2023年9月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1075) 「去来牛・知方学」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

去来牛(さるきうし)

sarki-us-i
葦・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
尻羽しれぱ岬から 2.3 km ほど西方にある海沿いの地名で、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「サリキウシエト」と描かれています。1896(明治 29)年の「北海道地形図」には何故か「サㇰシュウウシ」と描かれていますが、9 年前の 1887(明治 20)年に作成された「改正北海道全図」には「サルキウシ」と描かれていました。

1887(明治 20)年から 1896(明治 29)年の間に何があったのかと言うと、永田地名解こと「北海道蝦夷語地名解」(1891) が上梓されていたわけで……永田さん、なかなか罪なことをしてくれましたね。もっとも永田地名解を注意深く読めば、「夏鍋」こと「サㇰ シュウ ウシ」は厚岸湾に面した岬の北側の地名だろうと想定できるので、色々とうっかりミスがあった、ということなのでしょうね。

加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

サリキウシナヱ(エト) サキリ・ウシ・ヱト よし(蘆)・有・崎
サリキウシ サリキ・ウシ よし・有
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.262 より引用)※ 原文ママ
また「東蝦夷日誌」(1863-1867) には里程込みで次のように記されていました。

サリキウシエト(小岬)、此上に蘆荻原有岬故に號く。(三丁五十間)サリキウシ〔去来牛〕(小澤)蘆荻有る澤と云儀。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.319 より引用)
三丁五十間は約 418 m なので、「去来牛神社」の南西の丸く飛び出たあたりが「サリキウシエト」で、神社の東の家屋のあるあたりが「サリキウシ」の集落だったっぽい感じですね。

「午手控」(1858) にも次のように記されていました。

サリキウシ
 よし原の事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.342 より引用)
sarki は「葦」を意味するので sarki-us-i で「葦・多くある・ところ」と考えて良さそうですね。

知方学(ちっぽまない)

chep-oma-nay?
魚・そこにいる・川
chip-oma-nay?
舟・そこにある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年9月29日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (110) 「懐かしの『蛍光色の看板』」

国道 38 号を西に向かいます。道路情報表示板には「Safe Drive」の文字が。それはそうと、この「Safe Drive」、改めて考えてみると文法的にどうなんだろう、という疑問も出てきますが……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

大楽毛おたのしけ 5」交叉点にやってきました。JR 根室本線・大楽毛駅からも遠くないところで、大楽毛は駅前からこのあたりが中心部と言えるでしょうか。

2023年9月28日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (109) 「都市計画道路 3・3・13」

「鳥取南 2」交叉点を直進して国道 38 号を進んでも良かったのですが、左折して道道 53 号「釧路鶴居弟子屈線」に入りました。煙突から煙がたなびいていますね……。
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この先の十字路で道道 53 号は右折、そして左から道道 559 号「新富士停車場線」と接続します。直進して「西港」に向かうので、ここからは道道 559 号ということになりますね。

2023年9月27日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (108) 「鳥取南 2」

Day 6 のスタートです。ガソリンは 80 % 近く残っているので、給油の必要は無さそうな感じでしょうか。
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走行可能距離(推定)は約 800 km とのこと。

2023年9月26日火曜日

Bojan のホテル探訪~「釧路プリンスホテル」編(チェックアウト編)

それでは、そろそろチェックアウトしましょう。これは 17F のレストランから北東を眺めた写真ですが、深い意味はありません。いい眺めだったもので……。
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そう言えば……という話でも無いのですが、駐車券はチェックインの際にフロントに持ち込めば、一泊の駐車料金が格安になります。

2023年9月25日月曜日

Bojan のホテル探訪~「釧路プリンスホテル」編(朝食編)

新しい朝を迎えました。15F の部屋から東北東を眺めます。手前に見えているのは釧路市役所です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このアングルで、ちょうど真東くらいでしょうか……?

2023年9月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1074) 「尻羽岬」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

尻羽岬(しれぱ──)

sir-pa
大地・頭
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路町の東端に位置する岬で、厚岸町の大黒島と対峙しています。岬の北に広がる海は「厚岸湾」です。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シレハ」と描かれています。「永田地名解」(1891) にも次のように記されていました。

Shir'epa   シレパ   岬 直譯地頭
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.332 より引用)
また「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

sir-pa  しㇽパ みさき。──sir は山,pa は頭,原義は「海中につき出ている山の頭」である。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.123 より引用)
今は「シレパ」と読むのがちょっと気になったのですが、やはり sir-pa で「大地・頭」と考えて良さそうですね。ちなみに pa の対義語に相当するのが kes で、対岸に位置するとも言える「厚岸」は -kes なんじゃないか……と考えています。

尻羽岬から見た場合、kes と呼ぶのに相応しいのは「大黒島」のような気もするので、「もう一つの kes」で「厚岸」なのかな……とも。

長すぎる余談

さて。本題がささっと片付いたので余談でも(ぉぃ)。尻羽岬から北岸を 1 km ほど西北西に向かったところに「別尺泊」という場所があるのですが、永田地名解には「別尺泊」に相当する位置の地名として、次のように記されていました。

Sak shū ushi    サク シュウ ウシ    夏鍋
Shu satk tomari  シュウ サック トマリ  鍋ナシ泊
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.333 より引用)
これは「東西蝦夷──」の「ヘシヤクトマリ」と「サクシヽ」に相当する可能性が高いのですが、松浦武四郎が記録した地名と大きく異なる上に、かなり意味不明な感じがするものです。

夏鍋、ふたたび

ところが、思わぬところで「夏鍋」を目にしました。加賀家文書「クスリ地名解」(1832) なのですが、ちょっと長い目の引用で失礼します。

シリハヱト シリハ・ヱト 着の・崎
  此所に蝦夷船入津の小澗有之。然ば前のチノミコタン首尾能通り、此澗に入津して安心のため斯名附よし。
シャクシヽヱト サキ・シュイ 鯨漁・する崎
  シラヌカの内に有しシャクシヽヱト同断。
ホンサートマリ ベ・(サク)・トマリ 水・無・澗
  此所小澗御座候得共、汐干に相成候節は(陸)同様に相成故右名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
「シャクシヽヱト」が「サキ・シュイ」であるとしていますが、その頭註に「サクシュウ 夏鍋」とあるのですね(続いて「サクスス、鮫漁では?」ともあるのですが)。

「シャクシヽヱト」はどこにある?

「シリハヱト」が「尻羽岬」で「ホンサートマリ」が「別尺泊」なのですが、となると「シャクシヽヱト」という「岬」は一体どこにあるのでしょう?

なんとも都合の良いことに、「東蝦夷日誌」(1863-1867) には里程込みでこれらの地名が紹介されていました。

廻るや波浪少々穩になりたり。クツニンカ(崖)名義、岩の平に筋が通りし處、帶の如しと云儀也。(一丁五十間)サクシヽエト(岬)名義、夏分喰料を取に行義なりと。(四丁五十間)チエクベツ、(一丁四十間)ボンサクシヽ、(三丁廿間)ボンサー泊〔別尺泊〕(大平)、大岩峨々、實に天下の奇観也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.320 より引用)
少々面倒なことになってきたので、表にまとめてみましょう。尻羽岬から別尺泊に向かった場合の地名と里程です(里程は東蝦夷日誌による)。

クスリ地名解東西蝦夷山川地理取調図東蝦夷日誌
シリハヱトシレハシリパエト(岬)
--クツニンカ(崖)
一丁五十間(約 200 m)
シャクシヽヱト-サクシヽエト(岬)
四丁五十間(約 527 m)
-チエリヘツチエクベツ
一丁四十間(約 182 m)
-ヘシヤクトマリ?ボンサクシヽ
三丁廿間(約 364 m)
ホンサートマリサクシヽ?ボンサー泊(大平)

残念なことに、「東蝦夷日誌」には「シリパエト(岬)」と「クツニンカ(崖)」の間の距離が記されていません。また「ボンサー泊」こと「別尺泊」の位置もやや不正確なところがあります。

まずは「チエクベツ」から

となるとポインターとして使えそうなのが「チエリヘツ」または「チエクベツ」でしょうか。これは -pet で「川」だと考えられるのですが、「尻羽岬」の西北西には「別尺泊 1 号川」と「別尺泊 2 号川」が存在するほか、「別尺泊 1 号川」の手前(東)にも谷が存在します。

2023年9月23日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (152) 切石(能代市)~小繋(能代市) (1878/7/28(日))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

米代川の危険(続き)

川が増水したため「渡河禁止命令」が出されてしまい、進退窮まったかに見えたイザベラですが、絶妙なタイミングで救いの手が差し伸べられます。

 ちょうど折よく、向こう岸に小舟が下ってゆく姿を見つけた。舟は岸にとまって男を一人陸に上げた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
もちろんイザベラ一行がこのチャンスを逃す筈も無く……

伊藤ともう二人の男は、叫んだり大声をあげたり手を一生懸命に振って注意をひこうとした。嬉しいことに、烈しく音を立てて流れる川の向こうから返事の叫び声が聞こえてきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
無事コンタクトに成功します。小舟の船頭は増水した川に流されながら、なんと 45 分近くかけて川を渡ってきました。

彼らは小繋コツナギに戻るところで、そこは私たちが行きたいと思っていた目的地であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286 より引用)
小繋(能代市二ツ井町小繋)は米代川の難所を遡った先の集落で、小繋から東は陸路で移動が可能です。イザベラ一行が小繋をこの日のゴールに定めたのも当然の立地と言えそうです。

二マイル半しか離れていなかったが、私が今まで見た男の仕事のうちでもっとも烈しい働きの結果、四時間近くかかって、やっとそこに着いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286 より引用)
「2 マイル半」は約 4 km ですが、米白橋から 4 km 遡ったとしても二ツ井駅の東あたりで、小繋からは少し離れています。

私は、今にも彼らが血管か筋肉の腱を破裂させてしまうのではないかと、はらはらし通しだった。彼らの筋肉は、疲労で震えていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286 より引用)
船頭や水夫の肉体は既に限界だった……ということでしょうか。

ときどき彼らが全力をあげて棹をさしているとき、今にも棹や背骨が折れてしまうのではないかと思われ、舟は一時に三分か四分もそのままじっと震えながら進まぬこともあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286 より引用)
増水した川の流れに逆らって遡上しようと言うのですから、流れに棹さすのとは訳が違います。流されないようにその場にとどまるだけでも重労働です。

この数日は遅々として何事もない旅行であったから、これはスリルのある輸送であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286 より引用)
イザベラ姐さん……。「渡河禁止命令」が出ている中で無理やり舟に便乗して「スリルのある」は酷いのでは……。

しかしこの先で、他の川が米代川ヨネツルガワに合流し、さらに力を増して一層烈しく音を立てて流れていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286 より引用)
あー、確かに原文では Yonetsurugawa となっていますね。

船頭溺れる

イザベラ一行を乗せた……いや、「無理やり乗り込んだ」が正解かもしれませんが……舟が、二ツ井の市街地のあたりに差し掛かったところで……

 私は、反対側のはるか上手にいる大きな屋形船を長い間じっと見ていた。半マイルほど離れたところにさしかかったと思うころ、その船は激流のために舵をとられ、あっという間にくるくる回り、木の葉のように流されて川を下り、私たちの舷側にぶつかろうとした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286 より引用)
イザベラは「大きな屋形船」が制御不能になる瞬間を目撃します。イザベラを乗せた舟もその場に留まって流されないようにするのが精一杯で、流された「大きな屋形船」が衝突するとイザベラの舟も木っ端微塵になってしまうわけですが……

伊藤は恐怖で顔が土色となった。そのぎょっとした蒼白な顔が、かえって私にはこっけいに思えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.286-287 より引用)
イザベラ姐さんは泰然自若としていて流石……と思ったのですが、実は単に鈍感だった(かもしれない)と思わせる内容が続いていました。

というのは、あわれな家族たちを乗せている屋形船に危険が迫っていることしか私は考えていなかったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
うーむ……。単に鈍感だったと見るべきか、やはり肝が据わっていると見るべきか……。結果的にイザベラを乗せたが無理やり乗り込んだ舟は無事だったわけですが、制御不能に陥った屋形船がどうなったかと言うと……

ちょうどその船が私たちの舟から二フィートのところに来たとき、樹木の幹に当たって、わきにそれた。そのときその船頭たちは、首のない幹をつかんで、大綱をそれにぐるぐる巻き、八人が次々にそれにぶら下がった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
船頭たちは、もはや制御不能となった屋形船を見捨てる決心をしたようで、「首のない幹」にロープを引っ掛けて、ロープ伝いで陸地に逃れようとします。「首のない幹」の意味するところが少々謎ですが、原文では a headless trunk で、時岡敬子さんは「頭のない木の幹」と訳していました。枯れ木の幹かな……と思ったのですが、果たして……

途端に幹はぷっつり切れて、七人が後ろに落ち、前の一人も流れに落ちて、姿は見えなくなった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
……。決死の脱出作戦は失敗に終わった、ということですね。

ここまでの文章を見ていると、「あわれな家族を乗せている屋形船」が制御不能に陥り、決死の脱出を試みるも「七人が後ろに落ち、前の一人も流れに落ちた」ように思えます。屋形船には数人の船頭と「あわれな家族」の合計 8 人が乗っていて、惨劇に遭遇してしまった……ということでしょうか。まぁ、川が増水して大荒れの日になんで屋形船に乗ってる家族がいるんだ、という話でもあるのですが……。

ところが、原文を眺めてみたところ、妙な点に気が付きました。高梨さんが「私は、反対側のはるか上手にいる大きな屋形船を長い間じっと見ていた。」と訳した文なのですが、原文では次のようになっていました。

I had long been watching a large house-boat far above us on the other side, which was being poled by desperate efforts by ten men.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
よく見ると、高梨さんの訳文には which was being poled by desperate efforts by ten men. に相当する部分が見当たらないのですね。時岡敬子さんが訳した「イザベラ・バードの日本紀行 上」には該当する部分もちゃんと和訳されているのですが、これは「普及版」で削られたからなのか、それとも高梨さんがうっかり訳出し忘れたのかは不明です。

「普及版」と「完全版」の違いを論じた高畑美代子さんの「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」には、この部分についての言及はありませんでした。

そして「屋形船にあわれな家族が乗り合わせていたのか」という話ですが、原文では "I had no other thought than the imminent peril of the large boat with her freight of helpless families," となっていました。このあたりの文章では sheher が頻出するのですが、文脈から考えるとこれは「屋形船」を意味すると考えられます。

つまり、屋形船が乗せていた「あわれな家族」というのは、「屋形船 *の* 家族」、すなわち「船頭」を意味する……ということ、なんでしょうね(少なくとも私にはそう読むしか無いと思えました)。

イザベラが記した「あわれな家族」はレトリックだった……ということになるのですが、高梨さんが being poled by desperate efforts by ten men. をちゃんと訳してくれていれば、妙な誤解をすることも無かったのに……と思ったりもします(負け惜しみ)。

その晩は、どこかにわびしい家庭があったことであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
まぁ、普通は増水した川に流されたなら最悪の結末を想像してしまいますが、船頭だけに水練にも熟達していたんじゃないか……という、希望的な観測をしたくなるところです。

皮肉なことに、制御不能に陥った屋形船は川下に流れていったものの、程なく巨大なマストが木に引っかかって静止します。船頭も脱出せずにそのまま留まっていれば、増水した米代川に流されることも無かったのかもしれません。

イザベラは伊藤に、顔面蒼白となった瞬間の心境を訪ねたところ……

危険に陥ったときにどんな気持ちであったか、と伊藤にたずねてみたら、伊藤は「私は、母親にやさしい子であったし、正直者だから、きっと良いところへ行けると念じていました」と答えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
やはり、その瞬間は死を覚悟していた……ということでしょうか。確かに伊藤はイザベラからの給金の多くを母親に仕送りしていたらしく、「やさしい子」だったのかもしれませんが、果たして本当に「正直者」だったかどうかは……(やめなさい)。

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2023年9月22日金曜日

Bojan のホテル探訪~「釧路プリンスホテル」編(バス・トイレ編)

「トップ・オブ・タシロクシロ」で夕日と夕食を堪能して、部屋に戻ってきました。このチェアー、実はガスシリンダーなんですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

テレビの横に置かれた空気清浄機はパナソニック製のものです。

2023年9月21日木曜日

Bojan のホテル探訪~「釧路プリンスホテル」編(夕食編)

そろそろ又飯時……じゃなくて夕食時なので、15F のエレベーターホールにやってきました。
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外に出てお店を新規開拓するという手もあったのですが、ちょうど夕暮れ時だったので、17F のレストラン「トップ・オブ・クシロ」へ。

2023年9月20日水曜日

Bojan のホテル探訪~「釧路プリンスホテル」編(お部屋編のつづき)

釧路プリンスホテル」の話を続けます。家具の配置が謎にユニークな部屋ですが、そう言えばホテルにある筈の「アレ」が見当たりませんね……。
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そう、「アレ」と言えば「冷蔵庫」なんですが……

2023年9月19日火曜日

Bojan のホテル探訪~「釧路プリンスホテル」編(お部屋編)

釧路プリンスホテル」さんにチェックインしました。部屋タイプは「15階 高層階シングルルーム【禁煙/街側/夜景】」で、1 泊 \12,000- です。網走のルートインが 3 泊で \19,150- だったことを考えるとちょっと奮発した感じですが、まぁゴールデンウィークですからね(全ての散財を片付ける魔法の言葉)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ルームキーは今風の IC カードタイプのものです。カードに「お部屋番号」がテプラで貼ってあるので、外出時はカードだけ携帯していても部屋番号を忘れることはありません。

2023年9月18日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (151) 豊岡(三種町)~切石(能代市) (1878/7/28(日))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

猿回しと見られる

イザベラは大館の宿屋で、前日の三種町豊岡からの移動を回想しています。日付は前後の記録からの推定ですが、偶にズレてるような気がするんですよね……(見つけ次第修正しているのですが)。

 豊岡からの旅は実にきびしかった。その日の雨はやむことなく、吹きつける霧のために、眼に見えるものは地平線上にぼんやりかすむ低い丘陵、松林のやせ地、雑木林、水のあふれた稲田だけで、ところどころ道路に沿って村落があり、そこは一フィートの深さの泥沼になっており、そこの人たちの着ているものは、特にぼろぼろで汚かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
イザベラは羽州街道で能代に向かうのではなく、秋田県道 4 号「能代五城目線」沿いを北に向かったことになります。JR 奥羽本線も能代の中心部を通らないルートで、どちらも大館に向かうことを考えると良い選択なのですが、イザベラは「誰も道を教えてくれない」と言いながらかなり的確なルートで北上しているように見えます。

イザベラの性格を考えると、ルートを全て伊藤任せにしているとも考えづらいので、ルートは玉石混淆の情報をもとにイザベラが決めていたのでしょうか?

士族サムライの村である檜山ひやまは例外であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
能代市檜山は 1955 年に能代市に編入されるまでは「山本郡檜山町」で、檜山安東氏城館跡のあるところのようですね。なるほど確かに「サムライ」の村で、イザベラは「美しい傾斜地」に「美しい庭園」のある「一軒建ての家」で「洗練されて静かな暮らしを楽しんでいる」と記しています。

余談ですが、この「ひやま」は原文では "Hinokiyama" となっていました。漢字を「正しく」読んだ形ですが、誰かが読み間違えたのか、それともそういう読み方もあったのか……? 後に地図を見た際に読み間違えた、という可能性もありそうでしょうか。

イザベラが描写した庶民の暮らしは目も当てられないほど酷いものが多いですが、サムライや商人などはかなり暮らしぶりがいいんですよね。このあたりの「格差」は財閥解体や農地改革で大きく是正されて「一億総中流」という時代になったものの、明らかにそこから逆行しつつあるのは憂うべき事態です。

ある大きな村の近くの水田の間の土手道を、伊藤を前にして馬に乗って進んでいたが、そのとき学校帰りの多くの子どもたちに出会った。彼らは私たちに近づくと、あわてて元の方へ逃げだした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
これまで見たことの無い「異人さん」の行列に遭遇してしまったので、そりゃあ逃げ出したくなるのも理解できます。イザベラの馬子が逃げた子どもを追いかけて(何故?)ひとりの少年を捕まえると……

少年はびっくりして、手足をばたばたさせていたが、馬子は笑っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
おやおや、これは一体……?

少年の言葉から察すると、伊藤は猿回しで、私が大きな猿であり、私のベッドの棒は舞台を組み立てるものだと思いこんでいる!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
これまでも散々「見世物」にされてきたイザベラですが、ついに「猿回しの猿」に間違えられたとは(笑)。そう言えばイザベラは「簡易ベッド」を持ち歩いていた……という話をどこかで見かけた記憶があるのですが、荷物の中でも目立つものだったんですね。

渡し場の不通

第二十五信は「鶴形にて 七月二十七日」とあるのですが、7/27 は三種町豊岡に泊まっている筈で、その翌日は檜山(能代市)から富根(能代市、旧・二ツ井町)に移動しているので、鶴形は通過しただけのような……。

 雨と泥をはねながら進んでゆくと、富根トビネの人々は、大雨で川が増水したために渡し舟はすべて通らなくなったから留まった方がよい、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
「富根」は原文では Tubine となっていました。JR 奥羽本線に「富根とみね」駅があり、駅前の小字は同名の「富根」ですが、大字は「二ツ井町根」となっています(「とぶね」と読む?)。イザベラ一行は豊岡(三種町)から檜山(能代市)を経由して羽州街道をショートカットして、再び羽州街道に戻ってきたことになりますね。

困難な通行

富根は米代川沿いの村で、「渡し舟」とあるものの、これは川を渡ると言うよりは川上り・川下りで人と荷物を移動する交通手段だったっぽい感じでしょうか。このあたりの奥羽本線(当時は奥羽北線)が開通したのは 1901 年で、イザベラが当地を訪れた 23 年後ということになります。

しかし私は今まで間違った報告で迷わされたことが多かったので、新しく馬を手に入れ、非常に美しい山腹に沿っている山道を進んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284-285 より引用)
この「山道」は羽州街道、現在の国道 7 号のことでしょうか……?

米代川の危険

イザベラは「非常に美しい山腹に沿っている山道」から「米代川を見下ろせた」と記しているのですが、羽州街道の標高は 16 m ほどで米代川は 8 m ほど下を流れています。一応「見下ろす」ことは可能かもしれませんが……

大きな川で増水しており、海に近づくと全地域にひろがっていた。滝のような雨がなおも降っていて、戸外の仕事はすべて中止となっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
確かにずっと雨模様だったので当然と言えば当然なのですが、米代川は大きく増水していたようです。

このように私たちは、険しい坂道を辷るようにして下りて、切石という村に入った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
ん、羽州街道の富根・切石間には険しい坂道は無い筈なので、やはりイザベラの言う「美しい山腹に沿っている山道」は羽州街道では無いのかもしれませんね。ちょうどお誂え向きの道路が「烏野」のあたりを通っているので、イザベラはこの道を通ったのかもしれません。

切石(能代市二ツ井町切石)から先は川の南北に山が迫る難所で、先に進むには川を渡るしか無い地形です。

はたせるかな、川の土手まで来ると、たっぷり四〇〇ヤードもある川は、静かに不気味な音を立て、水車を動かす流水のように渦巻きながら流れていて、役所から人馬の渡河禁止の命令が出ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
「400 ヤード」は約 365.76 メートルとのこと。いくらなんでも話を盛りすぎだろう……と思ったのですが、羽州街道の「米白橋」の長さは 360 m 近くあるっぽいので……うわ、ピッタリだ! すげぇ!

増水のため「渡河禁止命令」が出ていたので、馬子はイザベラの荷物を置いて高台に避難してしまったのですが、このことについてイザベラは……

政府の温情主義も、もう少しいい加減にしてくれればよいのに、と思った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
なんというか、なかなか「鬼」ですね。原文では I wished that the Government was a little less paternal. となっていて、paternal は「父親の」あるいは「父方の」と言った意味らしいのですが、paternal government で「温情主義の政治」を意味するとのこと。

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2023年9月17日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1073) 「ヲクトスベ・ポンタラウシ・別尺泊」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヲクトスベ

o-kut-us-pet
河口・帯状に岩のあらわれている崖・ついている・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路町古番屋(かつての仙鳳趾)の 0.6 km ほど南東にある地名です。例によって地理院地図には記載がありませんが、Google Map や Mapion などには記載されています。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲークトシベ」と描かれていました。古番屋(かつての仙鳳趾)から先は海沿いを進むと(尻羽岬経由)明らかに遠回りになるため、山道をショートカットして初無敵そむてきに出る場合が多かったようで一気に記録が少なくなるのですが、幸いなことに加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) に次のように記されていました。

ヲークトシヘ ツヲホ・トシ・ヘツ 深・縄・川
  極小川に候得共、磯より少し引上り深く縄のよふに長きを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
ooho-tus-pet で「深い・縄・川」と解したのでしょうか。tus は「縄」を意味しますが、同時に「蛇」の忌み言葉でもあるので、あるいは蛇が良く出る川だった……という可能性もあるかもしれませんね。やや珍妙な解にも思えますが、「ヲークトシヘ」と「ヲークトシベ」がそっくりなところが気になります。

また「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

(五丁廿四問)ヲトクトシベ(大岩)名義、岩岬段々になるを以て號く。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.320 より引用)
永田地名解 (1891) には次のように記された箇所があります。これが「ヲクトスベ」のことでしょうか?

O-kut ush pet   オクッ ウシュ ペッ   層瀑川 段々ニナリタル瀧川ニ名クト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.333 より引用)
明治時代の地形図にも「オクッウシュペツ」と描かれていました。あ、伊能忠敬の「大日本沿海輿地図 (1821) 」にも「ヲクトシベ」と描かれていますね。今更ですが表にしてみるとこんな感じです。

大日本沿海輿地図 (1821)ヲクトシベ
加賀家文書「クスリ地名解」 (1832)ヲークトシヘ
初航蝦夷日誌 (1850)-
竹四郎廻浦日記 (1856)-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲークトシベ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲトクトシベ
永田地名解 (1891)オクッ ウシュ ペッ
明治時代の地形図 (1897 頃?)オクッウシュペツ
Google Mapヲクトスベ

この表を見ると、「東蝦夷日誌」の「ヲトクトシベ」が若干ノイズっぽい感じで、あとはほぼ似たような表記になっています。kut は「帯状に岩のあらわれている崖」なので、o-kut-us-pet は「河口・帯状に岩のあらわれている崖・ついている・川」と見て良さそうな感じですね。

ポンタラウシ

pon-taor-us-i???
小さな・川岸の高所・ついている・もの(川)
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2023年9月16日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1072) 「ユキラナイ・ショシャモナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ユキラナイ

yuk-ru-e-ran-i
鹿・道・そこで・降りる・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路仙鳳趾と古番屋(移転前の仙鳳趾)の間の地名で、地理院地図には記入がありませんが、何故か Google Map や Mapion には記載されていたりします。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ユクルエラン」と描かれているので、古くからある地名と見て良さそうですね。「初航蝦夷日誌」(1850) には「ユルクルヱラニ」とあり、「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも「ユクルイラン」とあります。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Yuk eran ushi   ユㇰ エラン ウシ   鹿下リ來ル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.333 より引用)
また加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

ユクルヱラニ ユク・ルヱ・ラン 鹿・道・下り
  先年此所え鹿追下しを斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
うーん。加賀家文書「クスリ地名解」は 1832()年で、永田地名解よりも 60 年近く古いんですが、「クスリ地名解」のほうがより正確に見えてしまいますね。加賀伝蔵はアイヌ語通辞(通訳)から身を立てた人物なので、当然といえば当然なのかもしれませんが……。

「ユキラナイ」は yuk-ru-e-ran-i で「鹿・道・そこで・降りる・ところ」と見て良さそうです。「ユクルエラニ」が転訛に転訛を重ねて「ユキラナイ」に化けてしまった……ということなんでしょうね。

ショシャモナイ

usam-oma-i??
互いのそば・そこにある・もの(崖?)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

2023年9月15日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (107) 「Day 5 ゴールイン&航続距離の話」

国道 44 号と国道 391 号が分岐する交叉点を左折して(国道 44 号を離れて)釧路市内に向かいます(国道 44 号を直進するよりも少し距離が短いっぽいので)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この先(速度制限標識のあるあたり?)で釧路市に入る筈ですが、カントリーサインらしきものは見当たりません。釧路町西部と釧路市の市街地はほぼ一体化しているので、いちいちカントリーサインを立てていたらキリが無い……ということなのかもしれませんね。イオン釧路店も釧路市ではなく「釧路町」にあるみたいですし。

2023年9月14日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (106) 「くしろバス『26 霧多布線』」

釧路町に入りました。かろうじてカントリーサインっぽいものが見える……程度の写真になってしまいすいません……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

相変わらずのえげつない逆光なので、例によって頑張って補正しています。かなり背の高い電波塔(ですよね?)も見えます。

2023年9月13日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (105) 「『ゆずり車線』の後のオービス」

道道 123 号「別海厚岸線」と合流した国道 44 号(この先、尾幌まで重複区間)は海沿いの高台を西に向かいますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

海沿いの高台区間は 1 km と少しで終了し、内陸部に入ります。この先の交叉点で標茶に向かう道道 14 号「厚岸標茶線」と厚岸駅に向かう道道 425 号「厚岸停車場線」に接続します。

2023年9月12日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (104) 「シカ用の歩道橋?」

浜中茶内から 1.6 km ほど南西に進んで厚岸町に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

町境は何の変哲もない防風林のように見えますが、一応、分水嶺の近く……のようです。浜中町側は風蓮川水系で風蓮湖に注ぎ、厚岸町側は別寒辺牛川水系で厚岸湖に注ぐので、結構大きな違いなんですが……。

2023年9月11日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (103) 「酒・たばこ・米・ガソリン」

国道 44 号を西に向かい、浜中町に入りました。トリミングしたものをウソくさく補正した上でノイズ除去もかけてみましたが、これが限界でしょうか……(汗)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 44 号は根室市と浜中町の境界で緩く右にカーブしています。大きな山が見えないのは道東らしいですね。

2023年9月10日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1071) 「ポンベツプト・別太・アシリコタン」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ポンベツプト

{pon-pet}-putu?
{小さな川}・口
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
仙鳳趾の漁港の近くに「別太川」(地理院地図ベクトルタイルによると「べっふとがわ」)と「千石川」という川が注いでいるのですが、不思議なことに「別太川」の河口付近に「ポンベツプト」という地名があり、「千石川」の流域が「字別太」(と「アシリコタン」)のようです。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヘツフト」と描かれています。……昨日の記事で作成した表を手直ししたほうが良さそうですね。

大日本沿海輿地図 (1821)シレベツ---
加賀家文書「クスリ地名解」 (1832)ヘツフト--ユクルヱラニ
初航蝦夷日誌 (1850)ベツブト--ユルクルヱラニ
竹四郎廻浦日記 (1856)ヘツフト--マクラン?
午手控 (1858)ベツブシレー-ユフケラニ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヘツフト--ユクルエラン
東蝦夷日誌 (1863-1867)ベツブトシレヽ-ユクルイラン
永田地名解 (1891)---ユㇰ エラン ウシ
明治時代の地形図 (1897 頃?)シヤクペツ?---
Google Mapポンベツプト別太アシリコタンユキラナイ

これを見る限り、「ヘツフト」あるいは「ベツブト」は「加賀家文書」と松浦武四郎の著作群に記されているものの、何故か永田地名解ではスキップされたように見えます。現在は「別太川」という川名ですが、どうやら本来は「オンネベツ」だったようで、その河口を「ヘツフト」と呼んだ、ということのようです。pet-putu で「川・口」ですね。

伊能忠敬の「大日本沿海輿地図」では、現在の「ユキラナイ」の南に「ベツフツ」と描いていますが、これは……なにかの間違いでしょうか。確かに川は流れているのですが、その後の記録との整合性が取れないので。

また、「午手控」にちょっと興味深い記録がありました。

 シレー むかし老人が入たるよし。ホンベツ小川有
ベツブ ヲン子ヘツと云 此川巾七八間。(上に)小沢有よし
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.232 より引用)
この「ベツブ」が現在の「ベツプト」のことと考えられるのですが、その手前(=南)に「シレー」とあり、「ホンベツ小川有」と記されています。この記述を素直に読み解くと、現在の「別太川」が「ヲン子ヘツ」で、「千石川」が「ホンベツ」だった可能性が出てきます。

ただ「東蝦夷日誌」には次のように記されていました。

ベツブト(川幅五六間)川口と云儀。此川上にてヲンネベツ・ホンベツに分ると。番屋あり。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.322 より引用)
ありゃあ。現在の「別太川」も途中で二手に別れていますが、そのどちらかが「ホンベツ」だと言うのですね?

「手控 午第六番」(=午手控)の「ホンベツ小川有」と「東蝦夷日誌の「ホンベツ」は同一であるようには読めないので、二つの「ホンベツ」(= pon-pet)が存在したか、あるいはどちらかが勘違いだったか、となりそうですね。

いずれにせよ現在の「別太川」(=ヲン子ヘツ)の河口が「ポンベツプト」なのは何らかの勘違いが含まれているような気がするのですが、とりあえず「ポンベツプト」は {pon-pet}-putu で「{小さな川}・口」となりそうです。

別太(べつぶと)

pet-putu?
川・口
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

2023年9月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1070) 「重蘭窮・仙鳳趾・ポンピラ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

重蘭窮(ちぷらんけうし)

chip-ranke-us-i
舟・おろす・いつもする・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸湾の西岸部の地名です。「釧路町の難読アイヌ語地名」はすっかり有名になりましたが、その最北端と言えるでしょうか。このあたりの地名は豊島三右衛門という人物によって漢字表記が為されたらしいのですが、その難解かつ複雑怪奇な漢字表記が長らく維持されてきたおかげで、いまやある種の観光資源になりつつあるわけで……。世の中何がどう転ぶかわからないものですね……。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チフランケウシ」と描かれていて、その南隣には「ヘツフト」と描かれていました。……表にしたほうが早そうな予感がしたので、表にしてみましょうか(レイアウトの都合で一部の地名をカットしています)。

加賀家文書「クスリ地名解」 (1832)チツランケウシヘツフトユクルヱラニセンホウシ
初航蝦夷日誌 (1850)チフランケウシベツブトユルクルヱラニゼンホウジ
竹四郎廻浦日記 (1856)チフランケウシヘツフトマクラン?センホウシ
午手控 (1858)チフランケウシベツブユフケラニセンホウシ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)チフランケウシヘツフトユクルエランセンホウシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)チフランケウシベツブトユクルイランセンポウジ
永田地名解 (1891)チㇷ゚ ランケ ウシ-ユㇰ エラン ウシチェㇷ゚ ポオチ
明治時代の地形図 (1897 頃?)仙鳳趾シヤクペツ?-元仙鳳趾
陸軍図 (1925 頃)仙鳳趾--古番屋
Google Map重蘭窮ちぷらんけうし別太ユキラナイ古番屋
フルセンポウチ

話を若干ややこしくしているのが「仙鳳趾」で、元々は重蘭窮と尻羽しれぱ岬の中間あたり、現在は「古番屋」あるいは「フルセンポウチ」と呼ばれるあたりの地名でした。

1872(明治 5)年に「センポウシ村」が成立するも翌年の 1873(明治 6)年に住民を「チプランケウシ」に移し、「チプランケウシ」が「センポウシ村」の中心地となります。結果的に「仙鳳趾村重蘭窮」になった、ということになりますね。

江戸時代のアイヌ語通辞(通訳)で、後に「ノッケ場所」(=野付)の支配人に取り立てられた加賀伝蔵が残した「加賀家文書」の中に「クスリ地名解」と題されたものがあり、そこには次のように記されていました。

チツランケウシ チフ・ランケ・ウシ 船・下(す)・所
  先年此影山にて蝦夷船作り下げ候故斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.264 より引用)
この「クスリ地名解」は天保三年(1832 年)の日付が記されています。chip-ranke-us-i は「舟・おろす・いつもする・ところ」だと考えられるのですが、あっさりとほぼ正解に辿り着いた感がありますね。

「午手控」には次のように記されていました。

チフランケウシ 船を出したるよし
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.232 より引用)
また次のような記述も見つかりました。

ツフランケウシ
 船を作り出せしと云事
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.342 より引用)
永田地名解にも次のように記されていました。

Chip ranke ushi   チㇷ゚ ランケ ウシ   舟ヲ下ス處 山中ニテ舟ヲ作リ此處ニ舟テ下ス處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.334 より引用)
この重蘭窮、難しいのは読み方だけで、意味するところは明瞭だったようです(これほど異説が少ないのも珍しいかも)。chip-ranke-us-i で「舟・おろす・いつもする・ところ」と見て間違い無さそうですね。

仙鳳趾(せんぽうし)

{chep-po}-ochi?
{小さな魚}・群在するところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年9月8日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (102) 「『キタキツネに化けたタヌキ』説」

1978 年に開発が始まった「新酪農村」の関連道路と思われる「新酪道路」の終点にやってきました(国道 44 号との交叉点)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

根室の中心部に向かうには左折ですが、この日のゴールは釧路だったので、右折して釧路に向かいます。昔だったら無理やり根室に立ち寄って、釧路に向かう頃にはすっかり日が落ちて……というオチになっていたでしょうね。

2023年9月7日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (101) 「槍昔に小学校はあったか」

念願の(?)槍昔にやってきました。風蓮湖に突き出した半島の突端にある小さな集落です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

道路沿いには家屋が立ち並んでいますが、そう言えばお隣の別海町走古丹とは異なり、小学校らしき建物が見当たりません(走古丹の小学校も既に廃校になってしまいましたが)。

2023年9月6日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (100) 「槍昔」

国道 243 号は標津からやってきた国道 244 号と合流して、厚床に向かいます。風蓮川を渡って根室市に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この辺の国道 243 号は、ところどころにカーブがあるものの、全体的に緩やかなもので、アクセルオフの必要は無さそうな感じです。

2023年9月5日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (99) 「根室名物・巨大ヘキサ」

(何故かバス停からびみょうに離れた)標津線の線路跡に建てられた待合室から、北側を望みます。線路はやや右にカーブしていたんですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道道 930 号「上風連奥行線」の終点となる交叉点を望みます。ご覧の通り、めちゃくちゃ逆光なので……

2023年9月4日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (98) 「謎な立地の待合室」

国鉄標津線・奥行臼駅跡の貨物引き込み線の分岐まで戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

線路跡は北にも伸びているので、もう少し歩いてみましょう。

2023年9月3日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1069) 「茶々古丹・ヤワコタン」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

茶々古丹(ちゃちゃこたん)

sa(-wa-an)-sak-kotan?
浜のほう(・に・ある)・夏・村
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
尾幌分水の南、釧路仙鳳趾の北の海沿いに位置する地名です。こんな地名があったのか……と驚いているのですが、Google マップでも表示されているんですよね。

トドマツの枝?

伊能大図 (1821) には「フツテキコタン」という村が描かれていました。どうやら huptek で「トドマツの枝」を意味するとのこと。知里さんの「植物編」(1976) にも次のように記されています。

(3) huptek(húp-tek)「ふㇷ゚テㇰ」[hup(トドマツの)tek(手)]枝《北海道各地》
  注 4. ──北海道北東部(十勝・釧路・北見)でわ húttek と發昔する人が次第に多くなっている。
(知里真志保「知里真志保著作集 (1973) 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.234 より引用)※ 原文ママ

おじいちゃんの村?

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい地名が見当たりませんが、「午手控」(1858) には次のように記されていました。

チャチャコタン むかし土人住居のよし
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.232 より引用)
また「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも次のように記されていました。

チヤチヤコタン(小川)老人村の義。此邊波静なる故、老人共多く殘り、漁をする故此名有と。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.322 より引用)
国後島の「爺爺ちゃちゃ岳」と同様に、chacha-kotan で「老爺・村」ではないか……ということですね。「地名アイヌ語小辞典」(1956) にも次のように記されていました。

chácha ちゃチャ もと老爺の意。地名では onne(年老いた,古い)の意を表わすらしい。~-kotan【C】[じじい・村](大昔から住み親しんで来た村)。~ -nupuri【C(クナシリ島); H 北(シレトコ半島)】[じじい・山](大昔から崇拝して親しんで来た山)。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.13 より引用)
どうやら chachaonne と同義だと見て良さそうな感じですね。

浜の方にある夏の村?

ところが、明治時代の地形図には「ササココタン」と描かれていました。「サココタン」であれば sak-kotan で「夏・村」と解釈できますし、sa-wa-an-sak-kotan で「浜のほう・に・ある・夏・村」だったものが -wa-an が略されて、sa-sak-kotan で「浜のほう・夏・村」になった……とも考えられます。

面白いことに、「茶々古丹」の「茶」の字は「ちゃ」とも「さ」とも読むことができます。元は「茶々古丹」を「ささこたん」と読ませていた……と考えたりもしたのですが、そうすると松浦武四郎が「チャチャコタン」と記録していたことと整合性が取れなくなる……ので却下、ですね。

更にややこしいことに、cha は「枝」を意味する名詞で、また「切る」を意味する動詞でもあります。(そもそもそういう表現があり得るのかはさておき)cha-cha で「枝・切る」と解釈できそうな感じもするのですが、そう言えば伊能大図には「フツテキコタン」とあり、これは「トドマツの枝・村」じゃないか……という話もありました。

これらの解は全てリンクしている……と言うよりは、言葉遊びというか洒落っ気が感じられるような気もします。「トドマツの枝の村」か、それとも「老爺の村」か、あるいは「浜のほうにある夏の村」か……という話になるのですが、諸事情を鑑み(ぉぃ)「浜のほうにある夏の村」が本命かなぁと考えています。

「トドマツの枝の村」については「茶々古丹」と同一の場所を指していたか確証が持てないということで、已む無く棄却しました。

ヤワコタン

ya-wa-an-kotan?
陸のほう・に・ある・村
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年9月2日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1068) 「敏内・ビンナイ・オタクパウシ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

敏内(びんない)・ビンナイ

{pin-nay}?
深く細い谷川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
尾幌川は尾幌駅の東にある超ショートカットルートの「尾幌分水」を経由して海に注いでいて、地理院地図では尾幌分水に厚岸町と釧路町の町境が描かれています。ところが尾幌分水の南(釧路町エリア)をポイントすると「厚岸町敏内」と表示されるのですが……(???

しかもこの「敏内」、ちゃんと郵便番号まで設定されています。釧路町エリアにマッピングされていたり、面積がめちゃくちゃ狭そうだったりで実在性すら疑いたくなりますが、郵便番号まで設定されているとあっては「現役地名」と考えるしか無いですよね。

不思議なことに「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) や明治時代の地形図には、それらしい地名・川名は見当たりません。ただ大正時代の陸軍図には「ピンナイ」と描かれているので、少なくとも戦前から存在する地名だったようです。

「ビンナイ」という音からは {pin-nay} で「深く細い谷川」の可能性を考えたくなります。ただ尾幌分水のあたりに pin-nay と呼ぶに相応しい川があったかと言われると……。

お隣の釧路郡釧路町大字仙鳳趾村にも「字ビンナイ」があるのですが、こちらは Google マップでも確認できます。ちょうど「ビンナイ」の文字のあたりに(比較的)深く細い谷川っぽい地形があると言えばあるんですよね……。


もちろん pi-nay で「小石・川」だった可能性もあるわけですが、「ピンナイ」「ビンナイ」「敏内」のいずれも pi-nay よりは pin-nay に寄っているので、まずは pin-nay の可能性を考えておきたいです。

オタクパウシ

o-takuppa-us-i?
そこに・谷地坊主・多くある・もの(川)
(? = 記録あり、類型未確認)

2023年9月1日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (97) 「線路は続くよ」

国鉄標津線・奥行臼駅跡の南に伸びている線路(跡)を歩きます。線路跡の線路と言うのも……日本語って難しいですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おや、この三角形のマークのついた機械は……? 一瞬 ATS 地上子かと思ったのですが、転轍機(ポイント)と繋がっているので、転轍機関連の何か……でしょうか?