2025年11月28日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1313) 「去童橋・ドブシナイ川・姉去橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

去童橋(さるわらべばし)

sar-pa-ray(-pet)?
葭原・かみ(上)・死んだように流れの遅い(・川)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 209 号「滑若新冠停車場線」が「チョリバライ川」を横断する橋です。2018 年度 全国橋梁マップによると同名の橋が「町道朝日集乳所線」にも存在するとのこと(同じく「チョリバライ川」を渡っています)。

「去童」は 1868(明治初)年から 1923(大正 12)年まで存在した村名で、既に失われた地名だと思っていたのですが、橋の名前として生き残っていたみたいですね。ただかつての「去童村」は、『北海道実測切図』(1895 頃) では「去童橋」よりも上流側に描かれています。


ただ陸軍図では現在の「去童橋」のあたりに「去童村」と描かれているので、「実測切図」はやや正確ではない位置に村名を描いてしまったのかもしれません。


更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 去童(さるわらんべ)
 新冠町の旧字名。アイヌ語のサㇽ・ワ・ル・ウン・ペ(湿地のわきに道のある川)と思われる。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.81 より引用)
ただ永田地名解 (1891) は次のように記していました。

Sori pa rai    ソリ パ ライ   草履ヲ見付シ處 ○去童村ソリパライ
So para-i    ソー パ ライ   瀑廣キ處「ソリパライ」ノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.249 より引用)
これは……更科さん……やっちゃいましたね……。

ということで改めて「ソリパライ」の位置を確認したいのですが、『北海道実測切図』では現在の「去童橋」に近い位置に「ポロソリパライ」が描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) ではやや上流側に描かれているようにも見えますが……

また「ソリハライ」の支流として「ソウシソリハライ」が描かれているのも要注意ですね。「ソウシ──」は so-us- である可能性が高そうなので、永田地名解の「瀑廣キ處」という解は怪しくなります(「滝のついている滝が広いところ」はおかしいかと)。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

またしばしを過て
     ソリハライ
左りの方相応の川すじ也。其名義は不解なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.146 より引用)
うーむ、これは困りましたね……。

この「ソリハライ」は現在の「チョリバライ川」のことだと考えられるのですが、実は「チョリバライ川」はずっと前に記事にしたことがありました。その際は sar-pa-ray(-pet?) ではないかと考えたのですが、改めて検討すると……悪くない解に思えます(ぉぃ)。

ということで今回も sar-pa-ray(-pet) で「葭原・かみ(上)・死んだように流れの遅い(・川)」かなぁ、ということでお茶を濁して次の記事へ(ぉぃ)。

あ、チョリバライ川を遡った先に「取拂山」という二等三角点があるのですが(標高 389.9 m)、これは「とりはらいやま」と読むとのこと。おそらく「チョリバライ川」が元ネタなんでしょうね。

ドブシナイ川

top-us-nay
竹・多くある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠大富おおとみの西で新冠川に合流する南支流です。地理院地図では川として描かれていませんが、国土数値情報によると「ドブシナイ川」という名前とのこと。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トフシナイ」と描かれています(本流の横に描かれていて、実際にどの川を指していたのかは不明瞭ですが)。『北海道実測切図』(1895 頃) では不思議なことに「トㇷ゚ウㇱュナイ」と描かれていました(poro- があるのなら近くに pon- がある筈なのですが……)。


戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     トフシナイ
東岸相応の川也。其名義は笹多きと云よりして号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.146 より引用)
ということで、素直に top-us-nay で「竹・多くある・川」と見て良さそうな感じですね。ただ続きがちょっと不思議で……

トフシはトツフの訛りなるよし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.146 より引用)
あれれ、素直に考えると「トフシ」は top-us だと思われるのですが、現地のインフォーマントはそう認識していなかったということなのでしょうか。

また「ㇷ゚」が「ブ」に化けたのもちょっと気になるところです。tup であれば「2」あるいは「2 つ」を意味するので、tup-us という可能性も考えてみたのですが……。

姉去橋(あねさるはし)

ane-sar
細い・葭原
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 1026 号「新冠平取線」が「新冠川」を横断する橋です。道道 1026 号のルートを考えると、なんでここにあるの……と思わせる立地ですが(汗)。

北海道実測切図』(1895 頃) では新冠川南岸に「姉去」と描かれていました。姉去村は 1868(明治初)年から 1923(大正 12)年まで存在したとのこと。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはヒホク(=新冠川)の南岸に「ア子サラ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

しばし過るや凡弐十丁計にして
     ア子イサラ村
右の方小川有。其処左右に人家有。其名義は細長く尖りし蘆荻多くあるが故に号るとかや。ア子とは細く尖りしことを云也。サラはシヤリの訛り也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.149 より引用)※ 原文ママ
ane-sar だけで「細い・葭原」なので、何故「ア子サラ」としたのが謎だったのですが、見事にスルーされちゃってますね……。松浦武四郎は後の「高江村」も「タカイサラ」と記録しているので、関係の有無も気になるところです。

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