2025年11月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1303) 「ヌッカ・碧蘂・ペラリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヌッカ

nupka
野原
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
静内駅前」と「農屋」の間を結んでいた道南バス「御園線」のバス停名です。この「御園線」は残念ながら 2024 年 9 月末で廃止されてしまいましたが、その後 2024/10/15 から「定時定路線乗合ワゴンの実証実験」を継続中とのこと(当初は 2025 年 3 月末までとされていましたが、現時点では 1 年間の延長が決まっているみたいです)。

この乗合ワゴンは旧・道南バス御園線のバス停で乗降する運用とのことで、要は現在も「ヌッカ」バス停(のようなもの)が存在する……ということになりますね。

北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川名・地名が見当たりませんが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヌフカ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

また西岸
     ヌ ブ カ
西岸平野也。其上に樹木有。其名義は芒等の有る野をさして云也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.578 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Nupka   ヌㇷ゚カ   野
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.259 より引用)
地名アイヌ語小辞典』(1956) にも nupka は「原野;野原」とあるので、「ヌッカ」は nupka で「野原」と見て良さそうですね。「ヌッカ」は「遠佛村」の一部となり早々と消え失せた地名かと思われたのですが、バス停の名前としてひっそりと生き延びていたということになりますね。

碧蘂(るべしべ)

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
静内川東岸、ペラリ川の南の段丘上に「碧蘂」という名前の三等三角点(標高 127.3 m)が存在します。「三角点の記」には読みが記されていませんが、このあたりはかつて「碧蘂村」が存在し、これは「るべしべ──」と読ませていたとのこと。

「碧」の字は音読みでは「ヘキ」で、訓読みでは「あお(い)」あるいは「みどり」とされます。そのため「碧蘂」をどう拡大解釈すると「るべしべ」になるのか不明ですが……。

北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「碧蘂」と描かれていました。かつての「碧蘂村」は 1871(明治 4)年から 1909(明治 42)年の間に存在し、その後静内村(→静内町)の大字となったものの、1934(昭和 9)年に字豊畑に改められたとのこと。


戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

また並びて東岸
     ルベシベ
相応の川也。其名義は此川すじよりしてモンヘツえ山越道有る故に号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.579 より引用)
『北海道実測切図』にも「ルペㇱュペ」という川が描かれていましたが、これは現在の「ルベシベ沢川」のことでしょうか。この川を遡ると捫別川筋に出ることができるので、松浦武四郎が「モンヘツえ山越道有る」と記した通りということになりますね。ru-pes-pe で「路・それに沿って下る・もの(川)」と見て良さそうです。

「碧蘂」という難読地名は 1934(昭和 9)年に消されてしまいましたが、1915(大正 4)年に選点された三角点の名前として、これもひっそりと生き延びていたということになりますね。……ん? 道道 1025 号「静内浦河線」の静内川の橋が「碧蘂橋」とのこと。なんだ、普通に現役の地名(橋名)でしたね。

ペラリ川

pe-rar-i?
水・潜る・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「碧蘂」三等三角点の北を流れる川で、「ペラリ川」の北隣を「パンケペラリ川」も流れています。これらの川を遡った先には「ペラリ山」があり、その頂上付近には「比裸騾山ぺららやま」一等三角点(標高 718.3 m)が存在します。

……あ。「ペラリ川」と「パンケペラリ川」ですが、静内川の河口から見て奥(山側)を流れる川が「パンケ──」(川下側の──)ですね。『北海道実測切図』(1895 頃) には、現在の「ンケペラリ川」の位置に「ンケペラリ」と描かれていますが、この「ペ」が「パ」に誤読された可能性があるかもしれません。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、川下側に「ハンケヘラリ」、川上側に「ヘンケヘラリ」が描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

過て
     バンケベラリ
東岸崖の下に小川有。其左右は樹木多し。モンヘツより余は此処え下り来る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.583-584 より引用)
まだ続きもあり……

其向に
     ベンケヘラリ
山の崖の下に有。東岸。其名義不解也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.587 より引用)
ただ、残念なことに「其名義不解也」とあります。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Panke perara   パンケ ペララ   下ノ水戰フ處「ペララ」「水惡シ」トモ譯ス
Penke perara   ペンケ ペララ   上ノ水戰フ處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.253 より引用)
「水の戦う処」とは一体……? 「水悪し」ともありますが、どうやら rara で「なめてかかる」「馬鹿にする」「見下げる」と言った意味があるとのこと。微妙にニュアンスがズレてる感じもありますが……。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 パンケペラリ川 ペラリ山に発してペラリ地区で静内川に入る左支流。アイヌ語で川下にある崖の高い川の意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.568 より引用)
これは pira-ri で「崖・高い」ということでしょうか。ri-pira で「高い・崖」という地名はちょくちょく目にしますが……。

「水・潜る・川」?

さてどうしたものか……という話で、以前pe-ran-i あたりかなぁと考えたこともありました。「ペラリ川」は河岸段丘を深く掘り下げた位置を流れていて、このことから「崖の高い川」という解も導き出されたのだと思われるのですが、あるいは pe-rar-i で「水・潜る・もの(川)」とも読めるなぁ……ということに気づきました。

この rar(潜る)は、素直に「伏流する」と捉えることも可能ですが、「ペラリ川」(と「パンケペラリ川」)については「段丘を掘り下げて流れる」ことを形容したネーミングかもしれません。

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