2025年5月4日日曜日

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「日本奥地紀行」を読む (179) 黒石(黒石市) (1878/8/7(水))

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十一信」(初版では「第三十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

厳粛な疑問

普及版の「第三十一信」は「大衆浴場は日本の特色の一つである」で締められていましたが、初版の「第三十六信」には更に続きがありました。

 たくさんの厳粛な疑問がこの異教徒の土地では湧き上がってきます。こうした疑問は、国許では起きないか、あるいは、起きたとしても遥かにか弱い力をもってしか湧き上がってこないのだが、私が独りで馬に跨っているときそれらは絶えず、浮かび上がってきます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.130 より引用)
随分と思わせぶりな文章ですが、原文もそんな感じですし、時岡敬子さんの訳でも大差無さそうな感じです。

「ただひとりの父なる神」は、何百万というご自分の異教徒の民の子の救済を、けちで欲深く、ぐずで利己的な──人間と金銭の双方に関して利己的で欲深さをもつ──教会の遅鈍さに頼るようにさせたのだろうか。われらの主なる救い主キリストは、永遠の滅亡──人間の知覚を超える一つの恐怖を──「少なくムチ打たれる」訳注 1 という寛大なお言葉によって意味していたのだろうか。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.130 より引用)
要はこんな感じで宗教(キリスト教)に対する自問自答が綴られています。チラ見した限りでは、仏教における「悪人正機」の是非に通じるものがありそうにも感じられます(本当にチラ見しただけの浅い理解ですが)。

原文ではこういった自問自答がずっと続くのですが、明らかに「奥地紀行」からはオフトピックなので、「普及版」ではバッサリとカットされています。まぁ、当然と言えば当然ですね……。

だれでもこれらの人々の間で生活して、彼らの素朴な徳と素朴な悪徳や、農民の着る蓑の下で脈打つ心がいかに優しいかを学んだならば、このような、あるいは、多くの似たような疑問が湧き上がってくるにちがいない。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.130 より引用)
確か、昔の VOW か何かで「しんじないとじごく」というキーワードがあったような気がするのですが、キリスト教では「イエス・キリストを信じない者は地獄に落ちる」という考え方がある……とも耳にします(詳しいことは良く知りませんが)。

イザベラがこれまで目にしてきた日本の農民は、ほぼ例外なくキリスト教では無い筈なので、イザベラにしてみれば彼らは「地獄に落ちる対象」と言うことになってしまうのですが、果たしてそれが「正しいこと」なのか、あるいは「あるべき姿」なのか……という疑問が湧いてくる、ということなのでしょうね。

少ないムチ打ち、揺らぐ希望

この後「少ないムチ打ち」と「揺らぐ希望」と題したセンテンスが続くのですが、イザベラは次の文でセンテンスを締めていました。

これらの言葉は主題からそれているかもしれませんが、しかし、このような疑問が毎日、毎時間、いやおうなしに沸き起こってくるのです原注 1
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.131 より引用)
こういったイザベラの懊悩は、見方によっては「宣教の必要性に対する疑義」とも捉えられかねないものです。そのため「原注 1」において「宣教の仕事に反対している、あるいは宣教の必要性を疑って書かれたと思われるといけない」として、キリスト教を信じる者の宣教の義務について「拘束力を持つ」としています。

ぶっちゃけて言ってしまうと、こういった「宣教の義務」は「マルチ商法」との親和性が高いような気もするので、正直どうなのかな……と思わないでもありません。

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