2022年12月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (997) 「モアン山・パウシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

モアン山

mo-an-nay??
小さな・もう一方の(あちらの)・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「カンジウシ山」の北北東に位置する標高 356.2 m の山で、頂上付近に四等三角点「藻安山」があります。形が良く、遠くからでも目立つ山ですが、「大文字」ならぬ「牛」の文字で有名……かもしれません(実は仕組みを良くわかっていないのですが、牧草を「牛」の文字の形にカットしている?)。

この「モアン山」も元は川の名前に由来すると思われ、山の東側に「ポンモアン川」と「モアン川」が流れています(標津川の西支流)。「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヘツ」(=標津川)の支流として「モアン」という川が描かれていて、東西が間違っていますが、この間違いは戊午日誌 (1859-1863) 「東部志辺都誌」でも同様です。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Mo an   モ アン   靜ナル川 此支流ニ「ポンモアン」アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.379 より引用)
mo-an で「静か・である」と考えたようですが、「北海道地名誌」(1975) を見てみると……

 モアン川 標津川の右支流。アイヌ語「アン」は鷲捕小屋でそれが「モ」少しある川の意か。標茶町虹別市街の近くに「シアン」(本当の鷲捕小屋あるの意)がある。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.716 より引用)
虹別市街の近くの「シアン」は「シワンベツ川」のことですね。鍋にはあまり興味を示さなかった更科さんですが、鷲には随分とご執心のようです。ただ更科さんの「鷲推し」には傍証もあると言えばあるようで、「東蝦夷日誌」(1863-1867) の標津川の項には次のような記述がありました。

さて其鷲を取るは大切なる事にて、細き流川に一本の木を渡し置、其下に魚類を一尾結付也。鷲下りて横木に留る様に仕懸しかけ、傍に六七尺の處にアンと云一ツの隠れ場を作り、此中え夜の内に入ひそみ居て、鳥來りて其木に留りし處を、アツと云かぎもて足を懸て、アンの裏に引込事也。手練しゆれんならでは、一ツ鷲に羽叩はばたきしらるや、一命をも失ふ事とぞ。鷲また足を懸らるゝや、身動きもせで泰然として動ぜざる事、鯉魚こい魚板まないたに上りし如しと。然共折々仕損じて怪我けがする者有也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.345-346 より引用)
さすが「読み物」としての完成度の高い「蝦夷日誌」だけあって、「鷲捕り」の手順と実際について詳らかに記されています。更科さんは「モアン」の「アン」が「鷲捕り小屋」ではないかと考えた、ということですね。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

モアン川
モアン川(地理院・営林署図)
 養老牛集落の近くにある、さけ・ますふ化場の左側から流入している。
 永田地名解は「モ・アン mo-an 静なる川」と記したが理解しがたい。この川は静かな流れというより、どちらかというと急流であった。あるいはモ・アン・イ(小さい・鷲捕小屋・所(川))」とも解することができる。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.396 より引用)
ということで、鎌田さんは永田説には懐疑的で、更科説(鷲推し)に可能性を感じているようでした。

ここまでの情報からは「静かな川」か「小さな鷲捕り小屋」の二者択一のように見えますが、正直なところ、どちらも今ひとつしっくり来ない感があります。「モアン川」は「標津川」(=si-pet)の支流ですが、案外 mo-an-nay で「小さな・もう一方の(あちらの)・川」あたりの可能性もあるんじゃないかな……と(an-ar- の音韻変化)。

パウシベツ川

pa-us-{si-pet}
頭・ついている・{標津川}
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
標津川の西支流で、モアン川と標津川の間を流れています。上流部に「シタバノボリ川」「シタバノボリノ沢川」などの支流を持つ川です。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ハウシヘツ」という名前の西支流として描かれています。「モアン」(=モアン川)と「ハウシヘツ」の間に「トイチセナイ」という西支流も描かれていますが、これは Google マップに「南宮神社」とあるあたりを流れていた可能性がありそうです。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部志辺都誌」には次のように記されていました。

其よりしばしを過て左りの方
     ハウシベツ
相応の川也。両岸峨々たる高山。其訳は判官様が熊を捕らへられしが山に成りしと云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.633 より引用)
んー、これはちょっと意味が良くわからないですね……。ということで永田地名解 (1891) を見てみると……

Pa ush pet   パ ウㇱュ ペッ   頭川 禿山ノ頭ヨリ水源ヲ發スルヲ以テ此名アリ、此川ノ西ニ温泉アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.379 より引用)
温泉の情報が記されていますが、これは「養老牛温泉」のことですね。現在の「養老牛温泉」は標津川沿いに位置しているように見えますが、どうやら元々はパウシベツ川沿いがメインだった、ということでしょうか。

この温泉について、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) によると……

西の温泉とは現在の養老牛温泉の西側にあるパウシペツ温泉のことである。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.397 より引用)
あっ(汗)。すいません思いっきり間違えてました。そして引用順が前後しますが……

この川の上流には山頂に木のないシタバヌプリ山(営林署図は三角点名余呂牛603.2㍍)がある。永田氏の禿山とはこれをさしているのであろう。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.397 より引用)
おー、見事に繋がりましたね! どうやら永田地名解の言う通りに pa-us-pet で「頭・ついている・川」と見て良さそうに思えてきました。あるいは pa-us-{si-pet} で「頭・ついている・{標津川}」と考えたほうが良いかもしれません。

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