2022年2月2日水曜日

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春の道北・船と車と鉄道で 2016 (220) 「日本時間 9 月 1 日午前 3 時 26 分」

 

「稚内市北方記念館」の 2 階展示室の片隅に「大韓航空機撃墜事件」についてまとめられた一角があります。
概略は中央のパネルに記してある通りなのですが……
「経由」の字の下に何と書いてあったのか、ちょっと気になります。
あと細かい話を少しだけ。墜落時刻が「午前 3 時 26 分」となっていますが、3:26 は被弾した時間で、レーダーから機影が消えたのは 3:38 だという説が現時点では広く信じられているかと思います。

もっともこの「最期の 12 分」については実在を疑う向きもあるようで、被弾場所をソ連の領海内だったとするためにでっち上げられた虚構だ、という説もあったと記憶しています(墜落地点は動かしようが無いため、領海内で被弾した後 12 分間飛行を続けた「ことにした」のではないか、という説です)。

刊行物の写真?

左右には、当時の記録写真がパネルに収められています。
ただ切り取り方が不自然なので、当時の刊行物をトリミングしたものかもしれません。書物を再度撮影した風にも見えますね。

偽情報「ミグ23」の謎

翌日の朝刊も保存されていました。事件は 9/1 の早朝に起こったので、これは 9/2 の朝刊です。ポイントとしては、事故の当日に「ソ連が撃墜」という情報が明らかになったというところでしょうか。
またしても細かい話ですが、「ミグ23、ミサイル攻撃」という情報も現在では誤りだったことが判明しています(実際に「迎撃」を行ったのは「スホーイ15」)。この「ミグ23」という偽情報は自衛隊筋からの情報だったようで、日本のマスコミだけがこの偽情報に踊らされたらしいのですが、理由も意図も謎のままです。

関係書籍

翌日の新聞の隣には、沿岸に漂着した遺留品の写真をまとめたものも保存されていました。遺留品の多くはソ連のトロール漁船が回収して焼却したと後に暴露されていますが、その網に引っかからなかったものが流れ着いた、ということになりますね。
関係書籍も並んでいました。私の知る限りでは、他にセイモア・ハーシュ著のものと、「イズベスチヤ」の記者だったアンドレイ・イーレシュ著の書籍も日本語版が出ています。
特に「イズベスチヤ」の連載をもとに刊行された一連の書物群は、当事者への取材を含めて事件当時は知ることのできなかった数々の「秘密」を明らかにしていて、事件の全体像を知る上で極めて有益なものです。

「なつかしの稚内」

「なつかしの稚内」と題されたコーナーにやってきました。これは吉田初三郎による「宗谷支庁管内鳥瞰図」ですが、1950 年の作品とのこと。斯界の第一人者として知られた吉田初三郎が亡くなったのは 1955 年だそうで、戦後も作品を描き続けていたとは知りませんでした。
これらは「北防波堤ドーム」の写真ですが、右下のカラー写真を除いていずれも戦前の写真のようです。
こちらも戦前(1933 年頃と見られる)の稚内港の写真ですが、奥の方に「北防波堤ドーム」が見えます。北防波堤ドームの手前に建物が見えますが、あのあたりが現在「サフィールホテル稚内」のある場所でしょうか。なお「北防波堤ドーム」の完成は 1936 年とされますので、写真に見えるのは工事中の姿、ということになりますね。
「稚内駅と稚内港」というパネルには、これも吉田初三郎による「稚内市鳥瞰図」が掲載されていました。遠近感やら方角やら、とにかくもの凄くデフォルメされているので、良く見ないとどこがどうなっているのか訳がわからなくなりますが、一度構図を理解してしまえば滅茶苦茶リアルに見えてしまうのが凄いですね。

「稚内市のはじまり」

「稚内市のはじまり」という題のパネルには、稚内公園から稚内港方面を眺めたパノラマ写真が掲載されています。
パネルの右側には、明治 21 年頃に稚内に戸長役場が移転した頃のジオラマが飾られていました。明治 12 年に宗谷に戸長役場を設置したものの、わずか 9 年で稚内に移転していたのですね。

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