2018年1月31日水曜日

福塩線各駅停車 (17) 「備後安田」

梶田を出発して、次の「備後安田」に向かいます。梶田から備後安田までの 5.2 km を、三次行き 1725D は 11 分かけて走ります。向こうに見えるのは、県道 27 号「吉舎油木線」が上下川を渡るところの橋です。

まさかの 60 km/h 制限

福塩線(福塩北線部分)の 20 km/h 制限に「こりゃすげぇ!」と気づき、一枚くらいはちゃんとした写真に収めたいなぁ……と思っていたところ、なななんと……!
まさかの「60 km/h 制限」の標識が! そもそも福塩線って最高何 km/h まで出せるんだろう……と思ったのですが、Wikipedia を見る限りでは、諸元としては 85 km/h が Max のようですね。60 km/h でも 25 km/h ほど落とさないといけない、ということなんでしょうけど、非電化区間ではどう考えても 85 km/h を出せる場所は無いような気も……。
というのも、ちょっと気を抜いたらこれですからね(笑)。
この標識は、速度制限が終わったことを示しているのでしょうか?

車では近づけない?

梶田から備後安田までは、引き続き上下川沿いを走りますが、途中で 2 度ほど上下川を渡ります。駅こそありませんが、途中、しばらく上下川の右岸(東側)を走ることになります。
ちなみに駅がないだけではなく幹線道路も無かったりします(汗)。

トンネルを抜けて左岸に戻って

前方に、この区間で二つ目のトンネルが見えてきました。
トンネルを抜けたところで再び上下川を渡って、左岸に戻ります。これまた安定の 20 km/h 制限ですね……。
ほぼ定刻通りに、備後安田駅が見えてきました。ポイントが見えるので交換可能な駅なんでしょうか……?

備後安田駅(びんごやすだ──)

三次行き 1725D は、ゆっくりと速度を落として備後安田駅に停車します。
ポイントがあるように見えたので、交換設備があるのかな……? と思ったのですが、反対側の線路にはホームがありませんでした。かつては反対側にもホームがあったらしいのですが、既に撤去されて跡形もありません。
ただ、現存するホームにはかなり立派な駅舎が残されています。
備後安田駅の開業は 1935 年(昭和 10 年)、福塩北線の吉舎(きさ)から上下までの延伸と同時でした。1983 年に国鉄の直営駅から簡易委託駅となり、2008 年まで簡易委託が続いていたとのこと。なるほど、立派な駅舎が残っているのもなんとなく納得です。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年1月30日火曜日

福塩線各駅停車 (16) 「梶田」

甲奴(こうぬ)を出発して、次の「梶田」に向かいます。あっ、そう言えば書き忘れていたんですが、甲奴で降りたお客さんがいたと記憶しています。
運転室は 1 人しか入れない構造なので、運転室の横で立ったまま前方を見張っています。ずっと立ったままというのも中々大変ですよね。腰とか痛めたりしないのでしょうか。
甲奴から次の梶田までは 2.4 km しかありません。福山から府中の間だと、駅間が 2.4 km 以上あるのは備後本庄から横尾までの 4.3 km だけですが、府中から塩町の間では 2.4 km は駅間としては最短です。福塩線と並んで流れている「上下川」も、甲奴の先で「小童川」と合流して、更に大きな川になりました。
なんだか速度が落ちたなぁ……と思っていたのですが、前方には驚きのこんな標識?が。
はい。なんとこの先 20 km/h 制限(貨物列車に至っては 15 km/h 制限)だそうで。それほど厳しいカーブには見えないのですが、確かに Google Map で見ると山が線路脇まで迫っていることがわかります。


ピントの合ってない写真しか撮れなかったので、上り側の標識を狙ってみました。

梶田駅(かじた──)

2.4 km の距離を 5 分ほどかけて、梶田に到着しました。
線路にホームがついているだけ(一面一線)というシンプルな構造ですが、雨風をそれなりにしのげそうな構造になっているのが素晴らしいですね。ちなみにこの梶田駅は、1963 年(昭和 38 年)に新設された駅です。中畑八田原と同時に開設されたことになりますね。
ホームから駅名の道路まではシンプルな階段があるだけです。ただ両側に手すりがあるのは良いことですよね。
府中鉄道部「梶田中継器室」というコンクリート製の建物が見えます。やはり湿気が酷いのか(あるいは熱が篭もるのか)、エアコンがついているようですね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年1月29日月曜日

福塩線各駅停車 (15) 「上下・甲奴」

三次行き 1725D は備後矢野を出発し、次の「上下」に向かいます。どうせだったら次の上下で上り下りの列車がすれ違うダイヤにすれば良かったのに……と思ったり。

ちなみに午後に走る 1729D と 1733D は、上下駅ですれ違うダイヤのようです。

上下駅(じょうげ──)

6 分ほどで、上下に到着です。交換設備のある割と大きな駅で、無人駅ではなく簡易委託駅だそうです。
二面二線の構造で、線路の向かい側のホームに向かうための歩道橋もあります。
上下駅の開業は 1935 年(昭和 10 年)のことです。福塩線は福山と塩町(三次市)を結ぶ路線ですが、両備軽便鉄道を買収して国有化した福山~府中(府中町)間を除けば、工事は北の塩町から進められました。塩町から 2 駅先の吉舎(きさ)までが 1933 年(昭和 8 年)に開通(福塩北線)し、吉舎から上下までが 1935 年(昭和 10 年)に開通しています。上下から府中までが開通し、福塩北線と福塩南線がつながって「福塩線」となったのが 1938 年(昭和 13 年)のことです。
今の駅舎がいつから使われているものなのかは不明ですが、かなり歴史の長そうな感じのする駅舎ですよね。
上下からは、福塩線は上下川沿いのルートを通ります。駅名だけではなく自治体名も「上下町」でしたから、普通に「上下タイヤ」なんてお店もあります。ここまで並走していた国道 432 号はこのまま北上するので、この先でお別れです。
線路の左側は山すれすれのところを通ります。右側には「上下川」が流れていますが、上下川は江の川の支流のひとつです。あれっ、分水嶺はどこにあったのだろう……と思ったのですが、上下駅のあるあたりが分水嶺だったようです。「上下」は日本海側と太平洋側の境界でもあったんですね。

甲奴駅(こうぬ──)

福塩線は西に向きを変えて、上下から 7 分ほど走ると、間もなく次の「甲奴」です。
「こうぬ」という駅名は中々読めないなぁ……と思ったのですが、Wikipedia にはこんな情報が記されていました。

2017年現在、JR各社の駅において「ぬ」で終わる唯一の駅名である。
(Wikipedia 日本語版「甲奴駅」より引用)
「かなりどうでもいい」とはまさにこのことでしょうか(汗)。
甲奴駅の開業は 1935 年(昭和 10 年)の福塩北線延伸と同時でした。1985 年(昭和 60 年)に簡易委託駅となり、国鉄から JR に継承された後の 1993 年(平成 5 年)に簡易委託が終了され無人駅になっています。
ただ、駅舎は今でも「お好み焼き屋」として使用されているとのこと。なるほど、道理で綺麗に整備されている筈です。
このあたりは、かつては「甲奴郡甲奴町」でした(お隣の上下町も「甲奴郡上下町」でした)。甲奴町は 2004 年に廃止され、三次市と新設合併しています。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年1月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (504) 「紋別川・志門気川・気門別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

紋別川(もんべつ──)

mo-pet
穏やかな・川
(典拠あり、類型あり)
伊達紋別駅のすぐ東側を流れる川の名前です。ということで今回も「──駅名の起源」から。

  伊達紋別(だてもんべつ)
所在地 伊達市
開 駅 大正 14 年 8 月 20 日
起 源 もと「紋鼈(もんべつ)」といったところで、アイヌ語の「シュムンペッ」、すなわち「シュム・ウン・ケ・モン・ペッ」(西にあるところの子川)から出たものである。明治初年伊達邦成一族の開拓によるところであるため、明治 33 年伊達村と改称した。駅名は東北本線の「伊達」とまぎらわしいため、「伊達紋別」としたのである。なお「鼈」を「別」としたのは、字画を簡単にしたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.67 より引用)
「竹四郎廻浦日記」にも記載がありましたので、見ておきましょうか。

     ヲ(キ)モンベツ
     モンベツ
川巾十余間、橋有。此川橋の上にて直に二瀬に分る。其南なるをメナシユンケモンヘツ、少し上りシイノシケモンヘツ、西なるをシユムンケモンベツと云。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.568 より引用)
伊達市役所のすぐ西側を「紋別川」が流れていて、更に数百メートルほど西を「気門別川」が流れています(この両河川は海に注ぐ直前で合流しています)。なるほど、竹四郎廻浦日記が記していたのはこの両河川のことだったのですね。そして伊達紋別の駅に近いのは西側を流れる「シユムンケモンベツ」だったので、「──駅名の起源」の説明が随分とややこしいものになってしまった、ということでしょうか。

さて、肝心の地名解について触れていませんでしたので、永田地名解を見ておきましょうか。

Menash unge mopet  メナシュ ウンゲ モペッ  東ノ靜謐川(西紋鼈村)
Shum unge mo pet   シユㇺ ウンゲ モペッ   西ノ遅流川(東紋鼈村)
Shinnoshike mo pet  シンノシケ モペッ     中ノ靜謐川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.184 より引用)
色々と謎な解が出てきました。まずどれも mo-pet だと思われるのですが、解が「静謐川」だったり「遅流川」だったり揺れが生じています。menassum、あるいは sinnoskimo-pet にかかっている位置(を示す)名詞の筈なので、後ろの mo-pet の解釈は本来揺れる筈も無いのです。

ちなみに、どっちが正解なのかと言えば……どっちも正解です(ぉぃ)。「静謐」と解釈するも良し、「遅流」と解釈するも良しですし、あるいは「平穏な」と解釈するのも良いかもしれません。今回は mo-pet で「穏やかな・川」としておきましょうか。

志門気川(しもんけ──)

sum-kus-{mo-pet}?
西・通行する・{紋別川}
sum-{un-ke}-{mo-pet}?
西・{そこに入れる}・{紋別川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
紋別川の西隣を「気門別川」という川が流れていますが、この「気門別川」を上流に遡ると、道央道の北側で「志門気川」が合流しています。志門気川は気門別川の支流ということになりますね。それにしても「志門気」と「気門別」、うっかり順序を間違えたりしないのでしょうか。

「竹四郎廻浦日記」の記載を再度引用しておきましょうか。

     ヲ(キ)モンベツ
     モンベツ
川巾十余間、橋有。此川橋の上にて直に二瀬に分る。其南なるをメナシユンケモンヘツ、少し上りシイノシケモンヘツ、西なるをシユムンケモンベツと云。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.568 より引用)
環境にやさしいコピペでお届けしました(ぉぃ)。これを見た感じでは、「ヲモンベツ」(「キモンベツ」の可能性が高い)の別名?が「シユムンケモンベツ」だったとも読めそうですね。

ちなみに「東西蝦夷山川地理取調図」には「モンヘツ」の支流として「シユンクシモンヘツ」「シノマンモンヘツ」「メナシクシモンヘツ」が記されています。気門別川に相当するのは「シユンクシモンヘツ」になりますが、これだと sum-kus-{mo-pet} で「西・通行する・{紋別川}」と読み解けそうです。

「シユンクシモンヘツ」と「シユムンケモンベツ」は、似てはいますが若干の違いがあります。この違いについては山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」にまとめられていました。

 この川は、海浜で三つの川が合流していて珍しい姿であった(現在は、東側の川は海に直流されている)。「永田地名解」は次の形に記録している。
 Shumunge-mopet (西の静かな川)
 Shinnoshke-mopet (中の  〃  )
 Menashunge-mopet (東の  〃  )
 こう呼んでいたのかもしれないが、ふつうの用例では、この ge(ke)は入らない。ただ Shumun-Mopet(西の・紋別川)Menashun-Mopet(東の・紋別川)である。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.167 より引用)
山田さんは「ふつうの用例では、この ge(ke)は入らない」としています。概ね同感ですが、un-ke という用法も皆無では無いという認識です(たとえば安平町の「フモンケ」とか)。sum-{un-ke}-{mo-pet} で「西・{そこに入れる}・{紋別川}」と読めなくは無い……でしょうか(かなり弱気)。

気門別川(きもんべつ──)

kim-un-pet
山・そこに入る・川
(典拠あり、類型あり)
前述の通り、紋別川の西隣を流れる川の名前です。お隣は「紋別川」ですが、こちらは「気門別川」です(「モン」の字が異なります)。また、気門別川の上流部には「喜門別町」という地名もあります(こっちは「キ」の字が異なりますね)。随分とややこしいですが、うっかり字を間違えたりしないのでしょうか。

この「気門別川」は、元々は「志門気川」の支流だった可能性が高そうなのですが、いつの間にか主客転倒してしまった感じでしょうか。

山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」には、やや意外な解が記されていました。

 西の紋別川の近くに駅ができて西紋別駅と呼ばれたが、今は伊達紋別となった。その川を現在気門別川と呼ぶ。気門別(喜門別)は、この川の上流、東股の川の名であったようだ。このへんではキムンが「きもん」に訛る。キムン・ペッ「Kim-un-pet 山・の(に入る)・川」の意。それが気門別の地名となり、後に西の紋別川の名として使われたものであろう。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.168 より引用)
「西紋別駅と呼ばれたが」という部分については事実関係を確認できませんでしたが、元々は「西紋別」という名前だったのか、それとも山田さんが「西紋別村」と混同していたというオチでしょうか(後者の可能性もあるかと)。

本題に戻りますが、気門別は kim-un-pet で「山・そこに入る・川」ではないかとのこと。考えてみれば極々当たり前の解なのですが、気門別の「門別」(……m-un-pet)と「紋別」(mo-pet)が全く異なる意味だ、というのは意外な感じがしませんか?

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年1月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (503) 「若生・長流川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

若生(わっかおい)

wakka-o-i
水・ある・ところ
(典拠あり、類型あり)
エントモ岬の北東のあたりの地名です。正確には伊達市若生町(──ちょう)のようですね。同名の「若生」が石狩市にもあるようです。

永田地名解には次のように記されていました。

Wakka-o-i  ワㇰカ オイ  水處 淸水ノ湧ク處ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.184 より引用)
あー、wakka-o-i で「水・ある・ところ」と考えたのですね。至極妥当な解のように思えます。

山田秀三さんの「北海道の地名」でも、いつもの名調子を披露されていました。

wakka-o-i(水・ある・処)の意。今どうなっているか,昭和 30 年通った時には,僅かに低い沢形の処が道路を横切っていて,そこに幅 40 センチぐらいの小溝が流れていた。
 付近の農家で聞くと少し山側で水が湧いて流れているが,僅か下ると地中に消えている。この辺の農家は飲み水も風呂の水もここから汲む外ないのだとのこと。手ですくって飲んだら実にうまかった。正にワッカオイであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.409 より引用)
若生のあたりは段丘の上なので、水は貴重なものだった筈です。そんなところの湧き水ですからとても貴重なものだったことでしょう。地名になるのも頷ける話です。

長流川(おさる──)

o-sar(-un)-pet
河口に・葭原(・ある)・川
(典拠あり、類型あり)
室蘭本線の伊達紋別駅と長和駅の間に「長流川」が流れています。ということで「北海道駅名の起源」を見てみましょうか(あっ、この流れは……)。

  長 和(ながわ)
所在地 伊達市
開 駅 昭和 3 年 9 月 10 日
起 源 もと「長流(おさる)」といったところで、アイヌ語の「オ・サル・ウン・ペッ」(川口にヨシ原のある川)から出たものである。昭和 34 年 10 月 1 日「おさる」はお猿に通ずるので「長和」と改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.66 より引用)
いやー、豊浦あたりだと「ごろが悪いので」とか良くわからない理由が並んでいましたが、長和の改称理由は実に明快でした。「おさる」は「お猿」に通じるから改称した、ということなんですね。

o-sar-un-pet で「河口に・葭原・ある・川」となりますが、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ヲサルヘツ
地名ヲサルペツはヲサラヘツの訛と云り。川尻に谷地有ると云事なりとかや。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.568-569 より引用)
文法的には o-sar-un-pet が正しい(のではないか)とされますが、松浦武四郎の時代には既に -un が脱落していたのかもしれませんね。「──駅名の起源」が -un を含む形で記録しているのは、知里さんのこだわりの所為かな、と思ったりします。

山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」には、次のように記されていました。

「駅名の起源」が、O-sar-un-pet と un(ある)を挿入して書いているのは、文体にやかましい知里さんが参加したためか。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.168 より引用)
あ、やはり……(笑)。ただ、山田さんが現地でヒアリングした限りでは

彼女の音は、なん度聞いてもオサーㇽ ペッ(osárpet)で、間に un はない。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.168 より引用)
とのこと。

O-sar-un-pet は語義を説明するために、ていねいな形に復原して書かれた、と理解したい。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.168 より引用)
そうですねぇ。山田さんの包容力を感じるまとめ方だなぁと思ってしまいます。

永田地名解の検討

ところが、永田地名解にはこれとは全く違う解が記されていました。

Osare pet  オサレ ペッ  急流川(ハヤカハ) 直譯投ゲル川、土人云急流ニシテ物ヲ投ゲルガ如シ故ニ名ク此処ノ土人ハ「投ゲル」ヲ「オサレ」ト云ヒ「オシユラ」トモ云フ(長流村)
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.184 より引用)
「投げる」を意味するという「オサレ」という語彙は見つけられなかったのですが、osura であれば確かに「投げる」という意味のようですね。osura-pet で「投げる・川」だと言うのですが……。

山田秀三さんは、この「投げる川」説について次のような感想を記していました。

永田地名は、他地にあった多くの類型地名では、サㇽを「茅」で訳しているのに、どうしてここだけは、オサレとして、土地の方言「投げる」としたのだろうか。土地のアイヌの説を聞いて書いたのであろうが、少なくとも異例な解である。
(山田秀三「アイヌ語地名の輪郭」草風館 p.71 より引用)
その上で、長流川が「急流」であるとした解についても

 この川はずっと上流まで見て来たが、緩流ではないが、特別な急流とも思えない。まあ普通の長流である。
(山田秀三「アイヌ語地名の輪郭」草風館 p.71 より引用)
として、「まだ賛成できないのであった」としています。

東蝦夷地名考の検討

そして、山田さんの著作から、「長流川」の地名解については秦檍丸(村上島之允)も謎な解釈を残していたことを知りました。

一 ヲサルベツ
 ヲシヤラベツ也。シヤラは禽獣魚虫の尾を指して皆シヤラと云。此河の源にウストウと云大湖あり。その湖を躰と見、川を尾と見たるなるへし。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.20 より引用)
確かに sar には「尾」という意味もあるんですよね(八雲の砂蘭部川でも出てきたでしょうか)。地名擬人化という意味では面白い解ではあるのですが、山田さんはこの解についても次のような感想を記しています。

 註釈をつければ、先ず秦氏の解は、私たちが同じ種類の地名を見て来た関係でいうと異例で、この処はアイヌ古老には相談していなかったらしい。
(山田秀三「アイヌ語地名の輪郭」草風館 p.71 より引用)
山田さんは「異例」としていますが、sar(a) を「尾」と解釈したケースは、前述の「砂蘭部川」もそうでした。ですので、全く例が無いというわけでは無さそうです(まぁ sar を「葭原」と解釈する例と比較すると、比べ物にはならないくらい「異例」ではありますが)。

自分の知っているアイヌ語で解をつけて書いたとしか思えない。私は賛成できない解し方である。
(山田秀三「アイヌ語地名の輪郭」草風館 p.71 より引用)
おや、珍しく厳しいですね。まぁでも確かに「これは無いよなぁ」という風に感じられるのも事実です。一周まわって「砂蘭部川」との類似性を考えたりしたら面白いかもしれないなぁ……と思ったりもします。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年1月26日金曜日

福塩線各駅停車 (14) 「備後三川・備後矢野」

長~い「八田原トンネル」を抜けたら、すぐに「備後三川」です。河佐と備後三川の間は 7.5 km もあるのですが、そのうち 6.1 km がトンネルです。

備後三川駅(びんごみかわ──)

備後三川は交換設備のない一面一線の構造ですが、かなり立派な駅舎が目を引きます。公民館あたりの機能を兼ねているのでしょうか。
備後三川駅は「福塩線の駅で唯一『町』に所在する駅」なのだそうです(広島県世羅郡世羅町)。世羅町というところは鉄道も通っていないのに大きな町があって不思議だなぁ……と思っていたのですが、町の外れに鉄道が通っていたんですね。
更に言うと、世羅の市街地から芦田川を下ると二つも巨大なダムがある(八田原ダムと三川ダム)……ということになるんですよね。地図を見た限りでは、とてもそんな山の中には見えないので面白いです。

備後矢野駅(びんごやの──)

芦田川の支流の「矢多田川」沿いを北北東に向かいます。地勢のせい……と言えばそれまでなのですが、東に向かったり南に向かったり、西に向かったり北に向かったり、凄く迷走している感がありますね。
かつての「上下町」(じょうげちょう)に入りました。今は府中市上下町とのことで、次の「備後矢野」も府中市に所在する駅、ということになりました。国道 432 号がオーバークロスしていますが、なかなか良く整備された道のようですね。

旧・上下町で上下の列車が

備後三川から 6 分ほどで、備後矢野に到着です。備後矢野は一面二線の構造で、交換設備があります。そして……旧・上下町にあるこの駅で、上下の列車がすれ違います!(一体何を喜んでいるんだ
三次行き 1725D が 2 番線に入線する前に、はるばる広島からやってきた府中行き 1724D が 1 番線で待っていました。広島から福塩線に直通する列車があるとは知らなかったです。

駅ナカのそば屋さん

この備後矢野駅は備後三川駅と同様に、1938 年(昭和 13 年)に福塩線が全線開通した時に設置された駅です。1983 年に無人化されていますが……
駅構内?にそば屋さんがあるのには驚いてしまいました。Wikipedia によると「民芸品・うどん・そばの店」とのこと。ふらっと途中下車してみたくなりますね。
そんな備後矢野駅ですが(どんなだ)、次の三次行きはなんと 6 時間 53 分後なんですよねぇ……(汗)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年1月25日木曜日

福塩線各駅停車 (13) 「河佐」

府中発三次行きの 1725D は、中畑を出発して、次の「河佐」に向かいます。
ドアの横の窓の上には、沿線の風景を撮影した写真が飾られています。3 枚あるうちの真ん中の写真は「朝のラッシュアワー」と題されたもので、昭和 45 年頃の備後三川駅で撮影されたもののようです。

河佐駅(かわさ──)

中畑から 7 分ほどで、河佐に到着です。交換設備のある駅は久しぶりですね。
1 番のりばの向こう側にも、短い折り返し線があるようですね。
立派な駅舎と、その横には自転車置き場もあります。鉄道の利用を推進しよう……という気持ちが窺えるようですが、利用客は純減が続いているようで、1996 年調査では一日平均 189 人の乗車があったのが、2015 年調査では 28 人にまで落ち込んでいるようです。駅の周りには家もたくさんあるのですが、片道 6 本しか列車が無いので、なかなか気軽には使えないですよね。
この河佐駅は、1938 年(昭和 13 年)に福塩線が全通した際に開設されました。芦田川の渓谷である「河佐峡」への最寄り駅でもあります。
河佐駅を出発すると、福塩線は再び芦田川を渡ります。実は、中畑と河佐の間で既に三回も芦田川を渡っているので、改めて強調するほどのことでも無いのですが、この「河佐峡」と呼ばれるあたりでは、随分と川の規模が小さくなったなぁ……と思わせます(支流が多いんですよね)。
ただ、注目すべきはそこではなくて、この「20」という標識と、その下の「貨物」という文字ですよね。これは「貨物列車は 20 km/h 以上出してはいけないよ」という意味だと思うのですが、「制限速度 20 km/h」ということに驚くと同時に「貨物列車」の存在を想定しているところにも驚いてしまいます。さすがに現時点では設定は無いと思うのですが……。

八田原駅(はったばら──)【廃駅】

「河佐峡」は河佐駅の西にあるのですが、かつては河佐峡のすぐ近くを福塩線の線路が通っていました。ただ、芦田川に「八田原ダム」が建設されたため、福塩線は 1989 年(平成元年)に、ダム湖の東側に建設された 6,123 m の「八田原トンネル」を経由する形にルートが変更されました。

変更前のルートには「八田原駅」(はったばら──)がありました。八田原は中畑と同じく 1963 年(昭和 38 年)に開設されましたが、数年後に八田原ダムの建設計画が持ち上がり、開設から 25 年後の 1989 年に福塩線のルート変更に伴って廃止されています。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年1月24日水曜日

福塩線各駅停車 (12) 「下川辺・中畑」

府中発三次行きの 1725D に乗車しました。ディーゼルカー単行(1 両)ですが、車内の乗客は 10 人弱くらいだったでしょうか。単行で間に合っちゃうわけですね。
単行のディーゼルカーなので、バスと同様、降車時に運賃箱に運賃を支払う仕組みです。ワンマン運転……の筈なのですが、この日はもう一人の乗務員の方が前方の見張りをしているようでした。冬場は落石以外にも倒木や倒竹が多いですからね。
1725D は府中駅を出発しました。発車して間もなく芦田川を渡って、芦田川の右岸に移ります。いきなり川のすぐ横を走ることになります。
「芦田川」という川の名前は恥ずかしながら知らなかったのですが、かなり水量の豊かな川のようですね。

下川辺駅(しもかわべ──)

府中から 6 分ほどで、次の「下川辺」です。右下に見張り番?の乗務員さんの帽子が見えますね。
福塩線は、芦田川がグルっと U ターンしているところを外から回り込むようなルートを取っています。南から北西に 120 度ほど向きを変えたところで、下川辺に到着です。
なんと、ここで貴重な乗客が二人も降車してしまいました(汗)。2015 年のデータによると、下川辺駅の乗車人員は一日あたり 31 人とのこと。周りはそれなりに栄えているような感じです。

ところで、Wikipedia には驚くべきことが記されていました。

1954年4月10日から1962年4月1日までは当駅まで電化されていたが、電車がほとんど通らないため、架線を撤去した。
(Wikipedia 日本語版「下川辺駅」より引用)
ええっ! これは知りませんでした。それにしても、何を思って下川辺まで(府中から 4.3 km もあります)電化しようと考えたのでしょう。福塩線の府中以北よりも電化すべき路線は、他にもいくつもあったと思うのですが……。

中畑駅(なかはた──)

府中行き 1725D は下川辺を出発して、次の「中畑」に向かいます。
芦田川は、下川辺駅の手前で支流の「御調川」(みつぎ──)と合流していたので、府中駅の近くでは川幅も水量も凄いことになっていた、ということだったようです。下川辺から中畑の間で見えている芦田川は御調川と合流する前なので、水量はほぼ半減しているのかもしれません。
約 10 分ほどで、中畑に到着です。先程の下川辺は 1938 年(昭和 13 年)に福塩線が全通した際に開設されましたが、この中畑は 1963 年(昭和 38 年)に新設された駅とのこと。山と川の隙間という、昔の保津峡駅のような場所ですが、周りにはそれなりに民家もあるようです(だからこそ駅が設置されたというのでしょうね)。
ただ、2009 年の調査では一日あたりの平均乗車人員が 4 人、2010 年調査では 3 人、2011 年は 2 人、2012 年はついに 1 人に落ち込み、2013 年と 2014 年ではついに「乗車人員 0 人」という危機的な状況にありました。2015 年の調査では「乗車人員 1 人」ということで増加に転じたようですが(汗)、「極端にご利用の少ない駅」になってしまっていますね。先行きが不安になります……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International