2022年2月27日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (913) 「マクンベツ川・留辺志部川・ノロマナイ沢」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

マクンベツ川

mak-un-pet?
奥・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
上川町の中央部では、石狩川の北側を国道 39 号が東西に通っていて、石狩川の南側を道道 849 号「日東東雲線」が通っています。「マクンベツ川」は道道 849 号の近くを流れているのですが、明治時代の地形図と照らし合わせてみると、どうやら当時の「ペンケフヨマナイ」が、現在の「マクンベツ川」に相当するようにも見えます。

別の地図では「ペンケフヨマナイ」のところに「レーサックナイ」と描かれていました。re-sak-nay は「名前・無い・川」なので、「ペンケフヨマナイ」という川名は割と早いタイミングで忘れ去られていた可能性もありそうですね。

現在の「マクンベツ川」は上川層雲峡 IC の南側で石狩川から取水した水路と合流して、山麓の総水路を経由して「安足間発電所」に向かっているように見えます。

ここまでの流れからは、「ペンケフヨマナイ」と「レーサックナイ」、そして「マクンベツ川」は同一の川であるかのように想像されますが、本来は「ペンケフヨマナイ」と「マクンベツ」は別の川を指していたと思われます。

mak-un-pet は「奥・そこにある・川」と読めるでしょうか。帯広の東に「幕別町」があり、また稚内にも「幕別川」がありました。これらの「マクンベツ」について、山田秀三さんは次のような洞察を行っていました。

道内各地にマクンペッがあったが,その多くは本流から分かれた小分流で,少し行ってまた本流と合している川筋の名である。それを「山側に入っている川」という意でマクンペッと呼んでいた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)
山田さんが言うには「中洲ができるような分流のことを『マクンペッ』と呼ぶ」ということなのですが、改めて明治時代の地形図を眺めてみると、うわ、確かに現在の上川層雲峡 IC のあたりで石狩川の流れが二手に分かれていますね。石狩川は旭川紋別道の「大雪大橋」の南東で二手に分かれていて、留辺志部川は北側の流れに合流していました。

大正時代の「陸軍図」では、石狩川の「南分流」は完全に姿を消していて、代わりに「眞勲別」という地名が描かれていました。ややこしいことに、現在の「菊水橋」の東で「北分流」が更に南北に分かれていて、北側の流れが大きく描かれています(北側の流路には「渡し船」と思しき描写がある一方で、南側の流路には架橋済み)。この「かつての北分流」の「南分流」も「マクンペッ」と認識されていた可能性があるかもしれません。

明治と大正の地形図を見ても、「ペンケフヨマナイ」と「マクンペッ」が合流していたようには見えないのですが、石狩川の南分流だった「マクンペッ」が消滅後、何故か「ペンケフヨマナイ」という名前を失っていた「名無し川」(レーサックナイ)が二代目?「マクンベツ川」を襲名した……ということになりそうです。

留辺志部川(るべしべ──)

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(典拠あり、類型多数)
石狩川の北支流で、JR 石北本線と旭川紋別自動車道に沿って流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」では「ルヘシヘナイ」とあり、丁巳日誌「再篙石狩日誌」には「ルベシベナイ」と記されています。

「留辺志部」は、現在は川の名前と山の名前として残っていますが、かつては上川町の市街地も「留辺志部」と呼ばれていたようです。

 町役場や国鉄石北線の駅のある上川市街は,少し前までは留辺志部と呼ばれていた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.102 より引用)
陸軍図を見てみると、上川駅前の市街地(現在の「南町」あたり)には「上川」と描かれていて、越路峠の東麓に「留邊志部」と描かれていました。両者の間、現在は小学校や高校があるあたりは 1 区画(545 m)ほどの空白地になっていて、駅前が「上川」で道路側が「留邊志部」と言うように棲み分けができていたのかもしれませんが……。

「留辺志部」の意味するところは明瞭で、永田地名解にも次のように記されていました。

Ru pesh be   ル ペㇱュ ベ   路 北見「ユーペツ」ヘ下ル路
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.47 より引用)
また、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 ルペシペ(Ru-pesh-pe 路が・それに沿うて下つている・者) この語は山を越えて向う側の土地へ降りて行く路のある沢をさす。この沢を越えて北見の「ユーペツ」(湧別川)へ出て行く路があった。留辺志部川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.322 より引用)※ 原文ママ
やはり ru-pes-pe で「路・それに沿って下る・もの(川)」と見て良さそうですね。

ちなみに pes の対義語は turasi で、道内には ru-turasi-petru-turasi-nay と言った地名(川名)もあるのですが、「それに沿って下る」と「それに沿って上る」の違いは何なんでしょう。日光の「いろは坂」みたいに上りと下りが別ルートだったりしたら面白いんですけどね。

ノロマナイ沢

noru-oma-nay
熊の足跡・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
旭川紋別自動車道の「天幕大橋」の 400 m ほど東で留辺志部川に合流する南支流の名前です。丁巳日誌「再篙石狩日誌」には言及がありませんが、明治時代の地形図には「ノロマナイ」と描かれていました。

割と珍しい川名に思えますが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ノロマナイ(Noromanai) 「ノルオマナイ」(Noru-oma-nai 「熊の足跡・ついている・沢」)の縮約形。右,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.333 より引用)
noru ですが、「──小辞典」には次のように記されていました。

nó-ru, -ye/-we のル(のール) クマの足跡;クマの路。 [尊い・足跡(路)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.67 より引用)
手元の他の辞書には no-ru の項は見当たらず、また no- を「尊い」とする記述も見つけられなかったのですが、久保寺逸彦「アイヌ語・日本語辞典稿」に no- を「美称ノ接頭辞」との記述が見つかりました。

改めて他の辞書を見直すと、萱野さんの辞書にも「最も,全く,本当に〔強意〕」とあり、また「アイヌ語千歳方言辞典」にも「強調の意を表す」と記されていました。「尊い」と「最も」ではニュアンスが異なるようにも感じられますが、本質的な根っこの部分は同じと見ることができるのかもしれません。

ということで、「ノロマナイ沢」は noru-oma-nay で「熊の足跡・そこにある・川」と考えて良さそうでしょうか。

美瑛町に「水沢川」という川があるのですが、この川はかつて「ノルアンナイ」と呼ばれていたらしく、「熊の足跡・ある・川」と考えられていたようです。

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