2023年7月15日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1054) 「厚岸」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

厚岸(あっけし)

ar-kes?
もう一方の・末端
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
牡蠣で有名な「厚岸町」の町名で、同名の駅もあります。まずは基本情報として「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  厚 岸(あっけし)
所在地 (釧路国)厚岸郡厚岸町
開 駅 大正6年12月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「アッケシ・イ」(カキのある所)の転かといわれているが、「アツ・ケ・ウシ」(オヒョウニレの皮をはぐ所)が正しいと思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.154 より引用)
「カキのある所」という傑作な解はジョン・バチェラーのものですね。とりあえずバチェラーさんの解はささっとスルーして、上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」(1824) を見てみましょう。

夷語アツケウシなり。則、あつし草を剝ぐ所と訳す。扨、アツとはあつし草の事。ケーとは剝くと申事。ウシとは生す又は成すと申意なり。扨亦、アツケシと申沼は會所許より西北の方二里程隔ちある也。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.65 より引用)
どうやら「駅名の起源」はこの上原説を元ネタにしているようですね。at-ke-us-i で「オヒョウニレの樹皮・削る・いつもする・ところ」と読めそうでしょうか。地名では at に続くのは -ke よりも -kar(作る;取る;刈る)のほうが多い印象があるのですが、何故 -ke なんでしょう……?

「厚岸」はどこにあった

まだ続きがありまして……

常時會所の在る所をヌシヤアシコタンといふ。則、削り掛けを建る所と譯す。ヌシヤとは削り懸けの事夷人是をイナウといふ。アシとは建る。コタンとは村又は所とも云ふ事にて、土地の夷人此所に夥敷削り懸を建て、神々を祭るゆへ地名になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.65 より引用)
「厚岸」の会所のあるところは「ヌシヤアシコタン」だとのこと。nusa-as-kotan で「ぬさ・立つ・村落」だと言うのですが、「幣」は inaw というアイヌ語があるだけに、中途半端に和語が混ざっているのも奇妙な感じを受けます。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を見ると、「ハラサン」(=バラサン岬)の隣(北側)に「ノサウシ」と描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。

岸を離るゝことしばしにて右の方に
     ノサウシ
ヌサウシなるなり。是会所前の木幣を多く立し処なる也。ヌサはエナヲの事、ウシは多しの儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.543 より引用)
どうやら松浦武四郎は nusa-us-i で「幣・多くある・ところ」と解釈したようですね。現在の「厚岸」は町名・駅名で、役場も駅も「厚岸大橋」の北側にあるのですが、本来の「厚岸」は「厚岸大橋」の南側の地形だった……ということを認識する必要がありそうです。

消えたオヒョウニレ

ちょいと時代を遡って、秦檍麿の「東蝦夷地名考」(1808) を見てみると……

一アツケシ
 アツは集の義、ケシは足なり。又、下の義なり。此處、東夷地村里の極なる故に此名あり。夏月中は、ビバセイ、ヲツチシ共に此慮より出て漁事す。俗に云、アツケシはアツシの木、此邊絶て産せさる故に名付たりといへとも、語意ニ適せされハ妄といふへし。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.33 より引用)
「アツは集の義、ケシは足なり」というのは……日本語のニュアンスを多分に含んでいるような気が。ちょっと面白いのが「アツシの木」、すなわちオヒョウニレが「無い」ことを「アツケシ」と呼んだという俗説があるけど *間違いだよ* と注釈が入っている点でしょうか。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

At kesh tō   アッ ケシュ トー   楡下ノ沼 厚岸ノ元名ナレドモ今ノ厚岸ノ地ニアラズ眞龍村ニアリシ小沼ノ名ナリ國郡ノ部ニ詳ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.353 より引用)
「国郡の部に詳しく書いてあるよ」とのことなので、「厚岸郡」の項も見ておきましょうか。

厚岸アツケウシ 原名「アッケㇱュトー」(At kesh to)楡下ノ沼ノ義昔楡樹多クアリタルヲ以テ楡皮ヲ此沼ニ漬シタリ故ニ名ク
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.23 より引用)
ここまでは良い……かと思ったのですが、at-kes-to は「オヒョウニレの樹皮・末端・沼」と読めても、果たして「楡の木の下の沼」と読めたか……と考えると、疑わしく思えるのですね。

kes はあくまで「末端」だったり「しものはずれ」であって、田村すず子さんの辞書にも the lower edge, side of……; the western side; the end. とあるように、決して belowbeneath では無いのですね。なので「楡下の沼」は「楡の木の下の沼」ではなく「楡の木のしもてにある沼」と理解すべきなのでしょう。

其後「アッケウシ」(At ke ush-i)ト呼ブ直譯スレバ楡皮ヲ掬ヒス處ノ意小沼ニ漬シ置キタル楡皮ヲ失ヒシヨリ名クト後説ハ松前記欄外ニモ記シテ云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.23-24 より引用)
やがて「アッケシュトー」が「アッケウシ」に変化した……と読めるのですが、at-ke-us-i は「オヒョウニレの樹皮・消す・いつもする・ところ」なのだ……と。ke は「消す」の「ケ」だという画期的な解釈ですが、この珍説、秦檍麿の「東蝦夷地名考」のオマージュっぽいような感じが……。

「アッケウシトー」ハ楡衣アツトシヲ嫌フ水神此沼ニ在スノ義ヲ取ルト」
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.24 より引用)
「オヒョウニレの樹皮」は「アットゥシ(織物)」の原料となる貴重なものなのですが、何故その貴重な原料が消えるのかは、「アットゥシが嫌いな水神様がいたから」なのだとか。話がどんどん盛られて来た感が……。

「アツケシ沼」はどこに

そしてしれっと最重要ポイントが記されているのですが、この沼は厚岸(厚岸大橋の南側)には存在しないとのこと。

然ルニ此地名ハ即チ今ノ厚岸ニ在ラズシテ眞龍村ナル小沼ノ名ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.24 より引用)
本来の「厚岸」は「厚岸大橋」の南側だったのですが、現在役場や駅のあるあたりは「眞龍」と呼ばれていました(厚岸の市街地の北半分は「眞龍村」だった、と言うことになりますね)。

この沼についてですが、山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) によると……

 この沼は今の白浜町の辺だったらしい。松浦氏東蝦夷日誌は「エウルトウ(沼。周三,四丁),またアツケシ沼共云」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.25 より引用)
むむ。確かに東蝦夷日誌 (1863-1867) にも次のように記されていました。

(八丁十間)エウルトウ(沼、周三四丁)、又アツケシ沼共云。共に赤楡あかだも皮を浸し置義也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.325 より引用)

「ヱヲロト」と「アツケシトウ」

この沼は「初航蝦夷日誌」(1850) にも「ヱヲロト」と記されていました。

     モヱシユツ
此上岩有。沙浜道よろし
     ヲチシ子
此上に沼あるなり。越而
     フブシ
沙浜少し過て
     ヱヲロト
方三丁ニ五丁も有。蘆荻多し。
     シユ丶ヤ
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.382 より引用)
「方三丁」に「五丁」ということは、大きさは 327.27 m × 545.45 m 程度ということでしょうか。一方で「午手控」(1858) には次のように記されていました。

トマタロ     モンシユツ
サツテキトウ    ルチシ
モイワ      アツケシトウ
シユシユウベ    シンレウニコロ
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.233 より引用)
「エウルトウ」あるいは「ヱヲロト」ではなく「アツケシトウ」と記されています。これは一見、東蝦夷日誌 (1863-1867) の「エウルトウ」=「アツケシ沼」という記録を裏付けているように見えます。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

これらから厚岸の起源はアッケシトー(沼) で、それは北市街地の白浜町と宮園町の境界付近に周囲300~400㍍の小沼があったものと考えられている(厚岸町史)。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.286 より引用)
鎌田さんの文は概ねこれまでの情報と相違ないのですが、「あったものと考えられている(厚岸町史)」というところに注目でしょうか。明治時代の地形図にはそれらしい小沼が描かれていないこともあり、松浦武四郎が記録した「エウルトウ」あるいは「ヱヲロト」は、実体が今ひとつ見えてこない感もあります。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「ヱヲロト」は本当に「アツケシトウ」だったか

更に気になる点として、「初航蝦夷日誌」(1850) に次の記述があるのですが……

扨此処蠣しまを越而
     アツケシトウ
此トウは蛎しまより内也。則前ニ図するごとし。東西凡弐里。南北凡壱り斗と思わるゝ也。先其字をしるさば沼の西北の方
     ヤマコベツ川口
此川口タンタカの東うし(ろ脱)に当る。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.403 より引用)
これは「アツケシトウ」についての記述ですが、「蛎しま」(=牡蠣島)とあることからもわかるように、明らかに現在の「厚岸」を指しています。更に「午手控」(1858) の「アツケシ海岸地名の訳覚書」にも次のように記されています。

モンシユツ 不知
ルチシ
 此上道有るよし。小沼也
モイワ
 小山有て此山の沖に当りて鯨の鼻音する如き事有。是を聞時は大時化等へん(変)事有。
アツケシトウ
 岬の浜辺にて鹿や熊を取し由。本名ウトルウシベと云り。ウトルは岬と岬の間、ウシヘと云は其処ニも有ると云事也
トウバイ
 沼の源と云り。大川有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.350 より引用)
「トウバイ」は厚岸湖の南東に注ぐ東梅」のことと見られるため、この「アツケシトウ」もやはり「厚岸湖」のことだと考えられます。ところが「モンシユツ」→「ルチシ」→「モイワ」→「アツケシトウ」という順番は前述の手控メモとも一致しています。

何を言いたいのかという話ですが、東蝦夷日誌 (1863-1867) の「エウルトウ、別名アツケシトウ」という記述が松浦武四郎のうっかりミスの可能性があるのでは、ということです。もちろん「ヱヲロト」の大きさ(「方三丁」に「五丁」)は「アツケシトウ」よりも明らかに小さいので、「ヱヲロト」あるいは「エウルトウ」に相当する沼が存在したのかもしれませんが、それは「アツケシトウ」では無い可能性が高いのではないかと。

そして「アツケシトウ」が「厚岸湖」なのであれば、オヒョウニレの樹皮をうるかすには大きすぎる(そもそも塩湖で樹皮をうるかして良いのかという話も)という問題が出てくるので、「アツケシトウ」は「アツケシ」に由来するネーミングだ(→「アツケシ」は「アツケシトウ」由来では無い)ということになります。

「もう一つの末端」?

別の言い方をすると、これまでの説では奇しくも「厚岸湖」と同名の「アッケシトウ」と呼ばれる小沼(明治時代の地形図では存在を確認できない)がかつて「アッケシ会所」のの西の外れに存在していて、その沼の名前が「会所」の名前として大出世を遂げた……ということになるのですが、これ、流石に色々と無理がありすぎませんか……?

じゃあ「アッケシ」はどういう意味なんだ……? と言う話になるのですが(ようやく?)、単純に ar-kes で「もう一方の・末端」だったりしないかな、と。厚岸駅のあるあたりから見える対岸(=厚岸大橋の南側)をそう呼んだのではないか、という案です。

kes の対義語は pa なので、もしかしたら「尻羽岬」から見て「もう一つの末端」だった可能性もあるかもしれません。とりあえず根室の「アッケシエト」と似た地名だったんじゃないかな、と。

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

お晩です。アッケシでヌマってますね😁。厚岸歴7年の在住者です。
厚岸に来た頃は厚岸町も商業的な理由もあってバチェラー説を使っていたのですが、最近は心を入れ替えています。

「アイヌ語的におかしいだろ?学芸員😠」と文句を言うヤツ😄や学識のある議員さんがいて、
ここにもある通り「at-ke-usi/オヒョウニレの内皮_を剥ぐ_ことをいつもする所」と言う名前の沼が実際に有ったことが判明しました。

古い文献や老人たちの記憶から調べたところ、40年くらい前までその沼が存在していました。
場所は「森高牧場直営店」から根室本線に掛けての場所です。

子供がハマった事故があったために今は埋められていますがGoogleMap衛星画像でもなんとなく分かると思います。
現在の厚岸町はちゃんとそのように教えてくれると思います。

漁協や観光協会ではバチェラー説を言うヤツらもまだいますが、アイヌ語を無視して利用している人たちです🤬

Bojan さんのコメント...

興味深い情報をご教示くださりありがとうございます。
頂いた情報をもとに少し調べたところ、米軍が撮影した航空写真にご指摘の池が写っていたことが確認できました。この池は 1978 年頃の航空写真では既に埋められていたようなので、頂いた情報とも一致しているようです。

一方で大きな問題が残っていまして、初航蝦夷日誌では「エヲロト」について「方三丁」に「五丁」とあり、これは 300~500 m 程度の大きさがあったということになります。「森高牧場 直営店」と根室本線の間にあった池(今は太陽電池が立っているところでしょうか)は 30 m × 50 m ほどの大きさのようなので、ちょっと差が大きすぎるように思われます。

「北海測量舎図」や「陸軍図」ではそれらしい沼を確認できていなかったので、沼の実在自体を疑ってしまいましたが、少なくともご指摘の位置に沼があった……ということが確認できました。疑問点の解消に繋がる情報をご提供いただき、ありがとうございました。

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