2020年5月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (733) 「リヤムナイ川・宿内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

リヤムナイ川

riya-ham(-us?)-nay???
シャクナゲの葉(・ある)・川
riya-ham(-us?)-nay???
エゾユズリハの葉(・ある)・川

(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
共和町の真ん中あたりを流れる川の名前で、同名の地名(厳密には「発足リヤムナイ」)もあります。

共和町には「梨野舞納」(りやむない)という地名がありますが、「梨野舞納」は堀株川の南西側の地名で、「発足リヤムナイ」(はったり──)は堀株川の北東側の地名です。

面白いことに、松浦武四郎の記録には「リヤムナイ川」に該当するものは見かけられるものの、「梨野舞納」に該当するものが見つかりません(ややこしいな)。「東西蝦夷山川地理取調図」には現在の「リヤムナイ川」に相当しそうな位置に「リヤムナイ」という川が描かれています。

西蝦夷日誌

「西蝦夷日誌」にも次のように記録されていました。

 川筋シマモナイ(左)、ヒシヨマナイ(左)、向にソツコナイ(右)、イナウシナイ(同)、バンケシヨヲカ(左)、ツンヌルヲマナイ(左)、ベンケシヨカ(同)、ホロトマムベツ(右)、トマンベツ(同)、惣て右股は山道にて越川也。左りソヤムナイ(左)、ヲロクンネフ(左)、ネツトシカリ(同)、ケネタウン(左)の川、古平岳に至る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.114 より引用)
あれ……? 「リヤムナイ」が見当たりませんが、どうやら「ソヤムナイ」になっちゃってるようですね。

丁巳日誌「曽宇津計日誌」

丁巳日誌「曽宇津計日誌」には次のように記されていました。

     シマモナイ
     ヒシヨマイ
等左りの方ホリカツフの上の山より落来るなり。此上え右の方ソツコナイ、イナウシナイ、ホンイナウシナイ等落来るよしなるとかや。しばし上りて
     ハンケシヨヲカ
     ワンヌルヲマナイ
     ヘンケシヨヲカ
等も皆左りの方小山より落来る。此辺え右の方よりホントマンナイ、ホロトマンナイ、チセホコツチクシナイ、ホロヘツ等落来る。又左りの方
     リヤムナイ
     ヲロクン子フ
     子フトシカリ
     ケ子タウシナイ
何れも左りの方ヨイチ山のうしろの方より落来る。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.126-127 より引用)
かなり高いレベルで整合性が取れている感がありますね。

竹四郎廻浦日記

続いて「竹四郎廻浦日記」も見ておきましょうか。

 扨渡し場よりしばし上りて左りの方 ヲヒシヨマナイ、此川相応の川也。此処にて川すじ南に向ひて浜中のうしろに来るとかや。並びて ハンケシヨーカ、並びて右の方 トレニヲロマナイ、此川相応の川なり。又左りの方 ヘンケシヨウカ、又並びて リヤムナイ、此川も相応の川也。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.366 より引用)
「ツンヌルヲマナイ」あるいは「ワンネルヲマナイ」が「トレニヲロマナイ」に化けた上に左岸と右岸が逆になってしまいましたが、他は概ね整合性がありそうです。ここまで見てきた限りでは、やはり「リヤムナイ」は現在の「リヤムナイ川」を指していて、「梨野舞納」では無さそうだ、と言えるでしょうか。

「リヤムナイ」と「梨野舞納」

「角川──」(略──)に次のような記述がありました。

江戸期のリャムナイは堀株川支流リャムナイ川流域を指しており,堀株川右岸(現在の字発足(はったり))にあたる。江戸期の地名として現在の字梨野舞納地域では,海岸沿いにヲタルヱフル・マタルヱサン・ルヱサン,堀株川河口部にシリブカ,平野部にソツコナイなどがあった。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1614 より引用)
あ、なるほど。どうやら現在の「梨野舞納」は移転地名と考えられるのかもしれません。あまり深く考える必要は無かったようですね(「イナウナイ」という川の記録があり、それが「リヤムナイ」と混同されたか……とも考えてみたのですが)。

riya と riya-ham

この「リヤムナイ」または「梨野舞納」ですが、永田地名解には次のように記されていました。

Riyam nai  リヤㇺ ナイ  越年川 秋ヨリ來春ニ至ルマデ越年シテ鮭ヲ漁スルコトヲ得故ニ名ク今梨野舞納(リヤムナイ)村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.117 より引用)
この解釈について、山田秀三さんは「北海道の地名」で次のような疑問を投げかけていました。

 リヤ(riya)は越年する,越冬する意であるが,riyamともいうかを知らない。何か後に語があったのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.472 より引用)
確かに「越年する川」であれば riya-us(越年・いつもする)となる場合が多く、riyam というのはちょっと解せない感があります。ただ、riya-ham という語彙があり、riya-ham(-us?)-nay と考えることができそうです。

riya-ham は「シャクナゲの葉」という解釈の他にも「ゴゼンタチバナの葉」や「ツルマサキの葉」「エゾユズリハの葉」などにも解釈できるようです(知里さんの「植物編」による)。

宿内川(そこない──)

sotki-o-nay???
クマの寝床・多くある・川

(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
道道 269 号「蕨岱国富停車場線」の「隈元橋」のあたりで堀株川に合流する南支流の名前です。「宿」を「そこ」と読ませるのはなかなかユニークですね。

1980 年代の土地利用図を見ると、国道 276 号(現道)の「上梨野舞納」と「起業社」の間あたりに「宿内」という地名が描かれていました。

この「宿内川」について、永田地名解は次のように記していました。

Sō koro nai  ソー コロ ナイ  瀧ノ川 今「ソツコナイ」ト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.113 より引用)
この解釈を受けて、山田秀三さんは次のように記していました。

つまりソ・コル・ナイ(so-kor-nai 滝・の・川)は続けて呼べばソコンナイとなる。それが訛っていろいろな形で呼ばれたのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.472 より引用)
一見、隙の無い解釈のように思えます。ところが「東西蝦夷山川地理取調図」が「ソツコナイ」と描いているのみならず、「西蝦夷日誌」も「曽宇津計日誌」も「ソツコナイ」で統一されていて、「ソコツナイ」とあるのは明治時代の地形図だけ……となると少し考えが変わってきます。

また「層雲峡」や「双珠別川」のように so-un- または so-us- という川名は道内各所に見られますが、so-kor- というのは珍しい印象もあります。ということで、実は「ソツコナイ」が本来の形に近い可能性が無いか、少し考えてみました。

知里さんの「──小辞典」には sotki という語彙が掲載されていました。

sotki そッキ ねどこ;神々の住む所;山中ではクマなど多くいる地帯;沖ではカジキマグロなど多くいる地帯。[<hotke-i(寝る・所)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.126 より引用)
「ソツコ」を sotki と考えるのは少々無理がありますが、sotki-o-nay で「クマの寝床・多くある・川」と読めそうな気がしてきました。

そして sotki の意味を理解した上で「宿」としたのであれば渋いなぁ……という話ですが、さすがにそれは話を盛りすぎですかね……?

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2020年5月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (732) 「渋井・茶津(泊村)・ヘロカルウス」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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渋井(しぶい)

simpuy
湧水の穴

(典拠あり、類型あり)
泊村南部の地名で、同名の川も流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき地名が見当たりませんが、「西蝦夷日誌」に次のように記されていました。

チヤツエト(岩岬)の上を越(五丁半)シブイ(灣、近年迄夷家あり)、船澗よろし。譯、涌水有て井戸をなす事なり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.115 より引用)
なんとありがたいことに解釈までしっかりと記されていました。異論は無いのですが、念のため永田地名解も見ておきましょうか。

Shin Pui  シン プイ  井泉 灣内ニ涌泉アリテ井戸トナシタル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.113 より引用)
はい。「渋井」は simpuy で「湧水の穴」と考えて良さそうですね。

茶津(ちゃつ)

chasi

(典拠あり、類型あり)
泊村南部、泊原発の入口あたりの地名です。今回は「東西蝦夷──」を見る前に、先に「西蝦夷日誌」を見ておきましょう。

廻りてチヤツナイ(小川、番や、船澗よろし、蔵々、いなり社あり、近年迄夷家有、新道此所へ下る)、澗内暗礁多く、人家立ならびて繁昌也。又坂に上る。チヤツエト(岩岬)の上を越(五丁半)シブイ(灣、近年迄夷家あり)、船澗よろし。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.115 より引用)
渋井と茶津の間に「茶津トンネル」がありますが、茶津トンネルの上あたりが「チヤツエト」だったのでしょうね。「チヤツナイ」は「再航蝦夷日誌」では「チヤシナイ」となっているので、やはり chasi-nay で「砦・川」と考えて良いかと思います。同様に「チヤツエト」も chasi-etu で「砦・鼻(岬)」となるでしょうか。

永田地名解には次のように記録されていました。

Chashi kot  チャシ コッ  砦柵 岩岬上ナル野原ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.113 より引用)
chasi-kot は「砦跡」と解釈されるのが一般的ですが、永田方正は「砦柵」(さいさく)と解釈したのですね。なぜ「跡」というニュアンスを含めなかったのでしょう……?(単なる見落とし?)

ヘロカルウス

heroki-kar-us-i
ニシン・獲る・いつもする・ところ

(典拠あり、類型あり)
「茶津」は泊原発の北側の地名でしたが、泊原発の敷地内には「ヘロカルウス」という住所が健在です(Google Map 等で確認できます)。

「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。

石の上飛越𨑥越行、ユウツコトマリ(小澗)、ヒロカロウシ(灣あり、人家有)、鯡取多し。茶店・酒樓等あり、繁昌也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.115 より引用)
ヒロカロウシ……。「兄が疲労」かと思ってしまいますが(思いません)、「東西蝦夷山川地理取調図」では「ヘロカロウシ」となっていました。

永田地名解には次のように記録されていました。

Herok’kar’ushi  ヘロㇰカルシ  鯡場
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.113 より引用)
いかにも永田っちらしいざっくりした解釈が素敵ですね。heroki-kar-us-i で「ニシン・獲る・いつもする・ところ」になろうかと思います。道内の日本海側にはあちこちで見られる地名の一つですね(石狩市浜益とか)。

永田地名解には「ヘロㇰカルシ」と記されている場合が多いので改めて確かめてみたのですが、「ニシン」を意味する語彙は heroki であって、herok としているものが見当たらないんですよね。ということで今回も Herokheroki としています。

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2020年5月29日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (19) 「鉄幹・晶子ゆかりの町」

「与謝天橋立 IC」の出口には、「与謝野町へようこそ」と描かれた看板が立てられていました。「鉄幹・晶子ゆかりの町」と書かれると、つい「本当かなぁ~」と疑いの目で見てしまうのですが……
ということで、与謝野鉄幹のうぃきぺで確認してみましょう。

京都府岡崎町(現在の京都市左京区)に与謝野礼厳尚綗の四男として生まれる。父・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶であった。
(Wikipedia 日本語版「与謝野鉄幹」より引用)
与謝野鉄幹自身は、京都は岡崎公園のあたりの生まれだった、ということになりますね。どうやら「与謝野」という姓がポイントのようで……

礼厳は庄屋の細見儀右衛門の次男として生まれたが、京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めより与謝野姓を名乗るようになったという。
(Wikipedia 日本語版「与謝野鉄幹」より引用)
与謝野町字温江(あつえ)は、かつての与謝郡加悦町温江のようですね(加悦鉄道の加悦駅から少し東に行ったあたり)。えーと、要するに「与謝野鉄幹のお父さんが与謝郡出身」というだけで、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻とはあまり繋がりが無いような感じも……? やはり疑ってかかったのが正解だったようです(汗)。

「クアハウス岩滝」推し

国道 176 号で「岩滝口駅」方面に向かい、左折して国道 178 号に入りました。左側は「日本冶金工業製造所」のようです。
この工場は宮津市と与謝野町に跨って立地しているようで、途中で与謝野町のカントリーサインが見えてきました。
与謝野町は「与謝郡岩滝町」「与謝郡野田川町」「与謝郡加悦町」が合併して成立した町です。このカントリーサインは「クアハウス岩滝」を全面的にフィーチャーしていますが、もしかしたら「与謝野町」の下に「岩滝町」の文字が隠れているのかもしれませんね。

えええ……

岩滝に向かっているのは、近畿地方最北端の「経ヶ岬」に行ってみようか、と思い立ったからなのですが、なんとこれは……。国道 178 号が伊根町蒲入(かまにゅう)と京丹後市経ヶ岬の間で通行止めとのこと。これはどうしたものか……
物持ちの良さそうな青看板が見えてきました。どうやら海沿いに新しい道(府道 53 号「網野岩滝線」とのこと)を建設したみたいで、伊根に向かう車輌をそちらに誘導したいようです。
直進した先の道は相当狭いようで、入ってきてほしくない、ということなんでしょうね。国道 178 号も決して広いとは言えないので、岩滝の市街地に用のない車は海沿いの府道 53 号を通ってほしい、ということなんでしょうね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
結果的には海沿いを回ったほうが良かったのかもしれませんが、そのまま国道 178 号で岩滝の市街地に入ることにしました。

府道 53 号へ進路変更!

岩滝の市街地を通り抜けて、「男山」交叉点にやってきました。例の府道 53 号と国道 178 号が交叉する十字路です。
とっさの判断で左折して、府道 53 号「網野岩滝線」で内陸部に向かうことにしました。このまま国道 178 号を進んだところで、伊根町蒲入から先に行けないので、それだったら……という計算によるものです。
府道 53 号については何の前提知識もありませんでしたが、二桁の府道だったら程々に整備されてるだろう、という期待を込めての判断でした。あ、あ……
早速センターラインが消えましたが、この程度の道幅ならまだ可愛いものですね。

久住スノーシェルター

かつての中郡大宮町の東部を北北西に向かいます。前方にスノーシェルターが見えてきました。
「久住スノーシェルター」の文字が、一文字ずつ埋め込まれています。なかなか立派なスノーシェルターですね。

リカバリー成功!

そのまま府道 53 号を北上して、京丹後市(旧・竹野郡弥栄町)までやってきました。経ヶ岬に南からアプローチすることが無理になったので、では西から……という計算だったのですが、どうやらうまく日本海側に出ることができそうです。
改めて Google Map でルートを確認してみます。伊根町から経ヶ岬に行けないと最初からわかっていたなら、素直に国道 312 号を北上すれば良かったんですけどね。まぁ、何はともあれ無事リカバリーに成功したようです。

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2020年5月28日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (18) 「与謝天橋立 IC」

何故か無料区間に設置されてしまった「宮津天橋立本線料金所」の ETC レーンを通過します。春日 JCT からの通行料金ですが、なかなか手頃感があるように思えます。
「宮津天橋立 IC」から先は「山陰近畿自動車道」です。最高速度が 70 km/h なのは「京都縦貫自動車道」の片側 1 車線区間と同じ、でしょうか。
次の IC は終点(当時)の「与謝天橋立 IC」です。無料区間であることのアピールも忘れていませんね。

ということで

「与謝天橋立 IC」へは、長さ 3,660 m の「地蔵トンネル」と長さ 570 m の「大師山トンネル」を抜けることになります。
ということで(どういうことだ)「大師山トンネル」を抜けました。

町名は「よさの」、IC 名は「よざ──」

間もなく終点(当時)の「与謝天橋立 IC」です。
「宮津天橋立 IC」では、あまりに多くのサインが一箇所に乱立していましたが、ここでは「終点」「速度落せ」が繰り返し立てられていました。これだとドライバーの混乱も少なそうです。
「与謝天橋立 IC」の出口にやってきました。あっ、「よさ──」じゃなくて「よざ──」だったんですね(町名は「よさの」なのに)。道理で IME が変換してくれなかったわけです。

絶賛延伸対応中

「与謝天橋立 IC」の出口は上下線が並んだまま外に出る簡易構造だったように見受けられるのですが、この写真を見た限りでは既に延伸を見越した形に改められていたようですね。
かつての入口車線の跡(だと思う)が上空からも確認できます。


「渋滞時はハザード点灯」という警告が出ていました。前方に見える「山陰近畿自動車道」の「野田川高架橋」は、(シートが被せられていましたが)ほぼ完成と言ったところだったでしょうか。

少しずつ大型連休らしく

与謝天橋立 IC は国道 176 号に直接つながっています。IC の名前は「与謝天橋立」(よざあまのはしだて)ですが、所在地は与謝野町(よさの──)ではなくギリギリ宮津市です。
前方のバイクは首都圏ナンバーでした。ゴールデンウィークらしい雰囲気が少しずつ出てきたでしょうか。

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2020年5月27日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (17) 「生野の道から大江山」

「京都縦貫自動車道」の「栃葉トンネル」を抜けて、宮津市に入りました。
ちなみに、この近くに「京都丹後鉄道宮福線」の「辛皮駅」があります。由良川支流の桧川の流域なのですが、なぜか最上流部のみ宮津市に属しています。宮津の市街地に抜けるには大江山スキー場のある「普甲峠」を越えるしかなく、道路も決して広く無さそうなのですが……(何故宮津市に属しているのか、謎です)。
17 時を少し過ぎた頃ですが、気温は 21 度とのこと。ちょうど過ごしやすい気温ですね。
「辛皮トンネル」というトンネルがありました(辛皮駅があるくらいですからね)。この「辛皮」は「からかわ」と読むのですが、ちょっと変わった地名に思えて印象に残ったもので。

二つの「──天橋立 IC」

前方に「大江山トンネル」が見えてきました。次の IC が「宮津天橋立 IC」で、それとは別に「与謝天橋立 IC」があるみたいですね。このネーミングが、後々ちょっとした混乱を招くことになります。
「大江山トンネル」に入ります。改めて考えてみると、「生野の道」から「大江山」にやってきたことになるんですね。「天橋立」ももうすぐですし。ちなみに今日 5/27 は「百人一首の日」なのだそうです。
大江山トンネルを抜けたところに、自動車専用道路の案内板としては異例とも言える、カラフルな案内が出ていました。
京都府道路公社からのメッセージのようですが、「天橋立へのご案内」とあります。なるほど、天橋立に南側からアプローチするのであれば「宮津天橋立 IC」が最寄りで、北側からアプローチするのであれば「与謝天橋立 IC」が最寄りのようです。どちらも「天橋立」を名乗る理由の一端がわかったような気がしますが、ややこしいのも確かですよね。
進行方向右側の山腹にも、色鮮やかな看板が立っていました。道が左にカーブしているので、ある意味真正面に看板が見えることになります。この上ない絶妙な場所ですよね。
こちらの看板は……普通に宣伝だったようです。

伝えたいことが多すぎて

「宮津天橋立 IC」が近づいてきました。「↑与謝」という案内(一般道風の青地のもの)が見えます。そしてこの先は 50 km/h 制限になるっぽいですね。
そしてこれが宮津天橋立 IC の出口が分岐するポイントですが……こ、これは……。これだけのメッセージをドライバーに一瞬で「読み取れ!」と言うのでしょうか。これは流石にやりすぎだと思うのですが……。
「宮津天橋立 IC」の IC 番号は「1」で、京都縦貫自動車道のトップナンバーです。宮津天橋立 IC から先は「山陰近畿自動車道」という名前に変わります(地理院地図では「鳥取豊岡宮津自動車道」という長~い名前になっていますね)。

無料区間に料金所が

宮津天橋立 IC の流入車線と合流します。本線料金所が見えてきました。
宮津天橋立 IC と与謝天橋立 IC の間は無料区間とのことですが、なぜか無料区間に本線料金所があります。本来は宮津天橋立 IC の手前に設置すべきものですが、なんでこんなことになってしまったのでしょう……?

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2020年5月26日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (16) 「高速最後のトイレ」

フェリーの出発には少し……いや、かなり時間に余裕ができてしまったので、「京都縦貫自動車道」で宮津方面に向かいます。
「坊口トンネル」を抜けると舞鶴市に入ります。カントリーサインは 3 つ続くトンネルのうち、2 つ目の「小原トンネル」の入り口にありました。

舞鶴由良川大橋

3 つ目の「上村トンネル」を抜けると、まもなく「舞鶴大江 IC」です。IC の手前には「由良川 PA」もあります。
前方に見えるのは「舞鶴由良川大橋」という名前の橋のようです。どうやら最初から片側 2 車線で建設したようで、追い越し車線が堂々の復活です。
「舞鶴由良川大橋」は径間のとても大きな橋です。両岸の間に橋脚が無いのは、どことなく近鉄の「澱川橋梁」を彷彿とさせるものがあります。
ストリートビューで下から眺めるとこんな感じです。橋桁はおよそ 30 m ほど高いところに位置する、と言ったところでしょうか。

高速最後のトイレ

由良川を渡ると、間もなく「由良川 PA」です。
「高速最後のトイレ」という追加情報がなんか微笑ましいですね。
パーキングエリアに向かう車線は上り坂になっています。確か新東名の浜松 SA なんかも似たような感じですが、減速する必要のある車線を上り坂にするというのは理にかなっていて良いですよね。
ただ、よーく見ると「交差点あり」との警告が。最近流行の兆しを見せている、上下線合体型の PA なんでしょうか。
どうやら左側は斜面しか無いようで、施設は全て対向車線側にあるようです。本線を跨ぐ形で設置する橋の数を少なくするために、立体交差ではなく三叉路にしたようですね。
上下線で PA の設備を一体化することで、コストの無駄を抑えられる、という計算なんでしょうね。他に駐車場を配置する良い場所が無かった、というのも正しいかもしれません。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

速度落せ

これは由良川 PA からの車が合流するあたりですが、舞鶴大江 IC の出口車線が少し先に見えています。
そして、よく見るとこんなものが。おそらく「舞鶴大江 IC」が終点だった頃の「終点」「速度落せ」の、「終点」だけを取り外したものなんでしょうね。全部撤去すれば良さそうなものですが……。
「舞鶴由良川大橋」から「舞鶴大江 IC」を過ぎても続いていた 4 車線区間が、ついに終わろうとしています。2016 年当時はこんな感じで左手の崖を切り崩している途中でしたが……
どうやら崖を切り崩す工事は無事終わったようで、3 年半後の 2019 年 9 月には随分と見通しが良くなっていました。

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