2011年7月31日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (5) 横浜 (1878/5/21)

それでは引き続き、1878/5/21 の「第一信」を見て行きましょう。

カットされた「雑種の街」から

「日本奥地紀行」(原題:Unbeaten Tracks in Japan)には、前述の通り、「完全版」と「普及版」が存在するのですが、「第一信」においても、「普及版」でカットされた部分が存在します。まずはそのカットされた部分を、「──完全補遺」から見て行きましょう。「雑種(ハイブリッド)の街」という題がつけられています。

 横浜はどちらにしても堂々としているとは言えません──これらの雑種(ハイブリッド)の都市は決してそういうことはないのです──。山の手(ブラフ)はボストンの郊外を現し、段になっている海岸通り(バンド)はバークンヘッド[イングランド北西部のチェシアの海港、リバプールの対岸に位置する]の郊外──半熱帯の幻想を与える──を現し、そしてみすぼらしく、見栄えのしない日本の町は──勤勉な貧しさとでもいわないとしたら──何に譬えてよいか分からないのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.25 より引用)
一瞬、「ハイブリッドとは何だろ?」と思ったのですが、欧米列強に「居留地」を割譲した後の横浜を評した内容でした。この一節を見た限りでは、日本の伝統的な漁村の風景を「みすぼらしい」と評しているかにも思えますが、

そして堂々として醜い英国領事館、一部ハワイ島での献金により建てられたぱっとしない醜いユニオン教会[横浜海岸教会]、目障りさではほとんど劣らない数少ない他の建物、日本の郵便局、税関、サイバンチョーつまり裁判所、これらは新しくそして、事実上外国人建築家により外国風に建てられており、倉庫のように素性の知れないごたごたした卑しい建造物の塊です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.25 より引用)
このようにも記しています。……うーん、念のため原文にも当たってみたくなる内容ですね(和訳の質に疑義を呈している訳ではないので念のため)。イザベラ・バードは、「日本奥地紀行」を読む限りでは、たとえばブルーノ・タウトばりに日本文化に傾倒していたというわけでも無さそうなのですが、明らかに日本の原風景とは相容れないコテコテの「西洋様式」の建築物には違和感を覚えた、ということかも知れません。あるいは、それらの完成度が「西洋様式」の「模倣」に過ぎない、と感じていたのかも知れません。

イザベラが、何故「普及版」にてこのくだりをカットしたのか、正確な意図は不明ですが、イザベラがその後の旅程で目にした「ほんとうの日本」の姿からはかけ離れていたから、と考えて良さそうな気がします。

人力車

続いて、普及版にもちゃんと残された部分を。

 外には、今では有名になっている人力車が、五十台ほど並んでいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.27 より引用)
これは、横浜に上陸した直後の出来事です。

発明されたのはたった七年前なのに、今では一都市に二万三千台近くもある。人力車を引く方が、ほとんどいかなる熟練労働よりもずっとお金になるので、何千となく屈強な若者たちが、農村の仕事を棄てて都会に集まり、牛馬となって車を引くのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.27 より引用)
明治の初頭から、すでに農村から都市への人口集中の流れができていた、ということを物語ります(逆に、江戸時代がどうだったのかは正確な知識を持ち合わせていないのですが)。「牛馬となって」というのはなかなかアイロニカルな表現ですね。明治から昭和にかけては「馬車鉄道」という、馬力で動く鉄道があったのですが、驚くべき事に「人車軌道」という、人力で動く鉄道もあったのだとか。

普通に考えても、相当な重労働に思えるのですが、

しかし、車夫稼業に入ってからの平均寿命は、たった五年であるという。車夫の大部分の者は、重い心臓病や肺病にかかって倒れるといわれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.27 より引用)
なかなか壮絶な話です。当時は結核も「不治の病」だったので、全般的に平均寿命は短かったと考えられますが、それにしても「5 年」というのは……。

この愉快な車夫たちは、身体はやせているが、物腰はやわらかである。彼らは、町の中を突進し、その黄色い顔には汗が流れ、笑い、怒鳴り、間一髪で衝突を避ける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.29 より引用)
なんだか、現代のタクシー・ドライバーとも通じる部分があるようにも思えますが、心なしかイザベラの描く車夫たちのほうが幸せそうにも感じられます。純朴であるが故の幸福感かも知れませんね。

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2011年7月30日土曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 番外編「階段国道」成立の歴史

「階段国道」成立の歴史

そういえば、竜飛岬の通称「階段国道」がどのように成立したかについて、記事にするはずが……忘れてました(←)。
なぜか手元に、松波成行さんの「国道の謎」という本があって、その中に「階段国道」が思いっきり取り上げられているので、今回はこちらを底本にしましょう。

「地図を見ててきとーに認定した」説は本当か?

まず、「階段国道」成立の理由として、随分と昔からまことしやかに語られる通説があります。これは「国道の謎」にも次のように記されています。

 その階段が国道たる謎については幾つかの憶測がなされ、一種の都市伝説的な様相を帯びています。その一例が、「当時の役人が現地の確認もせず、地形図だけを頼りに勝手に線をつなげて国道とした」という類の話です。これらは出現の時期や発信源などはまったく不明で、少なくともインターネットが普及する以前から口の端に上っていました。
(松波成行「国道の謎」祥伝社 p.44-45 より引用)
似たような話を聞かれたことのある方も多いかと思いますが、結論から言えば、半分は正解で半分は不正解、といったところでしょうか。

なぜ「民家の軒先」が「主要地方道」に?

国道 339 号線が制定されたのは、昭和 50 年のことなのだそうです。そして、それは「主要地方道」の昇格、という形でなされました。従って、なぜ「民家の軒先の道」が「主要地方道」として認定されていたかというところを突き詰めれば、答が出そうな感じです。

現在では「竜泊ライン」という愛称を持つ、国道 339 号の竜飛岬から小泊村(現在の中泊町小泊……だと思います)への道路は、県道に指定された時点では獣道と大差ない「未開通状態」の道路だったそうです。現在でも、国道に指定されていながら、道路そのものがずっと開通しないままの場合もある(例:国道 274 号線など)ので、このこと自体は特に奇異なことではありません。

「竜泊ライン」は陸上自衛隊が切り開いた

話が少々脱線しますが、「竜泊ライン」の、いわゆる「階段国道」を除く部分は、陸上自衛隊の手によって工事が行われ、現在では快適な 2 車線道路となっています。一方で「階段国道」の部分は工事が行われることなく、取り残された形となってしまいます。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?

理由は簡単で、既に代替ルートが確保されていたから、ということのようです。竜飛岬のあたりは、現在でも自衛隊の施設があるようですが、戦前は津軽海峡防衛の要として、(それほど大規模ではなかったものの)要塞として取り扱われていたのだそうです。現在でも「階段国道」の迂回路として使用されている道路は、当時の「軍道」のなれの果てなのだとか。当然ながら、一般人の立入は許可されなかった、ということのようです。

「あじさいロード」が国道に昇格しない理由

このあたりは、ご存じの通り、青函トンネルの工事が大々的に行われたところです。トンネル工事では大量の土石の運搬が発生するため、それらを運ぶために大量のダンプカーが行き交います。既存の国道 339 号線だけでは道路の容量がパンクしてしまうため、別に工事車両の通行を想定した道路が建設され、今ではその道路が県道に指定されています(「あじさいロード」という愛称もあるようです)。

この「あじさいロード」を国道 339 号線に昇格させる……というアイディアもあったのだそうです。現在の所、このアイディアは実現に至っていないのですが、これはどうやら「あじさいロードを国道に昇格させたら、『階段国道』が消滅してしまう」という判断が働いたのではないか……と見られているのだとか。
そう、この写真を見てもおわかりの通り、もはや「階段国道」は立派な「観光資源」として、当地でも認知されている、ということのようです。何がどう転ぶかわからないものですね(笑)。

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2011年7月29日金曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (160) 「アイヌ語地名の傾向と対策(あれ?)」

「三航北国日誌」第 160 回です。本日は、アイヌ語地名の傾向と対策をお送りします(←

一つに見えても十三湖(←

旧・市浦村をそそくさと(←)後にして、国道 339 号線を弘前に向かいます。目の前にちょっとだけ見えているのが、十三湖のようですね。
こちらは東北電力のサービスセンターのようですが、これを見る限り、冬場は風雪が厳しそうな雰囲気ですね(雪よりも、むしろ風の方が)。
「ストーブ列車」で有名な(ですよね?)津軽鉄道の踏切を渡ります。

シャリフでもマリキでもなく

そして、何気ない風景を収めたようにも見えますが……
実はこの看板が目当てだったりして。
車力」とは風変わりな地名ですが、これは……アイヌ語起源の地名の可能性が高いと思います。sar-ki で「湿原・竿」、転じて「」という意味です。実際、車力のあたりはかつては湿原が広がっていたと考えられるので、おそらく間違い無いと思うのですが……。

これで「車力」が昭和 30 年にできた地名だったりしたら目も当てられない……。

日が暮れる前に、とりあえず給油!

さて。前の日に余市の「モダ石油」で給油して以来、2 日で 600 キロとちょい走りましたが。どうやら雫石までは持ちそうにありません。そして時間ももうすぐ 18 時になろうかというタイミングだったので、ガソリンスタンドが閉店する前に給油を……となりました。
ガソリンスタンドに着いたのが 17:45 頃でした。そろそろ閉店の準備をしようかという雰囲気だったので、お店のお姉さんに「まだ給油大丈夫ですか?」と尋ねてみたところ、愛想良く「大丈夫ですよ♪」と答えてもらえたので一安心、です。
今回は 628.9 km 連続走行となりました。北海道と比べるとカーブや信号が多いので、これからは今までのような好燃費はマークしづらくなりますね……。この時は 57.0 リットル入りましたので、えーと……、1 リッターあたり 11.0 km ですね。まぁ……こんなもんでしょう。この車にしては上出来です。

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2011年7月28日木曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (159) 「ファンタジーのふるさと『市浦村』」

「三航北国日誌」第 159 回です。本日は、ちゃんと時間をかけて記事を書きました(←

十三湖、五所川原、弘前……雫石

この日の最終目的地は岩手県の雫石なのですが、ここからは「十三湖」「五所川原」「弘前」を経由していくことになります。もう 17 時を過ぎてしまったので、あまり寄り道はできない状況です。
十三湖までは約 9 km、弘前まではまだ 70 km もあります。この調子だと弘前に着くのが 18:30 頃になってしまいます。うーん、雫石に着くのは何時頃になってしまうのだろう……。念のためホテルに連絡しておいたほうがいいかなぁ……。などと考えているとトイレに行きたくなったので(なんでだ)、
ちょいと休憩。あ、ここがかの有名な「市浦村」だった所なのですね。今は五所川原市になってしまった筈ですが……。

「市浦村」が有名になったわけ

「市浦村」の名前がいちぶで有名なのは、その村史「市浦村史 資料編」によって、です。この書き方では「?」という方もいらっしゃるかも知れませんが、それでは「和田家文書」ではどうでしょうか? あるいは「東日流外三郡誌」ではどうでしょうか? そう、この「市浦村」は、その衝撃的な内容から真贋論争が起こり、最終的には全てが「真っ赤なウソ」であることが白日の下に曝された、あの有名な偽書の舞台となったところです。

「市浦村」の歴史

えー、まずは「市浦村」についておさらいを。

市浦村(しうらむら)は、かつて青森県北津軽郡におかれていた村。岩木川が流れ込む十三湖に面していた。
名前の由来は、四つの浦(相内、脇元、十三、太田)が合併して「四浦村」になるはずだったが、四=死という縁起の悪い数字だったため、あえて「四浦」の四を「市」にしたものである。
(Wikipedia 日本語版「市浦村」より引用)
ということで、千葉県の「富里市」のような形で、元となった自治体の数を合算して、ちょいと気の利いた佳字?に直したという地名でした。ちなみに四村が合併して「市浦村」となったのは、昭和 30 年のことです。

偽書「東日流外三郡誌」について

続きまして、そのぶっ飛びぶりが結果的には爆笑を誘った「東日流外三郡誌」について。

東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場した。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていた、という内容で、有名な遮光器土偶の姿をした「荒覇吐(アラハバキ)」神も登場する。
(Wikipedia 日本語版「東日流外三郡誌」より引用)
まぁ、ここまではまだ良いとして、

和田による古文書の「発見」は、1949年頃から始まっている。ただし初期の古文書は地中から掘り出したとされていた(当時、和田家邸宅は藁ぶき屋根で、まだ天井裏がなかった)。
(Wikipedia 日本語版「東日流外三郡誌」より引用)
「当時、和田家邸宅は藁ぶき屋根で、まだ天井裏がなかった」という一文がありますが、ここ笑うところですので(笑)。

結局、和田は1999年に世を去るまで約50年にわたってほぼ倦むことなく(本人の主張では天井裏にあった箱から)古文書を発見し続けた。
(Wikipedia 日本語版「東日流外三郡誌」より引用)
この「本人の主張では──」というのも同様に「笑うところ」です(笑)。

ツッコミどころ満載

この「東日流外三郡誌」という自称・古文書は、そのぶっ飛んだ内容以上にツッコミどころが満載で、たとえば、

「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」や「冥王星」「準星」など20世紀に入ってからの天文学用語が登場するなど、文書中にあらわれる言葉遣いの新しさ、発見状況の不自然さ(和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはない)、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある(「秋田孝季」とは何者なのか?)、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書ではないかという指摘がなされた。
(Wikipedia 日本語版「東日流外三郡誌」より引用)
そう、自称・江戸時代の古文書に「冥王星」が出てくるんですよね(笑)。クライド・トンボーも天国できっとおかんむりのことと思います。他にも 18 世紀に書かれた筈の自称・古文書に「紅毛人ダウイン説」を長崎で聴講した、なんて記述もあったりします。チャールズ・ダーウィンは 1809 年生まれとされていますから、もちろん時代が合わないわけですが、「『東日流外三郡誌』は真書だ!」と信じ込みたい人は、「この『ダウイン』はチャールズの祖父の事だ!」などと言っていたそうです。

まぁ、このような感じで「古史古伝」をつまみぐいしたファンタジーとしか言えない代物が、誰がどう欺されたか「市浦村」の「村史」として公刊されてしまったのが間違いの始まりだったわけです。この騒動の「まとめ」としては、東奥日報の斉藤光政記者(当時)の手による「偽書『東日流(つがる)外三郡誌』事件」が白眉です。どうやらアマゾンには在庫が無いようなので、入手するなら今のうちかも知れません!

ではここで問題です

そうそう、この和田喜八郎さん、よほど「市浦村」に自著(←)を公刊してもらえたのが嬉しかったのか、著作(←)の中に「市浦」もしくは「四浦」という言葉も入れてしまっていたと記憶してます。これがどういった問題を孕んでいるかは……、もう皆さんお気づきですよね?(笑)

ヒントはちゃんと今日の記事の中に忍ばせておきました。

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2011年7月27日水曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (158) 「あれ?」

「三航北国日誌」第 158 回です。うわわわ、今日も時間が……(ただ今 23:44)。ということで、今日は全部の写真を使い古しで行きます!(←

この車は……

思い起こせば、下北半島は「むつ市」の脇野沢フェリーターミナルで見かけたこちらの車。
5 台見える内の、一番右側の車です。この車は、同じくフェリーターミナルで待ち合わせをしていた車でした。

ちょっぴり気になってはいたんですが

当然ながら、乗船する時にもその姿はありました。
そして、もちろん下船する時にも。
その後、むつ湾フェリー「かもしか」が、津軽半島の蟹田 FT に到着したところで、当然ながら全ての車が離ればなれになりました(14:50 頃)。

その後は特に気にせずにいたのですが

その後わたくしは、道の駅「たいらだて」で「ほたて塩ラーメン」を頂き、
義経ゆかりの「義経寺」なるものを見て、
竜飛岬にて階段国道を完全制覇して、
石川さゆりの歌声を聴き、
青函トンネルの建設時に亡くなった方々を偲ぶ慰霊碑を訪れ、
竜飛岬を後にして、「竜泊ライン」を南下していたのですが……。

あれ?

目の前には
「さっきの車」が。時間にすれば約 2 時間程度ですし、確かに他にはさしたる道路も無いので、可能性はもちろんゼロではないのですが、「あれれ?」と思ったものです。すいません、それだけの話です(←

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2011年7月26日火曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (157) 「お察し下さい(←)」

「三航北国日誌」第 157 回です。本日の内容は、色んな意味でお察し下さい……(←

ラストスパートと言うにはあまりにも遠い

青函トンネルの建設時に亡くなった方々を偲ぶ「慰霊碑」を拝んだ後は、一目散に最終目的地である雫石(岩手県)に向かいます。
これを見る限りでは、まだまだ結構な距離を走らないといけないわけですが……(「31」から最後の「G」まで走らないといけない)。

竜泊ラインをゆく

竜飛岬から中泊町小泊に向かう国道 339 号線は、「竜泊ライン」という愛称があるようなのですが、確かになかなか眺めの良い道路です。整備状況も申し分ない、快適な道ですね。
最初はこのように、山間を走るのですが、そのうち
眼前に海も見えてきます。

海が見えてきました……

本来は、道路右側に海が見える筈なのですが、
このあたりでは左側に見えますねぇ。いかに道路がくねくねしているかがわかります。
これは右側の窓から撮影したものではなく、あくまで前景の写真です。ヘアピンを左にターンする途中のものですね。

この風景はどこかで見たような

やがて「竜泊ライン」は、山間部から海沿いに降りてきます。
どこかで見たような景色ですね……。
二台ほど前で、ちょっとゆっくり走っている車に追いついてしまいました。

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2011年7月25日月曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (156) 「永遠に安らかならんことを」

「三航北国日誌」第 156 回です。今日は少し真面目な話題を……。

竜飛岬の片隅に

石川さゆりの歌声が聞こえる記念碑を見物した後、車を少しだけ走らせて、先ほど以上にひっそりとした駐車場に車を停めました。
目の前には……、ちょっと荒れ気味のモニュメントのようなものがあります。
祭壇のようなスペースの脇には、「青函トンネル工事略歴」と記された石碑が置かれています。
一番上に記されているのが、1946 年 4 月の「地質調査開始」ですね。その後、建設計画は「日本国有鉄道」から「日本鉄道建設公団」に引き継がれ、1964 年 5 月には吉岡斜坑の掘削が開始されます。

本格的な工事は 1972 年 3 月に開始され、先進導抗が貫通したのが 1983 年の 1 月、その後も本抗の工事が続けられ、竣功したのは 1988 年 3 月のだったそうです。丸 16 年にも及ぶ大工事だったわけですね。

「慰 靈」

そして、祭壇の真ん中には……
大方の予想通り、「慰 靈」の文字が。そう、これは青函トンネルの工事で殉職された方の霊を慰める慰霊碑なのでした。

慰霊碑のまわりは、こんもりとした形に土が盛られていて、その脇には碑文が記された石碑があります。
せっかくなので、碑文をまるまる引用させてもらいましょう。

 碑 文
 青函トンネルの完成により 本
州と北海道は鉄路で直結され 多
くの人々が待ち望んだ 安全で安
定した交通が可能となった
 これが 国土の一体化とひいて
は日本の発展に 大きく寄与する
ことを祈念する
 ねがわくは この工事に英知と
情熱をかたむけながら 青函トン
ネルの礎となられたかたがたの
永遠に安らかならんことを
 昭和六十三年七月
  青函トンネル工事関係者一同

そして、この碑文の反対側には、殉職された方の氏名が刻まれています。
合計 34 名の方のお名前が刻まれています。

どうぞ安らかに

本来は玉砂利が敷き詰められている筈のところから雑草が生えているのが少々気になるのですが、されはさておき……。ここは、観光地としての竜飛岬の喧噪から少し離れたところにあります。それが救いと言えば救いですね。

どうぞ安らかにお眠り下さい。

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2011年7月24日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (4) 東京湾 (1878/5/21)

では、「はしがき」を読むのもほどほどに、「日本奥地紀行」の本文を読み進めていきましょう。まずは 1878/5/21 の「第一信」から。

 荒涼たる海原を航海し続けること十八日間で、シティ・オブ・トーキョー号は、昨日の朝早くキング岬(野島崎)に到着し、正午には海岸の間近に沿って江戸湾(東京湾)を北進していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.22 より引用)
イザベラは、1878 年の時点で、世界中を旅する Victorian Lady Traveller として著名だったと想像されるのですが、この記述を見る限り、日本旅行は諸国遍歴の途中に立ち寄ったのではなく、わざわざイギリスからやってきた、ということのようですね。

 甲板では、しきりに富士山を賛美する声がするので、富士山はどこかと長い間さがしてみたが、どこにも見えなかった。地上ではなく、ふと天上を見上げると、思いもかけぬ遠くの空高く、巨大な円錐形の山を見た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.23 より引用)
この本の挿絵の多くは、イザベラ自身のスケッチから起こしたものなのだそうですが、この時の富士山のイメージはこのようなものだったのだとか。
うーん(笑)。これだと、米国ワイオミング州のデビルスタワーのような……。

荘厳で孤高の山

とりあえず、イザベラのファースト・インプレッションを見て行きましょう。

海抜一三、〇八〇フィート、白雪をいただき、すばらしい曲線を描いて聳えていた。その青白い姿は、うっすらと青い空の中に浮かび、その麓や周囲の丘は、薄ねずみ色の霞につつまれていた(*)。それはすばらしい眺めであったが、まもなく幻のように消えた。トリスタン・ダグーナ山(南米最南端の火山)──これも円錐形の雪山だが──を除いては、これほど荘厳で孤高の山を見たことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.23 より引用)
「トリスタン・ダグーナ山」なんて山があったかな? と思ったのですが、これはどうやら、南大西洋のど真ん中にある「トリスタン・ダ・クーニャ島」のことではないか、とされているようですね。ちなみにトリスタン・ダ・クーニャ島は、ギネスブックに「世界一孤立した有人島」として掲載されているのだそうです(Wikipedia による)。

富士山の優美な姿は、我々誰もが知るところですが、3000 m 級の山が山脈を構成せずに存在する(イザベラの言葉を借りれば「孤高の山」)というのは、少なくとも日本国内では他に例を見ないわけで、イザベラの筆致がいささか興奮気味に見えるのもさもありなん、と思わせます。ただ、上記引用文中にはさりげなく注釈が入っていて、

 * 原注──これは全く例外的な富士山の姿で、例外的な天候状態によるものである。ふだんの富士は、もっとがっしりと低く見えて、扇をさかさまにした形によく譬えられる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.24 より引用)
と、いささか自分の筆が走りすぎたことを軌道修正しようとする努力も見られます(笑)。

太平の眠りを覚ます上喜撰……

北斎ばりの富士山見物を愉しんだ後、船は横浜に向かうのですが……

私たちの船は、リセプション湾、ペリー島、ウェブスター島、サラトガ岬(富津崎)、ミシシッピー湾(根岸湾)──いずれもアメリカ外交の成功を永く記憶するアメリカ人の命名である──を通過した。トリーティ・ポイント(本牧岬)からも遠くないところで、赤い灯台船に出会った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.24-25 より引用)
とても日本国内のことを記したとは思えない記述が続きます。被征服者の悲哀が見え隠れしますね。

イザベラの瞳に映る日本人

さて、シティ・オブ・トーキョー号はその名に反して横浜に到着します。とはいえ、大型船(だと思う)が停泊できるような近代的な桟橋は無かったでしょうから、イザベラが「サンパン」と記した小型船に乗り換えてから上陸することとなります。

船が停泊すると、外国人からサンパンと呼ばれる日本船がどっと群がるようにやってきて、船をとり巻いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.25 より引用)
これ、一応原文のママなんですが、「外国人から」という部分が意味不明なので、何かの間違いかも知れません。さて、その「サンパン」についての記述です。

船は櫓で漕ぐというものではなく、櫂で水をかく。舷側に取りつけた鉄棒にクラッチをさしこみ、それを軸として、二本の重い木製のオールを、二人か四人の男が動かすのである。男たちは、立ったまま水をかき、腿を櫂の支えとしている。彼らはみな単衣(ひとえ)の袖のゆったりした紺の短い木綿着をまとい、腰のところは帯で締めていない。草履を履いているが、親指と他の指との間に紐を通してある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.25-26 より引用)
「親指と他の指との間に紐を……」というのは、きっと「鼻緒」のことですよね。

頭のかぶりものといえば、青い木綿の束(手拭い)を額のまわりに結んでいるだけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.25-26 より引用)
こちらは「はちまき」のことかと(笑)。ただ、どちらも正確な記述であることは間違いないですね。

その一枚の着物も、ほんの申しわけにすぎない着物で、やせ凹んだ胸と、やせた手足の筋肉をあらわに見せている。皮膚はとても黄色で、べったりと怪獣の入れ墨をしている者が多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.26 より引用)
これは……(笑)。「龍」の彫り物とか、そういったものなのでしょうね。確かに「怪獣」には違いないですが……。

サンパン船の料金は運賃表で定まっているから、旅行者が上陸する際に法外な賃銀を請求されて気持ちをいら立たされるということはない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.26 より引用)
このあたりは、旅行者ガイドとしては重要な情報ですよね。おそらくは公的なものではなく私的なものだと思うのですが、一定の秩序の元に荷役あるいは輸送のサービスが行われていたことを示唆します。その国の経済や文明の成熟度合いを知るのに重要な指標かと思います。

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2011年7月23日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (3) はしがき(つづき)

引き続き、イザベラ・バード著/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」の「はしがき」を読みます。いや、ペースアップしないと十年掛けても終わらないというのは理解しているんですが……(←

私の旅行コースで、日光から北の方は、全くのいなかで、その全行程を踏破したヨーロッパ人は、これまでに一人もいなかった。西欧の影響を少しも受けていない地方で、私は、日本人とともに暮らし、日本人の生活様式を見てきた。女性の一人旅であり、私の旅行した地方には、初めて西欧の婦人が訪れたというところもあり、私の得た経験は、今までの旅行者のものとはかなり大きく異なるものがあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.17-18 より引用)
この句点「。」の数が少ない文章は、まるで私が書いた文章のようで親しみが湧いてきます(笑)。そして、この長~いセンテンスには、まだ続きがあって、

私はまた、エゾの原住民を親しく知る機会をもったから、今まで以上に詳細に彼らの事情を説明できると思う。主として以上のような理由から、本書を公刊するに至ったのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.18 より引用)
そして、この書の体裁について自ら言及している箇所が続きますので、なんかずーっと引用ばかりで心苦しいのですが、続けてみます。

 本書は、私が旅先から、私の妹や、私の親しい友人たちに宛てた手紙が主体となっているが、このような体裁をとるようにしたのは、いささか気の進まぬことであった。というのは、この形式で本を書くと、芸術的に体裁を整えたり、文学的に材料を取り扱うことが不可能となり、ある程度まで自己中心的な書きぶりとならざるをえないからである。しかし一方では、読者も旅行者の立場に立つことができるし、旅の楽しさや楽しみはもちろんのこと、旅行中のいろいろの苦難や退屈まで、筆者とともに味わうことができるというものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.18 より引用)
先日も言及したと思いますが、この書き方は本書の特色のひとつと言えるかと思います。好き嫌いは分かれるかも知れませんが、実際に読み進めてみると、さほど違和感を抱くことは無いように思います。「日本奥地紀行」が公刊された頃に、読者にどう受け止められたかは流石にわかりませんが、現代ではそれほど突飛な手法では無いと思いますので。

小シーボルト

続けましょう。

 北部日本では、他に情報を得る資料がないために、通訳を通じて、地方の住民から直接に、なんでも聞かなければならなかった。雑多な情報から、一つずつ事実を探り出すことは、骨の折れる仕事であった。アイヌ人からは、その風俗習慣、宗教について知識を得ることができた。しかし私は、オーストリア公使館のハインリッヒ・フォン・シーボルト氏が同時期に得た情報と比較検討する機会に恵まれた。その結果は、あらゆる点で満足すべき意見の一致を見た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.18-19 より引用)
ハインリッヒ・フォン・シーボルトは、1829 年に「シーボルト事件」で国外追放処分となったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子にあたる人物です。そのため日本ではハインリッヒのことを「小シーボルト」と呼ぶケースもあるようですね。

「小シーボルト」の父親であるフィリップは 1796 年生まれで、「小シーボルト」が日本において様々な研究活動を行ったのは幕末から明治初期にかけてなので、少々年代が合わないような気がしますが、小シーボルトは 1852 年生まれとのことで、フィリップが 57 歳の時に授かった子供ということになります。しまった、一文が長すぎる!(←

農村こそは新文明の主要な材料

さて、もう少し重要な記述がありますので、続けてみましょう。

 本書の中には、農民の生活状態を一般に考えられているよりも悲惨に描いているところがあって、読者の中には、そんなに生なましく描かない方がよかったのではとないかと思う人がいるかもしれない。しかし私は、見たことをありのままに書いたのであり、そういうことは、私が作り出したものでもなく、わざわざ探しに出かけたものでもない。私は、真相を伝えんがために述べただけである。農村こそは、日本政府が建設しようとしている新文明の主要な材料とせねばならぬものであり、本書は、その農村の真の姿を描くことになると思うからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.18-19 より引用)
これは全く以て重要なセンテンスであるように感じます。現在においても農業は国家の礎石となる最重要産業の一つですが、幕末から明治初期にかけての日本においては、「農業は一つしかない最重要産業」であり、「日本は農村でできている」と言ってしまっても過言ではない状態だったと言えるかと思います。

明治憲法下の日本は、やがて「富国強兵」の名の下に軍拡を推し進めていくことになりますが、その原動力となったのは多くが農家出身の若者だったと思います。極言すれば「彼らを喰わせるための軍国化だった」とも言えるかも知れません。加熱しながら崩壊していった「軍国ニッポン」の原風景をイザベラの筆致に読み取ることができる……というのは、ちょっと持ち上げすぎかも知れませんけど、ね。

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2011年7月22日金曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (155) 「石川さゆりの歌声に誘われて」

「三航北国日誌」第 155 回です。上野発の夜行列車降りたときから~

石川さゆりの歌声に誘われて

えーっと、そんなわけで竜飛岬の外れにある駐車場にやってきました。
ちょっと先に、なにやら見えます。近くには車を停められないので、ここに車を停めて、歩いて行きましょう。
駐車場には、何やらど派手なバスが止まっています。
どうやら、近くの施設に向かう観光客のための、町営のシャトルバスのようです。

風の男 白洲次郎

さて、横断歩道を渡った先には……
「風の岬 龍飛崎」と書かれた立派な石碑が。手前のくるくる模様はアイヌ文様……ではありませんので念のため(モチーフにしているのかもしれませんが)。

いかにも「歌謡碑」

そして、その隣には……
じゃーん! 「津軽海峡冬景色歌謡碑」なる碑があります。ト音記号があしらわれていて、いかにも「歌謡碑」っぽい雰囲気がぷんぷん(死語?)漂いますが、
後ろから見ると当然ながら裏返し、ちょっと間抜けな印象も。

石川さゆりの歌声にホントに誘われて

そして……。この歌謡碑を見ていると、なにやら石川さゆりの歌声が聞こえるような気すらしてきます。そう思ってちょいと海側を見てみると、
これまたド派手な歌謡碑が。そして、本当に石川さゆりの歌声がここから流れていたのでした(笑)。この歌謡碑をよーく見てみると、
何やら早押しボタンのようなものが。そう、これをプッシュすると「♪上野発の夜行列車降りたときから~」という歌声が流れてくるのです。これは全くの想像ですが、権利料の支払いはゼロにしているんでしょうね。これで一回ボタンを押す度に JASRAC が費用を計上しているとは思いたくありません(笑)。

石川さゆりの歌声を *本当に* 聴きながら、竜飛漁港と帯島を眺めます。

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2011年7月21日木曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (154) 「竜飛岬ディープインサイト」

「三航北国日誌」第 154 回です。今日はちょっと時間も無いので、いつも以上に散文モード全開で行きます!

世界の国からこんにちは

たかが「階段」のネタだけで相当引っ張ったので、ここからは巻いていき……たいところですが、果たしてどうなりますか(無責任モード)。

まずはこちらの写真から。
海は世界中に繋がっているんだなぁ……と思わせる看板ですね。通報にご協力を!

見るものに興味を抱かせる、それが広告のあるべき姿

続いてはこちら。
「岩手サファリパーク」なる場所の宣伝のようなのですが、「ライオンの絵」「笑いと感動のサル劇場」にして「フラミンゴショー」とあります。一体何が売りなのか気になります。つまり、看板を見たものに興味を抱かせるという点で、宣伝としては合格かも知れません(←

これは……!

続いては……
あまりに堂々としているので、堂々と掲載してしまいます。これはきっと吉野さんが経営しているに違いない……!(そういうことにしておきましょう!)
この写真を撮影したちょうど翌日に「みんまや義経まつり」が開催されていたようでした。判官贔屓の最たるものということで……(←

崖の上に移動

なかなかトワイライトなパーツが点在していた竜飛漁港を離れて、車で崖の上まで回ります。さっき歩いて行ったところですね。
こちらは「道路竣成記念之碑」とあります。こんな立派な碑を作ったすぐ近所で、後にうっかり民家の軒先の小径が国道に指定されようとは、当時はまさかそんな想像は出来なかったでしょうねぇ。禍福はあざなえる縄のごとし……というのは、ちょっと意味が違うか(全然違います)。

たまにはマトモな……?

ネタに走りがちな私のカメラも、たまにはマトモな風景?も収めます。
自分で言うのも何ですが、緑の色合いがいい感じに思えます。自分の写真を誉めるのは、200 枚に 1 枚あるか無いかですが(←)。前回は神居古潭のあたりで撮影した写真だったかな?

えーと、これは竜飛岬の崖上(階段国道の入口のあたり)にある、駐車場のあたりで撮影したものですね。
こうやって見ると、何だか雑然としていますが……。構図って大切ですね(←
珍しく(?)海を撮影してみたり。

崖の上はこんな場所

えーと、撮影したところはこのような場所です。
前方に見えるのは、もしかしたら自衛隊関連の施設だったかも知れません。……少し探索してみましょう。

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