2022年3月31日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (258) 「薬用植物資源研究センター」

碁盤の目状の街路では本来は存在しない筈の T 字路を右折……ではなく左折して、道道 252 号「名寄美深線」を北に向かいます。すんごくでかい「国立研究開発法人 医薬基盤・健康・栄養研究所 薬用植物 資源研究センター」の看板の横には「なよろ温泉『サンピラー』」「ピヤシリスキー場」「なよろ健康の森」そして「名寄市立大学」の文字も見えます。
「名寄市立大学」の部分に修正の跡が見えますが、この大学の母体は「名寄女子短期大学」で、2006 年に 4 年制の「名寄市立大学」になったとのこと。よーく見ると支柱に道道 252 号の「終点」の文字も見えますね。

それにしても、「薬用植物資源研究センター」の看板の大きさにはビビってしまいますが、看板の裏側が余っていたので有効活用してみました、ということでしょうか。一般向けには「なよろ温泉『サンピラー』」のほうがニーズが高そうな気もしますが……。

看板裏の有効活用

名寄市立大学の近くにやってきました。ここでも区画のズレが存在するようで、東西の道路の位置が僅かに噛み合っていません。

2022年3月30日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (257) 「名寄市街の区画の謎」

「名寄美深道路」の「名寄北 IC」で流出します。よく考えてみれば終点(起点)の「名寄 IC」は 2008 年に一度使った以来、全く近づいていないような気も……。
ランプウェイの下り坂を進むとこのようになっているのですが、これ、うっかりそのまま直進する人はいないのでしょうか。

2022年3月29日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (256) 「智恵文南入口」

「名寄美深道路」は「智恵文南こ道橋」で再び国道 40 号をオーバークロスします。「跨線橋」の「跨」がひらがななのは常用漢字外だからだと思われますが、なんかその……間抜けな感じがしてしまいますよね。
「智恵文南こ道橋」を渡った先に左からの流入車線があるのですが、これが「智恵文南入口」です。「智恵文南入口」は名寄方向への入口しか存在しない「クォーターインターチェンジ」で、元々は「名寄バイパス」の終点として「智恵文 IC(初代)」として設置されたものを、名寄バイパスが現在の智恵文 IC まで延伸された際に入口機能のみ残して「智恵文南入口」に改称したとのこと。

2022年3月28日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (255) 「サトウの切り餅?」

「名寄美深道路」で「ペンケニウプ川」を渡って名寄市に入りました。ここから先はかつての「智恵文村」で、元々は美深町の母体だった「下名寄村」から 1920 年に分村した村でしたが、1954 年にお隣の名寄市(当時は名寄町)と合併して現在に至ります。要は美深から離れた後に名寄とくっついた、ということになりますね。
このカントリーサインは……。「ひまわり」と夜空が描かれているように見えます。下に見えるのは天文台でしょうか。まさかサトウの切り餅では無いですよね。

(2022/4/2 追記)こちら、本当に切り餅で間違いないみたいです(名寄はもち米の生産も多いのだとか)。切り餅が切り餅に見えたというのは、デザインの勝利ですね。

圧縮効果に気をつけよう

「名寄美深道路」の名寄バイパス区間には「智恵文 IC」「智恵文南入口」「名寄北 IC」がありますが、フル IC は「名寄北 IC」しかありません。IC 番号は道央自動車道と接続した際に函館起算で付番されるのかもしれませんが、なかなか大きな番号になりそうで楽しみですね。

2022年3月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (921) 「十勝石沢川・支湧別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

十勝石沢川(とかちいしざわ──)

anchi-o-{yu-pet}?
十勝石・そこにある・{湧別川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 石北本線の白滝駅の西、2016 年に廃止された上白滝駅との間を通って湧別川に合流する支流です。明治時代の地形図には現在の「十勝石沢川」の位置に「アンシユオユーペツ」という名前の川が描かれていました。anchi-o-{yu-pet} で「十勝石・そこにある・{湧別川}」と見て良いかと思われます。

「十勝石」は「黒曜石」の別名で、黒曜石はガラスと似た性質を持つためナイフや斧の刃先として古くから利用されてきました。道内では十勝三股が産地として有名なため「十勝石」との呼び方が定着していますが、十勝三股のほかに置戸・白滝・赤井川でも産出することが知られています。

「アンチイ」は何処に

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     アンチイ
右の方に小川有。此川口絶壁の下に往昔三囲みかかえ位の黒耀石有りしによって此名有るよし。アンチイは黒耀石の事也。其岩今何れえ行しか見えさるよし也。其絶壁の下に木幣を多く立有りたり。是川の神霊とすといへり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.269 より引用)
これは非の打ち所の無い記録に見えるのですが、「西部由宇辺都誌」には前後に以下のような記録が並んでいました。

西部由宇辺都誌補足情報現在名(推定)
シユウベツ大高山左りの方に有支湧別川
シルトルカ右の方高山有
ルウクシベツ右の方小川有
アンチイ右の方に小川有
ホリカユウベツ是当川の水源也
チトカニウシ此山五様松計にて此辺第一の高山チトカニウシ山

名前の類似性から「アンチイ」が「十勝石沢川」で「ホリカユウベツ」が「幌加湧別川」だと考えたくなりますが、「アンチイ」が「十勝石沢川」だとすると「ルウクシベツ」に相当する川が存在する余地が無くなるという問題が生じます。

また「幌加湧別川」は「支湧別川」よりも東側を流れているため、「ホリカユウベツ」は「幌加湧別川」では無い……と見るしか無さそうです。これらの矛盾点を解消するために、秋葉実さん(丸瀬布出身)は「ルウクシベツ」が「十勝石沢川」で「アンチイ」が「八号沢」ではないかとしていました(註に「今の八号沢(黒曜石沢)」との記載あり)。

「午手控」の検討

一方、「西部由宇辺都誌」のネタ元と考えられる「午手控」には次のように記されていました。

午手控補足情報現在名(推定)
シュウヘツ大高山左りの方ムツカの方より来る支湧別川
シルトルカ大高山、うしろ石狩ニセイケに当るよし也
ルクシヘツ此右の小川より山越石狩ルベシベへ出るよし
アンチイ右の方小川、むかし竈位の黒石有しによって号しとかや
ヲロカユウベツ此源チトカニウシ。此山うら石狩高山の上五葉松計也

注目すべきは「ルクシヘツ」の項で、この川を遡ることで「石狩ルベシベ」に出るとあります。「石狩ルベシベ」は現在の上川町のことですが、「ルクシヘツ」(ルウクシベツ)が「十勝石沢川」と考えた場合、十勝石沢川を遡ったところで上川には出られないため、「ルクシヘツ」は「十勝石沢川」のことでは無い……と言うことになります。

謎の「ルクシヘツ」の正体ですが、「支湧別川」の近くで「石狩ルベシベ」に出る川とすれば、白滝よりも上流側の「湧別川」のことだと考えるしか無いかと思います。「シュウヘツ」は si-{yu-pet} で「主たる・{湧別川}」だと考えられるので、白滝以西の湧別川は「ルクシヘツ」という支流(あるいは別名)だった……とする考え方です。

また「ヲロカユウベツ」の項に「此源チトカニウシ」とあるのも注目に値します。この「ヲロカユウベツ」あるいは「ホリカユウベツ」は現在の「幌加湧別川」とは別物で、現在の「三角点沢川」か「熊ノ沢川」ではないかと思われます。

「アンチイ」=「十勝石沢川」?

この考え方の難点は、「湧別川」を遡っていた筈の松浦武四郎一行が、本流だと目される「シュウヘツ」ではなく「此右の小川」である「ルクシヘツ」を遡って「チトカニウシ」に向かった……というところです。また「支湧別川」と合流する前の「湧別川」を「此右の小川」と呼ぶのはどうなの……という問題も残るのですが……(汗)。

「ルクシヘツ」(ルウクシベツ)を「湧別川上流」とした場合、「アンチイ」は現在の「十勝石沢川」か、あるいは「八号沢川」のどちらかを指すと考えられます。明治時代の地形図では「十勝石沢川」が「アンシユオユーペツ」で「八号沢川」が「シユマフレユーペツ」なので、松浦武四郎が記録した「アンチイ」は「アンシユオユーペツ」、つまり今の「十勝石沢川」のことだと考えて良いのではないでしょうか。

支湧別川(しゆうべつ──)

si-{yu-pet}
主たる・{湧別川}
(典拠あり、類型あり)
JR 石北本線の白滝駅の北東で湧別川と合流する南支流です。戊午日誌「西部由宇辺都誌」の「シユウベツ」に「支湧別」という字を当てたものと考えられますが、この「支」という字は「支流」を連想してしまうのが罪深いところです。

山田秀三さんの「北海道の地名」にも、次のように記されていました。

支湧別川 しゆうべつがわ
 白滝市街のそばで南から合流している支湧別川の「支」は支流の意味ではない。アイヌ時代にはシ・ユーペッ「shi-yupet ほんとうの(あるいは大きい)・湧別川」であった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.188 より引用)
そういうことですね。si-{yu-pet} で「主たる・{湧別川}」と解釈すべきと思われます。

 今は北の川の方が本流とされているが,当時は南川の方が主流と思われていたので,この名で呼ばれたのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.188 より引用)
この考え方には全く異論は無いのですが、では松浦武四郎一行が「支湧別川」ではなく「湧別川」を遡ったのは何故……という疑問点に戻ってしまいます。ただ良く考えてみると「石狩川」も似たような構造で、「本流」が層雲峡のほうから流れているのに対して、オホーツク海側に向かう交通路に沿った川は「留辺志部川」と呼ばれていました。

「湧別川」の「本流」(=支湧別川)とは別に「ルクシヘツ」(=湧別川上流部)があり、本流よりも「ルクシヘツ」のほうが交通路として重要視されていた……と考えられるのかもしれません。

「シノマンユウヘツ」→「シユウヘツ」?

そう言えば「東西蝦夷山川地理取調図」では湧別川の源流部に「シノマンユウヘツ」という名前の川が描かれていました。sinoman-{yu-pet} で「本当に奥に行っている・{湧別川}」ということになるのですが、これが si-{yu-pet} に略された……と見ることもできるかもしれません。

{yu-pet} は海から白滝までの「総称」で、白滝から先は sinoman-{yu-pet}ru-kus-pet(「道路・通行する・川」)に分かれていた……と考えることもできるかもしれません。更に言えば ru-kus-petru-kus-{yu-pet} で「道路・通行する・{湧別川}」だった可能性もあるかも……?

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2022年3月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (920) 「スプリコヤンベツ川・クワキンベツ川・八号沢林道 赤石線」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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スプリコヤンベツ川

nupuri-ko-yan-pet?
山・そこに向かって・上がる・川
(? = 典拠あり、類型未確認)
遠軽町西部(旧・白滝村)を流れる湧別川水系の川で、国道 333 号の「北見峠」の近くを流れています。短い川ながら地理院地図に川名が明記されているのが珍しいですが……。この川については、以前にも解釈を試みたのですが(2012/8/25 の記事)、見事なまでに間違えていたっぽいので以下の通り修正します……(すいませんすいません)。

何をどう間違えていたかと言う話ですが、明治時代の地形図に「ヌプリコヤンペツ」と描かれていることに気が付きました。「ヌプリコヤンペツ」であれば nupuri-ko-yan-pet で「山・そこに向かって・上がる・川」と解釈できそうです。

上川町と遠軽町の境に「和刈別わかりべつ」という名前の山(!)があるのですが、この山は「トイマルクシュベツ支川」が流れる南西側を除けば全体的に傾斜がなだらかに見えます。このあたりの山から湧別川に注ぐ川はいくつかありますが、麓から見た場合、スプリコヤンベツ川がもっとも急流であるように見えます。

急流ということは、最も短い距離で山地に登ることができるので、山地に登るには一番良い川ということで「山・そこに向かって・上がる・川」と呼んだのかな……と想像しています。

「和刈別」については、wakka-ru-pet で「水・道・川」あたりかな……と想像していますが正体不明です。「飲用に適した水が流れる川」なのかもしれませんが、そもそもどの川を「和刈別」と呼んだのかすら明らかではないので……。

クワキンベツ川

kucha-un-pet
山小屋・ある・川
(典拠あり、類型あり)
湧別川の南支流で、旭川紋別自動車道の「奥白滝 IC」の南から東のあたりを流れています。どうにも良くわからない川名ですが、明治時代の地形図には「クチヤウンペツ」と描かれていました。これなら意味するところは明瞭ですね。

kucha-un-pet で「山小屋・ある・川」だろうと思われます。kucha と似た語で kas というものがありますが、kas が「仮設の小屋」なのに対して kucha は「常設の小屋」だとのこと。知里さんkuchakucha-kot-chise の省略形ではないかと見ていたようです(「地名アイヌ語小辞典」p.53)。

それにしても、「クチャウンペツ」が「クワキンベツ」になるというのはなかなか豪快な転記ミスですね。某社の地図サイトには「クワキソベツ川」という情報もあり、まさに百花繚乱といったところでしょうか。もうすぐ春ですね……。

八号沢林道 赤石線(はちごうさわ── あかいし──)

suma-hure-{yu-pet}
石・赤い・{湧別川}
(典拠あり、類型あり)
奥白滝と上白滝の間……昔はどちらも JR 石北本線の駅があったのですが……で「八号沢川」が北から湧別川に注いでいます。この八号沢川沿いには未完成のまま放置された「緑資源幹線林道 滝雄たきお厚和こうわ線」の「滝上・白滝区間」が通っています。

この「八号沢川」は中流部で二手に別れていて、西側が「八号沢川」で東側が「流紋沢川」となります。「八号沢林道 赤石線」は流紋沢川沿いを通る路線で、未完の大規模林道である「緑資源幹線林道 滝雄・厚和線」から右手に分岐しています。

流紋沢川沿いを通る林道が何故「赤石線」なのかは謎ですが、明治時代の地形図には現在の「八号沢川」の位置に「シユマフレユーペツ」と描かれていました。これは suma-hure-{yu-pet} で「石・赤い・{湧別川}」と読めそうです。

「シユマフレユーペツ」の上流部が現在の「流紋沢川」だったのか、それとも現在の「八号沢川」だったのかは不明ですが、「流紋沢川」沿いの林道が「赤石線」と呼ばれていることを考えると、「流紋沢川」と、合流後の「八号沢川」が「シユマフレユーペツ」だった可能性もありそうです。

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2022年3月25日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (254) 「毛筆体の『美深菊丘トンネル』」

「名寄美深道路」の「美深北 IC」にやってきました。名寄美深道路の終点で国道 40 号に合流する交叉点ですが、信号機は設置されていません。
現在の美深北 IC は名寄美深道路の本線がそのまま T 字路になっている構造です。左側に雪捨て場(だと思う)が見えますが、将来、北に向かって延伸する場合はこのスペースに立体交叉を設けるつもりなんでしょうね。

2022年3月24日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (253) 「羊乳ソフトクリーム」

国道に幾度となく現れた「美深アイランド」「道の駅びふか」の案内に、さすがにこれはスルーしてはいけないだろう……と考えてしまい……
ついうっかり立ち寄ってしまいました(汗)。いくつか建物があるようですが、売店っぽい雰囲気の「双子座館」に向かいます。

2022年3月23日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (252) 「『見落とした』とは言わせない」

恩根内の南で国道 40 号は JR 宗谷本線をオーバークロスします。この先の天塩川東岸は宗谷本線を通すだけで手一杯なので、国道 40 号は天塩川の西側に移動することになります。
跨線橋を渡ると、すぐ先は天塩川です。手前に交叉点があり……

2022年3月22日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (251) 「創英角ポップ体」

美深町に入りました。このカントリーサインは「チョウザメと天塩川」ですよね。
このあたりの国道 40 号も宗谷本線の東側に建設された道路ですが、1974 年頃の航空写真では既に現在のルートが存在することが確認できます。新道が整備されたのはいつ頃なんでしょう……? 新道はとにかく直線基調で、ちょっとした尾根があってもオープンカットして道をまっすぐ通しているようです。

2022年3月21日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (130) 久保田(秋田市) (1878/7/23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

公式の歓迎

イザベラは、久保田(秋田)の病院が「外国人抜き」で作られた……というところに興味を持ち、病院見学を申し込んだものの「正式な手続きが必要」だとして丁重に断られてしまいます。そこでイザベラは伊藤(通訳)を伴って知事に面会し、病院見学の許可を取り付けたのでした。

病院側も、正式に許可を得たのであればこれ以上断る理屈も無いので、病院全体でイザベラを歓迎することになります。

 院長と六人の職員の医師は、すべてりっぱな絹の服装であった。階段の上で私を出迎え、事務室に案内した。そこでは六人の事務員が書き物をしていた。ここにはうやうやしく白布でおおわれたテーブルと、四つの椅子があり、院長、主任医師、伊藤と私が坐った。煙草と茶菓子が出された。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
どうやら事務室の一角に応接セットがあったような感じですね。最近は別室を設けることが一般的だと思いますが、昭和の頃までは普通にあった「よくある事務室」のレイアウトっぽい感じです。

この後に五十人の医学生を伴って病院の中を回った。彼らは知的な顔つきをしており、将来きっと成功するであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
これはもしかして……ドラマでお馴染みの「院長総回診」というヤツでしょうか(汗)。

病院は二階建ての大きな建築で、半ば西洋式であるが、四囲のベランダは奥行きが深い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254-255 より引用)
イザベラによると病院の建物は「半ば西洋式」とありますが、松本の「開智学校」のような「擬洋風建築」だったんでしょうか。二階が教室で、一階は入院患者を収容するほか、寄宿舎も兼ねていたとのこと。

一部屋で治療される患者の数は十人が限度で、重症患者は別室で治療される。壊疸えそが流行していて、このとき病院を改造している医師長は、このため病室のいくつかを隔離している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
ここまで読んだ限りでは、病院のシステムは西洋風の近代的なもののように思えます。ただ「西洋医学」が人々の信用を得ていたとも言い切れないようで……

同じ病院内に性病院もある。毎年五十件ほどの重要な手術が、クロロホルムを使用して行なわれるが、しかし秋田県の人々は非常に保守的で、手足の切断や西洋の薬品の使用に反対している。この保守的気風が、患者の数を減少させている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
まぁ、こういった反応は秋田に限ったものでは無いのでしょうが、麻酔で患者を眠らせてその間に患部を切開するというのは、やはり悪魔の所業のような印象を与えていたのでしょうね。

悪い看護

ここから先は、「日本奥地紀行」の「普及版」でバッサリとカットされた内容が続きます。「日本人だけで運営する西洋医学の病院」というのは「奥地紀行」として見た場合、やはりオフトピックでしょうし、逆に言えば「初版」にこういった内容が含まれていたのは、イギリス政府などのスポンサー向けの「報告書」としては必要な内容だった、ということでしょう。

 新任の主任医師であるカヨバシ[小林]医師は東京の医科大学から来た新人で、消毒剤の治療を取り入れてすばらしい成功をおさめていた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.91 より引用)
この「カヨバシ医師」ですが、原文では以下のようになっていました。

Dr. Kayobashi, the new Chief Physician, is fresh from the Medical College at Tôkiyô, and has introduced the antiseptic treatment with great success.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに Dr. Kayobashi と記されていて、高梨謙吉さんはこれを「萱橋医師」と訳していました。ただ 1878 年(=イザベラが病院を訪問した年)の「遐邇かじ新聞」(現在の「秋田魁新報」の前身)に「医員小林さん」と記した記事があったとのこと。

イザベラが羽後街道を北上中に二度ほど会話を交わした医師はこの「小林医師」で、東京から秋田に赴任する途中で偶然イザベラ一行と旅程が被ったと見られます。私的な旅行記の詳細が公刊された新聞記事で裏付けられるというのも面白いですね。

イザベラは小林医師からこの病院における医療の詳細を聞き出したようで、いくつか興味深いトピックが並んでいました。

ベッドは使用されていない。彼は、ベッドの良さは認めているのだが、それに対する強い偏見に譲歩することが今は必要だと分かったのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.91 より引用)
ふーむ。言われてみればちょっと前まで、畳の上に布団を敷いて寝るのが至上……という考え方の人も少なくなかったかもしれません。病院にキャスターつきのベッドが並ぶのはもはや当たり前の光景ですが、これも当初は拒否感を示す人が多かったのですね。

また、入院患者の看護についても、今ではちょっと信じられないような構図があったようです。

若干の男女の看護士がいるが、患者はふつう友人・知人を連れてきていて、彼らが世話をするが、その際、医者の指示には従いません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.91 より引用)
病室にリンゴを持ち込んで、その場で皮を剥いて食べさせると言ったことは今でもあるのかもしれませんが、続く文脈で語られていることは想像を絶するレベルのものでした。

調理場は然るべくきちんと整えられていず、料理する人たちが食べていたダイコンと焼き魚の臭いがしていました。囲炉裏イロリは大量の調理には小さすぎるように見えましたが、これは、病棟で付き添いの人が火鉢ヒバチで料理しているという事実によって説明されます。食事は豊富ですが、完全に日本食です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.91 より引用)
どうやら患者の友人・知人が病室に火鉢を持ち込んで、そこで病人用の食事を調理していたとのこと(汗)。「病院では病院食」というのは既に常識の域を超えた「定理」になっているような感がありますが、こんなフリーダムな時代もあったんですね……。

 肉はめったに出されませんが、ブランデー、ポートワイン、ボルドー産赤ワインなど酒類は多くの場合に提供されます。ワインやブランデーはいつも卵といっしょにかき混ぜて[玉子酒で]出される。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.91 より引用)
これは「病院食」の用意もあったということでしょうか。「ブランデー、ポートワイン、ボルドー産赤ワイン」は原文では brandy, port wine, and claret とありますが、「ブランデーの玉子酒」というのは中々画期的な感じが……。また「肉はめったに出されませんが」というのも常に「肉不足」を訴えているイザベラらしいですね。

そしてイザベラは病院の運営主体について次のように指摘していました。

 ここでは、どこでも見られるように、外国流のやり方で設立された病院において、政府が人々の自立を前提としているので、慈善事業による施設と呼ぶようなものはほとんどないということに気がつき興味深く思いました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.91-92 より引用)
西洋では「医療」と「施し」と「宗教」が密接に結びついている印象がありますが、日本においては必ずしもそうではない……ということですよね。「教育」と「宗教」の結びつきは見られるにもかかわらず、「医療」と「宗教」の結びつきが見られない……という点を疑問視している、とも言えそうです。

日本における「公共の福祉」の考え方は今も昔もお粗末なもので、「受益者負担の原則」が綿々と生き続けているような印象もあります。公的支援を期待できない分をコミュニティ全体での支援で補っていたというのが「古き良き日本」の実態かもしれませんが、人口の都市部への集中でコミュニティの存在が希薄となり、ますます「生きづらい」社会になりつつある、とも言えそうですね。

イザベラは当時の医院における「受益者負担」のあり方を、次のように記録していました。

外来患者は、薬代を払い、入院患者は 1 日当たり相当の額を支払います。絶対的にひどく困窮している人々だけが知事の命令を得て無償の治療を受けられます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
なんか今と変わらないか、今のほうがひどくなっている(「生活保護」が機能していないケースが増えている)感もありますが、「国民皆保険制度」があって良かったな、という感想も同時に出てきます。これも本人負担が年々改悪されているのが残念な話ですが……。

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2022年3月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (919) 「ペンケチャロマップ川・ニュウチャロマップ川・カルシュナイ林道・ルベオンネナイ沢」

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ペンケチャロマップ川

penke-(nisey-)char-oma-p?
川上側の・(崖・)入口・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
石狩川の「大雪ダム」は「大雪湖」というダム湖を形成していて、ダムの手前で東に向かう国道 39 号と南に向かう国道 273 号が分岐しています。「ペンケチャロマップ川」は大雪湖の東側に注ぐ川で、国道 39 号の南側を流れています。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 ペンケチャロマップ川 石狩川源流の主要支流で,石北峠・武華山からの流水をあつめ大雪ダムサイト近くの上流域で石狩川に注ぐ。川上の川口にある川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.326 より引用)
ふーむ。ストレートに解釈すると確かにそうなっちゃいますか。penke-char-oma-p で「川上側の・口・そこにある・もの(川)」ということのようですが……。

山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

ペンケチャロマップ川
ルペシナイ川
石北峠 せきほくとうげ
 ニセイチャロマップ川のすぐ上にある石狩川東支流をペンケチャロマップ川という。並流している川なので,たぶん penke-(nisei-)charomap 「上の・(ニセイ・)チャロマップ川」の意で,そのニセイが略されたものであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.104 より引用)
なんかそんな感じがしますよね。penke-(nisey-)char-oma-p で「川上側の・(崖・)入口・そこにある・もの(川)」と考えると良さそうです。

ニュウチャロマップ川

ni-us-(nisey-)char-oma-p??
木・茂る・(崖・)入口・そこにある・もの(川)
(?? = 典拠未確認、類型あり)
「ニュウチャロマップ川」はペンケチャロマップ川の北支流です。残念ながら手元の資料には情報が見当たらないようです。

「ニュウチャロマップ」は ni-us-char-oma-p と考えるのが妥当でしょうか。これなら「木・茂る・入口・そこにある・もの(川)」と解釈できそうです。これもペンケチャロマップ川と同様に nisey- が略されたと考えるならば、ni-us-(nisey-)char-oma-p で「木・茂る・(崖・)入口・そこにある・もの(川)」となりそうですね。

あと、これはほぼ蛇足なのですが、{ni-ur} で「コケ」を意味するそうなので、{ni-ur}-(nisey-)char-oma-p で「{コケ}・(崖・)入口・そこにある・もの(川)」と解釈できる可能性もあるかも……です。実は……(次項に続く)

カルシュナイ林道

karus-nay?
きのこ・川
kari-us-nay??
回す・いつもする・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠未確認、類型あり)
(前項から続く)ニュウチャロマップ川沿いに林道が通っているのですが、何故か林道の名前は「カルシュナイ林道」らしいのですね。「北海道地名誌」に次のような記述がありました。

 カルシュナイ沢 大雪国道にそって流れるペンケチャロマップ川の枝流。アイヌ語できのこ川の意。ユニイシカリ川の支流にも同名の沢あり。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.326 より引用)
karus-nay で「きのこ・川」ではないか……ということですね。

「カルシュナイ林道」が「ニュウチャロマップ川」沿いを通っていることを考慮すると、「ニュウチャロマップ川」=「カルシュナイ沢」となる可能性が高そうに思えます。きのこが多いのであれば樹木が密生しているのが自然ですし、コケの生育にも良い環境である可能性がありそうです。

果たして本当に「きのこ」なのか

ただ……本当に「きのこ」なのかな? という疑問が残ります。たとえば tat-kar-us-nay であれば「樺の樹皮・とる・いつもする・川」なので、tat- が略されたと考えることも不可能ではありません。

あと、「ニュウチャロマップ川」(=カルシュナイ沢)の河口から 0.5 km ほど遡ったところで流路がクルっと回っているところがあるのが気になります。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
この地形を指して kari-us-nay で「回す・いつもする・川」と呼んだのではないか……と考えたくなるんですよね。「伊茶仁カリカリウス遺跡」と似た川名なんじゃないか……という想像です。

ルベオンネナイ沢

ru-pes-onne-nay??
道・それに沿って下る・年長の・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
ペンケチャロマップ川の北側を通る国道 39 号は、今は「武華トンネル」で南隣のルベシナイ川流域に出てから石北峠に向かっていますが、昔はもう少し奥までペンケチャロマップ川沿いを遡って、ルベオンネナイ沢が合流するあたりで南西に向きを変えた後、今よりも短いトンネルでルベシナイ川流域に出ていました。

地形図を良く見てみると、大雪湖からイトムカ(北見市留辺蘂町)に向かう場合、石北峠経由よりもルベオンネナイ沢経由のほうが距離が短いことに気づきます。ただ最高地点の標高が石北峠よりも高く、また急勾配になるからか道路は通っていません。

「ルベオンネナイ沢」ですが、ru-pes-onne-nay で「道・それに沿って下る・年長の・川」ではないかと思われます。なぜ onne なのかは、南の「ルベシナイ川」との対比のためでしょうか。

老いたる川?

「アイヌの峠道」は「急勾配でもいいのでとにかく短距離」という特徴が見られます。この点を考慮すると「ルベシナイ川」を遡って北見市に向かうよりも短距離で済む「ルベオンネナイ沢」経由をより重宝したのではないかと思われます。そのため「老いたる」から転じて「大きな」を意味する onne をつけて呼んだのでは……と考えてみました。

「アイヌの峠道」は直線距離では最短となることが多いので、仮に石北峠に 4 km 級のトンネルを通すとなった場合は、ルベオンネナイ沢経由のルートも一案として考えられそうですね。

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2022年3月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (918) 「タツニナイ林道・ニカルナイ沢・エイコの沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

タツニナイ林道

{tat-ni}-nay
{樺の木}・川
(典拠あり、類型あり)
石狩川には「大函」と呼ばれる難所があり、大函の上流側で「ニセイチャロマップ川」が東から石狩川に合流しています。ニセイチャロマップ川には「ニセイチャロマップ第一川」「ニセイチャロマップ第二川」「ニセイチャロマップ第三川」などの支流があり、「ニセイチャロマップ第二川」沿いに「タツニナイ林道」が存在しています。

これは、もしかしたら「ニセイチャロマップ第二川」はかつて「タツニナイ」と呼ばれていたのではないか……と考えたくなるのですが、「北海道地名誌」に次のような記述がありました。

 タッツニナイの沢 左側にニカルナイ沢が枝分れしている沢。樺木沢の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.325 より引用)
うっ。「左側にニカルナイ沢が枝分れしている沢」は明らかに「ニセイチャロマップ第二川」のことですので、やはりかつては「タツニナイ」と呼ばれていたみたいですね。「タツニナイ」は {tat-ni}-nay で「{樺の木}・沢」と見て良いかと思われます。

ニカルナイ沢

nikar-nay?
はしご・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
かつて「タツニナイ」あるいは「タッツニナイの沢」と呼ばれていたと考えられる「ニセイチャロマップ第二川」に西から合流する支流の名前です。この川についても「北海道地名誌」に次のように記されていました。

 ニカルナイ沢 タッツニナイ沢の左枝流の沢。ニカルは梯子のこと。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.325 より引用)
確かに nikar は「はしご」という意味で、知里さんの「地名アイヌ語小辞典」にもそのように記載されています。羽幌には「ニカリウシナイ川」という川があり、また積丹に「ニカルシ」という地名があったことが永田地名解に記されているほか、浜頓別の「鬼河原川」も「オ子ニカラマプ」だったと考えられます。

これらの川の共通点を探れば「はしご川」がどのようなものだったか明らかになりそうですが、ちょっとなんとも言えないなぁ……というのが正直なところです。全てのケースで本当に梯子はしごが架けてあったというのも無理がありそうな気がするのですが、沢を登るにあたって梯子のような役割を果たす何かがあった……と言ったところでしょうか。

例によって完全な想像ですが、ところどころで流木が引っかかっていて、その流木を踏み台にすると沢を登りやすいとか、あるいは梯子ではなく岩が階段代わりに使えそうな配置になっているとか、そういった特性があったんじゃないかなぁと。

これまでは nikar ではなく ni-kur で「木陰」ではないかとか考えたこともありましたが、これだけ「ニカル」の例があるとなると素直に解釈すべきに思えてきました。nikar-nay で「はしご・川」と見て良いのかな、と思います。

エイコの沢

emko???
水源
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
石狩川の最上流部に「ヤンベタップ川」という西支流があるのですが、ヤンベタップ川の北支流として「エイコの沢」というちょっと変わった名前の川が流れています。

この川も「地理院地図」での河川名と「国土数値情報」の河川名に異同があるようで、国土数値情報では「ヤンベタップ一沢川(エイエノ沢川)」となっているようです。ただ近くを通る林道の名前は「エイコの沢林道」のようなので、「エイコの沢」という名前で認識されているのでは……と想像しています。

ここに来て俄然「頼れる兄貴」感を出してきた「北海道地名誌」では、次のように言及されていました。

 エイコの沢 ヤンベタップ川の枝流の沢。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.326 より引用)
兄貴イィィィ……! 「頼れる兄貴」に逃げられてしまいましたが、これは「ちょっとは自分で考えてみろ」ということなんでしょうか。

とりあえず「エイエノ沢川」ではなく「エイコの沢」のほうが元の形に近そうだ……として、真っ先に考えたのが「エイコ」が emko ではないかという可能性です。emko には「半分」という意味があるほか、「水源」や「川の奥のほう」という意味もあるので、「水源の沢」と呼んだ……としてもそれほど変ではないかと思います。

このあたりの石狩川の支流(支流の支流も含む)はいずれも「水源」と呼ぶに相応しいので、何故その中から「エイコの沢」が「水源の沢」と呼ばれるようになったのか……という点も気になるところですが、他の支流と比べて特色が無かった……という身も蓋もない考え方が可能かもしれません。

ついでに珍説をひとつ

また、これは更に荒唐無稽な仮説ですが、ヤンベタップ川の北東、大雪ダムのダム湖である「大雪湖」に注ぐ「由仁石狩川」という川があります。この川は陸軍図では「ユーニイシカリ川」と描かれているのですが、「ニ」の字がどことなく「コ」に見えてしまいます。また「ユ」は元々「エ」と似ているので、「ユーニ」を「エーコ」と見間違えた上で別の川の名前に転用してしまったのではないか……と考えてみました。

さすがに蓋然性が乏し過ぎるとは思いますが、ちょっと気になったので、備忘として記しておこうと思います。

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2022年3月18日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (250) 「由緒正しい『弁慶橋』」

音威子府村咲来さっくるで国道 40 号に入りました。コカ・コーラのロゴと「ドライブイン」の文字が見える建物はもしかしたら閉業済みかもしれませんが、手前に見える黄色い建物(Google マップによると「お食事処咲来」とのこと)は絶賛営業中のようです。
そして少し南側には「うたのぼり健康回復村」の看板が。枝幸の海沿いでも見かけた記憶がありますが、歌登に向かう交叉点の手前にでっかい看板を出しているんですね。「うたのぼり」の文字が山のマークに溶け込んでちょっと見づらいですが、「健康回復村」の文字がめちゃくちゃ目立っているので問題なしですね。

2022年3月17日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (249) 「『道民雑誌クォリティ』×『キリ看』」

道道 220 号「歌登咲来停車場線」の「咲来さっくる峠」にやってきました。ここから先は音威子府村です。ところでこのカントリーサインは一体……? 音威子府村には「北海道命名之地」のオブジェがありましたが、それとは違いますよね……?
咲来峠は歌登・枝幸と旭川・札幌を最短最速で結ぶ重要ルートということもあり、かなり改良が加えられていて急カーブは殆どありません。(昨日の記事でも記した通り)標高はそれほどでも無いですが、そこそこ雪が残っているのは特筆すべき点でしょうか。

2022年3月16日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (248) 「黒電話?」

道道 764 号「本幌別上毛登別線」と道道 220 号「歌登咲来停車場線」の交点で右折して、道道 220 号を南に向かいます。先程「第 2 本幌別橋」を渡ったばかりですが、今度は「本幌別橋」を渡ります。あっ!
橋名表示板が傾いていない……! そう言えば「第 2 本幌別橋」もきちんと直立していました(反対方向はちょいと傾いていましたが)。

何を今更……という話ですが、歌登から美深に向かう場合は少なくとも二通りのルートがあります。道道 120 号「美深中頓別線」で仁宇布にうぷ(中川郡美深町)を経由して美深に向かうルート(国鉄美幸線ルート)がメインルートかと思ったのですが……


どうやら道道 220 号「歌登咲来停車場線」で咲来さっくる(中川郡音威子府村)に出て、そこから国道 40 号を南下するルートが最短最速とのこと。道理で道道 120 号が空いているわけです(もっとも道道 220 号も混んでいるわけではないので、絶対数が少ないということなんでしょうけど)。

2022年3月15日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (247) 「『保留運別橋』と『歩留運別神社』」

枝幸町歌登本幌別のポウルンベツ川沿いにある、とある集落にやってきました。道路の右側に看板が立っていたのですが、左カーブの右側にあるので、北からやってきた車にとっては見えづらいですね……。


「魚にやさしい」という文字の下には魚道と乳牛(ですよね?)のイラストが。この集落は少しだけ高台にあって川からもやや離れています。右下には「ありがとう 釣り場に感謝 あと始末」「車 ゴミのマナーを正しく守って下さい」と書いてあるのでしょうか。何がどう「魚にやさしい」のか、今ひとつ謎の残る看板です。

「保留運別橋」と「歩留運別神社」

道道 764 号「本幌別上毛登別線」は「謎の看板」のあたりで東に向きを変えます。直進するとポウルンベツ川沿いを通って道道 220 号「歌登咲来停車場線」に合流することになりますが、道道としては右折して南に向かうルートが認定されています。

ここは右折して南に向かうことにしましょう。右折するとほどなくポウルンベツ川を渡ることになりますが……
橋の名前が「保留運別橋」でした。川名は「ポウルンベツ川」ですが、この橋の名前を無理やり読むと「ポルウンベツ橋」になりそうな気もします。英語表記では Poryunbetsu Bridge となっていますが、カタカナに直すと「ポリュンベツ橋」となりますね。

2022年3月14日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (246) 「ゲートの向こうの青い空」

小頓別(枝幸郡中頓別町)から道道 12 号「枝幸音威子府線」を東に向かい、枝幸町(旧・歌登町)に入ります。
小頓別と歌登毛登別の間の峠はほぼ直線にオープンカットされていますが、簡易軌道にとっては決して楽な峠では無かったようで、このルートを通るようになったのは「毛登別トンネル」の掘削後だったとのこと。御殿場線と丹那トンネルのような関係だったのですね。

2022年3月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (917) 「シュマフレベツ川・ウエンシリ沢・シラレナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シュマフレベツ川

suma-hure-pet?
石・赤・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
層雲峡温泉街の東側で石狩川に合流する「赤石川」という南支流があるのですが、赤石川の西支流として「シュマフレベツ川」が存在しています。「東西蝦夷山川地理取調図」や丁巳日誌「再篙石狩日誌」にはそれらしき川の記録が見当たりません。

「シュマフレベツ」は suma-hure-pet で「石・赤・川」だと考えられます。hure-suma で「赤・石」というパターンを良く見かけますが、ここでは suma-hure という順番のようですね。

「シュマフレベツ川」が合流する「赤石川」は suma-hure-pet を和訳した川名である可能性が高そうに思えます。何故こんな妙なことになったのか……と思って古い地形図を眺めてみた所、明治時代の地形図には現在の「赤石川」に相当する位置に「シユマフーレペッ」という川が描かれていました(但し現在の「雄滝の沢」上流部や「烏帽子の沢」が「シユマフーレペッ」に合流するように描くというミスも見受けられます)。

どうやら suma-hure-pet が「赤石川」と和訳されたものの、ロープウェイの近くを流れる支流に名前が無かったことから、明治時代の地形図に描かれていた「シュマフーレペツ」という川名が何故か復活してしまった……と言ったところでしょうか。

本流の名前が支流の名前に転用されて生き続けるというのは偶に見かけますが、本流が和訳されたあとで支流の名前に転用されるというのは……どこかで見たような気もしますが、思い出せず……(「砂川」と「歌志内」の関係と似てますが)。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ウエンシリ沢

{wen-sir}???
{水際の断崖絶壁}
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
石狩川の難所として知られる「大函」のあたりで東から合流している「ニセイチャロマップ川」という川がありますが、「ウエンシリ沢」は「ニセイチャロマップ川」の河口から 1.8 km ほど遡ったあたりで合流する北支流です。

この「ウエンシリ沢」については、「北海道地名誌」に次のような記載がありました。

 九滝の沢(くたきのさわ) 屏風岳頂近くに発したシラレナイ沢・ポンシラレナイ沢・ウエンシリ沢の 3 枝流を集める沢。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.325 より引用)
あれっ? 地理院地図を見るとたしかに「ウエンシリ沢」「ポンシラレナイ沢」「シラレナイ沢」が西から東に並んでいますが、いずれも直接「ニセイチャロマップ川」に注いでいます。これらの「3 枝流を集める沢」が存在する余地は無いのですね。

そして「屏風岳」はこれらの「3 枝流」から随分と北にあり、「ウエンシリ沢」「ポンシラレナイ沢」「シラレナイ沢」は「屏風岳頂近くに発した」とはとても言えない位置にあります。

となると考えられるのは、現在「ニセイチャロマップ第一川」と呼ばれる川の支流が「九滝の沢」であり、「ウエンシリ沢」「ポンシラレナイ沢」「シラレナイ沢」は「ニセイチャロマップ第一川」の支流(九滝の沢)の更に支流であるか、「ニセイチャロマップ第一川」の上流部が「ウエンシリ沢」と「シラレナイ沢」に分かれているか……と言ったところで、いずれにせよ現在の地理院地図に描かれている場所は間違っている可能性が高そうだ、ということになります。

「ウエンシリ」自体は wen-sir で「悪い・山」と考えるしか無いかと思われますが、知里さんの「──小辞典」には次のように記されていました。

wey-sir, -i うぇィシㇽ 水際の断崖絶壁。[<wen-sir]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.143 より引用)
音韻変化により wen-wey- に化けていますが、もともとは同じものと考えて良いでしょう。「悪い・山」よりは随分と具体的な表現に思えるので、今回はこの表現をお借りすることにしました。

「ウエンシリ沢」はおそらくアイヌ語由来だと思われますが、古い地図などに痕跡を見つけることはできませんでした。そのため現時点では「要精査」とさせてください。

シラレナイ沢

sirar-nay???
岩・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
地理院地図によると「ウエンシリ沢」から 1.8 km ほど東で「ニセイチャロマップ川」に合流する北支流……であるように描かれていますが、「ウエンシリ沢」の項で記した通り本来の位置は別だった可能性があります(現在「ニセイチャロマップ第一川」と呼ばれる川の支流だったと考えられます)。

意味は完全に想像するしか無いのですが(すいません)、「岩」を意味する sirar という語があるので、sirar-nay であれば「岩・川」でしょうか。あるいは sirar-etu で「岩・岬」となるので sirar-etu-nay で「岩・岬・川」だったのが、-etu が略された……と言ったところかもしれません。

sirar-etu-nay であれば「知られとぅない」のかもしれませんね……(何を言っている)。「ヤリキレナイ川」和名創作説があるくらいなので、「知られない沢」があっても不思議では無いですし……。本当にアイヌ語に由来するのか、段々怪しく思えてきました(汗)。

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2022年3月12日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (916) 「ニセイテシオマップ川・リクマンベツ川・ニセイノシキオマップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ニセイテシオマップ川

nisey-kes-oma-p
断崖・末端・そこに入る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
「ニセイテシオマップ川」は上川町字清川のあたりで石狩川に注ぐ東支流です。nisey は「断崖」で tes は「やな」を意味するので、nisey-tes-oma-p で「断崖・梁・そこに入る・もの(川)」かな、と考えたくなりますが……。

ただ、明治時代の地形図には「ニセイケシュオマナイ」という名前の川が描かれていました。また、永田地名解にも次のように記されていました。

Nisei kesh oma nai  ニセイ ケㇱュ オマ ナイ  絶壁ノ下ニアル川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.47 より引用)
知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも、次のように記されていました。

 ニセイケシオマナイ(Nisei-kesh-oma-nai 断崖・のしもを・入つて行く・沢)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.322 より引用)※ 原文ママ
どうやら「ニセイテシオマップ川」の「テ」は「ケ」の誤記である可能性が高そうでしょうか。あとは「ナイ」がいつ「ップ」に変わったかという点ですが、「上川郡アイヌ語地名解」を含む「旭川市史」は 1960 年 3 月の刊行とされています。となると「ナイ」が「ップ」に変化したのはその後かと考えたくなりますが……。

ただ、大正時代に測図された「陸軍図」には既に「ニセイケシュオマップ川」と描かれていました。当時から「ナイ」で呼ぶ流儀と「ップ」で呼ぶ流儀が併存していた可能性もありそうな感じですね。そして知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」は、このあたりでは永田地名解の解釈に註を加えただけのものである可能性もありそうです。

「旭川市史」が刊行されたのが 1960 年 3 月で、知里さんは 1961 年 6 月に亡くなっているので、仔細に検討する余力が無かった、ということかもしれません。

とりあえず、「ニセイテシオマップ川」は「ニセイケシオマップ川」の転記ミスの疑いが濃厚で、意味するところは nisey-kes-oma-p で「断崖・末端・そこに入る・もの(川)」と考えて良さそうです。

リクマンベツ川

rik-oman-pet?
高い所・行く・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
層雲峡のあたりの国道 39 号は、概ね石狩川の東岸を通っていますが、川沿いの崖を避けるために 3 ヶ所ほど(石狩川の)西岸・南岸を通っている場所があります。「万景壁」のあたりでも「万景壁橋」で西岸に渡り、「胡蝶岩橋」で東岸に戻っていますが、「リクマンベツ川」は「胡蝶岩橋」のあたりで石狩川に注いでいます(西支流)。

「胡蝶岩橋」のほぼ真南の山上に「陸満別」という三等三角点もあります(標高 707.6 m)。「胡蝶岩橋」のあたりは標高 500 m ほどなので、高さ 200 m ほどの断崖が聳えていることになりますね。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川は見当たりません。また丁巳日誌「再篙石狩日誌」でも同様です。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

アイヌ語高いところに行く(人間がこの川を伝って)川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.327 より引用)※ 原文ママ
rik-oman-pet で「高い所・行く・川」ではないかとのこと。実際の地形とも合致する、妥当な解釈に思えます。

ロクマンベツ?

ただ一つ気になるのが、三等三角点「陸満別」の読みが「ロクマンベツ」と記録されているという点です。rok は「座る」という意味で、kamuy-e-rok-i で「神・そこに・座っている・ところ」という使われ方をします。

前述の通り、「リクマンベツ川」の河口付近からは高さ 200 m ほどの断崖が見えます。この断崖の上に神様が座っている(=人が軽はずみに近づくべきではない)と考えたとしても不思議はありません。ただ rok-oma-pet と考えるのは文法的におかしいので、ちょっと厳しいというのが正直なところでしょうか。

仮に元の形が kamuy-e-rok-i-oma-pet で、略しに略されて rok-oma-pet になった……とするのであれば、一応考え方としては成り立つような気もするんですけどね。

ニセイノシキオマップ川

nisey-noski-oma-p?
断崖・真ん中・そこに入る・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「ニセイノシキオマップ川」は国道 39 号の「胡蝶岩橋」から南東に 2 km ほど遡ったあたりで石狩川に合流する東支流です。このあたりの石狩川は左右に断崖が聳えていますが、「ニセイノシキオマップ川」は東側の断崖のど真ん中を切断するかのように流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」や丁巳日誌「再篙石狩日誌」には「ニセノシケ」という名前の川が記録されています。ところが永田地名解には次のように記されていました。

Nisei kashike omap  ニセイ カシケ オマㇷ゚  絶壁ノ上ナル處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.47 より引用)
これはどうしたものか……と思って知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」を確かめたところ……

 ニセイカシケオマプ(Nisei-kashike-oma-p 断崖・の上・にある・者) 断崖の上にある川の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.322 より引用)
ああ……。ここでもやはり永田地名解の解釈に註を加えただけになってしまっています。

永田地名解に対する知里さんのツンデレぶりは、後に山田秀三さんによって明らかにされていますが(「アイヌ語地名を歩く」草風館 p.55)、こうやって見てみると、やはり「いくつか致命的な問題がある」ものの重宝していたということが良くわかりますね。

永田方正の誤解?

ここまでの流れを見る限り、松浦武四郎が「ニセノシケ」と記録した川を、永田方正は「ニセイカシケオマㇷ゚」と記録し、ところが現在では「ニセイノシキオマップ川」に復旧?していると考えられそうです。明治時代の地形図では「ニセイノシキオマプ」と描かれているものと「ニセイカシケオマプ」と描かれているものの存在を確認できました。

どうやら永田方正が「ノシキ」を「カシケ」と誤解したと考えるしか無さそうな感じなのですが、何故このような誤解が生じたのかは謎……ですね。近くに「ニセイカウシュッペ山」があるので、つい手が滑ったのでしょうか。

「ニセイノシキオマプ」であれば nisey-noski-oma-p で「断崖・真ん中・そこに入る・もの(川)」と解釈できます。「ニセイノシキオマップ川」を遡ると確かに断崖の上に出ることになりますが、川自体は断崖のど真ん中を割って流れているので、kasi-ke(その上の所)ではなく noski(真ん中)と考えたほうがより素直な解釈に思えます。

いくつかの辞書を確認しましたが、noskinoske と同義であると見て良さそうです。

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2022年3月11日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (245) 「謎の『千曲橋』」

道道 647 号「兵安上頓別停車場線」の終点にやってきました。左折して国道 275 号に入ります。
国道に入ったばかりですが、いきなり「急カーブ スピード落とせ」の看板が見えてきました。実際にはここまで深いカーブでは無いのですが……。

2022年3月10日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (244) 「集乳車輌専用道路」

道道 120 号「美深中頓別線」を南に向かいます。2 日前にも通った道を、今度は逆方向に進むことになります。
「矢羽根」の支柱にヘキサがついています。なんとも合理的な構造ですね。

2022年3月9日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (243) 「中頓別除雪ステーション」

国道 275 号で中頓別の市街地に向かいます。
道路脇には「ようこそ 宗谷へ」と描かれた看板が立っていました(解像度がアレで申し訳ありません)。今は東に向かっていますが、長い目で見れば北に向かっていることになるので「ようこそ 宗谷へ」と題された看板があってもおかしくない……ということですね。

2022年3月8日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (242) 「道道 785 号終点」

「緑風橋」を渡って坂を下ると、またしても深い右カーブに差し掛かりました。地形図で見た感じでは、これまででもっとも急な R50 程度のカーブに見えます。カーブの深さもトップクラスで、180 度以上(200 度くらい?)右カーブが続いているようです。
深い右カーブを抜けた先に「紫雲橋」があります。かつて宇高連絡船に「紫雲丸」という船があったのですが事故で沈没してしまい、「『紫雲丸』という名前は縁起が悪い」と言われたものですが、橋の名前としては普通に使われているんですね。

2022年3月7日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (241) 「上部が『く』の字状の防風柵」

道道 785 号「豊富中頓別線」の「知駒峠スノーシェルター」を抜けて南に向かいます。「除雪車転回場につき 駐車御遠慮下さい」という看板が見えていますね。
程なく左カーブに差し掛かります。ガードロープの向こうは殆ど真っ白で何も見えない状態ですが、天気が良ければかなり眺めの良さそうな場所です。

2022年3月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (915) 「奔然別・双雲内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

奔然別(ほんちかりべつ)

pon-{chi-kere}-pet??
支流である・{削れている}・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
アイヌ語の -pet は「川」を意味する……ということをご存じの方も多いかと思います。ところがなんと、上川町には「奔然別」という「山」が存在するとのこと。茅刈別川とトイマルクシュベツ川の間に聳える標高 1005.4 m の山の名前です。

「ぽんねんべつ」という読み方

地理院地図が「ベクトルタイル提供実験」で提供する地名情報によると、この「奔然別」は「ぽんねんべつ」と読むとのこと。「然別」は「しかりべつ」なのに、なんともややこしい話ですね。

更にややこしいことに、「奔然別」の頂上付近には三等三角点があるのですが、この三角点の名前は「ほんちかりべつ」だされています(三角点を設置した際の記録にそう記されています)。記録によると三角点の所在地は「北海道石狩國上川郡愛別村大字チクルベツ」とのことで、三角点には「チカリベツ沢」を経由して到達する……とあります(但し添付の手書き地図には、川の横に「チクルベツ」との表記あり)。

さて「茅刈別」とは

「チクルベツ」あるいは「チカリベツ沢」とある川は、現在の「茅刈別川」のことです。「茅刈別川」をどう解釈するかについては、「北海道地名誌」に次のように記されていました。

 茅刈別川 (ちかりべつがわ) 中越でトイマルクシュベツ川と並んで留辺志部川に合する小川で,ニセイカウシュペ山からの水を運ぶ。アイヌ語でわれわれのまわる川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.325 より引用)
「われわれのまわる川」、戸別訪問っぽい雰囲気が漂いますね(汗)。別解として、知里さんの「──小辞典」には次のような記載がありました。

~-kar-pet 〔チかㇽぺッ〕[われわれ人間の・作った・川] 堀川(地名解 422) 。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.17 より引用)
「地名解 422」とあるので、永田地名解の p.422 を見てみたところ……

Chikara pet  チカラ ペッ  堀川 直譯我レラノ作リタル川アイヌ等川口ヲ掘リテ水ヲ通シタルコトアリ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.422 より引用)
「われわれのまわる川」と「われわれの作った川」、全然違うようでいて実は kar の多義性?によって解釈が揺らいでいるだけのようにも見えます(後者は稚内市内の川の名前なので「茅刈別川」のことでは無いのですが)。

「削れている・川」説

茅刈別川を地形図で眺めてみても「われわれのまわる川」や「われわれの回した川」と言った雰囲気は感じられませんし、これだけの山の中に人造の川があるというのはナンセンスです。何かを見落としているような気がしていたのですが、そう言えば室蘭に「地球岬」というビュースポットがありましたよね。

「地球岬」は {chi-ke}-p で「{削れた}・もの」と解釈できそうですが、「茅刈別川」も似たような感じで {chi-kere}-pet で「{削れている}・川」と解釈できるのではないかと……。そして「奔然別」の南を流れている川は「茅刈別川」の本流ですが、もしかしたら昔は支流として認識されていたのではないか……。

現在の「茅刈別川」が pon-{chi-kere}-pet で「支流である・{削れている}・川」だったとすれば、その北側に聳える山の名前に *転用* されたとしても不自然ではないかなぁ、と思ったりします。

「ぽんねんべつ」という呼び方については……。「奔然別」を「ほんちかりべつ」と読めなかった人が新たな読み方を編み出した……ということじゃないかな、と。

双雲内(そううんない)

so-un-nay??
滝・ある・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
アイヌ語の -nay は「川」を意味する……ということをご存じの方も多いかと思います(既視感)。ところがなんと、上川町には「双雲内」という「山」が存在するとのこと。

この「双雲内」は山名と三角点名で読みが異なると言った面白い話は(幸いなことに)無いのですが、山の南側を流れる川の名前が「双雲別川」だったりします。今度は「別・内」論争に巻き込もうという腹でしょうか……。

この「双雲別(川)」ですが、丁巳日誌「再篙石狩日誌」や「東西蝦夷山川地理取調図」には見当たらず、永田地名解にも記載を見つけることができません。面白いことに「上川郡アイヌ語地名解」にも記載が無いのですが、明治時代の地形図には「ソーウンペツ」の文字が確認できます。

気になる「層雲峡」との関係

山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

ソーウンペッ
 石狩川を遡り,そろそろ層雲峡に入ろうとする辺の東支流の名。双雲別川とも書かれ,もう少し本流を上った処の温泉も双雲別温泉と呼ばれていた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.103 より引用)
むむむっ。「層雲峡温泉」は双雲別川の河口から石狩川を 9 km ほど遡ったところにあるのですが……

層雲峡 そううんきょう
 石狩川上流の大峡谷の名。大正10年この地に来た大町桂月がつけた名だという。双雲別温泉などの名をもとに美しい字を当てたのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.103 より引用)
ということらしいので、「層雲峡」は「移転地名」だった可能性がありそうですね。「双雲別」は so-un-pet で「滝・ある・川」と思われますが……

ソー・ウン・ペッ (so-un-pet 滝・ある・川)としか読めないが,いわゆる瀑布はないらしい。急流で岩にせかれて白波を揚げて流下する程度の処はあると聞いている。アイヌ語のソ(so)は滝と訳すが,この程度の処もこの名でいっていたらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.103 より引用)
地形図で現在の「双雲別川」を見てみると、砂防ダムと思しき記号がいくつも存在するように見えます。中には大きな岩に水がぶつかって飛沫を上げるような場所もあったのかもしれません。

「双雲別」と「双雲内」

そして何故か山の名前が「双雲内」である件ですが、双雲内の南東に「双雲別川」の支流と思しき谷があるので、この谷のことを so-un-nay と呼んだ可能性もある……かもしれません(根拠はゼロですが)。

ただ、もともと so-un-nay だった川がいつの間にか so-un-pet と呼ばれるようになった……という可能性のほうが高いかもしれません(naypet に化ける、あるいはその逆のケースはちょくちょく見られます)。

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2022年3月5日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (914) 「ウエンナイ川・岩内川・ニタイオマップ川・オタツニタイオマップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ウエンナイ川

wen-nay
悪い・川
(典拠あり、類型多数)
上川町北東部を流れる「留辺志部川」の北支流で、2001 年に廃止された JR 石北本線・天幕駅の東側を北から南に流れていました。

すぐ東隣を流れる「岩内川」よりは流長・流域ともに小規模ですが、南側の「ノロマナイ沢」などと比べると段違いに大きな川です。ただ、その割に丁巳日誌「再篙石狩日誌」に記録は無く、また「東西蝦夷山川地理取調図」にもそれらしき川が描かれていません。このあたりは聞き書きだったため、情報の質・量ともに多くを期待できないのかもしれません。

明治時代の地形図には「ウエンナイ」と描かれていました。wen-nay で「悪い・川」のようですが、wen の前に何かが省略されていたのではないか……という期待も打ち砕かれた感がありますね。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」も、次のようにありました。

 ウェンナイ(Wén-nai 「悪い・沢」) 左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.333 より引用)
とりあえず「悪い川」なのは確かっぽいですが、山田秀三さん風に言えば「何が悪かったのかはわからなくなっている」と言ったところでしょうか。落石が多くて危ない……あたりの可能性が想像できますが、正確なところは不明です。

なお、「ウエンナイ川」を遡った先に標高 1187.2 m の「宇江内山」がありますが、これで「うえんない──」と読ませるとのこと。ちょいと力技でしょうか。

岩内川(いわない──)

iwaw-nay?
硫黄・川
iwa-nay?
岩山・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「ウエンナイ川」と同じく留辺志部川の北支流で、ウエンナイ川の東隣を流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」には「イワナイ」という名前の川が描かれていました。明治時代の地形図にも「イワナイ」と描かれているので、ずっと「イワナイ」という名前だったと見て良さそうな感じでしょうか。

丁巳日誌「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

 扨ルベシヘナイの事をヒヤトキに聞とも、委細はしらざりしが、後シリアイノ、エナヲアニ等に聞に、フトを入て少し行左りの方にイワナイ、此処温泉有。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.314 より引用)
「温泉あり」という情報からは、「イワナイ」は iwaw-nay で「硫黄・川」だったのかなと思わせます。ただ知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には違う解が記されていました。

 イワナイ(Iwa-nai 「山・川」) 左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.333 より引用)
うーむ、これは困りましたね。改めて知里さんの「──小辞典」で iwa の意味を確かめてみると……

iwa イわ 岩山;山。──この語は今はただ山の意に用いるが,もとは祖先の祭場のある神聖な山をさしたらしい。語原は kamuy-iwak-i (神・住む・所)の省略形か。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.38 より引用)
ちょっと攻めた解釈が知里さんらしいですね。単なる「山」だとすれば、この辺は山だらけなので何故……となるのですが、「熊の棲む山」というニュアンスだと考えれば、iwa-nay で「岩山・川」という考え方もなんとなく納得できてしまいそうな気もします。

「再篙石狩日誌」の「温泉あり」も見逃せない情報ではあるのですが、地形図を見た限りでは温泉らしきものが見当たらないというのも確かです。どっちも決め手を欠いているのかなぁ……というのが率直な印象です。

ニタイオマップ川

nisey-oma-p
断崖・そこに入る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
上川町北東部、かつて石北本線の中越なかこし駅のあったあたりから 1.5 km ほど東で留辺志部川に合流している北支流の名前です。

丁巳日誌「再篙石狩日誌」と「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヤラカルシベ」という川の記録があり、位置関係を考慮するとこれが現在の「ニタイオマップ川」に相当しそうにも思えます。

明治時代の地形図には、「ニタイオマップ」ではなく「ニセイオマプ」という名前の川が描かれていました。nitay-oma-p であれば「林・そこに入る・もの(川)」と読めますが、nisey-oma-p であれば「断崖・そこに入る・もの(川)」と読めそうです。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ニセイオマプ(Nisei-oma-p 「断崖・に行く・者」) 左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.333 より引用)
少なくとも明治から昭和の前半あたりまでは「ニセイオマプ」だったようですね。「セ」を「タ」に誤ったのは、東隣に「オタツニタイオマップ川」があったことも影響しているかもしれません。……いや、これ、明らかに影響してますよね。

オタツニタイオマップ川

o-{tat-ni}-tay-oma-p
河口・{樺の木}・林・そこに入る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
ということで東隣のオタツニタイオマップ川です(手を抜いたな)。石北本線の旧・中越なかこし駅と旧・上越かみこし駅の中間あたりで留辺志部川に合流する北支流です。

丁巳日誌「再篙石狩日誌」には「タツカルウシナイ」という記載があり、「東西蝦夷山川地理取調図」では「タツカルシナイ」という名前の川が描かれています。明治時代の地形図には「オタツニタイオマプ」と「オタツニタヨロマプ」の二通りが確認できます。やたらとバリエーション豊富に見えますが、どれも「タツ」が含まれているところがポイントでしょうか。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 オタツニタイオマプ(O-tatni-tai-oma-p 「川尻の・樺・林・に入って行く・者」)左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.333 より引用)
o-{tat-ni}-tay-oma-p で「河口・{樺の木}・林・そこに入る・もの(川)」と解釈できそうですね。tat は「樺の木の皮」を意味するので、「樺の木」であれば tat-ni で「樺の木の皮・木」とすべきである……ということだったかと記憶しています。主体が樹木そのものではなく樹皮にある、というのが面白いですよね。

「タツカルウシナイ」であれば tat-kar-us-nay で「樺の木の皮・とる・いつもする・川」と読めます。「オタツニタヨロマプ」であれば o-{tat-ni}-tay-oro-oma-p で「河口・{樺の木}・林・その中・そこに入る・もの(川)」でしょうか。tay-oro-oma-p であれば「多寄」の語源と同じと言えそうですね。

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2022年3月4日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (240) 「知駒峠」

道道 785 号「豊富中頓別線」で知駒しりこま峠に向かう途中、ガスが濃いなぁ……と思いながら車を走らせていると……
あ。上り坂の途中ですが中頓別町に入ったようです。地形図をよーく見ると確かに町境が分水嶺なのですが、道道は掬水きくすい川の流域から北隣の知駒内川まで尾根伝い(!)に向かうようで、最も標高の高い地点はもう少し先のようです(知駒岳の南南東あたり)。

2022年3月3日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (239) 「謎の柵」

道道 785 号「豊富中頓別線」で幌延と中頓別の間に聳える「知駒しりこま峠」に向かいます。スペックの充実ぶりが光る道道 785 号ですが、峠に向かう道もその例外ではありません。
「問寒別川」を渡る「東延橋」のあたりは標高 26 m ほどですが、知駒峠の最高地点は標高 467 m ほど……でしょうか。峠道は 440 m ほどの標高差をクリアするために、ところどころカーブを交えながら坂を駆け上がります。チラッと見た限りではカーブは 50R~60R 程度に抑えられているので、概ね走りやすい道路と言えそうです。

2022年3月2日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (238) 「会話する二台」

前方(ちょい先ですが)に青看板が見えてきました。道道 583 号「上問寒問寒別停車場線」と道道 785 号「豊富中頓別線」の分岐点まであと少しのようです。
この交叉点も、番号の大きい道道 785 号が優先道路になっています。直進すると道道 785 号で中頓別に行けるようです。

2022年3月1日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (237) 「北緯 45 度通過点」

道道 645 号「上問寒幌延停車場線」の起点を通過して道道 583 号「上問寒問寒別停車場線」に入りました。早速「問寒別川」を渡るようです。
この橋の名前は「思案橋」とのこと。確か朱鞠内湖の近くにもあったよな……と思ったのですが、全国的には長崎の「思案橋」が有名でしょうか。この「思案橋」も往来に際して思案したというベタな由来なのかも……?