2014年9月30日火曜日

道東の旅 2013/春 (94) 「機雷殉難者慰霊碑」

とある重大な問題

さて、湧別町の東の果てで発覚した「とある問題」についてです。実は……
こちらです。写真がヘタなので何が問題なのか良くわからないと思いますが、ワイパーゴムがワイパーブレードから外れそうになっています。
厳密には、「外れそう」なのではなくて根元から裂け始めていたのですね。「あれっ、なんか変だなぁ」と思ったのが芭露から中湧別に近づいたあたりだったのですが、登栄床で車を停めて確認してみたところ、左のワイパーゴムが裂けていたのでした。

機雷殉難者慰霊碑

さすがにこのままだとワイパーとして使い物にならなくなるので、何とかしないといけません。とりあえず湧別の中心地に戻ることにしましょう。
登栄床(とえとこ)から、サロマ湖沿いを湧別に向かっていたところ……
右手前方になにやら謎な案内板を発見。
拡大したものが……こちらです。「機雷殉難者 慰霊碑 →」とあります。

グラベルロードを海へと向かったが……

ワイパーブレードを何とかしないといけない状況ではあったのですが、幸い雨も小止み状態ですし、ちょっと見に行ってみましょうか。
グラベルロード(砂利道)をゆっくりと進んでゆきます。……やがて海沿いにやってきましたが、慰霊碑らしきものは見当たりません。そして、また雨が降ってきてしまいました……。
こうなっては仕方がありません。後日の再訪を期すこととして、一旦引き返すこととしたのでした。
確認した限りでは、あと少しのところまで来ていたようです。もしかして通り過ぎてしまったのかな? という懸念もあったのですが、杞憂だったようです。

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2014年9月29日月曜日

道東の旅 2013/春 (93) 「湧別町の東の果てで」

この先 40 km/h 制限

道道 656 号線を通って「東の果て」へと向かいます。
快適な 2 車線道路が続くのですが……むむっ!? この先 40 km/h 制限とありますね。
湧別町登栄床(とえとこ)にやってきました。なるほど、集落の中を走ることになるので 40 km/h 制限なんですね。

三里浜キャンプ場

登栄床の集落を抜けると 40 km/h 制限も終了ですが、同時にセンターラインも終了しました。もしかして……終点でしょうか?
駐車場と思しき場所があり、そこには「網走国定公園 サロマ湖 三里浜キャンプ場 北海道湧別町」とあります。網走……なんですね。

道道 656 号終了のお知らせ

道は緩くカーブしていますが、そのまま進んでみると……やはり行き止まりのようでした。
とりあえず、駐車場に車を停めて、ゲートの様子を見てみました。
どうやら、ここから先は「三里浜キャンプ場」の敷地、という扱いのようですね。ゲートが閉鎖されているのは、この季節(註:2013 年 5 月 3 日です)は、まだキャンプ場としては営業していないということかも知れません。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

問題発覚

そして、サロマ湖の永久湖口からほど近い湧別町の東の果てで、とある問題が発覚したのでした(つづく)。

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2014年9月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (216) 「勲祢別・ウリキオナイ川・トロマイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

勲祢別(くんねべつ)

kunne-pet
黒い・川
(典拠あり、類型多数)
では、利別川沿いに戻りましょう。勲祢別は陸別町陸別の少し北で利別川と合流する支流の名前です。集落としては「上勲祢別」「下勲祢別」があります。

これは…… kunne-pet で「黒い・川」でしょうね。念のため山田秀三さんの「北海道の地名」で答合わせをしてみましょうか。

クンネ・ペッ(kunne-pet 黒い・川)の意。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.304 より引用)
あ、やっぱり……(汗)。

黒ずんだやち川だったのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.304 より引用)
まぁ、そうなのでしょうねぇ……。

えー、折角なので(何故だ更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」からも。

利別川の支流勲弥別川の名からでたもので、アイヌ語クンネ・ペッは黒い川の意で、湿地のために川底が黒くなっているので、この名で呼ばれたもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.250 より引用)
さすが更科さん、今日も「で、で、で、」調が冴え渡ります。

松浦武四郎の地図にはこの川に名がないので、クンペッをクンネペッと間違ったものと思われる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.250 より引用)
うーん。「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、陸別から先の陸別川沿いの情報はかなり正確で充実しているのに比べて、利別川については陸別から先の情報量がやや少ないようにも感じられますね。陸別から先の利別川については、聞き書きがメインだったのかも知れませんね。

ウリキオナイ川

o-rik-o-nay??
河口・高い・そこにある・川
ur-rik-o-nay??
丘・高い・そこにある・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
陸別町下勲祢別のあたりで利別川に合流する東支流の名前です。地形図で見るとわかるのですが、合流部のあたりがとても特徴的な形をしています。

音からは o-rik-o-nay (「河口・高い・そこにある・川」)か、あるいは ur-rik-o-nay (「丘・高い・そこにある・川」)であるように思えます。-o-nay はあるいは -oma-nay だったのかも知れませんね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

トロマイ川

taor-oma-i??
川岸の高所・そこにある・ところ
(?? = 典拠なし、類型あり)
陸別町川上のあたりで利別川に合流する支流の名前です。音からは、taor-oma-i で「川岸の高所・そこにある・ところ」と読み解けそうです。留萌市の樽真布(たるまっぷ)と同じかなぁ……と考えてみたのですが、地図で見た限りでは明確な類似性を発見することはできませんでした。

永田方正の説では「樽前」も taor-oma-i だとするのですが、確かに「樽前川」は深く切り立った流れがあって、その横には台地状の「高岸」があります。

トロマイ川に戻りますが、仮に taor-oma-i ではないのだとすれば to-oro-oma-i といった解釈もできなくはありません。河口部に沼でもあればそれっぽく解釈もできるのですが、現在の地形図を見た限りでは望み薄かなぁ、と思ったりもします。

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2014年9月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (215) 「陸別・取布朱川・作集」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

陸別(りくべつ)

rik-un-pet
高いところ・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
陸別と言えばラリーの街でもありますが、ちょうど昨日(9/26)にラリー北海道がスタートしたところですね。実にグッドタイミングです。

現在は「りくべつ鉄道」という名前で、なんと気動車の運転体験までできる保存鉄道となっていますが、かつては国鉄池北線の駅がありました。ということで「北海道駅名の起源」からどうぞ。

  陸 別(りくべつ)
所在地(十勝国)足寄郡陸別町
開 駅 明治43年9月22日
起 源 アイヌ語の「リクン・ペッ」(高く上っていく川)からとったもので、利別川がこの付近でけわしくなり、川が水源に向かって急に高く上ってゆくように見えるからである。もと「淕別(りくんべつ)」と呼んだが、昭和24年8月1日現在のように改められた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.147 より引用)
はい。rik-un-pet で「高いところ・そこにある・川」だと考えられそうですね。もっとも「陸別川がこの付近でけわしくなり──」という記述には少し首を傾げたくなるのも事実ですが……。

あと、陸別はもともと「淕別」と書いて「りくんべつ」と読ませていたのですね。「川」なのに「陸」の字を使うのは変だ!と考えて「淕」の字を当てた……なんて話を聞いたことがありますが、さすがに読んでもらえなかったのか、「陸」の字を使うように改めたようですね。

解に異論は無いのですが、続いて山田秀三さんの「北海道の地名」から。

陸別 りくべつ
 利別川を北に溯って,北見国境の山裾まで来た処に陸別市街がある。こんな山中によくこれだけの街ができたと思うような処である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.302 より引用)
確かにそうですよね。三河川の合流点でちょっとした盆地状の地形になっているとは言え、とても大きな街なのは確かです。

 永田地名解は「リ・クン・ペッ ri-kun-pet(高危川)」と妙な解を書いた。永田氏は時々,クンという音に「危い」という解をつけているのであるが,そんな語意が果たしてあったのであろうか?
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.302 より引用)
ふむふむ。少し変なことが書いてあるとは言え、永田地名解も大枠では「リクンペッ」という解釈だったようですね。

念のため、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」も見ておきましょうか。

市街の下流で利別川に合流する陸別川の名が地名のはじまり、アイヌ語のリクン・ペッは高く上って行く川の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.250 より引用)
ですよねぇ。でも、続きもあります。

といわれていたがユㇰ・ウン・ペッで鹿のいる川であるともいう。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.250 より引用)
えっ(汗)。

この方が正しいようである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.250 より引用)
ええっ(汗)。

更科さんがもの凄い変化球を投げてきたのでちょっと動揺しているのですが、「陸別」は「東西蝦夷山川地理取調図」にも「リクンヘツフト」(「フト」は「河口」の意)や「リクンヘツ岳」という記載があり、「リクン──」という読みにはブレが無いように思われます。

少なくとも yuk-un-pet だったと思わせる記録は見当たらないのですが、更科さんが何を根拠に rik-un-pet が誤りで yuk-un-pet が正である、としたのかは謎が残ります。

rik-un-pet という解釈に疑問を抱くとしたならば、駅名の起源にある「利別川がこの付近でけわしくなり、川が水源に向かって急に高く上ってゆくように見えるからである」という説明でしょうか。少なくとも、利別川は陸別から上流で流れが急になるということはありませんし、陸別川もそれほどの急流には見えません。

更科さんは、続けて次の一文を記しています。

昔の人達は川は山の方へあがって行くものであると考えていた。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.250 より引用)
えーと、はい。これは有名な知里さんの説ですね。ただ、これがある意味では rik-un-pet の本質を突いているのかも知れません。というのも、陸別川を遡っていくとイユダニヌプリ山の近くに辿り着きます。イユダニヌプリ山は標高 902 m の山で、陸別町東部では最も高い山です。ですから、rik-un-pet を「高いところに分け入っていく川」という風に捉えていたのであれば、さもありなん……と思わせるのです。

それにしても……更科さんの変化球には本当に驚かされますね(汗)。

取布朱川(とりっぷしゅ──)

turep-us-{rik-un-pet}
オオウバユリ・多くある・{陸別川(支流)}
(典拠あり、類型あり)
陸別町中陸別のあたりで陸別川に合流する支流の名前です。1982 年頃の地図には「トレップシュ川」とありました。かなり無理繰り系の当て字ですね(笑)。

それでは、「陸別」の解で星野伸之もびっくりのスローカーブを見せた更科源蔵さんに伺ってみましょう。

 トレツプシュリクンベツ(ママ)
 陸別町陸別川筋の部落、今は取布朱という漢字を当てている。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.250 より引用)
ふむふむ。折角なので永田地名解からも。

Turep ush ri kun pet  ト゚レㇷ゚ ウシュ リクン ペッ  姥百合多キ高危川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.326 より引用)
なるほど。turep-us-rik-un-pet で「オオウバユリ・多くある・陸別川(支流)」と考えて良さそうですね。ちなみにオオウバユリの利用法については、「アイヌ語千歳方言辞典」には次のようにあります。

トゥレㇷ゚ turep 【名】オオウバユリ; その根茎からでんぷんをとり, 残った繊維の部分を醗酵させ,円盤状にして保存食料にする。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.284 より引用)
あー、現代でも食用のユリ根が栽培されていますが、昔からオオウバユリの根も食用にされていたのですね。

作集(さくしゅう)

sak-kus-{rik-un-pet}
夏・通る・{陸別川(支流)}
(典拠あり、類型あり)
陸別川上流域の地名で、同名の支流もあります(作集川)。

では、今回は山田秀三さんの「北海道の地名」から。

作集川 さくしゅがわ
 陸別川の北支流。ヤムワッカナイの一本上の川である。旧名はサックㇱリクンペッ「sak-kush-rikunpet 夏・通る・陸別川(支流)」。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.303 より引用)
はい。sak-kus-rik-un-pet で「夏・通る・陸別川(支流)」と考えて良さそうですね。「サクシュ」という音は北大構内を流れる「サクシュコトニ川」と似ていますが、sak-kus-sa-kus- でびみょうに意味が異なるようです(kus は同じですけどね)。

雪の積もらない時に交通した川の意のようであるが,遠いし,山越えの処も高いので何か疑問に思っていた川名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.303 より引用)
作集川沿いに遡っていくと、最終的にはケミチャップ川経由で津別に向かうことができたようですね。現在、陸別から津別に向かうには鹿山川沿いの「鹿の子峠」というルートがありますが、夏場は何らかの事情で鹿の子峠ルートが使いづらかった、といった事情があったのではないでしょうか(たとえば、途中に泥炭地があったとか……)。

「東西蝦夷山川地理取調図」を見ると、現在の「鹿山川」と思しき川に「マタクシリクンヘツ」と記されているので、何らかの事情で夏場は鹿の子峠が使えなかったという解釈で間違いなさそうです。

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2014年9月26日金曜日

道東の旅 2013/春 (92) 「すぱーく!湧別!」

名寄本線湧別支線

湧別町中湧別……の近くまでやってきました。
国道 238 号は 300 m ほど先で 242 号と合流して、90 度右に向きを変えてからはまっすぐ湧別漁港の方向に向かうのですが、わざと 200 m ほど手前の道を右折してみました。
国道の東側を並行しているこの道路ですが、これは名寄本線湧別支線の跡……ですね。名寄本線は名寄から興部・紋別・中湧別を経由して遠軽に向かう本線でしたが、湧別から中湧別までの支線がありました。この道路は、その支線の跡ということになりますね。比較的最近に整備されたことを思わせる、とても良い整備具合です。

すぱーく!

湧別の駅があったあたりに近づいてきました。また立派な建物が見えてきたのですが、これは一体……? 常呂町はカーリングホールでしたが、果たして湧別には何があるのでしょう。
答はこちら。
屋内ゲートボール場らしいのですが、「すぱーく湧別」というネーミングはなかなか洒落ていますね。ゲートボールと言えばグラウンド・ゴルフと同じく、地面の微妙な凹凸がショットに微妙な影響を与えるのが面白い……と思うのですが、屋内ゲートボール場の場合はどうしているのでしょうね。普通に人工芝が敷いてあるだけなのかなぁ……。

展望台のような展望台

湧別駅の跡と思しきあたりを過ぎ、そのまま海沿いまでやってきました。前方に展望台のような建物が見えてきましたが……?
どうやら本当に展望台だったようです(そのまんまやな)。
ここから一体何が見えるのだろう……と思ったのですが、そうか、流氷が見えるのかもしれないですね。この展望台は「前浜展望台」という名前のようですが、湧別町の Web サイトにも記載が……ありませんでした(汗)。

湧別町ガイドマップには記載があるのですが、数あるポイントのひとつ……という扱いですね。

続いては、お約束の……

さて、湧別にやってきたわけですが、ここからは海沿いを東へと向かいます。東へ進むとどうなるかと言えば……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
この地図でお分かりかと思いますが、東へ進むとお約束の行き止まり、ですね。サロマ湖とオホーツク海を繋ぐ永久湖口の近くまでは車で行けそうなので、行けるところまで行ってみましょう。
というわけで、道道 656 号線を東南東へと進みます。
この先を真っ直ぐ行くと「登栄床」(とえいどこ?)という所まで行けるようですね。これはおそらくアイヌ語由来の地名でしょう。そしてきっと元々は「とえとこ」と読んでいたに違いありません!
「床」を「とこ」と読ませるのは「知床」と同じですよね。そして to には「湖」あるいは「沼」という意味があります。ということは……?

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2014年9月25日木曜日

道東の旅 2013/春 (91) 「なんとなく高級な感じがする『芭露』」

湧別町志撫子

「計呂地交通公園」を後にして、国道 238 号線を北西へと向かいます。
計呂地の隣の集落にあたる「志撫子」にやってきました。かつて国鉄湧網線の仮乗降場があったところですね。
「しぶし」と言えば、鹿児島県の志布志市志布志町志布志が有名ですが、湧別町の志撫子は字が違いますね。志のある撫子という字は悪くないなぁ……と思いつつ、北海道のことだからもっと凝った読み方をするんじゃないか、などとつい構えてしまうのは悪い癖、でしょうか。

海沿い山沿い

国道 238 号線は、海沿い(あ、湖沿いか)を走ったかと思えば、
内陸部をショートカットすることもあったり……。それにしても、斜面には残雪が目立ちますね。

なんとなく高級な感じがする「芭露」

さて、湧別町東部の「芭露」(ばろう)にやってきました。
この字画からは、つい「芭蕉の露」のような連想をしてしまいますね。この字以外には「馬老」という字も使われたそうですが、「馬老」よりは「芭露」のほうが小林一茶の玉露のようで(なんでだ)随分とおしゃれな感じがします。
芭露までやってきたならば、湧別町の中心部まではあと少しです。
右手には、もう北海道にしか現存しないという懐かしの「SPAR」も見えますね。

中湧別まであと少し

湧別町の平野部とも言うべき部分にやってきました。いやー、気持ちいいくらい真っ直ぐな道が続きます。

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2014年9月24日水曜日

道東の旅 2013/春 (90) 「『駅長の家』」

「駅長の家」

「計呂地交通公園」の話題に戻ります。駅の南側には腕木式信号機があるのですが、その右側に建物があるのがお分かりでしょうか?
こちらの建物なのですが、もちろんこれは駅舎ではありません。
入口と思しきガラス戸の上には「駅長の家」とあります。宿として、そしてシャワー室として使用されている建物のようですね。
計呂地駅の跡に保存されている旧型客車には寝泊まりができるようになっているのですが、良く考えたら汗を流せる設備は車内には存在しないわけで……。そういったお客さん向けにシャワー設備を提供しているということなのでしょうね。こういった実用的なサービスはいい!ですよね。

計呂地駅旧駅舎

さて、ホームのスロープを下りていくと、踏切の先に駅舎が見えてきました。
「さようなら湧網線」という文字が見えますが、その下のドアが、かつての改札口だったのでしょうね。そして、右側の扉は駅員室に入るものだったと思われるのですが、
現在は「計呂地交通公園」の「管理人室」への扉になっているようです。扉の上には公園の使用料が出ていますね。「客車」と「駅長の家」の使用料です。
「管理人は16時~19時までおります」という説明文に、さりげなく「頃」という字が付け加えられているあたり、なんともユルい感じがしますね(笑)。緊急連絡先は 090 で始まる番号だったので、念のため伏せておきました。

少し引いたアングルから駅舎を見てみましょう。この手前に出ている部分は何だったのでしょうね。

ネットが張ってある理由は

国道側から駅舎を撮影……する代わりに、何故か「計呂地バス待合所」と例の「跨線橋のようなもの」を撮影してみました。

はい。駅舎を国道側から撮影するのを失念するというポカをやらかしてしまいました(泣)。
例の「跨線橋のようなもの」の入口には、何故かネットが張ってあったのですが……
なるほど、そういう理由でしたか……。この「跨線橋のようなもの」の存在意義については多少の疑問も残るのですが、まぁ、一種のランドマークとしてはアリなのかなぁ、という気がしてきました。

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2014年9月23日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (38) 栃木(栃木市)~例幣使街道 (1878/6/12)

前回に引き続き、1878/6/10 付けの「第六信(続き)」(本来は「第九信(続き)」となる)を見ていきましょう。

栃木の宿屋(続き)

さて、悪夢のような……あるいはコントのような……一夜が明けて、イザベラはついに栃木の宿屋から解放されることになります。

私は七時に宿を出ることになり嬉しかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.87 より引用)
これは偽らざる心境でしょうね。そして、イザベラの貪欲な観察眼も輝きを取り戻します。

出かける前に襖がとりはずされ、自分の部屋だったものも、大きな広々とした畳座敷の一部分となる。このやり方によって、徽臭くなるのを効果的に防ぐことになる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.87-88 より引用)
日本家屋は柱と襖でできているようなものですから、襖を外してしまえば確かに残るのは柱だけです。イザベラの洞察通り、風通しを良くすることでカビの発生を防いでいたのでしょうね。あとはホコリを払ったりでしょうか。こうやって指摘されてみると「和風建築」がいかに高温多湿の土地向けに最適化されているのかが改めて実感できます。

イザベラの車夫を見る目は概して好意的なものでした。なんとなく、マッチョでガテン系というイメージが見て取れるのですが、そうでありながら実は紳士的なプロフェッショナルだったようです。

車夫たちが私に対して、またお互いに、親切で礼儀正しいことは、私にとっていつも喜びの源泉となった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.88 より引用)
当時の車夫が一般的に礼儀正しかったのか、それともイザベラの人力車を任されたクルーが特に優秀だったのかはちょっと読み取れませんが、もしかしたら後者だったのかもしれませんね。英国淑女に対する畏敬の念と多少の気後れがあったとしても驚くには値しませんし、むしろそういったものは無かったと考えるほうが無理があるような気もします。

笠とマロ(ふんどし)だけしか身につけない男たちがばか丁寧な挨拶をするのを見るのは、実におもしろい。お互いに話しかけるときにはいつも笠をとり、三度深く頭を下げることを、決して欠かさない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.88 より引用)
そう考えてみると、このような車夫の礼儀正しい所作が一転してコミカルなものにも見えてしまいます。ただ、イザベラは車夫たちの振る舞いに満足していましたから、これはこれで良かったのかな、とも思えます。

イザベラ一行は栃木の宿屋を出て、北に向かって進みます。

宿屋を出てまもなく、私たちは幅広い街道を通った。両側には私が今まで見たこともないような大きくてりっぱな家が並んでいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.88 より引用)
「幅広い街道」というのが、かつての「例幣使街道」であったことが後ほど明かされますが、旧・例幣使街道は現在でも主要地方道のままで、国道扱いでは無いようです。栃木市の中心部には全く国道が通っていないみたいですね。

掛物《壁にかけた絵画》が横壁にかけてあり、実に美しかった。その畳も、きめが細かく白かった。裏側には大きな庭園があり、泉があり花が咲き、ときには渓流が流れ、石橋がかかっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.88 より引用)
さて、その例幣使街道沿いにあったと思われるこれらの建物について、イザベラはとても好意的な感想を残しています。何しろ前夜の宿屋で悲惨な目に遭った直後のことですから、イザベラも目を輝かせながら伊藤少年に「これは何なの?」と尋ねたことは容易に想像がつきます。ところが……

看板から察して、それらは宿屋だろうと思った。しかし伊藤にたずねてみると、それらはすべてカシツケヤといっていかがわしい茶屋であると答えた。これはたいへん悲しい事実であった(*)。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.88 より引用)
むむっ。どの辺がどのように「いかがわしい」のかは具体的に記していませんが、「カシツケヤ」という語感からすると、借金のカタに取られた女性が働かされている「茶屋」だったのかもしれませんね。

まぁ、この手の(事実上の)人身売買による商売は世の東西を問わないものですが、19 世紀の日本においても普通に存在していた、と言えそうです。

*原注──私の北国旅行中に、私はしばしば粗末で汚い宿に泊まらなければならなかった。それは良い宿屋はこの種類のものだったからである。旅行者が見てぞっとするものは少ししかないとしても、日本の男性を堕落させ、とりこにする悪徳を示すものは、表面上にさえも多くあらわれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.88-89 より引用)
ちょっと話がずれますが、現代の日本においても、海外からやってきた観光客が「その手のホテル」に泊まってしまい、アメニティや室内設備の充実ぶりに大喜び!という、何とも笑えない話があるそうですね。こうやって見てみると、130 年前の日本から伝統が綿々と受け継がれているようで、何とも言えない気分になれますね。

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2014年9月22日月曜日

道東の旅 2013/春 (89) 「鉄道記念碑・計呂地駅の沿革」

開拓百年記念碑

旧・国鉄湧網線の計呂地駅跡にある「計呂地交通公園」の話題に戻ります。
駅名標の後ろをよーく見ると、「開拓百年記念碑」なる石碑が見えますね。
道内では、「開基百年──」というモニュメントは良く目にするのですが、「開拓百年──」というのはあまり目にしないような気がします。意味するところはそんなに変わらないのだと思いますが、どうしてなのでしょうね。

スロープのようなもの

さて、ホームの南側、C58 から見て謎な高さの「跨線橋のようなもの」の向かい側には……巨大な岩が置かれています。
このアングルだとわかりやすいのですが、もともとは「跨線橋のようなもの」なんかは存在しなくて、踏切+スロープでホームに上がる構造だったのでしょうね。巨石……いや巨岩は、スロープを上がったところに鎮座しています。

鉄道記念碑

この岩は、何とも変わった構造の石碑みたいです。見ての通りですが、前面と側面に碑文が埋め込まれています(どっちが前面なのか良くわかりませんが)。
「鉄 道 記 念 碑」と題された石碑のようで、「湧網線開通までの経過」が記されています。
これでもそれなりに読み取ることができそうですが、念のために拡大したものも載せておきますね。なるほど、昭和初期に工事が開始され、中湧別から計呂地までは昭和 10 年 10 月に開通したということですね。当時は計呂地が終点駅で、中佐呂間駅(後の佐呂間駅)まで延伸されたのは翌昭和 11 年のことでした。
ただ、中佐呂間への延伸については全く触れられていませんね。「計呂地駅開業までの経過」であればある意味正しいのですが、ちょっと不思議な感じです。

計呂地駅の沿革

側面……だと思う……にも、碑文が埋め込まれています。
こちらは「計呂地駅の沿革」とありますね。主に、計呂地駅が開業してからの歩みが記されています。なるほど、中佐呂間(後の佐呂間駅)までの延伸などについては、こちらにまとめられているのですね。歴代の駅長の名前が刻まれているのが興味深いです。
駅の南側には、腕木式信号機とポイントが残されていました。まるで今でも線路が続いているように見えますね。

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