2023年3月31日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (18) 「西留辺蘂・金華信号場」

特別快速「きたみ」は留辺蘂を出発しました。駅を出発してしばらくの間は、留辺蘂の市街地の中を走ります。

西留辺蘂駅(A55)

一見、何の変哲もない風景ですが、西留辺蘂駅を通過中です。各駅停車……したかったんですが、こればかりはどうしようも無く……。
留辺蘂駅と西留辺蘂駅の間は僅か 2.0 km しかありません。JR も何を考えてこんな近くに駅を作ってしまったんだ……などとあらぬ誤解をしてしまったのですが、Wikipedia によると……

北海道留辺蘂高等学校への通学に利用するという地元の要望で請願駅として2000年に開設された。
(Wikipedia 日本語版「西留辺蘂駅」より引用)
あー……そういうことでしたか。留辺蘂高等学校は国道 39 号の南、国道 242 号の西に位置していて、西留辺蘂駅からは 0.9 km ほどの距離です。ちなみに留辺蘂駅には南口が無いという事情もあってか、高校までは徒歩だと 2.0 km ほど、チャリだと 2.4 km ほど走る必要があったようです(Google マップ調べ)。

ここだけの話ですが、仮に留辺蘂駅に南口が存在したと仮定すると、高校までの距離はチャリで 1.4 km に短縮されます。なので西留辺蘂駅を設置する代わりに留辺蘂駅南口を整備する……という選択肢もアリだったような気もするのですが、駅周辺に結構な数の民家が存在する、というのも隠れた理由としてあったのかな、と思わせますね。

JR 北海道もこの「請願駅」を無下にはしていないようで、西留辺蘂駅発着の列車も 1 日 2 本設定があるようです。8:02 着 → 8:22 発 と 16:31 着 → 16:51 発なのですが(2017 年時点)、あからさまに登下校に合わせたタイミングなのが微笑ましいですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

西留辺蘂を通過して無加川を渡ると、民家の数が激減して山越え区間に入ります。これはチシマザサでしょうか……?

2023年3月30日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (17) 「留辺蘂」

特別快速「きたみ」は相内駅を出発しました。前輪がはまって身動きが取れなくなっている(ように見える)トラックと、なにやら文字が記された小屋のような建物が見えますが……
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小屋らしき建物には「平和を守ろう」の文字が。日本国憲法の「戦争放棄」の理念が国の勝手な解釈によって骨抜きにされつつあるのは遺憾と言うしか無いのですが、この小屋は良く見ると左半分が欠けてるっぽいですね。団交のスローガンとかだったのでしょうか。

2023年3月29日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (16) 「相内」

東相内を出発すると、車窓には再び畑が広がります。西北見と東相内の間は市街地がほぼ一体化していますが、東相内と相内の間は市街地が途切れているんですよね。
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立派な農業倉庫が見えてきました。相内駅に到着です。

2023年3月28日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (15) 「東相内」

真っ赤な倉庫?が見えてきました。残念ながら見切れてしまっていますが、左には踏切があり、「東光通」という道路が通っています。この「東光通」は、このあたりでは珍しい、殖民区画に合致しない道です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

東相内駅(A58)

線路と出発信号機が見えてきました。間もなく東相内駅に到着です。

2023年3月27日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (14) 「西北見」

北見を出発した特別快速「きたみ」は、なんといきなりトンネルに入ってしまいました。
このトンネルは「北見トンネル」という名前で、石北本線を地下化することで 9 箇所の踏切の解消を狙った「連続立体交差事業」で建設されたものとのこと。この区間が地下化されたのは 1977 年で、連続立体交差事業による地下化は日本初だったそうです(!)。
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2.1 km の地下線を抜けて地上に戻ってきました。娑婆の光が眩しいぜ……!

2023年3月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1024) 「婦羅理川・ヒキウス川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

婦羅理川(ふらり──)

hura-ruy-moy?
臭い・甚だしい・湾
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室歯舞の集落の西側、マッカヨウ岬とヒキウス岬の間の湾状の海に注ぐ川です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「フラルムイ」という名前の川が描かれています。

明治時代の地形図には、漢字で「婦羅理」と描かれています(「婦羅理村」を意味する)。また地名としては「フラリ」、川名として「フラリモイ」と描かれています。現在の「マッカヨウ岬」の位置に「フラリモイ崎」と描かれているのは以前の記事でも記した通りです。

陸軍図では歯舞村の「婦羅理」と描かれていて、1980 年代の土地利用図でも「婦羅理」と描かれていますが、現在は「根室市歯舞二丁目」という扱いのようで、「婦羅理」は川名として残るのみのようです。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「フラルヱモヱ」と記録されています。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     フラリムイ
此処小石磯え昆布多く寄り上りて腐りたり。よつて其臭甚しきによつて号るなり。フラリは悪臭の事、ムイは湾にて、悪臭の有る湾と云儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.585 より引用)※ 原文ママ
……。なんとなく予感はありましたが、やはりそう来ましたか。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Hurari moi   フラリ モイ   臭氣灣 昆布腐リテ臭氣アル灣ナリ○婦羅理村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.362 より引用)
うーむ……。もう逃げ道は無いかと思ったのですが、更科源蔵さんが次のような助け舟を出していました。

 婦羅理(ふらり)
 根室ノサップヘ行く途中の部落。アイヌ語のフラル・モイであるという。フラルは靄のことであるが、これまでの地名解では湾内に昆布が流れよっと腐り、臭気が甚だしいので「くさい入江」と名付けたという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.275 より引用)
そうなんですよね。「におい」を意味するのは hura であって、hurar だと「靄(もや)」を意味することになるので、hurar-moy であれば「靄・湾」とも読める筈です。

となると「初航蝦夷日誌」の「フラルヱモヱ」は hurar-e-moy で「靄・食べる・湾」とかでしょうか。地形の関係で靄が流れ込むような湾だったのかな……と考えたくなります。

ただ、「フラルヱモヱ」は hura-ruy-moy で「臭い・甚だしい・湾」と捉えることもできそうです。松浦武四郎も永田方正も「臭い」と記録していて、やや異なる形で記録されている「再航蝦夷日誌」(1850) の解もこう解釈できることを考えると、やはり逃げ道は無さそうな感じです。

ヒキウス川

siki-us-i?
鬼茅・多くある・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年3月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1023) 「歯舞・イソモシリ島・ポンコタン島」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

歯舞(はぼまい)

apu-oma-i
海氷・ある・もの(島)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
いわゆる「北方四島」に含まれる群島の名前ですが、根室市珸瑤瑁の西に位置する地名でもあります(かつての「花咲郡歯舞村」)。何故同じ名前なんだろう……と思ったのですが、Wikipedia の「珸瑤瑁村」によると、

1872年(明治5年)、珸瑤瑁諸島(現在の歯舞群島)を編入する。1915年(大正4年)、周辺6村と合併し歯舞村となる。
(Wikipedia 日本語版「珸瑤瑁村」より引用)
あっさりと答が出ていました。「歯舞群島」は元は「珸瑤瑁諸島」だったようで、要は根室半島側の「珸瑤瑁」「歯舞」ありきの地名だったようですね。なお「昔は『歯舞諸島』だったよね」と言うと年代がバレるので気をつけましょう。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) では、現在の「歯舞漁港」のあたりに「ハホマイ」と描かれていました。明治時代の地形図では、早くも「歯舞村」と漢字で表記されていますが、「アポマイ」や「アボマイ島」と言った表記も見られます。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「ハボマヱ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には沖合に「ハホマエモシリ」と「ニヨマエモシリ」という島がある……と記されています。

永田地名解 (1891) では、不思議なことに「島嶼」の部に次のように記されていました。

Ap-o-mai   アポマイ   氷島 「アプ、オマ、イ」ノ急言氷ノ内ニ在ル島ノ義、今「ハボマイ」ト云うフハ非ナリ今大陸ニ齒舞村アルハ名ヲ此島ニ取リタルナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.364 より引用)
「歯舞」は「島の名前に由来する」とありますが、これは「歯舞群島」ではなく「根室市歯舞」の近くの海に浮かぶ小島の名前……である筈です。少々歯切れが悪いですが、実は色々とありまして……(詳細は後ほど)。

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

永田地名解は「アボマイ apoma-i 。氷島」と書いた。詳しく訳せば「流氷・ある・もの(島)」。アとハは,よくどっちでも呼ばれるので歯舞の方の音で残ったものらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.242 より引用)
「流氷」あるいは「海氷」は apu なので、apu-oma-i で「海氷・ある・もの(島)」と見て良さそうですね。

イソモシリ島

iso(-ne)-mosir?
水中の波かぶり岩(・のような)・島
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年3月24日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (13) 「特別快速『きたみ』」

改札上のディスプレイには「●改札中」と出ていたにもかかわらず、改札の扉は閉まったままだったのですが、一分後の 10:15 に無事改札が始まりました。何があったのかと言えば……

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

1 番線に留まっていた北見行き 4656D の車輌(キハ 40 × 2)が姿を消していました。改札が開かなかったのは、キハ 40 が移動するのを待っていたみたいですね。ちなみにこの写真、2 番線に停車中のキハ 40 に目が移りがちですが、よーく見ると 1 番線を網走側に向かうキハ 40 の姿が……。

2023年3月23日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (12) 「北見・その3」

特別快速「きたみ」の出発まで 30 分あるので、ちょいとだけ駅の外に出てみました。駅の真正面には「ホテルルートイン Grand 北見駅前」が……めちゃくちゃ目立ってますね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

旧「北海道ちほく高原鉄道」本社

駅舎の南西側(北見バスターミナル側)にはこんな建物があったのですが……

2023年3月22日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (11) 「北見・その2」

乗継列車の発車まで 30 分ほどあるので、改札を出て途中下車しました。北見駅の改札は、昔ながらのブースに駅員さんが詰めるという、なんとも懐かしい形です。足元にはきっとストーブがあるんですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

北見から先は、10:28 発の特別快速「きたみ」に乗車します。3 番のりばからの出発なんですね。

2023年3月21日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (女性のための日本の道徳律 (2))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、初版の「第二十九信」の最後に添えられた「女性のための日本の道徳律」を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

女性のための日本の道徳律[女大学](続き)

(幸いなことに)「普及版」ではバッサリとカットされた部分が続きます。とにかく時代錯誤でうんざりする内容ばかりですが、そんな時代もあったよねといつか話せる日が来ることを期待して……

 第10. 女性は常に義務に忠実にして、早起きして、朝から夜遅くまで働かねばならない。昼寝をしてはならず、家計を学び、績み紡ぎ・縫い物、糸くりを怠らず、茶や酒を飲みすぎてはいけない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
これ、どこかで聞いたことがある……と思ったのですが、さだまさし……!

 第11. 妻は高価な衣類にお金を費やしてはいけない。その収入に見合った衣服を身につけなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
あくまで「収入」であって、労働に対する対価では無いのがポイントですね。「一体誰のおかげで食わせてもらってるんだ」という発想なんでしょうけど、「家の中を切り盛りする」のも立派な労働ですし、対価を以て報いる必要があるわけですが……。

 第12. 妻が若いときには、いかなる若い男、夫の親戚や召使でさえもと親しげな口を利くべきではない──男女間の距離は遵守されなければならないからである。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
久々にクスッと笑える系の内容です。「妻が若いときには」という前提条件が最高にクールですよね。

 第13. 装飾品や衣類は派手であってはならないが、きちんとして清潔でなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
おっ、珍しく割とマトモなことを言っている……と思ったのですが……

その身分にふさわしい衣類を身につけなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
おいおいおいおい……。「その身分」って何ですか。これ、どう見ても「主人と使用人」の間の話(だとしても許せない内容が多いですが)にしか見えないですが、「妻に対する心得」なんですよね……。

 第14. 3 月の 1 日ないし 3 日、 5 月 5 日のような祭祀期間には、妻は自分の親戚より先に、夫の親戚をまず訪ねなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
内容がアレなのは救いようがないのですが、それよりもこの書きっぷりが……。「道路交通法」を読んでいるような感覚がありますよね(汗)。

また、夫の許可なくして、外出したり、誰であれ他の人に贈り物をしてはならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
ここまで来ると……もはや軟禁じゃないですか。

 第15. 女性は自分の親を継ぐのではなく、舅・姑の跡を継承するのであるから、実の親以上に舅・姑に情け深くあらなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
ふわあぁぁ。来ましたね「伝統的な家族観」。こういった化石のような価値観を粉砕するために様々な努力が重ねられてきた筈なのですが、旧態然に戻そうと画策する連中が今でも存在するというのは恐ろしいとしか……。

妻は自分の家系を自慢にしてはならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
おっ、これまた久しぶりにクスッと来る系ですね。これはほぼ間違ってないような気がするのですが、間違いがあるとしたら「妻は」の部分ですかね。「妻は」を「妻も夫も」に置き換えれば良いのではないかと(元フジテレビの人もね)。

 第16. 女性はいかに多くの使用人がいようとも、自分の身の回りは自分でするのが女性の決まりである。女性は衣類を縫い、舅・姑の食事を作り、洗濯をし、夫の布団を整えなければならないし、自分の子どもの世話をするときは、自分で下着を洗わなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
何なんですかねこれは……。余計なお世話だと思うのですが……。

女性は常に家にいて、用事のあるとき以外は外出してはいけない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
おっ、また軟禁ですね。

 第17. 女性が女の召使を持っているときは、召使の心根が、無学で、先生についたことがなく、おしゃべりならば、彼女はその面倒をみなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104 より引用)
これまた余計なお世話だと思うのですが……。使用人が無学な場合、そのケアに務めるべきである……というのであれば(まだ)理解できるのですが、「女の召使」とか、女性蔑視丸出しなのが実に痛いとしか……。

また、「女の召使」が夫の親戚や友人を中傷することがあるとして、その場合は……

そのような召使は解雇したほうがよい。そのような程度の低い人間は程度の低いことをするにちがいないからだ。女主人は自分の使用人が間違いを犯したときには点検し、その間抜けさを哀れむべきであり、今後はもっと気をつけるように諭さなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.104-105 より引用)
前回の記事でも触れましたが、この本文は次のように改変・翻訳が行われている……と考えられます。

貝原益軒「和俗童子訓『女子ニ教ユル法』」
 ↓(読みやすい形に改変)
「女大学」
 ↓(英訳)
Nicholas McLeod "Epitome of the Ancient History of Japan"
 ↓(引用)
Isabella L. Bird "Unbeaten Tracks in Japan"
 ↓(和訳)
高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」

英訳と和訳を経由しているため、全体的に言い回しがくだけた感じになっているように思えます(わかりやすいので個人的には歓迎です)。「その間抜けさを哀れむべき」という表現が面白いなぁと思ったのですが、"Unbeaten Tracks in Japan" ではどうなっていたかと言うと……

A mistress must check her servant when she makes a mistake, and pity her stupidity, and warn her to be more careful in future.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
ふむふむ。pity her stupidity を「その間抜けさを哀れむ」としたのですね。

 第18. 女性には、中傷をなし、他人を侮蔑し、嫉妬深く、無知だという五つの悪い性質があるが、10人中7、8人はこれらの病癖を有している。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.105 より引用)
ひゃああああ、よりによって「病癖」ですか。どストレートな女性差別が来ましたね。

これは男性に比較して女性が劣るということの表れであり、とにかく女性はそれらを直す必要がある。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.105 より引用)
……。流石に最近はここまでストレートな女性差別を口にする人は少なくなった(と信じたい)のですが、「女性」を「外国人」や、とりわけ「難民」に置き換えると、似たようなことを公言する輩が少なくないような気も……。

これのうちもっとも悪いのは無知であり、他の悪癖の源泉である。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.105 より引用)
これは……まぁ、理解できなくはないのですが、女性に限った話では無いですよね。無知な女性と同じくらい、あるいはそれ以上に「無知な男性」もいる筈ですし、この「無知」が「無教養」を意味するのであれば、男性と同等に高等教育の機会が与えられなかったことに起因する……とも考えられます。いずれにせよ構造的なものであり、「女性は──」と一括りにして批判できるものではありません。

女性は知恵がないので、控えめにして、その夫に従わねばならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.105 より引用)
行き着く先がコレですか。ため息が出ますね……。

 上述の教訓は、すべての女子が幼児の頃から教えられ、読み書きによって学ぶので、女子がこれらを忘れることはないだろう。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.105 より引用)
はぁ……。こんな価値観がまかり通っていた時代に「元始女性は太陽であつた」とぶち上げた平塚らいてうは凄いですよね(平塚らいてうはイザベラが奥地紀行を行った 8 年後の 1886 年生まれです)。

原注1 : この翻訳は、マクレオソド(N. Macleosod)氏の日本の歴史と習慣についての好奇心をそそられる小著からのものである。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.105 より引用)
この「マクレオソド」は Nicholas McLeod のことで、手元の英語のテキストを見ても Mr. N. Macleod と記されています。どこから Macleosod という人名?が出てきたのか謎ですが、まさか「アーグルトン」のような剽窃チェッカーじゃないですよね……?

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2023年3月20日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (10) 「北見」

北見行き 4656D は柏陽を出発しました。「遠軽信金」の店舗が見えていますね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

確か国道沿いに立派な神社があった……という記憶があったんですが、地図を確かめてみると「高台寺」というお寺さんだったようです。木々が生い茂る森があったので、神社と勘違いした……ということかもしれません。

2023年3月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1022) 「トリトエウス・迷舞・マッカヨウ岬」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トリトエウス

turi-tuye-us-i
(舟の)竿・切る・いつもする・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市珸瑤瑁の北東側(漁港のあるあたり)は、1980 年代の土地利用図には「トリトエウス」と描かれていました。正式な地名は「根室市珸瑤瑁三丁目」のようですが、通称的に使われた地名……でしょうか?

東西蝦夷山川地理取調図」には「トントウヘウシ」と描かれています。「初航蝦夷日誌」(1850) には「トレトウヱウシ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

同じく野道を行ことしばし、其海面岸也。此処を
     トリトエウシ
と云。此処の奥に赤楊多し。其より起るなり。トリトヱとは、土人小屋の樽木様成ものに遣ふ木也。是多きによつて号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.587 より引用)
早速ほぼ答えが出た感もありますが、永田地名解 (1891) も見ておきましょうか。

Turi tuye ushi   ト゚リ ト゚リエ ウシ   竿ヲ伐ル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.363 より引用)
turi-tuye-us-i で「(舟の)竿・切る・いつもする・ところ」と見て良さそうです。釧路町の「鳥通」と全く同じ……ということになりそうですね。

迷舞(まようまい)

koy-oma-i?
波・そこにある・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年3月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1021) 「納沙布・珸瑶瑁・カブ島」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

納沙布(のさっぷ)

not-sam
岬・傍
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
言わずと知れた北海道最東端の岬の名前です(色々と配慮してみました)。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ノツシヤム」と描かれています。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     ノツシヤフ岬
此処暗礁多し。ノツシヤフ訳し而岩石暗礁の処と云也。是第一の東岬也
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.441 より引用)
戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

また崖の上まゝ五六丁も行て
     ノツシヤフ
岬。是東の通岬にして、東海に突出、岩石峨々として長く尾の如く、凡三四丁も沖に飛石の如く連り、其より暗礁また十余丁も沖へ出るを、其筋に波浪を起す。ノツシヤフは惣て岩岬の事を云り。其訳此方より行も、彼方より来る者も、必ず此処え行四方を眺望するが故に号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.587 より引用)
あれ……。「初航蝦夷日誌」も「東部能都之也布誌」も「ノツシヤム」ではなく「ノツシヤ」ですね。「午手控」(1858) も「ノツシヤフ」となっていて、「東西蝦夷──」以外では「ノツシヤム」と描かれたものが見当たらない……ような……?

秦檍麻呂(村上島之丞)の「東蝦夷地名考」(1808) には次のように記されていました。

一 ノツシヤブ崎
 ノツは頤なり、シヤブは頭といへる語。此崎東夷地の極なり。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.35 より引用)
むむ、やはり「ノツシヤ」ですね。not は「頤(おとがい)なり」とありますが、「頤」は「あご」なので間違いなさそうですね。「シヤブは頭」とあるのは sapa のことでしょうか。ただこれだと not-sapa で「ノッシャパ」になってしまうので、sapasap に化けたと考えないと少々厳しいような……。

上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」(1824) には次のように記されていました。

ノツシヤブ          番家休子モロ江海陸とも三里程
  夷語ノツシヤムなり。則、崎の際と譯す。扨、ノツとは山崎の事。シヤムは際、又は側等と申事にて、此崎の際に昔時より夷村有る故、此名あるよし。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.67 より引用)
おっ、久しぶりに「ノツシヤム」が出てきましたね。not-sam で「岬・傍」ではないか、そして元々はコタンの名前ではないか……という解釈は現在も定説と目されていますが、上原熊次郎の説を追認したものだったんですね。

「納沙布」は not-sam とされる割には、あまりに「ノツシヤム」という記録が少なく、また岬の名前なのに「岬の傍」という解釈に矛盾を感じたので改めて調べてみたのですが、懸念点はほぼ払拭された感じでしょうか。伊能忠敬の「大日本沿海輿地図 (1821) 蝦夷地名表」にも「ノツシヤム」とあったので……探せば出てくるものですね。

珸瑶瑁(ごようまい)

koy-oma-i
波・そこにある・ところ
(記録あり、類型あり)

2023年3月17日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (9) 「愛し野・柏陽」

北見行き 4656D は端野を出発した……と思っていたら……

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

愛し野駅(A62)

ものの 3 分ほどで「愛し野駅」に到着です。端野と愛し野の間は 1.4 km しか無いのですが、時刻表ではどの列車も 3~4 の所要時間を見込んでいるようです。

2023年3月16日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (8) 「端野」

北見行き 4656D は緋牛内を出発して、快調に西へと向かいます。ずーっと向こうに見えるのは国道 39 号が常呂川を渡る橋でしょうか。

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そして、手前の電柱には「発砲禁止」の文字が。ここは割と広い盆地の真ん中あたりだと思うのですが、許可を得て鳥獣を狩る人がいる、ということなんでしょうか……。

2023年3月15日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (7) 「緋牛内」

分水嶺のトンネルを抜けて北見市に入りました。随分と良い感じの第四種踏切が見えますが、踏切の先の T 字路は国道 39 号なんですよね(ちょっと意外な感じが)。
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「通好みの道」こと、北見から網走へのショートカットルートとして知られる道道 104 号「網走端野線」の終点が見えてきました。ただ、本当に「通」の人はこの交叉点すら経由しない……のでしたよね(参考)。

2023年3月14日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (6) 「美幌」

美幌町に入りました。女満別からずーっと続いていた防雪林(防風林?)がようやく姿を消し、畑が見えるようになりましたね。

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美幌川を渡ります。川……なんですが、氾濫原に白樺が植えられているのは面白いですよね(一直線に並んでいるので、人為的に植樹したと思うのですが)。

2023年3月13日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (5) 「西女満別」

女満別を出発しました。進行方向右側にはずっと防雪林(防風林かも)が広がっています。何故か線路側が手薄になっているようにも見えますが……(伐採した?)。

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西女満別駅(A66)

女満別から 5 分ほどで、西女満別駅に到着です。

2023年3月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1020) 「温根元」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

温根元(おんねもと)

onne-{mo-etu}?
大きい方の・{小さな岬}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
トーサムポロ沼」と「納沙布岬」の中間あたりに位置する地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲン子モト」とあり、「初航蝦夷日誌」(1850) や戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも「ヲン子モト」と記録されています。

ところが、永田地名解 (1891) を見てみると……

Onne moi   オンネ モイ   大灣 「オンネモト」ト呼ブ「アイヌ」村アリシ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.363 より引用)
おやおや……。onne-moy で「大きな・湾」ではないかと言うのですね。明治時代の地形図を見てみると、現在漁港があるあたりに「オン子モイ」とあり、Google マップで「ヲン子モトチャシ跡」とあるあたりが「オン子モイ崎」、そして「根室市水産研究所」があるあたりに「ポンオン子モイ」と描かれています。

「ト」は「イ」の誤字か?

ここまでの流れを見てみると、松浦武四郎が「オン子モト」と記録したのは、「イ」を「ト」に誤記するという大胆なミスが原因で、このミスは永田地名解で修正された……というシナリオを考えたくなります。ところが陸軍図では「オンネモト」と「ポンオネモト」がまさかの復活を遂げていて、現在の「温根元」表記に続いているように見受けられます。

永田方正は少なくとも「オンネモト」と呼ばれる地名があったことは認識していて、その上で「オンネモイ」が *正しい形* だ!と考えたようです。これまでの例から、「松浦武四郎が『オンネモト』と記録した」というのであれば出典を明記した上で全力で批判したと思われるので、これはやはり「オンネモト」と呼ぶ流儀があった……と考えたくなります。

周辺の地名を列挙してみた

仮に「『オンネモイ』じゃない『オンネモト』だ!」として、「じゃあ何を意味しているの?」とツッコまれるのがオチなのですが、皆目見当がつかないので、とりあえず毎度おなじみの対照表を作ってみましょうか。

東西蝦夷山川地理取調図初航蝦夷日誌戊午日誌「東部能都之也布誌」明治時代の地形図陸軍図
ヒリカヲタヒリカヲタヒリカヲタ--
ヲン子
コタンケシレト
-ヲン子コタンシレト
(岬)
--
コタンケシコタンケシ
(小石浜)
コタンケシベツ--
ウエン
チヤシユツノツ
--トーサムポロ崎?トーサㇺポロ崎?
ウエン
チヤシコツモイ
ウエンチヤシ
(小湾)
ウエンチヤシモイ
(少しの湾)
-ポンオネモト?
--ウエンチヤシコツ
(城跡)
--
カ子フモシリ-カ子フモシリ
(暗礁つづきに島)
--
マカマフカマフ
(海岸暗礁多)
カ子フ(少しの岬)オン子モイ崎?-
ホイナイ-ホイナイ(小川)--
チヤシコツ-チヤシコツ--
--(少しの岬)--
ヲン子モトヲン子モト
(小川有り)
ヲン子モト(小川)オン子モイオンネモト
ホンモイ-ホンモト
(少しの岬)
--
ヘツチヤラセヘウチヤラセ
(小川有り)
ペウチヤラセ
(崖の狭間より
渓川落る)
--
--コエカノツ(岬)--
コエカヘツコエトイヘツ
(小川有り)
コエカヘツ(小川)--
コエカ----
ノツシヤムノツシヤフ岬ノツシヤフ(岬)納砂布崎納沙布岬

さぁ、そろそろ何かが見えてきたでしょうか。実は私はさっぱり何も見えてこないのですが……(ぉぃ)。最大の謎が、現在「根室市水産研究所」のある岬状の地形について、言及が無いように見えるところです。これは「カ子フ」が水産研究所のあたりを指すと考えることで、なんとかなりそうな気もしますが……。

気になる「ホンモト」

ちょっと気になるのが、戊午日誌「東部能都之也布誌」にある「ホンモト(少しの岬)」です。「午手控」(1858) に距離つきで記録されているので、ちょっと長めに引用してみます。

引かへし北海岸七八丁にて
   コヱカヘツ
小川崖の上に一すじ有。此辺一面崖也。少し行凡五六丁
   コヱカ
大岩崖出さき、上は小ざゝ平野也。又五六丁、少し下り
   ヘツチヤラセ
小川有、崖小滝、上はかや原、木なし。又七八丁にて少し下り
   ホンモト
小川有、又少し山をこヘ
   ヲン子モト
小川有、こへ向の岸に出さき
   チヤシコツ
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.245-246 より引用)
「コエカヘツ」は「望郷の塔」(現・オーロラタワー)のあたりを流れていたと考えられるでしょうか(明治時代の地形図より推定)。そこから「凡五六丁」ということは 5~600 m ほど……となりますが、確かに僅かに岬のような場所があります。

「五六丁」(5~600 m ほど)で「ヘツチヤラセ」があり、そこから「七八丁」(800 m ほど)に「ホンモト」があったことになりますね。「午手控」では「小川有」となっていますが、これは現在「オンネモト沢川」と呼ばれる川(地理院地図には記入なし)と考えられそうです。

「ホンモト」について、戊午日誌「東部能都之也布誌」を引用してみると……

また並びて、
     ホンモト
少しの岬也。此上をこゆる。上は一面の茅原也。此処もむかし人家有りし由也。下り少しの浜を通りてまた
     ヲン子モト
また小川有。其処昔し人家の跡有。また少しの岬有て、其をこへて
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.591 より引用)
「少しの岬」→「少しの浜」→「小川」→「少しの岬」と歩いたことになっています。「少しの浜」の正体ですが、諸々の前後関係から考えると現在の温根元漁港のあたりだと思われます。

「モト」は「少しの岬」か?

めちゃくちゃ文字数を使って何を言おうとしているのだ……と思われるかもしれませんが、
  1.  「ヲン子モト」と「ホンモト」という地名が存在した
  2.  「ヲン子モト」の東西にそれぞれ「少しの岬」が存在した
という点を、なんとか立証できないかなーと思った……というところです。

ということでようやく本題の「オンネモト」って何? という話ですが、「少しの岬」を mo-etu あるいは mo-tu と呼んだのではないか……と考えてみました。対照表によると「ノツシヤフ」から「ヒリカヲタ」までの間に合わせて 4 つ以上の「岬」と「少しの岬」があったことになりますが、これは今日的な基準で「岬」をカウントした場合の数を上回ることになります。

この矛盾を乗り切るためには「岬」の定義を捻じ曲げるしか無いのですが、幸いなことに「鼻」や「岬」を意味する etu などの語彙は内陸部の地名にも使われるケースがあります(たとえば清里町の「江鳶川」とか)。

つまり、「少しの岬」は「鼻」のような形をした出崎状の段丘を指していたのではないか、そしてその出崎状の段丘は東西に二つあり、onne-{mo-etu} で「大きな・{小さな岬}」と pon-{mo-etu} で「小さな・{小さな岬}」があったのでは……と考えてみました。

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2023年3月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1019) 「コンブウシムイ・トーサムポロ沼・ヒリカヲタ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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コンブウシムイ

kompu-tuye-us-moy
昆布・切る・いつもする・湾
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
サンコタン岬の南に「コンブウシムイチャシ跡」という名前の「チャシ」(砦)の跡があります。明治時代の地形図にはそれらしい地名が見当たりませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「トウシヤム」(「トーサムポロ沼」と思われる)の西に「チヤシコツ」(chasi-kot)と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

出立する哉否
     チヤシコツ
是トウシヤムの川口の西に、一ツ突出する也。また行ことしばしにて小湾
     コンフトイウシモイ
と云。此処に昆布取小屋有しが、今はなしと。よつて号るよし。また岬を一ツこへて
     ヲベツ子カウシ
小川にして少しの湾に成り居たり、此処に昔し人家有し由。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.595 より引用)
あ……。トーサムポロ沼とコンブウシムイチャシ跡の間に「トウシャム 2 号チャシ跡」があるらしいのですが、松浦武四郎が記録した「チヤシコツ」は「トウシャム 2 号チャシ跡」の可能性が高そうな気が……(すいません)。

「コンブウシムイ」であれば kompu-us-moy で「昆布・多くある・湾」と考えられそうでしょうか。個人的には moy(湾・入江)ではなく muy で「」と考えたいところですが……(箕のような形の地形なので)。

戊午日誌の「コンフトイウシモイ」は、午手控 (1858) には「コフントヱ・・ウシモイ」と記録されています。「コフン」はおそらく「昆布」の誤字で、kompu-tuye-us-moy で「昆布・切る・いつもする・湾」と見て良さそうに思えます。

トーサムポロ沼

to-asam-poro
沼・奥・大きい
(記録あり、類型あり)

2023年3月10日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (4) 「女満別」

大空町に入りました。右手には網走湖が見えています。良く見ると手前にミズバショウがちょこっと……

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

女満別駅(A67)

北見行き 4656D は女満別駅に到着しました。2 面 2 線の相対式ホーム + 側線(保線車輌用?)という構成は呼人よびと駅と全く同じですね。

2023年3月9日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (3) 「呼人」

右手に「網走湖」が見えてきました。「『湖』の割にはそれほど大きくないんだな」と思われるかもしれませんが、右手に見えるのは湖に突き出た「呼人半島」で、手前に見えているのは「網走湖の端っこ」であることに注意が必要です。
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湖畔に立派なホテルが見えてきました。これは「ホテル網走湖荘」でしょうか?

2023年3月8日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (2) 「北見行き 4656D」

網走駅の 1 番線に停車中の、8:44 発北見行き 4656D に乗り込みます。
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キハ 40 の出入り口にはステップがあるのですが、こんな風に斜めにカットされていたんですね。何故こんな風になっているのか、理由が良くわからないのですが……

2023年3月7日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (1) 「網走」

「釧網本線各駅停車」を終えた翌朝ですが、何故か再び網走駅に来てしまいました。これから一体何をしようと言うのか……(題名でわかるのでは)。
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4.8 ℃

網走駅……と言えば、まずは「網走監獄」提供の「顔ハメパネル」ですね。

2023年3月6日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (45) 「取り返しの付かないこと」

「釧網本線各駅停車」を終えて網走駅を後にします。時間は 17:22 で、そろそろ夕食のことを考えても良い時間です。

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ということで、網走駅から西に向かって歩き始めました。国道の向こうには前日に立ち寄った「ヴィクトリアステーション網走駅前店」が見えます。

2023年3月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1018) 「オンネップ川・コネップ川・サンコタン川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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オンネップ川

onne-o-ni-o-p
年長である・河口・標木・多くある・もの(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ノッカマップ川の 2 km ほど東を流れる川です。明治時代の地形図には「オン子オニオプ」という名前で川が描かれているのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ホロホニヨフ」と描かれています。僅か 100 年ほどで随分と *改変* された感がありますね。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Onne oniop   オンネ オニオㇷ゚   寄木ノ大灣 高橋圖「ポロニオイ」トアルモ同義ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.363 より引用)
また、「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 オンネップ川 コネップ川の西,ノッカマップ川との間の小川。アイヌ語の歳老いたものの意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.705 より引用)
普通に考えると「北海道地名誌」の解にたどり着くと思われるのですが、「オン子オニオプ」や「ホロホニヨフ」という記録がそれを否定している……と言えそうでしょうか。今回は永田地名解にある通り、onne-o-ni-o-p で「年長である・河口・標木・多くある・もの(川)」と見て良さそうに思えます。

コネップ川

pon-o-ni-o-p
小さな・河口・漂木・多くある・もの(川)
(記録あり、類型あり)

2023年3月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1017) 「シエナハウシ・コタンケシ川・ノッカマップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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シエナハウシ

sunapa-us-i
ギシギシ・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市北浜町二丁目と根室市牧の内の間を「二番川」という川が流れていますが、二番川の河口近くに「シエナハウシチャシ跡」という遺跡があるとのこと。「シエナハウシチャシ」は「スナバウスチャシ」と呼ばれることもあるみたいです。

明治時代の地形図を見てみると、現在の「二番川」と思しき位置に「シナパウシ」と描かれています。どうやら「シエナハウシ」と「スナバウス」は単なる表記ゆれの可能性がありそうですね。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シエナハウシ」と描かれています……が、西隣は「ホロシナハウシ」と描かれています。「シエナハウシ」の「エ」は「ユ」である可能性があり、逆もまた然りでしょうか。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     ホンシユ子バウシ
砂浜ニ而上の方は岩崖有るなり。并而小川有
     ホロシユ子
小川有。転太石はま也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.431 より引用)
「午手控」(1858) には次のように記されていました。

シユナハウシ
 シナハなるよし。砂が有るによってのよし。人間言(シサム語)
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.366 より引用)
これは……。「砂がある(=砂場)から『シュナバウシ』」という解釈のようですね(汗)。

一方で、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

またサキを廻り行や
     シユナハウシモイ
此処少しの湾にして小川有。其辺酸模多し、よつて号るとかや。シユナハは酸模の事なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.599 より引用)
「酸模」については頭註があり、次のように記されています。

すいば 酸 葉
すかんこ
すかんぽ
羊蹄草
野大黄
シュナパ
スナパ
たで科
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.599 より引用)
そして永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Onne shunapa ushi  オンネ シュナパ ウシ  羊蹄草ギシギシ多キ處 ギシギシ又野大黄ト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.366 より引用)
……繋がりましたね(推理小説か)。「酸模」は「すかんぽ」で、和名が「ギシギシ」で漢名では「羊蹄草」と呼ばれるタデ科の多年草のことのようです。別名が「野大黄のだいおう」で、知里さんの「植物編」(1976) を見てみると……

§ 288. ノダイオォ Rumex domesticus Hartm.
(1) sunapa(su-ná-pa)「スなパ」莖葉(或いわ根)《幌別穂別名寄》《A 沙流・鵡川・千歳・有珠等》
   注 1.──幌別・名寄でわ莖葉をさすと云ったが,穏別でわ根をゆうと主張した老人があった。
   注 2.──ギシギシの類(species of Rumex)わ,たいてい同じ名で呼ばれる。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.159-160 より引用)
……繋がりましたね(もういい)。「シエナハウシ」は「シュナパウシ」で、sunapa-us-i で「ギシギシ・多くある・ところ」と見て良さそうです。

コタンケシ川

kotan-kes
集落・末端
(記録あり、類型あり)

2023年3月3日金曜日

釧網本線各駅停車 (48) 「網走」

桂台駅を出発した 4730D の右手車窓にホテル群が見えてきました。
「東横イン」と「ルートイン」の横には「ホテルしんばし」も見えます。高さでは若干負けているものの、なかなかの存在感だと思うのですが……

2023年3月2日木曜日

釧網本線各駅停車 (47) 「鱒浦・桂台」

藻琴を出発して 3 分ほどで、網走行き 4730D は鱒浦駅に到着しました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。

鱒浦駅(B78)

鱒浦駅は 1 面 1 線の棒線駅で、ホームと駅舎は海側にあります。そのため往路ではこんな悲惨な写真しか用意できなかったのですが……

2023年3月1日水曜日

釧網本線各駅停車 (46) 「北浜・藻琴」

涛沸湖と海を結ぶ川を渡ると、右手に再び海が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

北浜駅(B76)

どこからどう見ても海なのですが、北浜駅に到着です(ぉ)。