」では無いのです。

そこで……というわけでも無いのですが、「幌泉」のあたりに存在する「小さな岬」= pon-en-rum が語源なのでは? という説も出てきます(上原熊次郎による)。アイヌ語もフランス語のようにリエゾンするので、pon-en-rum は「ポネンルㇺ」となるのですが、ここから「ポロイズミ」という音に持って行くのは、ちょーっと厳しいような気もします。さすがの山田秀三さんも、「大きな岬」説と「小さな岬」説は両論併記のようです。

襟裳岬(えりもみさき)

{en-rum}
{岬}
(典拠あり、類型あり)
はい、上記の通り、en-rum で「」だったりします(←

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2010年7月20日火曜日

春の道央・道北の旅 2010 (60) 「志美宇丹の谷地水は冷たかった」

つかみの小ネタ

さてさて。スバルのテストコースがある仁宇布にも別れを告げて、先へ急ぎます。これがホンマの「さらば、スバルよ」(←

国鉄美幸線・未成線の跡

仁宇布からは歌登を経由して枝幸に向かいます。

あ、「枝幸」は「えさし」と読みますので念のため。

このあたりには、国鉄美幸線となるべくして工事が進められ、ほぼ完成していたにも拘わらず、ついぞ列車が走ることがなかった「未成線」の跡が点在しています。
こちらの「天の川トンネル」も遺構のひとつだそうで、もともとは鉄道用のトンネルとして開通したものを、拡幅の上、道路用のトンネルに転用したのだそうです。「拡幅して道路用に転用」というケースは、他の都道府県でもたまーにあるみたいですね。

しびうたん

木の奥に土手が見えるのですが、これが路盤の跡ですね。
確かに、あとは線路を敷設するだけ……だったようです。これは旧・歌登町(現・枝幸町)の志美宇丹(しびうたん)あたりでしょうか。

歌登町では「国鉄が美幸線を建設する」というので、わざわざ並行する「歌登町営軌道」を事前に廃止までして工事に協力したのだそうです。ところが実際には「あともう少しで開業」というところで工事が凍結され、結局、計画が中止されてしまいます。歌登の人が、このことをどれだけ無念に思ったかは想像もできません。

谷地水は冷たかった(←

ちょうど、路盤跡の土手に近づけそうなところがあったので、車を止めて歩いて行くことにしました。
一見、普通に雑草の生えた空き地にしか見えないのですが……
実はここ、雪融け水が溜まった「谷地」(やち)とも言うべきところで、一歩足を踏み入れると靴が水と泥だらけに……。普段の自分なら絶対こんなミス?はしないのですが、久しぶりの北海道で気が緩んでいた……のでしょうね。

「泥まみれの靴でホテルにチェックインするのはつらいな」と思ったりもしましたが……。

十年一昔、三十年だと……?

さて、路盤跡の土手に登ってみましょう。
バラスト(道床)も残っています。本当に「あとは線路を敷設するだけ」だったようですね。
この白樺の木(ですよね?)は、路盤が放置されてから生育したのだと思います。工事が中止されてからは実に 30 年が経過しているわけで、その事実を如実に物語っているようですね。

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