この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
海に近づく
イザベラは羽州街道を北上して青森に向かっていました。日光を出てから数多くの峠を越えて来たが、その最後の峠は浪岡 にあった。鶴ガ 坂というところであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
この峠はイザベラは鶴ヶ坂の印象を「故郷スコットランドに帰ったような気持ちにさせる」と綴っていました。今まであまり気にしたことが無かったのですが、スコットランドだったんですね……。
楽しい興奮
鶴ヶ坂から青森の中心地までは 18 km ほどあるので、普通に移動すれば半日近くかかる距離ですが、津軽海峡を目にしたイザベラは「私の長かった陸地旅行は終わった」と記しています。ある旅行者が、北海道 へ向かう汽船は夜出発すると言った。私は喜び勇んで、四人の男を雇った。彼らは人力車を引きずったり、押したり、手で持ち上げたりして、ようやく私を青森へ運んでくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
黒石から北上する際に、イザベラは人力車の提供を断られたので、無理やり車夫を買収して強行突破した……という話がありましたが、ここまで来れば普通に人力車(の車夫)を雇うこともできたということでしょうか。一面の灰色
「喜び勇んで」青森にやってきたイザベラは、街の印象を次のように記していました。青森は灰色の家屋、灰色の屋根、屋根の上に灰色の石を置いた町である。灰色の砂浜に建てられ、灰色の湾が囲んでいる。青森県の都ではあるが、みじめな外観の町である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
……平常運転ですね。イザベラはこれまで何度も「みじめな町」という表現で街の印象を表現してきましたが、それは欧米人の視点によるものなのか、それとも日本人が見ても惨めな感じだったんでしょうか……?青森の経済的な位置づけについては、イザベラは次のように記していました。
青森は北海道 に対し牛や米の大きな移出貿易を行なっている。さらに北海道の漁業で働くため北日本から毎年のように莫大な人数の移動する出口である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
函館からは魚・皮革・外国商品が運ばれてきて、また昆布や漆器の取引がある……としています。この漆器は青森塗 と呼ばれるが、実際にそこで作られるのではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
「青森塗」でググると「津軽塗」が出てきましたが、弘前を中心とした一帯で生産される漆器とのこと。この漆器が函館から蝦夷地に運ばれる……ということでしょうか。また「この町の特産品は大豆と砂糖で作られる菓子である」と続いているのですが、これは何のことでしょう……?(ググると「豆しとぎ」と出たのですが)青森は深くて防波の充分によい港があるが、桟橋など貿易上の設備がない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
あ、「桟橋がない」とは意外ですね。イザベラは「町について調べる時間がなかった」としていますが、それもその筈、函館に向かう船の出港が迫っていたので……ただ三十分の間に三菱 会社の事務所で切符を買っただけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
到着したその日に船が出るというのは恐ろしく幸運なことですが、流石にちょっと慌ただしすぎたかもしれませんね。傍観者としては、もう少し青森を旅するイザベラの姿も見てみたかったかも……。それから「洋食」という文字がうす汚いテーブルかけに書いてある料理店で魚肉を一口急いで食べて、灰色の波止場に駆けて行った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
青森は条約港では無かったのですが、「洋食」を提供する店があったんですね。まぁ「肉」とは言っても「魚肉」ですが……。そこで私は日本人の三等船客が混雑している大きな平底船 に乗せられた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331-332 より引用)
めちゃくちゃハイスピードな展開ですね……。ちなみに夕方に青森を出港して、これから 14 時間ほどかけて函館に向かうことになります。www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International
0 件のコメント:
コメントを投稿