2024年4月6日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1129) 「オクネップ川・茶路」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オクネップ川

o-kunne-p?
河口・黒い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠の市街地の東側を流れ、漁港に注ぐ川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲ子フ」とありますが、「リ」は「ク」の誤字である可能性がありそうです。『北海道実測切図』(1895) には「オク子ㇷ゚」と描かれています。

流木が多かった?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Okunep   オクネㇷ゚   塞ル處 流木多キ小川ナレバ此名アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.321 より引用)
鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) では、この解を受けて次のように続けていました。

オㇰ・ネッ・プ「ok-net-p ひっかかっている・流木・所(川)」の意で、流木によって川口がふさがれたと解した。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.210 より引用)
どうやら ok-net-p で「引っかかる・流木・ところ」と解したようです。割と珍しい解のように思えますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のように記されていました。

ok おㇰ 《完》引っかか(ってい)る。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.74 より引用)
また、加賀家文書『クスリ地名解』(1832) にも次のように記されていました。

ヲブニブ ヲブ・ニブ 留る・木だ
  此所に小川有。時化毎に寄木にて川尻を(閉)る故斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.256 より引用)
「ヲブニブ」の逐語解は不明ですが(o-mu-ni-o-p で「河口・塞がっている・流木・多くある・もの」とか?)、少なくとも大枠での意味は共通しているように思えます。永田地名解が記録した ok-net-p で「引っかかる・流木・ところ」というのも文法的に違和感があるのですが、あるいは ok-net-un-pe あたりが略された……ということでしょうか。

「河口が黒い川」では?

どうにも違和感が凄いので悩んでいたのですが、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

今行って見ると,石炭岬の処から,街を流れるオクネップ川(o-kunne-p。川尻・黒い・もの,川か?)までの海中が岩礁で,渦潮時は海中に没し,白波が見える。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.282 より引用)
やはり、普通に考えるとそうなりますよね。加賀伝蔵以来の「塞がる川」という解釈に引っ掻き回された感がありますが、o-kunne-p で「河口・黒い・川」と見て良いのではと思います。なぜ河口が黒いのか……という話ですが、きっと流木が溜まっていて、それが黒く見えたのではないかと……。

茶路川(ちゃろ──)

charo-o-pet?
その口(入口)・そこにある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
南北に長い白糠町の町域を貫流する川です。東の「庶路川」と西の「茶路川」という位置づけでしょうか。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「チヤロ」とあり、『北海道実測切図』(1895) には漢字で「茶路川」と描かれています。

大きな川なので記録もふんだんにあるのですが……ささっと表にまとめるべきでしょうね。

東蝦夷地名考 (1808)チャロベツ未考
大日本沿海輿地図 (1821)シヤーロ川-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)--
クスリ地名解 (1832)チャロ川口に・入・川
初航蝦夷日誌 (1850)シヤロ川サル川と云
竹四郎廻浦日記 (1856)チヤル川-
辰手控 (1856)サル川-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)チヤロ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)チヤロ口と云儀
改正北海道全図 (1887)チヤロ川-
永田地名解 (1891)チャロ川口
北海道実測切図 (1895)茶路川-
地理院地図茶路川-

『東西蝦夷山川地理取調図』以後は「チャロ」で間違い無さそうな感じですね。注意したいのが『初航蝦夷日誌』の「シヤロ川」「サル川と云」という記録で、これは『大日本沿海輿地図』の「シヤーロ川」という記録に遡ることができます。sar-pet で「葭原・川」あるいは sar-o-pet で「葭原・そこにある・川」と読めそうです。「斜里」や「沙流」などと同名だった可能性が出てきます。

ただ「チャロ」という解についても、秦檍麻呂の『東蝦夷地名考』や加賀伝蔵の『クスリ地名解』などに遡ることができるので、「サル川」が「チャロ川」に突然変異した……ということでも無さそうな感じです。

鯨が漂着するのでみんなハッピー

もっとも『クスリ地名解』の解釈は少々ユニークなもので……

チャロ川 チャロ・ヲ・ヘツ 口に・入・川
  昔此所え度々鯨寄揚り候はば、此類を以蝦夷人一同飯料無差支食しを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.256 より引用)
「チャロ・ヲ・ヘツ」をどう解釈したら「口に入る川」になるのかは若干謎ですが、「ちょくちょく鯨が漂着するので食べ物には困らなかった」というストーリーが付随するのが面白いかな……と。

空前の大食漢、現る?

ただ、「お互いに鯨を分け合ってみんなハッピー」というストーリーだった筈が、『東蝦夷日誌』では変貌を遂げてしまいます。

過て(十一丁四十間)チヤロ〔茶路〕(川幅四十餘間、小舟わたし)、海邊小石。名義、口と云儀。昔一匹の鯨を義經卿壹人にて喰れし由、依て號く。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.298 より引用)
曰く「昔、一ママの鯨を義経が一人で食べてしまった」とのこと。弁慶が気の毒になりますね……(そこか)。

国鉄白糠線の予定ルート

とりあえず、おかしなストーリー込みとは言え、「チャロ」は「くち」である、という風に伝えられていたことが読み取れます。山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

その川を朔ると山を越えて十勝川筋の足寄郡に出る。足寄郡が釧路国の中に入れられていたのは,そこが釧路アイヌの居住圏であったからで,白糠系統の人たちの住地だったらしい。茶路川口はそこへの主交通路の入口でもあった。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.282 より引用)
足寄は「十勝総合振興局」のエリアですが、古くは釧路アイヌのテリトリーでした。本別は十勝アイヌのテリトリーだったため、釧路から(本別を経由せずに)足寄に向かうには、白糠から茶路川を遡って螺湾(足寄町)に出るルートが最短だったように思えます(このルートは奇しくも国鉄白糠線の予定ルートとほぼ同じです)。

 大切な交通路の川の口なのでチャロ(charo その口)と呼ばれていたのであろう。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.282 より引用)
そんなところでしょうね。charo-o-pet で「その口(入口)・そこにある・川」だったのではないでしょうか。

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