2022年11月30日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (30) 「骨組みだけのお店」

三笠市と芦別市の間にある「三芦トンネル」を通過して芦別市に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「三芦トンネル」を抜けると、350 m ほどの S 字カーブを抜けて、すぐに次の「キムントンネル」です。「キムン」は kim-un で「山のほう」という意味なので、「山のほうのトンネル」ということになりますね(まぁ既に山の中なので何を今更……という説もありますが)。

2022年11月29日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (29) 「『りゅうちゃん』の幻」

「桂沢大橋」で「桂沢湖」を渡ると、国道 452 号は左に大きく向きを変えます。ここは新しい「桂沢大橋」との合流点になるところですが、この法面に鋲のようなものが打ち込まれている(ように見える)のはどういう効果があるのでしょう……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。

左カーブを抜けた後は、R = 80 の深い右カーブで再び北に向きを変えると間もなく「桂沢トンネル」です。このトンネルポータルも戦国武将の兜のような形ですね。

2022年11月28日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (28) 「桂沢大橋(旧橋)」

国道 452 号を桂沢湖に向かって北上します。「桂清橋」(けいせいばし)に続いて、これまた昭和テイストの「朝映橋」という橋が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。

続いて「夕映橋」が見えてきました。「全国Q地図」の「2018 年度 全国橋梁マップ」によると「せきえいばし」と読むとのこと。

2022年11月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (991) 「類来・小辰丑」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

類来(るいらい)

ru-e-ran-i?
路・そこで・降りる・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
弟子屈プイラクニ標茶ヌッパシュナイの境界となる山の頂上付近にある三等三角点の名前です(標高 172.6 m)。

「プイラクニ」と「ヌッパシュナイ」はどちらも先週取り上げた地名ですが、なぜ今頃記事にしたかと言うと……三角点名の整理を怠っていたのが原因です(すいません)。

三角点の南側を「人見無川」が流れていますが、明治時代の地形図ではこの川の位置に「ルエラニ」と描かれていました。ru-e-ran-i で「路・そこで・降りる・ところ」と読めそうですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) によると……

ru-e-ran, -i ルえラン 坂;坂の降り口。[<ru-e-ran-i(路が・そこから・降っている・所)]
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.111 より引用)
ということで、平たく言い換えれば「峠道の入口」と言ったところでしょうか。「類来」は「ルエラニ」の訛った形ではないか……と思われます。

それにしても、「ルエラニ」が何故「人見無川」になっちゃったんでしょうねぇ……。

2022年11月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (990) 「サルボ・ウライヤ・羽留」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

サルボ

sar-pa-pira??
沼地・かみて・崖
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
スズキが製造・販売していた軽自動車」とは異なります。

JR 釧網本線・塘路駅の北に「エオルト沼」という沼があり、北隣には「ポントー」という沼があります。国道 391 号は「ポントー」の北東で右に大きく進行方向を変えますが、右カーブの途中に「サルボ展望台・サルルン展望台駐車場」があります。

駐車場の北には「サルボ展望台」があり、西に少し歩くと「塘路・サルルン展望台」があります。このあたりの地名が「字サルボ」のようです。

「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 サルボ 塘路湖の西端。「サㇽ・ポ」でアイヌ語で小さな湿地の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.682 より引用)

「崖」がつきました

永田地名解 (1891) には、少し違った形で記されていました。

Sara po pira   サラ ポ ピラ   吥坭ノ大崖
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.340 より引用)
どちらも sar-po ですが、永田地名解の「吥坭やちノ大崖」という解は -po がどこかに消えてしまって、代わりに「大崖」の「大」がどこかから出てきたようです。実際には展望台ができるほどの地形なので「大崖」なんでしょうが、元の地名を尊重した解かと言われると、ちょっとびみょうな感じですね。

東西蝦夷山川地理取調図」には「サルフヒラ」という地名が描かれていました。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」にも次のように記されていました。

また左りの方
     サラフビラ
シヤリブのよし。シヤリは蘆荻原の事也。其処の向ふの平と云儀也。左り小山有、右谷地にて蘆荻原。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.484-485 より引用)
いずれも pira のついた形で記録されています。実際に「字サルボ」も崖の上の地名(通称?)のようなので、元々は崖の名前だったと考えたいところです。

「サラフビラ」あるいは「サルフヒラ」はちょっと意味を掴みかねるところがあるので、やはり sar-po-pira で「湿地・小さな・崖」と考えるべきでしょうか。ただ「小さな湿地の崖」というのも妙な感じがするので、sar-pa-pira で「湿地・かみて・崖」あたりでしょうか。これでもまだ違和感が残りますが、sar-pa-pira の間に -oma あたりがあったのが抜け落ちた、とかでしょうか……?

サルルントー

「塘路・サルルン展望台」の南にある「サルルントー」は、sar-or-un-to で「湿地・の中・にある・沼」あたりかなぁ、と思われます。

ウライヤ

urayya?
袋網
(? = 記録あり、類型未確認)
ウマイヤ朝」とは異なります。

JR 釧網本線・塘路駅のすぐ北、塘路湖の湖口のあたりの地名です。地理院地図では見当たらないように思えますが、実は現役バリバリの住所で、郵便番号(〒088-2262)の設定もあります。

狭小住所だからか、古い地図では存在を確認できませんが、「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 ウライヤ 塘路湖の沼尻のところ。ウライヤはアイヌ語で簗網のこと。この地の人々が簗網で鮭漁をしたところ。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.682 より引用)
アイヌ語方言辞典」(1964) にも(旭川方言として)'uráyya で「袋網」とあるので、この解釈で良さそうな感じですね。ただ ya は「」とも解釈できそうですし、「袋網」だとしても他所で見た記憶が無いので、? を一つ残しておきます。

羽留(ぱる)

par???
口(湖口)
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
JR 釧網本線・塘路駅の東の塘路湖畔に「塘路湖エコミュージアムセンター『あるこっと』」という施設があり、その隣に「元村ハウスぱる」というカヌーステーションがありますが、これらの施設の敷地内に「羽留」という四等三角点(標高 10.0 m)があります。

この三角点が選点されたのは 1992(平成 4)年ですが、当時既に「元村ハウス『ぱる』」が存在していたとのこと。となるとこの三角点の名前も「ぱる」に由来する可能性が高くなるのですが、何故か三角点名は漢字で「羽留」なんですよね。

考えられる可能性は二つで、①三角点の名前をひらがなにするのを避けたかったので「羽留」という漢字表記を考案した、②昔、このあたりを「パル」と呼んでいて、「羽留」という漢字表記も考案されていた、のどちらかかなぁ、と。

仮に「②」であれば……という重大な前提条件がつきますが、par であれば「」を意味するので、この場所であれば「塘路湖の湖口」を意味していた可能性が高くなります。見事なまでに傍証が無いので、想像でしか無いのですが……。

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2022年11月25日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (27) 「お笑い系のクマちゃん」

R = 100 の左カーブが近づいてきました。警告標識の下の「曲線半径 100 m」のプレートがびみょうに傾いていますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。

2021 年 9 月時点のストリートビューでは、プレートがそっぽを向いてずれ落ちていました。

青地に赤い矢印

今度は頭上に「注意 急カーブあり」という看板が見えてきました。青地に赤い矢印というのは珍しい組み合わせですが、イマイチ切迫感に欠けるような気も……。

2022年11月24日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (26) 「鈴鹿の S 字は R = 70」

三笠市のカントリーサインが見えてきました。トンネルの途中から三笠市に入るので、手前に配置されています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

トンネルの入口は、まるで戦国武将の兜のような「飾り」がついています。上に積もった雪が路上に落ちないようにする仕掛けだと思いますが、謎にスタイリッシュですよね……。

2022年11月23日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (141) 久保田(秋田市) (1878/7/25)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十四信」(初版では「第二十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

海草による象徴

なんか、いつまで経っても久保田(秋田)を出発しそうにない印象が強くなってきましたが……

 とうとう天候回復の兆候が見えてきたので、明日は出発しようと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
あ、ようやく出発しそうですね。とは言っても出発は「明日」の話のようなので、今日一日は休養日に充てるということでしょうか。

ちょうどこの文を書いたとき伊藤がやってきて、隣の家の人が私の担架式ベッドと蚊帳を見たいと言う。そして例の如く海草(熨斗こんぶ)をつけた菓子を一箱送ってきてあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
「海草をつけた菓子」というのはちょっと謎な感じもしますが、原文では cakes with the usual bit of seaweed attached とのこと。「熨斗のしこんぶ」というもの自体に馴染みが無いので途方に暮れているところですが、「熨斗鮑のしあわびの代用にする昆布」とのこと。……あ、「熨斗昆布」は「熨斗」の本来の形だったんですね。あくまで贈り物の主体は「菓子」で、「熨斗代わりの昆布」がつけられていた……と。

海草は贈り物のしるしである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
やっと、この謎の文章の意味も理解できました。熨斗代わりの昆布がついた(=贈答用)箱に入ったお菓子をもらった、ということですね。

イザベラは「日本人は漁業民族の子孫であると信じている」として、次のように続けています。

彼らはそれを誇りとし、恵比須という漁師の神は、家の内に祀る神のうちでもっとも人気のある神の一人である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
「えびす」は「商売の神様」という印象があるのですが、元々は「漁業の神」だったとのこと(そう言われてみれば釣り竿を持ってましたよね)。そしてイザベラはどうやって「恵比須」に関する知識を手に入れたのでしょう……。端的に言えば誰かに聞いたということなんでしょうけど、当時の知識人にとっては常識の範囲だったんでしょうか。

ふつうの人に贈り物をするときには海草を一片つけてやり、天子ミカドへの献上品には乾かした魚の薄皮(熨斗飽)をつけるというのは、この民族の起原を示すもので、同時に素朴な勤勉の尊厳を象徴している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
イザベラは「熨斗昆布のしこんぶ」が「熨斗鮑のしあわび」の簡略型だということも把握していた、ということですよね……(すげぇ)。

午後の訪問者

本筋に戻りますが、イザベラが隣家の人から「のし付き」の「お菓子」をもらったのは、イザベラの「担架式(携帯用?)ベッド」と「蚊帳」を見たいという、ミーハー根性(死語?)丸出しの依頼と抱合せでした。

各地で「見世物」扱いされることには辟易していた筈のイザベラですが、意外なことに今回の「訪問者」については OK を出しています。少人数の礼儀正しい客であれば、イザベラにとってもプラスになるという判断でしょうか。

温度は八四度もあるのに、五人の男と二人の少年、五人の女が、私の小さくて天井の低い部屋に入ってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
華氏 84 度は摂氏 28.9 度なのでそれほど暑くないように思ってしまいますが、7 月末なので湿度も相当高かったことが想像できます。「小さくて天井の低い部屋」とありますが、風通しはどうだったんでしょう……?

三度平身低頭してから畳の上に坐った。明らかに彼らは、午後をこの部屋で過ごそうと思ってやってきたのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
「午後をこの部屋で過ごそうと思って」の意図を取りかねたのですが、ベッドと蚊帳を見学するだけなら一瞬で済むので、おそらくそれだけではない……という意味なんでしょうね。

イザベラは訪問客に「いつも通りの礼儀作法」で振る舞うように伝えていて、訪問客はイザベラの前で煙草を吸ったりしたようですが、やはりどうしても場の雰囲気は改まったものだったようで……。

彼らは、このような「尊敬すべきオナラブル」御旅行の方に会うことができて感謝する、と言った。私はまた御国を多く見ることができたことを感謝した。そして私たちはみな深々と頭を下げた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
まぁ、でも昔は親戚同士でもこんな感じで挨拶することもあったような気がするので、めちゃくちゃガッチガチということでも無さそうでしょうか。ほぼ初対面同士の挨拶であれば、こんな感じで進むのも割と普通だったのかも……?

イザベラはイザベラなりに、訪問客の興味を惹きそうなコレクションを紹介したものの……

次に私はブラントンの地図を床の上にひろげ、私の旅行のコースを示した。彼らに『アジア協会誌』を見せて、上から下へではなく、左から右へ読むのだと説明した。私の編み物や上等の毛糸編みを見せると、彼らはそれに驚嘆した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
残念なことに、持ちネタは程なく尽きてしまいます。

ほかに私は何もすることがなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
ただ、どうやら訪問客は「イザベラ・コレクション」の鑑賞が主目的では無かったようで……

すると彼らは私をもてなそうとした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
「お、おう」という展開に。

神童

どうやら訪問者の真の目的はイザベラに「神童」を紹介することだった……とのこと。

彼は四歳の少年で、頭は上に二房だけ髪を残し他はすべて剃ってあり、異常な思考力と沈着さをうかがわせる顔をしており、年配の人のように堂々と落ちついていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
あー。昔にもこんな「神童」がいたのですね。今風の言い方をすれば「ギフテッド」なのかもしれませんが、別の言い方をすれば「非定型発達」ですよね。着物袴姿で片手に扇子というのは、悪い冗談か、コントのようにすら思えてしまいますが……。

もし彼に子どものような話をしたり、おもちゃを見せたり、嬉しがらせようとしたら、それは侮辱であろう。彼が読み書きや歌をつくるのは、自学自習による。彼は一度も遊ぶことはなく、ちょうど大人と同じように何事も分かるのだ、と父親は語った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
仮に彼の神童ぶりが周りの大人による「演出」だとしても、四歳の子供に読み書きを教えたり歌を詠めるように訓練するのは容易ではないので、少なくとも世間平均の子供よりは聡明だった……ということでしょうか。

私がこの少年に何か書いてくれと頼んでもらいたがっている様子だったので、私はその通り頼んでみた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
どうしても「仕込み」っぽい雰囲気が(個人的には)拭えませんが、イザベラは素直に話に乗ってくれたようです。

書道の神業

「ベッドと蚊帳の見学会」は、何故か「神童による書道パフォーマンス」に早変わりしてしまい……

 それはおごそかに行なわれた。赤い毛布が床の中央に敷かれ、その上に漆塗りの硯箱が置かれた。少年は硯の水で墨をすり、五フィートの長さの巻紙を四本開き、その上に九インチの長さの漢字で書いた。きわめて複雑な文字であったが、筆の走りもしっかりとして優美であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
イザベラの目には、天才少年の書はとてもしっかりしたものに見えたようです。

ジョットー(イタリアの画家)が円形を描くときのあのすらすらと的確な筆捌きがあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
この「ジョットー」は Giotto di Bondone のことのようですね。原文には with the ease and certainty of Giotto in turning his O. とあり「『O.』って何?」となったのですが、円形のこと……ですか。

彼は署名して朱肉の印を押し、三度お辞儀をして、書く仕事は終わった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
このあたり、まるで書家のような「パフォーマンス」ですね。

子ども崇拝

イザベラは「書く仕事は終わった」と書いていますが、実は原文を見ると the performance was ended. となっています。この「書く仕事」は高梨健吉さんによる「不実な美女」だったようですが、実際にこの「神童」は「書く仕事」をしていたようで……

人々は彼に掛物カケモノや看板を書かせる。その日も十円〈約二ポンド〉謝礼をもらったという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
「神童」の「書道パフォーマンス」は既にマネタイズ済みだった、ということのようです。

父親は彼を京都キョートまで連れて行って、十四歳未満の子どもで彼ほどうまく書道のできるものがいるかどうか調べたい、と言った。私はこれほど大袈裟な子ども崇拝の例を見たことがない。父も母も、友人も召使いも、彼を王侯貴族のように待遇している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
なんと言いますか……、現代の日本でも「親バカ」と呼ばれるスタイルがありますが、明治 11 年の時点でもこんなに本格的な「親バカ」がいた、という貴重な記録……なのでしょうか(汗)。これが詐術まがいの「仕込み」なのであれば悲劇と言うしかありませんが、果たして真相は……?

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2022年11月22日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (25) 「何故に『代々木』……?」

新旧「白銀橋」を一望できる駐車場を後にして、再び国道 452 号を北に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「車両転回所」の文字が見えますが、ここを右折すると「白銀橋」です。何の案内も出ていませんが、「白銀橋」自体が 2 車線未満の狭隘な橋ですし、橋を渡ったところで林道しかなさそうな感じなので、これで良いのかもしれません(ストリートビューによると、2018 年 5 月時点で「→夕張岳」という案内が追加されているようです)。

2022年11月21日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (24) 「白銀橋」

シューパロトンネルの出口にやってきました。トンネル出口の先はいきなり橋梁になっているので(明石橋)、冬場はかなりスリルがありそうな……(路面凍結のおそれが)。

「明石橋」と「千年橋」

「明石橋」を渡った先の右側には車が数台だけ入れそうな駐停車スポット(駐車場)があります(そういえば旧シューパロトンネルの北東側にも同じような場所がありましたっけ)。せっかくなので立ち寄ろうかと思ったのですが、既に先客がいらっしゃるようですね……。

2022年11月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (989) 「ヌッパシュナイ・コムケップ川・ポンキンマンタワ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヌッパシュナイ

nup-pas-oma-nay??
野・炭・そこにある・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
標茶町磯分内の西北西を流れる「人見無川」周辺の地名(住所)で、町境にある四等三角点「風靡」の東隣は弟子屈町ヌプパシュナイです。どちらも郵便番号の設定はありませんが、「運輸局住所コード」の設定があります。

標茶町の「字ヌッパシュナイ」と弟子屈町の「ヌプパシュナイ」はほぼ隣接しているので、元はこのあたり一帯が「ヌパシュナイ」と呼ばれていたと思われるのですが、不思議なことに明治時代の地形図には「ルエラニ」とだけ描かれていて、「ヌッパシュナイ」や「人見無川」の由来と思しきものは見当たりません。

この、謎の「ヌッパシュナイ」ですが、「角川──」に記載がありました。

 ぬっぱしゅない ヌッパシュナイ <標茶町>
〔近代〕昭和26年~現在の標茶(しべちゃ)町の行政字名。もとは標茶町大字標茶村の一部。古くはヌッパシュマナイともいった。地名の由来はアイヌ語のヌッパシュナイ(カラスが沢山いる沢の意) によるという。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1116 より引用)
「カラス」は一般的には paskur が使われていますが、念のため「アイヌ語方言辞典」を確かめてみました。それによると樺太で etuhkapaskunchikah、千島で pasukuru とある以外は、見事に全て páskur でした。

そこにカラスは居たか

「ヌッパシュナイ」は「カラスが沢山いる沢」だと言うのですが、「ヌッパシュナイ」の中に paskur が含まれると考えるのはちょっと難しいので、paskur(カラス)が pas と略された……ということでしょうか。paskurpas-kur で「消炭・姿」と分解できそうな気もするのですが、pas はあくまで「木の燃えカス(炭)」でしか無いというのが難点ですが……。

ここで「カラス」の一種として nup-paskur のような言い回しでもあれば一発逆転(?)の可能性もあるのですが、知里さんの「動物編」を見た限りでは、そのような言い回しは見当たりません。

となると paskur(カラス)の線を一旦捨てて pas(炭)と考えるべきでしょうか。その場合は nup-pas-nay で「野・炭・川」あるいは nup-pas-oma-nay で「野・炭・そこにある・川」となるでしょうか。「泥炭のある川」と考えることができそうです。

もっと単純に nup-pa-us-nay で「野・かみ・ついている・川」と考えることもできそうですが、これだと「ヌッパシュマナイ」と読むのが難しそうなので、ちょっと無理がありそうでしょうか。

2022年11月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (988) 「プイラクニ・奔丹達」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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プイラクニ

nikuri-apa??
林・戸口
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
弟子屈町南部、南弟子屈駅(跡)の南の釧路川西岸の地名(住所)です。郵便番号の設定はありませんが、運輸局住所コードには「プイラクニ」と「プライクニ」の設定があります(地理院地図では「弟子屈町字熊牛原野」)。

明治時代の地形図には「プイラクニ」という川が描かれていました。地理院地図では「町営牧場」と記されているあたりを流れ、最終的には標茶町の「人見無川」に合流する「左俣川」のことだと思われるのですが、「プイラクニ」は「人見無川」ではなく直接「釧路川」に注ぐように描かれているという大きな違いがあります。

「南弟子屈橋」と「左俣川」の間には非常に緩やかな分水嶺があり、その存在に気づかなかったのかもしれません。「南弟子屈橋」の南で釧路川に合流する支流が「プイラクニ」と認識されていた可能性も出てきます。

謎の「プイラクニ」

「プイラクニ」を素直に解釈すると……「プイラ」は puyra で「激湍」でしょうか。ただ、このあたりの釧路川は幅広の谷の中を蛇行するような状態なので、果たして puyra があったかと言うと疑わしく思えてきます。

puy で「穴」という可能性はどうでしょうか。puy-rake-un-i で「穴・低い所・ある・ところ」とすれば一応筋は通りそうな気もします。伏流した川がところどころで穴を開けていた、あたりの可能性が考えられるでしょうか。

puy には「穴」以外にも「エゾノリュウキンカの根」という意味もあります(地名に出てくる puy は寧ろこの解釈のほうが多いような)。puy-rak-ni で「エゾノリュウキンカの根・っぽい・木」と解釈できたりしないか……と考えてみたのですが、これは流石に無理がありますかね。

もしかして「ニクライプ」では?

最後に……実はこれが本命じゃないかと思っているのですが……「プイラクニ」が禁断の左右逆転地名だとしたらどうでしょう。「ニクライプ」であれば nikuri-apa で「林・戸口」と読めるかもしれない……と。

前述の通り、「南弟子屈橋」と「左俣川」の間には非常に緩やかな分水嶺があります。鞍部の東西には丘が広がっていて、釧路川から見ると東側(手前側)の丘が上流側の眺望を遮る衝立のようになっていた……んじゃないかと思うのですね。

下流から上流部(あるいはその逆)を見渡すのを遮る地形がある場合に、それを apaで「戸」あるいは「戸口」「入口」と呼ぶケースがちょくちょくあると思っています。たとえば道北の中川郡中川町を流れる「安平志内あべしない川」も apa-us-nay で「戸口・ついている・川」じゃないかなぁ、と……。

奔丹達(ぽんたんだつ)

pon-nitat???
小さな・湿地
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
弟子屈町南部、国道 391 号と「コムケップ川」の間の山地にある二等三角点の名前です(標高 159.5 m)。「奔丹達」には「ぽんたんだつ」とルビが振られていますが、本当にそうなのかな……と疑いたくなりますよね。

「丹」は「に」と読む場合もあるので(「丹羽にわ氏」なんかそうですよね)、その場合「奔丹達」は「ぽんにたつ」となり、pon-nitat で「小さな・湿地」ある可能性が出てきます。

陸軍図を眺めてみると、鉄道の西側にちょうどお誂え向きのサイズの湿地が描かれています。また戊午日誌「東部久須利誌」には「アタツヘツ」という地名が記録されているのですが、残念ながら今回はここで手詰まりのようです。

1917 年(大正六年)に選点された際に「奔丹達」と命名され、その後「読み方不明」ということで慌ててそれらしいルビを振ったのではないかと思われるのですが……。

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2022年11月18日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (23) 「消えたバス停」

国道 452 号でシューパロダム方面に向かいます。このゲートは清水沢と東にある遠幌えんほろの間にあるのですが、このゲートが閉じられたら東西の行き来が事実上不可能になるのでは……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

消えたバス停

「遠幌」のバス停と信号が見えてきました。このあたりに「三菱石炭鉱業大夕張鉄道線」の「遠幌駅」があった筈で、バス停はその代替として設置されたのかな……と思ったのですが……

2022年11月17日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (22) 「沼ノ沢駅前」

国道 452 号を北西に向かい、沼ノ沢にやってきました。
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信号機には「沼ノ沢駅前」というプレートが取り付けられていましたが……

2022年11月16日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (21) 「複線化!?」

夕張 IC で流出して、右折して国道 274 号に入ります。「石炭の歴史村」「マウントレースイ」などへは軒並み 16~18 km ほどの距離が示されていますが、思ったよりも近いですよね()。
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曰くありげな空白

夕張 IC のあたりでは川沿いの崖を避けるために東岸に避難していた国道 274 号ですが、この先の「瑞穂橋」を渡って西岸に戻ります。

2022年11月15日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (20) 「土手の上には何がある?」

道東道の「夕張トンネル」を抜けて帯広・釧路方面に向かいます。トンネルの長さは 290 m で、入口から出口が見えています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

将来的にこの区間が完成 4 車線になる際には、左側に帯広・釧路方面に向かう車線が追加されることになるのですが、左側の法面はどうするんでしょうね。フェンスの上を通すのでしょうか……?

2022年11月14日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (19) 「通過車は 一旦乗り降りしないで!」

栗山町に入りました。由仁町も栗山町も JR 室蘭本線沿いの町……という印象があるのですが、別の見方をすれば「夕張川の西側が由仁町、東側が栗山町」なので、夕張川の「川端ダム」の半分は栗山町ですし、国道 274 号も JR 石勝線も栗山町を通っているんですよね(駅や IC はありませんが)。
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「通過車は 一旦乗り降りしないで!」

JR 石勝線(元を辿れば「夕張線」ですね)が川沿いを大きく迂回する中、最も後にできた道東道は夕張山地の尾根をオープンカットしてショートカットしています。「動物注意」の看板のほかに、跨道橋にも横断幕が張られていますが……

2022年11月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (987) 「アトシナイ川・熊牛・岩瀬川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

アトシナイ川

at-us-nay?
オヒョウニレの樹皮・ある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
弟子屈町南部、サンペコタンの北を流れる川で、釧路川の西支流です。地理院地図には川として描かれていますが、川名の記入はありません。「東西蝦夷山川地理取調図」にもそれらしき川は見当たりません。

戊午日誌「東部久須利誌」に次のような記載を見かけたのですが……

また七八丁も上り向ふ岸に
     エトシナイ
     ヱハシユマイ
等川の西岸に有るよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.429 より引用)
この「エトシナイ」が「アトシナイ川」のことである可能性もありそうですが、前後の記録を「午手控」や「東西蝦夷山川地理取調図」と照らし合わせても矛盾する点が散見されるため、若干の疑問も残ります。

明治時代の地形図にも、それらしい川が描かれているのですが、これは「?タ?シナイ」と描かれているようにも見えます(最初の文字は「ア」のように見えますが、何か違和感もあるんですよね)。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には、次のように記されていました。

アレシナイ
 釧網本線南弟子屈駅の北2.5キロ付近で西側から釧路川に流入している。
 アッ・ウㇱ・ナィ(at-us-nay オヒョニレ(樹皮)・多くある・川)の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.311 より引用)
at-us-nay で「オヒョウニレの樹皮・ある・川」とのことですが、まぁ、素直に読むとそうなりますよね。at-kar-us-nay で「オヒョウニレの樹皮・剥ぐ・いつもする・川」となるケースが多い印象がありますが、kar- が抜け落ちて at-us-nay となったと見受けられるケースもあるので、あり得ない形では無さそうでしょうか。

ただ、北隣を「ヌプパクシャイ川」が流れていることもあるので、もしかしたら ar-kus-nay で「もう一方の・横切る・川」とかだったりしないかな……と思ったりも。

2022年11月12日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (986) 「オシャマンナイ川・知多伏」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オシャマンナイ川

e-samam-ru-un-nay?
頭(水源)・横になっている・路・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 釧網本線の摩周駅(かつての弟子屈駅)の 1 km ほど南東で釧路川に合流する東支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たりませんが、明治時代の地形図には「イサマヌンナイ」と描かれていました。

カワウソがいる川?

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

其向に
     イシヤマニウンナイ
東岸テシカヾ人家の後ろに当りて小川有と。イシヤニはエシヤマニの訛り、是かわうその夷言也。ウンはウシの詰言かと思わる。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.435-436 より引用)
esamani-un-nay で「カワウソ・いる・川」と考えたのですね。この考え方は永田地名解にも継承されていました。

Isamanun nai  イサマヌン ナイ  獺川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.343 より引用)

どうやら「エシヤマルンナイ」らしい

ということで、カワウソに思いを馳せつつ戊午日誌に目を通していたところ、「東部摩之宇誌」にちょっと気になる記述が見つかりました。摩周湖をグルっと回った際の記録らしいのですが……

此上の処同じく周り行に、またしばし過て
     エシヤマルンナイラフシ
是エシャマルンナイえ山越道也。エシャマルンナイはテシカヾ川の上の小沢也。是え此処より沢まヽ下る時は、雪の節一日にてテシカヾ(え)出ると聞けり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.374 より引用)
「テシカヾ川」というのが少々意味不明ですが、とりあえずスルーして……(汗)。この「エシヤマルンナイラフシ」から「沢まヽ下る」と約一日で弟子屈に行ける……と読めます。「ラフシ」は、「地名アイヌ語小辞典」によると……

ráp-us-i らプシ 降り道のある所。[人々が降り・つけている・所]
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.105 より引用)
ということなので、「エシヤマルンナイラフシ」であれば「エシヤマルンナイ」川筋に降りるところ、ということになりますね。

随分と回りくどい書き方になっていますが、要は「摩周湖の外輪山から弟子屈に向かって『エシヤマルンナイ』という川が流れていた」ということになります。この「エシヤマルンナイ」が「イシヤマニウンナイ」になり、挙句の果てには「オシャマンナイ川」になってしまったのでは……と思われるのです。

「イシヤマニウンナイ」であれば esamani-un-nay で「カワウソ・いる・川」と読めますが、「──ルンナイ」であれば -ru-un-nay で「・路・そこにある・川」と読みたくなります(実際に川沿いが弟子屈に向かう路だったと見られるので)。

「坪の沢川」か「松尾川」か

そしていつものように、ここで大きな問題点にぶち当たります。現在の「オシャマンナイ川」を遡ったところで、名称不明の山(「知多伏」三角点が存在する)が存在するため、どう転んでも摩周湖には辿り着けないのですね。

摩周湖の外輪山から弟子屈に向かう川としては、「オシャマンナイ川」の西隣を流れる「坪の沢川」か、「オシャマンナイ川」の南東を流れる「仁多川」の支流である「松尾川」の可能性が考えられます。ただ、「東部摩之宇誌」には「イタトロマブラブシ」という地名が記録されていて、これが「松尾川」に降りるポイントだと考えられるのですね。

もっとも、この比定にも大きな問題があって、「東部摩之宇誌」では「イタトロマブラブシ」が「エシヤマルンナイラフシ」よりも *北* の地名として記録されています。摩周湖の外輪山から弟子屈の市街地に向かう川筋は「エシヤマルンナイ」と「イタトロマブ」(=「ニタトロマフ」、即ち「仁多川」と考えられる)しか無いわけで、これは「東部摩之宇誌」が南北を間違えて記録したと考えるしか無いのですが……。

ということで「エシヤマルンナイ」は現在「坪の沢川」と呼ばれる川のことと考えられるのですが、この川は「知多伏」三角点が存在する無名峰の北麓を流れています。この無名峰自体が samatke-nupuri(横たわっている・山)と呼べそうな形なのですが、その北麓を流れるということは e-samam-ru-un-nay で「頭(水源)・横になっている・路・そこにある・川」と考えられるかな……と。

2022年11月11日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (18) 「由仁 PA のドッグラン」

由仁町に入りました。由仁 PA の手前の跨道橋には「事故多発」「由仁 PA でひと休み」の横断幕が見えます。何がなんでも休憩させてやろうという強烈な圧を感じますよね……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

由仁 PA の入口ランプウェイが見えてきました。「道東道 最後の給油所」の文字が光っていますね(日光を反射してるだけでは)。

2022年11月10日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (17) 「追分『町』IC」

道東道の「追分町 IC」にやってきました。IC の直前に市町界があり、ここからは勇払郡安平町です。
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安平町のカントリーサインは「競走馬」と「雪だるま」をモチーフにしたものでしょうか。「雪だるまゆうパック」という商品がある……というところまでは何となく認識していたのですが、今では郵便局の名前も「早来はやきた雪だるま郵便局」で、しかも雪だるま型の郵便ポストもあるのだとか。

2022年11月9日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (16) 「丸ゴシックの緑看板」

「千歳東 IC」から道東道に入ります。あ、また別のジェット旅客機が見えていますね。
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→帯広

千歳東 IC は「道央圏連絡道路」の中央 IC と同じく「平面 Y 型」のレイアウトのため、流出車線と流入車線が平面交叉する構造です。安全性の面では難のある構造ですが、明らかに建設コストや維持コストが安そうなんですよね。

2022年11月8日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (16) 「道央圏連絡道路・終点(暫定)」

めでたく(?)暫定 2 車線になった国道 337 号「道央圏連絡道路」ですが、再び中央分離帯(ガードレール)が復活すると……
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間もなく「祝梅しゅくばいランプ」です。

2022年11月7日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (15) 「道央圏連絡道路・起点」

千歳市に入りました。カントリーサインはやはりと言うべきか、ジャンボジェットなんですね。下に見えているのは……何でしょう……?
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赤信号に引っかかってしまったので周囲を見渡したところ、「美々駅まで 0.5 km」の案内板が。最近では見かけることの少ない、白地に青文字の看板です。

2022年11月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (985) 「オテシカウシナイ沢川・ソーウスベツ沢川・アカンヨマベツ川・様串別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オテシカウシナイ沢川

o-teska-us-nay
河口・ヤナ状の岩盤・ある・川
(典拠あり、類型あり)
弟子屈の市街地から鐺別川を西に遡ると「シケレベンベツ川」という南支流があり、シケレベンベツ川の北西に「志計礼辺山」という山があります。「オテシカウシナイ沢川」は「志計礼辺山」の北西を流れて鐺別川に合流する南支流です。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲシカウシナイ」という名前の川が描かれていました。また戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

 またしばしにて
 ヲ(チ)シカウシナイ、左り小川。此辺川中小石のみにして水勢チヤラチヤラと流れ落るよし。よつて号るとかや。早くもと(云う)時はチヤラセナイと云儀也。此処の上にて川三股になるよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.432 より引用)※ 原文ママ
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。

オ・テㇱカ・ウㇱ・ナィ(o-teska-us-nay 川尻に・岩盤・ついている・川」の意である。岩盤はこの沢にはなく、本流に岩盤がつきそこが川尻なのであった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.323 より引用)※ 原文ママ
どうやら素直に o-teska-us-nay で「河口・ヤナ状の岩盤・ある・川」と見て良さそうですね。

2022年11月5日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (984) 「ピラポロナイ川・ラビモクコネ川・ヘチオナマイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ピラポロナイ川

pira-oro-nay
崖・の所・川
(典拠あり、類型あり)
弟子屈の市街地の後背に、巨大なアンテナがいくつも並ぶ「美羅尾山」という山がありますが、「ピラポロナイ川」は美羅尾山の東麓から釧路川に注いでいる……とされます。

明治時代の地形図にも「ピラオロナイ」という川が描かれているのですが、釧路川に合流している位置を考えると、現在「ラビモクコネ川」とされている川の位置に「ピラオロナイ」と描かれているようにも見えます。

「東西蝦夷山川地理取調図」には釧路川の西岸に「ヒラヲロナイ」という川が描かれています。ややこしいことに「ヒラヲロナイ」の少し下流側の *東岸* にも「ヒラヲロ」という川?(地名かも)が描かれているのですが、戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

また山の上しばし小笹原を行に槲柏原、是山ヒラヲロノホリと云。其下また
     ヒラヲロ
西岸小山の下赤兀崩平也。此辺川屈曲して甚し。また川東岸は平地木立(原?)にして、処々谷地多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.436 より引用)
ここでは「西岸小山」とあるので、やはり釧路川西岸に「ヒラヲロナイ」があったと見て良さそうでしょうか。下流側東岸の「ヒラヲロ」は何かの間違いの可能性もありそうです。

永田地名解には次のように記されていました。

Pira oro   ピラ オロ   崖處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.344 より引用)
川名は「ピラポロナイ」なので、pira-oro-nay で「崖・の所・川」と考えられそうです。これは「美羅尾山」と同じく、美羅尾山の東麓が釧路川のところまでせり出して崖になっていることに由来するのでしょうね。

ラビモクコネ川

chep-un-pira???
魚・入る・崖
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
「美羅尾山」と南南西にある「黃葉山」の間あたりから、美羅尾山の南麓を東に流れて釧路川に注ぐ川です。地理院地図にも川として描かれていますが、残念ながら川名の記入はありません。

明治時代の地形図には、現在の「ラビモクコネ川」の位置に「ピラオロナイ」が描かれていました(前述)。

現在の「ピラロナイ川」の川名が少し南を流れていた「ピラロナイ」から拝借したものなのであれば、「ラビモクコネ川」も少し南の川名(または地名)を拝借したものである可能性が出てきます。ということで改めて明治時代の地形図を眺めてみたところ……こっ、これは……!

弟子屈町の市街地のど真ん中を流れる釧路川は大規模に流路の改修が行われていますが、かつてはひどく蛇行した川でした。国道 241 号の「摩周大橋」の南東に「水郷公園」という公園があるのですが、この公園の池?も河跡湖のようにも見えます。

明治時代の地形図には、現在の「水郷公園」のあたりに *右から* 「チエプウピラ」と描かれていました。chep-un-pira で「魚・入る・崖」だと読めるのですが、これをうっかり左から読んだとすると「ラピンウプエチ」となります。

「ラビモクコネ」との違いは依然として大きいですが、「ン」の字が比較的不明瞭ということもあるので、「ラピウプエチ」が誤読に誤読を重ねて「ラビモクコネ」になった可能性が高いのではないか、と思うのですが……。

2022年11月4日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (14) 「エゾシカの横断歩道」

国道 36 号で千歳方面に向かいます。日高に向かう国道 235 号とはここでお別れです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

4 つある!?

日高自動車道の高架の下を通過します。それはそうと、この信号機、やはり違和感がありますよね……。

2022年11月3日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (140) 久保田(秋田市) (1878/7/24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十三信」(初版では「第二十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

経済的な旅行

イザベラの通訳にして、極めて優秀なアシスタントでもある伊藤の話題が続きます。

 当然ながら彼は大都会が好きで、私が好きな「未踏の地」を選ぼうとするのを避けさせようとする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
まぁ、横浜での近代的な暮らしと比べると、東北旅行は苦痛を伴うものだったことは容易に想像がつきます。「未踏の地」はカギカッコつきですが、原文では "unbeaten tracks" となっていました。つまり「日本奥地紀行」の原題である "Unbeaten Tracks in Japan" を意識した表現ということになりますね。

しかし、私の決意が動かないと知ると、議論の最後に、いつも同じ文句を言う。「もちろん、あなたのお好きなように。どうせ私にとっては同じことです」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
伊藤にしてみればイザベラは「雇用主」なので、どう考えても勝ち目はないと思われるのですが、それでも果敢にイザベラを説得しようとするあたりに若さが感じられますね。そしてあっさり玉砕して拗ねるあたりも可愛げがあると言えそうでしょうか。

私は彼が少しでも私を欺すとは思わない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
ん……? イザベラは以前に「伊藤が上前をはねているのは間違いない」と断言していましたが、これは一体……? 原文では I do not think he cheats me to any extent. とあるので、高梨さんの訳の通りですよね。この後に支払いの話が続くのでお金の話だと思ったのですが、もしかして:ミスリーディング?

食事、宿泊、旅行の費用は二人で一日に約六シリング六ペンスである。滞留するときは約二シリング六ペンスである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
イギリスの補助通貨である「シリング」は 1971 年に廃止されたそうですが、1 ポンド=20 シリング=240 ペンスとのことなので、6 シリング 6 ペンスは 0.3 ポンド + 0.025 ポンド = 0.325 ポンドですね。現在のレートでは約 54.62 円らしいですが、当時の物価を考えると明らかに高すぎる気がするので、ちょっと参考にならないですね。

イザベラは「経済的な旅行」の具体例を次のように記しています。

なんと食事と宿泊は、茶、米飯、卵、水を入れた銅たらい行灯アンドン、家具のない部屋だけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
食事が *ささやか* なのはさておき、部屋に行灯だけというのは現代の旅館でもあり得ない話では無いような気も……(まぁテレビと座卓はありそうな気もしますが)。

イザベラは事あるごとに「肉不足」を訴えていますが、これは当時の日本において「畜産」が根付いていなかった……と見るべきでしょうか(「肉食」に対する忌避感もあったでしょうが)。

どの村にも鶏はたくさんいるが、それを殺すというと、人々はいくらお金を出しても売ってくれない。しかし卵を生ませるために飼うのであれば、喜んで売ってくれるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265-266 より引用)
これも興味深いエピソードですね。「屠殺に対する抵抗感」のあらわれなんでしょうか。あるいは「昔の人はものを大事にする」の典型だったんでしょうか……?

伊藤は毎晩のように、私のために肉食品を手に入れようとして失敗した話をしては私を楽しませてくれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266 より引用)
道中の出来事を見る限り、イザベラの「肉不足」は健康を脅かすレベルにすら思えるので、伊藤も全力で肉の調達に勤しんでいたことが窺えますね。気になるのは伊藤が「卵を生ませるため」と偽って鶏を入手していたかどうかですが……。

またも日本の駄馬

伊藤の話をしていた筈が、話題はいつの間にかイザベラの「ぼやき節」に移り……

 今度の旅行は、今までのうちで最も「横木に載せて運ばれる」(一種の私刑)のに近いものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266 より引用)
「横木に載せて運ばれる」は、原文では "a ride on a rail" となっていました。Wikipedia に "Riding a rail" という項目があり、あらましを知ることができます。

イザベラは、ここまで 76 頭の馬に「乗った」と言うより「腰を下ろしてきた」として、それらの馬の特徴を次のように記していました。

その馬は、みな蹟く。腰部の方が肩部よりも高い馬がいる。だから、乗っている人は前の方にずれてゆく。しかも背骨が隆起している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266 より引用)
「駄馬」ということは荷役用の馬なので、どうしても後ろ足を中心に筋肉がついたり骨格が強化されたりするのでしょうか……?

後脚は、先端が細くなって、まくれ上がり、子馬のときから重い荷物を運ぶので、後脚がすべて外側に向いている。同じ原因で、足つきもよろよろ歩きだし、しかも馬沓は具合が悪いので、ますます歩きぶりがひどくなる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266 より引用)
あー。成長期から荷物運びをさせられて、やはり骨格に悪い影響を与えているような感じですね。そもそもが人を鞍上に乗せるための馬では無いのでしょうから、イザベラの非難も若干ピント外れのような感もありますが……。

馬小屋で馬の位置は逆で、尾があるべきところで頭が繋がれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266 より引用)
これは……馬が壁に向かって繋がれている、ということでしょうか。

日本のこの地方で用いられる馬は、十五円から三十円の価である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266 より引用)
今の物価で考えると、いくら位なんでしょうね。チラっとググって見かけた昔の「1円」は今のいくら?1円から見る貨幣価値・今昔物語という Web サイトによると、明治 34 年の「1 円」は今の「1,490 円」の価値があるとのこと。

となると当時の「30 円」は現在の「44,700 円」程度ということになりますが、これでも当時の初任給の 3 ヶ月分に相当したのだとか。当時の「15 円から 30 円」という価格帯は……今の「軽トラの届出済未使用車」くらいでしょうか?

イザベラがここまで書いていたことを考えると、当時の駄馬は死ぬまでこき使われていたようにも見えますが、実際には真逆だったようで……

馬に荷物をのせすぎたり、虐待するのを見たことがない。馬は、蹴られることも、打たれることもない。荒々しい声でおどされることもない。馬が死ぬと、りっぱに葬られ、その墓の上に墓石が置かれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266 より引用)
駄馬のお墓があったというのは意外ですね。ばんえい競馬の騎手が馬の頭に蹴りを入れて物議を醸したことがありましたが、当時の駄馬はかなり大切にされていたことが窺えます。当時の駄馬は現代の軽トラだと考えると、色々と合点がいきそうな気もしますね。

疲れきった馬の死期を早めてやった方がよさそうなものだが、ここは主として仏教を信ずる地方であり、動物の生命を奪うことに対する反発は非常に強い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.266-267 より引用)
なるほど、家畜の屠殺に対する嫌悪感も仏教の「不殺生」の教えの影響を受けたものだった可能性もありますね。

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2022年11月2日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (13) 「王子専用」

苫小牧での主たる目的地だった(マジか)「ネピア柄の社員寮」を見終えたので、千歳方面に車を走らせます。右側は王子製紙の貯木場になっていますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

そこには一般庶民に縁のない道路があるとのこと。「王子専用」なので入って確かめる訳にも行かず、直進するしかありません。

2022年11月1日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (12) 「ネ・ピ・ア♪」

「苫小牧市科学センター」の「ミール展示館」を後にして、再び路上に戻ります。
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再び「旭大通」を北上します。右に見える大きな建物は「苫小牧市役所」でしょうか。