2024年4月30日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (177) 「毛根 27 号」

道道 75 号「帯広新得線」を西に向かいます。河西郡芽室町に入り、前方に「帯広・広尾自動車道」の立体交叉が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

青看板の支柱に十字路の警告標識がある……のは良いのですが、その下に「西士狩西十九号」という縦書きの標識があるのが面白いですね。

2024年4月29日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (161) 矢立峠(大館市)~碇ヶ関(平川市) (1878/7/31(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信」(初版では「第三十三信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

水の力

小雨が降る中、矢立峠を強行突破したイザベラ一行でしたが、ついにイザベラの強運も尽きたか、またしても雨が激しく降り始めてしまいます。

私は何週間も雨に降られていたので、はじめのうちはあまり気にもしなかったが、まもなく眼前に変化が起こり、私の注意はそれにひきつけられた。いたるところに烈しい水音が聞こえ、大きな木が辷り落ち、他の木もまきぞえをくって倒れた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.304 より引用)
雨が降るからには水量も増大するのは当然の理ですが、「大きな木がすべり落ち」というのは穏やかではありませんね。しかも……

地震のときのように音を轟かせながら山腹が崩れ、山半分が、その気高い杉の森とともに、前に突き出し、樹木は、その生えている地面とともに、まっさかさまに落ちて行き、川の流れを変えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.304 より引用)
どこからどう見ても、単なる長雨ではなく「土砂災害」ですよねこれ……。イザベラが「すばらしい道路である」と絶賛していた矢立峠の峠道も……

現実に私の眼の前で、この新しい道路が急に現われた奔流のために崩れ去り、あるいは数カ所で崖崩れのために埋まった。少し下方では、一瞬のうちに百ヤードも道路が消えてしまい、それとともにりっぱな橋が流され、下の方の奔流に横になって倒れたままになっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
良く整備された道路がほんの僅かな間に崩壊するというのは衝撃的ですが、イザベラはこの状況をどう乗り越えたのでしょう……?

困難増す

不思議なことに、イザベラは矢立峠から先に進むことができていたようで……

 山を下って行くと、事態はさらに悪化し、山崩れが滝のように樹木や丸太、岩石を押し流していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
少なくとも「山を下る」ことはできた、ということですね。イザベラ一行は偶然にも大館に向かっていた駄馬とその馬子に出会い、荷物と情報を交換します。

彼らは、もし急げば彼らが出てきた村へなんとか行きつくことができるだろう、と語った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
「彼ら(馬子)が出てきた村」の詳細は不明ですが、この先の文脈を考えると「いかりヶ関」(平川市)でしょうか?

しかし話をしているうちに、下の橋が流れてしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
カタストロフィですね……。能代から大館への移動(舟行)も相当危険なものでしたが、今回も負けてないような……?

イザベラ、鞍上に固定される

碇ヶ関?からやってきた馬子は、イザベラの身を案じ、イザベラを鞍上に固定することを強く勧めます。

彼らは、私を荷鞍にしっかり結びつけてあげよう、と言ってきかなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
これはイザベラが落馬しないように……ということだと思われるのですが、時岡敬子さんは少し違ったニュアンスで訳出されていました。

馬子は荷鞍に乗れとわたしをき立てました。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 上』講談社 p.435 より引用)
ちなみに原文では次のようになっていて……

They insisted on lashing me to the pack-saddle.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
今回は、高梨謙吉さんの訳のほうがリアルな感じがしますね。lash ではなく rush であれば、時岡さんの訳でバッチリなのかもしれませんが。

あの大きな谷川は、前にはその美しさを賞賛したのだったが、今ではもう恐ろしいものとなり、浅瀬がないところを四度も歩いて渡らねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
何事もままならないのが人生ですが、今回の「天国?から地獄へ」の切り替わりの速さはこれまでの中でもトップレベルのような……。

イザベラ一行は、降り注いだ豪雨が滝のように流れ、山の斜面を樹木が滑り落ちてくる異常事態の中で山を下り……

最後に渡った川では、流れが強くて、男たちも馬も力の限りをつくした。私は馬に結びつけられていたから動きがとれず、実は眼を閉じて観念していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
あー、やはりイザベラは馬に固定されていたんですね。それにしても、あのイザベラが「目を閉じて観念する」というのは、やはり相当に危険な状況だったと言わざるを得ないような……。

イザベラ、ようやく固定を解除される

峠を越えたところで天候が急変したため、いずれにせよ山を下りるという選択肢しか無かったイザベラ一行ですが、青森側の馬子と偶然コンタクトが取れたというのは、やはりイザベラの強運のなせる業だったのでしょうか。結果的に、イザベラは峠から北に進むことに成功しているように見えます。

そこをやっと通り越すと、この村のある土地にやってきた。水田は土手が破れ、他の作物を耕作している美しい畑は、うねあぜもすべて跡形もなくなっていた。水量が増してきたから急がなければならない、と男たちは言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
田畑のあるところまで戻ってきた(イザベラにしてみれば「進んだ」)ということになりますね。

彼らは、私を結んでいる綱をとき、もっと気持ちよく馬に乗っていられるようにしてくれた。彼らは馬に話しかけ、駆け足で進んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
落馬防止のために綱で固定されていたイザベラですが、ここでようやく自由な姿勢で乗馬できるようになったようです。イザベラの馬の馬沓は渡河で傷んでしまい、馬は痛みと疲労でヨレヨレの状態だったようです。

突然、馬上のイザベラに異変が起こります。

雨は滝のように降ってきたので、ひょっとして鞍から私が押し流されたらどうなるだろうかと考えていたとき、突然眼の前に火花がどっと散って、言語に絶したものを感じた。私は息がつまり、打撲傷を受けていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
一体イザベラの身に何が起こったのか、という話ですが……

やがて私は三人の男たちによって溝から救い出された。そこでようやく知ったのだが、馬が険しい坂を下りるときに転んでしまい、私は馬の前に飛ばされたのだった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
イザベラの馬が下り坂で転倒し、イザベラは前方に投げ出されてしまった……ということのようでした。ここまでの旅でイザベラが落馬したことはあったでしょうか(気性の激しい馬に苦労したことはありましたが)。あったとしても、ここまで激しい落馬はこれまで無かったような……?

男たちは駆け足で、馬は躓いて水をはねながら、私たちはりっぱな橋を渡って平川を越え、また半マイル先で別の橋を渡って同じ川を横切った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306-307 より引用)
イザベラが渡った「りっぱな橋」ですが、「遠部沢」を渡る「岩淵橋」と「津刈つがり川」を渡る「船岡橋」でしょうか。もしそうだとすると、厳密には「同じ川」を横切ったとは言えないのですが……。

日本の他の橋も、すべてこのようにしっかりしたものであればよいと思った。橋はどちらも長さ一〇〇フィートで、中央に橋脚があった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
矢立峠からの下りで、眼の前で橋が流されたのを見ているだけに、イザベラのコメントは重みがありますね……(汗)。

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2024年4月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1134) 「イオロウシ川・セタラ沢・鍛高」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イオロウシ川

e-woro-us-i
頭・水についている・いつもする・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
茶路川の東支流で、白糠町高台のあたりを流れています。国土数値情報では「イオロウシ川」の北隣を「イオロウシ沢川」が流れていることになっていますが、陸軍図では現在の「イオロウシ川」の位置に「イオロウシ澤」と描かれています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲルルシ」という川が描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) には「イオロウシ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ioro ushi   イオロ ウシ   川崎 川中ニ出デタル山崎○ 安政帳「イオルシ」トアルハ急言ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.323 より引用)
白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」にも、次のように記されていました。

「エ(頭)・ウオロ(水についている)・ウシ(ところ)」に由来していて、山がせり出し、その先端が川にせまっているようすを表します。
(広報しらぬか「茶路川筋のアイヌ語地名」より引用)
e-woro-us-i で「頭・水についている・いつもする・ところ」と読めそうでしょうか。イオロウシ川の南に標高 125 m ほどの山が伸びていて、その先端(西端)が崖になっています。

現在は国道(とかつての国鉄白糠線)を通すための崖にしか見えませんが、かつては茶路川が今よりも崖に近いところを流れていたようで、そのことから「山の先端」(=頭)がいつも水についている、と呼ばれたものと思われます。東川町の「江卸」と同型の地名と言えそうですね。

セタラ沢

setar-nay?
エゾノコリンゴ・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年4月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1133) 「マカヨ・御仁田・トンケシ川・トンヤ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

マカヨ

makayo?
ふきのとう
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
茶路小中学校」のあたりで茶路川に合流する「マカヨ川」という東支流があるのですが、地名としての「マカヨ」はこの川の流域を中心に、茶路川の東岸に広がっています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「?カヨ」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) (1895 頃) にも、ほぼ現在と同じ位置に「マカヨ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Makayo   マカヨ   蕗臺
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.322 より引用)
「蕗臺」は「ふきのとう」のことで、確かに makayo は「ふきのとう」を意味します。白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」によると、「マカヨ」は「マカヨ・タ・ナイ」が略されたもので、makayo-ta-nay で「ふきのとう・刈る・川」では無いかとのこと。

確かに「マカヨ」という地名はそう考えるのが自然ですが、makayo-ta-nay という川名の原典はあるのでしょうか。白糠地名研究会の『アイヌ語地名と原日本人:先住者の心をたずねて』(1983) に makayo-ta-nay とあるのは確認できたのですが、できればもう少し古い記録が欲しいところです。

余談

現在、「マカヨ川」の傍にある「茶路小中学校」のあるあたりは「白糠町松川」という地名なのですが、『アイヌ語地名と原日本人:先住者の心をたずねて』の付録「白糠町内会の由来一覧」には次のように記されていました。

 マカヨ沢のマカヨはアイヌ語で「松のたくさん、おいしげっている川」という意味である。この川に架けてある橋の名は松の生えている川にちなんで、松川橋なので、原語のマカヨそのままでは町名としてはへんだということになり、検討の末、松川部落と名づけられた。
(松本成美、白糠地名研究会『アイヌ語地名と原日本人:先住者の心をたずねて』現代史出版会 p.271 より引用)
「マカヨ」が「松のおいしげっている川」というのは何かの間違いなのですが、果たして本当に「ふきのとう」が自生していたのか、微かに疑いも抱いてしまいます。あえて「ふきのとう」以外の解釈を考えてみるなら、mak-wa-o で「山手・に・ある」と読めたりしないかな……とも。

マカヨ川は途中で二手に分かれていますが、西側(地理院地図に「マカヨ川」と記されているほう)は、茶路川とほぼ並行する向きに流れているので、その事を指して「山手にある」と呼んだのかな……という想像です。

御仁田(おにた)

o-nitat(-un-pet)
河口・湿地(・そこに入る・川)
(記録あり、類型あり)

2024年4月26日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (176) 「黄色地に黒文字と言えば」

「プロパンアンダーパス」で JR 根室本線の下をくぐると、程なく国道 38 号線との交叉点に辿り着きます。道道 151 号「幕別帯広芽室線」の単独区間はこの交叉点までっぽいですが、そのまま直進して北に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

国道 38 号から北は道道 214 号「川西芽室音更線」になるようです。

2024年4月25日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (175) 「プロパンアンダーパス」

道道 214 号「川西芽室音更線」は帯広広尾自動車道と交叉した直後で左に向かってしまいましたが、そのまま直進して市街地に入りました。ここは帯広市大空町の西側……の筈です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右折して、すぐ左折して、再び北に向かいます。すぐ近くに「公園線」という名前の四等三角点(標高 87.7 m)があるそうです。

2024年4月24日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (174) 「消えた白樺並木」

道道 62 号「豊頃糠内芽室線」を西北西に向かいます。
左折すると「岩内仙峡」ですが、この交叉点は、ホテルから岩内仙峡に向かう途中で通ったここですね。

2024年4月23日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (173) 「幻の?『戸蔦 1 号農道』」

道道 55 号「清水大樹線」から外れる形で直進して帯広市に戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

帯広市道らしい道を直進すると、左側に神社が見えてきました。この神社は「中戸蔦神社」と言うのだそうです。Google マップを見ると、2 区画ほど北西にも「戸蔦神社」があるっぽいのですが、結構な密度ですよね……。

2024年4月22日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (172) 「紫竹ガーデンまで 11 km」

道道 55 号「清水大樹線」の「上札内小学校入口」まで戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

わざわざこうやって小学校の入口をアピールするのも珍しく感じられるのですが、上空から見ると「あ、こりゃ看板が必要だな」と実感できるかもしれません(「55」の数字の上あたりに看板があります)。


ただ良く見ると、駐車場は北側から出入りするようになっているようなので、この看板は「正門」の位置を知らせるためのもの……でしょうか。徒歩で来場する人のための看板なのかもしれません。

道道 240 号「上札内帯広線」の起点となる交叉点に戻ってきました。左折すると「岩内仙峡」で、右折すると上札内小学校の駐車場です。

2024年4月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1132) 「大苗・フレイベツ川・御札部」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

大苗(おおなえ)

oo-nay?
深い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国鉄白糠線の上白糠駅があったあたりから少し西(茶路川の上流側)のあたりの地名で、同名の川も流れています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲウナイ」とあり、『北海道実測切図』(1895) にも「オオナイ」と描かれています。

白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」によると、「オオナイ」は「オオ(深い)・ナイ(沢)」だとあります。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) にも次のように記されていました。

 オオ・ナィ(oo-nay 水の深い・川)の意であるが現在は、明渠排水工事によって直線化され、川底もブロックを張りつめて、昔の形を見ることはできない。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.216 より引用)
oo-nay で「深い・川」だと考えられるのですが、鎌田さんはわざわざ「水の深い川」としています。どの辺が「水の深い川」だったのかは明言されていません。

地名において「深い」を意味する語には ooohoooho も同型)と rawne があります。oo は「水嵩のある」と言った意味で、rawne は「深く切り立った」という意味で解釈されます。鎌田さんはこの両者の違いを認識した上で「水の深い」と解釈したようです。

ただ、地形図を見た限りでは、大苗川は河口付近を除けば谷を流れる川で、流域面積も決して広いようには見えません。長雨でも無いと水嵩が上がりそうには思えないのですね。もちろん河口部が深く水を湛えていたと考えることも(理屈の上では)可能ですが、沼があったようにも見えないですし、果たして本当に「水の深い川」だったのか……という疑問が残ります。

oo あるいは oohorawne の代わり?のようになっていると思しきケースは、特に道東エリアにおいて散見されます。この「大苗川」も「深い・川」ですが、水深があるのではなく、深く切り立った谷を流れる川だったのでは……と思えて仕方がありません。

フレイベツ川

hure-pet
赤い・川
(記録あり、類型あり)

2024年4月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1131) 「ポンビラ・カリシヨ川・キナチャシナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ポンビラ

pon-pira
小さな・崖
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
茶路川西岸の地名で、Google マップでは白糠のアメダスの西のあたりと表示されます(一応は現役地名ということで)。『北海道実測切図』(1895) では、もう少し北側の、茶路川が山塊に迫っているあたりに描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でもほぼ同様の位置に描かれています。

東蝦夷日誌 (1863-1867) に「モ平(左川)」とあるのが、この「ポンビラ」のことかもしれません(mopon は意味が近いので)。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Pon pira   ポン ピラ   小崖
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.322 より引用)
ざっくりとした解が、後に知里さんに多大なる批判を浴びることになる永田地名解ですが、これは文句をつけることも無さそうな感じでしょうか。pon-pira で「小さな・崖」と見て良いかと思われます。

小さな崖があるということは、大きな崖もあっても良さそうなものですが、(現在の)キラコタンの対岸、戻辺川の東あたりの崖が「タン子ピラ」と呼ばれていたみたいです。tanne-pira で「長い・崖」だったのでしょうね。

カリシヨ川

kar-us-i??
発火器・多くある・もの
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年4月19日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (171) 「ピョウタンの滝」

「札内川園地」の駐車場に車を停めて……
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「日高山脈山岳センター」を見に行くことにしました。

2024年4月18日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (170) 「札内川園地」

「虹大橋」で札内川を渡ります。欄干の向こうに見えているのが「ピョウタンの滝」です。
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橋を渡った先には駐車場がありました。「札内川園地 日高山脈山岳センター」が右側にあると言うのですが……

2024年4月17日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (169) 「ピョウタンゲート」

道道 111 号「静内中札内線」でピョウタンの滝に向かう途中で、村道 55 号と交叉したのですが……
ここにも謎のキャラが。流石に気になったので調べてみたのですが、このキャラは「ピータン」という名前だそうで、ひよこの「ピー」と「ピョウタンの滝」の「タン」なのだとか(参考)。

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白樺並木の道路ですが、左側には簡易型の路肩マーカーが立っていました。

2024年4月16日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (168) 「中札内の謎のキャラ」

中札内村に入りました。このあたりの道道 240 号「上札内帯広線」は「四十八号」の直線区間ですが、「八号」が帯広・広尾自動車道のあたりを通っていて、そこから数えて殖民区画 40 区の南を通っている、ということになるようです。
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中札内村に入りましたが、帯広市の「通行止のお知らせ」が立てられていました。戸蔦別川と岩内川を渡る橋が 3 箇所で通行止めになっていましたが、橋があるのはいずれも帯広市内なので……ということなのでしょうね。

2024年4月15日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (167) 「国鉄バスの廃車体」

「岩内自然の村」に向かった筈が、何故か「ポロシリの森」に向かう道に入り込んでしまってさあ大変……という話の続きです。前方に「緑栄橋」という橋が見えてきました。
ちなみにこの「緑栄橋」、岩内仙峡の「仙境橋」のすぐ近くで、滝のように岩内川に合流していた「五線沢川」の橋です。

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林道はダート路……というか、改めて思えば砂利が敷き詰められているようにも見えるのですが、ここから先は草生しているように見えます。

2024年4月14日日曜日

今週の出来事(2024/4/8~13)

今日は移動の最終日なので、ここまでの旅のまとめ(という名目の手抜き記事)です。なるべく写真や内容かぶらないようにしましたが、数枚ほどめちゃくちゃ気に入った写真があるので、その辺は堂々と重複しています(汗)。

Day 0 (2024/4/8)

京都駅で「のぞみ」に乗車しました。新幹線に乗るのは数年ぶりですが、相変わらず外国人観光客が多いですね……。
ちゃちゃっと都内に向かい、ホテルにチェックインを決めました。

2024年4月13日土曜日

きょうの出来事(2024/4/13)

今日は父島最終日です。最終日らしく(?)ツアーで南島に向かうことにしました。
ガイドさん兼船長さんは、この位置で船を操縦します。

2024年4月12日金曜日

きょうの出来事(2024/4/12)

父島三日目は、伊豆諸島開発の「ははじま丸」で母島に日帰り往復してきました。
「ははじま丸」は、父島と母島の間を約二時間で結びます。「おがさわら丸」と比べるとずいぶんとコンパクトな船です。

2024年4月11日木曜日

きょうの出来事(2024/4/11)

父島二日目は、レンタカーで島内一周となりました。まずは「ウェザーステーション展望台」に向かうと……
鳥がいました。特徴のあるカラーリングですが、名前は後で調べます……(汗)。テレ端 70 mm のレンズを「全画素超解像ズーム」で 140 mm 相当にしたのですが、やはり色々と物足りないなぁ……。ということで

2024年4月10日水曜日

きょうの出来事(2024/4/10)

竹芝桟橋から小笠原は父島の二見港まで、小笠原海運の「おがさわら丸」で移動です。
外海で、しかも低気圧が通過したとあって、海はなかなかの荒れ模様でした。

2024年4月9日火曜日

きょうの出来事(2024/4/9)

雨が降る中、竹芝桟橋フェリーターミナルにやってきました。
低気圧接近により高速船は欠航が出ていますが、「おがさわら丸」は予定通り運航のようです。

2024年4月8日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (166) 「白樺林の中のダート路」

「岩内仙峡」で渓谷美を堪能したので、どうせなら「岩内自然の村」にも行っておこう……と思い立ってしまいました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ということで「岩内仙峡」の駐車場を出て、右(南西)に向かいます。

2024年4月7日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1130) 「マサルカ・戻辺川・キラコタン」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

マサルカ

{masar-ka}?
{海岸の草原}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠町には「マサルカ」を名乗る地名が二つあり、一つは「庶路マサルカ」で、もう一つが白糠駅周辺の「マサルカ」です。『角川日本地名大辞典』(1987) によると「昭和46年~現在の白糠しらぬか町の行政字名」としつつ、「昭和54年一部が東 1 条~東 3 条の各南北,西 1 条南となる」とのこと。これを見る限り、白糠駅周辺の市街地の大半が「マサルカ」だったことになりますね。

Google Map や Mapion などの Web サイトでは、「白糠町マサルカ」は茶路川河口の東側の地名として出てきます(Google Map は、何故か「シラリカップ川」上流域にも出てきますが)。

『マサルカ」は「海岸の草原」を意味する語で、「小辞典』にも次のように記されています。

masar-ka マさㇽカ もと「マサルの上」の義。海岸の草原。これは砂浜より一段高くなっているのが普通である。
知里真志保地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.58 より引用)
これによると masar-ka は「海岸の草原」とありますが、masar の項にも……

masar, -i マさㇽ 浜の草原。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.57 より引用)
「浜の草原」とあり、masarmasar-ka の違いが今ひとつ良くわかりません。元々は masar上手かみてを意味していたのが、やがて事実上 masar と同義に変化した……とかかもしれません。

『角川日本地名大辞典』にも次のように記されていたのですが……

地名の由来は,アイヌ語の(サンケ)マサルカ(海岸の砂地に続くはまなすなどのある草原の意)による。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1408 より引用)
『地名アイヌ語小辞典』(1956) によると、海岸部の名称には大きく分けると ota(砂浜)と masar(草原)があり、masar の海側が sanke-masar(前に出る・草原)だとのこと。sanke-{masar-ka} だと「前に出る・草原の上手かみて」になってしまうので、やはり masar-kamasar と同義になっていたと見るべきかもしれません。

戻辺川(もとっぺ──)

motot-pet??
背骨・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年4月6日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1129) 「オクネップ川・茶路」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オクネップ川

o-kunne-p?
河口・黒い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠の市街地の東側を流れ、漁港に注ぐ川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲ子フ」とありますが、「リ」は「ク」の誤字である可能性がありそうです。『北海道実測切図』(1895) には「オク子ㇷ゚」と描かれています。

流木が多かった?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Okunep   オクネㇷ゚   塞ル處 流木多キ小川ナレバ此名アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.321 より引用)
鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) では、この解を受けて次のように続けていました。

オㇰ・ネッ・プ「ok-net-p ひっかかっている・流木・所(川)」の意で、流木によって川口がふさがれたと解した。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.210 より引用)
どうやら ok-net-p で「引っかかる・流木・ところ」と解したようです。割と珍しい解のように思えますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のように記されていました。

ok おㇰ 《完》引っかか(ってい)る。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.74 より引用)
また、加賀家文書『クスリ地名解』(1832) にも次のように記されていました。

ヲブニブ ヲブ・ニブ 留る・木だ
  此所に小川有。時化毎に寄木にて川尻を(閉)る故斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.256 より引用)
「ヲブニブ」の逐語解は不明ですが(o-mu-ni-o-p で「河口・塞がっている・流木・多くある・もの」とか?)、少なくとも大枠での意味は共通しているように思えます。永田地名解が記録した ok-net-p で「引っかかる・流木・ところ」というのも文法的に違和感があるのですが、あるいは ok-net-un-pe あたりが略された……ということでしょうか。

「河口が黒い川」では?

どうにも違和感が凄いので悩んでいたのですが、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

今行って見ると,石炭岬の処から,街を流れるオクネップ川(o-kunne-p。川尻・黒い・もの,川か?)までの海中が岩礁で,渦潮時は海中に没し,白波が見える。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.282 より引用)
やはり、普通に考えるとそうなりますよね。加賀伝蔵以来の「塞がる川」という解釈に引っ掻き回された感がありますが、o-kunne-p で「河口・黒い・川」と見て良いのではと思います。なぜ河口が黒いのか……という話ですが、きっと流木が溜まっていて、それが黒く見えたのではないかと……。

茶路川(ちゃろ──)

charo-o-pet?
その口(入口)・そこにある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年4月5日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (165) 「岩内仙峡」

度重なる宣伝攻勢に敗北し(?)、ついうっかり「岩内仙峡」に来てしまいました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「岩内仙峡周辺施設案内図」という立派な案内板が立っているのですが、これを見ると「山の家」「バンガロー」「レストハウス」「パークゴルフ場」「マウンテンバイクコース」「コテージ」「イベント広場」などなど……なんでもござれ、という感じですね。

2024年4月4日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (164) 「ふらっと『岩内仙峡』へ」

道道 240 号「上札内帯広線」で「戸蔦別川」を渡ります。何やら見慣れない看板がありますが……
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この「とった」という文字が読み取れる看板ですが、実は……


「川の駅 とった」というカヌーボート発着場の案内でした。「山の駅」というのは聞いたことがありましたが、「川の駅」もあったんですね……。

戸蔦別川を渡った先を右折すると「ポロシリ自然公園」「拓成湖」に行けるとのこと。

2024年4月3日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (163) 「災害により戸蔦大橋通行止め」

帯広市南部の「基線」(市道?)を南南西に向かいます。「基線」と言うだけあって、僅かな例外を除けばほぼ一直線です。
写真のトーンがどことなくボンヤリしていますが、Photoshop の HDR トーン + かすみ除去 + 場合に応じてシャドウの引き上げを行っています。元の写真が既にボンヤリしていたのかもしれません……。

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左側に防風林が立ち並びます。このあたりは札内川が近いので、川との間にワンクッション置きたかった、とかでしょうか。

2024年4月2日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (162) 「道内最終日!」

ホテルをチェックアウトして駐車場に向かいます。道内最終日の Day 8 は帯広から小樽への移動です。
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車のところに戻ってきました。ここは地下駐車場なので雨に濡れることもありませんし、それほど古くないので湿っぽい感じもしないので助かりますね。

2024年4月1日月曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテル日航ノースランド帯広」編(朝食編)

日高本線の旅を終えてホテルの部屋に戻ってきました。あ、やべっ。新聞が置かれたままだ……(汗)。
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ところで……部屋には何故か 5/4 付けの「十勝毎日新聞」がありました。チェックインが 5/4 でこの時点で 5/5 の 22:30 を回っていたのですが、もしかして:休刊日?