2017年9月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (472) 「折加内・日向・白符」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

折加内(おりかない)

horka-nay
U ターンする・川
(典拠あり、類型あり)
桧倉川が福島川に合流するところから、福島川を 300 m ほど遡ったところに「折加内橋」という名前の橋がかかっています。てっきりこのあたりに「折加内」という名前の川でもあるのかと思ったのですが、実は全然違いました。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

 福島の処は,ごく古くは折加内と書かれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.435 より引用)
はい、実はそうだったんですね……。「福島町」の「福島」は、元々は「折加内」という地名だったのだそうです。

そんなわけで、「折加内」は永田地名解にもしっかりと記載があります。

Horoka nai  ホロカ ナイ  却流川 潮入リテ河水却流ス故ニ名ク、或ハ云フ此河ハ四十八瀨アリテ順逆シテ流ル故ニ此名アリト和人其名ヲ忌ミ嫌ヒテ福島(村、川)ト改ム「シコツ」ノ音ヲ忌ミ嫌ヒテ千歳又ハ龜田ト改メタルガ如シ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.151 より引用)
はい。どうやら「折加内」は horka-nay で「U ターンする・川」と考えられそうです。

horka を「逆流する」と解釈したのは永田地名解の有名な誤謬の一つであるとして、後に知里さんにボロカスに叩かれることになるのですが、ここでも「却流」としていますね。山田秀三さんは「北海道の地名」にてその辺をやんわりと修正するが如く、次のように記しています。

川が曲がっていて,溯ると下の方向になる感じの処があって,ホルカ・ナイ(後戻りする・川)と呼ばれたものか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.435 より引用)
「遡ると下の方向になる」というのは、「遡るうちに流路が U ターンする」ということです。確かに道内各所に見られる horka-nay は、だいたい河口部の流向と源流部の流向が逆になっているのですが、「折加内」こと現在の「福島川」は、全体として北から南に向かって流れていて、南から北に流れるような場所はありません。

山田さんがいつになくふんわりとした感じの表現に留めているのは、実は horka していると呼ぶに相応しい場所を見つけられなかったんじゃないか、と思われるのですね。

この矛盾を解き明かすにはどうすれば……という話ですが、実は割と簡単な話かもしれません。福島川には「桧倉川」という支流がありますが、仮に「桧倉川」が本流だったと考えると、福島川は「折加内橋」のあたりから南西に向きを変えています。一方、桧倉川は西から南東に向かって流れる川です。

言い方を変えると、福島川は桧倉川と合流するところでほぼ直角に流路を変えています。この形状を以て horka と呼んだのかもしれませんね。

一般的には ut(-nay) じゃないのか、というツッコミもあるかもしれませんが……。

ちなみに、「折加内」が「福島」に変わった経緯ですが……

 寛永元年月崎神社の神託により福島と改名したのだという。ホロカが「愚か」と聞こえるのを忌んだからででもあったろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.435 より引用)
ああなるほど。そういう考え方もあるのですね。horka が「逆」である、すなわち「逆らう」という意味となるのでそれを嫌った、という説もあったように思います。

日向(ひゅうが)

pikata-tomari
南西風・泊地
(典拠あり、類型あり)
福島の市街地の南隣に位置する集落の名前です。福島川の河口の南に位置する「福島漁港」は、福島と日向にまたがって立地している、と言えるかもしれません。片や東北地方で片や九州、随分と大きく出たものですね(どっちも関係ない)。

「角川──」(略──)が良くまとまっていたので、ちゃちゃっと引用してしまいます。

地名の由来は,江戸期はヒカタトマリ(初航蝦夷日誌),ヒカタ泊り(廻浦日記)と称され,ヒカタ風(南西風)が吹く時に船の停泊に都合のよい入江をヒカタ泊り(初航蝦夷日誌)と称していたのを日向と当て,それを「ひゅうが」と呼んだと解される。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1258 より引用)
おおお! pikata に対して「日方」という字を当てるケースがありましたが、「日向」とはうまく字を充てたものですね(もはや「ピカタ」ですら無いですが)。ということで、「日向」は古い形をたどると pikata-tomari で「南西風・泊地」と考えて良さそうです。

白符(しらふ)

chir-o-p
鳥・多くいる・もの(ところ)
(典拠あり、類型あり)
国鉄松前線の「渡島福島」の次の駅が「白符」でした。鉄道だと飲み会帰りでも安心ですよね(一体何の話だ)。

ということで、駅名と言えば「北海道駅名の起源」から。

  白 符(しらふ)
所在地 (渡島国) 松前郡福島町
開 駅 昭和 32 年 1 月 25 日 (客)
起 源 この地の字(あざ)名「白符」からとったものであるが、以前この地方にはタカが群せいしており、そのなかの一羽の白夕力が長であったといわれているので、「白符」は「白タカ」の意と思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.22 より引用)
んー……。これはちょっと誤解を招く表現かもしれません。ということで深く検討する前に永田地名解を覗いておきましょうか。

Chir’o-p  チロㇷ゚  鳥多キ處 白府(シロフ)(村)ノ原名、十勝國ニ「チロトー」アリ鳥多キ沼ノ義和人訛リテ白人(シロト)(村)ト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.151 より引用)
あー、こちらは妥当な解ですね。chir-o-p で「鳥・多くいる・もの(ところ)」と考えるのが自然に思えます。「白鷹」の話は一種の地名説話だったのかなぁと思えてきますが、chir には「白い」という意味は無いので、chir-o-p が「白府」になってから創作されたもののように思えます。

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2017年9月29日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (164) 「洞爺森林博物館」

洞爺湖汽船の遊覧船に揺られて「中島」にやってきました。中島と言ったらココでしょう! ということで「洞爺森林博物館」に来ています。あ、ちゃんと入館料は払っていますので念のため。
いきなり森の住民が大挙して出迎えてくれました。
そして、よーく見るとこんな案内が……
あっ。手書きなのに随分とポップな感じになっています。入口にあったこちらとはエライ違いですね。

映像室

館内の展示は中島の自然を取り上げたものが多いですが、必ずしも「自然」=「森林」というわけではありません。「洞爺湖中島 DVD 映像室」があるようですので、見に行ってみましょうか。
懐かしいコピーが書かれたポスターが貼られているその先に……
液晶テレビが置かれたスペースがありました。木製の長椅子がいいですよね。古いものだと傷みが気になりますが、この椅子は見たところかなり新しそうです。
かなり歴史がある筈の建物ですが、こうやって見ると内装はかなり綺麗ですね。比較的最近に全面リニューアルしたような感じでしょうか。

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2017年9月28日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (163) 「勝手に入らないでください」

洞爺湖に浮かぶ「中島」にある「中島国有林」にやってきました。
この「中島」には何があるのか……という話ですが、とりあえず「森林博物館」なる建物があります(「博物館前桟橋」という所以です)。「是非一度ご覧下さい」と言われたならば見ておかない手は無いでしょう。や、決して「他に行くあてが無い」などと言うことは……否定はできませんけど(汗)。

この花は何……?

ということで、歩道をテクテクと博物館に向かって歩きます。
歩道の左右には針金でできたネットに守られた花が。
これは何の花でしょう……? ウツギの一種かな? と思ったりもしますが、全く自信がありません。

勝手に入らないでください

「洞爺森林博物館」の入口にやってきました。苦心してバリアフリー化した跡が見て取れますね。
そして、ここにも手書きの看板がありました。味わい深いなぁ……と思っていたのですが、
上には上がいました(笑)。「勝手に入らないでください」という切実な訴えなんですが、切実なのにジワジワ来てしまって申し訳ない気持ちに……。

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2017年9月27日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (162) 「博物館前桟橋」

10 時 57 分、洞爺湖は中島にある「博物館前桟橋」に上陸しました。
桟橋には「魚にえさをあげて見ませんか」と題された自販機(ですよね)がありました。
どことなく懐かしい感じのする機械ですが……張り紙もかなり味わい深いです。

手書き看板の味わい深さ

桟橋の出口には「貸傘」が置いてありました。大きく数を減らすこと無くちゃんと残っているのは、おそらく再乗船時に持ち出しをしないようにチェックしているのでしょうね。
「お客様え」で始まる看板もありました。手書きの味わい深さが良いですね。

白鳥にご注意下さい

こちらは手書きではありませんが……これじゃあコニカカラーも形無しですね(笑)。左に寄っているのがせめてもの救いでしょうか。
この島ではよっぽど「白鳥」が要注意生物なのか、「近づきすぎないで下さい」という看板も。
確かに白鳥が泳いでいました。子供が割と近くにいますが、この距離だったら大丈夫なんでしょうか。そして……
あっ。「トム・トーヤの冒険号」こと遊覧船「羊蹄」が、早くも「駅前桟橋」に向かって戻ってしまいました。僅か 5 分での折り返し、かなりシビアなダイヤですね。

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2017年9月26日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (161) 「トム・トーヤの冒険(汗)」

洞爺湖遊覧船「羊蹄」は、間もなく「博物館前桟橋」に到着します。ということで……
今更ながら、船内の散策を。いかにもクラシカルな「一等室」のドアを抜けると……
そこは二等室でした(大体そうだよね)。ちなみにこの二等室、真ん中に売店があるんですよね。

船尾方向、眺め良し!

売店の横を通り抜けて、船尾方向に歩きます。
左に大きくカーブを切ってきた航跡が確認できますね。真正面に見える変な形の山が昭和新山ですね。左手前に見える小島は「饅頭島」だそうです。

中島に到着

そうこうしている間に、中島に到着です。
ロープをボラードに巻いて船体を固定します。それほど固定されているように見えないのは気にしてはいけません。

トム・トーヤ(汗)

この、遊覧船「羊蹄」ですが、実は別名があるようでした。それにしても「トム・トーヤ」というのは……(汗)。
しかも、後ろにはちゃんと英語表記まで!(汗)

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2017年9月25日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (160) 「海峡を行く!」

洞爺湖汽船の遊覧船「羊蹄」は、中島の南に位置する「弁天島」と「観音島」の西側にやってきました。右手には観音島と中島の間の海峡が見えます。湖なのに海峡とはこれいかに……と思ったのですが、どうやら「海峡」「地峡」以外に適切な用語は無さそうなので、とりあえず「海峡」で。
遊覧船「羊蹄」は、なんとこの海峡に向かい始めました。地形図では水深 10 m も無い浅瀬の筈ですが、大丈夫なんでしょうか……?

海峡を行く!

やはりと言うべきか、竿のようなものが湖面の上に見えます。この間を通れば安全だ、ということなんでしょうか。
左舷も陸地すれすれを通っています。実際にはそれなりに離れている筈なんですが、すごく近く見えますね。
右舷側には観音島の砂浜が見えます。

「博物館前桟橋」へ

右舷に見えていた観音島が遠ざかってゆきます。ずっと向こう側に見えるのは有珠山と壮瞥温泉のあたりですね。
遊覧船は再び左に向きを変えます。右手にも中島が見えてきました。
前方に、中島の「博物館前桟橋」が見えてきました。……博物館があるんですね(汗)。

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2017年9月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (471) 「日出・縮辺川・兵舞川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

日出(ひので)

op-tek-nay??
槍・のような・沢
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
福島町の中心部から道道 532 号(岩部渡島福島停車場線)を 5 km ほど東に向かったところにある地名で、「日の出川」という川も流れています。

一見すると和名にしか思えないのですが、「角川──」(略──)には次のように記されていました。

地内は江戸期~昭和 17 年までは小日出・大日出(松前国道中記),「日出」の転訛した小筆・大筆(蝦夷巡覧筆記),あるいはヲフテノ沢(初航蝦夷日誌) と称された。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1247 より引用)
「『日出』の転訛した小筆・大筆」とありますが、果たしてこの考え方は適切なんでしょうか。と言うのも、引用部にもあるように「初航蝦夷日誌」には「ヲフテノ沢」とありますし、「竹四郎廻浦日記」には「大筆、小筆」とあります。「ヲフテノ沢」から直接「大筆、小筆」と変化した、と考えても良いように思えるのです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲフテサワ」の隣に「コフテサワ」と記されています。これが「大筆」と「小筆」の原型のように思えますが、元々「ヲフテサワ」があり、そこから「大筆」という地名が創出され、更にそこから「小筆」という派生地名が生まれた……と考えてみました(随分と想像だらけですが、そう考えないとこの項の説が成り立たないもので)。

ということで、現在の「日の出川」が、元々は「ヲフテナイ」だったと想定すると……op-tek-nay で「槍・のような・沢」と考えられたりはしないかな、と。「槍のような沢」というのも相当意味不明ですが、「槍のような」という地名が先にあって、その近くを流れる「沢」なんじゃないかなぁと。

以上、かなりむりやり想像を逞しくして試案をお届けしました(汗)。

縮辺川(しゅくべ──)

supun(-ot)-pet?
ウグイ(・多くいる)・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
知内川上流部の東支流の名前です。知内川の上流部は、不思議なことに福島町に含まれるんですよね。

残念ながら手持ちの資料には参考となる情報が見当たりません。ということでこれまた完全に想像ベースで考えるしか無いのですが、「しゅくべ」という音は七飯町と森町の間を流れる「宿野辺川」と似ているような感じがします。

ということで、supun(-ot)-pet で「ウグイ(・多くいる)・川」と考えてみたのですが、いかがでしょうか。あるいは surku(-oma)-pet で「トリカブトの根(・そこにある)・川」という可能性もあるかもしれません。

明治の頃の地形図には「宿部川」とありました。どうやら元々は「宿部川」だったみたいですね。

兵舞川(ひょうまい──)

so-oma-i?
滝・そこにある・もの
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
福島川の支流の名前です。面白いことに、「竹四郎廻浦日記」や「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤウマイ」と記されています。更に面白いことには、現在「桧倉川」と呼ばれている川も、元々は「シクラ」だったっぽいんですよね。「ヒ」が「シ」に訛るのは江戸っ子の特徴ですが、ちょうどその逆ということになりますね。

この「シ」から「ヒ」への変化が揺り戻しで無いと仮定して、元々は「ショウマイ」だったと考えると、so-oma-i で「滝・そこにある・もの」と考えられそうです。そう考えて地図を見てみると、まるで図ったかのように滝の所在を示すマークがありますね。まぁ滝なんて大抵の川にあるでしょうから、傍証と考えるには弱いのですが。

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2017年9月23日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (72) 車峠(西会津町) (1878/6/30~7/1)

引き続き、1878/6/30 付けの「第十三信」(初版では「第十六信」)を見ていきます。イザベラ一行は、車峠の頂上付近の宿で日曜日を過ごすことにしたようです。

宿の台所

車峠の眺望絶佳の宿を切り盛りしていたのは女主人でした。この女主人のことを、イザベラは次のように評しています。

私の宿の女主人は、未亡人で、家族を養っている。忙しそうに働く好人物で、おしゃべりが大好きである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.175 より引用)
ふむふむ。今風に言うと「コミュ力の高い」女性だったのでしょうか。

イザベラは、どうやら 6/30(日) を休息日に充てたようですね(読み違いだったらごめんなさい)。「峠の宿屋」も昼間は「峠の茶屋」としての営業に忙しいようです。

日中には、屋根の下の大きな畳座敷は仕切りをとってしまうので、旅人や馬子たちがごろごろしている。車峠をこちらからも向こうからも登ってくる人々は、ここでひと休みをして一杯のお茶と食事をするからである。それで宿の女主人は一日中忙しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.175-176 より引用)
さて、本題に移りましょうか。「峠の茶屋」の内装を、イザベラは次のように記していました。

もちろん、家の中には家具というべきものがない。ただ天井に棚があって、神棚となっている。その中に二つの黒い偶像が祀られている。一つは人々の信仰の篤い大黒という富の神である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.176 より引用)
イザベラはこれまでも何度か「大黒信仰」について記していました。現在でも関西では「今宮戎」にお参りしたりしますが、日本における「商売の神様」の歴史も紐解いてみると面白そうです。

イザベラは、台所にあった売り物の食品についても記していました。記していましたが……

台所用品をのせた棚のほかには、台が一つだけあって、六枚の大きな茶色の皿に売り物の食品が盛られている。黒くどろどろした貝類の佃煮、串刺しの干した鱒、海鼠の佃煮、根菜類のみそ和え、緑色をした海苔のせんべい──いずれも味の悪い不快な食物である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.176 より引用)
イザベラ姐さん、「味の悪い不快な食物である」って……(汗)。ただ、これは重大な伏線だったのかもしれません。詳しくは後ほど……!

知られざるイギリス

休憩モードのイザベラ姐さんは、コミュ力高めの女主人に頼まれて英語で推薦文?を書くことになったようです。

宿の女主人に頼まれて。私はこの宿屋が見晴らしの良いことを賛美する文章を書いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.176 より引用)
ただ、そんな女主人の「外国」の認識は、少々意外なものでした。

女主人はイギリスという国を聞いたことがなく、この田舎では少しも魅力のある言葉ではなかった。アメリカさえも聞いたことのない言葉であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.176 より引用)
そう、「イギリス、なんだそれ食えるのか?」状態だったようです。いやでもイギリスですからねぇ。どうせ食うならイタリアとかフランスのほうが……(何の話だ)。

これだけなら、単に外国のことを全然知らないという可能性もあるわけですが、

彼女はロシアが大国であるということを知っている。もちろん中国のことは知っているが、彼女の知識はそこで終わりである。彼女は東京や京都へ行ったことがあるというのに──。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.176 より引用)
日本の近くに「中国」があり、また北方に「ロシア」という大国があることは知っていたということ。イザベラにとっては少々納得の行かない結果だったのかもしれません。

私の朝食が消える

さて、これまたシュールな見出しですが……。一体何があったと言うのでしょうか。

七月一日──昨夜、蚊や蚤が出たが、なんとか眠りこもうとしていたとき、大声で話す声、けたたましい鶏の叫び声で眼をさまされた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.176-177 より引用)
この「鶏の叫び声」の正体は、動物性タンパクを欲していたイザベラのために、伊藤少年がわざわざ買い付けてきた鶏の叫び声だったようです。本来は鶏卵を産ませるための鶏だったのでしょうが、無理を言って譲ってもらったものなのだとか。

そんなわけで、久しぶりに「肉が食えるぞ!」モードに入ったイザベラ姐さんでしたが……

それで私は、明日の朝食にそれを煮てもらいたい、と言っておいたのだが、今朝になって伊藤は、たいそう申しわけないという顔をしてやってきて、ちょうど彼が鶏を殺そうとしたとき、森に逃げていってしまった、と言うのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.177 より引用)
なんと、故意か過失か、鶏を捌く直前に逃げられてしまったのだとか。イザベラ姐さんの恨み節が炸裂したであろうことは想像に難くないわけで……。

そのときの私の気持ちは、十日間も魚や肉や鶏肉を食べずにいることはどんなものか自分で経験した人でなければ分かってもらえないだろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.177 より引用)
……お察しします。

その代わりに出たものは、卵と、昨日男が蓆の上で踏んでいた練り粉を細長く切って茄でたもので、粗い麦粉と蕎麦をこねあわせたものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.177 より引用)
日本人にとっては香り高い蕎麦も十分にご馳走なんですが、「肉! 肉!! 肉!!!」モードの姐さんにとっては「なんじゃあこりゃああ™」だったのでしょうね。

こんなわけで、私は、食物についてあまりうるさく考えない方がよいと悟った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.177 より引用)
そんなこんなで、イザベラ姐さんは早くも悟りの境地に達したのでした。

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2017年9月22日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (159) 「弁天島と観音島」

洞爺湖汽船の遊覧船「羊蹄」で、洞爺湖の中島に向かいます。船は 30 分おきの運航で、中島までの所要時間は 20 分ちょいとのこと。
ということで、さっそく出航です。洞爺湖温泉の大きなホテル群が見えますね。そして湖上にはこんな船も……

ソファー席でのんびりと

遊覧船「羊蹄」の 1 等室で前方に中島を望みます。
写真の明るさを変えるとこんな感じです。液晶テレビが壁掛けになっているのはいかにも現代風ですね。
遊覧船は 30 分おきの運航で、片道 20 分ということは、船が二つあれば事足りる計算になりますね。進行方向右側に洞爺湖汽船のフラッグシップ「エスポアール」が見えてきました。

昭和新山を望む

「駅前桟橋」から出航して 12~3 分ほど経った頃の写真です。壮瞥温泉のあたりが見えていて、そのずっと先には昭和新山の姿も。
原寸トリミングしたものがこちらです。このアングルからだと割と普通の山?のようにも見えますね。

弁天島と観音島

そして、もう島の近くまでやってきました。この島は中島ではなく「弁天島」という小島です。
弁天島と、お隣の観音島の間は繋がっていて、小さいながら桟橋?もあります。地形図を見ると観音島にお寺があるようですが、もちろん遊覧船はスルーです(桟橋が小さすぎるので寄港は無理でしょうし)。

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