2021年11月30日火曜日

宗谷本線各駅停車 (14) 「問寒別」

名寄行き 4326D は、物置で有名な「糠南」を出発して、次の「問寒別」に向かいます。
雄信内おのっぷないと糠南の間は 5.7 km ありましたが、糠南と次の問寒別の間は 2.2 km しかありません。この駅間は郊外部の東海道本線の駅間よりも短いと思うのですが、国鉄時代は頑張っていたのだなぁ……と考えるよりは、よほど道路事情が厳しかったのだなぁ、と捉えるほうが正解のような気もします。

ちなみに「糠南駅」も廃止の打診が何度かあったようですが、「いや物置なんでレアなんで」という理由で廃止を免れている……という認識です。

問寒別駅(W66)

糠南を出発して 2 分ほどで、問寒別駅のすぐ近くまでやってきました。ここは「木工場御料林道」という名前の踏切なのですが……
問寒別駅に停車しました。ホームと駅舎は左側にあるので、右側は空き地しか見えません。現在は 1 面 1 線の棒線駅ですが、かつては 2 面 2 線の交換可能な構造だったようです。
線路の右側(南西側)はご覧のように空き地になっていて、その奥は防風林が広がっているのですが、林となっているあたりは元々はストックヤード(輸送貨物の置き場)だったのだそうです。

三角線の跡!

問寒別駅からは殖民軌道が出ていたと聞いたのですが、大正時代に測図された陸軍図はおそらく古すぎて殖民軌道が記入されていませんでした。そのため米軍が撮影した航空写真を眺めていたのですが……あっ

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
駅の糠南側に、三角線の跡が見えますね! これは米軍撮影のものではなく、1974 年頃に撮影された写真ですが、三角線の跡と見て間違いないでしょう。

問寒別駅は、天塩線が 1923 年に誉平駅(現在の天塩中川駅)から延伸した際に、終着駅として開業しました。二年後の 1925 年に(天塩線改め)天塩南線は幌延まで延伸しているので、終着駅だったのは僅か 1 年 9 ヶ月ほどの間でした。

大正時代なので、すべての列車は蒸気機関車が牽引していました。蒸気機関車は片運転台のため、進行方向を逆転させるには機関車の向きそのものを反転させる必要があるのですが、そのためには「転車台」(ターンテーブル)を設置するのが一般的です。

ただ、問寒別駅が終着駅となったのはあくまで一時的なもので、いずれ単なる中間駅になることが織り込み済みでした。そのため、高コストな転車台を設置する代わりに、集落の反対側に「三角線」を設けて、そこで機関車の進行方向を変えていたのだと思われます(同様の例は根室線の「西和田駅」にもありました)。

実働 2 年弱

「三角線」が実際に活用されたのは、おそらく 1923 年から 1925 年にかけての 2 年弱だったと思われますが、半世紀ほど経過した時点でも辛うじて跡が確認できる状態だった、ということになりますね。

2 枚目に出てきた「木工場御料林道踏切」のあたりが三角線の分岐点(糠南側)だったと思われるのですが、電柱の手前あたりを線路が通っていたと思われるのです。

そして 3 枚目の林の中にも三角点の分岐点(歌内側)があった筈なのですが……これは流石にわからないですね(汗)。

駅舎はリニューアル済み

左側のボックスにお客さんがいないことを良いことに、駅名標を撮影してみました。直射日光に曝されたからなのか、褪色が凄まじいですね……。
駅舎も見えてきました。なかなかオシャレな外観ですが……
問寒別駅は、勇知駅と同様に大幅に補修されたダルマ駅舎、でした。もともとは他の駅と似たような塗り分けのものでしたが、補修後のこの色は……なかなか良いですね。
駅の正面には道道 583 号「上問寒問寒別停車場線」がまっすぐ伸びています。この道路が開通したことにより殖民軌道(後の町営軌道)が廃止された、ということになりますね。

川じゃないのにでけぇ!

4326D は問寒別を出発して、次の「歌内」に向かいます。右側にまたしても川が見えてきた……と思ったのですが、これは川ではなく河跡湖でした。雪解け水が集まる時期なので特に水嵩があるのかもしれませんが、どう見ても川ですよね……。

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2021年11月29日月曜日

宗谷本線各駅停車 (13) 「糠南」

名寄行き 4326D は定刻通りに雄信内おのっぷないを出発しました。出発してすぐにトンネルに入ったのですが、そう言えば稚内からここまでトンネルって無かったような気も……。
ちなみにこのトンネル、「天塩線」として開通した時には存在しなかったものです。幌延町ホームページの「幌延町内の各駅ご紹介」によると、この「下平トンネル」は 1965 年に開通したもので、宗谷本線唯一のトンネルとのこと。確かに他にトンネルがあった記憶が無いんですよね……。

開通当時は存在しなかったトンネルができたということは、距離が短くなった……と思いたくなりますが、おそらく距離は殆ど変わってなさそうに思えます。トンネルができた理由は地形図を見れば一目瞭然でしょう……ということで。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
もともとは川の端っこに橋(下平陸橋)を通していたみたいですが、1961 年と 1962 年に雪崩・大雨・地すべりで落橋・流失が続くという未曾有の事態に見舞われ、トンネルに切り替えたということのようです。おおよそ想定されそうな災害がわずか 2 年の間に集中したというのも驚きですね……。

ちなみにこの「下平トンネル」のネーミングは、このあたりの旧地名「パンケビラ」にインスパイアされた可能性が高そうな感じです。

上雄信内駅(廃止)

下平トンネルを抜けると、もう天塩川の姿は見えなくなりました。このあたりはかつて「タンタシモナイ」と呼ばれていたエリアで、三方を天塩川に囲まれた南向きの平野が広がっています。
天塩川には道路橋が無く、東西に抜ける道路も無かったため、1956 年に「上雄信内仮乗降場」が設置されました。その後 1987 年の JR 北海道発足時に駅に昇格しましたが、2001 年に利用者僅少により廃止されてしまいました。この写真は駅跡を少し過ぎた場所のようですね。

5 月の天塩川はヤバい!

再び右側に天塩川が見えてきました。それにしてもこの天塩川、川の幅いっぱいに水を湛えているのが凄いというか恐ろしいと言うか……。さすがは道内第二の大河ですね。
線路は山と川の間の僅かな隙間を通ります。線路と川の間には線路管理用の歩道が設置されていますが、工事現場などで見かける仮設歩道のような構造のものですね。
……などと思っていたら、歩道が途切れてしまいました。
この写真だと 5 月の天塩川の凄さ(ヤバさ)がわかりやすいかもしれません。これだけの幅の川を水が埋め尽くしているわけですからね……。
そしてこれから通過する線路も見えています。手前は陸橋のようですが、まるで泰緬鉄道の「アルヒル桟道橋」のようですね。
いつの間にか管理用歩道?が復活していましたが、またここで途切れています。箱の中は非常電話でしょうか?
宗谷本線の線路は、問寒別川の河口のすぐ手前で内陸部に向きを変えて天塩川沿いを離れます。川の北側に平地が広がったのを見て一目散に川から離れたようにも見えて、面白いですね。

糠南駅(W67)

4326D は徐に速度を落としました。次の駅が近づいているということですが、案の定と言うべきか踏切も見えてきました。遮断機のある第一種踏切です。
そして 4326D は駅に停車しようとしていますが……うわあああ、これは!
窓はあるものの、これはどう見ても物置ですよね。この「駅舎」は「ヨドコウ」の物置を改造したものらしいので、多分 100 人乗るのは無理ですね……(そもそもサイズ的に無理がある)。
俄には信じがたい「物置駅舎」ですが、ミラーの存在がここが「駅」であることを示している……のかもしれません。
この「物置駅舎」のある「糠南駅」は、1955 年に「糠南仮乗降場」として設置され、JR 北海道の発足時に駅に昇格しています。もともとは木造の駅舎も近くにあったらしいですが、今はこの物置兼待合室が唯一の駅舎とのこと。
ホームは「南幌延駅」と同じく維持費用の安価なウッドデッキ構造で、物置もウッドデッキの上に置かれています。そのため高床式倉庫ならぬ「高床式物置」の趣がありますね……。

次は「といかんへつ」

糠南駅の駅名標は「おのっぷない」の部分に修正した跡が見えます。駅に昇格した際に設置されたものであれば、隣駅は「かみおのっぷない」となっていたのでしょうね。
また「といかんべつ」が「といかんへつ」になっていますが、2017 年に撮影された写真には誰かがマジックで濁点を加筆した跡が見えます。

2016 年 5 月時点の写真にはそのような痕跡は見当たりませんので、2016 年から 2017 年の間にかけて、誰かがこっそり手を入れた……ということなんでしょうか。

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2021年11月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (888) 「汁取・美羽烏」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

汁取(しるとる?)

sir-utur-oma-p
山・間・そこに入る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
剣淵川の東支流に「東七線川」という川があるのですが、この川を遡った先の山の鞍部に「汁取」という名前の三等三角点があります(標高 294.6 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「東七線川」に相当しそうな川が見当たらないように思えます(「ワツシヤム」という川が南隣の「彌栄イヤサカ?川」である可能性がありますが)。

幸いなことに、明治時代の地形図に「ポンシルトル」と「オン子シルトル」という川名が描かれていました。どうやら「彌栄川」がかつて「ポンシルトル」と呼ばれていたようです。

陸軍図には、現在の「彌栄川」の北に「シルトルマップ」という地名が描かれていました。これは sir-utur-oma-p で「山・間・そこに入る・もの(川)」と読めますが、実際の地形もまさにそんな感じですね。特に「オン子シルトル」とされる「刈分川」のあたりは沖積平野が形成されていて、「山の間(の平地)」と呼ぶのに相応しい地形です。

似たような地名は道内のあちこちにあって、滝上町の「白鳥」や岩見沢市(旧・栗沢町)の「美流渡」などが思い出されます(「美流渡」は「シ」を「ミ」に誤読したと考えられます)。「白鳥」や「美流渡」はちょいと風流な感じもありますが、「汁取」はなかなかストレートというか、濃縮果汁 100% といった風情がありますね(何を言っているのだ)。

美羽烏(びばからす)

pipa-kar-us-i
沼貝・とる・いつもする・ところ
(典拠あり、類型多数)
剣淵町の中心部から東に向かい、道央自動車道の下をくぐった先に「ビバアルパカ牧場」という牧場があります(名前の通り、アルパカを飼育する牧場のようです)。

ここはかつて「ビバカラススキー場」という名前のスキー場でした。近くに「美羽烏神社」という神社もあるほか、「ビバアルパカ牧場」から「剣淵温泉レークサイド桜岡」に向かう道道 205 号は「上士別ビバカルウシ線」という名前です。

凄まじい勢いでネタバレ続発中ですが、陸軍図では現在の道道 205 号の南側に「美羽烏」という地名が描かれていました。ちゃんとルビも振られているのですが、良く見ると「カラウシ」とあります。「烏」を「カラウシ」と読ませるのは傑作というか、もの凄く無理があると言うか……。

このあたりの地名は「剣淵町東町」になってしまったようですが、「美羽烏」は四等三角点の名前として健在でした(標高 224.5 m)。位置は「ビバアルパカ牧場」や「美羽烏神社」から見て東南東、「レークサイド桜岡」からは西南西のあたりです。

「美羽烏」の意味するところは pipa-kar-us-i で「沼貝・とる・いつもする・ところ」と見て良さそうです。「カラウシ」が「烏」の字に引きずられて「カラス」に化けたと考えられますが、pipa-kar-us でも元の意味が殆ど損なわれないというのが良くできていますね。

「美羽烏」で沼貝は取れたのか

ということで、「美羽烏」の解釈は明瞭なものでしたが、その位置についてはちょっと検討が必要に思えます。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヒハカルシ」という名前の川が描かれています。また丁巳日誌「天之穂日誌」には次のように記されていました。前後関係の認識が必要なので、ちょっと引用が長くなります。

     ヘタヌ
此処二股、右の方ケ子フチと云。左り本川シヘツ通り。少しケ子フチの方小さし。最早此辺にて日も暮懸れ共、何卒ニシハコロの家の方までと船を遣るに、右の方ナイフトより八里
     ケ子ブチ
ケ子は赤楊(はんの木)、ブチはフトの訛り也。此川赤楊多きが故に号るなり。渕様成処しばし行て
     ヒハカルウシ
蚌多きより号るなり。右の方に小川有る也。小石川少し上り
     リイチヤニ
此処ニシハコロの村也二股より九丁計
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.106 より引用)
「ヘタヌ」は「犬牛別川」と「剣淵川」の合流点のことですね。「ナイフトより八里」とありますが、名寄市内淵から「ヘタヌ」までの距離がおよそ 33 km ほどのようなので、計算は合っているように見えます。

「ヒハカルウシ」のところに「蚌多き」とありますが、「蚌」は「どぶがい」を意味するとのこと。

士別剣淵 IC から約 1 km 南

ポイントは最後の「二股より九丁ばかり」というところで、犬牛別川と剣淵川の合流点は士別剣淵 IC のあたりだったと見られるので、「リイチヤニ」は士別剣淵 IC から 9 町、つまり 1 km ほど南の地点だったと言うことになります。

士別剣淵 IC の入口(国道 40 号交点)からビバアルパカ牧場までは 5 km 以上あるのですが、「天之穂日誌」の「ヒハカルウシ」は「リイチヤニ」よりも北に位置していたことになるので、計算が合わなくなります。つまり、天之穂日誌の「ヒハカルウシ」は「美羽烏」ではない、ということになりますね。

また「東西蝦夷山川地理取調図」の「ヒハカルシ」は、「ルウクシケ子フチ」よりも山奥に位置するように描かれています。これも「美羽烏」とは位置が異なると見て良いかと思われます。

剣淵町の川名は、「パンケペオッペ川」もそうでしたが、古い記録と異なる位置に存在している感があります。この「美羽烏」も、もしかしたら北に位置していた「ヒハカルウシ」の成れの果てだったのかもしれませんね。

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2021年11月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (887) 「パンケペオッペ川・クオウベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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パンケペオッペ川

nupka-oma-nay?
野原・そこに入る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
和寒町西部を「辺乙部川」という川が流れているので「何を今更……」と思っていたのですが、「辺乙部川」と「パンケペオッペ川」は全く別の川であることをようやく思い出しました(どちらも剣淵川の西支流ですが、合流点が異なるため、親子関係ではなく兄弟関係のようです)。

また、ややこしいことに「パンケペオッペ川」の南支流に「ペンケペオッペ川」があり、剣淵町と和寒町の境界になっています。「パンケ──」と「ペンケ──」に親子関係があるというのは、これまた奇妙な感じがしますね(「ペンケ──」と「パンケ──」は並列関係にあることが多いので)。

「ペンケペケオッペ」と「パンケペケオッペ」

明治時代の地形図を眺めていて、妙なことに気づきました。現在「辺乙部川」と呼ばれる川には名前が記されておらず、また現在「パンケペオッペ川」と呼ばれている川には「ヌプカオマナイ」と描かれています。そして剣淵の市街地の南北に「パンケペケオッペ」と「ペンケペケオッペ」という川が存在するように描かれています。

「ヘヲチ」と「──ヘヲツ」

「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、現在の「剣淵川」は「イヌウシヘツブト」で二手に分かれていることになっています。「イヌウシヘツブト」という地名から、支流は現在の「犬牛別川」だと考えるのが妥当なのですが、「犬牛別川」に相当する川の上流に「ヘヲチ」や「ホンヘヲツ」「シノマンヘヲツ」という川が描かれています。つまり松浦武四郎は「犬牛別川」の上流に「ヘヲチ」あるいは「ヘヲツ」があると記録していたことになります。

「パンケペオッペ川」の正体

何とも良くわからないことになってきましたが、松浦武四郎が記録した「ヘヲチ」の位置は現在の「辺乙部川」とも「パンケペオッペ川」「ペンケペオッペ川」とも異なっていた可能性がありそうです。

とりあえず、明治時代の地形図を正とすると、現在「パンケペオッペ川」と呼んでいる川はかつて「ヌプカオマナイ」と呼ばれていたことになりそうです。nupka-oma-nay で「野原・そこに入る・川」と考えられますが、確かにそんな感じの川ですね。

「ペオッペ」は pe-ot-pe で「水・多い・もの」と解釈されますが(
「水・にじみ出る・もの」とする解釈も)、現在の「犬牛別川」や「辺乙部川」よりは小規模な川なので、「ヌプカオマナイ」のほうがそれらしい名前に思えます。

そして「ペンケペオッペ川」が「パンケペオッペ川」の支流である問題についても、川名の取り違えがあったと考えれば綺麗に解決(?)ですね。

余談

大正時代に測図された「陸軍図」を見ると、ペンケペオッペ川の北西部(剣淵町域)に「オッ」という地名(大字?)が描かれています。

松浦武四郎が記録した「ヘヲチ」は現在の士別市温根別のあたりだった可能性があるので、そうだとすれば随分と離れていることになりますが、ただ「ホンヘヲツ」や「シノマンヘヲツ」は山の向こうの西側にあったことになるので、もしかしたら大地名が峠の手前に移転した……と考えることもできるかもしれないですね。

まぁ松浦武四郎の記録にどこまで信を置くべきなのか、という本質的な問題も残るわけですが、よく見ると永田地名解にも「ペオチ」が「イヌンウㇱュペㇳ右支」とあるんですよね。やはり「辺乙部川」は「ヘヲツ」あるいは「ペオチ」が移動したものと考えるしかなさそうに思えてきました。

クオウベツ川

ku-o-pet?
仕掛け弓・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
現在「パンケペオッペ川」と呼ばれる川の西支流で、マツダ自動車試験場の南側を流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「イヌウシヘツ」の支流として「ヘヲチ」という川が描かれていて、「ヘヲチ」の西支流として「ハンケクヲナイ」と「ヘンケクヲナイ」が描かれています。

前述の通り、現在は「犬牛別川」とは別の川として「パンケペオッペ川」と「辺乙部川」が存在しますが、松浦武四郎や永田方正が「犬牛別川の支流」として記録した川(「ハンケクヲナイ」および「ヘンケクヲナイ」)に近い名前の川が、現在の「パンケペオッペ川」に存在するというのは……どう考えれば良いのでしょうか。

二等三角点「久王別」

厄介なのが、剣淵町と士別市の境界に「久王別」という二等三角点があるのですが、この三角点から東に流れる川が「西原郵便局」の北を流れて犬牛別川に注いでいるという点です。

これは松浦武四郎の記録が正しかったことを示しているようにも見えますが、「シュルクタウシベツ川」との前後関係を考えるとやはり矛盾が残ります。記録や傍証は複数存在するものの、いずれも若干の矛盾を内包しているというのが何とも言えないですね。

仕掛け弓・そこにある・川

永田地名解には次のように記されていました。

Ku-o nai  クオ ナイイヌンウㇱュペㇳ右支  機弓アマポヲ置ク澤
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.420 より引用)
もっとも意味するところは明瞭のようで、ku-o-nay で「仕掛け弓・そこにある・川」と読めそうです(-nay がどこかのタイミングで -pet に置き換えられて ku-o-pet になったと思われますが、意味するところは同じです)。「仕掛け弓」は罠の一種で、獲物が罠にかかった際に自動的に弓矢が放たれるものです。

仕掛け弓の鏃には殺傷能力を高めるためにトリカブトの根から抽出した毒が塗られていたとされますが、「東西蝦夷──」には「ホンシユルクタウシナイ」という川が描かれていて、これは surku(トリカブトの根)を採取する川と読めます。仕掛け弓のある場所のすぐ近くに、トリカブトの根を採取する川もあるということで、これは地産地消の一種と言えそうでしょうか(何か違うような)。

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2021年11月26日金曜日

宗谷本線各駅停車 (12) 「雄信内」

名寄行き 4326D は「安牛駅」を出発して、次の「雄信内駅」に向かいます。線路の右側(川側)には雑木林(ですよね)が広がっていますが、白樺の木がいいアクセントになっていますね。
久しぶりに天塩川が見えてきました。これまでも河跡湖をいくつか見てきましたが、現役の天塩川に近づいたのはこの日初めて……だったかもしれません。
天塩川に張り付いていたのは「ペンケオーカンラオマップ川」から「酒井の沢川」までの 1 km 弱ほどで、車窓には程なく雑木林が戻ってきました。白樺は背が高くて格好いいですが、防風林としてのお役立ち度は微妙かも……?

雄信内駅(W68)

4326D は徐に減速を始めました。「ジリリリリリ……」「キンコンキンコン……」という音が鳴っていたかどうかは記憶が定かではありませんが、そんな音が聞こえても不思議はない場所でしょうか。
道道 256 号「豊富遠別線」の踏切のすぐ近くには、ポツンと一軒家?が見えます。
建物の横には石碑のようなものも見えます。ストリートビューで見てみると校門のようなものも見えますし、「避難場所」であることを示す標識も立っているので、これは学校の跡なんでしょうか……?

転轍機?

4326D は「雄信内駅」に停車するために減速していましたが、右側を眺めているとこんなものが。転轍機のようにも見えるのですが、これは何なんでしょう……?
雄信内駅の構内に入りました。しばらく棒線駅が続いていましたが、久しぶりに「駅構内」の広さを感じられる駅のようです。

駅名は「おのっぷない」

今更ですが「雄信内」で「おのっぷない」と読みます。地名は既に「おのぶない」になっていたと思いますが、駅名は古い読み方を頑なに守っている……といったところでしょうか。
雄信内駅は対面式ホームの 2 面 2 線構造ですが、駅の西側には引込線もあります(先程の転轍機のようなものは引込線に向かうポイントだったかも?)。ホームにも何やら見慣れない機械?がありますが……。どことなく精米機のような雰囲気もありますが、流石に違いますよね(汗)。
そして、しばらく怒涛の連続「ダルマ駅舎」攻撃が続いていましたが、雄信内の駅舎がご覧の通りの渋い佇まいのものです。年相応にくたびれた感じですが、どことなく角の取れた「おじいちゃん」のような雰囲気が感じられますよね。

独特の書体

雄信内の駅舎は南側にあり、駅舎に近い側が「1 番のりば」です。列車交換が可能な構造ですが、4326D とすれ違う列車はありません。このような場合、駅舎に近い側の線路に入る場合もありますが、雄信内駅ではそのような運用が行われていないか、あるいは構造上不可能なのかもしれません。
改札口の横には縦書きの額が。あー、この書体からして角が取れた感じがありますね。ちょっと変わった雰囲気の書ですが、どなたの手によるものなのでしょう……?
もちろんここでも本場の味はサッポロビールです。

駅前の倉庫は

「雄信内」はもともとは天塩川の南側の地名で、天塩町雄信内には郵便局やエーコープなどがあります。「雄信内駅」は川の北側の幌延町側にあり、駅前には……倉庫が目立ちますね。
倉庫の存在は、かつては貨物輸送でも賑わったということを今に伝えているのでしょうか。

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2021年11月25日木曜日

宗谷本線各駅停車 (11) 「南幌延・安牛」

「上幌延駅」と、次の「南幌延駅」の間は道道 256 号「豊富遠別線」で 2.7 km ほどの距離です。ところが宗谷本線だと両駅間の距離が 3.0 km となっていて、0.3 km ほど遠回りしていることになっています。
遠回りの原因が見えてきました。天塩川……だった川の跡、いわゆる「河跡湖」です。問寒別と幌延の間の鉄道を建設していた頃は、ここに「天塩川」があったので、天塩川の流路が改修された後に建設されたと思しき道道 256 号よりも遠回りを強いられている……ということのようです。

南幌延駅(W70)

名寄行き 4326D は再び速度を落とし停車しようとしています。駅のすぐ手前に踏切があるようです。
警報機と遮断機のある第一種踏切で……
ありがたいことに踏切名までバッチリ見えました。「南幌延」踏切なんですね。

ウッドデッキだ!

踏切の横からは木製のスロープが伸びていて……
なんとそのままホームになっていました(!)。「南幌延駅」は、ホームそのものがまるでウッドデッキのような構造なんですね。
これなんですが……、やはりどう見てもウッドデッキですよね……。南幌延駅は 1959 年に開業した駅で、両隣の上幌延駅と安牛駅が 1925 年の路線開通時に設置されたのに対して、後から追加された駅だったということになります(但し「仮乗降場」ではなく最初から「駅」だったようです)。
ちなみに、Wikipedia によるとこの小屋のような建物が駅の待合室だとのこと。
4326D は南幌延を出発して、次の「安牛駅」に向かいます。

安牛駅(W69・2021/3/13 廃止)

数分後……カメラのタイムスタンプだと 2 分 6 秒後……に、早くも次の「安牛駅」が見えてきました。南幌延と安牛の間は 1.9 km しか無かったようで、宗谷本線の中では旭川と旭川四条の間の 1.8 km に次いで短い駅間だったということになるでしょうか。
安牛駅の駅舎は「上幌延駅」と同様のダルマ駅舎です。カラーリングもそっくりなので、「JR 安牛駅」の文字が無ければ判別できないかもしれませんね。
このタイプの「ダルマ駅舎」は入口の無い側にトイレが設置されている場合が多いのですが、外に見える別棟は何なのでしょう。倉庫とかなんでしょうか。

安牛駅の廃止理由

この安牛駅も、利用者僅少とのことで 2021 年 3 月に廃止されてしまったのですが、お隣の「南幌延駅」と近すぎた……というのも廃止へのハードルを下げることに繋がったようです。
別の言い方をすれば、どちらの駅を残すか……という話にもなるのですが、南幌延駅のほうが僅かに利用者が多かった上に、南幌延駅のプラットホームがウッドデッキ構造で、安牛駅(や上幌延駅など)のような盛土構造よりも維持費が安価であるという点が決め手の一つになったとのこと(南幌延駅が安牛駅と上幌延駅の中間に位置することも評価されたようですが)。
南幌延駅は、ホームがウッドデッキ構造だったことが駅の存続にプラスになったわけで、世の中どう転ぶかわからないなぁ……と思わせますね。

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