2014年10月1日水曜日

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道東の旅 2013/春 (95) 「湧別機雷事故」

 

湧別機雷事故

結局、湧別町の「機雷殉難者慰霊碑」には辿り着けなかったのですが、そもそもこの「機雷殉難者慰霊碑」というのがどんな事件の慰霊碑だったのかを調べてみたところですね……

湧別機雷事故(ゆうべつきらいじこ)とは、昭和17年(1942年)5月26日、北海道紋別郡下湧別村(現在の湧別町)のポント浜に国籍不明の機雷が漂着し発生した爆発事故である。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
ということで、やはりと言うべきか、戦時中の話でした。場所は「ポント浜」と言いますから、現在の「ポン沼(トウ)」の近くだったと考えられそうです。

海岸に漂着した機雷を爆破処理するために移動していたところ爆発し、警察官や村の警防団、見物人など112人が死亡、112名が負傷した。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
えっ……(汗)。「112 人が死亡」って、これはまたとんでもない大事件じゃないですか……。

事件の経過

引き続き Wikipedia を見ていきましょう。「事件の経過」としては、次のように記されています。

事件の経過
事件の舞台となった下湧別村は、北海道北部・オホーツク海に面した漁村である。太平洋戦争は開戦から半年、日本軍がまだ快進撃を続けていた時期であり、北辺のこの地には平穏な空気が流れていた。流氷は春の風に去り、根雪は融けて畑土が顔をのぞかせる中、住民は鰊漁や作付の準備に追われていた。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
ふむふむ。まるで Wikipedia の文章とは思えない、情感溢れる描写が目を惹きますね。

そんな中、4月ころから漁民たちの間で「浮遊機雷らしいものが見える」との噂が立ち始めた。オホーツク海沿岸という立地条件故、日本海軍、あるいはソビエト連邦、アメリカ合衆国が敷設した機雷が流れたものと想像された。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
当時は南樺太と千島列島の両方が日本領だったので、当該海域の制海権は日本にあった……と思いたいところですが、実際はどうだったのでしょうか。昭和 17 年の時点でアメリカがオホーツク海に機雷を敷設できたとは、ちょっと考えにくい気もするのですが……。海流の流れなどを考えると、宗谷海峡のあたりに設置した浮遊機雷が流れ着いたのかな? と思ったりします。

その機雷が、5月下旬に至って村内のポント浜(ポン・トは、アイヌ語で小さな沼の意)と、サロマ湖東岸のワッカ海岸(ワッカは、アイヌ語で水の意。砂州の中ながら淡水が湧き出す立地)に相次いで漂着したのである。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
ふむふむ。偶然と言えば偶然ですが、この日の朝に訪れた「ワッカ原生花園」のあたりと、ついさっき訪れた「ポン沼」のあたりに漂着したと言うのですね。

機雷漂着の知らせは村内の駐在所から内陸の遠軽警察署へ即座に伝えられた。警察署側では一挙に2個もの機雷漂着に驚きながらも、これを安全な場所(陸上)に移した上で公開爆破処理する計画を立案、一般にも通達した。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
「公開爆破処理」というのは、この手の処置としては一般的だったのでしょうか。まぁ、現代における不発弾処理とは別物なのでしょうけど……。

一般への通達は危険防止への配慮もあったが、時節がら「戦意高揚」の目的でもあった。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
あー、なるほどね……。

陸上での爆破処理は、機雷の威力を広く衆人に知らしめるとともに、仮に水中で爆破された場合、周辺海域の魚介が全滅することを嫌がった漁民の意見も受けてのことである。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
確かに、これもご尤もな意見ですね。

事件当日

さて、公開爆破処理の当日の出来事に移ります。

事件当日
26日当日。 天気は快晴。爆破処理の知らせは学校、隣組等を通じてあまねく知らされ、さらに湧網線には4両編成の臨時列車も運行されて見学者の便宜が計られるなどしたため、村内は祭りのような活況を呈していた。各地から押しかけた千人単位の見物人は、続々と会場のポント浜に向かいつつあった。1時間前には、すでに400人ほどが到着していたといわれる。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
これを見る限りでは、やはり、季節外れの「花火大会」のような位置づけで見られていたのだなぁ、と感じさせます。

会場に総動員された警防団は「爆発の威力を知らしめるため、2個の機雷は時間差を置いて爆破させる。しかし、最初の爆破で誘爆の恐れがある」との判断のもと、機雷のうち1個を移動させる作業に着手。17名の警防団が機雷にロープをかけ、人力で曳きはじめた。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
これも確かに、誘爆を防ぐという考え方自体は間違いでは無かったように思われます。しかし……

ところが機雷が波打ち際から砂丘まで移動した午前11時26分、機雷は取り囲む警防団の中、突如として大爆発した。
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
機雷は舟艇と接触したタイミングで大爆発するようにつくられていますから、砂丘への移動の際に衝撃を与えすぎた、ということなのでしょうね。

この爆発では、106人が即死した。爆心地には直径10m、深さ3mの大穴があき、
(Wikipedia 日本語版「湧別機雷事故」より引用)
……絶句、ですね。結果論で語るならば、爆破処理を「公開」で行おうとしたのが最大の間違いだった、と言えるのかなと思います。

それにしても、これだけの大事件の割には知名度がそれほど高くないのは何故だろう……と思ったりもしたのですが、こうやって見てみると、「自ら被害を甚大なものにした」という自責の念に駆られても不思議ではない展開だった、とも言えそうです。忘れてはならない、でもあまり触れられたくない……という、何とも微妙な立ち位置にある話だったのかもしれません。

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