2022年2月1日火曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (219) 「『大泊』・『豊原』・『生業』」

 

「稚内市北方記念館」の 2 階展示室に向かいます。
階段の横の壁には、パノラマ写真と思しき写真が貼られていました。戦前の写真っぽいですが、当時でもこのような写真を撮影できたのでしょうか。あるいは複数枚の写真をうまくつなぎ合わせているとか……?
ちなみにこの、ちょっとサイバーな感じすらある工業地帯の写真ですが、「富士製紙知取工場全景(其三)とあります。右側の写真には「其四」とあるので、やはり複数枚の写真をつなぎ合わせた感じでしょうか。カメラを三脚に固定して向きを変えて撮影したのだと思いますが、良くできていますよね。
大八車に「稚内第一部」という文字の入ったポンプっぽいものが積まれています。「消防車」のもっともプリミティブな形でしょうか。

「樺太(サハリン)と稚内」

2 階展示室のメインコンテンツは「樺太(サハリン)と稚内」ですが、まずは「大泊港」の写真からです。「サハリン時間」と「日本時間」で時計の形が異なるのは何故なのでしょう……?
これは以前にも紹介した記憶がありますが、「氷結した大泊港に入港した『稚泊連絡船』」とあります。さらっと書かれていますが、これ、砕氷船ってことですよね……?
こちらは冬の「大泊港」に入港した軍艦「大泊」の写真とのこと。船のみならず建物からも煙が出ているように見えるのは、石炭ストーブの煙でしょうか……?

「豊原市」の人口の謎

「南樺太全図」が掲出されていました。明治から昭和初頭にかけて樺太と千島は幾度となく国境線が揺れ動きましたが、最終的には北緯 50 度以南の「南樺太」が日本領となりました。

ものすごく当たり前のことを書くと北緯 50 度以北はロシア領(→ソ連領)だったわけで、戦前から北樺太にはロシア流の暮らしを営む人々がいた(もちろん「ニヴフ」や「ウィルタ」などの少数民族も暮らしていた)わけですが、ついうっかり忘れがちになってしまいますね。
「南樺太全図」には「凡例」の上に「樺太行政区画一覧」という表が付されていました。
人口は「昭和十六年末現住人口」とのことですが、当時の南樺太には約 40 万人が暮らしていたんですね。「豊原支庁」「真岡支庁」「恵須取支庁」「敷香支庁」と、それらの支庁に属さない「豊原市」があったということでしょうか。
……あ、樺太で市制していたのは「豊原市」だけなんですね。人口だけで見ると 4 万を切っていますし、よく見ると「恵須取町」のほうが人口は多いようですが……。

「大泊」・「豊原」・「生業」

「大泊港」の隣には「大泊」(現在の「コルサコフ」)の市街地の写真が並んでいます。戦前の日本と言うよりは中国東北部あたりっぽい雰囲気が感じられるような気もしますね。気候の面でも似通った所があったのでしょうか。
「大泊」の次は南樺太の……あれ、「県庁所在地」でも無いような気もしますが、要は日本領南樺太の中心地だった「豊原」(現在の「ユジノサハリンスク」)です。モダンな洋風建築が並ぶ中、右下の「樺太博物館」の天守閣風のデザインが興味深いですね。
ここまで「大泊」……
そして「豊原」と続いて……
次に「生業」が出てきました。あれ、こんな地名あったかな……と思ったのですが……
何のことは無い、「生業」は普通に「なりわい」と読むべきものでした(汗)。「生業」と言わずに「産業」にすれば良いのに……と思ったりもしますが、「産業」という言葉の「第二次産業」「第三次産業」っぽい印象を避けたかったんでしょうか。
ちなみにこちらの「生業」、よく見ると「富士製紙知取工場全景」の写真が 4 枚すべて並んでいます。4 枚の写真を並べただけなんですが、まるでパノラマ写真のように見えるのはお見事!ですよね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

新着記事