2019年3月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (619) 「チヤオヤウシナイ川・デバウシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チヤオヤウシナイ川

chi-o-ya-us-i??
我ら・そこで・陸に・つく・ところ
(? = 典拠あり、類型未確認)
深川 JCT. の西側を流れて、向陽橋のあたりで石狩川に合流する南支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」や「再篙石狩日誌」には「ソウヤウシ」という名前の川が記録されていますが、どうやらこれが現在の「チヤオヤウシナイ川」だとのこと。

「ソウヤウシ」が「チヤオヤウシナイ川」に変化するというのはかなり難易度が高そうに思えますが、明治の頃の地形図には「チオヤウシ」と記されていました。実際の発音が「チョーヤウㇱ」に近かったからか、松浦武四郎が気を利かせて「ソウヤウシ」としてしまったのかもしれません。

永田地名解には次のように記されていました。

Chi-o-ya-ushi  チオヤ ウシ  我等ノ漁場
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.67 より引用)
山田秀三さんの「深川のアイヌ語地名を尋ねて」にも、永田説を追認するような形の記載がありました。

 チオヤウシという名は他に例を知らないが、語頭の「チ」が無いオヤウシなら処々に残っている。例えば石狩川の川口に近い辺の小安(おやす)もそれである。意味はオ・ヤ・ウㇱ・イ O-ya-ush-i「そこに・網が・ある・処(或はもの、川)」だったのであろう。要するに、「網場」のことであった。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.172 より引用)
「チヤオヤウシナイ川」こと「チオヤウシ」では、「オヤウシ」とは異なり頭に chi(我ら)がついていますが、これについては次のように考えていたようでした。

「永田地名解」は、ここの地名に付ては「チ・オ・ヤ・ウシ 我等の漁場」と、意訳のような形で書いている。他の例を知らない地名なので、どう読んだらよいか、自信が持てないのであるが、チ・オ・ヤ・ウシ・イ Chi-o-ya-ushi-i「われわれが・そこで・網を・つける・処」とでも読むべきか。永田氏の訳だと、「我等の」と強く書かれているが、この「チ」は軽い云いまわしで、オヤウシと同じく、ただ「網場」の意だったのではなかろうか。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.172 より引用)
どうやら、山田さんは chi については、ともすれば省いてしまっても良いのではないか、と考えていたようですね。chi-o-ya-us-i で「我ら・そこで・網・多くある・ところ」となるでしょうか。逐語的に記しているので日本語として少々変ですが、その辺は適度に意訳してもらえたらと思います。

ただ、chi-o-ya-us-i であれば「我ら・そこで・陸に・つく・ところ」すなわち「上陸場」と読むこともできそうな気がします。このあたりは石狩川が台地を削るような地形となっていて、川と台地の間は 4~5 m の差があります。そのため台地に上がる(上陸する)のは簡単ではなかったと思われますが、そこにちょうど「チオヤウシ」という小川が注いでいて、この川沿いを歩けば比較的容易に上陸できたと思われるのです。

デバウシナイ川

tepa-un-nay
ふんどし・ある・川
(典拠あり、類型あり)
現在の「デバウシナイ川」は深川 JCT. の南側を流れている川の名前で、チヤオヤウシナイ川の東支流という扱いです。また、深川 JCT. の北側(深川西料金所の近く)を「デバウシナイ沢川」が流れています。こちらも同様にチヤオヤウシナイ川の東支流です。

ただ、昔の地形図を見てみると、「チオヤウシ」(チヤオヤウシナイ川)と「シユマオナイ」(須麻馬内川)の間に「テパウンナイ」という川が流れていました(石狩川の南支流)。どうやらこの川の名前が、時を経ていつの間にか「チヤオヤウシナイ川」の支流の名前に転じてしまったように見受けられます。

より正確に記すと、現在「チヤオヤウシナイ川」を名乗っている川の上部が、もともとの「テパウンナイ」だったようです。そして現在「デバウシナイ沢川」とされている川が本来の「チオヤウシ」だったと考えられます。「テパウンナイ」は、直接石狩川に注いでいたものを「チヤオヤウシナイ川」に合流するように流路変更がなされ、そしてなぜか名前を付け替えられてしまったようです。

この「デバウシナイ川」あるいは「テパウンナイ」ですが、残念ながら「東西蝦夷山川地理取調図」や「再篙石狩日誌」「登加知留宇知之日誌」には記載が無いように見受けられます。ただ、幸いなことに永田地名解に記載がありました。

Tepa un nai  テパ ウン ナイ  褌川 褌ヲ洗ヒタル川ナリト云○第八號
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.67 より引用)
……。「ふんどしを洗ったと君が言ったから、この川の名は『ふんどし川』だ」ということのようですが……(汗)。

山田秀三さんの「深川のアイヌ語地名を尋ねて」には、次のように記されていました。

 変な地名だ。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.171 より引用)
ですよね(汗)。

「永田地名解」にはこの川の名は採録されていないが、滝川市街北部(黄金町、泉町の辺)で同名の川を記録し、「Tepa-un-nai 褌川。褌を洗いたる川なりと云う」と書いている。アイヌの伝承を聞いて書いたものであろう。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.171 より引用)
あっ、言われてみれば確かに前後関係が変でした。「チオヤ ウシ」と「テパ ウン ナイ」の間に「ユーベ オッ」(江部乙)があるのはおかしいですもんね。失礼しました。

知里博士『人間篇』によると、テパは男の褌だけでなく、女の下帯の意にも使ったと云う。萩中美枝女史は月経帯のことも云ったと語られた。ただ川の名にどんな意味で使われたのかは見当がつかない。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.172 より引用)
アイヌは地形を「擬人化」していた……という知里さんの有名な説がありますが、川についてもそれは顕著でした。下手に駄文を連ねるよりも、知里さんの「アイヌ語入門」から引用してしまいましょう。

古い時代のアイヌは,川を人間同様の生物と考えていた。生物だから,それは肉体をもち,たとえば水源を「ペッ・キタィ」(pét-kitay 川の頭)とよび,川の中流を「ペッ・ラントㇺ(pét-rantom 川の胸)とよび,川の曲り角を「しットㇰ」(síttok 肘) とよび,幾重にも屈曲して流れている所を「かンカン」(kánkan 腸)あるいは「よㇱペ」(yóspe 腸),川口を「オ」(o 陰部)とよぶのである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.40-41 より引用)
この考えで行くと、「ふんどし川」があっても何ら不思議ではないことに気がつきます。「ふんどし」と言えば陰部を隠すものですから、河口を隠す何かがある川だったのでは無いでしょうか。より具体的に言えば、河口部に中洲があり、左右に分流する川だったのではと想像してみました。この中洲のことを「ふんどし」と呼んだのではないかという想像です。

ということで、「デバウシナイ川」は tepa-un-nay で「ふんどし・ある・川」と考えていいのではないでしょうか。

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2019年3月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (618) 「タモニナイ川・ナプサクトクサク川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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タモニナイ川

ram-ni-nay?
低い?・木・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国見峠の東を流れる川の名前です。「ねこバス」のある「戸外炉峠」の東側、と書けば「ああ!」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。このタモニナイ川はケナシハオマナイ川の西隣を流れていますが、この両河川の間は 400 m 程度しか離れていません。

「タムニ」という記録

「東西蝦夷山川地理取調図」には「タムニ」という名前の川が描かれています。また戊午日誌「登加知留宇知之日誌」にも以下のように記されていました。

こへて
     タ ム ニ
此処また少しの岡に成る山なり。山は笹原のよしなり。爰より亥子の方えウリウ山よく見ゆる。十三四丁も過て
     ケナシバヲマナイ
此処また小川有。巾五六尺。上は峨々たる高山に成り、其下は平に成る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.123 より引用)
このあたりの「登加知留宇知之日誌」には、「ヲトエボケ」「シイベヌカルシ」「タムニ」「ケナシバヲマナイ」「ヒラノスケヲマナイ」と言った名前の川が記録されています。

「タモニナイ川」と「ケナシハオマナイ川」の位置関係

「ヒラノスケヲマナイ」が現在の「出合沢川」であることがほぼ確実な情勢で、また「ヲトエボケ」が現在の「音江川」である可能性も高そうです(これには若干の疑義もあります)。ですので東から見て「ヒラノスケヲマナイ」(=出合沢川)、「ケナシハオマナイ川」、「タモニナイ川」が並んでいる……と考えるのが自然なのですが、そこで問題となるのが「登加知留宇知之日誌」の「十三四丁も過て」という一文です。

距離の単位としての「1 町」は約 109.1 m ですから、「十三四丁」は「約 1.4 km から 1.5 km ほど」ということになります。「タモニナイ川」から「ケナシハオマナイ川」までは前述の通り 400 m 程度しか離れていませんから、計算が合わないことになります。

この点は、山田秀三さんも「深川のアイヌ語地名を尋ねて」で次のように指摘していました。

 明治三十年図には国見峠(旧道)を東に下った処にタモニナイと書いてあるが、すぐその先がケナシパオマナイである。『十勝日誌』はその間が十五、六丁(『登加知留宇知之日誌』で十三、四丁)となっていて間が離れ過ぎている。この二つの川名の位置が、どっちかずれたのかもしれない。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.212 より引用)
そんなところかも知れませんね。改めて検討してみましたが、やはり「ヒラノスケヲマナイ」の場所は現在の「出合沢川」で動かせないような気がしますので、「タモニナイ川」の場所が誤っていたか、あるいは「登加知留宇知之日誌」の記述が間違っていたか、どちらかだろうと思われます。

また、面白いことに「再篙石狩日誌」には「タムニ」の記載そのものがありません。

     ヲトイホク
等も小川、左りの方に有。其辺惣て平地なり。少し上に
     シヘヌカルシ
     ケナシハヲマナイ
     ヒラノシケヲマナイ
等右の方小川。其辺惣て平地にて地味至てよろし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.240 より引用)
「タムニ」はともすれば省略されてしまうような、小さな川だったということかもしれません。そして隣接する河川との位置関係を考えると、「タモニナイ川」も「ケナシハオマナイ川」も位置が大きくずれたとも考えづらいので、やはり「十三四丁」が何かの間違いだったと考えるのが正解に近いような気がします。

そろそろ本題に

「タモニナイ川」と「タムニ」の同一性について字数を使ってしまいましたが、そろそろ本題に移りましょう。永田地名解には次のように記されていました。

Tamo ni nai  タモ ニ ナイ  ? タモ網ニテ魚ヲ取リシ處ナリト云フ○第弐拾八號ノ橋
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.66 より引用)
まさかの和語・アイヌ語合体説ですが、さすがにそれは無いと感じたか、永田方正も「?」をつけています。

山田秀三さんも、永田地名解の記述を次のように評価していました。

 このタモニナイとタムニは同じ川の名だと思われるが、意味は分らない。永田氏は古老の話を聞いたが、どうも変だと ? を付けたのだろう。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.212 より引用)
言葉の遊びをするなら、Tam-ni-nai(低い・木の・沢)の転訛と見れないこともないが、これは一応の語呂合せである。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 4」草風館 p.212 より引用)
なるほど。山田さんは tamram の訛った形ではないかと考えたのですね。ram-ni-nay で「低い・木・川」となるでしょうか。

永田方正のインフォーマントが「タモ網」などと言う珍妙な解を出してきたもの、意図的にアイヌ語の解を隠蔽するためではなく、そもそも tam あるいは tamo の意味するところが不明だったから、と考えられそうです(tam は「刀」を意味しますが、地名ではあまり見かけない語彙です)。

知里さんの「植物編」や服部四郎さんの「アイヌ語方言辞典」などを眺めてみましたが、tam-ni をどう解したものか、答にはたどり着けませんでした。ということで、試案をいくつか並べておきます。

まず tat-ni で「樺の木」という語彙があり、これが訛ったと考えられるかもしれません。これだと {tat-ni}-nay で「{樺の木}・川」となりますね。

あと、yam-ni で「栗の木」と考えることもできます。{yam-ni}-nay では「{栗の木}・川」となりますね。

rarma-ni であれば「イチイの木」となりますね。

また、アイヌ語で「これ」を意味する指示代名詞に tan があり、千島方言では tam だった、という記録も残されています。松浦武四郎がインフォーマントに質問をして、インフォーマントが「この木は……」と言い淀んだのを地名と間違えて記録した……という事故の可能性も、一応記しておきます。

ナプサクトクサク川

chep-sak-{tuk-pok}
魚・持たない・{ト゚クポク川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
音江川の西を流れる川の名前です。道央道の深川 IC は、ナプサクトクサク川の上に設けられています。ぱっと見た感じでは「ナップサックが得策」であるようにも見えますが、さすがにこれは違いますよね(違いますね)。

納内駅のあたりから石狩川に注ぐ「オサナンケップ川」という川があり、その支流で「トクポク川」が存在する……という話は以前にご紹介した通りですが、もともとは石狩川の南側、現在の深川市広里の南を「ト゚クポク」という川が存在していた……という話も記していたかと思います。「ナプサクトクサク川」は、この「ト゚クポク」(現在は音江川の分流という扱いでしょうか)の支流ということになります。

そろそろ「あ、これって……(察し)」となった方もいらっしゃるかもしれません。古い地図を眺めてみると、「ト゚クポク」の支流として「チエプサクトクホク」という名前の川が描かれていました。どうやら「チエプサクトクホク」が「ナプサクトクサク」に化けた……ということのようです。

「チエプ」は chep で「魚」を意味する語彙ですが、そもそもは chi-e-p で「我ら・食べる・もの」でした。似た語感の語彙に「チㇷ゚サンケ」でおなじみの chip(舟)があり、しばしばこの両者が混同されることがあったため、知里さんは「和人は舟を食う」という題名のエッセイでネタにしていたのでした。

「チエプサクトクホク」は chep-sak-{tuk-pok} で「魚・持たない・{ト゚クポク川}」と考えられます。このあたりは「イチャン」(ichan)などの魚に関係する地名が多く、たとえば前項に出てきた「シイベヌカルシ」も {si-ipe}-nu-kar-us-i で「{魚}・豊漁・採る・いつもする・ところ」と読むことができます(あるいは {si-ipe}-nukar-us-i で「{魚}・見る・いつもする・ところ」かも?)。そんな一帯にあって魚が上がらない川というのは、むしろ特筆すべき存在だったのかもしれませんね。

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2019年3月29日金曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (8)「おびら鰊番屋」

留萌郡は小平町字鬼鹿広富にある道の駅「おびら鰊番屋」の話題です。

道の駅「おびら鰊番屋」へ

引き続き国道 232 号を北上します。右側に少し空き地があるのが、今度こそ国鉄羽幌線の跡地でしょうか。この先 2 km ほど北上したところに、道の駅「おびら鰊番屋」があります。
ということで、ちゃちゃっと車を停めて、道の駅「おびら鰊番屋」に向かいます。道の駅の建物は道路の右側(東側)にあるのですが……
駐車場が道の両側にあるので、北行きも南行きも対向車を気にすることなく駐車できるようになっています。この構造は「素晴らしい!」の一言に尽きますね。
道の両側にある駐車場は広くて駐車しやすいので、国道 232 号をドライブする時はたいてい立ち寄っているような気がします(通過した記憶があまり無いというか)。

隣は「重要文化財」

敷地内には建物が三つ並んでいるのですが、北側の二棟が道の駅です。この写真だと手前に見える新しそうな建物がそうですね。
そして、南隣のこの建物が重要文化財の「旧・花田家番屋」です。これは道路の向かい側の駐車場から撮影したものですが、これだけ離れてようやく全容を眺めることができるという、なんとも巨大な建物です。当時の漁業者がいかに権勢のある存在だったかがわかりますね。
では、ちょっとだけ(本当にちょっとだけ)中に入ってみましょう。
ということで、中で撮影した唯一の写真がこちらなんですが……(汗)。ふむふむ、深川留萌道は平成 31 年度に全面開通の予定なんですね。終点は国道 232 号と直結する場所に設けられそうなので、確かに小平町にとっても願ったり叶ったりな立地と言えそうです。

あらこんなところで松浦さん

時間に余裕ができたようでいても、実はそれほどでも無いので、建物の外をささっと見て回ってから、車に戻りましょう(羽幌港には指定時間に必着です)。ということで、海側の駐車場に戻ってきました。金属製のアーチが見えますが……
その横には、どこかで見たことのある人の銅像が。
はい、この人こそみんな大好き「北海道人」こと松浦武四郎さん(実は三重県出身)です。

駐車した 車に戻り しばし唖然

では、そろそろ車に戻りましょう。このアングルだと、建物の位置関係がわかりやすいかもしれません。白い小さな建物を中心に、右が「旧・花田家番屋」で、番屋を模した左の建物が「道の駅」ですね。
波打ち際を自車に向かって歩きます。
ということで、駐車場に停めた自車のところに戻ってきたのですが……
えっ……えええ!? あまり深く考えずに車を停めたのですが、なんとフロントのナンバープレートがコンクリートブロックに接触する一歩手前じゃあありませんかっ!
2015 年は 5 月にも宮守で冷や汗ものの駐車を決めてましたし……妙なところで運を使い果たした感がありますね。この時は、真後ろに立っていた電柱の存在に全く気づくことなく車を停めていたのでした。
本当に「油断大敵」の一言に尽きるのですが、どっちもギリギリセーフだったというのが……(汗)。

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2019年3月28日木曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (7)「自転車旅の御一行様」

小平町南部の臼谷から、国道 232 号でひたすら北に向かいます。

おびら町

小平町南部の臼谷というところにやってきました。赤信号に引っかかってしまったので、のんびりと青に変わるのを待ちましょう。
ひらがなで「おびら町」と書いてあるのがいいですね。「小平」は「おびら」なんですが、なかなか初見では読めませんからね(平取町小平というところもありますが、あちらは「こびら」でしたね)。
臼谷から小平町の中心部に向かう区間は、一部が片側 2 車線になっています。ここで改めて隊列を入れ替えることができるのはありがたいですね。

抜け道の情報など

小平町の中心部に入ってきました(セイコマも見えます)。自転車で北を目指す一行が見えますが、結構な大人数ですね。大学のサークルとかでしょうか?
小平町役場のすぐ近くにやってきました(右折したすぐ先にあるようです)。この交叉点を右折すると道道 550 号で幌糠に行けるようですが、この幌糠は「留萌幌糠 IC」のことだったようです。なるほど、留萌幌糠 IC から留萌市内を経由せずに小平に抜けるルートとして使えたんですね……。
小平の市街地を抜けて、更に北に向かいます。小平蘂川(おびらしべ──)に向かう途中でまたしても沿岸バスとすれ違います。本数、多いですよね。

毎度おなじみ「小平トンネル」

小平蘂川を渡って 0.5 km ほど進むと、トンネルが見えてきます。毎度おなじみ「小平トンネル」です。
何の変哲もない立派なトンネルなんですが、特筆すべきポイントは、このトンネルが国道 232 号で唯一のトンネルであることです(国道 40 号との共用区間に「開源パーキングシェルター」がありますが、あれはトンネルではありませんし、また今は本線部分はシェルターを通らない形に変わったような気がします)。
ちなみにこの「小平トンネル」、トンネルを出たあとの眺めがなかなかのものです。

だいたいほぼ真っすぐ

トンネルを抜けた先は、地図ではほぼ真っすぐに見えますが、実際は……だいたいほぼ真っすぐですね(ぉ
またしても自転車旅行中の団体様御一行を見かけました。
まっすぐな道、まっすぐな海岸線、まっすぐな斜面……いかにも国道 232 号らしい風景ですね。前の車ともかなり距離が離れていますが、そこそこの速度で走っている筈なのに、なぜか前車がどんどん先に行ってしまうんですよね(汗)。

自転車旅の御一行様

道路の右側に謎の駐車スペースがありました。これは……国鉄羽幌線跡!と思ったのですが、よーく地図を見てみるとここは大椴駅の南側で、羽幌線が海沿いを離れて山中をトンネルで抜けているところでした。ということで、少なくとも線路跡では無いことが確定です。
鬼鹿の四連風車が見えてきました。前車との車間がにわかに詰まってきましたが、どうやら安全運転の車に追いついてしまったようです。
前方左手のバス停の前の方に、またしても自転車旅行中の団体さんが。目指すは宗谷岬でしょうか、それとも北海道一周でしょうか。

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2019年3月27日水曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (6)「留萌の南北分断」

留萌市東雲町から小平町南部の臼谷にかけての話題です。

これは和む……

留萌から稚内に向かう国道 232 号(と、苫前から名寄方面に向かう国道 239 号の共用区間)に入りました。一段低いところを通っているので見づらいですが、左は JR 留萌線の線路です。
そして、左側の路肩が工事中らしく、単管バリケードが設置されているのですが……
なんなんでしょう、この和めるデザインは(笑)。動物をモチーフにしたものや、版権ものも見てきましたが、このラジオ体操風のデザインはめっちゃほっこりした感じが……。

留萌の南北分断

前方に、国道 231 号と国道 232 号の交差点が見えてきました。左折すると「ルルモッペ大橋」で、市役所方面や増毛・浜益・石狩方面に向かうことができます。
昨日の記事でも記しましたが、この「ルルモッペ大橋」は比較的新しいもののようで、国鉄羽幌線があった頃にはこの橋は存在していなかったようです。現在の「ルルモッペ大橋」から市街地に向かうルートを通すには、国鉄羽幌線と留萠本線のほかに留萌港に向かう貨物専用線?にも踏切を設ける必要があり、幾本もの線路をまたぐ踏切の設置は難しかったのかもしれません。
また、小平から留萌に向かうには、必ずどこかで留萌川を渡る必要がありました。前方に見えているのが「留萌橋」ですが、昭和のはじめにはもう少し海側に橋がかかっていました。

当時は現在の国道 232 号の場所を国鉄羽幌線が通っていた(国鉄羽幌線は留萌駅を通っていなかった)ため、現在の国道 232 号に相当する道路は存在せず、小平からの道路交通は留萌川の河口付近で川を渡り、留萌港の北側に出ていました。

ただ、留萌港の北側と、南側の市街地の間には港と貨物専用線、そして留萌本線が通っていたために道路を設置することができず、やむを得ず港の南北を渡し船で横断していたようです。実に興味深いことに、留萌の南北は鉄道と港湾で分断され、直通する道路が(国鉄羽幌線の移転までは)存在しなかったことになります。国道 232 号のルートは、国鉄羽幌線が移転してくれたおかげで唯一確保できたルートだったんですね。
国道 232 号は、留萌川の横で緩やかに右に曲がりながら小平に向かいます。このあたりも国鉄羽幌線の移転で捻出された区間なのかもしれません。さすが夏休みだけあってか、自転車で北に向かう人も目立ちますね。

オンタイム進行中

稚内まで 182 km、そして現時点でのゴールである羽幌までは 47 km となりました。この時点で 9 時を少し回ったくらいですから、あと 1 時間ほどで羽幌に着くことができそうです。目標を 10:30 到着としていましたが、ちょっと余裕ができそうな感じがしてきました。まぁ、遅れられない予定がある場合は、だいたいこんな感じでマージンを刻むのが常ではあるんですけどね。
今まではあまり気にしたことがなかったのですが、丘の上になかなか立派な灯台がありました。留萌港の灯台と言えば、2017 年 12 月に発達した低気圧の影響で倒壊したという話がありましたが、倒壊したのは港湾部の灯台で、この灯台ではありません。

豊多朱内橋

留萌市北部の三泊(さんどまり)というところにやってきました。「豊多朱内橋」とありますが、永田方正の影響が見られる地名の一つでしょうか。
「沿岸バス」のバスとすれ違います。今では「萌えっ子フリーきっぷ」などの独特のプロモーションで知られる会社ですが、需要が決して多いとは言えないエリアにおいてこれだけの路線網を維持できているというのは、かなり大したものだと思います。国道 232 号(や深川留萌道)を走っていると、結構な頻度ですれ違うんですよね。

「全国一 留萌のかずのこ」

留萌市三泊から、小平町臼谷を望みます。50 km/h 制限はここで一旦終了です。
右側の斜面に、毎度おなじみ「全国一 留萌のかずのこ」の看板が見えると……
間もなく小平町(おびら──)に入ります。何故カントリーサインが右側にあるのだろう……と思わないでもないのですが、左側に立ててしまうと冬場の暴風雪でサインが飛んでしまうとか、そういった事情もあるのかもしれません。

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2019年3月26日火曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (5)「全ての国道は留萌に通ず」

深川留萌自動車道の終点(暫定)である留萌大和田 IC から、近い将来延伸される次の IC 予定地?までの話題です。

国道 233 号(現道)へ

2015 年当時、そして 2019 年 3 月現在でも深川留萌道の終点である「留萌大和田 IC」から一般道に戻ります。いずれ延伸される区間のトンネルには、無断侵入を防ぐためのフェンスが設けられています。
深川留萌道の本線(予定)をアンダーパスする部分は極めてシンプルな構造で、延伸後はハーフ IC になるであろうことがここからも理解できます。
ということで、国道 233 号(現道)に戻ってきました。ここからは一般国道 233 号(と 232 号)で羽幌に向かうことになります。
ちなみにここを右折すると北竜町の「碧水」に向かうことができます。青看板では「北竜」と記されるよりも「碧水(北竜町)」と記されることが多いのは面白いですね。「碧水」という字面からはどことなく果物のブランド名のような感じもしますが、一帯の農場主だった渡辺八右衛門氏の雅号から来ているものなのだそうです。

深川留萌道、絶賛延伸工事中

留萌市街まであと 5 km、そして羽幌までは 55 km となりました。羽幌まではおおよそ 80 分ほどで着く計算になりますが、この時点で朝の 8:51 ですから、今の所、目標到着時刻の 10:30 には余裕で間に合いそうですね。
現道の国道 233 号は、大きく S 字トラップのようなルートを通っています。前方では深川留萌道の橋が絶賛建設中でしたが、現在はもう完成済みのようですね。

音楽合宿のまち?

留萌の市街地にやってきました。おや、何でしょうこれは。目一杯楽器を鳴らしても周りの迷惑とならないような合宿所があるのでしょうか。
留萌市内の国道 233 号は片側 2 車線になっていて、両側には道内でよく見かけるメジャーどころが軒を連ねています。
このあたりの市町村では比較的栄えている印象のある留萌市ですが、陸上自衛隊の駐屯地の存在も地域経済の活性化に貢献しているのかもしれません。
右側に「留萌高等学校」があるのはいいとして(そういえば確かに「北海道留萌高等学校」ですね。「北海道立」ではなく)、左に立っている「パワスポ留萌」って一体なんなんでしょう(気になるけど調べない)。「すぱーく湧別」みたいなものなんでしょうか。

全ての国道は留萌に通ず

前方の広域情報には、国道 231 号の雄冬岬で夜間通行止めが予定されていることが告知されていました。これから向かう国道 232 号については、特に情報なしということで良いでしょうか。
留萌市には国道が 4 路線通っているのですが、面白いことに全ての路線が 230 番台で、しかもどの路線も留萌市が終点です。

実は留萌市には国道 451 号も通っていることになっていて、そして国道 451 号は留萌市が起点なのだそうです。色々とグダグダで失礼しました。

ここまでは国道 233 号を通ってきましたが、国道 233 号は「モダ」の前が終点で、この先は右折して国道 232 号に向かうことになります。ちなみに、苫前から留萌までは国道 239 号との重複区間です(ついさっき気づきました)が、それらしい記載は見当たりませんね。
それにしても、いつ見てもこの巨大な看板はインパクトが凄いですよね……。

稚内まで 4 時間ほど

国道 232 号(国道 239 号との重複区間)に入って、留萌川を渡ります。片側 2 車線の快適な道路ですが……
あっさりと片側 1 車線に逆戻りです。国道 232 号の起点は稚内市(幌延までは国道 40 号と重複)ということで、起点の稚内までの距離も記されています。稚内までは 185 km だそうなので、最速だと 4 時間弱で着いちゃいますね。滝川から留萌までが約 1 時間ですから、札幌から稚内って実はそれほど遠くないんだな……と思わせます(色々と感覚がおかしい)。
前方の山で木の無い部分が見えますが、あのあたりで深川留萌道が絶賛建設中です。延伸後は、羽幌や稚内がさらに近づくことになりそうですね。

国道 232 号ルート選定の謎

ところで、留萌市内の国道 232 号のルートは、若干セオリーから外れたところがあるように感じています。国道 231 号とは異なり、市街地の中心部を完全に外れたところを、まるで市街地を無視するかのような道筋で通っています。市中心部への移動を考慮しないバイパスであれば理解できるのですが、随分昔からこのルートのようなのです。

ちょっと考えてみたんですが、小平から南下した国道 232 号が留萌駅方面に向かうには、留萌川と国鉄羽幌線・留萌本線が邪魔になるため、市街地や増毛に向かうルートを設けられなかったということと、昔は国道 231 号が増毛町雄冬で行き止まりだったため、小平から増毛に向かうルートはあまりニーズが無かった、と考えると合点がいくかもしれません。

変な言い方かもしれませんが、留萌では今も昔も、沿岸部よりも内陸部との交通が重要視されているということかもしれません。

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