2023年9月18日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (151) 豊岡(三種町)~切石(能代市) (1878/7/28(日))

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

猿回しと見られる

イザベラは大館の宿屋で、前日の三種町豊岡からの移動を回想しています。日付は前後の記録からの推定ですが、偶にズレてるような気がするんですよね……(見つけ次第修正しているのですが)。

 豊岡からの旅は実にきびしかった。その日の雨はやむことなく、吹きつける霧のために、眼に見えるものは地平線上にぼんやりかすむ低い丘陵、松林のやせ地、雑木林、水のあふれた稲田だけで、ところどころ道路に沿って村落があり、そこは一フィートの深さの泥沼になっており、そこの人たちの着ているものは、特にぼろぼろで汚かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
イザベラは羽州街道で能代に向かうのではなく、秋田県道 4 号「能代五城目線」沿いを北に向かったことになります。JR 奥羽本線も能代の中心部を通らないルートで、どちらも大館に向かうことを考えると良い選択なのですが、イザベラは「誰も道を教えてくれない」と言いながらかなり的確なルートで北上しているように見えます。

イザベラの性格を考えると、ルートを全て伊藤任せにしているとも考えづらいので、ルートは玉石混淆の情報をもとにイザベラが決めていたのでしょうか?

士族サムライの村である檜山ひやまは例外であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
能代市檜山は 1955 年に能代市に編入されるまでは「山本郡檜山町」で、檜山安東氏城館跡のあるところのようですね。なるほど確かに「サムライ」の村で、イザベラは「美しい傾斜地」に「美しい庭園」のある「一軒建ての家」で「洗練されて静かな暮らしを楽しんでいる」と記しています。

余談ですが、この「ひやま」は原文では "Hinokiyama" となっていました。漢字を「正しく」読んだ形ですが、誰かが読み間違えたのか、それともそういう読み方もあったのか……? 後に地図を見た際に読み間違えた、という可能性もありそうでしょうか。

イザベラが描写した庶民の暮らしは目も当てられないほど酷いものが多いですが、サムライや商人などはかなり暮らしぶりがいいんですよね。このあたりの「格差」は財閥解体や農地改革で大きく是正されて「一億総中流」という時代になったものの、明らかにそこから逆行しつつあるのは憂うべき事態です。

ある大きな村の近くの水田の間の土手道を、伊藤を前にして馬に乗って進んでいたが、そのとき学校帰りの多くの子どもたちに出会った。彼らは私たちに近づくと、あわてて元の方へ逃げだした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
これまで見たことの無い「異人さん」の行列に遭遇してしまったので、そりゃあ逃げ出したくなるのも理解できます。イザベラの馬子が逃げた子どもを追いかけて(何故?)ひとりの少年を捕まえると……

少年はびっくりして、手足をばたばたさせていたが、馬子は笑っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
おやおや、これは一体……?

少年の言葉から察すると、伊藤は猿回しで、私が大きな猿であり、私のベッドの棒は舞台を組み立てるものだと思いこんでいる!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
これまでも散々「見世物」にされてきたイザベラですが、ついに「猿回しの猿」に間違えられたとは(笑)。そう言えばイザベラは「簡易ベッド」を持ち歩いていた……という話をどこかで見かけた記憶があるのですが、荷物の中でも目立つものだったんですね。

渡し場の不通

第二十五信は「鶴形にて 七月二十七日」とあるのですが、7/27 は三種町豊岡に泊まっている筈で、その翌日は檜山(能代市)から富根(能代市、旧・二ツ井町)に移動しているので、鶴形は通過しただけのような……。

 雨と泥をはねながら進んでゆくと、富根トビネの人々は、大雨で川が増水したために渡し舟はすべて通らなくなったから留まった方がよい、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284 より引用)
「富根」は原文では Tubine となっていました。JR 奥羽本線に「富根とみね」駅があり、駅前の小字は同名の「富根」ですが、大字は「二ツ井町根」となっています(「とぶね」と読む?)。イザベラ一行は豊岡(三種町)から檜山(能代市)を経由して羽州街道をショートカットして、再び羽州街道に戻ってきたことになりますね。

困難な通行

富根は米代川沿いの村で、「渡し舟」とあるものの、これは川を渡ると言うよりは川上り・川下りで人と荷物を移動する交通手段だったっぽい感じでしょうか。このあたりの奥羽本線(当時は奥羽北線)が開通したのは 1901 年で、イザベラが当地を訪れた 23 年後ということになります。

しかし私は今まで間違った報告で迷わされたことが多かったので、新しく馬を手に入れ、非常に美しい山腹に沿っている山道を進んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.284-285 より引用)
この「山道」は羽州街道、現在の国道 7 号のことでしょうか……?

米代川の危険

イザベラは「非常に美しい山腹に沿っている山道」から「米代川を見下ろせた」と記しているのですが、羽州街道の標高は 16 m ほどで米代川は 8 m ほど下を流れています。一応「見下ろす」ことは可能かもしれませんが……

大きな川で増水しており、海に近づくと全地域にひろがっていた。滝のような雨がなおも降っていて、戸外の仕事はすべて中止となっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
確かにずっと雨模様だったので当然と言えば当然なのですが、米代川は大きく増水していたようです。

このように私たちは、険しい坂道を辷るようにして下りて、切石という村に入った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
ん、羽州街道の富根・切石間には険しい坂道は無い筈なので、やはりイザベラの言う「美しい山腹に沿っている山道」は羽州街道では無いのかもしれませんね。ちょうどお誂え向きの道路が「烏野」のあたりを通っているので、イザベラはこの道を通ったのかもしれません。

切石(能代市二ツ井町切石)から先は川の南北に山が迫る難所で、先に進むには川を渡るしか無い地形です。

はたせるかな、川の土手まで来ると、たっぷり四〇〇ヤードもある川は、静かに不気味な音を立て、水車を動かす流水のように渦巻きながら流れていて、役所から人馬の渡河禁止の命令が出ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
「400 ヤード」は約 365.76 メートルとのこと。いくらなんでも話を盛りすぎだろう……と思ったのですが、羽州街道の「米白橋」の長さは 360 m 近くあるっぽいので……うわ、ピッタリだ! すげぇ!

増水のため「渡河禁止命令」が出ていたので、馬子はイザベラの荷物を置いて高台に避難してしまったのですが、このことについてイザベラは……

政府の温情主義も、もう少しいい加減にしてくれればよいのに、と思った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.285 より引用)
なんというか、なかなか「鬼」ですね。原文では I wished that the Government was a little less paternal. となっていて、paternal は「父親の」あるいは「父方の」と言った意味らしいのですが、paternal government で「温情主義の政治」を意味するとのこと。

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