2016年3月31日木曜日

札沼線各駅停車の旅 (2) 「桑園・八軒・新川・新琴似・太平・百合が原」

札幌発北海道医療大学行きの 595M は、定刻の 16:20 に札幌を発車しました。3 分ほどで次の桑園(そうえん)に到着です。

桑園駅(S02)

桑園駅の前身は 1913 年に開業した仮乗降場「競馬場前」で、札幌競馬が開催されている時だけ客扱いをしていたのだそうです。その後 1924 年に晴れて駅に昇格、1934 年には桑園から石狩当別まで札沼線(札沼南線)が開通しています。

地図を見ていて気がついたのですが、北大から JR に乗車する場合、場所によっては桑園駅のほうが近いケースもあるみたいですね。この時は土曜日だったので、大学生の姿を見ることは無かったのですが、それなりの数のお客さんが桑園からも乗車してきていました。

八軒駅(G03)

桑園を出発すると、札幌競馬場のあたりまで函館本線と並走した後、中央卸売市場のあたりで函館本線と別れて、札沼線は北に向かいます。「八軒」という地名は「二十四軒」と同様に、山鼻地区からこのあたりに移住してきた「八軒」の移住者に由来するのだそうです。

今では住宅地が広がる札幌の北部ですが、元来このあたりは泥炭地で、決して住みよい土地では無かった……というのはご存じの方も多いと思います。未開の土地を開拓すべく、荒野の七人……ならぬ「八軒」が送り込まれていたのですね。

ちなみに「八軒駅」の開業は JR に移行してからの 1988 年 11 月とのこと。同日に桑園駅の高架化が完成しています。

新川駅(G04)

札幌から八軒までは単線でしたが、八軒からは複線となります。この辺の構造が京都市内の山陰本線(嵯峨野線)と良く似てるんですよね……。

新川駅の開業は 1986 年のことで、当初は「新川臨時乗降場」だったのだそうです。開業半年後に国鉄が民営化され、同時に駅に昇格しています。

駅名の「新川」は、このあたり一帯の地質改良に大いに貢献した琴似川の新川運河に由来するものと思われます。かつての泥炭地も、今はすっかり建物で埋め尽くされていますね。

新琴似駅(G05)

新川から 3 分ほどで、次の新琴似です。新琴似駅は 1934 年に札沼南線が開通した時から設置されている歴史の長い駅です。

その後、1964 年に札幌市電の「鉄北線」が「新琴似駅前」まで開通したため、新琴似は札幌市電との乗換駅になりました。ただ、鉄北線自体が 1974 年に全線廃止されてしまったため、乗換駅として機能したのは僅か 10 年に留まっています。

ちなみにこの「鉄北線」ですが、世界的にも珍しい「路面ディーゼルカー」が走っていました。液体式のトルコンを備えた 2 段変速の車両は、なかなか軽快に走っていたのだとか……。

札沼線の高架区間は新琴似までで、ここから先は地平区間となります。

太平駅(G06)

新琴似から 3 分ほどで、次の太平です。段々書き出しがテンプレ化してきましたね(汗)。

太平駅の開業も新川駅と同じく 1986 年で、当初は「太平臨時乗降場」だったのだそうです。開業半年後に国鉄が民営化され、同時に駅に昇格しています。
高架から地上に変わったというだけで、雰囲気はそこそこ変わるものですね。

百合が原駅(G07)

丘珠空港の滑走路から 600m ほど北西に「百合が原公園」という公園があります。空港の西側はびっしりと建物で埋め尽くされているのですが、東側や北側は畑が広がっていて、昔の雰囲気を今に伝えていますね。

この「百合が原駅」は、百合が原公園で 1986 年に開催された「全国都市緑化フェア『'86さっぽろ花と緑の博覧会』」用の臨時乗降場として開設されたものなのだそうです。ただ、博覧会の終了後も臨時乗降場として営業を継続して、翌年の国鉄民営化の際に駅に昇格しています。

札幌近郊の駅は、1980 年代になってから急速にその数を増やしていますが、札沼線(あ、学園都市線か)も例外では無いようですね。

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2016年3月30日水曜日

札沼線各駅停車の旅 (1) 「札沼線の数奇な歴史」

札沼線は、札幌(厳密にはお隣の桑園が起点ですが)から新十津川までを結ぶ JR 北海道の鉄道路線です。最近は「学園都市線」という名前が全面的に使われているため、「札沼線」という名前は忘れ去られつつありますが、もともとは「幌」と「石狩田」の間を結んでいたため「札沼線」という名前がつけられたのでした。

建設は石狩沼田から

札沼線の歴史はなかなか数奇なもので、実は最初に開通したのが(既に廃止されている)石狩沼田-新十津川(当時は「中徳富」)間でした(1931 年)。その後 1934 年に新十津川(中徳富)-浦臼間が開通し、その翌月に桑園-石狩当別間が開通しています。桑園-石狩沼田間が全通したのが翌年の 1935 年のことでした。

不要不急線

しかしながら、全線開通から僅か 8 年後の 1943 年には、石狩月形から石狩追分間が「不要不急線」として休止の憂き目に遭います。更に翌 1944 年には石狩当別から石狩月形と石狩追分から石狩沼田も休止されてしまいます。

遅すぎた復活

戦争が終わり、もっとも開通が遅かった石狩当別-浦臼間が 1946 年に復活後、遅れること 7 年で浦臼から雨竜の間が復活、残された雨竜と石狩沼田の間が復活するのは 1956 年まで待たされることになりました。13 年間の休止は鉄道を利用する習慣を奪うには十分だったようで、復活後の利用は伸び悩み、1968 年には「赤字83線」に指定されてしまいます。

赤字83線

「赤字83線」は、赤字ローカル線の切り捨ての嚆矢となった取り組みでしたが、地元自治体などの反発が強く、実際に廃止された路線・区間は 12 路線 13 区間に留まりました。ただ残念なことに、札沼線の新十津川-石狩沼田間は「赤字83線」で実際に整理対象となってしまった数少ない例のひとつとなってしまいました(1972 年に廃止)。

札沼線各駅停車

現在の札沼線は、石狩当別から新十津川の間が閑散とする一方で、札幌から石狩当別の間は札幌の市街地が膨張を続けているおかげで需要も伸びていて、2012 年にはついに電化も果たしています。では、同一の路線でありながら二面性が際立つ「札沼線」に乗って旅をしてみましょう。

「スーパー北斗 7 号」で札幌駅に到着したのが、定時よりも 4 分ほど遅れた 16:03 でした。札沼線……あ、学園都市線ですね……の普通電車は 15~20 分に 1 本の間隔で発車します。次の電車は……あれ?
ふーむ、16:12 に上野行きのカシオペアが運転されるのですね。これに乗ってしまいたい気もしますが、もちろん切符も持っていませんし、札沼線にも乗れないので却下です。

次の「北海道医療大学行き」は 16:20 とのこと。「北海道医療大学」駅は石狩当別の次の駅で、電化区間の終点です。「あいの里公園」や「石狩当別」までは一時間に数本の列車が出ていますが、北海道医療大学から先は「数時間に一本」になるので注意が必要です。

北海道医療大学へ

「北海道医療大学行き」の電車が入線してきました。これは快速用の電車ですよね。
車内には転換クロスシートが並んでいます。ドアと客室の間にデッキがあるのが北海道っぽいですよね。
北海道医療大学行きの電車は、定時の 16:20 に札幌を出発しました。次は桑園です。

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2016年3月29日火曜日

札沼線と急行「はまなす」の旅 (6) 「そして札幌に到着」

札幌行きの特急「スーパー北斗 7 号」は、伊達紋別駅に到着しました。…… 5 分ほど遅れているような気もしますが、まぁ、気にしません(汗)。
それはそうと、「ようこそ 北の湘南」というのはどういう意味なんでしょうね。確かに道内の中では湘南っぽい感じもしないでも無いですが。近くに火山湖もありますしね。

外来種は良くない!けど……

これは東室蘭に停車した時の写真だったでしょうか。
この素敵な色合いの花はルピナスでしょうか(ちょっと違うような気もしますが)。ルピナスは明らかに外来種なので、本来は北海道にはあるべきではない植物なんですが、この色合いが……好きなんですよねぇ(あからさまなダブスタの例)。

の・ぼ・り・べ・つ・と言えば

登別には 3~4 分ほど遅れて到着しました。1~2 分ほど回復したことになりますね。
の・ぼ・り・べ・つ・と言えば……
なんでしたっけ、この建物。

樽前・ロマエ(違)

左手に樽前山が見えてきました。等高線を見れば一目瞭然なのですが、とても粘度の低い溶岩でできた山のようですね。山というよりも盾というか、あるいは鍋の蓋のような形をしています。
今度は車両基地が見えてきました。間も無く苫小牧のようですね。
苫小牧には 4 分遅れで到着。残念ながら回復はうまくいかなかった感じです。
苫小牧からは千歳線に入ります。そして左側の車窓からはまともに日差しが差し込むという状態になってしまったため、車窓の撮影は一旦ストップです。

そして札幌に到着

新札幌を発車して、豊平川を渡ると、間も無く終点の札幌です。テレビ塔が見えてきました。
終点の札幌にも 4 分遅れで到着です。いや~、快適な旅でした。

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2016年3月28日月曜日

札沼線と急行「はまなす」の旅 (5) 「かにめし!」

札幌行きの「スーパー北斗 7 号」は長万部駅に到着しました。ホームでは何やら絶賛工事中のようですね。
ここもいつかは北海道新幹線の駅ができるのでしょうね。昔の名残で敷地が広いので用地取得は比較的楽そうですが、駅の南北に建物が密集しているので、多少の立ち退きは発生してしまうのでしょうか。

かにめし!

さて。お昼時に函館駅にいたにもかかわらず、特に弁当を買ったりすることなく列車に乗り込んだのは理由がありまして……。実は、函館駅でアテンダントのお姉さんにお弁当の準備を頼んでいたのですね。そうすると、できたてのお弁当が長万部で届けてもらえるというすばら!なシステムがあるのです。

というわけで、「かなやのかにめし」が届きました。さっそく蓋をあけましょう!
うひょぉぉぉ!(もう少しマシなリアクションは無いのか
蓋の裏に顔が見えるような気がするのは、きっと気のせいでしょう。

町村派は姿を見せず

「かなやのかにめし」を頂いている間に、列車は室蘭本線(海線)に入ります。
お食事のあとはデザートを、ということでバニラアイスを購入しました。
町村派への加入も覚悟したのですが、ふつーにロッテのアイスクリームでした。
町村派への加入を回避している間に、車窓には昭和新山が見えてきました。もうすぐ伊達紋別ですね。

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2016年3月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (328) 「ルスナイ・ヒトツ・ツケナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ルスナイ

rus-un-nay
獣皮・ある・沢
(典拠あり、類型あり)
換気扇と言えば、屋内の空気と屋外の空気を強制的に入れ替えてしまうため、どうしても冷暖房の効果が損なわれるという問題点がついてまわっていたのですが、三菱電機が開発した熱交換型換気扇はこの辺の問題を一気に解決した感がありますね。

さてルスナイです(お約束)。浦河町の元浦川沿いの地名で、同名の橋もあります。姉茶の北東、野深の東隣(川向う)にあたりますね。少し南側には同名の支流もあるようです。

では、今回は「北海道地名誌」から。

 (通称)ルスナイ ポロイワ山麓の元浦川左岸流域で水田が多い。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.577 より引用)
あー……。気を取り直して、戊午日誌「東部宇羅加和誌」を見てみましょうか。

また
     ルシュンナイ
右の方小川。其名義は両方とも高山有るによつて号るとかや。此川何もなきよし聞ける也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.468 より引用)
どうやら、もともとは「ルシュンナイ」という名前だったように思われますね。続いて永田地名解から。

Rush un nai  ルㇱュ ウン ナイ  獣皮ヲ乾ス澤 一名「ルー、シユム、ナイ」(路西川)
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.275 より引用)
ふむふむ。どうやら rus-un-nay で「獣皮・ある・沢」のようですね。永田方正は別解として ru-sum-nay で「道・西・沢」という考え方も出していますが、遡ると東に向かう川に対する名称としてはちょっと違うかなー、という感じがします。

ヒトツ

sittok-i
曲がり角の・ところ
(典拠あり、類型あり)
とある中小企業が、国内外の取引先を集めて創立ウン十周年パーティを開いた時のこと。社長さんが立食の場で海外の取引先を見つけては "One, please" という謎の一言をかけて回っていたのだとか。

「社長、"One, please" って一体どういう意味なんですか?」
「なんだね、キミは英語ができると聞いていたが、そんなこともわからんのかね。」

さて……(お約束)。浦河町ヒトツは野深集落の東側に位置しています。ちょうど元浦川が東側の山裾まで大回りをしているあたりですね。今回も「北海道地名誌」を見てみましょう。

 (通称)ヒトツ 地名の由来不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.577 より引用)
あー……。ただ、今回はもう少しだけ続きがありました。

大昔寛文年間から明治中期まで砂金採りが断続的におこなわれたところ。今は稲作農家が散在している。上野深つづきの元浦川右岸流域。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.577 より引用)
ふむふむ。砂金採りが盛んだったのですね。また、砂金絡みの話は戊午日誌「東部宇羅加和誌」にもありました。

七八丁も上るや
     シトチ(キ)
左りの方小川也。其名義は餅を喰しと云事也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.473 より引用)※ 注釈は引用元による
え、餅を食べたことに由来する……?(汗)

訳は此川の奥に金銀山が有りて、昔しは余程繁昌なしたる由なるが、其節には此処に餅を搗(つき)て熹(あぶ)りし爺有りしと。依て号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.473 より引用)※ 注釈は引用元による
……。「この川の奥に金銀の鉱山があって昔はとても繁盛していた」は良いのですが、「当時はここで餅をついてあぶっていた爺さんがいたから」というのはあまりにご都合主義が過ぎるといいますか……。ちなみに shito あるいは shitoki で「団子」「餅」あるいは「粢(しとぎ)」という意味があるとのことで、そこからの類推だと考えられます。

ちなみに、「東蝦夷日誌」にはこんな記録もありました。

爰(ここ)に馬を預け置、鍋一枚を以て行に、シトナ(西川)此水至て清冷にて鮭多しと。此澤にカネカルウシナイといふ寛文年間まで金を掘し跡多し。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.195 より引用)※ 注釈は引用元による
「カネカルウシナイ」というのは中々傑作な名前ですね。kane-kar-us-nay で「金・採掘する・いつもする・沢」だと思われるのですが、もちろん「カネ」は日本語の「金」のことですよね。

「ヒトツ」の話題にもどりますが、山田秀三さんの「北海道の地名」には次のようにありました。

松浦図では「シトチ」である。永田地名解は「シットキ。岬。直訳臂(ひじ)」と書いた。シットク「shittok(-i)」は「ひじ」で,川の曲がりかどをいう。それから来たものらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.347 より引用)
あー、なるほど。元浦川が大きく湾曲していることを指して sittok-i で「曲がり角の・ところ」という地名だったのですね。

それがシトチとなり,「ヒトツ」となったものであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.347 より引用)
なるほど、納得です。

では、冒頭の文に戻りましょうか(何故だ)。

「社長、"One, please" って一体どういう意味なんですか?」
「なんだね、キミは英語ができると聞いていたが、そんなこともわからんのかね。『ヒトツ、よろしく』じゃないか」
「……。」

お後がよろしいようで(汗)。

ツケナイ川

tuk(-oma)-nay
小山(・そこにある)・川
(典拠あり、類型あり)
昨日の記事で、山田秀三さんの「北海道の地名」から以下の文章を引用しました。

 野深の市街地はツケナイ橋を西に上った処でアイヌ系古老浦川タレさんの出身地という。そば屋が一軒あり,土地のそばをゆっくり味わった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.347 より引用)
「そば屋」の現況が気になる……という話は置いときまして、「ツケナイ橋」の所在が実は良くわかりません。ヒトツとベッチャリの間に「上野深橋」という橋がかかっているのですが、この橋のことでしょうか……。「ツケナイ川」はざるそばに対する重大な挑戦状を叩きつけているような名前ですが(どこがだ)、元浦川の支流・ベッチャリ川の北支流です。

どうにも意味がよくわからないなぁ……と思っていたのですが、戊午日誌「東部宇羅加和誌」にこんな記載を見つけました。

またしばし山間に上り行て
     トキヲマヘツ
左り方小川。其名義不解也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.475 より引用)
どう見ても「ツケナイ」とは別の川にしか見えないのですが、これが永田地名解ではこうなってですね……

Tuk oma nai  ト゚ク オマ ナイ  凸處ニアル澤
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.274 より引用)
そして oma が中略され、tuk-nay になったのではないかと。tuk(-oma)-nay で「小山(・そこにある)・川」だと考えられそうです。tuk の所在が少々謎ですが、あるいはツケナイ川がベッチャリ川と合流したところのすぐ西側にある、176.2 m の三角点がある山のことでしょうか。

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2016年3月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (327) 「荻伏・姉茶・野深」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

荻伏(おぎふし)

o-ni-us-i
そこに・木・ある・ところ
o-ni-us-i
川尻に・木・多くある・もの
(典拠あり、類型あり)
日高本線の絵笛駅の西隣の駅の名前です。ということで早速ですが「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  荻 伏(おぎふし)
所在地 (日高国)浦河郡浦河町
開 駅 昭和10年10月24日
起 源 アイヌ語の「オ・ニ・ウシ」(そこに木が多い所)、すなわち(森) から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.93 より引用)
ふむふむ。o-ni-us-i で「そこに・木・多くある・ところ」と読んだのですね。

ちなみに、永田地名解には次のようにありました。

Oni ushi  オニ ウㇱ  境標 昔ヨリ浦河三石兩場所ノ境界ナルヲ以テ標木ヲ立テタルヨリ此名アリ直譯其處ニ木アル處○今荻伏(オギフシ)村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.269 より引用)
ふーむ。「そこに木があるところ」を「標木」と解釈しましたか。割と珍しい解だと思うのですが、山田秀三さんの「北海道の地名」も見ておきましょうか。

荻伏 おぎふし
 浦河町海岸西端の地名,川名。明治29年図では元浦川の西海岸に東からポロ(大きい)・オニウシとポン(小さい)・オニウシの二川が海に入っている。現在前者が浜荻伏川,後者が無名川の称である。そのポンオニウシ(無名川)が浦河町と三石町の境である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.348 より引用)
あっ。現在の荻伏集落は元浦川沿いにあるので、てっきり元浦川あたりの新地名かと思ったのですが、もともとは現在の「浜荻伏」集落よりも北西の「浜荻伏川」あたりの地名だったのですね。山田さんが「無名川」とした川は、現在は「伏海川」という名前がつけられているようです。

 上原熊次郎地名考は「オニウシ。木の生ずと訳す。此処ミツイシ,ウラカワの境なりとて,双方夷人其往還の節,境界に流木など建しより地名になすといふ」と書き,永田地名解もこの説を書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.348 より引用)
ふーむ。永田地名解も随分と思い切った説を書いたものだな……と思ったのですが、どうやらオリジナルは上原熊次郎でしたか。場所の境というといかにも近代的ですが、「縄張り」と考えると納得できそうな気もします。

一方で、山田さんは次のようにも記していました。

ただし,一般の土地ではこの形なら「川尻に・木が・生えている・もの(川)」であった。ここも,もともとはその意であったのが,後に今のように解されたのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.349 より引用)
そうなんですよね。猿払村の鬼志別なんかは「川尻に──」のほうがしっくり来るのです。一方で道南の森町は「そこに──」の可能性もありそうな感じです。ただ、どちらにしても o-ni-us-i であることは間違い無さそうな感じです。意味は「そこに・木・ある・ところ」あるいは「川尻に・木・多くある・もの」の両論併記としておきましょう。

姉茶(あねちゃ)

ane-sar
細い・葭原
(典拠あり、類型あり)
荻伏駅から元浦川を少し遡ったあたりの地名です。早速ですが更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょうか。

 姉茶(あねちゃ)
 元浦川の上流の部落。アネは細い、チャは枝であるが、これだけでは地名にならない。前後の言葉が消えたのかもしれない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.85 より引用)
ふむふむ。何か謂われがありそうな雰囲気が漂ってきました。

続いては、山田秀三さんの「北海道の地名」から。

東蝦夷日誌はアネサラと書く。永田地名解は「アネ・サラ。細茅。姉茶(アネサ)村と称す」と書いた。浦川媼は細い萱が生えていた処だという。音だけでいえば「細い・葭原」とも聞こえる。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.346 より引用)
なるほど。もともとは「姉茶」で「アネサ」と読ませていたのが、漢字に引きずられて「あねちゃ」になってしまったということだったのですね。確かに ane-sar であれば「細い・葭原」となります。

戊午日誌「東部宇羅加和誌」には次のようにありました。

上りて
     ア子サラ
西岸、其名義は細長く尖りし蘆荻と云儀なり。本名ア子イシヤリの儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.466 より引用)
「本名ア子イシヤリの儀也」とありますが、確かに「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ア子イサラ」とあります。ane ではなくて ane-i だったようなのですが、{ane-i}-sar-i だと「{尖らせる}・葦・ところ」と言った感じでしょうか。

野深(のぶか)

nupka
原野
(典拠あり、類型あり)
浦河町姉茶の北側、元浦川の対岸にある集落の名前です。「ケバウ川」が流れていますね。

では、早速ですが更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。

野深(のぶか)
元浦川の上流の部落名。アイヌ語のヌプカ(原野)の意味。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.85 より引用)
なるほど。実に単純明快ですね!

ちなみに、戊午日誌には「ヌツホクシナイ」という川名が記録されていて、これは nup-pok-us-nay(野・しも・そこにある・川)ではないかとされています。このことから永田方正は「ヌㇷ゚ カ」を nupka ではなく nup-ka で「野・かみ」である、としていますが、確かに一理あるような気もします。

ちなみに、山田秀三さんは更科源蔵さんと同じく nupka 派のようでした。

 野深の市街地はツケナイ橋を西に上った処でアイヌ系古老浦川タレさんの出身地という。そば屋が一軒あり,土地のそばをゆっくり味わった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.347 より引用)
「ツケナイ橋」もなかなか気になりますが、これはまた明日にでも。そば屋が健在なのかどうかがとても気になりますね(随分と昔の話でしょうから、店を畳んでいても不思議は無いですが)。

あ、そば屋に気を取られて本題をまとめるのを忘れていました(どれだけそば屋が好きなんだ)。nupka で「原野」だと思われますが、あるいは nup-ka で「野・かみ」であるかも知れません。

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2016年3月25日金曜日

札沼線と急行「はまなす」の旅 (4) 「藤城線」

では、いざ「北の大地」へ!
……いや、既に「北の大地」に来ているような気もしなくもないけど。

藤城線!

函館を出発してから十数分で、車窓に高架の線路が見えてきました。北海道新幹線、ですよね?
そして、新幹線の高架よりも遥かに手前に、もう一つ線路が見えてきました。函館本線なのですが、函館本線がどんどん離れてゆく、ということは……
そう、我らが「スーパー北斗 7 号」は「藤城線」(通称)に入ったのでした。藤城線は上り勾配を緩和するための迂回線なのですが、渡島大野(=新函館北斗に改称予定)を経由しないので、北海道新幹線が開通したあとは「スーパー北斗」も藤城線を通らなくなります。2013 年に「函館~根室 各駅停車の旅」で通った時は渡島大野経由だったので、今回はじめて藤城線を経由したことになりますね。

大沼小沼、蓴菜(じゅんさい)沼

藤城線が本線と合流して、大沼駅が近づいてきました。左手に大沼ではなく「小沼」が見えてきました。小沼の向こうには駒ケ岳も見えますね。いやー、この辺りは景勝地だと聞いてはいましたが、本当に素敵な景色が続きますね!
沼の景色は色鮮やかで、その色合いもめまぐるしく変化し続けるので、車窓を眺めていても飽きることがありません。
函館本線は、駒ケ岳の西側を通るのが本来のルートでした。ただ藤城線と同様に上り勾配を抑えて輸送力を増強するために、後になって海沿いの「砂原線」が建設され現在に至っています。特急「スーパー北斗」は上り・下りともに距離の短い本線(大沼回り)を通ります。そして、今回のシートも山側ということで、どう考えても海が見えるはずは無いよなぁ……と思っていたのですが、
これは姫川駅から森駅に向かう途中だったでしょうか。進行方向左側の窓からも噴火湾が見えたんですよね。いや、だからどうしたという話でも無いのですが……(汗)。

心地よさはプライスレス

昨日の記事でも記しましたが、「スーパー北斗」のグリーン車にはアテンダントのお姉さんが乗務しています。ということで、
おしぼりサービスがあったり、
ドリンクサービスがあったりします。グリーン料金から見ると原価は微々たるものでしょうけど、安心感と心地よさはプライスレスですよねぇ。

あっ!

函館駅を出発して、およそ 40 分ほどで道南の要衝・森駅に到着です。ホームにはなぜか車掌さん?が出迎えてくれていたのですが……
あっ!(目が合ったらしい)

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2016年3月24日木曜日

札沼線と急行「はまなす」の旅 (3) 「スーパー北斗 7 号で」

函館駅 12:29 発の「スーパー北斗 7 号」で札幌に向かいます。
「そのうち無くなる」とわかっていると、つい色々とカメラに収めてしまいますね。
「北斗星」カラーの DD51 の姿も。あ、これは事実上の「はまなす」カラーでもありましたね。

とりあえず函新を(何故だ)

まだお昼ごはんを頂いていないのですが、ホームの「駅そばみかど JR 函館店」には「休店のお知らせ」の文字が。
そうかと思えば、こんな掲示も出ていたり。世知辛い世の中ですね……。
仕方がないので、とりあえず函新だけ買って……(なんでだ
……車内に向かいましょう。今回は(今回も?)緑色のマークのついた車両にしてみました。

JR 北海道のいいところ

このタイプの車両はシートが 1 列 + 2 列に並んでいるのですが、車両の前寄りは海側が 2 列で、後ろ寄りは山側が 2 列です。
右側(海側)が 1 列シートということは、ここは車両の後ろ寄りということになるのですが、実は……
今回のシートはちょうど 1 列 + 2 列と 2 列 + 1 列が入れ替わるところ(の真後ろ)でした。いや、別にだからどうだという話では無いのですけどね。

グリーン車は確かにそこそこ割高なんですが、シートはゆったりしているし、アテンダントのお姉さんも色々とサービスしてくださる(実はこれが結構貴重なんです)ので、お値段分の価値はじゅーぶんあると思います。何かと批判の的になる(袋叩きされている?)JR 北海道ですが、スーパー北斗とスーパーおおぞらのグリーン車のハイクオリティぶりは国内トップクラスだと思いますですよ、はい。

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2016年3月23日水曜日

札沼線と急行「はまなす」の旅 (2) 「0K219m00」

函館駅に到着して、真っ先に向かったのが「みどりの窓口」でした。実は、帰りの「はまなす」の指定券が確保できていなかったのですね。これは昨年 6 月の話ですが、当時すでに「はまなす」の指定席はなかなか確保できない状態になっていました。当日になるとキャンセルが出るらしい……と聞いていたのでそれに賭けてみたのですが、見事に(?)ふつーの指定席券をゲットすることができました(それも窓側)。いやいや、これは助かりましたね。

ということで函館駅の構内(改札を通る前)なんですが……。いやはや、これはなんとも殺風景な。
もうすっかり工事は終わっていると思いますが、どんな風になったのでしょうね。

改札機の上も「ヒロセ」のロゴが入った鉄骨が丸見えでした。札幌行きの「スーパー北斗 7 号」の発車まで、あと 34 分あります。

物語がはじまる、北海道新幹線。

「物語がはじまる、北海道新幹線。」の横断幕が誇らしげに掲げられています。もうすぐ「2015 年度末」ですね!
ところで、改札の中から駅務室を見ると、なぜか蒸気機関車の模型が飾ってあるのですが……。これって何か謂われがあるのでしょうか?

函館駅の 0 キロポスト

函館駅と言えば、函館から小樽経由で旭川まで伸びている「函館本線」の起点です。ということで、巨大な「0 キロポスト」(のオブジェ)がありました。
別の角度から見ると、ちょいと謎な数字が並んでいました。
色味を直しておきましょうか。左側の「0K219m00」が謎だったのですが、どうやらかつて青函連絡船の桟橋まで線路が伸びていた頃は、起点が今よりも 219m 奥にあった(=219m 手前に移動した)ということなのだとか。なるほどねぇ~
ちなみに、本物の 0 キロポストがこちらです。オブジェと同じく「0K219m00」の文字も記されていますね。

FURICO 281

そして、0 キロポストからちょいと(30 メートルくらい?)旭川寄りに、これから乗車する「スーパー北斗 7 号」の車両が停まっていました。
前面には「SUPER HOKUTO」のマークが、そして、側面には「FURICO 281」のロゴが見えます。格好いいですね~

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