2018年4月30日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (78) 新潟(新潟市) (1878/7/6)

今日からは 1878/7/6 付けの「第十九信」を見ていきます。イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(普及版)では、この「第十九信」は丸々カットされているので、その辺も念頭に置きながら読み進めてみましょう。

寺町

イザベラは、新潟の「寺町」という場所に足を運んだようです。

ここには寺町という通りがあります。片側にはほぼその全長分、仏教寺院とその土地や僧侶の住まいがあり、反対側はおもに女郎屋で構成されています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.260 より引用)

何故に仏教寺院の隣に女郎屋が並んでいるのだろう……というもっともな疑問が出てきてしまうのですが、それはさておき、この「寺町」の所在を確認すべく、地理院地図を見てみました。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
こ・れ・は・ひ・ど・い(褒め言葉)。京都にも、秀吉が寺院を集団移転させて成立した「寺町」がありますが、長さとその整然とした感じは新潟のほうがハイレベルなんじゃないでしょうか(レベルとは)。

寺院の内部

イザベラは、実際に寺院の中も拝観していました。

どの寺院でも、高い祭壇が豪奢で、けばけばしい俗悪な装飾はいっさいありません。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.260 より引用)

「けばけばしい俗悪な装飾」というのは一体どのようなものを想定していたのでしょうか。はっ、もしかして日光の……?

イザベラは、寺院内部の装飾についても、詳らかに記録していました。

祭壇の仏具には中央に孔をうがったふたつきの香炉、両側の花立、その左または右に燭台があり、すべてブロンズ製で、中国の古い図柄から採ったデザインが多いのですが、もとのデザインのほうは初期の仏教伝道者とともにインドから伝来したと言われています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.260-261 より引用)

仏具のデザインについては、中国の影響を色濃く残しているものの、大元はインドから伝来したものである……という理解はかなり正確であるように思われます。イザベラが良く勉強していたのか、周りの人間に恵まれたのか、それとも当時、この程度は一般常識だったのか……。

仏教とローマ・カトリックの形式の相違点

仏教寺院と、その中で執り行われる営みについて、イザベラは「仏教」と「キリスト教」の違いを意識した上で、少なからぬ共通点があるように感じていたようでした。

香の煙、小さな鐘のちりんと鳴る音、高い祭壇にともっている蝋燭、僧侶の剃髪した頭とゆったりした衣、平らに伏すお辞儀と行列、知らない言語による読経、「内陣の柵」、淡い明かりなどなど、よく似ているものもわずかにしか似ていないものも、こういった類似点はカトリックの儀式の豪華さを思い起こさせます。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.261 より引用)

「宗教」という「システム」に「役割」があることを考えれば、多少の類似性が見られるのもある意味当然と言えそうな気もしますが、イザベラは、より具体的に、デザイン面での共通点が多いことに驚いていたようです。

これら厨子、ランプ、燭台、真鐘の器の図柄はどこから来たのでしょう? 仏教、英国国教典礼派、ギリシャ正教、ローマ・カトリック教など、このような図柄はよく用いられ、寺院にある火焔、聖水、儀式を行う聖職者の法衣、祭壇の蝋燭と花、巡礼者の白い衣など、偶然にもよく似ている点にはしょっちゅう驚かされてばかりです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.261-262 より引用)

世界各地の様々な国や地域、民族などに伝わる「神話」については、これまで考えられていた以上に共通項があるんじゃないか……という説もあるみたいですね。イザベラが列挙した各宗教のルーツを遡ったとして、どこまで共通性を見いだせるのかはちょっと興味深いです。まぁ、この種の「研究」に対しては、懐疑的な視点を忘れないようにしないといけないのも事実だったりしますが……。

仏具店のありようさえオックスフォード街の「教会装飾」店に似ているのです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.262 より引用)

うーん、これは……(笑)。こればっかりは、「宗教」という「システム」自体の普遍性に依るものではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。

大衆的な説教師

イザベラが、どこまで本気で仏教とキリスト教に共通性を見出していたかは謎ですが、寺院における「説法」にも共通性を見出していたようです。

そればかりか、わたしたちが午後の説教を聞きに立派な寺院に入っていったとき、畳敷きの床に座り、茶色の数珠をつまぐりつつ祈祷のことばを唱えているおおぜいの礼拝者の群れもやはり似ています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.262 より引用)

「説法」において述者が一種のトランス状態になる……という記述もあるのですが、良く考えたらこの辺も万国共通というか、割と普遍的なもののように思えてきました。

「説法」のクライマックスを、イザベラは次のように記しています。

説教の主題は来世における罰、つまり仏教の地獄の拷問のことです。最初の部分の結論に来ると、それまで狂人の真似をして話していたのが、急に口をつぐみ、ついで「ナム・アミダ・ブツ」という文句を繰り返しました。するとそこにいた人々は数珠を巻いた手をかすかに上げ、力強い大きな声で「永遠なる仏陀よ、救いたまえ」といっせいに答えました。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.262 より引用)

原文では「ナム・アミダ・ブツ」がどう表現されていたのか……気になりませんか? 気になりますよね?

When he came to the conclusion of the first part, in which he worked himself into the semblance of a maniac, he paused abruptly and repeated the words, “Namû amida Butsû,”
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
……思った以上にそのままでした(汗)。一方で、説法を聞いていた人々が「永遠なる仏陀よ、救いたまえ」と答えた……というのは、いかにもキリスト教的な反応で(偏見かも)仏教寺院における説法を聞いた人の反応としては違和感を覚えます。イザベラによると

and all the congregation, slightly raising the hands on which the rosaries were wound, answered with the roar of a mighty response, “Eternal Buddha, save.”
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
だと言うのですが……うーん。「どうかお助けを」というのならわかるんですが、「永遠なるブッダよ」というのは(少なくとも民衆レベルでは)なんか違うんじゃないかなーと思ってしまいます。どのような反応を "Eternal Buddha, save." と英訳したのか、聞いてみたいところです。

寺院内では、人心をとらえきれなくなりつつある宗教の僧侶が、イギリスでと同じように、その開祖の道徳的な教えに従うよう集会者に説き、罪人を待っている罰──筆舌に尽くせぬ拷問や恐怖──や、不浄な魂が憎むべき獣に輪廻転生することを身振り手振りで描写してその説くところを強調しています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.263 より引用)

ここで気になったのが「人心をとらえきれなくなりつつある宗教」というワードチョイスが、どのような意図で為されたのだろう、という点です。明治政府の政策により衰退を余儀なくされる一方だった仏教のことを指しているのか、それとも日本における「宗教」そのものの衰退を指しているのか、果たしてどちらだったのでしょう。

FUD(Fear, Uncertainly and Doubt)という、現在でもプロパガンダなどで広く使われる「戦術」があるのですが、説法の内容が FUD そのものなのも興味深いですね。宗教の本質は FUD に対する救済である……というまとめ方は、ちょっと一面的過ぎるでしょうか。

大衆的な説教師の講話はたいへん精力的ではあるものの、今夜これまでよりも清らかなり善良なりになった一家や人の心はあるのでしょうか。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.263 より引用)

イザベラ姐さん、また言ってはいけないことを……(汗)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (529) 「サンナコロ川・ホロカワウシャップ川・オワイタカ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

サンナコロ川

san-enkor?
山から浜に出る・鼻
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 237 号で平取町を北上し、再び日高町に入ったところに「岩知志ダム」があります。そこから更に北上すると「三岩橋」と「日高大橋」がありますが、「サンナコロ川」は日高大橋のすぐ北側で沙流川に注いでいます。

戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。

またしばし過て
     サンナコロ
右の方小川也。其名義は、鯨の尾を昔しひらひ持て居たりしが、空腹に成し時に此処にて喰て仕舞しと云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.71 より引用)
……なんか良くわかりませんね(汗)。クジラと言えば humpe という汎用的な語彙がありますが、知里さんの「動物編」を見ると、合計 24 もの表現が記されています。そのなかには sinokor-humpe で「イワシクジラ」なんてものもあったりしますし、???-kor-humpe で「何かを持つクジラ」という表現がいくつか見られるようです。

調査捕鯨のあり方の是非については日を改めて考えることとして(今の所その予定は無いです)、「サンナコロ」についてもう少し考えてみます。地形図をよーく見てみると、サンナコロ川と沙流川の間の山がかなり険しいことがわかります。

JR 根室本線に「御影」という駅がありますが、かつての名前は「佐念頃」でした。san-enkor で「山から浜に出る・鼻」と解釈できます。「鼻」というのは「岬」状の地形を意味しますが、海沿いに限らず山の中でも使用されます。サンナコロ川と沙流川の間の険しい山も「鼻」と呼ぶに相応しい地形に見えます。

ということで、「サンナコロ」も san-enkor で「山から浜に出る・鼻」と解釈するのが自然に思えるのですが、いかがでしょうか(クジラの話はどこ行った)。

ホロカワウシャップ川

{horka-an}-{u-sap}
{U ターンしている}・{ウシャップ川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
日高町(遠距離合併で良くわからないことになってしまいましたが、かつて国鉄の日高町駅があったあたりの日高町です)の旧名は「右左府」(うしゃっぷ)という名前でした。現在では国道 274 号線「石勝樹海ロード」と国道 237 号線が交差する交通の要衝で、道東道が開通するまでは道東と道央を行き来するトラックが右に左にと大盛況でした。

そんな姿から右左府の名が出た……わけは無く(そりゃそうでしょ)、右左府の左右を流れる(またややこしいことを)「パンケウシャップ川」と「ペンケウシャップ川」から「ウシャップ」という音を拝借して命名した……と言ったところでしょうか。

u-sap は「互いに・山から浜に出る(流れ落ちる)」と解釈できるようで、「パンケウシャップ」と「ペンケウシャップ」の両川を形容している、とされています。改めて考えてみると、「右左府」という字を当てたのは、メタ言及的な趣もあって面白いですよね。

本題の「ホロカワウシャップ川」ですが、左側(沙流川の下流側)を流れる「パンケウシャップ川」の支流で、南から北に向かって流れています。最終的には東に向きを変えて(北から南に流れる)パンケウシャップ川と合流するということで、典型的な horka(U ターンする)な川と言えそうです。

川を下流から源流方向に歩いた場合に、進行方向が 180 度近く変わってしまうことを horka(U ターンする)と形容します。結果的に遠回りを強いられることになるので、道としては「使えない」川ということになります。そのため、そういったルートの川を horka と呼んで、遠回りしないように気をつけていたのでしょうね。

「ホロカワウシャップ川」は horkau-sap であることはおおよそ理解できたのですが、「ワ」がどこから出てきたのでしょう。{horka-an}-{u-sap} で「{U ターンしている}・{ウシャップ川}」あたりかなぁ……と考えてみたのですが、いかがでしょうか。

……あ、文末の締め方がかぶった(汗)。

オワイタカ沢

o-hay-ta-{u-sap}??
そこで・イラクサ(の繊維)・切る・{ウシャップ川}
o-hay-ta-kar-i??
そこで・イラクサ(の繊維)・切る・取る・ところ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
ペンケウシャップ川の東隣を流れる川の名前です。近くに水力発電所がありますが、占冠の「双珠別ダム」から取水しているみたいですね。

なんだか良く意味がわからないので、古い地形図を見てみたところ「オ アイタウレソプ」(あるいは「オアイタフレップ」かも?)と書いてあるようにも見えました。えー、更に訳がわからなくなったのですが……(汗)。

戊午日誌「東部沙留誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ヲアイタカリ
左りの方小川。其名義昔し鹿を追て行しに、追附得ざりしかば、弓を放事る処、其矢不当しと云儀のよし。此辺に到りて東岸峨々たる高山有て樹木皆椴のよし也。右のかたさして高山なしとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.73 より引用)
……ますます良くわからなくなってしまいました(汗)。

えーと、ここまでの内容を全部無かったことにしてもいいですか?(ぉ) o-hay-ta-{u-sap} で「そこで・イラクサ(の繊維)・切る・{ウシャップ川}」と考えることはできないでしょうか? これを多少カスタマイズすれば o-hay-ta-kar-i で「そこで・イラクサ(の繊維)・切る・取る・ところ」となって「ヲアイタカリ」っぽいかな、などと考えてみたのですが、いかがでs(ry

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (528) 「ウトナイ湖・オタルマップ川・オホコツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ウトナイ湖

ut-nay-to
肋(あばら)・川・沼
(典拠あり、類型あり)
苫小牧市の北東に位置する湖の名前です。白鳥などが飛来することでも有名な風光明媚な場所ですが、何故か今まで取り上げるのを忘れていたようです。

現在の地形図には「ウトナイ湖」と記されていますが、1980 年代の土地利用図では「ウトナイト沼」となっていました。そう言えばそんな名前だった記憶がありますね。いつの間に「ウトナイ湖」に変わったんでしたっけ……?

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウツトウ」と記されていて、また戊午日誌「東西新道誌」には「ウツナイトウ」とあります。「西蝦夷日誌」には「宇都内沼」とありましたが、まぁ、要するに ut-nay ということなんでしょうね。ut-nay で「肋(あばら)・川」と解釈できます。

「あばら川」とは何ぞや……という話ですが、本流を背骨に見立てて、その本流に対してほぼ直角に流れ込んでくる川を「肋骨みたいな川」と考えた、ということのようです。より正しくは、Ψのような感じで「わざわざ直角に近い角度に向きを変えて合流してくる川」なのかもしれません。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

ウトナイト沼
 ウツナイフトから北に溯った処の沼。札幌から苫小牧への道では,汽車で行っても国道を行っても,この大沼が見えるのが何か楽しみである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.379 より引用)
そういえばウトナイ湖の横の国道脇には道の駅がありますが、なかなか盛況のようですね。

 語意はウッ・ナイ・ト(ut-nai-to 肋骨・川・の沼)であるが,現在残っている記録では,この沼の繋がっているウッナイ川の名がないので長い間疑問の地名であった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.379 より引用)
現在は湖の西に「勇払川」(かつての「勇振川」)が注いでいて、まさに ut-nay の名に相応しいのですが、これは河川改修の結果なので、ウトナイ湖の名の由来と考えるには適切ではありません。ただ、「北海道の地名」によると……

 苫小牧の扇谷昌康氏は,この沼から出て前掲の合流点に至るまでの6~700メートルの間の川がウッナイだったのではないかと書かれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.379 より引用)
あっ、なるほど。前述の通り、現在の「勇払川(上流)」は河川改修の結果、ウトナイ湖の西方に注ぐようになっていますが、「旧勇払川」はウトナイ湖には注ぐこと無く、ウトナイ湖から流出してきた「勇払川(下流)」と合流していました。

現在は、ウトナイ湖から流出する「勇払川」が本流で、「旧勇払川」は支流という扱いですが、かつては本流と支流が逆だったのではないか、という説のようです。その支流が旧勇払川に対して直角に近い形で注いでいたので ut-nay と呼ばれ、ut-nay の上流にある沼が {ut-nay}-to(「{肋・川}・沼」)と呼ばれた……という仮説ですが、なるほど確かに説得力のある説です。

 北海道の古図は,美々川筋にひょうたん形の大きな沼を描き,後には,上下に分かれた二つの大沼をかくのが例であった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.379 より引用)
ふーむ、そうなのですね。現在の「ウトナイ湖」は「ひょうたん型」とは言い難い形をしていますが……

 明治29年5万分図は,ここにキムンケトウ(ウッナイトー)と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.379 より引用)
あっ、確かに昔の地形図には「キムンケトー(一名ウト゚ナイトー)」と記してありました。kim-{un-ke}-to だと「山のほう・{そこに入っている}・沼」と解釈できそうです(十勝の海岸にも「キモントウ沼」がありますね)。

扇谷先生はそれをキムケ・トー(山の沼)とし,旧図の二つの沼の上の方のものと解され,また旧記のヒシエントウをピシュン・トー(浜の方の・沼)として,弁天池を含めた下の大沼が存在したかと興深い意見を書かれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.379 より引用)
あっ。「ひょうたん型の大きな沼」って、そんなに大きな沼を想定していたのですね。でも確かに勇払原野に巨大な沼があったと想定しても特に不思議ではないような気がします。kim-un-ke-to があるんだったら pis-un-ke-to があっても不思議は無いですし、むしろあるほうが(地名としては)望ましいように思われます。

オタルマップ川

ota-ru-oma-p?
砂浜・道・そこにある・もの
o-taor-oma-p??
そこで・川岸の高所・そこに入る・もの
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠なし、類型あり)
「ニドムクラシックコース」と「北海道ブルックスCC」の間を西から東に流れて、ウトナイ湖の北西側に注ぐ支流の名前です。

「西蝦夷日誌」や戊午日誌「東西新道誌」には「ヲタロヲマフ(小川)」と記されています。また、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲタロマフ」とありますね。

永田地名解には次のように記されていました。

Otaromap  オタロ マㇷ゚  沙路アル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.216 より引用)
ふむふむ。ota-ru-oma-p で「砂浜・道・そこにある・もの」と解釈したのですね。一見、何の曇りも無いような的確な解に思えますが、果たして本当に川沿いに砂地があったのか、ちょっと疑わしい感じがするのですね。

航空写真を見てみると、鬱蒼とした森を切り開いた横長の草原があり、確かにところどころに砂場があります(一般的には「バンカー」と呼ばれるものですね)。森の中を切り開いて芝が植えられている部分(一般的には「フェアウェイ」と呼ばれます)を「路」と解釈したのであれば永田地名解の解釈も理解できるのですが……。

地形的な特徴から考えると、オタルマップ川の上流部は台地に深く切り込むような形をしています(但しこれはオタルマップ川に限った話ではありませんが)。そこからの連想で o-taor-oma-p で「そこで・川岸の高所・そこに入る・もの」と解釈できないかなぁ……と思っているのですが、いかがなものでしょう。

オホコツ川

ooho-kot
深い・凹み
(典拠あり、類型あり)
道道 10 号「千歳鵡川線」の近くで美々川と合流する支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には記載を見つけることができませんでしたが、「竹四郎廻浦日記」には「ヲホコツ」という記録がありました。

 此所より陸路ルヲサニ、ルイカンウレニツ、ヲホコツ、キサラコツ、ヌフノシケ、マヽツ等と云平地樹木立原を越て
    チ ト セ
会所元へ至る也。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.547 より引用)
また、戊午日誌「東西新道誌」には次のように記されていました。

過てまた
     ヲ ホ コ
此処低(深)き沢なれども水なし。依て号とかや。ヲホコは深き地形を云り。本名はヲホコツなるよし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.433-434 より引用)
概ね想像通りの内容が既に記されていました。ooho-kot で「深い・凹み」と考えて良さそうですね。

一つだけ引っかかったのが「ヲホコは深き地形を云り」という文です。地形で「深い」を意味する語彙には oohorawne が存在するのですが、ooho は「(水かさが)深い」ことを意味するのに対して、rawne は「(谷が)深い」ということを意味します。つまり、「深き地形」を意味するのであれば、本来は rawne が用いられる筈なのですね。

ただ、良く考えてみると、今回は ooho-nay ではなく ooho-kot で、ooho が受けるものは「川」ではなく「凹み」なのでした。rawne-kot という地名があったかどうかは思い出せませんが、むしろ ooho-kot でないとおかしかった……のかもしれません。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月27日金曜日

Bojan のホテル探訪~「リーガロイヤルホテル広島」編(バス・トイレ編)

リーガロイヤルホテル広島「スタンダードツイン」の話題を続けます。二日目は、これまた恒例の水回り編です。

バス・トイレ

ということで……バス・トイレも見てみましょう。良くありそうなユニットバス……かと思ったのですが、良く見たら壁面も床面もタイル張りっぽいですよね。
バスタブもゆったりとしたサイズです。部屋は 22 ㎡ ということで滅茶苦茶広くは無いわけで、バス・トイレのサイズも決して広いとは言えないのですが、その中でこのサイズのバスタブを設置しているのは良心的な感じがしますね。
水栓は残念ながらサーモスタット式ではなく、湯量と水量を個別にセットすることで湯温を調整するタイプのものです。これだと湯温をキープしたまま水量を変えられないんですよねぇ……。
シャンプーとコンディショナー、ボディーソープはバスタブの脇にボトルで置かれていました。そして、よーく見るとボトルの下にちょうどいいサイズのフレームが。これだとバスタブに変な形で汚れがつかないですし、ボトルの下面に妙なヌルヌルが付くこともありません。ボトルが散らばることも無いですし、実は凄く良くできていたことに今頃気づきました。
トイレは……割と一般的な形のものでしょうか。あ、でもよく見ると浴室内にタンクのあるタイプですね。蓋を開けて写真を撮るのを忘れたのが悔やまれるところです。

ゆったりした洗面台

トイレの脇に洗面台があります。やはりユニットバスの洗面台と比べるとなんとなく高級な感じがしますね。
洗面台の横にはアメニティグッズとドライヤーが並べられています。あ、よく見たらドライヤーは防滴カバーで覆われていますね。改めて見てみると、リーガロイヤルやるなぁ……と思わせる細々とした「工夫」がところどころにありますね。老舗のノウハウが垣間見られるようで面白いです。
アメニティセットも器の中にまとめられています。器のデザインもちょっとユニークな感じでいいですよね。

凄く良くできたバスルーム

ハンドタオルとボディタオルは最初からタオル掛けにかかっていました。最初から「あるべき場所」に置かれていると、宿泊客としても何も考えなくてもいいので助かりますよね(汗)。
ハンドタオルの上にはアームのついた鏡が。今まであまり気にしたことが無かったですが、これは地味に便利そうですね。
うーん……広さの割には凄く良くできたバスルームですね。同業他社の皆さんも学べる部分が多いのでは無いでしょうか。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月26日木曜日

Bojan のホテル探訪~「リーガロイヤルホテル広島」編

新山口から山陽新幹線で移動すること 32 分ほど、広島駅にやってきました。いや、そのまま新大阪まで戻っても良かったんですけど、まぁ、その、なんとなく……(なんなんだ)。

というわけで、広島駅から「リーガロイヤルホテル広島」までタクシーで移動して、ちゃちゃっとチェックインを済ませてみました。ありがたいことに部屋まで案内してもらえるとのこと。毎回書いているような気がしますが、部屋まで荷物を運んでもらえるのって、凄く嬉しいですよね。

スタンダードなツインルーム

案内された部屋がこちらです。今回は「スタンダードツイン」を選んでみました。
部屋の広さは 22 ㎡とのこと。極めてスタンダードなレイアウトのツインルームです(スタンダードツインだからね)。
窓の外の景色は……明日の朝のお楽しみ、ということで。

壁掛けテレビ

そこそこ歴史のあるホテルの筈ですが、内装はかなり現代風な感じがしますね。ベッドの間に電話の置かれた台がありますが、アラームと、部屋の明かりのスイッチだけのシンプルな構造です。ホテルの部屋に何故か良くある、謎な宗教書の類が置いてあったりと言ったこともありません。
ベッドから見て真正面の位置に壁掛けのテレビがあります。テレビ自体は壁に直接据え付けられていますが、下に台があってリモコンなどが置かれています。……あ、謎な宗教書の類もちゃんと置いてありましたね(汗)。
最近のホテルでは、横に長いデスクの端に液晶テレビが置いてある……という構造が多いですが、この部屋のテレビは壁掛けですし、デスクはベッドの横に別途用意されています。ホテルのデスクとしては標準的なサイズですし、電気スタンドが用意されているのも結構嬉しいですね。
ちなみに、エアコンのスイッチもデスクの前にあります。

ミニバーの楽しみ方

デスクの端にはティーセットが置かれていて、その下には冷蔵庫が隠れています。
中を開けてみると……うーん。やはりと言うべきか、空っぽでしたね。
最近は「ミニバー」が機能しているホテルが本当に少なくなりました。そりゃあ確かに近くのコンビニで飲み物を買い込んで、それを部屋の冷蔵庫で冷やすほうが間違いなく安上がりですし、そういった使い方をするには冷蔵庫の中は空っぽのほうがいいのだと思います。

ミニバーで、市価の数倍しそうなコーラの蓋を開けてしまった後の絶望感を味わえるホテルが減る一方なのは寂しいものですね(どういう楽しみ方だ)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月25日水曜日

山口線の旅(番外編)#18 「新山口」

新山口行きの特急「スーパーおき 5 号」は、定刻の 17:18 に益田を出発しました。そして快適な特急列車に揺られること約 93 分ほどで……
終点のおご……じゃなくて新山口に到着しました。料理番組もびっくりの驚速展開ですが、理由は実に単純でして……風邪薬って良く効きますよね(汗)。

「さくら」は東へ

新山口からは、九州・山陽新幹線「さくら」に乗車して東に向かいます。新幹線のりばが見えてきました。
19:18 発の新大阪行き「さくら 566 号」の到着を待ちます。
次に乗車するのは 6 号車です。
「さくら 566 号」は、これまた定刻どおりにやってきました。日本の鉄道が秒刻みのダイヤ通りに運行できるのは、なんだかんだ言ってもの凄いことですよね。まぁ、海外ではここまでのクオリティが求められていないと言えばそれまでかもしれませんが……。

どうせ乗るならレアな設定の……

「さくら」の 6 号車と言えば……そう、「ひかりレールスター」には設定の無かったグリーン車です。
グリーン車の座席配置は、海側が 2 列シートで山側も 2 列シートです。東海道新幹線用の N700A の普通車だと、海側が 3 列シートで山側が 2 列シートなので、このゆったり感はさすがグリーン車……と言いたくなりますが、「さくら」用の N700 は、普通車指定席でも海側 2 列 + 山側 2 列です(グリーン車と同じ)。
とは言いながらも、やはりなんだかんだ言ってグリーン車だけあってシートも良くできています。「のぞみ」のグリーン車のリクライニング用スイッチの軽快な操作感が気に入っている方は少なくないと思いますが、「さくら」のグリーン車にはスイッチが 2 種類に分けられていました。
大きいほうが背もたれのリクライニング設定で、小さいほうがフットレストの設定だったような気がしますが、違っていたらすいません(JR 東日本の車輌だったら座面スライドの可能性が高そうですけどね)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月24日火曜日

山陰本線の旅(番外編)#17 「益田・その3」

益田駅の 1 番のりばで「スーパーおき 5 号」の到着を待ちます。向かい側のホームの売店(お弁当屋さんだったかも)はシャッターが降りていたのですが、おかげさまでちょっといいもの?を見ることができたかもしれません。益田は島根県のほぼ西端に位置することが良くわかります。
3 番のりばにはキハ 47 が停車中していました。
そして、2 番のりばには「187 系」「洗浄」と記された謎な標識?が……。洗浄エリアに入るにはこの場所に止めて、とかあるのでしょうか。

「しょくぱんまん」みたいで格好いい

17 時 13 分。定刻どおりに「スーパーおき 5 号」が入線してきました。
「流線型」という言葉とは程遠いデザインですが、これが逆に格好良かったりするから侮れないですよね。どことなく、あの「しょくぱんまん」を想起させるデザインです(喩えが古い)。
「しょくぱんまん」って何……という方もいらっしゃると思いますが、こちらの車輌のことです。

窓側埋まれば気分は満席

「スーパーおき 5 号」は 2 両編成ですが、ちらっと見た感じではそれなりに乗車率は高そうですね。金曜日の夕方ですし、今から大阪や博多に移動する人もいるのかもしれませんね(まるで他人事のように)。
まるでガラガラに見えるかもしれませんが、体感では 30~40 % くらいは乗車していたんじゃないでしょうか(窓側がだいたい埋まっていたら十分ではないかと)。
そう言えば、JR の特急列車って、列車の先頭と最後尾にドアが無いタイプが多いですよね。あれは地味に焦るのですが、私だけでしょうか。
それでは、「しまねっこ」ともここでお別れです!

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月23日月曜日

山陰本線の旅(番外編)#16 「益田・その2」

益田からは、特急「スーパーおき 5 号」で新山口に向かいます。「スーパーおき 5 号」が到着するまで 26 分ほど待ち時間があったので、途中下車して改札の外に出てみました。
時刻表なんですが……山口線も、そして山陰本線の長門市方面も本数が少ないですね~。山口線は特急の 3 往復を足しても合計 10 往復しかありません。長門市方面に至っては優等列車の設定自体が随分前に無くなってしまいました。

「くすりのタナカ」さん!

待ち時間の間にちょっと街を散策……と思っていたのですが、
ふと左の方を見てみると……おおお! 薬屋さんがあるじゃないですか!
実は、午前中に乗車した福塩線のディーゼルカーが割と暖房控えめでして、風邪を悪化させてしまったようなのです。既に江津のあたりで鼻水ズルズル状態でして(汗)、益田に着いて「もーあかん!」と思っていたところでした。

江津駅で「例のアレ」の存在を見落とすなど、既に注意力散漫だったのは、ひとえにこの風邪のせいだったのでした。

「くすりのタナカ」さんで佐藤製薬の「ストナ」を購入して、ついでにポケットティッシュまで頂いてしまいました。いやー本当に助かりました。本当にありがとうございます。
ちなみにお隣にはレコード屋さん(死語)が入っています。ところでうぃきぺには「駅構内には楽器店が入居している。」とだけ記されているのですが、これってもしかして……。

なんかそんなニュースを聞いたような記憶も薄っすらとあるのですが、裏付けがとれず……。

アルファベット表記の謎

益田から新山口(かつての「小郡」)までは 1850 円とのこと。えーと、これはギリギリ自販機で購入できる金額だったでしょうか。よく見たら一部の駅だけアルファベット表記があるのですが、「仁万」や「三保三隅」、「石見川本」にアルファベット表記があって、「津和野」や「萩」にはありません。これってどういう基準なんでしょうねぇ……。

乗車位置へ

「スーパーおき 5 号」の出発まで、まだ 15 分ほどありますが、ぼちぼちホームに戻ることにしましょうか(お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、割と時間には余裕を持ちたい性格みたいです)。
益田から新山口まで、「スーパーおき 5 号」の 1 号車の座席を確保していました。
ということで 1 号車の乗車位置に向かったのですが……あ、2 両編成だったんですね。最初から選択の余地は無かったようです。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (527) 「有珠川・勇振川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

有珠川(うす──)

us-nay?
入江・沢
(?? = 典拠なし、類型あり)
JR 室蘭本線の糸井駅と青葉駅の間を流れる川の名前です。厳密には「苫小牧川」ですが、見るからに後からやってきた苫小牧川に母屋を乗っ取られた感が満載です。苫小牧川は、もともとは王子製紙の敷地内を通って海に向かっていましたが、山手を迂回して有珠川と合流する形に流路が付け替えられたようです。

この「有珠川」ですが、「有珠の沢」という表現もちょくちょく見かけます。たとえば(Google Map によると)川の西側に沿っている通りの名前が「有珠の沢通」のようです。

「蝦夷日誌」や「東西蝦夷山川地理取調図」などでは「有珠川」に相当する川の存在を特定できませんでした。どうやら名前が変遷したらしく、明治期の地形図に「マーパオマナイ」とあるのが、どうやら現在の「有珠川」のように思われます。

ma-pa-oma-nay であれば「澗・かみて・そこに入る・沢」と言った意味でしょうか。それがいつしか「ウスノ沢」に化けたことになりますが、us-nay であれば「入江・沢」とも解釈できますね。

単に「ウスナイ」だけであれば色々と解釈できてしまいますが、その前に「マーパオマナイ」と呼ばれていた時代があったことを考えると、「入江・沢」の可能性がちょっとだけ大きくなるかな、などと……。

勇振川(ゆうぶり──)

yu-o-p-ri??
湯・多くある・もの・高い
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
えー、誤字ではありません(汗)。「ウトナイ湖」からの流出河川の名前が「勇払川」で、また、ウトナイ湖に西から流入する河川の名前も同じく「勇払川」ですが、かつてはウトナイ湖に流入する河川の名前が「勇振川」でした。「勇振」の名前は沼ノ端の北にある「勇振大橋」の名前に残っていますね。

そして……のっけから前言撤回というか追加情報なのですが、かつての「勇振川」(現在の「勇払川」上流)はウトナイ湖(ウトナイト沼)に注ぐのではなく、現在の「旧勇払川」のルートを通っていたようです(って、「旧勇払川」と書いてある時点で一目瞭然という説も)。勇振大橋のあたりからウトナイ湖に向かうようになったのは、人工的な改良だったようですね。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のようにありました。

 同時代の野作東部日記では「湯淵川(勇払川)。水源五里備々(美々)と云所の山間より出。此川上二里程,西の方に由布振(ゆふぶり)川有て此川に落合なり。此川上往昔温泉有,湯の如くなる水なる故ユウと訛り云る也」と書いた。この後の方が勇払川本川である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.379 より引用)
盛大な孫引きで申し訳ありません。野作東部日記に「由布振」とあるのが、どうやらかつての「勇振川」のことだったようですね。「勇振」の「勇」が yu で「温泉」の意味であることは理解できるのですが、「振」の意味がさっぱりわかりません。

「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、「勇振川」が「勇払川」と合流するところに「ユウブブト」と記されています。また、永田地名解にも次のように記されています。

Yup putu  ユーㇷ゚ プト゚  溫泉川口
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.216 より引用)
yu-p で「温泉・するもの」と考えろ、ということでしょうか。ただ、知里さんの「──小辞典」によると、-p

-p これは動詞・形容詞──それもかならず母音で終るもの──について,「……するもの」「……であるもの」の意をあらわす。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.85 より引用)
とあるので、この解釈は既に文法的には破綻していることになります。ですので、おそらく yu-o-p で「湯・多くある・もの」だったのでしょうね。

明治期の地形図を見ると、現在の「勇振川」(勇払川上流部の支流)のところに「ソーアンポンユープリ」とあります。これは「東西蝦夷山川地理取調図」の「ホンユウフ」のことだと思われますが、いつの間にか「リ」が付加されています。

「ソーアンポンユープリ」は so-an-pon-{yu-o-p}-ri と解釈すべきでしょうか。これだと「滝・ある・小さな・{勇振}・高い」となりそうです。ri の位置が変な感じもしますが、tanas-ri と解釈できそうな地名が近くにあったようなので……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年4月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (526) 「ヨコスト川・ポロチナイ川・別々川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヨコスト川

i-uk-us-ota?
それ・採取する・いつもする・浜
(典拠あり、類型あり)
社台川の西に「北海道ポロトGC」というゴルフ場があるようなのですが、「ヨコスト川」はその敷地内を流れています。もしかしたら川の底にはロストボールが大量に埋もれているのかもしれません。

ヨコスト川は、その後道央自動車道の下をくぐって、凄まじく小刻みに蛇行しながら海に向かいます。国道 36 号の下をくぐった先でウツナイ川と合流した後、「ヨコスト川」が存続河川として(企業合併みたい)東北東に向かい、最終的には社台川と合流することでようやく海に注ぎます。

ウツナイ川と合流した後ですぐに海に注がないのは、沿岸流の影響で形成された砂丘によるものでしょうね。ウヨロ川がすぐに海に注げなかったのと同じ理由だと思われます。

ヨコスト川の由来について、手元の資料には情報を見つけられなかったのですが、「ヨコスト」という音からは、いくつか試案が考えられそうです。

真っ先に思いつくのが yoko-us-to で「狙う・いつもする・沼」でしょうか。地理院地図の地形図では、ウツナイ川と合流した先の少し下流側に、沼沢地があるように記されています。沼のほとりに身を潜めて獲物を狙ったということでしょうか。

次に思いついたのが yuk-us-to で「鹿・多くいる・沼」です。えーと……そのままですね(汗)。

そして、これらの試案から思い出されるのが、豊頃の「育素多」という地名でした。育素多は yuk-us-ota で「鹿・多くいる・浜」という説と、i-uk-us-ota で「それ(菱)・採取する・いつもする・浜」という解釈があったんですが、「ヨコスト」も i-uk-us-to で「それ・採取する・いつもする・沼」である可能性があるなぁ、と。さて、この中に正解はあるんでしょうか……?(汗)

改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を眺めてみると、社台川の「東側」に「イクウシヒタ」と記されていることに気が付きました。東西が逆ですし「ヒタ」って何だよ大分かよという話になりますが、「東西蝦夷」だけに東西が逆なのも実は割としょっちゅうあります(ぉぃ)。まさかの i-uk-us-ota 説が俄然ポイントアップの様相です。

ポロチナイ川

poro-ut-nay
大きな・肋(あばら)・川
(典拠あり、類型あり)
社台川の東側、JR 室蘭本線と道央道の間に「社台白老牧場」という場所があります(競走馬関連の施設でしょうか)が、その東側を流れる支流の名前です。

ちょっと良くわからない名前だなーと思っていたのですが、昔の地形図には「ポロウト゚ナイ」と記されていました。あ、これなら何も悩むことは無いですね。

永田地名解にも次のように記されていました。

Poro utu nai  ポロ ウト゚ ナイ  大脇川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.203 より引用)
多くの場合、ut は「肋(あばら)」と解釈されていましたが、確かに「脇」(むしろ「腋」かも)と言えなくも無いですね。と言いつつ今回は慣れ親しんだ「肋」と解釈しておこうと思います。poro-ut-nay で「大きな・肋(あばら)・川」ということでしょう。

「肋川」の考え方については、最近ではウツナイ川のところで記していますので、お手数ですがそちらをご参照ください。端的に言えば「本流に対して直角に近い角度で注ぐ川」となるかと思います。

別々川(べつべつ──)

pet-pet
川・川
(典拠あり、類型あり)
白老町と苫小牧市の境界を流れる川の名前です。永田地名解には次のように記されていました。

Petpet  ペッペッ  川川 此川ハ西又東ヘ曲流シテ殆ント別水カト疑ハシム故ニ川々ト名ク
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.209 より引用)
pet-pet で「川・川」だと言うのですね。pet に「別」という字を当てたのは和人ですが、「別水かと疑わしむ故に『川川』と名づく」という説明を見ると、なんだか凄い偶然のようにも思えてきますね(あるいは単なる駄洒落にも見えますが)。

永田地名解のこの駄洒落……じゃなくて記載を、山田秀三さんは次のように解釈していました。

古くは中,下流がやちだったので,そんな姿で曲流していたものか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.383 より引用)
そんなところだったのでしょうか。白老川やウヨロ川の河口が海岸の砂によって酷く歪められているのは現在でもそのままですが、古くは社台川や別々川も河口が派手に西偏していたようですね。また、中流域には多数の「三日月湖」を見ることができますが、この辺から「別々川」という名前が出た……と言ったところでしょうか。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International