2010年12月24日金曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (26) 「電力の自由化と自家発電の歴史」

「三航北国日誌」第 26 回です。本日は電力の自由化により基礎体力の強化を迫られる電力各社の話題でお送りします(←

渋滞ですか?

美笛峠を軽やかに(←)走り抜けて、支笏湖のほとりにやってきました。ところが……
いきなり目の前に北電の車が。渋滞?

窓の外には

仕方が無いので支笏湖の写真でも……
ちょっと無理がありました(←

工事渋滞でした

どうやら「支笏トンネル」で片側交互通行規制だったようで、しばらく待った後、流れ始めました。
妙に露出オーバーですが、その辺はさておきましょう。

人はこれを……

トンネルの中では、確かに作業が行われていました。
また何とも幻想的な雰囲気の写真に……(人はこれをピンボケと言う)。
気を取り直して、もう一度。ん、まだボケてますねぇ。

運命の分かれ道

国道 276 号を離れて、千歳に向かうべく国道 453 号を北上します。
一見、何の変哲もない写真ですが、このあたりが実は「分水嶺」のようです。ここから先は日本海側(石狩湾)に注ぎ、ここより手前は太平洋側に注ぎます。兵庫県にも似たようなところがありますが、ほぼ平坦な分水嶺というのは全国的にも珍しい筈です。

もっとも、千歳空港も実は分水嶺の上にあったりしますが……。

分水嶺に伸びる送電線とその歴史

そして、右側にはなぜか並行して配置された送電線が。まるで電車でも走ってきそうな雰囲気ですが、実はまったくその通りらしく(←)、かつてここには線路があったそうです。
地図の ⑥ と ⑦ の間が分水嶺なのですが、そのはるか北側の千歳川沿いに「王子製紙第一発電所」があるのがわかります。「製紙会社が発電所を経営するとは、電力の自由化もここまで来たか……」などと妙な感慨に耽ってしまいそうですが、これ、実は明治時代に建設されたものなのだそうです。建設主体も王子製紙だそうですから、「電力の自由化うんぬん」は全く当てはまらないことになりますね。

建設が行われたのは、千歳川が支笏湖より流れ出て、現在の千歳市中心部に出るまでの狭窄部。水明渓谷と呼ばれる一帯であった(千歳市水明郷)。当時この一帯は宮内省の御料地であったが、1905年に使用願申請を行い、これが受理された後に着工された。この地が選ばれた理由は、不凍湖である支笏湖の豊富な水量と千歳川の急流が水力発電に適し、また工場予定地から近距離であるので当時の技術でも送電が可能であったこと、さらに北海道炭礦鉄道が敷設されていたことで物資の運搬が可能であったためである。
(Wikipedia 日本語版「王子製紙」より引用)
つまり、千歳川の急流で発電した電気を、この送電線を使って苫小牧(の王子製紙の工場)まで送る仕組みだ、ということのようです。その発電所を建設するためには資材を運搬する必要もありますし、完成後も人の移動や木材の輸送に使用するために「専用線」が建設されたのだそうです。

「専用線」といってももちろん光ファイバーなどではなく、「軽便鉄道」と呼ばれる小型の鉄道線でした。もともとは「業務用」の線路だった筈が、いつしか旅客営業も行うようになり、皇太子時代の昭和天皇が乗車されたという記録もあるそうです(http://www.tomakomai-kanko.jp/sightseen/sightsheen_000014.html)。

ミニ発電で自給自足を

この軽便鉄道が廃止されたのは昭和 26 年 1 月だったそうで、「さすがに痕跡なんか無いよなぁ」と思っていたのですが、思いっきり往時を偲ばせる雰囲気が残っていたのには驚いてしまいました。まぁ、線路(跡)脇の送電線は未だに現役のようですから、ある意味当然なのかもしれませんが。

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