2022年5月31日火曜日

紀勢本線各駅停車 (4) 「加茂郷・下津」

御坊行き 341M は冷水浦しみずうら駅を出発しました。海南駅の西、冷水浦駅の北の海は古くは「黒江湾」と呼ばれていましたが、今では湾を埋め尽くしそうな勢いで埋立地が広がっています。埋立地には製鉄所、火力発電所、石油精製工場などが立地しています。
埋立地は主に湾の北側から東側に広がっていて、冷水浦駅のある南側の海は意外と手つかずのままのようです。

2022年5月30日月曜日

紀勢本線各駅停車 (3) 「海南・冷水浦」

そう言えば、完全に油断していたのですが、黒江駅の手前で和歌山市を離れて海南市に突入していました。御坊行き 341M は黒江駅を出発して南に向かいますが……
下り線との間隔が広くなるとともに、程なく単線断面の「日方トンネル」に入り……

2022年5月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (939) 「スッポチ川・イチャンケシオマナイ川・イチャンパオマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

スッポチ川

tuppo-ot-i??
ウグイ(のような魚)・群在する・もの(川)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
網走市と小清水町の境界となっている「濤沸湖」の南東端に注ぐ川の名前です。明治時代の地形図には「ツッポチ」あるいは「ツッポケ」と描かれているように見えます。

スッポチ、ツッポケ、トツホシ

「スッポチ川」の西隣には「浦士別川」が流れていて、川が網走市と小清水町の境界となっています。「東西蝦夷山川地理取調図」には浦士別川に相当する川の支流として「トツホシ」という川が描かれているのですが、これも「スッポチ川」のことである可能性がありそうです。

浦士別川に合流する・しないという違いもあり、「スッポチ」と「トツホシ」と考えると違いは大きいですが、「ツッポチ」と「トツホシ」であれば同一視も可能ではないかと……。

この「スッポチ川」ですが、何故か知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には記述が見当たりません。ただ、意外なことに永田地名解にしっかりと明記されていました。

Toppochi   トㇷ゚ポチ   ウグヒ魚居ル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.494 より引用)
知里さんは永田地名解に目を通している筈なので、何故漏れたのかは……謎ですね。-ochi-ot-i で「群在する・もの(川)」だと考えられそうなので、topp あるいは toppo が「ウグイ(魚)」ではないかと考えられそうです。

toppo はウグイか?

ところが、知里さんの「動物編」には「ウグイ」を意味する語彙として 15 パターンが記されているのですが、その中には toppo に類するものが見当たりません。「ウグイ」を意味する語の中には supun があり、これは地名としても良く見かけるのですが……。

「動物編」では「ウグイ」の次に「やちうぐい」という項があり、そこには tó-čeppo(トチェッポ)や tó-uttoy(トウットィ)、tóy-supun(トィスプン)などの例が並んでいました。tó-čeppoče が脱落したとすれば「トッポ」に近くなりますが……。

toppo ではなく tuppo?

他の辞書類でも toppo を「ウグイ(魚)」とする記載は見当たらないのですが、またしても「アイヌ語古語辞典」の「『藻汐草』アイヌ語単語集」に次のような記載がありました。

トゥツポ
 ① うぐいの如くにて(※水産物)(ソウヤ方言)
 ②
(平山裕人「アイヌ語古語辞典」明石書店 p.314 より引用)※ 原文ママ
むー……。「藻汐草」の成立年代は 1792 年だそうですから、どう転んでも永田地名解よりも前の世代の文献です。また永田地名解では「トㇷ゚ポチ」としていましたが、どうやら「ト」ではなく「トゥ」(≒ツ)だったようで、「トツホシ」と「ツッポチ」の表記揺れが生じていたこともうまく説明できそうです。

永田地名解のアルファベット表記も考慮すると、「トゥツポ」は tutupo ではなく tuppo ではないかと思われます。「トㇷ゚ポチ」こと「スッポチ川」は tuppo-ot-i で「ウグイ(のような魚)・群在する・もの(川)」と解釈できるかもしれません。

「ト」を「ス」と見間違えた……ということになりそうでしょうか。「ス」が更に「ヌ」に化けていたら nup 関連に誤解される可能性が高まっていたので、まだマシと言えばその通りなのですが……。

ウグイではないとしたら

ただ、一つだけ引っかかるのが「藻汐草」に「ソウヤ方言」とある点です。網走のあたりも宗谷地方と同様に樺太との接点が比較的太そうな印象があるので、共通する語彙がそれなりにあっても不思議では無いですが……。

仮に tuppo(ウグイのような魚)では無いとしたならば、tup-ot-i で「移動する・常である・ところ」と考えられるかもしれません。「スッポチ川」の下流部は濤沸湖の湿原だったと考えられ、「東西蝦夷──」では濤沸湖に注ぐのではなく「浦士別川」の支流として描かれています。流路が気まぐれに移ろっていたとも考えられるため、「いつも移動している川」と呼んだとしても不思議ではないなぁ、と……。

イチャンケシオマナイ川

ichan-kes-oma-nay
鮭鱒の産卵場・しもて・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
浦士別川の東支流で、浦士別川とスッポチ川の間を流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たらず、また明治時代の地形図にもこの川名は見当たりません(位置関係からは「ヲン子ナイ」に相当する可能性がありそう)。

ただ、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のように記されていました。

(424) イチャンケショマナイ(Ichan-kesh-oma-nai)(左枝川) イチャン(鮭の産卵場),ケㇱ(のしも),オマ(にある),ナイ(川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.313 より引用)
ichan-kes-oma-nay で「鮭鱒の産卵場・しもて・そこにある・川」と考えられそうですね。先程の「スッポチ川」も「ウグイのいる川」だった可能性が高そうですし、「浦士別川」自体が「簗のある川」だったっぽいので、漁業資源の豊富な水系だったっぽいですね。

イチャンパオマナイ川

ichan-pa-oma-nay
鮭鱒の産卵場・かみて・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
浦士別川の東支流で、浦士別川とイチャンケシオマナイ川の間を流れています(地理院地図では「イチャンオマナイ川」)。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たらず、また明治時代の地形図にもこの川名は見当たりません(位置関係からは「ナイ」に相当する可能性がありそう)。見事にコピペですいません。

ただ、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のように記されていました。

(426) イチャンパオマナイ(Ichan-pa-oma-nai) イチャン(ホリ),パ(のかみ),オマ(にある),ナイ(川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.313 より引用)
ichan-pa-oma-nay で「鮭鱒の産卵場・かみて・そこにある・川」と考えられそうですね。先程の「スッポチ川」も(以下同文

ちなみに (424) と (426) の間に何があったのか、気になるところですが……

(425) イチャン(Ichan)(川中) イチャン(鮭の産卵場,いわゆるホリ)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.313 より引用)
「しもて」と「かみて」の間には「イチャン」本体がありました。これ以上無い予定調和ですね……。

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2022年5月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (938) 「戸内牛山・昌運山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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戸内牛山(とないうしやま)

tu-nay-e-us-i??
二つの・川・頭(水源)・ついている・もの(山)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
津別町と美幌町の境界に聳える山の頂上付近にある一等三角点の名前です。標高 449.3 m とのことですが、近くに 450 m の等高線が描かれているため、三角点が位置するのは山の頂上では無さそうです。地理院地図で見た限りでは、三角点の位置は津別町側に見えるのですが、「一等三角点の記」によると所在地は美幌町とのこと。

明治時代の地形図には「トナイウシ山」と描かれていました。これだけ明瞭に描かれている割にはこの山についての情報は乏しく、「北海道地名誌」にも伝家の宝刀「意味不明」を出されてしまう始末だったのですが、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のような記述がありました(!)。

(326) ツ゚ナイェウシ(Tunayeushi) ツ゚ナイ(鯨),エ(そこに),ウㇱ(引つかかつた),イ(所)。小沼沢とコタンコアンオンネナイとの間にある山で,昔大津浪があつた際鯨がここに引つかかつたという伝説がある。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.305 より引用)※ 原文ママ
久々に豪快な伝説が出てきましたね。標高 450 m の山上まで津波が押し寄せた上にクジラが流されて引っかかったというのは、他の津波伝説と比べても格段に大規模な感じがします。

津別町と美幌町の境界(=津別川流域と美幌川流域の境界)は、屈斜路湖のカルデラと思しき「サマッカリヌプリ」の北から北西に伸びていて、戸内牛山のあたりではほぼ南北に伸びています。標高 400 m 台の山がいくつも連なっていて、その山容が鯨を想起させた、と言ったところでしょうか。

「クジラ」を意味する tunay

ただ不思議なのが、「鯨」を意味するのに tunáy という語を用いたところです。「鯨」は húmpe を用いるのが一般的で、tunáy については知里さんの「動物編」にも「補注」として次のようにあるのみです。

b) ‘ツ゚ナイ’。[tunáy は褶のことだ。‘腹にうねり’と注してあるのを見ると,ナガスクジラ族らしく思われる。ビホロでクジラの古語に tunáy という語があり地名などにも出てくる。]
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.178 より引用)
「褶」は「ひだ」と読むとのこと。手元の辞書類には tunay あるいは「トゥナイ」についての情報は見当たらなかったのですが、唯一「アイヌ語古語辞典」の「『藻汐草』アイヌ語単語集」に下記の内容が記されていました。

トゥナイ
 ① 鯨(腹にうねあり) ②〈動物〉クジラ(tunay は褶のことだ。)
(平山裕人「アイヌ語古語辞典」明石書店 p.314 より引用)※ 原文ママ
「『藻汐草』アイヌ語単語集」の「②」は知里さんの「動物編」を含む各種資料からの引用なので、注目すべきは「①」のほう、ということになります。

あくまで仮説の域を出ていませんが「女満別」の例もあるので、美幌・津別の山中に古語由来の地名があっても不思議ではありませんが、やはり唐突な感は否めません。

tu-nay-e では?

「トゥナイウㇱ」という音を素直に読み解くと tu-nay-e-us-i で「二つの・川・頭(水源)・ついている・もの(山)」のように思われます。戸内牛山の西と南西には谷川があり、それぞれ北と西に向かって流れているのですが、元々はこの特徴を示した山名だったのでは無いでしょうか(間違った谷に下りると全く異なる場所に出てしまうので、その注意喚起では無いかと)。

「トゥナイウㇱ」が「二つの水源のある山」だったとすると、正確な位置は三角点のある山ではなく、その南隣の山だったかもしれません。

2022年5月27日金曜日

紀勢本線各駅停車 (2) 「紀三井寺・黒江」

「あなたの街の専用線跡」の前を通過すると、なんか下り線との間隔が中途半端に広くなり……
そしてまた狭くなり……。下り線の向こう側には空き地が見えますが、これは貨物用の線路の跡なんでしょうか。下り線との間隔が変動した理由は皆目不明ですが、2 面 3 線のいわゆる「国鉄型配線」を 2 面 2 線の「相対式ホーム」に改造した、あたりでしょうか。

2022年5月26日木曜日

紀勢本線各駅停車 (1) 「和歌山・宮前」

和歌山駅の 5 番線に周参見すさみを 7:17 に出発した 348M が入線してきました(10:09 着)。この車輌は僅か 7 分の折り返しで 341M 御坊行きになるようです。随分と現代的なルックスの車輌で、なかなか格好いいですね。
「きのくに線」こと「紀勢線」(紀勢本線)は、このあたりでは一時間に二本の運転のようです(あと特急「くろしお」が一時間に一本程度)。

2022年5月25日水曜日

紀勢本線各駅停車 (プロローグ 4) 「紀伊中ノ島・和歌山」

和歌山行き「紀州路快速」(という名前の各駅停車)は紀ノ川を渡りました。国道 24 号をオーバークロスすると……

紀伊中ノ島駅(JR-R53)

「紀伊中ノ島駅」に到着です。築堤の上にある駅で、ホームの下部はスッカスカですが、1932 年に「阪和中ノ島駅」として開業した駅です。

2022年5月24日火曜日

紀勢本線各駅停車 (プロローグ 3) 「紀伊・六十谷」

「プロローグ」で何回続けるのか……という点が予断を許さない状況になってきましたが、次の停車駅である「紀伊駅」が近づいてきました。第一種踏切ですが、これは随分と狭そうですね。軽自動車でギリギリかと思いましたが、「この踏切は車幅 1.3 M を越える車は通れません」とのこと。2 輪までは OK と言うことでしょうか。

紀伊駅(JR-R51)

上りの待避線が見えてきました。間もなく紀伊駅ですね。

2022年5月23日月曜日

紀勢本線各駅停車 (プロローグ 2) 「和泉鳥取・山中渓」

和歌山行きの「紀州路快速」は和泉砂川を出発しました。車窓に畑が目立つようになってきましたね。
……と思ったら分譲中?の住宅地が。大阪の中心部まではそこそこ距離がある筈ですが、お手頃価格で良い住環境を得られるということなんでしょうか。

2022年5月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (937) 「杵端辺・古梅・徳志辺」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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杵端辺(きねたんべ)

kene-tay-an-pe
ハンノキ・林・ある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
美幌町南東部の旧地名……だと思っていたのですが、「杵端辺きねたんべ」という名前の三角点が現存していました。しかも同名の二等三角点と三等三角点がある(位置は異なる)というお買い得ぶりです。

1872 年から 1915 年まで存在した「杵端辺村」は「美幌村」の元となった村の一つで、当時は「けねたんべ」と読ませていたとのこと。なお、美幌村に合併した後は「大字杵端辺」でしたが、これは 1937 年に廃止されていました。ただ三角点の名前として現在もひっそりと生き延びている、ということのようです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ケ子タンヘ」という川が描かれていました。この川については戊午日誌「安加武留宇智之誌」にも次のように記されていました。

 扨またしばし過て
     ケ子タンベ
 右の方小川、此両岸赤楊多きによって号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.343-344 より引用)
明治時代の地形図には「ケ子タアンペ」という名前の川が描かれていました。この川は美幌町字古梅ふるうめの北北西あたりで美幌川に合流していたようで、大正から昭和初期にかけての陸軍図に「杵端邊」とある所よりも随分と南側を流れています。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 杵端辺(けねたんべ)
 音が悪いと嫌われ今はなくなったが、美幌から美幌峠へ行く途中の地名で、五万分図にはのっている。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.288 より引用)
音が悪い……ですか。「難読だ」というのであればなんとなく理解できるんですが……。

アイヌ語ではケネ・タイ・ウン・ぺで、はんのき林のある川という何でもない名である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.288 より引用)
ふむふむ。kene-tay-an-pe で「ハンノキ・林・ある・もの(川)」と考えて良さそうですね。確かに「何でもない名」ですが、この小さな川の名前が村名にまで成長して、そしてあっさりと捨てられたというのはちょっと不思議な感じがします。

古梅(ふるうめ)

hure-mem
赤い・泉池
(典拠あり、類型あり)
美幌町南東部、「杵端辺きねたんべ」の南に位置する地名です。ここもかつての「古梅村」で、「美幌村」の元となった村の一つです。ただ「杵端辺」と異なり、こちらは現行地名として健在で、東を流れる「石切川」には「古梅ダム」もあります。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 古梅(ふるうめ)
 美幌町で僅か残っているアイヌ語地名の一つ。美幌峠にかかる麓の部落。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.288 より引用)
「美幌町で僅か残っている」(原文ママ)というのは実にその通りで、アイヌ語の地名・川名が軒並み改められたようで、現存するものはとても少ないんですよね。

ここにあった湧壺についた名で、フレ・メム(赤い湧水池) のなまったもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.288 より引用)
あー。確かに「東西蝦夷山川地理取調図」にも「フウレメム」という泉池が描かれています。永田地名解にも次のように記されていました。

Hūre mem  フーレ メㇺ  赤池 此地ノ「アイヌ」ノ音ハ一度聞ケバ「フルメン」ト發音スルガ如クナレトモママ聞ケバ「フーレメム」ナリ此水赤クシテ飲ム能ハズ故ニ名ク安政帳「フレメム」ニ作ル文化帳ニ據ルトアリ○古梅村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.485 より引用)
久しぶりに「怒涛の脚注」の登場です。この手の「脚注の爆発」が発生するのは、だいたい本文の内容を全力で補強している時が多いのですが、今回も「『フルメン』と聞こえるけど『フーレメム』なんだぜぇ」ということのようです。

明治時代の地形図には、現在の「石切川」が美幌川と合流するあたりの南に「ポンメム」という川があり、そのすぐ南に「フーレメム」という川が描かれていました(いずれも美幌川の東支流)。国道 243 号の西側にチェーン脱着場がありますが、ちょうどこのあたりに「フーレメム」があったと推定されます。

「フーレメム」は hure-mem で「赤い・泉池」と見て間違いないかと思います。鉄分が多かったのか、あるいは赤土などが混ざっていたのか、赤くて飲むに堪えない湧き水の出るところだったようです。

徳志辺(とくしべ)

tukusis-ot-pe
アメマス・多くいる・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
「石切川」のダム湖である「古梅ダム」の西にある山の、頂上付近にある四等三角点の名前です(標高 273.3 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トクシヽヲツヘ」という川が描かれていました。また明治時代の地形図にも、現在の「石切川」の位置に「トクシシユオツペ」と描かれていました。

戊午日誌「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

 扨しばし過て両岸椴原追々有るよし也。左りの方相応の川有。
     トクシヽヲツベ
 と云。此川あめます多きよりして号。其水源トイトクシベツノボリと云より来る。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.344 より引用)
どうやら tukusis-ot-pe で「アメマス・多くいる・もの(川)」と解釈できそうな感じですね。伊達市(旧・大滝村)を流れる「徳舜瞥川」が tukusis-un-pet だと考えられるので、同系の地名と見て良いでしょうか。

余談ですが

「トクシベ」であれば tuk-us-pe で「小山・ついている・もの(川)」と解釈することも一応可能かと思われますが、「トクシシ」であれば素直に tukusis と見て良いかと思います。

あと戊午日誌の「トイトクシベツノボリ」については現在の「藻琴山」のことらしく、to-etok-us-pet-nupuri と考えられるのですが、この etok-us-pet が「トクシベ」に化けた可能性については……念のため留保させてください(tukusis 自体が転訛の産物である可能性もゼロではないので)。

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2022年5月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (936) 「魚無川・庭庶無若・登栄川」

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魚無川(うおなし──)

chep-sak-onne-nay
魚・持たない・老いた・川
(典拠あり、類型あり)
美幌町には「網走川」とその支流の「美幌川」が流れていて、美幌川が網走川に合流する地点の南側に市街地が広がっています。魚無川は美幌川の西支流で、美幌川と網走川の間を流れているので、言い方を変えれば市街地のど真ん中を流れていることになります(町役場のすぐ東側を流れています)。北海道に限らず日本各地にありそうな川名ですが、ググると美幌町の「魚無川」がトップヒットするようです。

もしかして:実は珍しい

明治時代の地形図には「チエプシヤクオン子ナイ」という名前で描かれていました。改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を確認してみると、確かに「ヒホロ」が網走川に合流する手前に「チエフシヤクオン子ナイ」という川が描かれています。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 魚無川(うおなしがわ) 相生線に沿って流れる小川。美幌川の小支流。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.448 より引用)
あっ。そう言えば美幌から北見相生まで「国鉄相生線」が走っていたんでしたね。相生線の線路は美幌駅から南に延びていたわけですが、市街地のど真ん中を南に抜けていたようで、途中から「魚無川」の西隣を通っていたのでした。

アイヌ語「チェプ・サㇰ・オンネ・ナイ」(魚のいない年寄川)を訳したもの。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.448 より引用)
はい。chep-sak-onne-nay で「魚・持たない・老いた・川」と見て良さそうですね。この手の onne-nay は「年老いた川」であり「親である川」でもあるのですが、元を辿れば「大きな川」だったり「長い川」だったりします。この chep-sak-onne-nay も「魚のいない長い川」という解釈が、より具体的かもしれません。

殆どの場合、「老いた川」は「涸れ川」を意味するものでは無いことに注意が必要です。

チェプウンオン子ナイ

なお、「魚無川」の東に「駒生川」という川が流れていますが、この川はかつて「チェプウンオン子ナイ」と呼ばれていたようです。chep-un-onne-nay は「魚・そこに入る・老いた・川」で、魚無川とは違って魚のいる「長い川」と認識されていたことになりそうです。「駒生」という名前は馬産に由来するようですが、「オショロコマ」という魚との関連も考えたくなります(考え過ぎ)。

庭庶無若(てしむわっか)

ni-us-yam-wakka?
樹木・多くある・冷たい・水
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
美幌川を南に遡ると、美幌町福住のあたりで「弥生川」という西支流が合流しています。合流点のすぐ西には標高 145.8 m の山があり、その頂上付近に「庭庶無若」という三等三角点があります。「庭庶無若」は「てしむわっか」と読むらしいのですが……なかなか凄い字を当てたものですね。

この「庭庶無若」こと「てしむわっか」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき地名が見当たりません。明治時代の地形図を見てみると……三角点の対岸あたりに「チエプワタラ」という地名(だと思う)が描かれていました。また、少し南の東岸には「ウンヤㇺワㇰカ」という地名(だと思う)が描かれていました。

知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には、次のような記録が見つかりました。

(295) ニウシワッカ(Niushi-wakka)(左岸) ニ(木),ウㇱ(多く生えている),イ(所),ワッカ(水)。「林の中にある冷水」を云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.302 より引用)
「網走郡内アイヌ語地名解」の「ニウシワッカ」の項の直前は「(294) チェプンメム」なのですが、明治時代の地形図でも「ウンヤㇺワッカ」のすぐ北に「チエプウンメム」という川が描かれているので、「ウンヤㇺワッカ」=「ニウシワッカ」と見て良さそうでしょうか。となると「ウンヤㇺワッカ」は「ニウシヤㇺワッカ」だった可能性も出てきます。ni-us-yam-wakka であれば「樹木・多くある・冷たい・水」となるでしょうか。

「ニウシヤㇺワッカ」の「ニウ」を縦書きにした際に「テ」に化けたとかで「テシヤㇺワッカ」となり、これが「テシャムワッカ」となった後に「テシムワッカ」になった……とかでしょうか。

……あ。自分の馬鹿さ加減に気がついて頭を抱えていたのですが、「庭庶無若」は「てしむわっか」じゃなくて「にわしょむわっか」だったとしたら ni-us-yam-wakka そのままじゃないですか。何故気が付かなかったんだ……。

登栄川(といえ──)

{tuy-e}
{切る}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
謎の「庭庶無若」三角点の南を流れる「弥生川」を 1 km ほど遡ると、南から「登栄川」が合流しています。明治時代の地形図には「ト゚イエ」とあるので、どうやら「トゥイエ」だったっぽいですね。

永田地名解には次のように記されていました。

Tuye        ト゚イェ        潰裂川
Shiri tuye ushi  シリ ト゚イェ ウシ  潰裂シタル山(水ノタメ)
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.484 より引用)
ふむふむ。地形図を見てみると、確かに弥生川が美幌川に注ぐあたりで山が大きく崩されています。なるほどねぇ~と思ったのですが、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には別の見解が記されていました。

(289) ツ゚イ(Tui) ツ゚エトコクシナイの簡称。ツ゚(山の走り根),エトコ(の先),クㇱ(通る),ナイ(川),すなわち,奥から出て来る山の走り根を横ぎつて行く川の義。それをツ゚エとだけ云い,それが更にツ゚イに訛つたもの。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.302 より引用)※ 原文ママ
知里さんは「ツ゚イ」(トゥイ)が tu-etok-kus-nay の省略形だとしていますが、明治時代の地形図で既に「ト゚イエ」(トゥイエ)となっていることを考えると、ちょっと違和感が残ります。

ついでに言えば tu-etok-kus-nay を「奥から出てくる山の走り根を横切る川」とするのも若干もやもやするのですが、これは「走り根(縦に伸びた山の尾根)の先の向こう側の川」だとすれば、実際の地形にも即した解と言えそうな気もします。

「ルイー」と「ルツケイ」

明治時代の地形図で既に「ト゚イエ」となっていたのであれば、松浦武四郎がどう記録していたかが俄然気になってきます。ということで戊午日誌「安加武留宇智之誌」を見てみたところ……

 またしばし上りて右のかた
     ル イ ー
 相応の川なり。またしばし過て右のかた
     ホンルイー
右小川過てしばし此辺極迂曲して其処をいき切して行よし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.343 より引用)
ここに来て突然のルイルイの登場には困惑を隠せませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「弥生川」と「登栄川」に相当する位置に「ルツケイ」と「ホンルイ」と描かれていました。

「マクンナイ」と「ルツケイ」の位置関係が実際と逆になっているようですが、このあたりは聞き書きと思われるので、その際にミスが入り込んだのでしょうか。

「ルツケイ」は rutke-i で「くずれた・所」と読めます。「トゥイエ」は {tuy-e} で「{切る}」ですが、tuy-i で「くずれる・所」と解釈することも可能でしょうか(若干怪しいですが)。ポイントとしては、「ルツケイ」も「ト゚イエ」も大枠で「崩れたところ」を意味するというところで、この川(あるいは河口付近の地形)は「崩れたところ」として認識されていた、と言えそうです。

知里さんの記録した to-etok-kus-nay も気になるところですが、ここまで見た限りでは「崩れたところ」説は無視できないように思えます。

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2022年5月20日金曜日

紀勢本線各駅停車 (プロローグ 1) 「熊取・日根野・長滝・新家・和泉砂川」

ある晴れた日の朝、天王寺駅にやってきました。2016 年 6 月の出来事です。
京橋発和歌山行きの「紀州路快速」がやってきました(前 5 両が関西空港行きの「関空快速」で、後ろ 3 両が和歌山行きの「紀州路快速」だったと思います)。これまでの車輌だと中吊り広告があったスペースに液晶ディスプレイが設置されていて、着席中の乗客にも各種の案内が見やすくなっています。

2022年5月19日木曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(下船編)

敦賀港行き直行便の「すいせん」は、苫小牧東港を出港してから 19 時間半ほどが過ぎ、福井市の西方の沖合を航行中です。入港予定時刻は 20:30 なので、あと一時間ほどで下船することになります。
ここまでの航行ルートが図示されています。地理院地図に図示されている航路と比べて随分と直線的ですが、おそらくこれがほぼ正解なんでしょうね。

2022年5月18日水曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(夕食編)

約束の時間になったので、5 甲板のグリルにやってきました。朝食や昼食の時と同じく、チケット代わりの紙を係の人に渡すと席に案内して貰えます(なお夕食時に渡した紙は回収されてしまいますので念のため)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業形態などが変更されている可能性があります。

テーブルにはグラスが用意されていて、ドリンクメニューも置かれています(代金は食事終了後に現金で支払います)。ただ下船まで 3 時間を切っているので、流石にドライバーの飲酒は NG ですよね。

2022年5月17日火曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(電波編)

昼食後の船内ウロウロを終えて部屋に戻ってきました。あとは夕食までのんびりと待つだけですが、「コンファレンスルーム」で映画を見ることもできますし、また繁忙期はパフォーマーの方が乗船している場合もあります。この日はジャグリングのショーが企画されていたのですが、よく見ると「映画上映」と「ジャグリング」は見事に時間が被らないようになっていますね!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業形態などが変更されている可能性があります。

DVD を見たり風呂に入ったり

ということで、コンファレンスルームで映画鑑賞(今もやってるんでしょうか?)も良いですが、スイートの船室には DVD プレーヤーが設置されているので……

2022年5月16日月曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(オープンテラス編)

「すいせん」の船内を一通り見て回った筈ですが(「キッズルーム」をスルーしているのはうっかりミスです)、そう言えば、まだ見ていなかった場所があったのを思い出しました。ということで、5 甲板の廊下をテクテク歩いて……
船室の最前部にある「フォワードサロン」から、最後部の「オープンテラス」に向かいます。レストラン横の廊下を抜けると目的地です。

2022年5月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (935) 「チグサ藻琴川・シンプイ藻琴川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チグサ藻琴川(ちぐさもこと──)

chep-sak-{mokot-to}
魚・持たない・{藻琴川}
(典拠あり、類型あり)
藻琴湖に注ぐ「藻琴川」を南に遡ると東藻琴の市街地があります。山田秀三さんは「南藻琴と呼びたい処であるが,なぜか東藻琴村と称した」と記していましたが、確かに「南藻琴」のほうが適切な感じが……。

「チグサ藻琴川」は「藻琴川」の西支流で、東藻琴の市街地の北(網走市域)で藻琴川に合流しています。国道 334 号がチグサ藻琴川を横断するあたりの地名は「大空町東藻琴千草」です。

「チグサ藻琴川」と「畜沢藻琴」

「千草」という地名は「千歳」と同様の瑞祥地名のようにも思えますが、「大空町東藻琴」の北北西、チグサ藻琴川の西に「畜沢藻琴」という三等三角点があります。「畜沢藻琴」は「ちくざわもこと」と読むとのこと。「畜沢」が「チグサ」に化けた可能性が出てきたと同時に、瑞祥地名説は少し怪しくなったでしょうか。

ちょいと話を逸らしますと、道内にもいくつか「筑紫──」という地名があるのですが、これは九州の「筑紫」に由来するのか、それとも chi-kus(我ら・通行する)に由来するのかが判断できない場合が多く、いつも悩みの種になっていました。特に布部駅(富良野市)の東に聳える「筑紫岳」は、未だに判断がつかないままです。

「チグサ藻琴川」の「チグサ」からも似た感触があったのですが、明治時代の地形図を眺めてみたところ、そこには「チエㇷ゚サㇰモコトー川」の文字が。これは一本取られた……というか、斜め上を行かれた感もあるのですが、chep-sak-{mokot-to} で「魚・持たない・{藻琴川}」だったようです。

畜沢藻琴ちくざわもこと」という珍妙な名前の三角点も「チェプサクモコトー」から音訳したと考えることもできますし、あるいは「ク」を「ワ」に読み間違えたのかもしれません。

「チェプサクモコトー」はどこに

「東西蝦夷山川地理取調図」を良く見てみると、「モコト」(=藻琴湖)に注ぐ川として「チヱフシヤク」という川が描かれていました。この「チヱフシヤク」については、戊午日誌「東部安加武留宇智之誌」にも次のように記されていました。位置関係を正確に把握するために、ちょっと引用が長くなりますがご容赦ください。

 並びてしばし西え当りて、是沼の源なる相応の川有
     シユンクウシモコトウ
 と云よし。此川すじ松有るによつて号。また此シユンクウシモコトウの源え到るや、川筋二ツに分れて、カシユンナイとモコトウイトコとに成るよし也。然し高山はなしと云。扨此川口より西の方え廻るや、しばしにて
     ヲン子ナイ
 また並びて少し北により
     シイキナウシナイ
 此処煮て喰草多きより此名有るよし也。シイとはシユケと云儀にて煮る儀也。並び
     ヲロマナイ
     チエプクシヤクモコトウ
 此川如何成儀なるか魚類少しと云り。また並び
     チエプウシナイ
 此川魚類多きより号。またしばしを過
     チブタウシナイ
 是山え行もの此処え舟を置て山え上るが故にいつも舟が有るによって号るとかや。周廻凡五里と思わる。歩行にて廻らば凡七八里もあるべし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.352-353 より引用)
とりあえず chep-sak-{mokot-to} は「魚を持たない藻琴川」と見て間違い無さそうな感じですね。あとは「チヱフシヤク」は藻琴湖に注ぐ川だったのか、それとも現在の「チグサ藻琴川」のことなのか……ですが、「東部安加武留宇智之誌」の内容を見る限りは「藻琴湖に注ぐ川」であるように読めます。

この記述で問題になりそうなのが、そもそも藻琴湖の西側に「ヲン子ナイ」「シイキナウシナイ」「ヲロマナイ」「チエプクシヤクモコトウ」「チエプウシナイ」「チブタウシナイ」と言った川が存在する余地があるのかという点です。現在の地形図を見る限りでは余地は見当たらないのですが、「東部安加武留宇智之誌」を良く見ると「周廻凡五里と思わる」と記されています。

これは「周囲約 20 km」ということになりますが、現在の藻琴湖の周囲は約 6 km とのこと。ただ大正時代の「陸軍図」では藻琴湖の南側が広大な湿地として描かれていて、これらを湖に含めたとすると「周囲約 20 km」という記録も妥当に思えてきます。また湖の西に「ヲン子ナイ」以下の川が存在する余地も出てきます(現在「山里川」と呼ばれる川が「ヲン子ナイ」だった可能性もありそうです)。

「シユンクウシモコトウ」と「チェプンモコト」

なお、ほぼ余談ですが、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

(398) シノモコト(Shino Mokoto) 「真の・藻琴川」。藻琴川の本流の川上。これをチェプンモコト(Chep-un-Mokoto)ともいう。チェプ(鮭),ウン(入る),モコト(藻琴川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.311 より引用)
戊午日誌「東部安加武留宇智之誌」では藻琴川の本流を「シユンクウシモコトウ」としていて、それとは別に藻琴湖に注ぐ「チエプウシナイ」という川があるとしていました。一方で知里さんは藻琴川の上流部が「チェプンモコト」だとしていて、やや異同が見られます。

シンプイ藻琴川(しんぷいもこと──)

simpuy-{mokot-to}
湧き水の穴・{藻琴川}
(典拠あり、類型あり)
東藻琴(旧・東藻琴村の中心地)の北東で藻琴川と合流する東支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい名前の川が見当たりませんが、明治時代の地形図には「シユンプイモコトー川」と描かれていました。

「シンプイ藻琴川」沿いの一帯は「大空町東藻琴新富」という地名ですが、この「新富」は「しんとみ」と読むとのこと。ただ「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 新富 (しんとみ) シンブイ藻琴川流域地帯,もとシブイ藻琴といったところ。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.445 より引用)
これだけでは「新富」が「シンプイ」に由来するかどうかは何とも言えないのですが、よく見ると少し下にこんな記述がありました。

 千草(ちぐさ) チブサ藻琴川中流地域,もとチプサ藻琴といったところ。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.445 より引用)
さてこれをどう見たものか……。「チエㇷ゚サㇰ」が「千草」に化けた可能性はかなり高いと思えますが、「シンプイ」が「新富」に化けたと言えるかどうかは、旧・東藻琴村の北部に「稲富」があったり「ポンチグサ川」の上流部に「福富」があったりするので、何とも言えないですね……。

本題の「シンプイ藻琴川」に戻ると、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のように記されていました。

(399) シンプイモコト(Shimpui-Mokoto) シンプイ(湧き水の穴)。シンプイ・モコト(湧き水の穴ある藻琴川)。シノモコトの枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.311 より引用)
こちらは特に疑問を差し挟む余地は無さそうですね。simpuy-{mokot-to} で「湧き水の穴・{藻琴川}」と解釈して良さそうです。

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2022年5月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (934) 「那寄川・オムニナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

那寄川(なよろ──)

nay-oro
川・のところ
(典拠あり、類型あり)
網走市東部、藻琴湖と濤沸湖の間を流れる川の名前です。面白いことに、これだけ短い川でしかも大きな湖に挟まれていながら、那寄川自体は海に向かって流れています。

明治時代の地形図を見てみると、藻琴沼の周辺に「濤沸」「藻琴」「娜寄」「新栗履」の文字が並んでいます。いずれも当時の村の名前らしく、那寄川の(僅かな)流域の上には「娜寄」とあります。字が微妙に異なりますが、「娜寄」も「なよろ」と読ませていたようです。

「東西蝦夷山川地理取調図」にも沿岸部の地名(川名?)として「ナヨロ」と描かれていました。また「竹四郎廻浦日記」と戊午日誌「東部安加武留宇智之誌」にも「ナヨロ」とあるほか、永田地名解にも次のように記されていました。

Nai-oro   ナヨロ   小川 娜寄村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.476 より引用)
どこからどう見ても nay-oro で「川・のところ」っぽいのですが、念のため知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」も見ておきましょうか。

(400) ナヨロ(Nayoro) ナイ・オロ(川・の所)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.311 より引用)
あ、やっぱり……。藻琴湖と濤沸湖の間は台地になっていて、那寄川は台地に切り込みを入れたような感じで流れています。そのため「窪地のところ」に近いニュアンスで「川のところ」と呼ばれた……のでしょうね。

オムニナイ川

o-to-un-nay?
河口・沼・そこに入る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
濤沸湖の西部に注ぐ川の名前です。地理院地図には川としては描かれていませんが、河口付近に湿地に囲まれた大きな沼が描かれているところです。

明治時代の地形図には「オインナイ」と描かれていました。別の大縮尺の地形図には「オナンナイ」と描かれているのですが、どちらも意味不明な感じがします。

さて困った……ということで知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」を見てみると……

(413) オチンナイ(O-chin-nai) オ(そこで),チン(生皮を張つて乾す),ナイ(沢)。ワッタルンナイの枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.311 より引用)
ふむふむ。「オインナイ」と「オナンナイ」はどちらも意味不明だったのですが、「オチンナイ」の誤記ではないか……とのことですね。

ただ、「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると「トンナイ」と言う名前の川(と思われる)が描かれていて、「竹四郎廻浦日記」にも次のように記されていました。

其字西の方 ウヽツルシ、マル(マ)、ヲトンナイ、ヲン子ナイ、ウカルスべ、ホノア子、シヘツ、チヒアニ、ヲチヤヲチヤシヨ、此処川の東岸に当る。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.387-388 より引用)
この「マル」はおそらく「丸万川」のことで、「ヲン子ナイ」は「オンネナイ川」のことだと考えられます。となると現在の「オムニナイ川」に相当するのは「ヲトンナイ」ということになりますね。「東西蝦夷──」では「トンナイ」でしたが、まぁ誤差の範囲でしょう。

最初に記した通り、「オムニナイ川」の河口付近にはそこそこ大きな「沼」があります。そして「トンナイ」あるいは「ヲトンナイ」という記録があるのであれば、o-to-un-nay で「河口・沼・そこに入る・川」と考えるのが自然に思えるのですが……。

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2022年5月13日金曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(フォワードサロン編)

「すいせん」の船内では、各種スポットの位置(方向)を示すピクトグラムをところどころで見かけます。4 甲板が上から「案内所」「ショップ」「キッズルーム」「自動販売機コーナー」で、5 甲板が「レストラン」「カフェ」「アミューズボックス」「マッサージコーナー」、そして 6 甲板が「コンファレンスルーム」「大浴場」「スポーツルーム」「ゲームルーム」ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業形態などが変更されている可能性があります。

そして、ここに来て新しいピクトグラムが出てきました(白々しい)。前日の新聞を広げてドヤ顔をキメられると評判の、あのスポットです。

2022年5月12日木曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(昼食編)

12 時になったので、5 甲板の「グリル」で昼食を頂きます。チケット代わりの紙を係の人に手渡すと席まで案内してもらえるのは朝食のときと同様です。
【ご注意ください】以下の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業形態などが変更されている可能性があります。

案内された席は朝食のときと同じだったでしょうか。ソーシャルディスタンスも引き続きバッチリです!(汗)

2022年5月11日水曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(続・船内ウロウロ編)

「船内クイズラリー」も無事クリア?したので、ちょっとだけ船内ウロウロを再開です。「第 3 問」が張り出されていた 5 甲板エレベーター横には、こんな小部屋がありました。
【ご注意ください】以下の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業形態などが変更されている可能性があります。

この小部屋は「アミューズボックス」という名前です。ピクトグラムを見た限り、明らかに「カラオケボックス」だと思われるのですが、何故か名前は「アミューズボックス」なんですよね。謎のこだわりがあるのでしょうか(あるいは商標絡み?)。

2022年5月10日火曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(クイズラリー編)

4 甲板の「ショップ」前にやってきました。食べ物や飲み物だけではなく、土産物や船内限定グッズなども販売しているお店ですが……ご覧の通り、この時間は閉店中でした。新型「すずらん」「すいせん」では「ショップ」と「案内所」が隣り合っていて、中の人が掛け持ちできるようになっています。
【ご注意ください】以下の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業形態などが変更されている可能性があります。

「案内所」の前を通り過ぎると、下船口に向かう通路の角に折りたたみ机が置いてあり……

2022年5月9日月曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(朝の船内ウロウロ編)

「グリル」での朝食を済ませたので、とりあえずチケット(紙)を部屋に戻してから、朝の船内ウロウロ、行ってみましょう。
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コンファレンスルーム

6 甲板のエレベーター前にやってきました。乗船・下船時にキャリーバッグを転がしている時は多少待ってでもエレベーターのお世話になりたいものです。

2022年5月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (933) 「地位問山・モセウシ川・新栗履」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

地位問山(ちいといやま)

chi-e-toy-nay
我ら・食べる・土・川
(典拠あり、類型あり)
網走市の「ソオラルオツナイ川」と、その支流の「平和川」の間に標高 217.9 m の山があり、その頂上付近に「地位問山」という三等三角点があります。この山は網走市と北見市常呂町の間の分水嶺よりも僅かに東側(網走市側)に位置していますが、何故か市境も「地位問山」のほうにせり出してしまっています。

山の東側の川の名前は「ソオラルオツナイ川」と「平和川」なのでどうしたものか……と思ったのですが、明治時代の地形図を見てみると、現在「伊藤沢川」と呼ばれる川の位置に「チエトイ川」がありました。三角点は網走側にあったのですが、山名は常呂側の川から来ていたんですね……。「しもた!」と思ったものの後の祭りということで。

戊午日誌「西部登古呂誌」には次のように記されていました。

また未申の方に向ひて十丁計も過る哉
     チエトイナイ
同じく左りのかた山の平に小沢有。此沢目二三丁を陸行せば崩平よりチエトイ出るなり。其名義是によつて号。チエトイとは喰ふ土の事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.160 より引用)
あー。chi-e-toy-nay で「我ら・食べる・土・川」と考えて良さそうですね。「チエトイ」は珪藻土の一種ですが、もちろん土をパクパク食べる訳では無く、アク抜きの調味料として用いたとのこと。

折角なので、久しぶりに「樺太アイヌの生活」から引用しておきましょう。ちょいと長いですがお許しを。

 チエトィは硅藻土である。アイヌは山から採取して来て常に貯へて,この料理に用ひる。この土が存在する場所を,アイヌはよく承知してゐて,時々採取に出かける。けだし,アイヌの食生活に於ける唯一の鉱物質食料である。このチエトィは,採取したら先づ犬に食はせて,その安全性の保証を得た上で,食用とする。チエトィは či-e-toj 「我等が・食べる・土」の意である。
知里真志保知里真志保著作集 3『樺太アイヌの生活』」平凡社 p.193 より引用)
このように「チエトイ」は「我ら・食べる・土」なのですが、以下に具体的な調理法が示されています。

チカリペに必ずチエトィを用ひるのは,野草のアクを抜き,海豹の強烈な油を適当に中和するのに役立つかららしい。アイヌは,チエトィの入ったチカリペは「甘い」といひ,「チカリペ程,美味しい御馳走はない」といふ。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『樺太アイヌの生活』」平凡社 p.193 より引用)
「『チエトイ』はアイヌの食用土である」という表現からはあらぬ誤解を招く虞があるので、くどいようですが念のため……。

2022年5月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (932) 「手師学山・太茶苗・姉問」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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手師学山(てしがくやま)

tes-oma-nay
梁・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
北見市(旧・常呂町)と佐呂間町を結ぶ「仁倉峠」という峠(道道 655 号「仁倉端野線」)があるのですが、峠から 1.6 km ほど東に「手師学山」という名前の二等三角点があります(標高 216.3 m)。

山の南側を「隈川」が流れていて、常呂川と合流するあたりにかつて「手師學村」がありました。「手師學」で「テショマナイ」と読ませようとしたものの、流石に無理があったのか、後に「てしがく」と改められたとのこと。既に失われた地名だと思っていたのですが、三角点名に残っていたというのは驚きです。

ちなみに「手師学山」三角点が設定されたのは 1916 年とのこと。手師學村は直前の 1915 年に「常呂村」「少牛村」「太茶苗村」と合併しています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トコロ」(=常呂川)の西支流として「テシヲマナイ」という川が描かれています。一方で戊午日誌「西部登古呂誌」には次のように記されていました。

其を行に凡七八丁過て
     テシヲマナイ
左りの方小川有。此川往昔より此辺の土人等の漁場にして、毎年テツシを懸て取る故に此名有るよしなし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.177 より引用)
おっと、こちらは「左りの方」とありますね。松浦武四郎は常呂川の河口付近から川を遡っているので、「左」は「東側」を意味します。

さてどちらが正しいのだろう……という話ですが、明治時代の地形図には、現在「39号沢川」と呼ばれる川の位置に「テシオマナイ」と描かれていました。「39号沢川」は常呂川の東支流なので、「東西蝦夷──」が「西支流」として描いたのが間違いだった可能性が高まりました。

「テシヲマナイ」は tes-oma-nay で「梁・そこにある・川」と見て良いかと思います。tes は遡上する魚を捕らえるための「やな」であったり、あるいは「梁のような岩」を意味する場合もあるのですが、ここは「梁」そのものがあった、という認識のようですね。

それにしても、本来は川の名前だった「テシヲマナイ」が、村の名前を経由して村はずれの無名峰の三角点の名前として生き延びている……というのは、なんとも面白い話ですね。

太茶苗(ふとちゃなえ)

putu-ichan-nay
口(河口)・鮭鱒の産卵場・川
(典拠あり、類型あり)
かつての「手師學村」の北隣にあった集落の名前で、ここもかつては「太茶苗村」でした。もっとも当時の「村」は十数戸程度の規模のものも少なくなく、ここもそういった「ミニ村」の一つだったのでは……と思われます。

この「太茶苗」も「失われた地名」だと思っていたのですが、常呂川とポン幌内川の間にある三等三角点の名前として健在でした(標高 415.4 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トコロ」(=常呂川)の東支流として「クトイチヤンナイ」という川が描かれていました。この川については、戊午日誌「西部登古呂誌」にも次のように記されていました。

上りて
     クトイチヤンナイ
右のかた平地、左りの方平山の下に小川有。其下浅瀬に成此処に鮭魚卵をなすが故に号るとかや。本名はプトイヂヤンナイと云義のよし。其訳フトとは川口、イチヤンは鮭魚卵を置処を云り。川口に鮭魚卵を置と云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.163-164 より引用)
「クト」と言えば kut で「帯状に岩のあらわれている崖」なので、「鮭鱒の産卵場」を意味する ichan との繋がりが少々謎だったのですが、どうやら「クト」は put(u) が訛ったものではないか、とのことですね。

「太茶苗」は putu-ichan-nay で「口(河口)・鮭鱒の産卵場・川」ではないか……ということでしょうか。「河口に鮭鱒の産卵場がある川」であれば o-ichan-un-pe と呼ぶケースが比較的多い印象がありますが、ここでは o- ではなく putu- なのが特徴的ですね。何故そうなのかは良くわかりませんが……(汗)。

2022年5月6日金曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(朝食編)

船上で朝を迎えました。時間は間もなく 8:30 になろうかと言うところで、敦賀行き直行便「すいせん」は秋田県は入道崎の沖合を航行中です。
【ご注意ください】以下の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業形態などが変更されている可能性があります。

「スイートルーム」と「ジュニアスイートルーム」の船客には、「グリル」での朝食が付帯しています。朝食の提供時間は 8:30 からとのことですので、急いで「グリル」に向かいましょう。

2022年5月5日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (134) 久保田(秋田市) (1878/7/23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十二信」(初版では「第二十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

絹織工場

久保田城(秋田市)の師範学校で英語と日本語がトゥギャザーした(推測)会話を済ませたイザベラは、その足で次の訪問地に向かったようです。「普及版」の第二十二信は「七月二十三日」付になっているので、「師範学校」と「絹織工場」をまとめて一日で回った……と考えられます(読み違いがあったらすいません)。

私の次の訪問は、手織り機による絹織工場の見学であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.258 より引用)
明治期の紡績工場と言えば「富岡製糸場」であり、そして「女工哀史」に「あゝ野麦峠」ですね。厳密には「製糸場」と「絹織工場」は別物かもしれませんが、どちらも「紡績工場」というカテゴリーで括ることは可能でしょうか。

そこでは、百八十人が働いていて、その半数は女性であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.258 より引用)
これはうっかりスルーしてしまいそうですが、よく読むと「絹織工場の従業員の半数は男性だった」ということですよね。思わず旧ソ連のアネクドートを思い出してしまいました。

Q: 党中央委員の半数が白痴だと言うのは事実でしょうか?
A: それは事実ではありません。中央委員の半数は白痴ではないのです。

女性の仕事

今日では、当時の紡績工場の劣悪な労働環境が「過労死」を招いたことが知られていますが、イザベラは素直に「女性の社会進出」を好ましいものであると見ていたようです。

女子にとってりっぱな仕事が産業界に新たに開けたことは、非常に重要である。これはきわめて必要な社会改革へ進む傾向を示す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.258 より引用)
イザベラにしてみれば「過労死」問題は想像を絶するものだったのかも知れませんが、「初版」では「対立と不調和」と題した一節において、当時の日本が「西洋の機械文明」を貪欲に取り込む一方で「キリスト教社会の価値観」を嘲笑し拒絶していたことを記していました(昨日の記事)。

産業革命により人々の「労働者階級」と「資本家階級」への二分化が進む中、宗教に裏打ちされた「価値観」(あるいは「倫理観」)は「資本家階級」と「支配者階級」の暴走を防ぐ「安全装置」としての役割も果たしていた……と考えると、日本において「ブラック企業」や「労働報酬の搾取」が蔓延っているのも納得できてしまう……ような気もします。

「キリスト教の価値観」を社会規範として *強要* することは、最終的には「異教徒の迫害」に繋がるのですが、一方で日本のように「宗教的価値観(倫理観)の否定」をしてしまうと「資本家の寄生虫化」に歯止めがかからない……ということになってしまいます。しかもその上に「異民族の排斥」も行っているとなると、もはや救いようがない印象も……。

要は「人としての最低限の倫理観くらい持ち合わせようよ」ということなんですが……。

警官の護衛

絹織工場の見学を終えたイザベラは、その足で久保田(秋田)の街中の散策に出かけます。舶来品と思しき「掘り出し物」をゲットしたイザベラでしたが……

あちらこちら店を探しまわってようやく「イーグル」印の練乳を買った。商標は結構なのだが、開けてみると、茶褐色の乾いた小さな球状の凝乳が入っていた。しかもいやな臭いがしていた!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.258 より引用)
あー……。似たような話はこれまでも何度もありましたが、品質管理(保管を含む)がダメダメだったのか、あるいは「パチもん」だったのか……。もちろんこの両方が相まった可能性も高いのですが、凄まじく残念な話です。

当時の日本においてはイザベラは「異人さん」であり、時には「人ではないなにか」と目されていたかもしれないのですが、いずれにせよ人目を引く存在であったイザベラは、久保田(秋田)でも大勢の群衆による好奇の視線に晒されていたようです。

群集のため窒息しそうになって私が店に腰を下ろしていると、急に人々は遠慮して遠ざかったので、私はやっと一息ついた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.258 より引用)
ところがイザベラを取り囲んでいた群衆は急に大人しくなります。イザベラの「街ブラ」が群衆を集めていたことに気づいた警察署長が機転を利かせて護衛をつけた効果が早速現れた、ということだったようです。

帰ってみると、警察署長の名刺があり、群集が迷惑をかけてすまない、外国人が久保田を訪れることは非常にまれであり、人々は外国婦人を今まで見たことがないと思う、という伝言を宿の主人に残してあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.258-259 より引用)
これを見る限り、久保田(秋田)の警察署長はなかなか良く出来た人物だったようですね。

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2022年5月4日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (133) 久保田(秋田市) (1878/7/24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

師範学校

イザベラは、久保田(秋田)の今で言う「大学病院」を視察するとともに、その翌日(前日説もあり)に「師範学校」を訪問し、その教育システムについても詳らかにレポートしていました。流石に師範学校における教育の実際は、「奥地紀行」を期待している読者にとっては思いっきりオフトピックなので、「普及版」ではバッサリとカットされています。

 25人の先生と6歳から20歳までの700人の生徒がいて、読み方、書き方、算数、地理、歴史、ジョン・スチュワート・ミル流の政治経済学、化学、植物学、自然科学の学科、幾何学、計測法が教えられています。6歳から14歳までの授業料は月額15銭で、それ以上の年齢の生徒は月額25銭です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.94 より引用)
イザベラが「師範学校」についてもおそろしく詳述しているのは、奥地紀行のスポンサーであるイギリス政府向けの報告書を兼ねていたからだと思っているのですが、ここまで来ると逆に「何故この内容で『初版』を公刊したのか」とすら思えてきます。

推測に推測を重ねるならば、「謎の国ジャパン」についての Deep Dive を公刊することで、政府関係者のみならず民間にも「日本という未知なる市場」への理解を広めよう……と考えたのかもしれませんし、単にイザベラがレポートを二つまとめるのが大変だった……というオチなのかもしれません。

生徒は個別の机に背もたれ付きのイスに坐っています。学校備品の様式はアメリカ式です。50フィート平方の広さの試験室が二つあります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.94 より引用)
この文だと、「日本は西洋風の学校の整備を進めているので、学校の備品の買い手として有望である」と読めそうな気もするんですよね。

 私は、前に久保田では、外国の影響はほとんど感じられないと書きましたが、それは外国人から直接に教えを受けないという意味で言ったのであり、学校も病院も、西洋科学とそのシステムが普及しています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.94 より引用)
イザベラは、久保田(秋田)に「外国人が関与すること無く日本人が独力で建設した病院がある」と聞いて、大いに興味を持つと共に、実は密かに脅威に感じていたのかもしれません。ただ実際に見学してみると「西洋のやり方をそっくりそのまま咀嚼したもの」だったと判明したので、やや拍子抜けした……というのが正直なところだったのでしょうか。

牧師の家に生まれたイザベラは、奥地紀行に際して教会からも少なからぬ支援を受けていました。スポンサーは日本にキリスト教を広めることを考えていたと思われますが、そのためには日本人の宗教観を「正しく理解する」ことが重要となります。ここでイザベラは興味深い問いを投げかけていました。

ここを発つ前に、私が、答えは承知しつつ、宗教は教えているかと教師に訊いたとき、二人の紳士とも明らかに侮べつした笑いを隠そうとせず──「私たちには、宗教というものはありません。」とその教師は言った。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.94 より引用)
注目すべきは「答えは承知しつつ」とある点で、イザベラは明らかに読者であるスポンサーのために(聞かなくても答えがわかっている)問いを投げかけた、ということになります。

西洋社会においては「無宗教なのは無知蒙昧だから」と理解されるおそれがありますが、イザベラは日本人が無知蒙昧である……としたかったのか、あるいは「既存の宗教が無いのはビッグチャンスである」と捉えたのかは……どちらなんでしょうね。イザベラはこれまでも何度も「日本人の信仰の薄さ」を実感していて、それは不幸なことである、と考えていた節があります。

対立と不調和

イザベラは「対立と不調和」(原題 "Contrasts and Incongruities")と題された一節にて、社会規範としての「宗教」が存在しない(当時の)日本の現状を次のように書き記しています。

 帝位は破砕された宗教的虚構に立脚し、国家宗教[神道] は、これを小馬鹿にしている人々から表面上の敬意を払われていますが、知識階級の間では無神論がはびこり、一方で無知な僧侶階級が下層階級に対して大きな顔をしています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.94 より引用)
イザベラの「日本奥地紀行」は 1878 年の出来事ですから、ちょうど「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れた数年後だったことになります。「僧侶階級」にはリストラを含めた厳しい目が向けられている時期ですが、一方で「現人神」を崇める「国家神道」の中央集権的な体制は確立していなかったことになりますね。

これまでの経験から「日本人の信仰の薄さ」を実感していたイザベラですが、ここでは近代化に邁進する日本の「矛盾」を一歩踏み込んだ表現で「批判」していました。当時の日本のやり方は「和魂洋才」そのものだったのですが、さすがのイザベラもこの考え方には辿り着けなかった、ということかもしれません。

その頂点には素晴らしい専制体制があり、底辺には裸の下級労働者クーリーがいて、その最高の信仰箇条が臆面もない物質主義であり、そして物質主義が目的であるような一つの帝国は、キリスト教文明の果実を改良し、破壊し、建設し取り入れられているが、その果実を生み出す源の木は拒んでいる──このようなものが、至るところにある対立と不調和のうちにあるのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.94-95 より引用)
西洋の開かれた「文明」はキリスト教の賜である……という考え方があり、それは今も大枠では変わっていないと思われます。故に「異教徒」が難民として押しかけることは「社会の根幹を揺るがす事態」であり、排斥も正当化される……という考え方に行き着くことになりますね。この考え方は忌むべき過去の遺産だと思われるのですが、残念なことに「三つ子の魂百まで」になってしまっているような気もします。

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2022年5月3日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (132) 久保田(秋田市) (1878/7/23-24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

医師資格

久保田(秋田)の病院を一通り見て回ったイザベラが事務室に戻ると、そこには英国風の食事が準備されていました。

 一巡り見てから私たちが事務室に戻ってみると、英国風に食事が並べられていた──お皿の上にコーヒーの入った柄のついた茶碗、それからスプーンをつけた小皿。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
一見、何の変哲もない文章にも見えますが、この先を読み進めるとこれがちょっとした伏線?だったようにも思えてきます。

東京から来たばかりで、まだ三十歳にもならぬ萱橋カヤバシ医師や、職員や学生が、すべて和服で、りっぱな絹織のハカマを着用しているのを見て嬉しかった。

何度も繰り返しになりますが、この「萱橋医師」は、原文に Dr. Kayobashi として登場していた人物のことで、当時の新聞記事に「医員小林さん」と紹介されていた人物のことです。イザベラが気を遣って仮名にしたというよりは、単に聞き間違えた可能性がありそうな……。

イザベラは病院関係者が和服姿だったことを好ましく感じていたようで、これは現在でも欧米からの観光客が和装を好むのと通底するように思えます。イザベラは「和服は美しい」と前置きした上で「和服をつけると威厳が増す」とし、そして「洋服をつけると逆に(威厳が)損なわれる」と記していました。

日本人が西洋人のように洋服を着てしまうと、やはり体格差などがそのまま現れてしまって見るに堪えない……と感じていたのかもしれません。もちろんイザベラのことですから、「借り物の洋服よりも自前の『民族衣装』が良い」と考えた……というのもあったことでしょう。

師範学校

久保田(秋田)で「大学病院」を視察したイザベラは、翌日(異説あり)に「師範学校」も視察していました。イザベラはその前置きとして、街の印象を次のように記しています。

 公共の建物にはりっぱな庭があり、傍を走る幅広い道路があり、石で上張りをした土手があって、このように都から遠く離れた県にしては珍しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
身も蓋もない言い方をすれば「地方なのにスゲーなオイ」ということになるでしょうか。イザベラはその中でも「最もりっぱな建物」として「師範学校」を挙げていて、旅券持参で旅行目的を説明することでようやく見学を許されました。

このような手続きが終わると、校長の青木保アオキタモツ氏と教頭の根岸秀兼ニギシシユヂカネ氏が私を案内してくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
原文では、「アオキタモツ」氏は Mr. Tomatsu Aoki となっていて、謎の「ニギシシユヂカネ」氏は Mr. Shude Kane Nigishi となっていました。実は「ニギシ・シュード=ケーン」氏だった可能性も……(無い)。洋装の二人の紳士について、イザベラは次のように記しています。

彼ら二人は洋服を着ているので、人間というよりも猿に似て見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
うわー、やっちゃいましたね。今ではとても許される表現ではありませんが、19 世紀の西洋ではこのような差別的な認識もまかり通っていた、ということが良くわかります。

 校長はなんとか英語で話そうとするので、とても辛そうであった。彼の英語たるや、私の日本語と変わりがなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
校長の青木氏が湯気を出しながら全力でルー語をしゃべっていたと考えると微笑ましいですが、更に微笑ましいのが、イザベラの訪問を報じた「遐邇かじ新聞」の記事では「青木君も元来英語に通じたる方なれば、答弁いささかも差し支え無く」とあることでしょうか。これは青木氏に「忖度した」のか、それとも日本人の夜郎自大ぶりが丸出しだったのか……?

なお、教頭の「ニギシシユヂカネ」こと根岸氏もルー語英語での「異文化コミュニケーション」にトライしたものの敢え無く玉砕し、通訳(伊藤氏)経由でのやり取りになったとのこと。

素晴らしき「師範学校」

イザベラによると、この師範学校は「ゆったりとして広いヨーロッパ風の建物」だったとのこと。三階建ての建物にはバルコニーもあったようで……

階上のバルコニーから町を眺めると、灰色の屋根や緑豊かな町、周囲の山々や谷間が見えて非常に景色がよい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256-257 より引用)
随分と「お褒めの言葉」が並んでいるように見えます。この建物がどこにあったのか気になったので少しググってみたのですが、秋田大学の Web サイトに「秋田師範学校」というページが見つかりました。イザベラが師範学校を訪問したのは 1878 年(明治 11 年)のことですから、当時は「東根小屋町」にあったと言うことでしょうか。秋田駅の西側、久保田城の南側のあたりのようですね。

イザベラはバルコニーからの眺めに感銘を受けただけでは無かったようで……

いろいろな教室の設備、特に化学教室の実験器具や、博物教室の説明器具が実にすばらしいので驚いた。ガノーの『物理学』が、理科の教科書になっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.257 より引用)
うーん……。こういった記述を目にするたびに、「昔の日本」は今の日本よりも豊かだったんじゃないかと思えてしまうんですよね。今の日本のほうが昔よりも豊かなのだとすれば、金のかけどころを明らかに間違っているということになりそうな気が……。

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2022年5月2日月曜日

春の新日本海フェリー「すいせん」スイートルーム "Avignone" 乗船記(続・出港前ウロウロ編)

引き続き、出港直前の敦賀行き直行便「すいせん」の船内をウロウロします。

【ご注意ください】以下の内容は、特記のない限りは 2016 年 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、営業時間などが変更されている可能性があります。

自販機コーナー(両替機もあるよ)

「案内所」や「ショップ」のある 4 甲板には……
自販機コーナーもあります。

2022年5月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (931) 「敬生間布・奴振・華勝真布・中華梨場」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

敬生間布(けしょまっぷ?)

(nisey-)kes-oma-p?
(断崖・)末端・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
北見市(旧・留辺蘂町)と遠軽町(旧・丸瀬布町)の境界付近、「イトムカ鉱業所」のほぼ真北に位置する三等三角点の名前です(標高 1222.0 m)。現在の成果状態は「処置保留」ということで正確な読みは確認できていませんが、「敬生間布」は「ケショマップ」と読ませた可能性が高いかと思われます。

仮に「ケショマップ」だとすれば kes-oma-p で「末端・そこにある・もの(川)」となるのですが、何の末端であるか不明で、明らかに消化不良な感じがします。kes の前の何かが略されたと考えるのが自然でしょうか。

「上富士見川」

旧・留辺蘂町のこのあたりには「ケショマップ川」とその支流である「上ヌプリケショマップ川」「中ヌプリケショマップ川」「下ヌプリケショマップ川」が流れている他、イトムカ鉱業所の北を「ニセイケショマップ川」も流れています。ところが厄介なことに「敬生間布」三角点はこれらの川の間の、どちらの流域でも無いところに存在しています。

明治時代の地形図を見てみたところ、現在「上富士見川」と呼ばれている川のところに「ニセイケシヨマプ」と描かれていました。「敬生間布」三角点を命名した頃は現在の「上富士見川」のことを「ニセイケシヨマプ」と呼んでいたのが、どこかのタイミングで隣の川を「ニセイケショマップ川」と呼ぶようになってしまった……と考えられそうですね。nisey-kes-oma-p は「断崖・末端・そこにある・もの(川)」と考えて良さそうです。

奴振(ぬぷり)

nupuri?
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
武利川の源流の一つである「濁川」と、無加川の北支流である「ケショマップ川」の間に聳える標高 1245.1 m の山に存在する三等三角点です。「ケショマップ川」は「ヌプリケショマップ川」が一部略されたものと考えられますが、削られた「ヌプリ」が三角点の名前として生き延びている……とも言えるのかもしれません。

nupuri は「」と見て間違いないと思われますが、漠然と「山だから『ヌプリ』でいいか」と言うことではなく、「ヌプリケシヨマプ」の源流部にあったことに由来する命名だったのではないかと思われます。「ヌプリケシヨマプ」の西南西には、現在「パオマナイ川」と呼ばれる川が流れていますが、この「パオマナイ」も元々は「ヌプリパオマナイ」だったようです。

「ヌプリ」=「ユㇰリヤタナシ」?

「ヌプリケシヨマプ」と「ヌプリパオマナイ」の間には、現在「北見富士」と呼ばれる標高 1291.1 m の山が聳えています(三角点名は「三角山」)。この山自体は「ユㇰリヤタナシ」(鹿が越冬する高い山)と呼ばれていたようですが、「ヌプリケシヨマプ」と「ヌプリパオマナイ」の川名は「ユㇰリヤタナシ」と呼ばれた山に由来すると見るべきでしょうか。

つまり、「奴振」という三角点の名前は「ユㇰリヤタナシ」を指す指示代名詞としての「ヌプリ」が流れ着いた結果なのではないか……と思えます。

華勝真布(けしょまっぷ)

(nupuri-)kes-oma-p
(山・)末端・そこにある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
いつの間にか「秀逸な当て字の三角点特集」になっていますが、「華勝真布」三角点は武利川の東支流である「七ノ沢」と無加川の北支流である「ケショマップ川」(の北支流)の間に聳える山の頂上付近にある、標高 1163.0 m の二等三角点です。

「敬生間布」三角点とは異なり、こちらは大正時代に作成された「二等三角点の記」により「ケショマップ」と読むことが確認できます。kes-oma-p は「末端・そこにある・もの(川)」と考えられますが、これは川名と同様に nupuri-kes-oma-p で「山・末端・そこにある・もの(川)」だったものから nupuri- が略されたと見るべきでしょう。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

中華梨場(なかけなしば)

kenas-pa-us-i?
川ばたの林・かみて・ついている・もの
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「ユㇰリヤタナシ」こと「北見富士」の東、国道の南側に標高 943.1 m の山が聳えていますが、その頂上付近の三等三角点の名前です。中華の梨とは何だろう……と思わせますが、中・華梨場と認識するのが正解だ、ということになりますね。

現在このあたりは「北見市留辺蘂町厚和」ですが、大正時代の「陸軍図」では「梨場」と描かれていました。「華」に「ケ」とルビが振ってあるのがなかなか良心的ですね。

滝の湯の「ケナシパウシ」

明治時代の地形図を見てみると、留辺蘂町滝の湯の南東あたりに「ケナシパウシ」と描かれていました。この地名は永田地名解にも記録があり、次のように記されていました。

Kenash pa ushi  ケナシュ パ ウシ  林端ノ(山)山ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.473 より引用)
kenas-pa-us-i で「川ばたの林・かみて・ついている・もの」と解釈できそうでしょうか。pakes の対義語とも言えるもので、kes が「川下側の末端」を意味するのに対し pa は「川上側の末端」を意味する……とされます。

留辺蘂町滝の湯の南には標高 769.1 m の「丸山」という山があり、その頂上付近に「華梨場山」という三等三角点があります。「丸山」のあたりでは無加川が山裾に寄り添う形で流れているので、kenas(川ばたの平地)が存在しないことになります。kenas-pa-us-i は「川ばたの平地の末端についているもの」と考えられ、永田方正はこれを「山」としましたが、あるいは「山の麓の崖」と考えられるかもしれません。

「中華梨場」と「華梨場山」

「中華梨場」三角点は「華梨場山」から 7 km ほど離れているのですが、陸軍図では「中華梨場」三角点のあたりを「華梨場」としていて、「華梨場山」こと「丸山」の麓は「瀧湯」となっていました。移転地名の可能性も考えましたが、「中華梨場」三角点と「華梨場山」三角点はどちらも 1919 年に設置されているので、その線も無さそうです。

「華梨場山」三角点のあたりは無加川が南の山裾に寄り添うように流れていましたが、「中華梨場」三角点の北では無加川が北の山裾に寄り添うように流れていました。似た特徴を有する地形があったことからどちらも kenas-pa-us-i と呼ばれ、三角点名は混同を防ぐために「中」を追加した……と言ったあたりでしょうか。

この理屈で言えば「上華梨場」が存在した可能性も浮上するのですが、あえて場所を探してみると……留辺蘂町富士見のパオマナイ川河口付近でしょうか。

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