この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
つらい一日の旅
普及版「第三十二信」の冒頭には「北海道 函館にて 一八七八年八月一二日」と記されています。これは読んで字のごとくで、8/12(月) の数日前(普通に考えると前日?)に渡道したことを示しています。イザベラが日帰り温泉旅行に出かけたのが 8/6(火) 以降のどこかだと考えられるので、8/8(木) から 8/10(土) の間あたりで青森に向かったことになると思われるのですが……どこかでヒントを見落としていなければ良いのですが。
あと「つらい一日の旅」というセンテンス名ですが、原文では A Hard Day's Journey となっていました。まるでビートルズみたいですね。
黒石から青森までの旅は、たった二二マイル半だが、道路が悪かったために、ものすごい旅であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
第三十二信の後に「新潟から青森までの路程表」があり、それによると黒石からは「22 マイル半は約 38.5 km なので、普通の道であれば半日で移動できる距離です。途中で宿泊の描写は無いので、朝イチに黒石を出発して一気に青森に向かったということでしょうか。
「道路が悪かった」のは降雨の後だったことが原因のようで、荷物を運ぶ駄馬が通行したことで「道は泥沼と化していた」とのこと。イザベラは人力車での移動を希望したものの、駅逓係(原文では Transport Office)に「道が悪いので無理です」と断られたようですが……。
しかし私は気分がすぐれず、それ以上は馬に乗って行けなかったから、たいそう安い金額で二人の男を買収し、海岸まで連れて行ってくれるように頼んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
この辺のイザベラの両方の人力車に代わるがわる乗って、かなりうまく進むことができた。それでも山に来ると必ず歩いて登り、下りも多くは歩いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
かなり歩かされたようですが、それでも馬で移動するよりは身体への負担がマシだった……ということなのでしょうね。橋の流されたところでは必ず車から降りて、車夫が車を持ち上げて割れ目を越せるようにした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
「割れ目」とは何だろう……と思ったのですが、原文では the gap となっていました。時岡敬子さんはどう訳したのか確かめたのですが、訳文には the gap に相当する単語は見当たらないようでした。the gap は「橋」(原文では a little bridge)が流された場所なので、「小さな川」と見るべきなのでしょう。落馬
駅逓係が人力車を出すのを拒否したのは「車輪が泥の中に埋まってしまうから」だったと思われるのですが、実際にイザベラの人力車は何度も「泥にはまった」ように描写されています。ただイザベラは乗馬に耐えられないと判断して(無理やり)人力車に乗っていたので、高梨謙吉さんが「落馬」としたのは誤訳のようにも思えます。原文では An Overturn で、時岡敬子さんはこれを「転覆」と訳されていました。
充分用心していたが、泥溝の中にひっくりかえり、車が私の上になった。しかし幸運にも私の空気枕が車輪と私の間に挟まっていたので、私の着物を泥水で汚しただけで助かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
相変わらずの強運ぶりですね……。しかも着物は就寝時にも着用するものだったとのことで、普通に考えれば風邪をひきそうなものですが、イザベラによると「風邪もひかずにすんだ」とのこと。真夏だったのも幸いしたのでしょうか。大きく険しい山
街道の状態が良くなかったのは、塩魚を運ぶ駄馬が多く通っていたから……との描写がありましたが、奥羽本線の青森-弘前間が開通したのは 1894(明治 27)年で、これはイザベラの奥地紀行から 16 年後ということになります。本州を縦断する山脈は南部 地方で陥没するが、青森湾でふたたび大きくて険しい山となって聳える。しかし黒石と青森との間は、低い山々に分かれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
ほほう……と思って地理院地図を眺めてみたのですが、かつての岩手県二戸郡安代町(現在の八幡平市)の真ん中を分水嶺が通っていて、国道 282 号の「イザベラが言う「大きくて険しい山」は「八甲田山」とそれに連なる山々のことでしょうか。黒石と青森の間は「大釈迦」の北で分水嶺を越えていますが、国道 7 号は標高 100 m ほどのところを通過しています。確かに「低い山々」と言えるのかも……。
謎の「胡麻」
続いて、本日一番の謎がやってきました。蚊取線香をつくる原料の胡麻 (除虫菊?)が他の草花をおしのけて一面に生えている丘もある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
この「ごま」は翻訳者泣かせのようで、時岡敬子さんは「ごまの一種[? 原文では The Sesamum ignosco となっているのですが、Sesamum ignosco でググってもイザベラの文章しか出てきません。ラテン語 ignosco は「許す」という意味のようですが、「許されたゴマ」というのも何が何なのやら……。
ちょっと収拾がつかなくなってきたので、整理してみましょう。イザベラは "The Sesamum ignosco, of which the incense-sticks are made" と記していますが、the incense-sticks は「お香の棒」とのこと。素直に読み解けば「線香」となりますね。
高梨謙吉さんは、これを何故か「蚊取線香」と訳して、そこから「除虫菊?」という考え方をひねり出したように見えます。ただ「除虫菊」の渡来は 1886(明治 19)年とのことなので、これは明らかに間違いと見ていいでしょう。
「エゴマ」を防虫効果のある「パチョリ」と見間違えたという考え方はどうでしょう。パチョリは東南アジア原産で熱帯・亜熱帯に生息するため、弘前のあたりで見かけることは無いと考えられますが、エゴマは福島県でも多く栽培されているとのことなので、可能性はあるかもしれません。
時岡敬子さんは「タブノキ」ではないかとしましたが、これは「タブノキ」が線香の原料となることからの推測でしょうか。東北地方にも自然分布しているとのことで、これも青森県にあったとしても不思議はありません。
ただ「タブノキ」は「常緑高木」なので、「他の草花をおしのけて一面に生えている」という表現には違和感があります。もっとも原文では
The Sesamum ignosco, of which the incense-sticks are made, covers some hills to the exclusion of all else.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
とあるだけで、どこにも「他の『草花』」とは明記されていないようにも思えるのですが、そもそも論として「ゴマ」と「常緑高木」を間違える時点で無理がありそうにも思えます。これらの推論から結論を捻り出すには……ですが、まず「除虫菊」説は時系列的にあり得ないので却下でいいでしょう。「タブノキ」説も「常緑高木」と「一年草」を間違えるというのはあり得ない……としたいです。
となると「エゴマ」を「パチョリ」と見間違えた説が俄然浮上するのですが、「エゴマ」が弘前近郊に自生していたかどうかは確証が持てません。「エゴマ」も「パチョリ」もシソ科なので、更に間口を広げて(?)「シソ」を「パチョリ」と見間違えた……と考えてみたいのですが……。
副収入?
イザベラは(例によって)「農業を営む部落の様子はますますひどくなってきた」と記しつつも、「特に貧困であるという様子はなかった」と続けていました。次のように理由を推測していたのですが……北海道 から魚を運んできたり米を運んで行くための馬や馬子 の代金として多額の金を得ているにちがいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
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