2023年6月30日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (54) 「この先も楽しいドライブを。スピード落とせ」

東藻琴の市街地にやってきました。基本的に道路は殖民区画ベースで、いかにも北海道らしい景観です。ゲートの上には道路情報表示板があって……
ふむふむ。やはりウトロから知床峠の頂上までは行けるものの、その先の羅臼へは行けないということのようですね。なんとなく羅臼側のほうが積雪が多いイメージがあるので、その辺の関係でしょうか。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

北海道東藻琴高等学校

交番の手前には「北海道東藻琴高等学校」への案内板が立っていました。「北海道東藻琴高等学校」は 2021 年に「北海道女満別高等学校」と統合されて「北海道大空高等学校」になったそうですが、この看板はどうなったのでしょう……?

2023年6月29日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (53) 「網走交通東藻琴SS」

大空町東藻琴千草にやってきました。どうやらここが旧・女満別町と旧・東藻琴村の境界っぽいのですが、これは町村界の標識だったのでしょうか。ただ、それだと「東藻琴」になりそうなものですが、この標識は最初から「東藻琴」だったように見えます。
対向車線にも似たような標識がありまして……


こちらも「女満別町」ではなく「女満別」ですね。なぜこうなったのか理由を考えてみましたが、合理的な推論には辿り着けず……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

それはそうと、Y 字分岐を無理やり T 字路に直した交叉点って、なんかいいですよね。

2023年6月28日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (52) 「待合室のような何か」

大空町女満別に戻ってきました。飛行機の後ろには空と芝桜と……あと左下の緑は何でしょうか。
トライアングル型の背景もなにか曰くがあるのかもしれませんが、現代的な、優れたデザインのカントリーサインですね(珍しく真剣に褒めている)。まぁプロが見たら「詰め込みすぎ」とか言われちゃうのかもしれませんが……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりでは、女満別川が美幌町と女満別町大空町の境界です。町境は分水嶺上に引くケースが多いですが、美幌川水系と女満別川水系の間は山と言えるほどの山は無いですし、女満別川を境界にしちゃうのが手っ取り早かったのでしょうね。

2023年6月27日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (51) 「懐かしの ESSO」

国道 39 号を南に向かいます。引き続きクラウンの先導です(たまたま同じ道を走っているだけですが)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

道路情報表示板には「(334)知床峠 頂上駐車場まで通行可能」とあります。これはウトロから知床峠までは通行可能ということでしょうか……?

2023年6月26日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (50) 「モノリス?」

美幌バイパスで美幌町に入りました。カントリーサインはパラグライダーのようで、ツッコミどころの少ない穏健なデザインですね。ところで、パラグライダーでセーリング中の人が全身ピンクなのは何故……?(別にピンクでもいいじゃないか
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

引きのアングルだとこんな感じです。

2023年6月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1049) 「養老散布・火散布・藻散布」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

養老散布(ようろうちりっぷ)

e-woro-chir-o-p?
頭(崖)・水につける・鳥・多くいる・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
渡散布の南西に位置する「ロウソク岩」と「火散布」の間の地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「エヲロチロフ」と描かれています。

「樹皮をうるかす」説

「初航蝦夷日誌」(1850) には「イヲロチロフ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

砂浜まゝ行に
     イヲロチロツフ
此処にもまた小沼の川口有。此上なる沼には榀皮また楡皮等をうるかし置が故に、イヲロの名有るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.551 より引用)
「小沼の川口あり」という記述に「???」となったのですが、地理院地図をよーく見ると確かに沼っぽいものが描かれていますね……(川は描かれていない)。「イヲロ」は e-woro で「それ・うるかす」でしょうか。

「アサリ」をうるかす訳にはいかない

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ioro churup    イオロ チュルプ   海中ノ蜊
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.355 より引用)
またしても……ですが、ちょっと謎な解ですね。ああ、churup は「アサリ」だ……としたので、元々海辺にいるアサリを「うるかす」わけには行かなかった、ということでしょうか。

「山が崖になって水にささっている」説

昨日の「渡散布」の項でも紹介しましたが、更科源蔵さんは永田地名解の churup 説に懐疑的で、次のように記していました。

永田氏はチュルプはのことであると述べている。この地方ではたしかにあさりはチルップ(われらの掘りだすもの)というが、渡散布のワクラ(海中の岩)や養老散布のイオロ(それをひたすということであるが、エオルであれば山が崖になって水にささっているところをいう)とあさりとの結びつきがきわめて不自然である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.272 より引用)
この「エオルであれば山が崖になって水にささっているところをいう」という指摘は全く同感で、東川町の「江卸」あたりと似た地名なんじゃないかと考えたくなるんですよね。

「チュルプ」か「チロフ」か

そして永田地名解以前は「チュルプ」ではなく「チロフ」だったと言うのも昨日の記事で記した通りで、「エヲロチロフ」は e-woro-chir-o-p で「頭・水につける・鳥・多くいる・ところ」と読めそうな気がするのです(この「頭」は崖状の地形を指します)。

この考え方は松浦武四郎の記録を真っ向から否定することになっちゃうのですが、仮に「樹皮をうるかす」場所なのであれば e-woro-us-i だったり e-woro-us-to と言った地名にしちゃえば良いわけで、あえて「チロフ」ファミリーにする必要性はあったのかな? と思えるのですね。

まぁ、「チロフ」あるいは「チュルプ」が一帯の総称となった……という可能性も十分あると思われるのですが……(チロフ大地名説)。

火散布(ひちりっぷ)

si-{chir-o-p}?
大きな・{鳥・多くいる・ところ(沼)}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年6月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1048) 「琵琶瀬・渡散布」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

琵琶瀬(びわせ)

pipa-sey?
カワシンジュガイ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
霧多布の南西、嶮暮帰島の西に位置する地名で、同名の川も流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヒハセイ」と描かれています。

秦檍麿の「東蝦夷地名考」(1808) には次のように記されていました。

一ビバセイ
  ヒバは蠣の名、セイは介の通称。此處の海底おりおり産す。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.33 より引用)
上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」(1824) にも次のように記されていました。

ビバセイ
  夷語ピバセイとは蛎貝の事。扨、ビバとは蛎の事。セイは貝の惣名にて、此所蛎貝の多くある故、此名ありといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.66 より引用)
「初航蝦夷日誌」(1850) にも「ヒハセ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。

行まゝ
     ビ ワ セ
今此ワタラチロフヽの番屋を、ビワセの番屋と云なり。地名ビバセーなるべし。ヒハセーは蚌の事なり。此処の川蚌多きによつて号る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.552 より引用)
どれもほぼ同じ……ですよね。pipa は「沼貝」で sey は「貝殻」だと思っていたのですが、「釧路地方のアイヌ語語彙集」によると sey は「貝」とのこと。「蚌」は「どぶがい」あるいは「からすがい」なのですが、松浦武四郎は pipa-sey をまとめて「蚌」と認識していたようです。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Piba sei   ピバ セイ   貝殼アル處 古此處ニ「アイヌ」村アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.355 より引用)
見事にここまでの貝を、じゃなくて解を踏襲していますね。pipa-sey というのは地名としては少々妙な感じもするのですが、-us-i あたりが省略されたとすれば問題無さそうに思えます。

「ピパ」とは何?

pipa については、田村すず子さんの「アイヌ語沙流方言辞典」(1996) に次のように記されていました。

pipa ピパ【名】[動物]「沼貝」(貝の名)。〔知分類 p. 121 長万部 ホロベツ 川シンジュ貝 p. 122 ナヨロ カワシンジュガイ 幌 カラス貝 カキ ハルトリ、モシオ、拾 カラス貝 ハルトリ p. 123 河貝 アバシリ〕{E: name of a shell found in swamps.}
(田村すず子「アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.529 より引用)
なんか呪文のようになってますが、これは知里さんの「動物編」(1976) の内容をコンパクトにまとめたもの……ですね。「拾」が少々謎ですが、これは「蝦夷拾遺」のことのようです(「動物編」の p. 321-322 にちゃんと纏めてありました)。

本題に戻って pipa ですが、春採(釧路市)で「牡蠣」あるいは「カラス貝(=カワシンジュガイ)」と認識されていたようです。また「動物編」によると pipa-sey で「カワシンジュガイ」を意味するとあるので、「牡蠣」あるいは「カワシンジュガイ」と見るべきなんでしょうね。

あれ、図らずも松浦武四郎の解釈に一致してしまいましたね……(いつの間に?)。

渡散布(わたりちりっぷ)

watara(-us)-chir-o-p?
岩礁(・ある)・鳥・多くいる・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年6月23日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (49) 「ガソスタが多いのは」

道道 64 号「女満別空港線」を南に向かいます。左側の土手の上にフェンスが張られていますが、フェンスの向こうが女満別空港です。右側に展望台のような構造物が見えますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

実はこの展望台のような構造物もフェンスの向こう側、つまり空港の敷地内に所在していました。てっぺんの赤い物体を見た感じでは、何らかのレーダーサイトっぽい感じでしょうか(航空管制レーダー?)。

2023年6月22日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (48) 「蛍光色の看板」

国道 39 号を南西に向かい、大空町に入りました。2006 年に東藻琴村と合併する前は「網走郡女満別町」だった町で、「大空町」というネーミングはちょっとどうなの?という批判的な見方もあったと記憶していますが、個人的には馴染んできたかなぁ……という印象です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりは多少の高低差はあるものの概ね平坦で、国道も直線基調の走りやすい区間です。その上片側 2 車線とあっては……ついアクセルを開けてしまいますよね。

2023年6月21日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (47) 「道民雑誌」

道道 683 号「大観山公園線」で天都山を縦走して南に向かいます。山の上を通る割には線形の良い道で、カーブもそれほど急なものではありません。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

ただ、標高 195 m から標高 10 m まで駆け下りることになるので、長い下り坂が続きます。路面凍結時はかなりスリリングなことになりそうな……(ロードヒーティングがあれば、そして動いていれば安心なのですが)。

2023年6月20日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (46) 「テントの並ぶ天都山」

網走駅前のルートインで Day 5 の朝を迎えました。この日もホテルで朝食ですが……
なんか随分とシンプルな感じに。朝からガッツリ行くと腸が刺激されて面倒なことになるので、つい控えめにしてしまうんですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ルートインのレストランは 2F にあり、座席によっては正面に網走駅を眺めながら食事ができるのですが……

2023年6月19日月曜日

石北本線特急列車 (69) 「網走帰着」

特急「大雪 3 号」は白滝駅構内に入りました。石北本線には特急列車が一日 4 往復設定されていますが、白滝に停車する特急は網走行きの「オホーツク 1 号」「オホーツク 3 号」と旭川行きの「オホーツク 2 号」「大雪 4 号」の 2 往復で、残念ながら「大雪 3 号」は白滝を通過してしまいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

妙なところに「本場の味」が立っているように見えますが、ここは 2 番ホームが存在するものの向かい側の 3 番ホームが削られた場所なので(3 番ホームは 2 番ホームよりもかなり短い)、ホームが削られた場所に電柱が立っている、ということですね。

2023年6月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1047) 「嶮暮帰島」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

嶮暮帰島(けんぼっき──)

kene-pok?
ハンノキ・の下
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
浜中霧多布の南西、浜中町琵琶瀬の東の沖合に位置する島の名前です(地理院地図では「けんぼっ」とルビが振られています)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ケ子ホ」という名前の半島(陸繋島)が描かれています(あるいは沖合の島の名前かも)。これは霧多布島(陸繋島)と混同した可能性を思わせますが、実は伊能大図 (1821) でも「ビハセイ」(=琵琶瀬)と「ケ子ホク島」(=嶮暮帰島)が陸続きに描かれています。

明治時代の地形図でもほぼ陸続きに描かれているケースがあり、現在の地理院地図でも嶮暮帰島と琵琶瀬の間に長く伸びた干潟が描かれています。かつては本当に陸続きだった可能性が高そうです。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「ケ子ボク」と「イモコモイ」

秦檍麿の「東蝦夷地名考」(1808) には次のように記されていました。

 一 ケ子モシリ
ケ子はハンの木なり、モシリは嶼なり。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.33 より引用)
また、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」では……あれ、なんだか良くわからないことになっていますね。これはささっと表にまとめたほうが早そうでしょうか。

東西蝦夷山川地理取調図初航蝦夷日誌戊午日誌
「東部能都之也布誌」
現在名
(想定)
ワタラチロフワタリチロフワタラチロツフ(川)渡散布
ヒン子エシヨ(岩礁)---
ヲタノシケ--渡散布?
ワタラチロフモシリ(島)ワタリチロフ(島)ワタラチロツフ(岩島二つ)窓岩?
ヒハセイヒハセビワセ琵琶瀬
エモコモイ(島)ヱモコモヱ(島)イモコモイ(島)嶮暮帰島
-メヲクル(小島)メヲクル(岬)-
ヲモエ(島)テモエ(岩岬)キモエ(岬)-
ケ子ホリ(出岬)-ケ子ボク(島)嶮暮帰島
フシワタラ(海中に二小島)ブシワタラ(島)小島?

ざっとこんな感じで、「東西蝦夷──」では渡散布と霧多布の間に「ヒン子エシヨ」「ワタラチロフモシリ」「ヲモエ」「エモコモイ」という島があった……ということになっていました。「ヒン子エシヨ」の正体が不明ですが、「ワタラチロフモシリ」は現在の「窓岩」ではないかと思われます。

問題の戊午日誌「東部能都之也布誌」には「イモコモイ」と「ケ子ボク」という島が存在すると記載されています。中でも注目したいのが「イモコモイ」で、次のように記されていました。

また行まゝ
     イモコモイ
是むかしは一ツの島にして、周り凡一里も有、陸より二十間も汐満の時は隔て居たるよしなるが、今は其地陸えつゞき出岬も同様に成りたり。其岬平山にして上に赤楊少し有。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.552 より引用)
この説明文に限りなく一致する島を、皆さんもご存知なのでは無いでしょうか。これ、どう見ても現在の「嶮暮帰島」のこと……ですよね。

「ケ子ボク」は何処に

ところが、「東部能都之也布誌」には別に「ケ子ボク」という項目もあって……

廻ること五六丁
     キ モ エ
是イモコモイの東の岬なり。奇怪の岩石簇々となしてフシワタラと対岐す。其奥一ツの湾に成たり。並び其沖の方に
      ケ子ボク
 是フシワタラの並び、周り凡七八丁も有るなり。赤楊多きよりして此名有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.552-553 より引用)
この記録を素直に読むと、ビワセ(=琵琶瀬)の沖合に「イモコモイ」という陸続きの島(=嶮暮帰島)があり、島の東端の「キモエ」という岬の沖合に「ケ子ボク」という島が存在した……ということになります。

そして、この「ケ子ボク」という島は「周り凡七八丁」とあり、「イモコモイ」(周り凡一里)と比べると明らかに小さな島と認識されています。この「ケ子ボク」は果たしてどの島のことなのか……という点が気になりますが、位置からは霧多布の南に浮かぶ「小島」だった可能性がありそうです(となると「フシワタラ」は何処? という問題が新たに出てきますが)。

ただ「小島」は「周り凡七八丁」と言うには小さすぎますし、「東西蝦夷──」や「東部能都之也布誌」に記録されている「シワタラ」が「小島」だと考えるほうが妥当に思えます。となると「嶮暮帰島」はかつての「イモコモイ」であり、また「ケ子ボク」でもあった……と言う、なんともモヤモヤした考え方になってしまうのでしょうか?

「イモコモイ」とは

モヤモヤした感じが残りますが、そういえば「イモコモイ」って何だろう……という話です。e-muk-moy であれば「そこで・塞がっている・湾」と読めそうで、かつて琵琶瀬と嶮暮帰島の間が事実上陸続きとなっていたことを形容した地名と考えられそうです。

つまり、島の名前が「イモコモイ」だった……というのが大きな勘違いだった可能性が出てきます。「ビワセ」の沖合に広がる「イモコモイ」(湾)の向こうにある島(事実上陸続き)が「ケ子ボク」だった……と考えると筋が通りそうな気がします。ん、結局「嶮暮帰島」は「ケ子ボク」だったということ? ここまで散々色々と書いておきながら結論がそれ?(汗)

「ケ子」はハンノキ、では「ボク」は?

「ケ子ボク」の「ケ子」が keneで「ハンノキ」なのは間違い無さそうな感じですが、問題は「ボク」ですね。永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kene pok   ケネ ポㇰ   赤楊ノ下 赤楊ノ蔭トモ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
まぁ、普通はそう考えますよね……。ただ、なんか違和感が残ります。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) にも次のように記されていました。

 嶮暮帰(けんぽっけ)
 琵琶瀬の中にある島の名。アイヌ語ケネ・ポㇰ(の下)からでたというが、何故この島にそうした名がついたか不明。或は島の一部の地名であったかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.272 より引用)
おや、なんか気が合いますね。島の名前が kene-pok というのはどうにも妙な感じがしたのですが、島の一部の地名だったと考えるしか無さそうな感じでしょうか。kene-poki で「ハンノキ・の下」となろうかと思われます。

嶮暮帰島は周囲の大半が崖なので、kere-tok で「削らせる・突起物」とかだったらお似合いなのになぁ、と思ったりもしましたが……。

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2023年6月17日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1046) 「霧多布・湯沸」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

霧多布(きりたっぷ)

ki-ta-p?
茅・刈る・ところ
kit-ta-p???
前頭(島)・切る・もの
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)(??? = 記録なし、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中暮帰別の東に位置する陸繋島で、浜中町の中心地です(役場などが存在する)。暮帰別と霧多布の間は「霧多布大橋」で結ばれているので、霧多布は「有人島」だと強弁することもできそうな気がするのですが、まぁ霧多布と暮帰別を隔てているのは海と言うよりは「運河」ですからね……。

などと言いつつ、明治時代の地形図には「霧多布島」とあるんですけどね。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「霧多布」は島として描かれていて、島の地名として「シレナイ」「キイタツフ」「トウフツ」などが描かれていました。霧多布は南北で海に面した立地ということもあり、風待ちの港として古くから重宝されてきたようです。

「蚊が飛びまくったので」説と「茅の森」説

秦檍麿の「東蝦夷地名考」(1808) には次のように記されていました。

一 キイタプモシリ
 キイは蚊の名。タプはタプカリの下略の語とみゆ。タフカリは舞躍の名なり。按するに夏秋、蚊群り飛をおどると見て云習わせたる地名成へし。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.34 より引用)
「キイタプ」は「蚊が群れをなして飛び回るから」という説のようですね。一方で上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」(1824) には次のように記されていました。

キイタプ
  夷語キイタプとは茅森と譯す。扨、キイとは茅の事。タプとは森の様なる山の事にて、此嶋樹木無之、茅の繁りて森の形状なる故、嶋の「かく」となす「くる」由。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.66 より引用)
「蚊が飛びまくるから」と比べると随分と穏健な解になりましたね。

「キツネが踊る」説と「矢柄用の茅」説

松浦武四郎の「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

キヱタツフ。訳而踊奔の語なるべし。又聞ニキヱタツフは島の端の踊るがごとしと云こととも云り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
あれ……? また「踊りまくってフィーバーDAZE☆」な解に戻っちゃってますね。ただ戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」では若干トーンダウンしていて……

其訳矢柄に用る茅が有ると云儀。キイは蘆荻の事也と。また一説狐が踊ると云事も古く云伝えぬ。何れが是なる哉。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.553 より引用)
今度は「狐が踊る」と来ましたが、tapkar が「踏舞」だとすると「キツネ」は ki あるいは kii と考えるべきでしょうか。知里さんの「動物編」(1976) には「キタキツネ」あるいは「きつね」を意味する語として (1) čirónnup, (2) sumári, (3) kimótpe, (4) húrep, (5) húrep-čironnup, (6) sitúmpe, (7) páykarmatumpe, (8) sákkimotpe, (9) kemákosnekur, (10) kemátunaskur, (11) sekúma-sarkes-wa-ača-ne-kamuy, (12) sikúma-kes-unkamuy, (13) ké(y)sasi-koro-kamuy, (14) čáwčaw の 14 種類が列挙されていました。ki あるいは kii に近いのは kimótpe あたりでしょうか。kimotpe-tapkar 略して「キタップ」というのは……流石に苦しいような気もしますが。

無難な「茅を刈るところ」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ki ta-p   キタㇷ゚   茅ヲ刈ル處 「ピブウシ」ニ「アイヌ」村アリシトキ此島ニテ茅ヲ刈リシト云フ○霧多布村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.359 より引用)
「ピブウシ」がどこなのか不明ですが、概ね無難なところに来ましたね。茅を刈る理由は戊午日誌にある通りで、刈った茅を矢柄として使用するとのこと。「蚊が飛びまくるから」を除けばおおよそ方向性は合致しているように思えます。

「島を切るもの」説

ただ……ちょっとモヤモヤするというか、若干「これって本当かなぁ」という疑問が残るんですよね(いつもの悪い癖)。「霧多布島」の特徴的な形を無視した実務的なネーミングだよ、というところが引っかかるんです。

前頭ぜんとう」を意味する kip という語があるのですが、地名では稜線からちょこんと飛び出た山で見かける印象があります(「イルムケップ山」みたいな)。霧多布島は海沿いなのでベースとなる稜線は存在しませんが、海岸線からちょこっと飛び出たと考えると共通点がありそうに思えます。

ということで、kip-ta-p で「前頭(島)・切る・もの」ではないかと考えてみました。kip が「霧多布島」だとすると、それを「切る」ものは「霧多布大橋」の南北を流れる運河……となるかと。

「いやいや『キㇷ゚タップ』じゃなくて『キータップ』なんですけど」と思われるかもしれませんが、知里さんの「アイヌ語入門」(1956) を見てみると……

 (5) 破裂音の同化 北海道の北東部(北見釧路・十勝など)の諸方言において,‘k’ ‘t’ ‘p’ が隣りあったばあい,前のものが後のものに同化してしまう。
  opke(放屁〔する〕)> okke
  popke(煮たつ)> pokke
  hotke(寝る)> hokke
  apto(雨)> atto
  rek-te(鳴らす)> rette
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.175 より引用)
このロジックを適用すれば、kip-ta-pkit-ta-p になるんですよね。ついでに言えば永田地名解の ki-ta-p よりも kit-ta-p のほうが発音が「キータップ」に近くなるんじゃないかなぁ、とか……(いやまぁ「キッタップ」になるんでしょうけど)。

湯沸(とうふつ)

to-putu
海・口
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年6月16日金曜日

石北本線特急列車 (68) 「奥白滝信号場」

網走行き特急「大雪 3 号」は石北トンネルを通過して遠軽町に入りました(「オホーツク総合振興局」に戻ってきました!)。かつての白滝村のエリアです。
そういえば普通列車から特急列車に乗り換えた筈ですが、まるで各駅停車のようなペースで記事が進んでいますね……(汗)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

トンネルを抜けて坂を駆け下りる途中に踏切らしき場所を見かけました。林道にしてはなかなか立派な道だなぁ……などと思ったのですが、Google マップを見るとどうやら北見峠(国道 333 号)の旧道っぽい感じですね。

2023年6月15日木曜日

石北本線特急列車 (67) 「上越信号場」

特急「大雪 3 号」は一面の雪景色の中を石北トンネルに向かって走り続けます。お、信号機の手前になにやら標識がありますが、何でしたっけこれ。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

留辺志部川と国道 333 号をまとめてオーバークロスします。いつの間にか国道よりも随分と高いところまで登っていたんだな……と感心していたのですが……

2023年6月14日水曜日

石北本線特急列車 (66) 「中越信号場」

特急「大雪 3 号」は留辺志部川沿いを走行中です。奥の方に見えているのは国道 273 号の「中越橋」でしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

中越信号場

左側に線路が見えてきました。中越信号場の構内に入ったようです。

2023年6月13日火曜日

石北本線特急列車 (65) 「天幕駅跡」

上川駅からは、特急「大雪 3 号」で網走に戻ります。ついに特急列車を利用することになってしまったのですが、上川から遠軽に向かう「普通列車」は朝 6:11 発の遠軽行き 4621D と、16:26 発の特別快速「きたみ」しか無いんですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

特急「大雪 3 号」が 1 番線に入線してきました。逆光のおかげでゴーストが出まくっていますが、最近のいいレンズはゴーストの発生がかなり押さえられているらしいですね。それはそれでちょっと寂しいような……。

2023年6月12日月曜日

石北本線途中まで各駅停車 (64) 「上川 その2」

上川駅の 3 番線に到着した 4529D から下車して跨線橋に向かったところ、そこにはなんと「おつかれさまでした」の文字が。なかなか味わいのある書体ですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

ちなみに反対側には「ご乗車ありがとうございます」の文字が。これは駅員さんのアイディアなんでしょうか。この木材も地元の製材所で切り出したもの……だったりするかもしれませんね。

2023年6月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1045) 「暮帰別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

暮帰別(ぼきべつ)

poki-sar-pet??
しもて・湿原・川
to-kisar-pet?
沼・耳・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
霧多布湿原の東、霧多布大橋の西側一帯の地名です。明治時代の地形図には、現在の霧多布大橋の位置に「ポ?ッキベツ」と描かれていますが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を見ると「アシリコタン」と「シリシユツ」の間の川に「ホキシヤリヘツ」と描かれています。

興味深いことに、現在の榊町のあたりで海に注ぐ川は現存しません。榊町の西に「カムラ沼」という沼があり、その更に西を「新川」が流れているのですが、この「新川」は南に向かって流れて霧多布大橋の西で海に注いでいます。明治時代の地形図では、この「新川」の上流部は「大津屋沢」と描かれていました。

ここまで見た感じでは、かつての「ホキシヤリヘツ」が「大津屋沢」と名を変えた上で、流路も大幅に変わって霧多布の西で海に注ぐようになった……と言うことでしょうか……?

「ホキシヤリベツ」は何処に

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

越而
     ホキシヤリベツ
川有。深し。船澗也。夷人小屋弐軒。此処秋味よく取る也。出稼多し。此上ニ沼有る也。此処より向の海中ニ小島二ツ有り
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
ん、「向の海中に小島二つ」とありますが、霧多布の東の沖合にあるのは「黒岩」と「帆掛岩」で、これらの岩については「アキラフ」(=アザロップ)の項で次のように記されています。

岩岬を廻りて陸の方ニ大岩二ツ有。又前ニ小岩島二ツ有。一ツをグヤ、一ツをヱタシベヱシヨと云り。汐満る時は皆隠るゝなり。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
となると「ホキシヤリベツ」の項に「向の海中に小島二つ」とあるのは「小島」と「嶮暮帰島」のことでしょうか。また「キヱタツフ」が「ホキシラリベツより凡七丁斗」とあり、これも「新川」の河口からの距離とほぼ一致します。……どうやら「東西蝦夷山川地理取調図」の「ホキシヤリヘツ」の位置(と描かれ方)が頓珍漢だった可能性が高そうですね。

改めて明治時代の地形図を眺めてみると、現在の「新川」の位置には既に「新川」と描かれていて、現在「霧多布大橋」のあるあたりに「ポ?ッキペ?ツ」とあります。そして「ポ?ッキペ?ツ」の横に河跡湖のようなものが描かれているので、海のすぐ横を南に向かって流れていた川を改修して、現在の「新川」に水を回した……ということかもしれません。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「ホッキ貝の殻が積もっていたので」説

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

是より瀬戸を横切り乗切て、向岸に
     ホキシラリヘツ
是陸の岬とキイタツフの陸の砂さきと対して有る処なり。其処に一細流れ有。上に谷地有て椴の木立也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.554 より引用)
あー、やはり暮帰別は「霧多布の西」と見て間違い無さそうですね。「東西蝦夷──」があらぬ場所(榊町のあたり)に「ホキシヤリヘツ」と描いていたのに随分と騙されてしまいました。

まだ続きがありまして……

此辺ホツキと云貝多く、其殼簇々として一面の浜となり居るによつて、ホツキの殼が、シラリとは小石原也、其如く成りて有る川と云儀のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.554 より引用)※ 原文ママ
うーむ、「ホッキ貝の殻が小石原のようになっている川」ですか……。確かに pok は「ホッキ貝」を意味しますが、「シラリとは小石原なり」というところに少々疑問が残ります(sirar は「岩」や「平磯」「岩盤」を指すとされるので)。

「刺螺」はどんな貝?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Poki shirari pet   ポキ シラリ ペッ   刺螺アル潮川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
「刺螺」をググると中国語版の Wikipedia のページが引っかかるのですが、学名 Guildfordia triumphans は「輪宝貝リンボウガイ」とのこと。どうやら「サザエ」の一種のようで、「ホッキ貝」(=ウバガイ)のことでは無さそうです。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 暮帰別(ぼきべつ)
 霧多布に入るところにある小川の名。永田氏は「ポキシラリペッ。剌螺アル潮川」と訳されている。剌螺とはポクでウバ貝のことかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.271 より引用)
あらら。見事に逆方向の結論が出てきましたね。確かに pok は「ホッキ貝」なのでそう考えるのが自然ですが、「剌螺」=「ホッキ貝」という結論はちょいと強引なのでは……。

ただ、更科さんは永田地名解の解釈を「肯きがたい点が多い」していて、次のように続けていました。

ポㇰシラルペッにしても「しもの岩川」ならまだうなずけるが、古い五万分図では、ポッキペッと記入されている。北寄貝の川などともいいたいが、北寄貝が川にいるはずがないし、単に下川と訳すべきか明らかでない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.271 より引用)
あー。「ホッキ貝」説は眉唾な予感がしていたのですが、更科さんも「おかしい」と考えていたみたいですね。

「しもての湿原川」?

永田地名解は「ポキシラリペッ」としていましたが、松浦武四郎は「ホキシヤリベツ」と記録していました。この「ホキシヤリベツ」は poki-sar-pet で「しもて・湿原・川」と解釈できそうに思えます。

現在の「新川」は霧多布湿原の真ん中やや海側を流れていますが、古い地図では「霧多布橋」の近くに河口らしきものが描かれていることから、かつてはもっと海に近いところを海外線に沿って流れていた可能性があります。このことから、霧多布湿原の最も海側(しもて)を流れる「湿原の川」と呼んだのでは……という想像です。

「沼の耳の川」?

大体こんなところかなぁ……と思ったのですが、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(いわゆる「伊能大図」(1821) )には「トキサラベツ」と描かれていました(!)。これだったら意味するところは明瞭で、to-kisar-pet で「沼・耳・川」となります。

この to-kisar は「地名アイヌ語小辞典」(1956) にも次のように立項されています。

tó-kisar, -a  とキサル 原義‘沼耳’;沼の奥が耳のように陸地に入りこんでいる部分。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.130 より引用)
この項目にはイラストが添えられているのですが、十勝は中川郡豊頃町の「湧洞沼」の to-kisar はここだよ、というものです。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
この考え方をベースに「トキサラベツ」の「沼」と「耳」はどこにあるかと言われると、「沼」は巨大な霧多布湿原そのもので、「耳」は榊町の北西の「大津屋沢」あたりの湿地帯かなぁ、と。これはもちろん、現在の「新川」の流路からの再帰的な解釈ではあるのですが……。

to-kisar-pet という解は poki-sar-pet と比べて違和感が少ないという点で推せるのですが、「伊能図」以外はどれも「ホ──」もしくは「ポ──」と記録しているという点が厳しいでしょうか。ただ棄却するにはあまりに惜しい解でもあるので、今回は両論併記で……。

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2023年6月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1044) 「後静・アザロップ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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後静(しりしず)

siri-sut?
山・ふもと
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線(花咲線)浜中駅の南東、浜中町榊町の北に位置する一帯の地名です。1876(明治 9)年から 1906(明治 39)年までは「後静村」で、1906(明治 39)年に浜中村(現・浜中町)に吸収合併されています。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には岬状の地形に「シリシユツ」と描かれていました。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

扨是より馬にて出立するや、凡二十六七丁砂浜儘を行て
     シリシユツサキ
此処峨々たる高岩、色(皆)赤くなりて海中に突出す。此処通り難きが故に、九折つづらおりを五六曲も上りて、岬の上を越て蔭え下る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.556-557 より引用)
「シリシユツサキ」の由来については次のように記されていました。

其地名の訳は、岬の出たる処通らざる故其上を通ると云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.557 より引用)
うーん、ちょっと良くわからないですねぇ。ということで永田地名解 (1891) を見てみると……

Shiri shut   シリ シュッ   山根 山下トモ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
あ、これならなんとなく理解できそうです。siri-sut で「山・ふもと」ではないか……ということですね。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) もこの解を追認していたようですが……

 後静(しりしず)
 浜中海岸の字名。アイヌ語、シリ・シュツ(山の根元)で、山が海につき出た岬をいったもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.272 より引用)
「シリ・シュツ」が「山の根元」というのは良いのですが、「山が海につき出た岬をいったもの」という部分はちょっと首を傾げてしまいます。

「岬」か、それとも「ふもと」か

仮に「シリ・シュツ」が「山が海につき出た岬」を意味するのであれば、siri-si-tu で「山・主たる・峰」と考えることもできてしまうんですよね。しかも siri-si-tu だと「シリシユツ」以上に「後静しりしず」に近くなるので、お買い得感が満載なんですよね(お買い得感とは)。

明治時代の地形図では「岬」の位置には「ポンシリシュツ」とあり、現在だと道道の「榊トンネル」の北側あたりに「シリシュツ」と描かれています。困ったことにどちらも「山が海につき出た岬」と言えなくは無いのですが、「ポンシリシュツ」という地名は明治以前の記録には見当たらないのが悩ましいところです。

「山の麓」という地名にも若干の違和感が残るのですが、やはり定説?通りに siri-sut で「山・ふもと」と考えるべきなのかもしれません。

アザロップ

at-charo-o-p??
もう一方の・入口・ある・もの(川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
かつて道道 142 号「根室浜中釧路線」に「アザラップ入口」というバス停が存在していたそうです。バス停の南には「幌戸東川」という川が流れていて、この川には「アザラップ 2 号橋」と「アザラップ橋」という橋がかかっているとのこと。これでなんとか「現行地名」と言えそうでしょうか(基本的に過去地名は対象外……なんです、実は)。

そして橋の名前は「アザラップ──」なのに何故トピック名が「アザロップ」なのだ……という話ですが、「運輸局住所コード」に「後静村アザロップ」という住所がリストアップされているのですね。この「運輸局住所コード」は、現在は使わなくなった住所も含まれていることが多い印象もありますが、改定されていない以上は「現行住所」ということで……(汗)。

父ちゃん? 爺ちゃん?

いつも以上に言い訳が続きますが、閑話休題そろそろ本題に。実は「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) に「アチヤロフ」と描かれているんですよね。「初航蝦夷日誌」(1850) にも次のように記されていました。

越而砂
     アキラフ
小川有。此岡の方平山。漁小屋有り。夷人出稼屋有。アテヤロフと云り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。

又少しの岬有、其上をこえて
     アチヤロフ
少しの浜有。アチヤロフは、往昔老人共岩を的に矢を射て楽しみしによつて号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.557-558 より引用)※ 原文ママ
「昔、老人たちが岩を的に矢を射ることを楽しんだから」とありますが、永田地名解 (1891) を見てみると……

Acha ru-o-p   アチャ ルオㇷ゚   阿爺ノ通路
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
「阿爺」は「おじいちゃん」かと思ったのですが、実は「お父ちゃん」を意味するとのこと(chacha だと「老爺」なんですけどね)。そして acha は「おじ」を意味するのですが、acha-ru-o-p であれば「おじ・道・ある・ところ」と読めそうでしょうか。

ところで、「おじさん」あるいは「お父さん」の道とは一体……? 確か清里町の「アタックチャ川」が acha-kucha で「おじ・小屋」じゃないか……という説がありましたが……。

もう一つの入口?

まぁ、正直に言えば「おじさん地名」は意味不明だと思っているので、別の解釈で考えたいところです。at-charo-o-p で「もう一方の・入口・ある・もの(川)」と読めないか、と考えてみたのですが……。atar の音韻変化形で、「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のようにあります。

ar- アㇽ 対をなして存在する(と考えられる)ものの一方をさす;一方の;もう一方の;他方の;片方の;片割れの。── n や r の前では an- になり,t や ch の前では at- になる。an-nan「半顔」。an-rur「反対側の海」(↑)。at-tek「片手」。at-chake 「対岸」(↓)。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.7 より引用)
「アチャルオプ」と対をなして存在する(と考えられる)ものは何か……という話ですが、現在の「後静川」なんだろうなぁと思っています。浜中町榊町と幌戸の間には険しい岬があるため、内陸部に回る必要がありました。その内陸部への入口が現在の「後静川」であり、が「アザロップ」だったのではないでしょうか。

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2023年6月9日金曜日

石北本線途中まで各駅停車 (63) 「東雲・上川」

「愛山渓ドライブイン」が見えてきました。ここから道道 223 号「愛山渓上川線」を南に向かうと愛山渓温泉です。まだ行ったことが無いので、一度は行ってみたいですね……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

東雲駅(A42・2021/3/13 廃止)

安足間川を渡り、旭川紋別自動車道の立体交叉の下を通過すると程なく東雲駅です。上川行き 4529D にとっては最後の途中停車駅ということになりますが、駅全体が進行方向左側だったので、往路で撮影した写真でお茶を濁します。

2023年6月8日木曜日

石北本線途中まで各駅停車 (62) 「安足間」

上川行き 4529D は愛山を出発しました。お、バイクで旅行中の方でしょうか……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

愛山から次の安足間あんたろままでは僅か 2 km しかありません。ということで旭川紋別自動車道の下をくぐったなーと思っているうちに……

安足間駅(A41)

安足間駅の構内に入りました。

2023年6月7日水曜日

石北本線途中まで各駅停車 (61) 「愛山」

上川行き 4529D は中愛別駅を出発して、山と石狩川に挟まれた狭い場所にやってきました。これは一番狭隘な場所を通り過ぎた後ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

石狩川を渡ります。国道 39 号の橋も見えていますが、本来は石狩川の北側を抜ける道道 640 号「中愛別上川線」が愛別と上川を結ぶメインルートでした。

2023年6月6日火曜日

石北本線途中まで各駅停車 (60) 「中愛別」

上川行き 4529D は愛別を出発しました。既に 17 時を過ぎていますが、流石は 5 月、まだまだ空は明るいですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

石狩川を渡ります。石北本線は石狩川を三箇所で横断しているのですが、旭川から数えるとこれが最初の渡河地点ということになりますね。川の半分だけを塞いでいる頭首工らしきものが見えますが……

2023年6月5日月曜日

石北本線途中まで各駅停車 (59) 「愛別」

石北本線は右に大きくカーブして愛別町に入ります。当麻から北上を続けてきましたが、石狩川に行く手を遮られた形ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

右手に旭川紋別自動車道が見えてきました。

2023年6月4日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1043) 「幌戸・奔幌戸」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幌戸(ぽろと)

poro-to
大きな・沼
(記録あり、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中羨古丹うらやこたんの西隣に「奔幌戸ぽんぽろと」という地名があり、更にその西隣に「幌戸ぽろと」があります。同名の沼があり、その流出河川(幌戸川)には「幌戸橋」がかかっています。グランドスラムと呼ぶにはまだまだですが、なかなかの充実ぶりでは……?

東西蝦夷山川地理取調図」には「ホロト」という川が描かれています。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

     ホロトウ
小川有。其川の東に番屋有〔梁五間桁十三間〕板蔵五棟・茅蔵六棟。其ホロトウは大なる沼と云儀。此川上に谷地沼一ツ有るより号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.558 より引用)
また、永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Poro tō   ポロ トー   大沼
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
どこからどう見ても poro-to で「大きな・沼」と解釈するしか無さそうな感じですね(汗)。

奔幌戸(ぽんぽろと)

pon-{poro-to}
小さな・{ポロトー}
(記録あり、類型あり)

2023年6月3日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1042) 「赤泊・羨古丹」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

赤泊(あかどまり)

aka-tomari???
崖(岬)・泊地
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中仙鳳趾せんぽうじの西、羨古丹の南に位置する地名です。地理院地図で見た感じでは家屋が無さそうなのですが、幸いなことに地名としては健在のようです。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「トマリ」という地名が記録されていて、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「レツハモイ」という地名が描かれていました。明治時代の地形図には「アカトマリ」と描かれていますが、永田地名解 (1891) は「東西蝦夷──」に準拠した「レㇷ゚ パ モイ」という地名が記録されていました。

Rep pa moi   レㇷ゚ パ モイ   沖方ノ灣
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
rep-pa-moy であれば「沖・かみて・湾」かな……と思いかけたのですが、rep-pa-moy は「三つ・頭(崎)・湾」なのでしょうね。地形を見ると、岬状の地形が三つ(四つかも?)あるように見えるので……。

明治時代の地形図には、松浦武四郎が記録し永田方正がちょいとズレた解を記録したんじゃないかと思しき「レッパモイ」という地名の代わりに「アカトマリ」と描かれているのですが、問題はこれをどう解釈するか……です。

答かもしれないものが「地名アイヌ語小辞典」(1956) にありました。

aka アか【K】魚体の腹線を pisoy, -e/-he 〔ピそィ〕,側腹線を chep-ikiri 〔チェぴキリ〕 [魚・の線] と云うに対し,背線を aka と云う。地形では尾根(山稜)をさす。北千島にもある語で崖又は岬をさすと(千島アイヌ49, 165)
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.5 より引用)※ 原文ママ
なんと、こんなに都合の良い語があったのですね(汗)。aka-tomari は「崖(岬)・泊地」と解釈できてしまいそうです。

かつての「レッパモイ」が「アカトマリ」になったのでは……との仮定も加味すると、「アカトマリ」を「崖(岬)・泊地」と解釈できるんじゃないか……と考えているのですが、明治以前には「アカトマリ」という地名の存在が確認でいていないため、和名の可能性も捨てきれないというのが正直なところです。

羨古丹(うらやこたん)

uray-ne-kotan?
梁・のような・集落
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年6月2日金曜日

石北本線途中まで各駅停車 (58) 「伊香牛」

念願だった「北日ノ出駅」と「将軍山駅」の撮影に成功したので、進行方向右側の座席に移動しました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

山が見えてきましたが、この山は「親子山」でしょうか(真ん中に見えているのが「親」で、左奥に見えているのが「子」かな?)。もう少し手前には「将軍山」も見えていた筈なんですよね。

2023年6月1日木曜日

石北本線途中まで各駅停車 (57) 「将軍山」

上川行き 4529D は当麻を出発して北に向かいます。この踏切は「1 番道路踏切」と言うみたいですが、石北本線は殖民区画ライクな(厳密には違うかも)碁盤の目の中を斜めに突っ切っていて、縦横どちらの道にも踏切が設置されているようなので、結構な数の踏切が存在する……ということになりますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

将軍山駅(A36・2021/3/13 廃止)

ということでまたしても踏切ですが、この踏切は「9 条道路」という名前のようです。「9 条道路踏切」じゃなくて「9 条道路」が正式名称なのか、それとも単に「踏切」を省略したのかは不明ですが……。