2026年7月31日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1415) 「チチヤップ川・マコップ沢川・穂別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

チチヤップ川

chi-cha-p?
我ら・刈る・もの
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別の南で、西から鵡川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりませんが(見落としているかも)、『北海道実測切図』(1895 頃) には「チチヤップ」という川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     チヽシヤフ
左りの方小川、山の間にさし入る也。其名義は此沢に菅が多く有りしによつて苅て干たと云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.552 より引用)※ 原文ママ
なんか似たような地名(川名だったかも)が平取にあったなー……というところまでは薄っすらと思い出せたのですが、詳しいことが全く思い出せずにしばらく逡巡していました(どうやら「ウンチャシ沢」だったようです)。

今回の「チチャップ」ですが、知里さんの『植物編』(1976) には次のように記されていました。

§ 382. ジダケ
      Sasamorpha purpurascens Nakai var. borealis Nakai
( 1 ) chichap (chi-cháp) 「チちャㇷ゚」[我らが・刈る・もの] 莖葉 《A 十勝》
( 2 ) huttat (hút-tat) 「ふッタッ」[→ §381 (8)] 葉 《A 千歳》
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.222 より引用)
ジダケ(地竹)は頭突き「チシマザサ」のタケノコ(若竹)のことのようです。松浦武四郎は「菅を刈って干した」としていて若干の相違があるのですが、chichapchi-cha-p、つまり「我ら・刈る・もの」なので、必ずしも「ジダケ」に限らないということなのでしょう。

「チチャップ」は何らかの植物であり、本来は川の名前としては適切ではないのですが、スゲ?の群生地として名を知られるようになり、やがて近くの川の名前に転じた……ということかもしれません。

マコップ沢川

mak-o-p
後ろ・そこにある・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年7月30日木曜日

北の大地で燃費走行 (95) 「紋別市立 藻別小学校」

藻鼈もべつ川沿いにある紋別市藻別もべつにやってきました。どれも字が微妙に異なっていてややこしいですよね……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりは牧場が多いようで、まとまった集落があると言うよりはいくつもの牧場が点在しているような感じに見えます。左側に盆踊りの舞台?のようなものが見えますが……

2026年7月29日水曜日

北の大地で燃費走行 (94) 「モベツ3線」

国道 238 号を右折して道道 873 号「小向元紋別線」に入りました……が、わずか 80 m ほどで道道 873 号は左に曲がって小向に行ってしまいます。
交叉点の左側に建物が見えますが、実はここが北紋バスの本社 兼 紋別営業所とのこと。随分と町外れにあるのだなぁ……と思ったのですが、車庫や工場の立地としてはそこそこリーズナブルなので、ついでに本社機能も持たせた……みたいな感じでしょうか(市街地と空港の間にあるというのもポイントかも)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

北紋バスの本社前の交叉点を直進して道道 305 号「紋別丸瀬布線」に入りました。妙なところにバスが停まっていますが、何故かこんなところにバスユータン場所転回場があるみたいです。営業所から 1 km も離れていないのに……。

2026年7月28日火曜日

北の大地で燃費走行 (93) 「『彦橋』と『織り橋』」

国道 238 号のバイパス区間を南に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この先を右折すると「スカイタワー」(オホーツクスカイタワー)に行けるようです。いつか行きたいですね(フラグ)。

2026年7月27日月曜日

北の大地で燃費走行 (92) 「安 全 運 転」

国道 238 号の「渚滑跨道橋」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

跨道橋があるということは、続くこの橋はきっと跨線橋……と思ったのですが、

2026年7月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1414) 「ペンケルベシベ沢川・カイクマ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ペンケルベシベ沢川

penke-ru-pes-pe?
川上側・路・それに沿って下る・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別和泉を流れるルベシベ川の東支流で、パンケルベシベ沢川よりも 3 km ほど北東でルベシベ川に合流しています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ミルペㇱュペ」という川が描かれていますが、途中で少なくとも二手に分かれているため、現在の地形図とは無視できないレベルの相違があります。


「ミ」は「シ」の転記ミスかと思ったのですが、戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

 また少し上りて
      ヲミルベシベ
 右の方小川也。其名義しらず。何れ山越の事を申せしものかと思はる。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.547 より引用)
……!? これまた良く分からない地名が……と思ったのですが、頭註には次のようにありました。

トミルベシベ?
軍に越える
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.547 より引用)
あ、いいヒントを貰えたかもしれません。tumi は「戦争」を意味しますが、それよりも位置名詞の tomo だと考えるのが自然に思えますし、実際にそう呼べそうな位置にある川です。tomo-ru-pes-pe で「中間にある・路・それに沿って下る・もの(川)」だったのではないでしょうか。

そもそも『北海道実測切図』の「ミルペㇱュペ」が現在の「ペンケルベシベ沢川」と同一であるかどうかは(前述の通り)疑義が残るのですが、かつての「モルペㇱュペ」にして現在は「パンケルベシベ沢川」と対になる形で、現在は penke-ru-pes-pe で「川上側・路・それに沿って下る・もの(川)」と呼ばれている……ということになりそうですね。

カイクマ川

kay-kuma??
折れた・横山
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年7月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1413) 「ショモチレコナイ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ショモチレコナイ沢川

somo-kus-nay??
しない・通行する・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
パンケルベシベ沢川」の南支流で、「アイカップ沢川」の東隣を流れています。国土数値情報では何故かこの川も「パンケルベシベ沢川」ということになってしまっていますが……。

北海道実測切図』(1895 頃) には「シヨモチレコナイ」と描かれていました。

「もともと名前の無い川」?

戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。鵡川から見て「支流ルベシベ川支流パンケルベシベ川」の支流についての記述なので二字下げになっています。

  また少し上り
       シヨモチシユナイ
  右の方小川也。其名義は元より名が無と云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.546-547 より引用)
これは……? 「名前が無い川」と言えば re-sak-petre-sak-nay で「名前・欠く・川」があります。たとえば豊頃に「礼作別」という川と地名がありますね。

ただ「シヨモチシユナイ」をどう解釈すれば「(元から)名前が無い」となるのかが謎です。奇妙なことには、現在の川名である「ショモチレコナイ(沢川)」であれば、{somo-ki}-re-kon-nay と読めそうな気がします。

re は「名前」で、konkor の音韻変化したもので「持つ」を意味します。{somo-ki} は「しない」あるいは「できない」を意味するとのこと。つまり {somo-ki}-re-kon-nay であれば「{しない}・名前・持つ・川」となるということに……?

……ということになるかと思ったのですが、somo-ki は文の最後に来ることが多いとのこと。佐藤知己『アイヌ語文法の基礎』(p.22)によると「通常の動詞の場合は,動詞の後に ka somo ki を置けば良い」とあるので、それならば {somo-ki}-re-kor ではなく re-kor-{somo-ki} となりそうにも思えます。

そもそも……という書き出しは駄洒落感が凄いのですが、松浦武四郎が記録した川名は「シヨモチシユナイ」であり、ところがその意味するところは現在の名前である「ショモチレコナイ」で理解できる……というのは不自然です。しかも「シヨモチナイ」と「ショモチナイ」というのは誤読誤記の定番中の定番なので、どちらの方向にもあり得るように思えます。

「鞍部が(それほど)無い川」?

ただ {somo-ki}-re-kon という語順はおそらく変なので、となると「シヨモチシユナイ」の可能性を考えたくなります。「立岩」や「丸い岩山」あるいは「中凹み」を意味する chis という語があるのですが(ok-chis だと「盆の窪」で、転じて「峠」を意味する)、somo-chis-nay だったら「ショモチシュナイ」になりそうな気もします。

「ショモチレコナイ沢川」を遡った先も沙流川との分水嶺なのですが、「アイカップ沢川」と同様に鞍部が比較的高くなっています。鞍部が無いわけでは無いので「中凹みが無い」とは言えないものの、「鞍部がそれほど無い」とは言えそうな気もします。

問題は somo-chis-nay を「無い・中凹み・川」と解釈できるか……という点に絞られてきたでしょうか。somo の後ろにも動詞句が来るのがお約束なのですが、『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) には次のように記されていました。

somo ソモ【副】(否定辞)①(動詞句または否定する語の前に置かれて)……しない。
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.674 より引用)
えっ!? 「動詞句」と書いてありますね。somo の後ろに名詞が来ることもあり得るのか……? と思ったのですが、手元の資料では見事なまでに例が見当たりません。どうやら「中凹みの無い川」という解釈は難しそうな感じです。

「通行しない川」だったのでは?

となると chis を動詞と見るしか無いのですが、その場合は「泣く」を意味するので、somo-chis-nay は「無い・泣く・川」つまり「泣かない川」となります。「なんじゃそりゃ」と思った方もいらっしゃるかと思いますが、ご安心ください。私も「なんじゃそりゃ」と思っていますので。

方向性としては悪くないんじゃないかと思いつつ、どうにも正解に向かって踏み出せていないなぁ……と思っていたのですが、「ショモチレコナイ」でも「シヨモチシユナイ」でもなく、「シヨモシユナイ」だったとすれば、めちゃくちゃ腑に落ちることにようやく気づきました。

この川は somo-kus-nay で「しない・通行する・川」だったのではないでしょうか。意図するところは「アイカップ沢川」と同じで、何らかの理由があって峠道としては「使用しない」川だったのではないかと。

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2026年7月24日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1412) 「オピラクシナイ沢川・パンケルベシベ沢川・アイカップ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オピラクシナイ沢川

o-pir-un-ne-p??
河口・傷・ある・ような・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別和泉を流れるルベシベ川の南支流です。東西蝦夷山川地理取調図 (1859) 」にはそれらしい川が見当たらないものの、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オピラウン子プ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

 また少し行
      ヲヒルン子フ
 右の方小川也。此処に水溜に成る瀬有るよりして号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.546 より引用)
ちょっと困ったことになりました。現在の「オピラクシナイ」という川名であれば o-pira-kus-nay で「河口・崖・横切る・川」と読むことができます。ところが松浦武四郎が記録した「ヲヒルン子フ」という川名は、o-pir-un-ne-p で「河口・渦・ある・ような・もの」と読める……ような気もします。

pir は「渦」としましたが、地名においてはむしろ「傷」のほうが多そうな気もします。山を引っ掻いた「切り傷」のような川を pir だったり pinnay と呼ぶことがありますが、現在の「オピラクシナイ沢川」もかなり深く掘れた谷であるように見えます。

ということで、o-pir-un-ne-p で「河口・傷・ある・ような・もの(川)」だったのではないかと考えてみました。pir-un という用例が他に見当たらないようにも思えるのが不安なところですが……。

現在の川名は「オピラクシナイ沢川」ですが、誤読や誤解(良かれと思って修正したのかも)が重なってそうなった……という可能性もあるかもしれません。

パンケルベシベ沢川

mo-{ru-pes-pe}
小さな・{ルベシベ川}
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年7月23日木曜日

北の大地で燃費走行 (91) 「逆ハの字!?」

紋別市に入ります。カントリーサインはおなじみのカニの爪ですが、鉄板ネタがあると強いですよね……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

まずは紋別市渚滑しょこつに向かっているのですが……おやっ?

2026年7月22日水曜日

北の大地で燃費走行 (90) 「      さるる」

興部の中心街を抜けて紋別方面に向かいます。この林は防砂林として整備されたもの……でしょうか? あるいは防風林? それとも大穴で茶風林?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「藻興部橋」で「藻興部川」を渡ります。ピントが合っていませんが、一瞬日が翳ったからでしょうか……?

2026年7月21日火曜日

北の大地で燃費走行 (89) 「いつか来たガソスタ」

興部町に入りました。入った……んですが、ギリギリのタイミングでカントリーサインを逃してしまいました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ということで、例によってストリートビューにフォローしてもらいます。牛が帆立貝を持っているのはわかったのですが、左に見える花は……? あえて調べないスタイル……だったんですが、「はまなす幼稚園」というスポットがあることに気づきました。関係があるかどうかは調べません(ぉぃ)。


道の駅「おこっぺ」まで 2 km とのこと。確か、名寄本線の興部駅の跡にあって、国鉄時代のディーゼルカーがライダーハウスになっていたような記憶があります。

2026年7月20日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (190) 函館(函館市) (1878/8/16(金))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き普及版の「第三十四信」(初版では「第三十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

刑務所

イザベラは蝦夷地探検に出発する前に、今度はユースデン(イギリス領事)夫妻と刑務所の見学に出かけたようですが……

 私はその後ユースデン夫妻と監獄へと訪問地を移したのですが、これは全く当然見るべきものです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.142 より引用)
翻訳が若干謎な感じになっていますが、原文は "It is quite a natural transition to the prison" でした。誤訳……?

イザベラは刑務所の印象について、次のように記していました。

町から幾らか離れた広大な庭に建っているのは心地よい監獄です、──多分あまりにも楽しすぎるでしょう!
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.142 より引用)
そして具体的には次のような点を挙げていました。

建物は、風通しがよい宿舎、作業場、食堂と手に負えない犯罪者の拘留のための、熊の檻のような囲い部屋(独房)を含めて、幾つかの分離した建物に分かれています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.142 より引用)
この刑務所には 170 人の囚人が服役していて、うち 10 人が殺人犯、19 人が終身刑とのこと。これらの囚人を 17 人の看守でコントロールしていて、イザベラ曰く囚人は「相当の自由が許されている」とのこと。

刑務所の快適さ

イザベラは、この「快適な刑務所」の詳細を続けていました。

 製皮所があり、指物細工、植物油の蝋燭、石鹸、アルコール、香料を作っていて、他に彫り物や木版画もしています。一人一人、いつも自分の手職につくことが許されていますが、農民をしていたならば、そのようなものがないので、獄の中で何か手職を教えられます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.142 より引用)
「指物細工」というのが謎ですが、原文では "cabinet-work" とあるものがそれでしょうか。時岡敬子さんはこれを「高級家具」と訳していました。更生の一環として手に職を……というのは今も変わらないような気がしますが、こういうやり方はいつ頃から存在していたのでしょうか。

イザベラは受刑者同士で会話することが許されていることと、読み書きのできない受刑者が全体の 7 % しか存在しないことにも驚いていたようです。

彼らは赤い着物を着ていますが、身体的拘束からは自由です。粗暴犯の檻を除いては、一般的にいう独房の性格のものはありません。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.142 より引用)
「赤い着物を着用」というのは脱走時の発見を容易にするため……あたりでしょうか。こういったところは前近代的な感じも受けますが……

彼らは番人にもお互い同士も番号しか知りません。100 日以上の判決を受けた全員は写真を撮られ保存されます。彼らの仕事の出来高に応じて公正な報酬を受け取っています。彼らの生活費を差し引いた残りを貯めて彼らの刑が満期になったときに渡されますが、しばしばその合計は彼らが仕事を立ち上げるのに十分なものです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.142 より引用)
囚人のプライバシーにも配慮した運営が行われ、また出所後に「やり直す」ための(金銭的な)支援もしっかり行われていたように見えます。今と同じ国の話とは思えないですね……。

菊の栽培

イザベラは、刑務所には畑があり、何人かの囚人が菊の栽培を行っている……と記しています。

現在、彼らのうちの幾人かが菊の栽培をしています。腐った卵や死んだ鳥がその根元にうめられ、それぞれの茎に 1 個だけ花を咲かせることが許されます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.143 より引用)
「1 個だけ花を咲かせることが許されます」とあるのが「???」だったのですが、原文では "each plant is allowed to bear but one blossom" とありました。結局「???」のままなのですが……(汗)。

イザベラは、この刑務所における「罰」は、家族との生活が許されないことと外出の自由が無いことだけだと感じていたようです。

 過失(罪)に対するもの(罰)にしては人道にかない、囚人たちは本当に楽しそうに見えます。この穏やかなシステムが更正という結果を生むかどうか私には、確信がありません。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.143 より引用)
訳注によると、イザベラは人道的見地から囚人の取り扱いに関心があり、他の国でも刑務所や監獄を訪れていたとのこと。イザベラは、函館の刑務所での囚人の扱われ方があまりに「楽しそう」であるのを目にして、これが果たして更生に繋がるのだろうかと疑問すら呈しています。

ヤラセと仕込み

訳注には更に「彼女のこの褒め方は日本の模範刑務所を見せられたと考えられるのである」とありますが、これは確かにその通りだと思います。

イザベラは「ほんとうの日本を見に行く」として伊藤だけを帯同して東北の各地をまわり、庶民の悲惨な暮らしぶりを目の当たりにしましたが、一方で都市部においては「大人の社会見学」を積極的に行っていました。この「社会見学」の中には、「見せたいものを見せられた」と思しきものも少なからずあり、この刑務所もおそらくその類だったのでしょう。

つまり、日本政府はイザベラの見聞が欧米に広められることを見越した上で、日本の「文明開化」を積極的にアピールするためにイザベラを利用した、とも言えるかもしれません。

今風に言えば「インフルエンサーに試供品を無料提供する」のに近い……いや、ちょっと違うかな。でもまぁ、ヤラセとは言わないものの、限りなく大量の「仕込み」があったと見ていいんじゃないかと思われます。

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2026年7月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1411) 「キナウス川・ホロカンベ川・ルベシベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

キナウス川

kina-us-i
草・多くある・ところ
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
鵡川の西支流で、むかわ町穂別豊田、かつて国鉄富内線の「豊田とよた駅」のあったあたりを流れています。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「キナウス」と描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ペナキナウシ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

また少し上り
     キナウシ
此辺右の方平地、左りの方山有、其間に少しの川有。其川口也。其名義草原なりと云儀。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.542 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Kina ushi   キナ ウシ   蒲多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.211 より引用)
kina-us-i で「草・多くある・ところ」と見て良いのでしょうね。

ホロカンベ川

{horka-an}-pet?
{我ら U ターンする}・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年7月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1410) 「カツケン沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

カツケン沢川

不明
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別和泉で鵡川に注ぐ東支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) にも「カツケン」という川が描かれています。

「カワガラスの巣があったので」説

戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     カツケン
右の方相応の流れ也。其名義は川烏かわがらすの巣有に依て号る也。黒くして其大さは鳩計のもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.540-541 より引用)
知里さんの『動物編』(1976) には次のようにありました。

§ 322.カワガラス;キタカワガラス
       Cinclus pallasii pallasii TEMMINCK
( 1 ) kátken(かッケン)[< ? ]《ホロベツ;シラオイ;サル;シズナイ》セ 11 神 78
( 2 ) kátkew(かッケウ)[< ? ]《チカブミ》
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.190 より引用)※ 原文ママ
よく見ると『地名アイヌ語小辞典』(1956) の「索引と補遺」にも katken で「カワガラス」とあります。まぁ『小辞典』は永田地名解 (1891) を熟読した上でそのフォローに回っていると思しきところもあるからなぁ……と思ったのですが、意外なことに永田地名解には「カツケン沢川」と思しき記載はありません。

戊午日誌の不審な点

戊午日誌「武加和日誌」の記述ですが、よく見ると妙な点があります。

扨其川筋のことを聞に、先川口よりしばしを入りて左りの方
      ホンカツケン
 小川なりと。是此川の小さきと云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.541 より引用)
とまぁこんな感じで「ホンカツケン」「エサヲマカツケン」「キンマクシカツケン」「フレワツカヲイ」という支流があるよ、と記しています。中でも

 また少し計上りて
      キンマクシカツケン
 是左りの方小川。此川すじよりサル場所え越る道ある故号。キンマクシとは山道越る儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.541 より引用)
という記述があるのですが、現在の「カツケン沢川」は「累標」三等三角点のあたりが水源で、この川を遡ったところで沙流川流域(=平取町)には出ることができません。もちろん「道がある」だけなので、「イナエップ沢川」か「ルベシベ沢川」の流域を経由して沙流川流域に出ることは可能ですが……。

複数の支流を持ち沙流川に通じる峠道がある川という条件で考えてみると、これはむしろ現在の「ルベシベ沢川」水系の川を指しているようにも思えます。松浦武四郎の記録には何らかの錯誤(インフォーマントのうっかりミス?)がありそうです。

「カツケンの雛が──」

また、この記述も別の意味で疑わしいものです。

 また少し
      エサヲマカツケン
 右の方小川。其名義はカツケンの雛がいつにても遊びに行て在ると云儀のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.541 より引用)
「エサヲマ」は e-sa-oma で「水源・浜・向かう」と解釈することが多いように思います。どう解釈すれば「カツケンの雛が遊びに行く」のか良くわからないですが……。

以前にも記しましたが、「珍妙な地名解」は次のようなパターンがあるように思われます。
  • 駄洒落(似た語彙からストーリーを「創造」する)
  • 故事(実際にそういった「事件」があった)
  • その他(不明)

「カツケン」だけでは「故事」の可能性も否定できなかったのですが、「カツケンの雛が──」という話が出てきた時点で「地名説話」なんじゃないかと思えてきました。

ここまでのポイントを改めて箇条書きにしてみると……
  • 「カツケン」が現在の「カツケン沢川」であるかどうかは疑わしい
  • 「カツケン」を「カワガラス」とする解釈も疑わしい
何もわかっていないような気も……(汗)。しかも、どちらも「疑わしい」だけで確実に否定できるだけの証拠もありません。

「エサヲマカツケン」や「キンマクシカツケン」と呼ばれる支流が存在するという点からは、現在の「ルベシベ川」水系を指しているように思えます。松浦武四郎は「カツケン」の先に「ルベシベ」があると記録していますが、本来はどちらも同じ川を指していた……という可能性を考えたくなります。

仮に「カツケン」が現在の「ルベシベ川」だとすれば……の話ですが、ルベシベ川は酷く蛇行していて、川沿いには小さな山が散在しているように見えます。この地形的な特徴を指して kar-tuk-ka で「回る・突出・させる」と呼んだと想像してみました。

機能的な特徴に由来する「ルベシベ」という名前と、地形的な特徴に由来する「カツケン」という名前が併存していたという可能性です。ただ「カツケン」という名前の由来が忘れられるとともに「この川は『ルベシベ』であって『カツケン』ではない」というのが共通認識となり、何故か南側の小さな川の名前に収まった……なんて話があったんじゃないかなぁ……などと。

全てにおいて想像の域を出ない話になってしまい恐縮ですが、「カツケンはカワガラスの巣があったからだよ」とは考えづらいのも事実です。

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2026年7月17日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1409) 「カイカウニ沢川・イナエップ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

カイカウニ沢川

kay-keure-i?
波・を削る・もの
(? = 旧地図等に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別仁和にわから町道上キナウス線の「仁和大橋」を渡った先で西鵡川に合流する川です(「仁和大橋」のすぐ東で南東から鵡川に合流する「カイカニ沢川」という川がありますが、これは別の川です)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「カイカウニ」と描かれています。なお似て非なる「カイカニ沢川」の位置には「ヌㇷ゚パオマナイ」とあり、何故こんなパチもん紛らわしい名前に化けたのかは謎です。

「雷が落ちて木を倒したので」説

戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

過て
     カイカウリ
左り平地に有。此辺川すじ屈曲して針位酉に向ふ也。相応の川一すじ有、其傍に人家七軒有。是近年イナユウ(エフ)より引移りしと云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.535 より引用)
メインディッシュの地名解については、次のようにありました。

其名義は往昔此処に大木が有りて、其木え雷が落て木を倒せしと云事のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.535 より引用)
「雷」は kamuy-hum という表現もあるようですが、これは「雷の音」というニュアンスのようなので、「稲妻」であれば kamuy-imeru あるいは imeru あたりになるのでしょうか。とりあえずこれらの語彙から「カイカウリ」に辿り着くのは容易ではなさそうな感じです。

「破れて脆いところ」説

案の定と言うべきか、永田地名解 (1891) には異なる解が記されていました。

Kaikauni,or kaye kaure-i   カイカウニ   破レ脆キ處 ?
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.211 より引用)
地名アイヌ語小辞典』(1956) によると、kay で「折れる;折れくだける」、また kay-e で「折る」だとされています。kay は様々な意味を持つようで、他にも「おんぶする」「折れ波」「大網膜」「腹膜」などにも解釈できるとのこと。

陸軍図を見てみると、鵡川の北西を鉄道(後の国鉄富内線)が通っていて、鉄道の上は崖が続いているように描かれていました。「カイカウニ」を素直に解釈すると kaye-ka-un-i で「折れ波・の上・そこにある・もの」になりそうですが、松浦武四郎は「カイカウ」と記録しているので、先程の解はやや違和感が残ります。

「波を削るもの」?

松浦武四郎の記録を考慮すると、kay-keure-i で「波・を削る・もの」と読めそうな気もします。……あ、これって永田地名解の kaye kaure-i とそっくりでしたね。

「波が削るもの」であれば、鉄道が建設されるまでは現在進行形で崩れてそうな崖を指す地名に相応しく思えますが、「波削るもの」というのは奇妙な感じがします。kay-ani-kewre であれば「波・で・削る」となりそうですが、わざわざ明示的に -ani を追加せずとも意味は通じる……という判断だったのでしょうか。

あるいは本当に「波を削るもの」があったのかもしれません。水の流れを遮る何か……立岩か、岩礁か、あるいは波によって削られる岩崖を逆の立場から表現しただったのかも……?

イナエップ沢川

inaw-o-p??
イナウ・多くある・ところ
(?? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)

2026年7月16日木曜日

北の大地で燃費走行 (88) 「スクールゾーン」

国道 238 号で興部方面に向かいます。このあたりは牧場が多いみたいですが、やはり気候を考えると畑作よりも牧畜……ということでしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

オタコムシュベ川を渡る「御多込蘂おたこむしべ橋」です。アイヌ語の地名に無理やり漢字を当てたというのも、改めて考えてみると功罪相半ばですよね。結果的には *奇妙な形で* アイヌ語の地名が残ったことになるのですが……。

2026年7月15日水曜日

北の大地で燃費走行 (87) 「新店のご案内」

雄武の市街地のど真ん中を「ポンオコツナイ川」が流れています。国道 238 号は「雄古都橋」で川を渡っていますが、「雄武」と「雄古都橋」の「雄」はどっちも「河口」を意味する o- かも……?
現地で気になった店舗が軒並み閉店していてビビりましたが、こちらのガソスタは現在も apollostation として絶賛営業中とのこと。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

Google マップで雄武の市街地を眺めてみると、かなり色々とスポットが充実しています。雄武町も人口は減り続けているものの、現時点では 4 千人をちょいと下回ったところとのこと。まだだっ、まだまだやれる……! と言ったところでしょうか。

2026年7月14日火曜日

北の大地で燃費走行 (86) 「え……嘘だろ?」

雄武町の音稲府橋にやってきました。「おといねっぷ」と言えば黒い蕎麦の「音威子府」が有名ですが、こちらは「音稲府」です。
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雄武の市街地まであと 4 km の地点までやってきました。右側に興浜南線の工事跡がある筈ですが、さすがに何も見えませんね。

2026年7月13日月曜日

北の大地で燃費走行 (85) 「ゆったり走行雄武」

雄武町にやってきました。「雄武」は「おうむ」と読みますが、国鉄興浜南線の終着駅は何故か「おむ」と読ませていました。理由が気になるところですが、『北海道駅名の起源』(1973) はその辺の理由については一切触れていませんでした。
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ということでここから雄武町なのですが……

2026年7月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1408) 「兄後橋・栗木の沢川・毛似湾川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

兄後橋(あにごきょう)

人名
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別栄で「似湾川」を横断する町道栄西線の橋です。「あにごきょう」と読むようですが、「あにごばし」とする資料もあるようです。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) や『北海道実測切図』(1895 頃) には「兄後」という橋名との関連を推察させる地名・川名は見当たりません。『戊午日誌』(1859-1863) や『午手控』(1858) にもそれらしい記録は無さそうに思えます。

「兄後橋」のある町道栄西線は、「似湾川」の支流である「三号沢川」に向かっているように見えます(道は途切れていますが)。『北海道実測切図』では、この川は「タㇷ゚コㇷ゚ウㇱュナイ」と描かれているようです。


「兄後橋」の近くから「三号沢川」を 0.5 km ほど遡ったあたりは、川の北側に狭いながらも野原が広がっているようにも見えます(航空写真では森にしか見えませんが)。このあたりをかつて ane-sar で「細い・湿原」、あるいは ane-sari で「細い・あの湿原」と呼ぶ流儀があり、「あねさり」を漢字で「兄後」と表記した……みたいなことがあったりしないかな、と。

明らかに想像でしか無いのですが(汗)、ネーミングがあまりに地形にしっくり来たもので……。偶にはこんなのもいい、ですよね?

栗木の沢川(くりきのさわがわ)

不明

2026年7月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1407) 「キキンニ・あびるの沢川・似湾川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

キキンニ

kikinni?
ウツギ
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町有明の北西、鵡川西岸の地名です。三方を山に囲まれた地形で、平地の北端を「キキンニの沢川」が流れています。「キキンニの沢川」を遡った先には「喜欣儞」という三等三角点(標高 201.4 m)もあります。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「キキンニ」という名前の川?が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

また其上に
     キヽニナイ
西岸の小川山合に有。此名義はキヽニ多く有るよし、依て号るとかや。キヽニは則早咲うつぎと申て、水臘樹溲疏(原注うつぎの異称しうそ)の一種也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.515 より引用)
「キキニナイ」とありますが、おそらく kikinni-nay でしょう。問題は kikinni が何を意味するかで、
  • エゾノウワミズザクラ
    • バラ科の落葉性低木
    • サクラの一種
  • ナナカマド
    • バラ科の落葉小高木
のどちらかではないかとされています。ただ松浦武四郎はこれを
  • ウツギ
    • アジサイ科の落葉低木
としています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kikin ni   キキン ニ   早咲接骨ハヤサキウツギ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.210 より引用)
うーむ……。これを見る限り、少なくとも地元では kikinni を「ウツギ」と見ていた……ということになりそうですね。

あびるの沢川

apiri??
あの獣道
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年7月10日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1406) 「イクベツ沢川・中喜奈臼・オブスケ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

イクベツ沢川

yuk-ot-pet
鹿・多くいる・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町生田の北で鵡川に合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ユクペッ」と描かれていて、それとは別に漢字で「生鼈」と描かれていますが、これはかつて「生鼈村」が存在していたことを示しています(1868~1915)。


現在の川名はカタカナの「イクベツ沢川」ですが、川の西に「生鼈沢」という名前の二等三角点が存在します(標高 257.3 m)。

戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

また十丁計も上りて
     ユクベツ
西岸少しの平地、其処に有。名義は鹿川と云儀なるが、何故になづけ初めしやしらず。ユクは鹿の事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.509 より引用)
どう見ても yuk-pet で「鹿・川」なんですが、気になるのが「何故になづけ初めしやしらず」とある点です。ということで、yuk が何かの転訛である可能性も考えてみたのですが、これ!と言った解釈は浮かばず……。

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

汐見の古老はこの沢をユコッペッ(yuk-ot-pet 鹿が・多くいる・川)と呼んでいた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.371 より引用)
yuk-ot-pet で「鹿・多くいる・川」とのこと。文法的にも矛盾のない解に思えますが、-ot を省略して呼ぶことが当時から一般的だった、ということでしょうか……?

中喜奈臼(なかきなうす)

kina-us-i
草・多くある・ところ
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年7月9日木曜日

北の大地で燃費走行 (84) 「音標の『おのでら』」

枝幸風烈布ふうれっぷの近くまでやってきました。
右側にバス停が見えますが、このバス停の名前は「先沖内」とのこと。いかにもアイヌ語由来っぽい感じですが、聞いたことが無いような……。近くを「シャクネツナイ川」が流れているのですが、「沖」を「ねつ」とは読めないような気もしますし。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

シャクネツナイ川を渡って海沿いに出たところに枝幸町立枝幸南中学校があります。

2026年7月8日水曜日

北の大地で燃費走行 (83) 「この道はどこかで見た道」

枝幸乙忠部おっちゅうべにやってきました。「乙忠部」のローマ字表記は Otchube で、Occhube ではないのが「おっ」という感じですね(ぉぃ)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ここはかつての「チカプトムシ」のあたりのようです。「チカプトムシ」(あるいは「チカフトムシ」)は、松浦武四郎の時代にはかなり知られた地名だったようで「近太虫」という字が当てられたこともあったのですが、いつの間にか消えてしまったようで……。

2026年7月7日火曜日

北の大地で燃費走行 (82) 「公民館とコミセン」

枝幸徳志別にやってきました。宗谷バスの停留所が見えますが、停留所名は「オッチャラベ」とのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

少し進んだ先の右側に、いかにもバス停の待合室っぽい建物があったのですが、肝心の?丸板が見当たりません。ということは、これはバス停ではない……?

2026年7月6日月曜日

北の大地で燃費走行 (81) 「追茶呑辺」

北見幌別川を渡って枝幸岡島にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右側にちょいと大きな電波塔が見えます。向こうからバスがやってきましたが……。

2026年7月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1405) 「キリカツ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

キリカツ沢川

kiri-ka-p??
あの足・の上・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町花岡の北、鵡川の北側を流れる支流です。川の北西には「切勝沢」という名前の四等三角点も存在します(標高 208.9 m)。

陸軍図には「キリカツ澤」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「キリカㇷ゚」と描かれていました。

豚骨ラーメンは美味しい

戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

過て
     キリカツチ
西岸少しの平地有。此処に川口有。其東岸は山にして雑木立原也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.506 より引用)
続いて地名解が記されているのですが……

其名義は昔し此処え山の乙名来りて、鹿の骨と思ひて大なる骨の中の肉を喰し処、其骨土人の骨に有りしによつて、其を以て号しとかや。(鹿)の骨も土人の骨も(不)分明と云よりして号しものと聞り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.506 より引用)※ 原文ママ
????? これは一体……?

アイヌ語沙流方言辞典』(1996) には kir という項があり、次のように記されていました。

kir キㇼ 2【名】足の骨の中の脂肪(鹿、熊、豚、牛等の。魚には無い)、骨髄。{E: bone marrow.}
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.308 より引用)
どうやら「骨の中の肉」というのは「骨髄」を意味していた可能性がありそうですね。豚骨ラーメンは美味しいですし

サーモンイクラ丼も最高に美味しい

ところが、永田地名解 (1891) には全く異なる解が記されていました。

Kiri kap kotan   キリ カㇷ゚ コタン   鮭ノ産卵場「イチヤン」ト同義石狩上川ニ同名ノ地アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.210 より引用)
「キリ カㇷ゚」で「鮭の産卵場」だとしています。石狩川上流部の上川郡にはそれらしい地名を確認できなかったのですが、深川の「オキリカップ川」が「川尻なる鮭卵場」とされていました。石狩川の中流部の支流なので、これが永田方正の言う「石狩上川に同名の地あり」だったんでしょうか。

松浦武四郎が記録した地名は「キリカツチ」ですが、『北海道実測切図』は永田地名解に合わせたか「キリカㇷ゚」と描かれていました。ただ永田地名解は瀬棚郡にも「キリカッチ」という地名があったとしていて……

Kirikatchi   キリカッチ   鮭ノ産卵場 石狩上川、勇拂郡ノ川ニ同名アリ「イチヤン」ト同義
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.129 より引用)
これはせたな町の「切梶川」のことのようです。「勇払郡の川に同名あり」とあるのが、今回の「キリカツ沢川」を指していると考えられます。

ということで、「キリカツ沢川」の「キリカツ」は kirikatchi で「鮭の産卵場」だ……と考えたいところですが、この「キリカッチ」=「鮭の産卵場」という解釈は永田地名解以外では殆ど確認できないのですね。

古語の可能性もあるので『アイヌ語古語辞典』(2013) やジョン・バチェラーの辞書、ドブロトヴォールスキィの辞書なども見てみましたが、それらしい語は見当たりませんでした。唯一の例外が知里さんの『動物編』(1976) で、次のように記されていました。

(30) kirikatči=ican(C 129)
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.51 より引用)
この(C 129)というのは『北海道蝦夷語地名解』(1891) の p.129 を意味します。つまりこれは瀬棚郡の「キリカッチ」のことで、『動物編』に kirikatči とあるのは「永田地名解がこんなことを書いていたよ」という以上のものではありません。

毎度おなじみ V. S. O. P.

永田方正が嘘をついたとは考えづらいですが、ガセネタを掴まされた、あるいはうっかり勘違いしたという可能性があります。そのため「鮭の産卵場」ではない、より一般的な解釈の可能性を考えてみたくなります。

まぁ、毎度おなじみ V. S. O. P. (Very Special One Pattern) で、なんとか地形的な類似点を見出そう……というものでしかありません。地形図を並べて「どんなんかなー™」と言いながらそれを眺めるだけなんですが……

一番特徴的なのが「切梶川」の河口でしょうか。河口のすぐ北側に岩が海にせり出しています。


今回の「キリカツ沢川」がどうかと言うと……微妙なところでしょうか。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
最大の難関が「オキリカップ川」ですが……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
河口の片側に岩、あるいは山がせり出している……と言えそうな気もしないでもありません(どっちだ)。

あの足の向こうには

改めて『地名アイヌ語小辞典』(1956) で kir の項を眺めてみると……

kir, -i きㇽ ①足;脚。②骨髄。③【ビホロ】山。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.48 より引用)
豚骨「骨髄」以前に「足」や「脚」を意味するとのこと。あと美幌では「山」を意味するという用例も記録されていたのですね。

ka は「糸」や「罠」を意味しますが、それとは別に位置名詞として「~の上」「上面」「表面」や「かみて」を意味したり、あるいは「~の岸」や「~のほとり」を意味します。

となると kiri-ka は「あの足・の上」と解釈できそうな気もします。kiri は「あの足」ですが、切梶川河口部の岩山のように「せり出した岩山」を「あの足」と呼んだのではないか……という想像です。

この試案の便利なところは kiri-ka-p であれば「あの足・の上・もの(川)」となり、kiri-kasi であれば「あの足・その上」となるところです。「キリカッチ」と「キリカㇷ゚」で表記が揺れていた部分も、綺麗に?カバーできちゃうんですよね。

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2026年7月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1404) 「モイベツ川・アツベツ川・オルイカ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

モイベツ川

moy-pet?
山中の湾のような平地・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町豊城の東、むかわ町春日で北から鵡川に合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「モイペッ」と描かれています。「萠別」という漢字表記もあるので、このあたりはかつて「萠別村」だったようです。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

またしばし上りて
     モイベツ
是も西岸にして、川口の巾三四間なるが奥深しと聞けり。其訳はふか(き)遅流の義なるモウヘツの訛りと思はる。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.502 より引用)
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Moi pet   モイ ペッ   遲流川 直譯靜處モイベツ、○此處ヨリ下ハ漸ク川深ク流レ遲シ○萠別村モエベツ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.210 より引用)
地名アイヌ語小辞典』(1956) で moy の項を見てみると……

moy, -e【H】/-he【K】もィ ①岬の陰になっているような波静かな海;浦;入江;入海。②【ナヨロ】川の曲り角の水のゆるやかに流れている所。③山谷の中で平地が湾のように入りこんでいる所。[<mo-i(静かな・所)]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.61 より引用)
今回は内陸部なので①は一旦無視で良さそうですね。松浦武四郎と永田方正は②に近い形で考えていたようですが、地形を良く見てみると実は③の「山谷の中で平地が湾のように入りこんでいる所」そのものなんですよね。

このような地形は結果的にゆったりした(=遅い)流れになる可能性も高そうですが、「遅い」であれば moy よりも moyre のほうがより具体的?なので、あえて moy-pet としたのであれば「山中の湾のような平地・川」と考えたいところです。

アツベツ川

an-ru-pes-pe??
もう一方の・路・それに沿って下がる・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)

2026年7月3日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1403) 「健城・シモカナイ橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

健城(けなしろ)

kenas-oro
林の中の谷地・のところ
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町豊城の、かつて国鉄富内線の豊城駅があったあたり、道道 983 号「米原田浦線」の北に小さな山があり、その山頂付近に「健城」という名前の三等三角点が存在します(標高 49.8 m)。現役の地名ではないものの、三角点の名前としては現役ということになりますね。

陸軍図には、豊城駅の位置に「かみむかは」と記されていて、駅の西側に「毛奈城」とあります。


不思議なことに、北海道実測切図 (1895 頃) にはそれらしい地名や川名は見当たりませんが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ケナシヨロ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

また同じくしばし屈曲を上りて
     ケナシヨロ
西岸也。此処少しの平地有。其処に小川有。名義は此処樹木陰森たる沢山の間の平地にして、谷地有る処と云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.499 より引用)
どうやら kenas-oro と見て良さそうな感じですね。kenas は毎回判断に悩む語で、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも「川ばたの木原」「かんぼくの木原」「湿原;やち気のある野原」「ふつうの原野」「木原;木の生えた景色のよい所」「ユリやギョージャニンニクなどの生えている多少やち気のある林野」「川沿いの林野」と列挙されています。

松浦武四郎は「樹木陰森たる沢山の間の平地」「谷地有る処」としているので、kenas は「林の中の谷地やち」と言ったところでしょうか。kenas-oro であれば「林の中の谷地・のところ」と見て良いかと思われます。

余談ですが、前掲の陸軍図には駅名が「かみむかは」とあり、鵡川駅と線路が繋がっているのですが、
  • 1943 年 8 月 1 日 北海道鉄道金山線が国有化され国鉄富内線に、上鵡川駅は豊城駅に改称
  • 1943 年 11 月 1 日 鵡川-豊城間の連絡線が開業、沼ノ端-豊城間の旧線が休止(事実上の廃止)
なので、陸軍図は駅名を直すのを失念していた……ということになりそうです。

シモカナイ橋

ka-nay?
わな・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年7月2日木曜日

北の大地で燃費走行 (80) 「道道 398 号の謎」

道道 1069 号「ウエンナイ幌内保線」と接続する交叉点にやってきました。
この道道、Google マップでは道道 398 号「北見枝幸停車場線」のマークが描かれているのですが、Wikipedia の当該ページを見ると……良く分からないことになってますね。総延長 0.5 km というのは「西條枝幸店」(北見枝幸駅跡)から道道 1069 号(国道 238 号の旧道)までの距離ですが、「重複区間」欄には道道 1069 号と重複……とあります。どっちかが間違っているのですが、さて真相は……?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ここはもちろん直進して雄武に向かうのですが、あれ、またしても青看板が。

2026年7月1日水曜日

北の大地で燃費走行 (79) 「稚内開 建設部」

枝幸問牧からウスタイベ岬方面に向かいます。ここにも「動物注意」の標識が……。どうぶつの森?
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右側に、明らかに興浜北線の跡と思しき土手が見えます。