2022年4月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (930) 「イトムカ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イトムカ

etu-un-{muka}?
鼻(岬)・そこにある・{無加川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「イトムカ」については以前にも北海道のアイヌ語地名 (293) 「ニセイケショマップ川・イトムカ・ルベシナイ川」で取り上げていますが、解釈に疑問が出てきたため、改めて検討してみることにしました。

北見市(旧・留辺蘂町)のほぼ西端のあたりの地名で、同名の川もあります。この「イトムカ」の名を広く知らしめたのは、やはりかつて存在した大規模な「水銀鉱山」の存在でしょうか。1941 年に開山した水銀鉱山は 1974 年に閉山しましたが、その後は(日本で唯一、世界でも 4 箇所しか無いとも言われる)水銀含有廃棄物の処理事業を行っているとのこと。

イトムカはかなり山奥の土地ですが、旭川と北見を結ぶ国道 39 号が通っているということもあり、鉱業所の前までは容易にたどり着くことができます。

「イトムカ」の意味については「光輝く水」だとする解釈が、思いのほか広がっていたことに今更ながら気づきました。たとえば Wikipedia の「イトムカ鉱山」の項には次のように記されています。

イトムカとはアイヌ語で「光輝く水」の意味。[要出典][注釈 1]
(Wikipedia 日本語版「イトムカ鉱山」より引用)
「注釈」がついているものの、こうやって断言調で書かれると、やはり鵜呑みにする人が多くなるのでは……と思わせます。

「光輝く水」の出どころは

「イトムカ」を「光輝く水」とした初出は何なのでしょうか。「永田地名解」にはそれらしき記録が見当たりません。手元の資料の中では、山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」に次のように記されていました。

イトムカ川
 無加川の最上流、石北峠を北見に抜けたところの川。水銀鉱山で有名になった名であるが、意味については伝承を知らない。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.92 より引用)
これはいかにも山田さんらしいのですが、正直に「意味については伝承を知らない」と記しています。更科さんだとこのまま「アイヌ語の意味不明」と締めてしまいそうですが、山田さんは次のように試案を出していました。

そのまま読めば I-tomka (それ・輝かす)とも読めるが、古い二十万分図、五万分図にはイトンムカとある。イトンは読めないが、無加川の支流の意味のイトン・ムカだったかもしれない。(I-tom-Muka それが・輝く・無加川?)
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.92 より引用)
どうやらこれが「イトムカ」=「光輝く水」説のオリジナルなのかもしれません。

「イトンの意味不明」

念のため、更科さんの「アイヌ語地名解」も見ておくと……

 イトムカ
 層雲峡に越える大雪国道の途中、水銀鉱のあったところ、古い五万分図にはイトンムカとあり、無加川の左支流の名であるが、イトンの意味不明。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.290 より引用)
このロックな感じ、さすがですねぇ。

先入観?

「イトムカ」を「光輝く水」とする解釈は tom を「光り輝く」と読めることによるものですが、これまで道内の地名を見た限りでは、明らかに「光り輝く」の意味で tom を使ったものは無かったような気がします。山田さんが「それが・輝く・無加川?」と考えた背景には、日本一の水銀鉱山の存在が影響していた可能性もありそうです。

tom あるいは tomo で「面の中ほど」を意味し、地名では「中間地点」を意味する場合があります。これまで見てきた地名では、大半の tom がこの解釈だったのでは無いかと考えています。

「イトンムカ川」と「エトンムツカ」

「イトムカ」に関する記録は更に遡ることが可能で、陸軍図にも「イトンムカ川」という名前の川が描かれています。地名としての「イトムカ」には「伊頓武華」という字が当てられているのですが、これは「イトムカ」よりも「イトンムカ」という音に対して当てられた字のようにも思えます。

更に、「東西蝦夷山川地理取調図」には「エトンムツカ」という名前の川が描かれていました。この記録は二つのことを示唆しているのですが、一つは「イトムカ」の「イ」が「エ」の転訛したものである可能性で、もう一つは「イトムカ」の「ムカ」が「無加川」である可能性が高いということです(他にも「ホンムツカ」や「シイムツカ」という記録があるため)。

戊午日誌「西部登古呂誌」には次のように記されていました。

またしばし過て山岳重畳たる間を屈曲して行く哉
     エトンムツカ
右のかた小川。此川口に細き高き滝有るよし、よつて号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.194 より引用)
ああ、やはり……と思わせますね。少なくとも松浦武四郎は「光輝く水」という解釈を記録していない、ということが確認できました。「川口に細き高き滝」とありますが、イトムカ鉱業所の西に急峻な渓谷があり、これを「滝」と見做した可能性もありそうです。

また、石北峠の南東に標高 1219.0 m の三等三角点があるのですが、この三角点の名前が「江屯武華」で、「エトンムクワ」とルビが振られていました。三角点が設置されたのは 1916 年とのことで、当時は「イ──」ではなく「エ──」だと認識されていた可能性が高そうに思えてきました。

「岬のある無加川の支流」説

ここまでの情報を元に改めて地形図を眺めてみると、「イトムカ」は etu-un-{muka} で「鼻(岬)・そこにある・{無加川}」ではないかと思えます。素直に読み解けば真っ先に出てきそうな解のような気もするのですが、「イトムカ」=「水銀鉱山」という先入観に引きずられた……ということなのでしょうか。

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2022年4月29日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (131) 久保田(秋田市) (1878/7/23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

防腐剤の取扱い

イザベラは、院内(秋田県湯沢市)で「久保田から来た医者の一人」と言葉を交わして面識ができていたのですが、数日後に六郷(秋田県仙北郡美郷町)から神宮寺(秋田県大仙市)に移動する途中で再びその医師と遭遇します。この医師こそ Dr. Kayobashi こと「小林医師」で、実は東京から久保田(秋田)に赴任する途中だったことが判明しています。

「小林医師」はイザベラに(自分の赴任先である)病院に来てください……と声を掛けたそうですが、これが本当にイザベラの訪問を期待していたのか、それとも実は単なる社交辞令だったのかは……ちょっと謎ですね。実は「まぁどっちでもいいや」程度で考えていたんじゃないかと思ったりもしますが……。

イザベラは小林医師の招待を真に受けた……というか、本国に持ち帰る情報として有益だという判断があったのか、正式な作法で訪問許可を得て、ガッツリと病院見学に乗り込んだ……というのがここまでの流れです。

イザベラは、久保田(秋田)の病院に慈善事業的な性格が見当たらないことを訝しむとともに、医療と看護のシステムについての詳細(問題点を含む)に記していました。ただ、決してダメ出しに終止したわけでも無かったようで……。

 私は、入院病棟に比べて診療棟のほうがより気に入りました。その配置は素晴らしいもので、非常に天井が高く、明るくて、風通しの良い部屋には問題が少しもありません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
イザベラは、どうやら診察棟の作りには随分と感心していたようです。

いろはアルファベット順に患者の名前が呼ばれると、見習い医者の一人の決定に従い、それぞれの患者はそれぞれの症状に合わせ三つの明るくて設備のよい診察室の一つに入っていきます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
今でも総合病院だと初診は若い医師が担当することが多い印象がありますが、既に同様のシステムができていた、と言えそうでしょうか。

診察室はそれぞれ内科、外科、眼科に当てられています。患者一人一人がファイルに記入された処方箋をもらいます。それには患者の受け取る薬ビンに対応して、同じ番号がふられています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
なんか予想以上に近代的なシステムが構築されていたのですね。こういったシステムも見様見真似で持ち込んだのでしょうが、そう言えば優れたやり方をうまく模倣して取り込むというのは日本人の得意技だったような気もします。

整頓された薬局

イザベラが記録していた「薬局」のシステムは驚くべきもので……

病人に処方箋が渡されると薬局に向け開いているカウンターのある大きな待合室に移動し、そこで患者は自分の薬を受け取るまで待ちます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
この仕組みは、つい少し前までごく当たり前に見られていたものですよね(今は「院外処方」が多くなったので、むしろ手間が増えた印象もあります)。診療と調剤をそれぞれ分業体制にすることで無駄を減らして効率的に業務を行おう……というスタイルが、既に明治初頭に完成していたというのは驚きです。

薬局はすばらしい部屋で、最も定評のある様式に周到に合致して設備されており、薬品はラテン語と日本語のラベルがきちんと付けられ棚に並べられています。主任薬剤師と 4 人の実習生がそこで働いていました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
看護については「おいおいおい」と感じていたであろうイザベラも、外来診療と薬局のシステムについては「お主やるな」という感想を持ったかもしれませんね。

医師資格

ちなみにここまでの「悪い看護」「防腐剤の取扱い」「整頓された薬局」は、いずれも「日本奥地紀行」の「普及版」ではばっさりカットされています。さすがに「日本奥地紀行」の内容としてはマニアック過ぎるという判断だと思われますが、面白いことにこの先の一節はカットされずに残されていました。

 石炭酸の臭いが病院中にたちこめていた。消毒液の噴霧器がたくさん置いてあった──リスター氏(英国の消毒外科医学の完成者)が満足するほどに!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
この時点では、地元住民には西洋医学の有用性が必ずしも理解されていない状態でしたが、病院の施設はいち早く衛生面での配慮を取り入れていた、と言えそうでしょうか。

K 医師が語るには、今世紀最大の発見の一つである消毒治療を学生に教えているが、消毒の際に必要なごく些細な点にまで注意深くするようにさせるのは難しい、とのことであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
「K 医師」は「小林医師」のことですが、これを読む限りではなかなか先取的な考え方の持ち主だったようですね。もちろんその医学的な知見は現代人には遠く及ばないところもあります。百年(以上)のタイムラグは大きい、ということですね。

不幸にも眼病患者が非常に多い。眼病が広く蔓延しているのは、一軒の家の中に住む人間の数が多すぎること、家の中の換気が悪いこと、貧乏な暮らし、そして採光が悪いためだ、と K 医師は考えている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
この時点では「菌」の概念がどの程度知られていたかも不明ですし、おそらく「ウイルス」については「???」だったと思われるんですよね。各種の病気への対処についてはある程度ノウハウが溜まっていたと思われますが、病原に対する理解は(全世界的に)まだまだだったと言えそうでしょうか。

ここで再び「普及版」でカットされた内容に戻ります。

 病院はまた 100 人の医学生を擁する医学校でもあって、卒業証書は秋田県で医療の営業をする資格を与えられる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.93 より引用)
どうやらこの病院は現在の「大学病院」に相当する施設だったようですね。医学校の卒業証書は「医師免許」に相当する価値のあるものだったようです。

大教室はドイツ製やイギリス製の図解類がよく設備されているが、博物資料館はかろうじて解剖標本があるだけであり、人骨標本はミクロネシアから来た背の低いタイプの原住民のものが置かれている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.93 より引用)
うーん、ちょっとセンシティブな内容に踏み込んできましたね。「ミクロネシアの原住民」の人骨のみならず、アイヌの遺骨も大学等の研究機関が保管していたことが明らかになっていて、その入手方法も決して適切なものでは無かったことが明らかになりつつあります。その理由の一端をイザベラは次のように書き記していました。

日本人の人骨標本を置くことは不可能で、解剖用献体を手に入れることが出来た唯一のケースは患者の近親者が例外的に寛大な場合と死因が生前解明できなかった場合だけである。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.93 より引用)
アイヌの遺骨は必ずしも「日本人の標本の代替品」という見地で集められたものでも無かったと思われますが、結果的にそのような位置づけで活用されたケースもあったのかもしれません。いずれにせよ「遺骨を奪う」という行為はとても褒められたものでは無いので、速やかに謝罪と返還が求められます。

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2022年4月28日木曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(出港前ウロウロ編)

「フェリー乗船記」なのに「サーモスタット混合水栓」「リモコンつきウォシュレット」そして「エアコンのリモコン受光部」の話題を続けてしまってすいません(汗)。ここからは出港間近の、この上なくソワソワした雰囲気の船内をウロウロしてみましょう。

「だんご」あるいは「わらび餅」

「すいせん」の船室は 4 甲板から 6 甲板の三層構造で、船室の中心部は吹き抜け構造となっています。中央にはこのような謎のオブジェがあるのですが……

2022年4月27日水曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(ベッドまわり編)

かつてメタリカも「寿司! 鳥! 風呂! 寝ろ!」と歌っていましたが(歌ってません)、苫小牧市内で寿司を喰らい、風呂の話題を済ませたとなると、次は寝床の話題ですよね(鳥はどこ行った)。

ベッドまわり

スイートの中のリビングとベッドルームは明確に分かれているわけではありませんが、トイレやエントランスの衝立をうまく配置することで「ゾーン分け」ができています。ベッドゾーンは通路側のエリアで、ゆったりしたサイズのツインベッドが並びます。
ベッドの間には読書用の電気スタンドが置かれています。電気スタンドは一つしかありませんが、真ん中に仕切りが設けられていて、どちらか片側のベッドだけを照らすことも可能です(スイッチをオフにした側も、まぁそれなりに明かりは漏れますが)。

2022年4月26日火曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(洗面所・トイレ編)

「バス・トイレ」ではなく「魅惑のバスルーム」だけで一本書いてしまったので(汗)、今回は残りの(失礼な)「洗面所・トイレ」編です。「垂涎のトイレ編」というのも考えてみましたが、トイレで涎を垂らしていたら「危険な人」認定待ったなしなので、さすがに今回は控えます(汗)。

開放感のある洗面所

洗面所はバスルームの隣ですが、間の仕切りが全面ガラス張りなのでとても開放感があります。

2022年4月25日月曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(魅惑のバスルーム編)

新日本海フェリーの「すいせん」(と同型船の「すずらん」)には「スイートルーム」が 2 室と「ジュニアスイート」が 2 室用意されています。どちらも朝・昼・晩に「グリル」での食事が付帯するなどの点では違いはありませんが、部屋の専有面積に違いがあるほか、バス・トイレの位置と構造に決定的な違いがあります。
別の言い方をすると、「ジュニアスイート」には無い「スイート」の最大の特徴が「バスルーム」です。「魅惑のバスルーム」と言ったお馬鹿な副題をつけるだけの価値があります!

オーシャンビューのバスルーム!

「ジュニアスイート」のバス・トイレは通路の近くにありますが、「スイート」のバスルームはなんと海側の、他の部屋ではバルコニーとなっている場所にあります。

2022年4月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (929) 「恩根留辺・遠留」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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恩根留辺(おんねるべ)

onne-{ru-pes-pe}
親である・{道・それに沿って下る・もの(川)}
(典拠あり、類型多数)
JR 石北本線は生田原から「八重沢川」沿いを南に向かい、「常紋トンネル」を抜けて留辺蘂に向かいます。国道 242 号が通る生田原川と石北本線が通る八重沢川の間に標高 556.6 m の山があり、「恩根留辺」という名前の三等三角点が設置されています。

明治時代の地形図を見ると、現在の「八重沢川」の位置に「オン子ルペシュペ」と描かれていました。onne-{ru-pes-pe} で「親である・{道・それに沿って下る・もの(川)}」、すなわち「親である・{峠道川}」ということでしょう。

「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ヲン子ルベシベ」という名前の川が描かれていて、戊午日誌「西部由宇辺都誌」にも次のように記されていました。

またしばし過て左り
     ヲン子ルベシベ
是大なる山越と云儀也。是よりも昔しムツカえ山越のよしなりと聞り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.260-261 より引用)
この「ヲン子ルベシベ」の前には「ホンルベシベ」という川が記録されていて、秋葉実さんはこれを「青木沢川」ではないかとしていました。青木沢川を東に遡ると「摺鉢山」の北の鞍部を越えて留辺蘂町花園に出るので、「峠道のある川」と呼んだのは妥当な感じがします。

永田地名解にも次のように記されていました。

Pon rupeshbe     ポン ルペㇱュベ   小徑
Onne rupeshbe  オンネ ルペㇱュベ  大徑 常呂川「ポンムカ」ヘ越ス路
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.459 より引用)
常紋トンネルを抜けた先は「熊の沢川」で、かつて「金華かねはな駅」のあったあたりで「奔無加ぽんむか川」と合流しています。厳密には石北本線は「熊の沢川」経由で国道 242 号が「奔無加川」経由なのですが、「熊の沢川」は「奔無加川」の支流なので、「『ポンムカ』へ越す路」という表現でも問題ないかと思われます。

遠留(えんと)

wen-ru???
悪い・道
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
国道 242 号は「生田原川」に沿って南下し、生田原清里のあたりからは支流の「支線沢川」沿いを通って金華峠に向かいます。「支線沢川」と「奔無加川」の間(金華峠より西側)に「遠留えんと」という名前の四等三角点(標高 501.0 m)があります。

「遠留」が「えんる」だったら wen-ru で「悪い・道」の可能性があるなぁ……と思って取り上げてみたのですが、それらしい記録が見当たらない上に読み方も「えんと」とされていて、出だしから壁にぶち当たってしまい……(汗)。

仮に wen-ru だったとして、それがどこを指していたのかも重要なポイントです。最初は「金華峠」のことかと思ったのですが、もしかしたら「遠留」三角点のすぐ西側の鞍部のことかも知れないな、と思い始めています。

生田原と留辺蘂を結ぶルートとしては、JR 石北本線が通る「常紋トンネル」ルートと国道 242 号が通る「金華峠」の二つがありますが、「急勾配でもいいからとにかく短距離」を是とするアイヌの峠道の考え方に最もマッチするのは「常紋トンネル」ルートで、トンネルは無く標高も低いものの若干遠回りをする「金華峠」はアイヌの峠道の理想からは若干外れている印象があります。この「若干遠回り」を忌避して「悪い峠」と呼んだ、という可能性を考えてみました。

ただ「遠留」三角点と「金華峠」は少し離れていて、三角点の東西にもそれぞれ鞍部があるため、この鞍部のどちらかを指していた可能性もあります。どちらも地形が険しい上に、生田原や留辺蘂から見て金華峠よりも遠回りとなるので、やはり「使えない峠」という印象があります。

「遠留」が果たして wen-ru なのか、という根本的な点から精査する必要がありますが、仮に wen-ru だったとすれば、このあたりのどこかの峠が「悪い道」、すなわち「使えない峠」と認識されていた……ということになりそうですね。

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2022年4月23日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (928) 「トーウンナイ川・オンネ沢川・浦島内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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トーウンナイ川

to-un-nay?
沼・入る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
遠軽町の市街地の東部に陸上自衛隊の駐屯地と演習場がありますが、トーウンナイ川は演習場の南から駐屯地の北を抜けて生田原川に注いでいます。

明治時代の地形図には「トーウンナイ」という名前の川が描かれていました(今のまんまですね)。ただ永田地名解や戊午日誌「西部由宇辺都誌」にはそれらしい名前の川が見当たりません。

「トーウンナイ」は、音からは to-un-nay で「沼・入る・川」と読めそうです。ただ陸上自衛隊遠軽駐屯地のあたりに沼があったということでも無さそうで、さてこの「トー」をどう解釈したものか、という問題が出てきます。

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には、生田原川の支流として「シユフヌンナイ」「ルベツチヤヲンナイ」「ニタツヲマフ」などの記録がありますが、この中では「ニタツヲマフ」が「仁田布川」のことだと考えられます。また「シユフヌンナイ」は「川口より七八丁上りて右の方」とあり、「ルベツチヤヲンナイ」が「左りの方小川」とあるため、現在の「トーウンナイ川」は「ルベツチヤヲンナイ」と認識されていた可能性もありそうです。

「ルベツチヤヲンナイ」は ru-{pet-cha}-un-nay あたりでしょうか。これだと「道・{川岸}・ある・川」となりますが、この {pet-cha} は湧別町芭露ばろうのあたりを指していた可能性がありそうだな、と思えてきました。つまり「ルベツチヤヲンナイ」は「芭露への道に向かう川」だったのではないかと。

実際に、陸上自衛隊の駐屯地と演習場の南を道道 244 号「遠軽芭露線」が通っていて、芭露峠を越えて湧別町に向かうことが可能です。そう考えると「トーウンナイ」の「トー」も「サロマ湖」のことを指していたのではないか、と考えて良さそうな気もしてきました。to-un-nay は「沼・入る・川」ですが、「サロマ湖に向かう川」と認識されていたのではないでしょうか。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オンネ沢川

onne-nay
親である・川
(典拠あり、類型多数)
生田原の市街地の北で生田原川に合流する西支流です。戊午日誌「西部由宇辺都誌」や永田地名解にはそれらしい川の記録が見当たりませんが、明治時代の地形図には「オン子ナイ」と描かれていました。

生田原川の西支流の中では「仁田布川」や「浦島内川」よりは短いものの、生田原駅近辺の支流の中ではそこそこ大きな川です。これは素直に onne-nay で「老いた・川」、転じて「親である・川」(大きな・川)と考えるしかないでしょうか。

浦島内川(うらしまない──)

uras-oma-i
笹・そこにある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
生田原の市街地で生田原川に合流する西支流です。明治時代の地形図には「ウラシュチマイ」という名前の川が描かれていました。

永田地名解には次のように記されていました。

Urash chimai  ウラシュ チマイ  笹ノ枯レタル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.459 より引用)
uras は「笹」ですし chi には「枯れる」という意味がありますが、「チマイ」を「枯れたところ」と解釈できるかどうかは……ちょいと疑わしい、でしょうか。

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

また右の方並びて
     ウラシヲマイ
本名ウラシウシヲマイのよし。此川すし小笹多きによって号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.260 より引用)
これは uras-oma-i で「笹・そこにある・もの(川)」と読めそうですね。uras-us-oma-i であれば「笹・多くある・そこにある・もの(川)」でしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウラシヲシマ」という名前の川が描かれていますが、これは uras-us-oma だった可能性もありそうです。永田地名解が「ウラシュ チマイ」としたのは謎ですが、「ヲマイ」を「チマイ」に誤ったと考えると筋が通りそうな気もします。

「永田地名解」とは言ったものの、永田方正ひとりで道内全てを回るのは容易ではなかったようで、一部は「協力作業者」の取材結果を取り入れていたとのこと。「取材メモ」を書き起こした際にうっかりミスがあった……みたいな可能性も考えたくなりますね(このあたりで他者の成果を取り入れていたかどうかは不明ですが)。

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2022年4月22日金曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(お部屋編)

6 後半前方の右舷にやってきました。今回の部屋番号は「001」で、「Avignone」という名前がつけられています。Avignon であればフランスの都市で、確か Jean Alesi の出身地だったと思いますが、Avignone とは……?
流石に気になったのでググってしまったのですが、どうやらイタリアでは「アヴィニョン」のことを Avignone と綴るようですね。Avignone はイタリア語での表記なので「アヴィニョーネ」と発音すべきでしょうか。もしかしたらラテン語でも Avignone なのかもしれませんが……。

2022年4月21日木曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(キー受け取り編)

車輌甲板(この時は 3 甲板)から案内所のある 4 甲板へは、階段、またはエレベーターで移動します。下船時は利用客が一気に押し寄せることもあって、ぶっちゃけエレベーターより階段のほうが速いんですが、乗船時はそこまで混雑することは無いので……(多少待つことはありますが)。
エレベーターを出たところで、車輌甲板からの階段と合流します。

2022年4月20日水曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(乗船編)

敦賀行き直行便「すいせん」は 23:30 に苫小牧東港を出港予定です。徒歩での乗船は 22:30 開始とのことでしたから、車輌の乗船も同時期に開始でしょうか。まだ 1 時間以上余裕があるので、外から「すいせん」を見ておきましょうか。手前に見える車輌は乗船車列では無いので……職員の方の車でしょうか?
3 甲板の後方には左右にドアがあり、右側のドアにスロープが繋がっています。2 甲板の後部にもドアがあるので、おそらくどちらかから乗船することになりそうです。

2022年4月19日火曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(苫小牧 FT 編)

苫小牧東港フェリーターミナルにやってきました。朝は稚内にいて、そこから色々と寄り道したものの 21 時過ぎにフェリーターミナルに到着したので……まぁ予定通りと言ったところでしょうか。

「新日本海フェリー」では、出港時間の 60 分前までにフェリーターミナルに到着するようにお願いしています(GW や夏休み・年末年始などの繁忙期は「90 分前」入りが推奨とのこと)。但しこれは「乗船手続き」に関するお願い事項なので、乗船手続きが不要な場合はその限りでは無い……ようにも読めてしまいますね。

新日本海フェリーでは、事前に Web で乗船券の予約・購入を済ませて、2 次元バーコードが印刷された「e 乗船券お客さま控」を持参することで乗船手続きが不要になりますした場合も、新型コロナウィルス感染症のパンデミックのため、一旦ターミナルに入って検温と乗船手続きが必要とのこと。それでも出港時間の 60 分前にはフェリーターミナルに到着しておきたいものです。

デッキプラン

少し時間に余裕があるので、「新日本海フェリー 苫小牧ターミナル」の中に入ってみましょう。苫小牧とは言うものの、市内にある「西港」とは違って、「東港」は厚真の町外れにあります。近くに店はありません(汗)。というか周りは「原野」と言った雰囲気がぷんぷんと……。
乗船手続きを行うカウンターですが、まだ係員の方の姿は見えません。厳密には GW の連休は既に終わっていて、金曜日の平日を挟んだ後の土曜日なので、意外と混んでないのかも……?

2022年4月18日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (270) 「チャレンジ 80,000 km」

深川 IC で道央道に入り、ピャーッと高速ワープ中でしたが……
苫小牧ではなく、今回もいつも通り?「岩見沢 IC」で流出しました。岩見沢から苫小牧に向かう場合、札幌経由だと 94.3 km なのに対し、国道 234 号経由だと 74.8 km と、ちょっとだけ……いや、意外と距離が短いのですね(こんなに違うとは思っていなかった)。やはり所要時間は道央道経由のほうが圧倒的に短いのですが……。

2022年4月17日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (927) 「伊奈牛川・背谷牛山・野上」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

伊奈牛川(いなうし──)

inaw-us-i
木幣・ある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
瀬戸瀬と丸瀬布の間で湧別川に合流する北支流です。合流点から 1 km ほど西(上流側)には石北本線の「伊奈牛仮乗降場」があり、1987 年に JR 北海道が発足した際に駅に昇格したものの、僅か 3 年後の 1990 年 9 月に廃止されてしまいました。

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

又十丁も行て
     イナウシ
右の方小川有。此川口に小山有りけるが、爰に神霊有るよし申伝え、昔しより土人等上り下りの時に木幣を削りて奉り有り、よって号しとかや。イナウウシの詰りたる也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.264 より引用)
ちなみに「イナウシ」の一つ前が「タン子ヌタフ」でした。明治時代の地形図には「イナウシ」あるいは「イナウウシュ」とあったので、「イナウウシの詰りたる也」と見て間違い無さそうですね。inaw-us-i で「木幣・ある・もの(川)」と見てよいでしょうか。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 伊奈牛(いなうし) 昭和 8 年北見鉱山を買収した住友が鴻之舞の支鉱として経営したところ。この鉱山ははじめ金を目的としたが戦時中銅亜鉛の採掘をあわせておこなうようになり昭和 38 年迄つづいた。「イナウ・ウㇱ」は木幣多いの意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.486 より引用)
また、更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 伊奈牛(いなうし)
 鴻之舞金山の支鉱のあったところ。アイヌ語のイナウ・ウㇱで、祭壇のあったところの意であるが、何の祭壇か不明。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.292 より引用)
そう言えば inaw は半ば機械的に「木幣」と解釈してきましたが、「祭壇」と見ることも可能だったでしょうか。……と思って手元の辞書類を確認してみましたが、見事にいずれも否定的でした。やはり inaw は「木幣」と解するべきで、「幣場」は inaw-cipainaw-san とするのが一般的のようです。

背谷牛山(せたにうし──)

{seta-ni}-us
{エゾノコリンゴの木}・ある
(典拠あり、類型あり)
瀬戸瀬の南東に聳える標高 624.7 m の山の名前で、同名の川(背谷牛川)が山の東側を流れています。昨日の記事でおおよそ語り尽くした感もありますが……。

明治時代の地形図には、現在の「瀬戸瀬川」の位置に「セタニウㇱユト゚ルコツ」という名前の川が描かれていました。ただ戊午日誌「西部由宇辺都誌」では「セタン子シトルコツ」という川が生田原川の河口と瞰望岩の間の「右支流」として記録されていて、現在の瀬戸瀬川に相当する場所には「セトシ」という左支流が記録されていた……というところまでは既にご紹介した通りです。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 背谷牛山(せたにうしやま)
 遠軽町瀬戸瀬との境の山。セタンニ・ウシでの木の多いの意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.291 より引用)
「背谷牛山」は {seta-ni}-us で「{エゾノコリンゴの木}・ある」と考えて良さそうですね。興味深いことに、「背谷」を {seta-ni} で「エゾノコリンゴの木」とする考え方は、松浦武四郎以来特に異論の無いまま引き継がれています。

改めて明治時代の地形図を見てみると、現在の「背谷牛山」の北北東、「二林班川」と「三沢川」の間の支峰(標高 424 m)あたりに「セタニウシ山」と描かれています。現在の「背谷牛山」と明治時代の「セタニウシ山」は親子関係にあるものの、「セタニウシ山」は「子である山」の名前として描かれている点に注意が必要です。

明治時代に入ってから、何故か「『セトシ』は『セタニウㇱユト゚ルコツ』の省略形である」という誤解(だと思われる)が広まってしまい、ついには地形図にもそう描かれてしまったと考えられるのですが、「セタニウシ山」という山名が「創造」されたのもその前後……おそらく「セトシ」が「セタニウㇱユト゚ルコツ」に変化してしまった後?なのかな、と思い始めています。

野上(のがみ)

nup-pa-ta-an-nay
野・かみ・そこに・ある・川
(典拠あり、類型あり)
旭川紋別自動車道の「遠軽 IC」と、道の駅「遠軽 森のオホーツク」のあるあたりの地名です(遠軽町野上)。明治時代の地形図には、現在の道の駅のすぐ東のあたりに「野上駅」と描かれていますが、このあたりに「野上駅逓」があったとのこと。かつての駅逓からそれほど遠くないところに「道の駅」ができたというのも、どことなく先祖返りのようで面白いですね。

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし凡十丁も上りて
     ヌツハタンナイ
(左)の方小川、其上に山の岬出来りたる有。名義は本名ヌツハケタと云よし。其訳山の尾の事なりとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.263 より引用)
ありがたいことに頭註に詳細が記されていました。

ヌツパ 野の土手、野の頭(川下)
タ・アン・ナイ の方にある川
ヌツ・パケ 野の上手
タ の方
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.263 より引用)
「ヌツハタンナイ」は nup-pa-ta-an-nay で「野・かみ・そこに・ある・川」と解釈できそうです。「野上」は「野のかみ」を意訳した地名だ、と言えそうですね。

そして「ヌツハケタ」は nup-pake-ta で「野・頭・そこに」と読めそうです。道の駅の南側の北斜面に「ロックバレースキー場」がありますが、この北斜面を構成する山が北東にせり出していることを形容して、「野・頭・そこに(・ある・川)」と呼んだ……ということでしょうね。

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2022年4月16日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (926) 「瀬戸瀬・都鳥林道」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

瀬戸瀬(せとせ)

{si-tu}-us-i?
山の走り根・ついている・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「瀬戸瀬」についても、以前にも北海道のアイヌ語地名 (70) 「丸瀬布・若咲内・瀬戸瀬」で取り上げていますが、記事にしてから 10 年ほど経つので、改めて検討してみることにしました。

遠軽と丸瀬布の中間あたりに位置する地名で、JR 石北本線に同名の駅があるほか、旭川紋別自動車道には「遠軽瀬戸瀬 IC」があります。また、IC のすぐ東側を「瀬戸瀬川」が流れています。

「セタニウㇱュウト゚ルコツ」説

明治時代の地形図には、現在の瀬戸瀬川の位置に「セタニウㇱュウト゚ルコツ」という川が描かれていました。「ウㇱュ」という謎な表記は永田方正の「北海道蝦夷語地名解」(通称:永田地名解)で編み出されたもので、これは us のことだとされます。

ということで、永田地名解を確かめてみたところ……

Setani ush utur kot  セタニ ウㇱュ ウト゚ル コッ 山梨ノ間ナル谷
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.458 より引用)
やはり記載がありましたね。{seta-ni}-us-utur-kot で「{エゾノコリンゴ}・ある・間・窪み」と考えたようです。{seta-ni}-us-utur-kot は川の名前と思われるので、そこから {seta-ni}-us を抜き出して地名にして、更に -ni を省略して seta-us という地名が誕生した……と考えれば、筋は通るでしょうか。

瀬戸瀬川の東に「背谷牛せたにうし山」という山があるので、「エゾノコリンゴ・多い」という意味の {seta-ni}-us は山の名前として残った……とも考えられます。気になる点としては背谷牛山の東を「背谷牛川」が流れている(仁田布川の支流)ところですが、川の名前を山の名前から拝借した……と考えることも一応は可能です。

「セトシ」と「セタン子シトルコツ」

ただ、戊午日誌「西部由宇辺都誌」の記述を見ていて、色々と妙なことに気づいてしまいました。ということで、今回も表の出番です。

西部由宇辺都誌補足情報現在名(推定)
サナブチ右の方小川有。其上高山有。サナブチ川
イタラブト此処左りの方中川也。生田原川
セタン子シトルコツ右の方小川有。此川の上に一ツの丸山有。此山に鹿梨多し。?
ホンニケウルヽ右のかた前の山の並びにして中に小沢一ツを隔てヽ有。?
イムシヲマイ右の方平山。?
インカルシ右の方高(岩)一ツ有。其上下に小川有。又其山の後方にサナフチの源来り居るとかや。瞰望岩?
ク リ ベ右の方小川、本名はウリベと云よし也。?
ビロン子イ此処大なる渕右の岸に有りと。?
ビウカラセ右の方小川、水無沢と云儀のよし。両方高山なり。?
ヌツハタンナイ(左)の方小川、其上に山の岬出来りたる有。?
クテクンナイ左りの方小川有。此処左り岸は相応の平地なるが故に鹿多く遊び居によって毒矢を懸候由に附此名ありと云り。?
ユクルベシベ右の方小川の上に平山有。?
エウケチヤシコツ右の方小山有、其下に小沢有。?
セ ト シ左りの方小川有。此処昔しより毒箭を多く懸し処なるによって此名有りとかや。瀬戸瀬?
シユフヌツ左りの方小川。?
ヒラヲンナイ右の方小川。?
タン子ヌタフ此処河流屈曲したる処其辺りえ南の方よりさし出有るによって一ツの岬に成有りと。若咲内

松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.259-264 の内容をベースに作成)
念のため、ネタ元と思しき「午手控」も確認しましたが、記載内容に大きな異同はありませんでした。

これらの川名(等)の記録から、現在名の推定に使えそうなのが「サナブチ」と「イタラブト」、そして「インカルシ」と「タン子ヌタフ」でしょうか。「タン子ヌタフ」は tanne-nutap で「南の方から土地がせり出して岬のようになっている」とのことなので、この特徴は瀬戸瀬の西にある「若咲内」と一致します。

となると「タン子ヌタフ」の手前にある「セトシ」が「瀬戸瀬」のことだと考えられます。奇妙なことに「セタン子シトルコツ」は「イタラブト」と「インカルシ」の間に記録されているので、これだと(仮に「インカルシ」の位置を南西にずらしたとしても)「瀬戸瀬」とは遠く離れた場所に「セトシ」とは別に存在する、ということになってしまいます。

ついでに言えば「背谷牛山」「背谷牛川」と「セタン子シトルコツ」も位置が合っていません。

注目すべきは「セトシ」の項に「昔しより毒箭を多く懸し処」とある点ですが、よーく見るとお隣の「クテクンナイ」と被ってるんですよね。

「山の走り根」説

とりあえず、ここまででわかったことをまとめると次のようになるでしょうか。
  • 「セタン子シトルコツ」と「セトシ」は異なる場所
  • 「セタン子シトルコツ」と「背谷牛山」「背谷牛川」も異なる場所
  • 「瀬戸瀬」は「セタニウㇱュウト゚ルコツ」の省略形では無い
  • 「セトシ」の由来を「昔しより毒箭を多く懸し処」とするのはやや疑わしい

結局のところ「瀬戸瀬」の意味は良くわからないことになってしまいましたが、音からは {si-tu}-us-i で「山の走り根・ついている・もの(川)」とは考えられないでしょうか。「山の走り根」というのも今ひとつ意味が通じにくいですが、頂上から伸びる長い尾根(但し他の山の頂上とつながらないもの)と考えると良いでしょうか。知床半島のミニチュアと考えると当たらずとも遠からずかもしれません。

あるいは……これは思いつきに過ぎないのですが、setakko-us-i で「ずいぶん長い間・そうである・もの(川)」が略された……というのはどうでしょうか。初山別村の「セタキナイ川」からの類推なんですが、「ずいぶん長い間」は「見た目よりも奥が深い」という捉え方ができるとのこと。

「瀬戸瀬川」も意外と奥まで遡ることができるので、これももしかしたらアリかなぁ……と思っていたりします。

都鳥林道(ととり──?)

tu-utur???
山の走り根・間
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
都島」と言えば「天六に一番近い島」として知られていますが、瀬戸瀬川の西支流である「住友川」沿いの林道は「都島林道」ならぬ「都鳥林道」という名前でした。「ととり──」と読んでみましたが、正確な読みをご存じの方がいらっしゃいましたら是非ご一報を……。

「都鳥林道」という名前が「住友川」に由来する場合は……という大前提が必要になるのですが、「ととり」がアイヌ語由来だとすれば(二つ目の大前提)tu-utur で「山の走り根・間」と考えられないだろうか……という話です。

察しのいい方はお気づきかもしれませんが、「都鳥」が tu-utur だったりしないか……という想像が、「瀬戸瀬」も si-tu-us-i じゃないか……という考え方のヒントになったのでした。

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2022年4月15日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (269) 「ガソスタまで直進 50 km」

深川市に入りました。カントリーサインは「稲穂とリンゴ」でしょうか(敢えて答え合わせをしないことでスリルを楽しむスタイル)。
道央道の立体交叉を通過して西に向かう途中にはこんなものも。

2022年4月14日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (268) 「ホテルのうきょう」

「旭川新道」の「旭川トンネル」を抜けて、国道 12 号の現道との合流地点にやってきましたが……うわぁぁ、なんじゃあこりゃあ!™
ホテルのうきょう、現存していたんですね……。風の噂では既に閉業していると聞いていたんですが……。せっかくなのでストリートビューでも見ておきましょうか。


おおおお……。後光が差してますね……(汗)。ちなみに旭川新道からはこんなふうに見えるのですが、

2022年4月13日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (267) 「道道 1125 号『嵐山公園線』」

「比布トンネル」を抜けて旭川市に入りました。日に日に解像度が残念なことになっていますが、手前に見えるのは「旭橋」ですよね?
右側に土手が見えますが、どうやらこれが旧・比布トンネルに続く道だったようです。言われてみれば明らかに道路跡(か線路跡)っぽいのですが、なかなか気づかないものですね。

2022年4月12日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (266) 「小さなトンネルのようなもの」

「塩狩峠」を越えて比布町に入りました。こちらはアルペンスキーヤーといちごのコンビネーションですが、残念ながらいちごが華麗にターンを決めている訳では無さそうです。
R120 くらいの深い右カーブと R80 くらいで 180 度近く曲がる急な左カーブで構成されていた旧道は、R500 くらいの極めて緩い左カーブ(と手前の緩い右カーブ)に改良されていました。カーブを抜けた先は既存の道路とまっすぐ繋がっているのですが、この下り坂は速度が出てしまいますね……。

2022年4月11日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (265) 「全日本玉入れ選手権」

和寒町に入りました。この「クロカンスキーをするトマト」のカントリーサインはインパクト抜群ですが、よく見るとトマトの表面がテカっていてみずみずしさが強調されていたり、右足のかかとが浮いているのでクロスカントリースキーであることがわかるようになっていたり、「完成度高ぇなオイ®」と思わせるものです。
もっとも、右スキーのトップが内側に入りすぎているので、このままだと足が絡んで転倒する可能性もあるのですが……(ぉ)。

道北バス、そして道北バス

再び路線バス(ですよね)が対向車線にやってきました。観光バスのようなセミハイデッカー?のバスですが、前面には「名寄」の文字が見えるような。道北バスの車輌だと思いますが、あ、この塗り分けって「北」の字をイメージしたものなんでしょうか。

2022年4月10日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (925) 「丸瀬布・オロピリカ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

丸瀬布(まるせっぷ)

{maw-re}-sep??
{息吹く}・広い
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
「丸瀬布」については以前にも北海道のアイヌ語地名 (70) 「丸瀬布・若咲内・瀬戸瀬」で取り上げていますが、記事にしてから 10 年ほど経つので、改めて検討してみることにしました。

かつての町名(紋別郡丸瀬布町)で、JR 石北本線には同名の駅があるほか、旭川紋別自動車道にも同名の IC があります。湧別川の西支流である「丸瀬布川」が合流するところに市街地が形成されています。

昨日の記事でも触れましたが、「丸瀬布森林公園いこいの森」や「丸瀬布温泉」は、いずれも丸瀬布川ではなく武利川の流域にあります。「丸瀬布──」を名乗っているのは、そんなに「武利川」の「ムリ」の音を避けたかったのか……と思ったりもしますが、単に旧・丸瀬布町にあったから、かもしれません。

武利川と丸瀬布川の合流点はそれほど離れていませんが、武利川を遡ると南に向かうのに対し、丸瀬布川を遡ると西に向かうことになります。別の言い方をすれば、丸瀬布の市街地で湧別川・丸瀬布川・武利川の三川が合流する、ということになります。

「はまなす」説

丸瀬布川は、武利川よりは短いものの、湧別川の支流の中ではそこそこの規模のものです。ただ不思議なことに「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川が見当たらないように思えます。

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

またこへて十丁も過
     マウレセツフ
右の方相応の川、峨々たる山間に達するとかや。其川すじ玫瑰はまなす多しと、よつて此名有るよし也。マウレは玫瑰の事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.266 より引用)※ 原文ママ
ただ頭註には次のようにありました。

丸瀬布川
自生のはまなすはない
マウレは「はまなす」なので誤記したものてあろう
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.266 より引用)
武利川でも「テンキグサ」あるいは「ハマニンニク」と呼ばれる「海岸の砂地に生える」草が出てきましたが、本来の植生ではあり得ない植物に由来を求めるケースが続いたのは不思議な感じがしますね。

「三つの川」説

「角川日本地名大辞典」には次のように記されていたのですが……

地名の由来はアイヌ語マウレセプで,「北海道駅名の起源」では「三つの川の集まる広い所,と言われているが真意は不明」とある。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1425 より引用)
改めて「北海道駅名の起源」を確かめてみたところ……

  丸瀬布(まるせっぷ)
所在地 (北見国) 紋別郡丸瀬布町
開 駅 昭和 2 年 10 月 10 日
起 源 アイヌ語の「マウレセㇷ゚」、すなわちマウレセㇷ゚川から転かしたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.211 より引用)
あれれ。まるでどこかの元環境大臣のコメントみたいな内容になっちゃってますね。念のため昭和 29 年版を見てみると……

 丸瀬布駅(まるせっぷ)
所在地 北見国紋別郡丸瀬布町
開 駅 昭和二年十月十日
起 源 アイヌ語「マウレセㇷ゚」から転訛したものであるが、意味は不明である。
㉕ 「マルセップ」(三つの川の集まる広い所)
(「北海道駅名の起源(昭和29年版)」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.393 より引用)
あー、なるほど見えてきました。「角川──」は昭和 25 年版の「──駅名の起源」を参照したんですね。この「三つの川の集まる広い所」という解釈は昭和 29 年版でカットされているので、おそらく 4 人の編者の中から反対意見があったのでしょう。

「セㇷ゚」は「広い」か

「マウレセㇷ゚」が「丸瀬布駅」周辺のことを指したものなのか、あるいは「丸瀬布川」のことを指していたのかについては、確実なことは言えないのですが、まずは川名ありきだったのではないかと推測しています。

山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」に、次のような記述を見かけました。

 北侮道河川課の調べでは、マウレセプとは「小さい川の集まってできた広い処」の意味だと地元の伝承がある由。よく調べてみたい。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.88 より引用)
これは「マウレセㇷ゚」の「マ」(あるいは「マウ」)を mo- と考えたもの……のようですね。興味深いのは「広いところ」という解釈が共通する点で、これは -sep を「広い」と考えたということでしょう。

sep 系の川名でもっともわかりやすいのが新冠町の「節婦」で、中流部で川筋がフォークの先のように枝分かれしているのが特徴的です。この特徴は丸瀬布川にも当てはまるので、-sep は「広い」と見て良いかと思われます。そして「マウレセㇷ゚」は「丸瀬布川」の特徴から名付けられた(丸瀬布駅周辺の地形に由来するものでは無い)可能性が高くなります。

「マウ」の正体は

松浦武四郎が「ハマナスの実」だとした maw については、現地に実在しないと見られることから、やはり否定的に見るしか無さそうです。maw には「息吹」という同音異義語があるため、「ハマナス」説を否定することは比較的容易と言えそうです。

ただ、ここで問題になるのが「レ」の扱いで、これを re として「三つの」とする解釈を良く見かけます。maw-re-sep をまとめると「息吹・三つの・広い」となりますが、凄まじく意味不明になってしまいます。

maw を「風」と解釈することもできますが、「風」を意味する語としては réra を使用するほうが一般的でしょうか。réramaw にはニュアンスに違いがあり、réra が自然現象としての「風」を指すのに対し、maw は「人為的に発生させた風」を意味するとのこと。

いくつかの辞書には「げっぷを出す」という意味の ikmawre という語が掲載されていて、田村すず子さんはこれを ik-maw-re で「(擬音)・呼気・(動詞形成)」に分解できるとしています。となると {maw-re}-sep で「{げっぷを出す}・広い」川、転じて「{息吹く}・広い」川と解釈できたりはしないでしょうか。

実際には丸瀬布川の谷に西からの風が良く流れ込んだ……と言ったところなのかと思うのですが、知里さんの言う「古い時代のアイヌ」は「川を人間同様の生物と考えていた」ため、この風を「川の息吹」と見立てたのではないか……と考えてみました。

知里さんの「河川擬人化」の考え方を厳密に解釈すると、「河口」は「尻」と捉えたほうが良いのかもしれませんが……。

オロピリカ川

oro-pirka-{mawresep}
その中・良い・{丸瀬布川}
(典拠あり、類型あり)
遠軽町丸瀬布上丸のあたりで丸瀬布川に合流する南支流です。明治時代の地形図には「オロピリカマウレセㇷ゚」という名前の川が描かれていました。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 オロピリカ川 丸瀬布川の右支流。アイヌ語「オロ・ピリカ・マウレセㇷ゚」(川の中の歩きよいマウレセㇷ゚)の後略。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.485 より引用)
oro-pirka-{mawresep} で「その中・良い・{丸瀬布川}」と考えて良さそうですね。オロピリカ川の南支流である「炭山川」を遡った先には「辺留加峰へるかみね」という山(同名の二等三角点あり)がありますが、この山名ももしかしたら pirka が訛ったものかもしれませんが……(確証は無いので、もしかしたら全然違うかもしれません)。

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2022年4月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (924) 「武利意平・牟利以・無類岩山・武華留邊」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

武利意平(むりいだいら)

{mun-ri??}
草・高い
(?? = 典拠未確認、類型あり)
武利川の「武利ダム」の南(上流側)に、かつて森林鉄道で使用された蒸気機関車「雨宮21号」が動態保存されている「丸瀬布森林公園いこいの森」があるのですが、その 1 km ほど西の山の上に三等三角点「武利意平」があります。

川の名前は「武利川」なので、「武利」の「意平」なのかと考えたくなりますが、古い地図では武利川を「ムリイ」あるいは「ムリー」と描いているので、おそらく「武利意」の「平」と理解すべきなのでしょう。地名・川名の「武利」は mun-ri で「草・高い」と解釈できる可能性が高そうなので、「武利意平」の「武利意」も mun-ri ではないかと考えたいです。

問題は「平」をどう解釈するかで、「三等三角点の記」には「むりいだいら」とルビが振られていました。「平」は pira で「」と解釈できますが、素直に「平地」と解釈することもできます。「武利意平」三角点の東には崖があるように読み取れますが、西側には「大平」(丸瀬布大平)の平地が広がっています。

「三等三角点の記」は(比較的新しい)1966 年のものなので即断はできませんが、この「平」はおそらく西側の平地に由来すると見て良いのでは無いでしょうか。

牟利以(むりい)

{mun-ri?}
草・高い
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
武利川の東支流である「トムイルベシベ沢」と、同じく東支流である「七ノ沢」の間の標高 1052.3 m の山に存在する二等三角点の名前です。出オチ感が凄いのはスルーの方向で……。

明治時代の地形図では「ムリイ」あるいは「ムリー」と描かれていた「武利川」は、大正時代に測図された「陸軍図」では「武利川」という漢字表記になっていましたが、図によっては「武利」に「ムリイ」というルビが振られていました。

この山は(地形図で見た限りでは)なかなかの秀峰に見えますが、現在も地理院地図には山名が記されていない「無名峰」なのでしょうか。三角点の名前は川名の「ムリイ」から拝借したものと思われます。

「ムリイ」には「武利」あるいは「武利意」という字が当てられたと考えられますが、「牟利以」という字を当てる流儀もあったのかもしれません。やがて勇壮な印象を与える「武利」という字面が好んで使われるようになり、「牟利以」表記は廃れていった……というストーリーを考えたくなりますね(現時点では何の根拠もありませんが)。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

無類岩山(むるいいわやま)

{mun-ri}-iwa???
{武利}・神聖な山
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
武利川上流部の西支流「十四ノ沢」を遡った先にある標高 1613.4 m の山の名前で、同名の三等三角点があります。「無類の岩山」とは、他とは比べ物にならないくらいの岩山なのかと考えたくなりますが……。

ただ、武利川周辺の三角点をチェックしてみたところ、武利川源流部の北西に「武利むりい岳」と呼ばれる標高 1876.3 m の山があり、この山の一等三角点が「無類むるい山」という名前であることに気づきました。

しかも「武利岳」の南西を「ムルイ沢」という川が流れていました。

「無類山」が「武利岳」ということになると、「無類岩山」も「武利岩山」である可能性が高くなります。そしてこの「岩」も「平」と同じくアイヌ語では少し踏み込んだ解釈ができる語で、iwa を「神聖な山」と解釈できる場合もあるとのこと。知里さんの「──小辞典」には次のように記されていました。

iwa イわ 岩山; 山。──この語は 今は ただ 山の意に 用いるが,もとは祖先の祭場のある神聖な山をさしたらしい。語原は kamuy-iwak-i(神・住む・所)の省略形か。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.38 より引用)
この考え方からは、「無類岩山」は {mun-ri}-iwa で「{武利}・神聖な山」である可能性もゼロではない……ということになります。

地形図では「無類岩山」の頂上周辺に崖が存在するように描かれているので(「武利岳」も同様ですが)、単に武利川流域の岩山……という可能性も十二分にあるという点には注意が必要です。

武華留邊(むかるべ?)

{muka}-ru-pes-pe
{無加川}・道・それに沿って下る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
武利川の東支流である「七ノ沢」と、同じく東支流である「チャチャナイ川」の間に標高 1078.1 m の山が聳えていて、頂上(だと思われる所)に「武華留邊」という名前の三等三角点が設置されています。

この三角点の「点の記」は 1919 年のもので、「所在」欄には「俗稱 ムカルベシベ」との記入がありました(「稱」は「称」の旧字です)。「ムカルベシベ」は {muka}-ru-pes-pe で「{無加川}・道・それに沿って下る・もの(川)」と解釈できそうですね。

「ルベシベ」は「峠道」を意味しますが、本来は川の名前です。よって「ムカルベシベ」も山の名前ではなく川の名前と考えるべきでしょう。この山の周辺で ru-pes-pe と呼ぶのが相応しそうな川は「七ノ沢」と「十三ノ沢」あたりですが、「急勾配を許容し短距離を優先する」というアイヌの流儀を考慮すると「七ノ沢」のほうがより ru-pes-pe に相応しいような気がします。

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2022年4月8日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (264) 「絵本とカラスの剣淵町」

剣淵町に入りました。カントリーサインに描かれているのは本とカラス……に見えます。このカラスはもしかして、いや、もしかしなくても「美羽烏神社」や「ビバカラススキー場」の「美羽烏」でしょうか?
「美羽烏」はアイヌ語の pipa-kar-us に由来すると考えられるのですが、この pipa(沼貝)は外見が黒いので「カラス貝」と呼ぶ流儀もあるとか。そして kar-us は「取る・いつもする」ですが、こちらは「カルス」なので、発音が「カラス」っぽいんですよね。pipa-kar-us という地名を二分割すると、全く異なる流儀で「カラス」に近づく……というのは、偶然のなせる業ですが面白いですよね。

剣淵町には「絵本の館」という絵本専門の図書館があり、そこから派生して道の駅「絵本の里けんぶち」ができた……ということでしょうか。

2022年4月7日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (263) 「士別と標津を区別する」

士別市内の国道 40 号を南に向かいます。多寄のあたりでは基線が真北(だと思う)を向いていましたが、士別の市街地は北に向かう基線がやや西偏しているようです(磁北でも無さそう)。
現在は「道の駅 侍・しべつ」のある交叉点から 3/5 区画ほど進んだところで道道 297 号「士別停車場線」が分岐していました。この道道も「停車場線あるある」で、路線延長が 0.4 km しか無いとのこと。

2022年4月6日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (262) 「多寄と言えば『STAP』」

士別市に入りました。このカントリーサインは「めん羊」なのでしょうね。「綿羊」であれば「めん」をひらがなにする必要が無いので、おそらく「緬羊」なのだと思いますが……。ミャンマー(ビルマ)の漢字表記が「緬甸めんでん」ですが、これは関係ないですよね?
士別市の北部、旧・風連町に接する一帯はかつての「多寄たよろ村」で、1909 年に発足した多寄村は 1938 年 2 月に「風連村」に改称した後、1938 年 4 月に風連村から「多寄村」が分離したとのこと。名寄と多寄は音が似ていてややこしいですが、歴史的経緯もややこしかったんですね。

2022年4月5日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (261) 「赤くて黄色いアレ」

国道 40 号を南下すると、赤くて黄色いあの看板のお店が……。このカラーリングもシェルと出光の統合で見納めになるのでしょうか?
「名寄美深道路」の道路情報表示板が見えます。この先を右折したところに「名寄 IC」があるのですが、名寄 IC から南に向かう区間は未開通なので、今回はスルーするしか無さそうです。

2022年4月4日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (260) 「軸重 20 t 超」

北海道立サンピラーパークの「サンピラー交流館」を後にして苫小牧に向かいます。この先の十字路っぽいところをうっかり直進してしまうと「なよろ健康の森」に戻ってしまうので……
ささっと左折すると、前方に JR 宗谷本線の踏切が見えてきます。この交叉点をうっかり北に向かってしまったので、随分と遠回りを強いられたのでした(その代わりに「フィンランド ロヴァニエミ市」のオブジェを見ることができたのですが)。

2022年4月3日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (923) 「トムイルベシベ沢・アチャポナイ川・チャチャナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トムイルベシベ沢

tomo-{ru-pes-pe}??
真ん中の・{峠道}
(?? = 典拠未確認、類型あり)
湧別川の南支流に「武利川」があり、中流部の「丸瀬布上武利」には「丸瀬布温泉」があります(しばらく誤解していたのですが、「丸瀬布温泉」は「丸瀬布川」沿いにあるわけでは無いのですね)。「丸瀬布温泉」から更に道道 1070 号「上武利丸瀬布線」を遡ったところで「上武利林道」が南東に分岐していて、「上武利林道」沿いに「トムイルベシベ沢」が流れています(武利川の東支流ということになりますね)。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 トムイルベシベ沢 湯の山峠から流れ,武利川に入る小川のある沢。「トムイ」の意味不明。「ルペㇱペ」は越路の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.485 より引用)
残念ながら「意味不明」とありますが、道東には似たような川が少なくとも二つあり、それらの意味を読み解くことで「トムイルベシベ沢」の意味も理解できるかもしれません。

足寄の「トメルペシュペ沢川」

足寄町には「トメルペシュペ沢川」という川があり、この川については鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」に次のように記されていました。

 十勝のアイヌ伝説(平原文庫第 2 巻) によると「この川の上流は足寄川に出る山道があって、この道から釧路の野盗が攻めて来ることがあった。それでトミ(戦争)ルベシベ(通路)といわれている。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.194 より引用)
気がつけば思いっきり孫引きになっていますね(すいません)。もう少し続きがありまして……

トゥミ・ルペㇱペ(tumi-ru-pes-pe 戦の・越えて行く路のついている川)の意である。ちなみにこの付近は「トメルベシベチャシ(とりで)」や「トプシチャシ」がある。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.194 より引用)
この「戦争」説については、山田秀三さんも次のように記していました。

トゥミ・ルペシペ(tumi-rupeshpe 戦の・峠道沢)の意らしい。他地方からの軍勢が侵入して来た,あるいは逃げて行った沢で,他地にもある名である。アイヌの種族間闘争を伝承する地名が諸地に残っているのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.301 より引用)
しかし、意外なことに更科源蔵さんは次のように考えていたようです。

語源はトメ・ルペㇱペで、トメヘの越路であるがトメがトミであれば戦となり、厚岸軍が攻めて来た路という伝説もあるが、急に信じられない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.249 より引用)
「釧路の野盗」が「厚岸軍」に化けてしまっていますね。厚岸グルメパークのあのお兄さんが大量に分身して攻めてきたとかだったら面白いのですが、さすがに無理がありそうです。そもそも足寄は「釧路アイヌ」のエリアだったという話もあるので、「トメルペシュペ沢川」を「釧路の野盗」が攻めてくるというのもちょっと不思議な話です。実際に「チャシ」があると言われると「戦争」の存在を否定できないのも事実ですが……。

網走の「トモルベシュベ川」

もうひとつの「似たような川」が網走市の「トモルベシュベ川」で、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」では次のように記されていました。

(41) トモルペシペ (Tomo-rupespe) ル・ペㇱ・ぺは「路が・それに沿うて下つている・者」の義で,山を越えて向うの土地へ降りて行く路のある沢を云う。トモとは何かの中間の義で,ここではノトロ湖とアバシリ湖の中間を云う。そこでトモルペシペは網走湖との間に山を越えて降りて行く路のついている沢の義となる。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.278-279 より引用)※ 原文ママ
「トモルベシュベ」は tomo-{ru-pes-pe} で「真ん中の・{峠道}」と解釈できるとのこと。これだと厚岸グルメパークのお兄さんの存在を意識しなくても良いので助かる……ではなくて理解しやすいですね。

閑話休題

ということで、武利川支流の「トムイルベシベ沢」についても、網走の「トモルベシュベ川」と同様に tomo-{ru-pes-pe} ではないかと考えています(tomo-e-{ru-pes-pe} で「真ん中・そこに・{峠道}」という解釈は可能かどうか……)。問題はどの辺が tomo なのか……というところです。

トムイルベシベ沢を遡ると、北見市留辺蘂町の「士気連別川」の源流部に出ることができます。また士気連別川に出る代わりに峠の手前で東に向かうと「生田原川」の源流部に出ることができます。峠道としては有用な川筋だったと言えそうでしょうか。

これは反則手なのですが、武利川の東支流を「トムイルベシベ沢」を中央に据えて考えると(ぉぃ)、「大きな峠道」としては他に「三の沢」と「七ノ沢」が挙げられるでしょうか。武利川の東支流の「三つの峠道」の中で真ん中に位置したので「真ん中の・峠道」と言う認識だった……と言ったところではないかと。

この言い回しはできれば使いたく無かったのですが、ちょっと無理やりな感じですいません……。

アチャポナイ川

achapo-nay??
おじ・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
「トムイルベシベ沢」の上流部で東から合流する支流です。「上武利林道アチャポナイ線」がアチャポナイ川沿いを通っているようです。

「アチャポナイ川」という川名からは achapo-nay で「おじ・川」と考えるしか無いでしょうか。achapoacapo)は「伯父」「叔父」のほかに「義父」を意味する場合もあるほか、千島アイヌ語では「翁」を意味する場合もあるとのこと。

全体的な傾向で言えば「『実父』の傍流」と言ったニュアンスが感じられます。地形に当てはめて考えてみると「本流に負けず劣らない支流」と言ったところかもしれませんが、実際の「アチャポナイ川」は「よくある支流」の規模で、本流とは比べ物にならないと言うのが正直なところでしょうか。

ただ「トムイルベシベ沢川」自体を比較の対象から外せば、南隣の「4の沢川」が「父親」で、その「父親の川」の隣の川が「おじの川」だ……と言えるのかもしれません。

チャチャナイ川

chacha-nay??
おじいちゃん・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
道道 1070 号「上武利丸瀬布線」で武利川沿いを遡ると、起点からそれほど遠くないところにある「柳橋」の近くで「チャチャナイ川」が東から武利川に合流しています。

chacha-nay は「おじいちゃん・川」と解釈できます。chacha は国後島の「爺爺ちゃちゃ岳」が有名ですが、知里さんの「──小辞典」には次のように記されていました。

chácha ちゃチャ もと老爺の意。地名では onne(年老いた,古い)の意を表わすらしい。~-kotan 【C】 [じじい・村](大昔から住み親しんで来た村)。~-nupuri 【C (クナシリ島);H 北(シレトコ半島)】[じじい・山](大昔から崇拝して親しんで来た山)。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.13 より引用)
ただ、「柳橋」の近くの「チャチャナイ川」を見た場合、他の支流と比べて特別視できるところがあるかと言われると……。似た規模の東支流が 3 つ並んでいて、その中では最も奥から流れているとも言えるので、そのことを指して「おじいちゃんの川」と呼んだ、と考えることはできるかもしれません。

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2022年4月2日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (922) 「ラウネナイ川・武利」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ラウネナイ川

rawne-nay
深い・川
(典拠あり、類型多数)
JR 石北本線の旧白滝駅(跡)の北(300 m ほど離れています)を流れる川の名前です。この「旧白滝」という駅名はこのあたりの地名である「旧白滝」に由来するもので、廃止されて現在の「白滝駅」に移動した……という訳ではありません。

このあたりは「13号沢川」や「15号沢川」などのナンバリングされた川名や、「神林沢川」のような人名由来?のものがあるほか、「パーライト沢川」という謎の(鉱物由来?)の川名もあったりするので、アイヌ語由来の川名はむしろ珍しい部類に思えてきます。

明治時代の地形図には「ラウ子ナイ」として描かれていました。rawne-nay で「深い・川」だと考えられます。rawne は「水が深い」という意味ではなく「両側が高い」と言うことで、rawne-nay は深く切り立った谷川であることが多いのですが、地形図で見た限りでは、他の川(「十号沢」や「幌加湧別川」など)とそれほど変わらないような気も……。

もっとも旧白滝駅周辺に限定して見た場合、「ラウネナイ川」は「13号沢川」と「15号沢川」の間を流れているのですが、「13号沢川」や「15号沢川」と比べると明らかに「深い川」と言えそうな気もします。いくつかある川のなかで「(比較的)深い川」、というニュアンスだったのでしょうね。

武利(むり)

mun-ri?
草・高い
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「武利川」は丸瀬布の市街地の南で湧別川に合流する川で、武利川の流域の地名が「武利」(現在は合併に伴い「丸瀬布武利」)です。武利川は湧別川の支流の中では五本の指に入る規模の川でしょうか。

「テンキグサ」説

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ムリイ」という名前の川が描かれていました。また戊午日誌「西部由宇辺都誌」にも次のように記されていました。

また過て
     ム リ イ
左りの方相応の川なりと。此川また峨々たる山間に入るよし也。其名義は浜に有ムリチといへる草多く有るが故に号ると。葉は麦の如く蓆ものに織に用ゆ。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.266 より引用)
「海岸に自生する『ムリチ』と言う草が多いから」だと言うのですが、丸瀬布の山中に「海岸に自生する草」が多いというのは変ですよね。ただ永田地名解も似たような解を踏襲していて……

Muri-i   ムリイ   ムリ草アル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.460 より引用)
「『ムリ草』が多いので」とのこと。とても残念なことに「ムリ草」についての補足は見当たりません。

山田秀三さんは永田地名解の解釈に次のような疑問を呈していました。

名詞の後に —i(処)と語尾がつかない。たぶんムリの語尾にアクセントがあってムリーと聞こえたのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.187 より引用)
確かにそうですね。そして「ムリ」については……

ムリ(muri, murit)は海浜に生える「おてんき草」だといわれるが,内陸の地名にもよくこの名が出て来る。植物に詳しい方に調べていただきたい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.187 より引用)
山田さんの言う「おてんき草」は「テンキグサ」あるいは「ハマニンニク」と呼ばれる草のことで、知里さんの「植物編」には次のように記されていました。

§ 392. テンキグサ ハマニンニク Elymus mollis Trin.
(1) murit(mu-rit)「ㇺ里ッ」 莖葉 《幌別》
  注 1.──文獻にわ次の様に出ている。
     『ムリ』《A》《B》
     『ムーリ』《鳥居龍藏,千島アイヌ,pp. 45, 193》
  注 2.──北海道の漁村でわ,和人も「ムリッチ」とゆう。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.224 より引用)※ 原文ママ。但し「里」は「り」の変体仮名
ということで「ムリ草」は「テンキグサ」(ハマニンニク)であると認識されていたようですが、Wikipedia の「テンキグサ」には次のようにあります。

海岸の砂地に生える。北日本の海岸にはもっとも普通に見られるものである。北海道では砂丘の上面に広く生育するが、分布域の南の地域では砂浜の汀線に近い部分にだけ生育が見られる。
(Wikipedia 日本語版「テンキグサ」より引用)
やはり「海岸の砂地に生える」とあります。海岸から遠く離れた川の名前と考えるのは無理がありそうな……。

「草・高い」説

山田さんの「北海道の地名」に戻りますが、次のような解釈もできるのではとのこと。

 なお近文のシアヌレ媼にこの種地名を尋ねたらムン・リ(mun-ri 草が・高い)と思って来たがといわれた。確かに一つの意見である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.187 より引用)
「確かに一つの意見」ですが、正直なところ他にそれらしい解釈が見当たらないという印象も……。mun-ri で「草・高い」と考えて良いのでは、と思われます。

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2022年4月1日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (259) 「フィンランド ロヴァニエミ市」

名寄のカーリングホールを目指したものの、踏切を渡ったところで目的地を見失ってしまい、「なよろ健康の森」の敷地内に迷い込んでしまいました。駐車場が見えますが、ここはどうやら「トムテの森キャンプ場」の駐車場のようです。
駐車場の西隣は遊具が並ぶ公園のようです。カーリングホールらしい建物は見当たりません。