2023年11月30日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (151) 「愛の国から幸福へ」

幸福駅(跡)のホーム(跡)には、帯広側にキハ 22 221 が停車していて……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ホーム(跡)にはベンチが置かれていて、ベンチの後ろには駅名標も見えます。

2023年11月29日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (150) 「2 両のキハ 22」

帯広広尾道・幸福 IC のちょうど一区画(約 545 m)西にある「幸福交通公園」にやってきました。かつての国鉄広尾線・幸福駅跡に整備された公園です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

どことなく駅名標っぽい構造の案内板の下半分には、「幸福駅」の知名度を一躍全国区にしたキーワードの説明がありました。

2023年11月28日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (149) 「Former Kofuku Station」

道道 109 号「新帯広空港線」を北に向かいます。この道はいつか来た道……(ついさっき通った道だよね)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

直進すると「愛国駅」で左折すると「幸福駅」だそうですが、よく見ると英語ではちゃんと "Former"(かつての)がついているんですよね。日本語でも「旧愛国駅」「旧幸福駅」としても良さそうなものですが、もしかして「旧白滝駅」(現役時代から「旧白滝駅」だった)のような勘違いを防ぐため……というのは、流石に考え過ぎでしょうか。

2023年11月27日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (148) 「王国の跡」

道道 109 号「新帯広空港線」を北に向かいます。青看板(106 系標識)の下にはダムの前で踊っているノリノリのお兄さん……のように見えますが、これはきっとスピードスケートですよね。右側の「看板の裏」には「エゾリスのふるさと帯広市」と書いてあります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

空港の西にある防風林(防音林かも)を抜けて北北西に向かいます。右側に「サホロリゾートまで 80 km」という看板が立っているのですが、「ジャスコまで直進 110 km」には負けるものの、これも中々のものですよね。

2023年11月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1092) 「別保・オビラシケ川・遠野」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

別保(べっぽ)

pet-po
川・子
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線(花咲線)に同名の駅があり、近くに釧路町役場があります。駅の南を流れる「別保川」は釧路川最後の支流とも言えるもので、別保川自体も「武佐川」「サンタクンベ川」や「オビラシケ川」などの支流を持つ川です。ざっくり目分量ですが、釧路町の四割弱が別保川流域でしょうか(あとは釧路川流域と太平洋沿岸部)。

川っ子? 川の息子?

まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  別 保(べっぼ)
所在地 (釧路国)釧路郡釧路村
開 駅 大正6年12月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「ペッ・ポ」(川の子)から出たもので、別保川の上流にあるため、もと「上別保」と称していたが、昭和27年11月15日、字(あざ)名改正に伴い改めたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.154 より引用)
pet-po で「川・子」ではないか、ということですね。-po は指小辞で、樺太(サハリン)の地名で良く見かける印象がありますが、札幌の「苗穂」も nay-po だと言われていて、道内でも普通に使われるものです。

あと「もと『上別保』と称していたが」とありますが、陸軍図には「別保」とあり、集落の東南東(現在「森林公園」とあるあたり)には「別保炭山」がありました。確かに駅名は「かみべつぽ」とありますが、当初から「別保」と呼ばれていたようにも見えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。

又左りの方に
     ヘツホウ
小川有、是川の倅と云儀也。ヘツは川、ホウは子供と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.514 より引用)
これは「駅名の起源」とほぼ同じと見て良さそうですね。「釧路町史」にも戊午日誌を引用した解が記されていて、また山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) にも次のように記されていました。

語義はペッ・ポ(川っ子),ポ(po)は指小辞である。
 この川は相当な川なので少々変であるが, 大きい釧路川本流と比較してこんな名で呼んだのであろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.267 より引用)
やはりそう捉えるしか無さそうな感じですかねぇ……。

川の子供は役に立たない?

ただ、更科さんは持論に根ざした独自の見解を記していました。

アイヌ語ペッ・ポは川の子供の意。魚族が少なくあまり役にたたない川の意である。湿原の川で魚がのぼらなかったからである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.266 より引用)
更科さんは poro-pon- について、単に「大きい」「小さい」だけではなく「役に立つ」「役に立たない」という意味もある……としていました。指小辞の -po についても同様に「役に立たない」あるいは「重要ではない」ではないか……と考えたようですが、この考え方は広く受け入れられるには至らなかったようですね。

オビラシケ川

o-piraske?
河口・広がる
(? = 記録あり、類型未確認)

2023年11月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1091) 「サンタクンベ川・双河辺・モセウシナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

サンタクンベ川

san-ta-kunne-pet?
前・にある・黒い・川
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
別保駅の南東で別保川に南から合流する支流の名前です。「北海道地形図」(1896) には「サンタクンペ」という名前の川が描かれていますが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には別保川の支流(いずれも南支流)として「ヘツシヤム」「サトヌルウンコツ」「ヲソウシ」「セツウシ」とあり、「サンタクンベ川」に相当する川の有無は不明です。

釧路町史」には次のように記されていました。

 サンタクンベ 川の上で石炭のとれるところ
 明治九年(一八七六)ライマンが別保地区に石炭埋蔵発見する。この地名は、サンタクンベ(プ)・サンタクンペと見られるが、いずれもアイヌ語が転化して表記されたものと思われる。即ち、「サン(後から前へ出る・奥地から出る)タ(掘る・〜に・そこに)クン(黒い・暗い)ペ(出るところ・水)」で黒いものが流れてくる・黒い水が流れるところから、石炭のとれるところと解する。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.136 より引用)
うーん……。これは san-ta-kunne-pe で「後ろから前へ出る・そこにある・黒い・水」と考えた……ということでしょうか。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には、釧路町史の解を受けて次のように続けていました。

 この川口の右岸は崖になっていて、そこに黒い層がしまになってみえる。サン・タ・クンネ・ㇸ゜「san-ta-kunne-p 出崎(前にある)・が・黒い・もの」の意でなかろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.289 より引用)
地形図を眺めた感じでは「出崎」といった風の地形には見えなかったので、san-ta は「前・にある」と考えるべきかな……と思えてきました。san-ta-kunne-pet で「前・にある・黒い・川」となりますが、やがて kunnene の音が落ちた……と言った感じなのかなぁ、と。

双河辺(ふたこうべ)

kut-ta-kunne-pet?
岩層のあらわれている崖・そこにある・黒い・川
(? = 記録あり、類型未確認)

2023年11月24日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (147) 「とかち帯広空港」

道道 238 号「更別幕別線」の指定を外れた道を直進すると、いつの間にか帯広市に入っていました。カントリーサインは……見かけなかったような。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ところでこの道路、道道では無いので村道、あるいは市道だと思われるのですが、更別村側にはこんな標識が立っていました。


「旧広尾道路」とあるので、やはり単なる村道では無く、歴史がありそうな感じがします。

あつまれ レンタカーの会社

「とかち帯広空港」に向かう道が分岐しています(ここから先は道道 109 号「新帯広空港線」です)。せっかく近くまで来ているんですし、右折してちょいと帯広空港(あ、「とかち帯広空港」か)を見に行きましょうか。

2023年11月23日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (155) 大館(大館市) (1878/7/29(月))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

うるさい宿屋 (A noisy Yadoya)

イザベラ一行は、小繋(能代市二ツ井町)から、例によって無理に無理を重ねて大館の宿屋までやってきました。

大館は人口八千の町で、半ば崩れかかった人家がみすぼらしくたてこんでいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
現在の大館市の人口は約 6 万 8 千人とのこと。ちなみにイザベラが東京を出発したのは 6/10 で、大館に到着したのが 7/28 ですから、ほぼ 50 日近くかかったことになるのですが(日光や新潟、秋田などでそれぞれ数日逗留していますが)、現在は JR を使えば 5 時間ほどで移動できるとのこと。

 宿屋は大雨で足どめされた旅客で満員であった。私は疲れきった足をひきずって、宿を次から次へと探した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
まぁ、そうなりますよね。イザベラは豊岡(三種町)から小繋(能代市二ツ井町)を経由して大館までやってきたわけですが、この二日間は長雨の中を無理に無理を重ねて移動してきました(傍から見ていても「おい無茶だろ」とツッコみたくなるレベルで)。イザベラは「苦痛のために身体が崩れそうであった」と続けていますが、自業自得なのでは……と思ってしまいます。

通りでは大群集に押され、しばしば警官が私の後をつけてきて、非常に具合の悪いときに私に、旅券を見せろ、という全く不当な要求をするのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291-292 より引用)
まぁ警察官もそれが仕事なので仕方がないのですが、イザベラ姐さんのイライラが伝わってきますね。

長い間探して、ようやく現在のような部屋しか見つからなかった。薄紙を張った襖は、土間や台所に近く、家の中の騒音の中心となっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
大館市川口(現在の下川沿駅のあたり?)ではなく、わざわざ大館の中心部まで強行移動したのは「良い宿屋を探すため」だったと思うのですが、折からの長雨でチェックアウトできない旅人で溢れていた……ということなんでしょうか。ただ、その程度のことは最初から想像できそうな気もしますし、もしかしたら「外国人お断り」を食らった可能性もあったりする……?

嵐に閉じこめられた旅人たち (Storm-bound Travellers)

宿を探すのはおそらく伊藤の仕事だったと思われるのですが、ようやく見つけた宿には「嵐に閉じこめられた旅人たち」で溢れかえっていました。

ほとんど男ばかり五十人の旅客がこの家にいて、たいてい大声で話している。分からない方言を使うので、伊藤はいらいらしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
あー、そうですよね。東北の中でもかなり北の方に入ってきたので、ハマっ子には理解できない言い回しばかりになったのでしょうね。イザベラは伊藤の通訳を介して会話を試みたものの、伊藤と旅客の間のコミュニケーションが明らかにうまくいかなかった(のをイザベラも理解した)ということなんでしょう。

宿についての不満を詳らかに記すことが多いイザベラですが、特に騒音についてのクレームが目立つ印象があります。

料理、入浴、食事、最もひどいのは、きいきい音を立てながらしよっちゅう井戸から水を汲み上げていることで、これが朝の四時半から夜の十一時半まで続く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
あー、井戸から水を組み上げる鋳鉄製?のポンプ、確かにあれはキイキイ音を出しますよね……。もちろん喧しいのは井戸だけでは無く……

二晩とも彼らは酒を飲んで騒ぎ、芸者はうるさく楽器をかき鳴らし、騒ぎを大きくしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
イザベラの不幸には同情するしか無いのですが、それはそうとして「二晩とも」ということは、イザベラはこの宿に二泊したことになるのでしょうか。ここまでの記録を見る限り、1878/7/29(月) は大館に到着した初日のように見えるのですが……(ちょくちょく見落としや勘違いがあるので、気をつけないと……)。

ハイ!ハイ! (Hai! Hai!)

イザベラの不満は「どんちゃん騒ぎ」以外にも飛び火したようで……

 近ごろはどこへ行っても「ハイ」という返事をヘーとか、チ、ナ、ネなどと発音する。伊藤はこれを大いに軽蔑している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
「ヘー」という生返事はわかるのですが、「チ、ナ、ネ」というのはちょっと意味不明な感じがしますね。原文では次のようになっていました。

In all places lately Hai, “yes,” has been pronounced , Chi, Na, , to Ito's great contempt.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
うーん、どう見ても「チ」「ナ」「ネ」ですよね。あるいは「チー」「ナー」「ネー」なのかもしれませんが、どちらにしても意味不明です。

それは返事というよりは無意味な間投詞のように聞こえる。それは相手の言葉に敬意を払うか、注意して聞いていることを示すためだけに用いられることが多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
これはその通りだと思いますが、英語でも似たようなものがありますよね。

ときにはその発音は高く鋭く、喉の音となり、溜め息のようなときもある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
ん、これは単なる生返事と言うよりは、女中さんの相槌のことでしょうか……?

特にハイ、ハイと宿屋の女中が一斉に叫ぶ声が、家のどの方角からも聞こえる。これを言う習慣はとても強いもので、朝眠っているのをハイ、ハイという声でたたき起こされる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
なんとなく見えてきたでしょうか。「ハイ」というやや甲高い叫び声は、客からの何らかのリクエストに対するアンサーバックだったのではないかと。これは宿屋に限った話ではなく、商店や食堂でも耳にすることが多かったのでは……と思わせますが、小柄な日本女性が張り上げた声はよく通りますからね。

伊藤は「ヘー」という生返事を嫌っていたようですが、イザベラは寧ろ「ハイ!」という威勢のいい返事のほうが「耳をつんざく」風に感じていたのかもしれません。

ときには、私が伊藤と英語で話をしていると、傍にいる愚かな女中がハイと返事をすることがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292 より引用)
これは「空耳アワー」でしょうか……?

またも夜の騒ぎ (More Nocturnal Disturbances)

今回は高梨謙吉さんが訳した見出しに原文を併記してみたのですが、これもなかなか巧い訳のような気が……。イザベラは例によって「騒音」に悩まされたわけですが、「私は、ここの騒音の印象を、間違えて伝えたくはない」と前置きした上で、次のように記していました。

もし私が、ここときわめて似た英国の大きな宿屋にいて、五十人の英国人が紙一重を隔てて私の隣にいたとしても、ここの騒音は少なくともその三倍もあるであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.292-293 より引用)
まぁ、そんなところかもしれませんね……。日本人は……という主語は大きすぎるので良くないという話もあるかもしれませんが、概して「浮かれやすい」というのが自分の印象です。日頃は勤勉な人間も旅行先では羽目を外す、というのは今でも良くありそうな気がします。

土曜の晩に私が床について間もなく、伊藤が年老いた鶏を持って入って来て私の眼をさました。彼は、肉が柔らかくなるまでとろ火で煮るのだ、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.293 より引用)
伊藤はイザベラが慢性的な「肉不足」に陥っていることを理解していて、滞在先の町でちょくちょく仕入れに出ていたようですが、今回は無事に入手できたようですね。あとイザベラは「土曜の晩に」と記していますが、自分の計算では土曜の晩は豊岡(三種町)にいたことになるんですよね(一日間違っていたとしても小繋にいた筈)。どこかに間違いがありそうな感じですね。

私は、それが悲鳴をあげながら殺される音を聞きながら、また眠りに入った。するとこんどは、二人の警官が来て眼をさまされた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.293 より引用)
夜中に突然警察官がやってきて、何を言い出すのかと思えば「旅券見せて」とのこと。これ、もしかして職務ではなくて「パスポートを見たかった(同僚に見せたかった)」というオチだったりして……。

その次には提灯をもった二人の男が部屋に入り、蚊帳に躓いたり、這ったりして来て、別の旅客のために蚊帳がほしい、という。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.293 より引用)
……は!? 昔の日本はプライバシー保護の観点ではダメダメだった……というのは理解できますが、他人の部屋に勝手に入ってきて「蚊帳ちょうだい」とか、常人の理解を超越していますね……。まぁ「蚊帳ちょうだい」は方便だった可能性もありそうですが、言うに事欠いてそれか……と思わせます。

ただイザベラ姐さんはすっかり慣れたもので、この椿事も

日本を旅行すると、このようにこっけいな出来事が多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.293 より引用)
「こっけいな出来事」で片付けてしまっていました。さすが……!

大荒れの天気の中、無理やり大館までやってきたイザベラ一行ですが、やはり今のままではこの先には進めないという判断だったようで……

五時ごろ伊藤が来て私の眼をさまし、背骨の治療はモクサに限る、と言った。どうせ私たちは一日中ここに滞在するのだから、お灸をすえる人を呼んで来ようか、と言った。私は、盲目の按摩も嫌いだが、お灸も嫌いだ、とはっきり断った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.293 より引用)
イザベラは、いわゆる「東洋医学」を「インチキ」だと断定していた節があるので、身体の「ツボ」を刺激する「お灸」についても「効能が確かではない民間医療」と見ていた可能性が高そうですね(あるいは単に熱いのが苦手だったのかもしれませんが)。

大館の街

第三十一信(初版)の最後には、大館の街についての地誌情報が記されていましたが、やはりと言うべきか、普及版ではカットされていました。

大館は他の同じ規模の多くの町と同じく、存在するための特別な理由がないようにみうけられます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.112 より引用)
……。いきなり酷い言われようですね(原文では "no special reason for existence" となっていました)。

しかしながら、荒れ狂うヨネツルガワ[米代川よねしろがわ] による能代との交易があり、行灯アンドン(ズ)やお椀のための粗悪な大量の漆と、収穫のために使われる短い刃物、ほとんど庭のような日本の耕作地の唯一の道具として使われる鍬や根堀鍬を作っています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.112 より引用)
一語一語に余計なひと言が付け加えられている感がありますが、これがイギリス風なんでしょうか……?(汗) 「米代川を経由した能代との交易と鉄鍛冶が盛んである」と書いておけばいいのに、と思ってしまいます。

 これは惨めに見える町で、つぎはぎだらけで、支柱で押さえてあり、悲惨な溶鉄炉に大勢の鉄工がいますが、これらの鍛冶場がある場所の通りに並ぶさまは、スタッフォードシャの製鉄釘村のスラムに似ています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.112 より引用)
まぁイザベラの舌鋒(書きっぷり)はこれまでも割と酷かったので、これが彼女のスタイルなんでしょうね。有りもしない美辞麗句を並べられるよりは資料的価値もありますし……。

 雨は依然として烈しく降り続けている。これから北へ向かう道筋の道路や橋の災害の噂が、刻々と伝わってくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.293 より引用)
7 月末の大雨ですが、これはこの年だけのものだったのか、それとも毎年こんな感じだったのでしょうか……?

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2023年11月22日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (146) 「どんぐりとすももとトラクターのむら」

道道 238 号「更別幕別線」に北西に向かいます。この先には「とかち帯広空港」があるようですが、明らかに青看板に手直しした跡があるのはご愛嬌ですね。
「十勝」と「帯広」の関係性はちょっと面白そうなところがあって、たとえばお隣の釧路だと「釧路市」で「釧路総合振興局」なので、どう転んでも「釧路」なのですが、十勝エリアの場合は帯広市内が「帯広」で(これは当然)、それ以外の町村は「うちは十勝だよ帯広じゃない」という意識があったりするのでしょうか。

「十勝ナンバー」の導入についても、どうやら「帯広」ナンバーを廃止した上で「十勝」ナンバーの導入を希望していたらしく、「うちは帯広じゃない」という意識がありそうにも思えるんですよね(歴史的経緯を考えると、特に広尾あたりは「帯広」ナンバーへの抵抗感があっても不思議は無さそうに思えます)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

十勝スピードウェイの「サウスゲート」に向かう道の交叉点に戻ってきました。さっきはこの交叉点を曲がってサウスゲートに向かったんでしたね。

2023年11月21日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (145) 「十勝スピードウェイ」

「十勝スピードウェイ」の「サウスゲート」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ここは「十勝スピードウェイ」の「サウスゲート」の筈ですが、ゲートの上には「TOKACHI INTERNATIONAL SPEEDWAY」の文字が。そう言えば以前は「十勝インターナショナルスピートウェイ」だったような気もしますが……

2023年11月20日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (144) 「サウスゲート!」

左折すれば「さらべつカントリーパーク」という交叉点を直進して更別村に入りました。「更別村」の下には「協和31号」とありますが、これは道の名前なのか、それとも……?(地理院地図はこのあたりを「更別村字弘和」としています)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ここは道道では無いので、おそらく村道だと思うのですが、主要道のような本格的な矢羽根が立っています。

2023年11月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1090) 「幣舞・茂尻矢・武佐」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幣舞(ぬさまい)

nusa-oma-i
祭壇・そこにある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路市は滝川からやってきた国道 38 号と浦河からやってきた国道 336 号の終点で、根室に向かう国道 44 号の起点でもありますが、いずれも幣舞橋の南にある「幣舞ロータリー」が起終点となっています(全ての国道がわざわざ「行き止まり」である「幣舞ロータリー」に向かっているように見えます)。

釧路の市街地は釧路川の南北に広がっていますが、川の南側が古くからの市街地で、川の北側は鉄道の開通とともに広がっていった感じでしょうか。幣舞橋は釧路の南北を結ぶ最も重要な橋だったようで、それは今も変わっていないように思われます。

「祭壇のあるところ」

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヌサマイ」と描かれていました。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。

またしばしにて
     ヌサマイ
是わたし場の上の岬の鼻にヱナヲの多く建て有る処を云よし。ヌサは木幣の事、マイはヲマイの儀にて在ると云事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.521 より引用)
nusa-oma-i で「祭壇・そこにある・ところ」と見て良さそうですね。一本の原木……じゃなくて枝から「イナウ」を削り出して、そのイナウを納める場所があった……ということなのでしょう。

幣帛拖ヌサマヰ

豊島三右衛門は「ヌサマイ」に次のような字を当てていました。
「幣帛拖」で「ヌサマヰ」とのこと。なんと今回も欠字は無く、しかも JIS 第 1 水準、第 2 水準、第 3 水準が順に並ぶという見事なコンプリートぶりです。「拖」の字は「浦見」の元となった「裡黎拖ウラリマイ」と同じで、「幣」の字は現在の「幣舞」と同じです(!)。読みこそ若干異なるとは言え、豊島三右衛門の当てた珍妙な文字がそのまま残っているというのは感動ですよね。

豊島三右衛門地名解には次のように記されていました。

マヰ  但此所後□山ノ上ニ古民ノ「ヌサ」アリ其前ヲ名付ルナリ
但「ヌサ」ト云ハ幣帛ト云フ同言也「マヰ」ト云フハ山ノ上ニ□□アル前ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.19 より引用)
戊午日誌の解と同じように見えますが、よく見ると松浦武四郎は「渡し場の岬にイナウを立てた」としたのに対し、豊島三右衛門は「山の上に幣場がある」としています。ちょっと気になるところですが、本題からは外れてしまうので、とりあえず見なかったことに……()。

茂尻矢(もしりや)

mosir-ya
島・岸
(記録あり、類型あり)

2023年11月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1089) 「知人町・浦見」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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知人町(しりとちょう)

sir-etu
大地・鼻
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路川南岸の丘陵地帯の西端部、釧路港南埠頭のあるあたりの地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シリエト」という名前の崖が描かれています。

豊島三右衛門はここを「シリイト」だとして、次のような字を当てていました。
残念ながら「ト」に当たる文字が欠けてしまっていますが、「揩恰□」で「シリイト」だそうです。地名解としては次のように記されていました。

シリ  但此所ノ出岬ノ鼻ヲ名付ルナリ
但「シリ」ト云ハ山續キト云フ言葉ナリ「イト」ト云ハ山ノ出岬鼻ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.20 より引用)
当てた字はさておき、解釈は割と穏当な感じがしますね。加賀家文書「クスリ地名解」(1832) にも次のように記されていました。

シリヱト シリ・ヱト 国地・鼻
  海え出崎しを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.257 より引用)
sir-etu で「大地・鼻」では無いかとのこと。加賀伝蔵も豊島三右衛門も、全く同一の解釈のようです。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Shir'etu   シレト゚   岬
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.329 より引用)
知里さんが「そういうとこやぞ」と言って全力でツッコんできそうな解ですね……(間違いじゃないというか凄く正しいのだけど、ざっくりしすぎ)。

浦見(うらみ)

urar-oma-i?
靄・そこにある・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年11月17日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (143) 「ちゅうるい」

国道 236 号を北上して幕別町(旧・忠類村)に入りました。こ、このカントリーサインはっ!
幕別町は「パークゴルフ発祥の地」らしいのですが、なんとナウマン象がパークゴルフをプレーしています。ナウマン象と言えば忠類村(当時)で、幕別町はその忠類村を吸収合併したのですが、カントリーサインの絵柄も旧・忠類村のシンボルだった「ナウマン象」をあしらったものになっているのは素晴らしいですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

カントリーサインの横には「大樹ここから宇宙そらへ」とのコピーが記されたオブジェが置かれていました。「またのお越しを」とありますが、よく見ると中国語と英語でもメッセージが記されているんですよね。

2023年11月16日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (142) 「未成道?」

国道 336 号と道道 55 号「清水大樹線」が接続する交叉点にやってきました。道道 55 号はここが終点とのこと。「この辺に『清水』ってあったっけ……」と思ったのですが、十勝清水のことだったんですね(汗)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

「大樹町多目的航空公園 SORA」と「晩成温泉」の案内が立っているのですが……

2023年11月15日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (141) 「関係者以外立入禁止」

大樹町宇宙交流センター SORA」の展示を一通り見終えたので、退出して駐車場に戻ってきました。娑婆の光が眩しいぜ……!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりは、厳密には「大樹町多目的航空公園」で、その中に「大樹航空宇宙実験場」などなどが存在するのでしたね。「大樹町宇宙交流センター SORA」のほかにはどんな施設があるのか気になるところですが、ちゃんと地図が用意されていました。

2023年11月14日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (140) 「ゴールデンウィーク特別展示」

展示室?の上方の壁には「北海道スペースポート計画」と題された絵(想像図)が描かれていました。
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パネルにも「宇宙港」関連の新聞記事をスクラップしたものが貼られていました。

2023年11月13日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (139) 「うしろのスイッチを押してみよう!」

ガチな宇宙開発の PR 施設かと思いきや、実は「銀河連邦」の PR 施設じゃないかとの疑惑が拭えなくなってきた「大樹町宇宙交流センター SORA」ですが……
(上部右側で Adobe Firefly の生成 AI による生成塗りつぶしを使用)
ちゃんとした展示パネルも設置されていました。大樹町が「父さんな、これからは宇宙開発で食っていこうと思うんだ」と意思表明したのは 1984 年だったのですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

壁には「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」のコーナーも。このパネルの展示の仕方、どことなく期間限定の「見本市」系のイベントっぽい感じも……。

2023年11月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1088) 「興津・春採」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

興津(おこつ)

ooho-tu-nay??
深い・二つの・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
春採湖の東岸に釧路市春採の市街地が広がっているのですが、興津おこつは春採の南東隣に位置する市街地で、一部は海に面しています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には何故か「ヲリオマコツ」と描かれているように見えますが、伊能忠敬の「大日本沿海輿地図」(1821) には「ヲコツナイ」と記録されています。

「つなぐ・沢」説、「つづく・沢」説

加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

ヲコツナヱ ヲコツ・ナヱ つなぐ・沢
  此所に枝沢多く有故斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.258 より引用)
あれ、「ヲコツ」にそんな意味があったかな……と思ったのですが、「アイヌ語千歳方言辞典」(1995) には次のように記されていました。

オコッ okot 【動 2】 ~の後に続く;<o-「~の尻」kot「~にくっつく」。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.115 より引用)
ふむふむ。okot-nay で「後に続く・川」ではないかと言うのですね。

興味深いことに、半世紀後の豊島三右衛門地名解でもほぼ同様の解が記されていました。
ヲコ𣙇ナヰ  此所小川有此川曲リ曲リ澤ニ續ヲ名付ル也
但「オコツ」ト云フハ曲リ續クト云フ言葉也ナイト言フハ澤ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.21-22 より引用)
今回は「鰧𣙇薙」と来ましたか……。相変わらず飛ばしてますね……。

定番の「合川」説

一方で、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Oukot nai   オウコッ ナイ   合川 二川合流スル處二名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.329 より引用)
あー、やはり。定番の解が出てきましたね。o-u-kot-nay で「河口・互いに・くっついている・川」で、オホーツク海沿いの「興部」と同じではないか、という考え方です。

また、「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

ヲヽコツナイ(瀧)澤口二ツ上にて一ツになる也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.314 より引用)
これは……。永田地名解の考え方と似ていますが、「河口が二つで上流部で一つになる」というのは、現地の地形を考えるとちょっと無理があるように思えます。平野部で河口が複数に分裂するのは良くある話ですが、釧路市興津のあたりは海のすぐ近くまで高台が迫っているので、ちょっと無理がありそうな……。

ついでに言えば、一般的な o-u-kot-nay は、沿岸流によって流された砂によって河口部が塞がれて流れが捻じ曲げられてしまい、隣の川と合流した後で海に注ぐ川を指す場合が多いのですが、興津の場合、釧路市立興津小学校の西と南東に流れる川が砂浜で合流してから海に注いでいた……ということになります。

航空写真で見ると砂浜も存在するようなので、この条件をクリアしているようにも思えますが、この両河川が微妙に離れすぎているような気も……しないでも無いんですよね。

「深い・二つの・川」説?

実は、「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     ヲコツナイ
又ヲホツナイとも云へり。漁小屋有。小川。歩行渡り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.375 より引用)
仮に「オホツナイ」だとすると、ooho-tu-nay で「深い・二つの・川」と解釈できてしまうのですね。釧路市立興津小学校は海沿いにありながら標高 21 m という絶妙な立地(津波に流される心配が少なそう)にあるのですが、その左右を流れる川は学校の敷地よりも 10 m ほど、あるいはもっと下を流れています。

要は「深く切り立った川」なのですが、ここで注意したいのが oohorawne の使い分けです。どちらも「深い」を意味しますが、rawne が「深く切り立った」を意味するのに対して ooho は「水かさが深い」ことを意味します。

今回のケースでは ooho ではなく rawne を使うのが適切に思えるのですが、道東エリアでは ooho を「深く切り立った」の意で使用するケースが多いのです(たとえば厚岸町の「大別」や、斜里町の「オオナイ川」などなど)。

一般的な o-u-kot-nay か、それともユニークな ooho-tu-nay のどちらを採るかで悩んでいるのですが、「ヲコツナイ」という形で「ツ」の音がしっかりと残っているという点と、お隣の益浦の旧名が「オソ津内」で、これまた「ツ」の音がしっかり残っているという点を考慮すると、ooho-tu-nay 説もアリなんじゃないかな……と思えてきました。

「獺津内」こと「オソツナイ」は o-so-o-tu-nay で「河口・水中のかくれ岩・多くある・二つの・川」と読めるかな……と。

春採(はるとり)

ar-utur
向こう側の・間
(記録あり、類型あり)

2023年11月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1087) 「毘沙門・桂恋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

毘沙門(びしゃもん)

pes-sam
水際の崖・傍
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路市三津浦の「三津浦神社」の西を「ビシャモン川」という川が流れている……そうです(地理院地図には川名が記載されていませんが、国土数値情報には「ビシャモン川」として記載されています)。

また、「三津浦神社」から直線距離で 1 km ほど西に「毘沙門天稲荷神社」という神社があり、その近くに「毘沙門」というバス停があるとのこと。現在の地名は「三津浦」ですが、「毘沙門」も通称として生き残っている……と言ったところでしょうか。

「ペッシャム(現毘沙門)」の衝撃

「角川日本地名大辞典」(1987) には次のように記されていました。

 みつうら 三津浦 <釧路市>
〔近代〕昭和 7 年~現在の釧路市の町名。三ツ浦とも書いた。もとは釧路市大字桂恋村の一部。地名は地内のコンブ漁村集落がアイヌ語地名ペッシャム(現毘沙門)、オコツ(現三ツ浦第 1) , カンバウシ(現三ツ浦第 2) の 3 つに分けられていたことにちなむという。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1446 より引用)
なんと……! 「ビシャモン」は「毘沙門」らしいのですが、これがなんと「ペッシャム」に由来するとのこと。改めて「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を見てみると、確かに「ヘツシヤム」と描かれています。

ちょっと気になるのが、北海測量舎図では「三津浦神社」の傍の川が「オウコツ」となっているところで、0.6 km ほど西を流れる川(国土数値情報では「三ツ浦川」)の近くに「ペンサム」と描かれている点です。

国土数値情報では「三津浦神社」の西「ビシャモン川」が流れていることになっていますが、神社の南東も谷状の地形となっているので、これは o-u-kot で「尻(河口)・互いに・交合する」だった可能性がありそうです。つまり現在「ビシャモン川」とされているのは、何らかの間違いが含まれてそうな感じです。

ベツシヤム? ヘッチャフ?

加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

ヘツシヤフ ヘツ・シヤフ 川・出張
  此所此川口少し出崎に候故斯名附。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.259 より引用)
知里さんは「古い時代のアイヌは,川を人間同様の生物と考えていた」としていましたが、なるほど川も出張するんですね……(違う、そうじゃない)。河口に小さな出崎があったという説明からは、「三津浦神社」の 0.3 km ほど西を流れる小川を指していた可能性もありそうな……?

意外と多くの文献に記録があるようなので、表にまとめてみましょう。

大日本沿海輿地図 (1821)ベツシヤム-
クスリ地名解 (1832)ヘツシヤフヘツ・シヤフ 川・出張
初航蝦夷日誌 (1850)ヘシシヤム-
竹四郎廻浦日記 (1856)ツシヤブ-
午手控 (1858)ヘッチャフ川の手前
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヘツシヤム-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ベチシヤブ岩の岬より山續に成りて、川が有由
豊島翁地名解 (1882-1885?)此所海岸續キ山壇海□□□□ルヲ名付
永田地名解 (1891)ペシ サㇺ崖側 往時アイヌ村アリシ處
北海道地形図 (1896)ペシサム-
陸軍図 (1925 頃)--
地理院地図三津浦-

例によって例の如くですが、豊島三右衛門が絶好調ですね……。これまた例によって「缺〓些傅」で一文字だけ見つけられなかったのですが、
なんともはや……(絶句)。厳密には「傅」の字もちょっと違うっぽいのですが、諦めました(きっぱり)。

「断崖のそば」?

ということで肝心の地名解ですが、永田地名解には次のように記されていました。

Peshi sam   ペシ サㇺ   崖側 往時アイヌ村アリシ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.330 より引用)
pes-sam で「水際の崖・傍」だと思われるのですが、知里さんの「地名解」にも次のように記されていました。

pes-sam, -a  ペㇲサㇺ ①断崖のそば。[pes-sam]。②川ばた。[< pet-sam]。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.90 より引用)
うわぁ、そのまんまでしたね(汗)。「毘沙門」の元は pes-sam で、意味は「水際の崖のそば」と見て良さそうな感じです。

桂恋(かつらこい)

kan-chara-koy??
上方にある・ちゃらちゃら・波
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年11月10日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (138) 「銀河連邦!?」

大樹町宇宙交流センター SORA」の中に入ったところ、謎の等身大?パネルのお出迎えを喰らい「なんじゃこりゃあああ……™」となったのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

宇宙開発がテーマなだけにそっち系なのか……!? と一瞬不安になったのですが、「大樹町」のパネルでは「大樹町多目的航空公園」が紹介されていました。

2023年11月9日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (137) 「大樹町宇宙交流センター SORA」

ここは大樹美成びせいというところで、牧場と農場が点在するのどかなところなのですが、交叉点を右折すると……ファッ!?
明らかに縮尺を間違えたかのような巨大な建物が見えるのですが、これは一体……?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「東五線」を南に向かいます。左に見える巨大な建物の横に「普通の大きさ」の建屋が二棟見えています。

2023年11月8日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (136) 「旧・忠類村」

国道 336 号を南南西に進み、幕別町に入りました。えっ、幕別!? という印象ですが、そうです幕別です。あの幕別では無いほうの幕別です(ややこしいぞ)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

それはそうと、これは圧縮効果もあるのですが、看板が随分と賑やかな感じですね。幕別町に入ってすぐのところを右折すると、500 m 先に「ナウマン象遺跡」があるとのこと。

2023年11月7日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (135) 「道道 881 号の旧ルート」

ホロカヤント」を見に来た筈が、何故か行き止まりに来てしまい、どこに行けばわからなくなったので、とりあえず車を停めて外に出てみました(路駐ですがどうかご容赦を)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ここはアスファルト舗装されていますが、砂が大量に流れ込んでいました。すごく、砂……ですね(そうですね)。

2023年11月6日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (134) 「晩成温泉」

生花苗沼」を後にして、「山振施設内連絡道オイカナマイトー線」で「晩成温泉」に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

上り坂を駆け上がると……

2023年11月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1086) 「地嵐別・又飯時」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

地嵐別(ちあらしべつ)

charse-pet
すべり降りている・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路昆布森宿徳内の西に「吉良ヶ丘」というビュースポット?があり、その南麓に位置する地名です。「吉良ヶ丘」は若くして職に殉じた吉良平治郎というアイヌに由来するとのこと。

「釧路町史」には「チャラシベツ」とありますが、地理院地図の地名情報では「ちあらしべつ」と表示されています。また「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チヤラセヘツ」と描かれていました。

そして、不可解な当て字を量産したことで知られる豊島三右衛門がどんな字を当てたかと言うと……
……。豊島三右衛門の地名解は「作字が夥しい」とも言われ、確かに「〓厂鏤蔑アチヨロベツ」も「〓抓蕺億苗シユクトクウシナイ」も、それぞれ一つずつ該当する文字が見つけられなかったのですが、ついに「チヤラセベツ」に至っては活字化すら覚束ない(解読不能?)有様のようです。

「豊島翁地名解」には、次のような地名解が記されていました。

一、チヤベツ  此所小川有瀧有夫ヲ名付ルナリ
  但「チヤラ」ト云フハ瀧ヨリ水流レ落ルト云ヒ「セ」ト云ハ高キト云ヒ「ベツ」ト云フハ川ト云フ言也
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.25 より引用)
時を溯ること半世紀ほど、加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

チャラセヘツ チャラセ・ヘツ 早・川
  此所の小川水早きを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.259 より引用)
「釧路町史」(「昆布森沿岸の地名考」が元ネタと推測される)には次のように記されていました。

 チャラシベツ(地嵐別)  水が岩の面をちらばって流れ落ちる川。
 ここはマタイトキの隣りの集落で、アイヌ語のチャラルは(すべっている、すべり降りてくる)で、川についていえば、小川が山の斜面を急流をなして飛沫をあげながら流れ下っている状態をさしており、シペツで本流の水上であり、「チャラシセ」ですべり落ちているところから、名付けられたものと思われる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.121 より引用)
「釧路町史」の地名解はちょっと奇妙なところがあって、たとえば今回の場合だと「シペツで本流の水上であり」と記しながら、「水が岩の面をちらばって流れ落ちる川」としているのですね(解には「本流の水上」が含まれない)。

ただ、大局的に見ると、どれも charse-pet で「すべり降りている・川」と考えて良さそうな感じです。charsechararsecharasse と綴られる場合もありますが、岩の上を水がすべるように流れる滝のことを指すのが一般的です。charse に「地嵐」という字を当てたのもかなり傑作ですが、上には上がいた(豊島三右衛門)、ということですね……。

又飯時(またいとき)

ma-ta-etok??
澗・にある・先端部
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年11月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1085) 「アチョロベツ川・宿徳内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

アチョロベツ川

at-chorpokke-kus-pet??
もう一つの・下を・通る・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路昆布森から道道 142 号「根室浜中釧路線」の「昆布森トンネル」を抜けると「アチョロベツ橋」という橋があるのですが、「アチョロベツ川」は「アチョロベツ橋」の下を流れています。

豊島三右衛門が当てた字は

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「アチヨロヘツ」と描かれています。なお「チヨロヘツ」と「アチヨロヘツ」の間には「エトロツヘ」と描かれているのですが、かつては「舳堤辺」と書いて「えとろんべ」と読ませていたとのこと。北海測量舎図には「ユトロンペ」とあるので、どうやら「ユ」が「エ」に誤記されてしまったみたいですね。utur-un-pe で「間・そこにある・もの」ではないかとのこと。

そしてかつては「アチョロベツ」にも「嬰寄別」という字が当てられていたとのこと。ところが、興味深いことに明治期の資料には「鶏寄別」という記録もあり、これは実際にそのような字を当てる流儀があったのか、それとも誤字なのか……?

釧路の難読地名は「豊島三右衛門」によって字が当てられた……と認識していたのですが、「釧路郷土史考」という書物に「豊島翁地名解」という一節があり、その中には
なんと……(汗)。文字にすると「〓」で、最初の文字だけが見つけられませんでした。いやー、「重蘭窮ちぷらんけうし」から釧路町の難読地名を見てきましたが、これはちょっとレベルが違いますね。もしかしたら「重蘭窮」から「昆布森」までの難読地名の名付け親は、豊島三右衛門ではなかった可能性が……(めちゃくちゃ勘違いしてましたすいません)。

「楡の皮を漬けておく川」?

釧路町史には次のように記されていました。

 アッチョロベツ(嬰寄別)  楡の皮を漬けておく川、イウオロ(それを・漬けておく) ベツ(川)
 アツは(オヒョオ・ニレ)で厚司(アツシ・昔のアイヌの人たちの着物)の原糸を取る樹皮であり、このことから、ニレの木が多くあったと思われる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.121 より引用)
at-woro-pet で「オヒョウニレの樹皮・うるかす・川」ではないか……という説ですね。この考え方は永田地名解 (1891) とほぼ同じのようで、永田地名解にも

Achoro pet,= At ioro pet   アチヨロ ペッ   楡皮ヲ漬ス川「アツ、イオロ、ペツ」ノ急言
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.330 より引用)
と記されていました。「水」を意味する wor という語があり、woro で「うるかす」という意味ですが、釧路や北見では worhor と発音されるとのことなので、worohoro だった可能性がありそうです。ただ horoioro は結構な違いがありそうな気も……。

面白いことに、永田地名解には「アチョロ ペッ」のみ記載があり「チョロベツ川」に相当する記載が見当たりません。「アチョロベツ川」が at-woro-pet だとすれば、「チョロベツ川」は偶然名前が似ていただけの、全く異なる川名ということになりそうですが……。

「釧路町史」(おそらく「昆布森沿岸の地名考」が元ネタ)は「チョロベツ」を chir-or-pet では無いか……としていたので、これも「チョロベツ」と「アチョロベツ」は偶々似通っただけの全く異なる川名だったと考えていた、ということになります。

「もう一つのチョロベツ」説

ただ、加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には「アチョロヘツ」「ユトロンヘ」「チョロヘツ」の順で記載があり、「アチョロヘツ」の項には次のように記されていました。

アチョロヘツ アツ・チョロ・ヘツ 半分・下・川
  此所に小川有。半分は沼より流、半分はチョロヘツより流れ集を斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
この「半分は沼から流れ、半分はチョロヘツより流れる」というのは、地形的にはあり得ないのですが、「半分」という解は「対をなして存在する(と考えられる)ものの一方」を意味する ar- のことと考えられそうに思えます。

「チョロヘツ」は、加賀家文書「クスリ地名解」には次のように記されていました。

チョロヘツ チョロ・ヘツ 下・川
 此所之川浪にて尻を留め居候節、砂の下水通(す)を名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
この「砂の下に水が通る」ということから chorpokke-kus-pet で「下を・通る・川」ではないか……と考えたのですが、「アチョロベツ」も同様に沿岸流が運んだ砂によって河口が塞がれてしまい、水が伏流して海に注ぐという特徴を有していたのではないか、故に at-chorpokke-kus-pet で「もう一つの・下を・通る・川」だったのではないか……と考えてみました。

ar-at- に化けているのは、知里さんの「アイヌ語入門」にある「r は,ch の前でも,それに引かれて t になる」に依るものです。

「嬰寄別」はどこに消えた

ちなみに「嬰寄別あっちょろべつ」という地名は、現在は「城山」と呼ばれているようですが、釧路町史によると

ここは、松浦武四郎の「蝦夷日誌」で城跡や烽火場などがあったことから城山といわれたのだろう。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.121 より引用)
とのこと。どうやら第二次大戦中に「城山」と改められてしまったようです。

宿徳内(しゅくとくない)

si-kut-o-kus-nay?
大きな・崖・そこで・横切る・川
sukutut-us-nay?
エゾネギ・多くある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年11月3日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (154) 小繋(能代市)~大館(大館市) (1878/7/29(月))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

ただ、今回取り上げる箇所は「夜の騒ぎ」と「うるさい宿屋」のどちらかということになるのですが、どちらの題も不適切な感じがします。英語版では "BRITISH DOGGEDNESS" という副題?を見かけたのですが……。

英国人の頑固さ

小繋(能代市二ツ井町)で一泊したイザベラでしたが、夜が明けるとすぐに移動を再開したようです。期待した通りに進めていないという焦りからか、この日も早めに出発したとのこと。

 早く出発したが、道路は悪く、ぐずぐず遅れるので、ほとんど進まなかった。一日中大雨が止むことなく降った。道はほとんど通行不可能で、私の馬は五回も倒れた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
イザベラ一行は、小繋から大館まで羽州街道を通ったと推察されるのですが、やはり長雨が与えたダメージが大きかったのか、酷い状態だったんですね……。

私は苦痛と疲労がひどくて、海辺まで行きつくことはとても駄目かとほとんど絶望するほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
ん……? イザベラは大館に向かっていた筈で、どう見ても「海辺」では無いのですが、これは原文を見るべきでしょうか。

I suffered severely from pain and exhaustion, and almost fell into despair about ever reaching the sea.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
ふーむ。確かに reaching the sea. と書いてありますね。これは具体的なゴールではなく、抽象的な表現と見るしか無さそうでしょうか。

名訳かも?

イザベラは少しずつ「奥地」に足を踏み入れているのですが、奥地に入るにつれてこれまで享受してきたサービスを少しずつ失いつつありました。

このような田舎では、駕籠カゴ乗り物ノリモンも手に入らなかった。駄馬だけが唯一の輸送機関であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
逆に言えば、少なくとも久保田(秋田)のあたりまでは、それなりに「駕籠」を手配することができた……ということでしょうか。大名ダイミョーのお殿様のいるところは、そういったサービス基盤が整っていた、ということなのかもしれません。

昨日私は自分の鞍を捨ててしまったので、不幸にも荷鞍に乗らざるをえなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
「自分の鞍を捨ててしまった」のですか。傷んでボロボロになったのかもしれませんが、これは誤算だったのでは……。組み立て式ベッドを携帯していたイザベラですが、流石に予備の鞍は確保していなかったのですね。

その鞍の背は特にかど角ばり頑固にできていて、上には久しく洗濯したこともない水浸しの座蒲団フトンがのっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
まぁ「荷物用の鞍」ですからねぇ。蒲団があるだけラッキーだと思うべきかも……。

円材も索具も、馬の背も凹みも、全くしゃくにさわるものばかり。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
この訳文は「蒲団がのっていた」に続くもので、原文では次のようになっていました。

I had the bad luck to get a pack-saddle with specially angular and uncompromising peaks, with a soaked and extremely unwashed futon on the top, spars, tackle, ridges, and furrows of the most exasperating description,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
よく見ると、高梨健吉さんは、本来は一つの文章だったものを二つに分割して訳出しています。米原万里さん風に言えば「不実な美女」ですが、「全くしゃくにさわるものばかり」という言い回しは、まるでイザベラの愚痴がそのまま文章化されたかのようで、「名訳」なのでは……と思えてきます。

雨の日の山の匂い

長雨の中、必死に移動を続けるイザベラでしたが、そのような状況にあっても美しい景色に触れることのできる感性は失っていなかったようです。

 大雨の中でも、白い霧が去って松林におおわれた山の峰がちょっとでも見えてくると、美しい景色となった。私たちが深い谷間に辷り下りて行くと、苔むした丸石や、地衣類におおわれた切株、絨氈を敷いたような羊歯類、ピラミッド型の杉の木の湿った良い香りがあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
この文章、イザベラは見たままを綴っているだけなのですが、めちゃくちゃ「わかる」ボタンを押しまくりたいですね……。平たく言えば雨の日の山の匂いなんですが、まさに「そう、これ!」とヘッドバンキングしたくなる文章です。

うんざりする程の長雨でも、その中に「美」を見出すとは流石イザベラ姐さん……と感心してしまったのですが、一方でこんな風にも綴っていました。

いかに美しい地方でも、荷鞍にしがみつき、身体の下の座蒲団はぐしょぐしょになって、自分の濡れた衣服から下の靴まで水がゆっくりと浸みこんでゆくのを感ずるのは、楽しいことではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
まぁ……そうですよね。水たまりに運動靴で突っ込んでしまって、水がじわっと染み込むのを体感した時の感触ほどおぞましいものは滅多に無いですし……(ついでに言えば絶望感もありますよね)。

こんど休むところでは、また湿ったベッドに寝て、湿った着物に着かえ、翌朝また湿ったものを着て出発するのかと思うと、うんざりする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
これ、自分の身に置き換えて考えてみると「うんざりする」どころの話では無いですよね。真っ先にカビの心配をしてしまうのですが……。

イザベラは、このあたりの村々は「みすぼらしい」とした上で、次のように記していました。

家には窓はなく、どの割れ目からも煙が出ていた。それは南日本で旅人たちの眼に映ずるものとは違っていた。それはウイスト(スコットランド北西の島)の「黒い小屋」がケント州(英国南部)のきれいな村と似ていないと同様である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)※ 原文ママ
「ウイスト」は Uist で、スコットランドの北西に浮かぶ列島の中に North UistSouth Uist という島があります。Uist というのは英語の地名としてはちょっと珍しい感じがするので、他の言語に由来する地名だったりするでしょうか。

これら農民たちは、もっと家の中の暮らし方を学ばなければなるまい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
根本的には貧困が問題の根源であるような気も……。あと家の中が煙たいのは「虫対策」だった可能性もあるかもしれません。室内を煤まみれにしないと虫が湧いて酷いことになるケースもあったみたいで……。

「英国人の頑固さ」と「馬子の好意」

イザベラは綴子つづれこまで到着したところで、またしても足止めを食らうことになります。

次の駅の綴子つづれこで、駅亭があまり汚かったので、私は雨の中を街路に腰を下ろしていなければならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
「綴子」は現在の北秋田市綴子で、国道 7 号バイパスには「道の駅」があります。鉄道は少し南の「鷹巣」を通っているのですが、鷹巣経由のほうが勾配が少ないというメリットがあったのでしょうか。

逆に羽州街道が何故鷹巣を経由しなかったのかが謎な感じもしますが、泥炭地で地質面の不安があったから……とかでしょうか?

イザベラが綴子の駅亭(の前の路上)で待つ羽目になったのは、またしても橋が流され渡し場にも行けなくなったからでした。しかしイザベラはどんな交渉術を使ったのか、それとも単にゴネて暴れたのか、大雨の中、更に進むことに成功します。

しかし私は馬を雇って、英国人の頑固さと馬子の好意により、私は馬だけ単独に荷物をつけずに小さな平底船に乗せて、増水した早口ハヤクチ川、岩瀬ユワセ川、持田モチダ川を渡らせ、ついに古馴染なじみ米代川ヨネツルガワの三つの支流を歩いて渡ることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290-291 より引用)
川名は、原文では the Hayakuchi, the Yuwase, and the Mochida, となっていました。the Hayakuchi は現在の「早口川」で、the Yuwase は現在の「岩瀬川」なのですが、the Mochida はどうやら現在の「長木川」のことみたいです。羽州街道は「餅田橋」で長木川を渡っていて、川を渡った向こう側が「大館市餅田」らしいので、「餅田川」という通称があったのかもしれません。

激流は白い泡をとばし、人夫たちの肩や馬の荷物にふりかかった。百人もの日本人が、外国人の「愚かさ」を眺めていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
イザベラは旅程に遅れが生じていることを承知していて、無理をしてでも遅れを挽回しないと行けない……と思っていた節があります。たとえ「奥地紀行」という「冒険」であったとしても、本来は厳しく戒められるべき考え方なんですけどね。

イザベラは「まわりの人たち」を振り回していたと十分に自覚していたようで、次のような文章を記しています。

 私はどこでも見られる人々の親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配して、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
一歩間違えれば自分の命も覚束ない状況でありながら、異国からやってきた旅人に親切にするというのは、古今東西を問わず万国共通なのかもしれませんね。

イザベラは馬を乗り降りする際に馬子が体を支えてくれたり、あるいは馬子自ら踏み台になってくれたことを謝した上で、次のようにも記していました。

あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
長旅に疲れ切っていた旅人へのせめてもの心遣いなんでしょうけど、これは嬉しいですよね……! イザベラはその心遣いにどう応じたかと言うと……

それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
姐さん、さすがですね(汗)。

私は、川口カワグチという美しい場所にある古い村に滞在したらどうか、と言われたが、ここはあらゆるものが湿っていて徽臭く緑色であり、緑色と黒色の溝から出る悪臭はあたりに満ちて、傍を通るときでさえも堪えられないほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
この「川口」というのは現在の「大館市川口」、かつての「下川沿村川口」ですが……なんか場所を明かしてしまうのが申し訳なく感じられるような書きっぷりですね。さすがのイザベラ姐さんもこれはキツいと判断したようで……

そこで大館まで馬で行かねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
ふむふむ。改めて地図を眺めてみると、一日でかなり進んだようにも見えますが、前日が(二ツ井の難所を含めて)三種町豊岡から能代市二ツ井町小繋(能代市のほぼ東端)まで移動していたので、それほど劇的に進んだというわけでも無さそうです。

この先も前途多難な予感がしますが、果たしてどうなりますやら……。

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2023年11月2日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (133) 「生花苗沼」

道道 881 号「ホロカヤントー線」の終点にやってきました。左に向かうと「生花苗沼」、右折すると「ホロカヤントー」「竪穴群遺跡」そして「晩成温泉」です。
それにしても、ピクトグラムではなくイラストをあしらった青看板というのは中々珍しいですよね。このあたりは行楽地として絶賛売出し中ということなのか、青看板にも気合が入っています。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

青看板では T 字路のように描かれていますが、実際には「生花苗沼」に向かう道路は斜め 45 度程度の角度で接続しています。生花苗沼側から見ると Y 字路に相当する形の交叉点です。

2023年11月1日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (132) 「もしかして……桜?」

道道 881 号「ホロカヤントー線」に入りました。路線名は「ホロカヤントー線」ですが、このあたりは「生花苗沼」に注ぐ「生花苗川」の流域で、左右は牧草地が広がっています(畑だったらすいません)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

どう考えても生花苗沼のほうが近そうな気がするのですが、青看板には「生花苗沼 9 km」「ホロカヤントー 8 km」と出ています。あと「生花苗沼」のアルファベット表記は Oikamanaito なんですね。