2023年7月17日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (149) 虻川(潟上市)~豊岡(三種町) (1878/7/27~28)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

酒税

体調不良のため、久保田(秋田)から 20 km ほど北の虻川(潟上市)で一泊することを余儀なくされたイザベラ姐さんですが、久しぶりに産業スパイリサーチャーモードに入ったようです。当然ながらと言うべきか、「日本奥地紀行」の「普及版」ではバッサリとカットされています。

日本で穫れるすべての米の 7 パーセントが酒になります。1874 年の酒の年間生産量は 6,745,798 ヘクトリットル、人口一人当たりの消費量は 20.5 リットルで、生産量は年々増加しています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
「ヘクトリットル」という単位には馴染みが無いのですが、1 ヘクトリットル=100 リットルとのこと。一人 20.5 リットルというのは、算術平均だとこんなものでしょうか。

発酵酒の税による歳入は 1875-76 年度は 322,616 ポンドをもたらし、昨年度(1877年)は 474,773 ポンドでした。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
良く見るとめちゃくちゃ税収が上がっているのですが、これは一体……? 税率が上がったのか、それとも取りそこねていた税をしっかりと確保できるようになったのか……? もちろん酒の消費量が 1.5 倍になったと考えることも可能ではあるのですが……(汗)。

 税収入源としては 5 種類の酒に区別されていて、酒造業者はそれぞれの種類の酒を造る免許に、年に 2 ポンド、および、全売り上げ高の 10 パーセントを支払います。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
ふーむ。実は意外と安いかな、と思って財務省の「Q. お酒にはどれくらいの税金がかかっているのですか?」という Web ページを見てみたところ、一本 219 円の缶ビールの 41.1 % が税金とのこと(汗)。

633 ml のビールの酒税等負担率は 47.5 % にも登るとのことで、税金……高いなぁ……と思ったりもするのですが、お酒は「贅沢品」とも言えるので、税率が多少高くても良いのかな、という気もしてきました。

イザベラは「造り酒屋」を「高コストで実入りの良い商い」とした上で、「最も立派な家を建てていることは怪しむべきでは無い」と記しています。穿った見方をすると「『酒』は日本人から金を巻き上げるための良い手段の一つである」と考えることも可能で、イギリスは「アヘン戦争」をやらかした国だけに、杞憂とは言い切れないような気も……。

低温殺菌法

産業スパイモードのイザベラ姐さんは、日本の酒造産業の構造的な優位性を明らかにしただけではなく、酒を醸すメカニズムについても「これでもか!」とばかりに掘り下げていました。

 酒造の全工程は 40 日間かかりますが、西洋人の化学者が言うには改善の余地がないとのことです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.109 より引用)
酒造の全工程が「40 日」と言われると「意外と短いんだな」と思ってしまいますが……こんなもの、なんでしょうか。

夏季においてこそ酒はパストゥールのプロセス[パスツリゼーション;低温殺菌法]として知られる状態に置かれます。日本ではパストゥールが生まれる 3 世紀も前に実行されていたのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.109 より引用)
へぇ~と思ってググってみると、Wikipedia に「パスチャライゼーション」という記事がありました。当該記事からちょいと引用すると……

パスチャライゼーション(英: pasteurization)とは、食品等の加熱殺菌法のうちで、摂氏100度以下の温度で行う方法をいう。
(Wikipedia 日本語版「パスチャライゼーション」より引用)
ふむふむ。

この方法を用いると、素材の風味を損なわず、ワインやビールなどの醸造酒に含まれるアルコール分を飛ばさずに行うことが可能であり、高温殺菌法と比較して、熱変性などによる品質・風味の変化が抑えられる利点がある。
(Wikipedia 日本語版「パスチャライゼーション」より引用)
なるほどなるほど。

日本では、パスツールに先立つこと300年も前の1560年頃に日本酒において同じ方法が経験的に生み出され、以来、「火入れ」として行われてきた。
(Wikipedia 日本語版「パスチャライゼーション」より引用)
お、これはイザベラが「パストゥールが生まれる 3 世紀も前」と記した内容と完全に一致していますね。

日本酒の醸造過程

イザベラは日本酒の醸造過程について、詳細を「ドイツ・アジア協会紀要の1878年の報告書にコーシェルト氏が載せた論文」からの引用の形で記していました。

 「サケの醸造においては、われわれは完全に新しく、かつ独特な形の発酵産業を知ったのだが、これは西洋の醸造工程とはすべての点で異なっており、完全さという点に関しては、後者の下に位置づけるべきではない。日本人の製造過程は次のようである──酵母菌は暗い部屋の中で蒸された米の上に成長させられる。この酵母菌のみで、われわれのビールの発酵工場でモルトとイーストによりなされるのと同じことをする。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.109 より引用)
……とまぁこんな感じで、日本酒がどのように醸されるか、そのメカニズムが延々と記されていました。この論文が世に出たのはまさに「日本奥地紀行」の最中の 1878 年で、イザベラが毎晩、蚊やノミとの終わることのない戦いを続けていた頃に、西洋では既に日本酒の醸造過程が知られ始めていた、ということになりますね。

イザベラは、おそらく帰国後にわざわざこの論文を探して引用した……ということになるのですが、これは「日本酒の醸造過程」が「日本についての」に含まれるべきであると考えていた、ということでしょうか。

酒の起源

イザベラが「日本酒」を殊の外重要視したように見えるのは、古くから祭祀に欠かせない重要なアイテムであったことも関係しているのかもしれません。

原注2 : 酒は日本の最も初期の歴史的書物で言及されている。太陽の女神[アマテラスオミカミ;天照大神]の弟であるスサノオノミコト[素器嗚尊;須佐之男命]は天上から出雲の国へ降りてきたとき、八つの甕に酒を調合させたといわれている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.110 より引用)
いつものことですが、イザベラはどこで「天孫降臨神話」について学んだんでしょう……(汗)。

時代が降りてくると多分より伝説的ではなくなっているが、名高い神功皇后について語られていて、彼女は(3世紀初頭に)朝鮮征伐からもどると祝ったことと関係付けられる。彼女は、遠くにある神威に敬意を払うために、息子(今は八幡という名のもとに戦いの神として崇められている)を派遣し、その帰還に際して、彼を酒でもてなした。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.110 より引用)
八幡神」については Wikipedia にも記事があるので、ある程度は参考になるかもしれません(まぁ日本語版の Wikipedia は色々とアレだという話もあるので、話半分に捉えるべきですが)。ここで重要なのは史実の有無よりも、イザベラはリサーチの結果、このような情報を見聞したというところでしょう。

イザベラはこの神功皇后のエピソードから、「酒」も朝鮮半島にその起源を持つのではないか……との推論を立てていました。確かにありそうな話ですね。

大きな見もの

隆盛を誇る酒造産業のあり方に始まり、いつの間にか天皇家と古代日本の起源の話になってしまいましたが、これはあくまで「初版(完全版)」のお話です。ようやく「普及版」の話題に戻って……

 その日の午後の風と雨は、恐ろしいほどであった。私は馬に乗ることができなかったので、数マイルほどとぼとぼ歩いて行った。松並木の下を、一フィートも深い水の中を歩いて通った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
7 月下旬ですから、夕立に降られやすい時期ではありますね。「1 フィート」と言われても今ひとつ実感がわきませんが、約 30.48 cm の水たまりの中を歩いた、ということですね。

油紙の雨外套もずぶ濡れとなり、豊岡トヨオカに着いたときは、身体中がほとんど水に浸り、とても寒かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
この「トヨオカ」はかつての森岳村豊岡(現在の山本郡三種町豊岡)のようですね。イザベラ一行は能代を経由せずに鶴形に向かったようなのですが、鹿渡かどの北の「新屋敷」のあたりで羽州街道から外れて森岳に向かった……ということでしょうか。

清潔な二階に上がり、火鉢にあたりながら震えていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
散々な目にあったイザベラですが、「清潔な二階」の部屋をゲットできたのは不幸中の幸いでしょうか。イザベラは部屋で衣服を干したものの、流石に一晩で乾かすのは難しかったとのこと。

前日の朝も群衆の好奇の目に晒されたイザベラでしたが、豊岡でもそれは同様で、イザベラは朝食中も約四十人の群衆にじろじろ見られた……と記しています。

宿の主人が、立ち去ってくれ、というと、彼らは言った。「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにしているのは公平でもないし、隣人らしくもない。私たちは、二度とまた外国の女を見る機会もなく一生を終わるかもしれないから」。そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
これはひどい……(汗)。

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