2025年8月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1266) 「シマン川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シマン川

sum-un(-pet)?
西・にある(・川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
メナシュンベツ川の 0.3 km ほど上流で日高幌別川に合流する支流です。河口から日高幌別川を遡るとこのあたりで三つに分かれていることになります。

三つの川の名前

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「シュマン」と描かれていました。

現在は西から「日高幌別川」「シマン川」「メナシュンベツ川」に分かれていることになっていますが、古い記録には異同が見られます。表にまとめるとこんな感じです。

東西蝦夷山川地理取調図 (1859)シユンヘツ*1-メナシヘツ
戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」シユンベツホロヘツ*2メナシベツ
東蝦夷日誌 (1863-1867)西河シユンベツ中川東河メナシベツ
北海道実測切図 (1895 頃)シュㇺペッシュマンメナㇱュウンペッ
陸軍図 (1925 頃)春別川シュマン川メナシュウンベツ川
土地利用図 (1982)-シュマン川メナシュンベツ川
現在日高幌別川シマン川メナシュンベツ川

*1 最も西側の川そのものの名前ではなく、その支流として描かれている
*2 源流部に「シノマンホロヘツ」の記録あり

本流はどれ?

表からは奇妙なことに気付かされます。現在はかつての「シユンベツ」が日高幌別川の本流とされていますが、松浦武四郎は現在の「シマン川」が本流だったとしています。

更に厄介なことに、戊午日誌「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

扨また此処より本川まヽ弐三丁も上るや、左の方に
     シユンベツ
是西川と云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418 より引用)
メナシベツ(メナシュンベツ川)の合流点から「本川」を 218~327 m ほど遡ったところに「左から合流する川」ということなので、これは現在の「日高幌別川(本流)」のことだと見て間違いないでしょう。

松浦武四郎の大き過ぎるミス

ところが、この「シユンベツ」川沿いには、左に「ヌフントニ」という山、右に「タン子ルベシベ」という小川と、同じく右のほうに「シケンカヒナイ」という小川があり、その先に

 またしばし上りて
      二 股
 有、此処より左右に分る。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418 より引用)
「二股」で川が二手に分かれていると記しています。そしてその続きには……

 然るに是よりはまたの支流なるが故に、二字を下げ志るし置に、東の方に当るを
       メナシシユマン
  是東のシユンベツと云儀なり。其処右のかた小川に成る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418-419 より引用)
「シユンベツ」=「シユマン」だと記しています。最も西側を流れるとした「シユンベツ」の川筋を記している筈ですが、実際にはどう見ても現在の「シマン川」(三つの河川の真ん中を流れている)の川筋の情報です。

そして日高幌別川「本流」の情報が続いていました。

扨三ツ股よりして中に到る本川のすじの義、是また聞取りて志るし置に、シユンヘツフトより凡七八丁も過て
     ホロカン
左りの方小川。其名義他に同名多きものなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.420 より引用)
ただ「三ツ股よりして中に到る」と明記しているので、位置からは現在の「シマン川」の情報である筈ですが……

またしばし過て
     フレチ
左りの方小川。其両岸赤岩崩なるよりして号るよしなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.421 より引用)
これは『北海道実測切図』に「フレッチ」と描かれた川で、現在の「フレベツ川」に相当します。この「フレベツ川」は日高幌別川、つまり「三ツ股の西川」の支流です(!)。

巨大なミスはあるものの

ここまで見た限りでは、松浦武四郎は明らかに「中川」(現在のシマン川)と「西川」(現在の日高幌別川本流)の川筋の情報を取り違えて記録しています。「是また聞取りて志るし置に」とあるので、実際に現地に赴いたのではなく聞き書きだったと推察されるのですが、インフォーマントとのやり取りに何らかの齟齬があった可能性もありそうです。

東西蝦夷山川地理取調図』をよく見ると、見事に現在の「日高幌別川本流」と「シマン川」の情報が逆になっていることがわかります(「フレチ」は現在の「フレベツ川」で、「タン子ルヘシヘ」は現在の「カラフト川」だったと見られます)。

松浦武四郎の記録は、「日高幌別川本流」と「シマン川」を取り違えるという致命的なミスがあるものの、支流の情報は『北海道実測切図』とも概ね整合性が取れているため、それなりに信が置けるように思われます。となると「シユマン」は「シユンベツ」だったということになるのでしょうか。

「シユマン」と「シュㇺペッ」

ところが『北海道実測切図』は「シユマン」(=シマン川)と「シュㇺペッ」(=日高幌別川本流)を別の川として描いています。ただ松浦武四郎は「シユンベツ」「ホロヘツ」「メナシベツ」があったとしているので、北海道実測切図が「シユマン」と「シュㇺペッ」を別個の川として描いているのは疑わしく思えてきます。

また別の言い方をすれば、最も西にある川を「シュㇺペッ」としたのは松浦武四郎の誤謬をそのまま引き継いだ……となるかもしれません。

現段階での結論としては、「シユマン」は「シユンベツ」であり、sum-un(-pet) で「西・にある(・川)」だったと考えています。もちろん本流の側に「西にある川」が流れているというのは奇妙なのですが、ホロベツ(日高幌別川)に二つの大きな東支流があり、両者を区別するために「メナシ」(東)と「シュム」(西)に呼び分けた……と見るべき、でしょうか。

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