2025年3月31日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(東京ゲートブリッジ編)

14:35 になりました。あと 45 分ほどで「おがさわら丸」は竹芝桟橋に到着する予定です。荷物をまとめて、いつでも下船できるように準備を整えます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

5 分ほど経過した後……右舷側に「東京ゲートブリッジ」が見えてきました!

2025年3月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1224) 「咲梅川・フンコツ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

咲梅川(さくばい──)

sakpa-i??
夏の間・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
豊似湖」(えりも町)の東、国道 336 号「黄金道路」の「えりも黄金トンネル」の南端で海に注ぐ川です(「咲梅川」の南には 2004 年に竣工した「咲梅トンネル」もあります)。また同名の咲梅川が新ひだか町にもあります。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ホロサクハイ」と「ホンサクハイ」という地名が描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) には「サクパイ」という川が描かれていて、南側(咲梅トンネルの南あたり)に「ポンサクパイ」と描かれています。

陸軍図には、ちょうど咲梅トンネルのあたりに「サクバイ」という地名が描かれていました。かつての「サクパイ」と「ポンサクパイ」を統合した位置づけのようです。

『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

     サクハイ
岩石岩壁の間ニ滝有。風景よろし。風波の節は中々行がたし。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.347 より引用)
また、戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」にはもう少し詳細に記されていました。

しばしにて
     ホンサクハイ
     ホロサクハイ
大岩峨々たる処の岬の名也。其左右少しの湾に成る。其名義は不解也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.209 より引用)
名前の由来はわからないとしつつ、「岬の名也」と断言していますね。ただ東蝦夷日誌 (1863-1867) では次のように記されていました。

(四丁卅二間)ホンサクハイ(川有、急流)ならびて(四丁廿二間) サクハイ(小川、急流、昆布場)、此處ソウヤ岳の東南に當り、灣をなし、ウトマウニと對す。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.249 より引用)
「ウトマウニと対す」の意味が良くわからなかったのですが、どうやら咲梅と猿留の間の「ヲトワウエン」のことのようです。黄金道路の旧道に「オンコの沢トンネル」がありますが、「ヲトワウエン」こと「ウトマウニ」は「オンコの沢トンネル」の手前あたりだったようです。

ここで注目すべきは「川有、急流」あるいは「小川、急流」とある点です。「咲梅」は、やはり川の名前と見るべきなんでしょうか。

肝心の「咲梅」の地名解ですが、更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 咲梅川(さくばいがわ)
 庶野の北で海に出る川。サク・パイェーイで夏に行く路の意。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.89 より引用)
どことなくウェイっぽい雰囲気もありますが、sak-paye-i で「夏・(山の方へ)行く・ところ」ではないかとのこと(payeoman の複数形)。

咲梅川を遡ると目黒(猿留)方面に出ることができるので、庶野しょやから猿留に抜けるルートとして認識されていた可能性もあります。実際に『北海道実測切図』には、「猿留山道」とは別に「咲梅川」の中流部から上流部を北上して猿留に抜けるルートも描かれていました。

なぜ oman ではなく paye なのかが気になっていたのですが、(和人がアイヌのガイドを伴って)複数人で連れ立って移動することが常だったが故にそう呼んだ……と考えることも一応は可能でしょうか。

ただ「春から秋」を意味する sak-pa という語があるので、単純に sakpa-i で「夏の間・ところ」と考えて良さそうな気がしてきました。

戊午日誌にも「昆布場」とあるので、季節限定で居住していた場所だったのかもしれません。素直に表現するなら sakpa-kotan ですが、-kotan(集落)をよりシンプルな表現に改めた……とも想像できますね。

フンコツ

puy-us-kot??
穴・多くある・凹み
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年3月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1223) 「豊似湖」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

豊似湖(とよに──)

to-y-o-i??
沼・(挿入音)・ある・もの
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
猿留川の南支流である「豊似川」の流域に存在する、ハート型をしていることで知られる湖です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「トヨニトウ」が描かれていますが、現在の位置とはかなり異なっています。

北海道実測切図』(1895 頃) では、現在の位置に「トヨニトー」が描かれていました。湖の東の尾根には山道が描かれていますが、地理院地図には「∴」マーク(史跡・名勝・天然記念物を意味する)つきで「猿留山道」と記されています。

神霊有て──

『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

     ト ヨ イ
峻嶮暫くにして(一里半)南山峨々たる間に一つの沼有。是をトヨイと云。深き沼也。其上なる蹊より見るに至て清く見ゆ。此上の山をトヨイノホリと云。神霊有てむかしより此山へ夷人共鹿を追て上りし時に暴雨甚敷、雷電厳敷、よつて早々帰り来りしとかや云伝ふ。少々行峠。トウブチ峠ともまた沼見峠とも云よし。前後の眺望よろし。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.485 より引用)
「此上の山をトヨイノホリと云。神霊有て──」とあるのが気になりますが、東蝦夷日誌 (1863-1867) に詳細が記されていました。

予此岳に登ん事を弘化度通行の時謀りしに、支配人なる者の談に、文化頃、或役人此岳に登り給ひしや、五六分にして晴天忽ちくもり、此沼より雲立上り、大雷坤軸ちじくを碎く如く、雨車軸しやじくを流がし、其頂を窮めずして下り給ひぬ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
「昔、ある役人が豊似岳に登ろうとしたところ、途中で急に曇り空になり、沼から雲が湧き出て酷い雷雨になってしまったので諦めた」とのこと。それだけなら良かったのですが、話は更に膨らみ……

其後天保頃なりしが、松前の家來此岳に上らんと、土人のことわるを強て案内申附上り給ひしが、二三合目にしてまた空かきくもり、大雨盆を傾け、自ら戰栗せんりつして上り給はず、其御方三日を過て死し給ひしと聞。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
ついに「其御方三日を過て死し給ひし」という話になっています。都市伝説のような趣も感じられますが、更に続きがあり……

其故土人も甚恐るゝ由申けるまゝ空しく心をもちて有しが、去々辰年〔安政三年〕又登山の事を謀しに、一昨寅年〔安政元年〕堀使君〔利煕〕の御家來登山の事を被仰付候問、無レ據案内者を出せしが、是また果して大雷大雨にて上り給はず下り給ひぬ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
二年前の 1856 年にも当時の箱館奉行だった堀利煕が登山を試みたものの、またしても酷い雷雨で登山を断念していたとのこと。

「豊似岳やべえ」という話は地元民にも知れ渡っていたのか、

依て土人其山靈のいちじるしきに恐れて、案内を申付といへども逃去りて、來る者無よしを以て答るが故、又空敷むなしく過たる、おかしくぞ有ける。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237-238 より引用)
ガイドを依頼しても逃げ去ってしまうようになっていたのだとか。

豊似岳の神

ところが、(よせばいいのに)松浦武四郎も「豊似岳」への登山を敢行してしまうのですが、出発前に「豊似岳の神」が夢に出てきて、「豊似岳の神」が言うには「最近のアイヌは木幣イナウや酒を持ってこなくなった。もし木幣と酒を捧げてくれたら来年の大漁を約束し、疾病も流行しないようにする」とのこと。要は誰も酒を持ってこなくなったのでブチギレていたということに

武四郎は「豊似岳の神」の言う通りに木幣と酒を捧げて、無事に登山に成功するのですが、この山(トヨニヌプリ)は現在の「豊似岳」ではなく、2 km ほど東(豊似湖に近い)の「観音岳」のことみたいです。

カムイトウ

本題に戻りますが、「豊似湖」については次のように記されていました。

峠右の山の半腹の狹き道行に、(左り)カムイトウ〔神湖〕(周廻一里餘) と云、其深知る者なし(從往來水際まで貳百餘問)。水色如レ藍、山のふところに在る故、周圍高けれども其水増減なく、又流口もなし。是久摺くすり領なる摩周ましゆうたけの湖と同じ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.240 より引用)
どうやら湖は「カムイトウ」と呼ばれていたとのこと。「豊似湖」あるいは「豊似岳」の由来が見えてきませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「登武智志」に次のように記されていました。

トウフチノホリはホロヰツミ領分にして、サルヽ番屋を出立し、弐里半にしてトウフチ峠有。是則トウフチ山のつゞきなるが故に此名有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.381 より引用)
「豊似湖」の南に猿留山道の峠があるのですが、この峠が「トウフチ峠」とのこと。松浦武四郎は「トウフチ峠」の東に「トウフチ山」があるとして、峠の名前を「トウフチ山」に求めていますが、もっとストレートに to-puchi で「沼・口」と考えたくなります(但し「峠」を puchi とする用例を知らないのですが)。

「トヨニ」と「トフチ」

東蝦夷日誌には「トヨニ〔豐似〕峠(左りトヨニ〔豐似〕岳、右トフチ岳)」とあり、「豊似峠」は「豊似岳」と「トフチ岳」の間に存在するとしています。戊午日誌「登武智志」に次のように記されていました。

 其峠の峯つゞきにして北面に当り、峨々たる一ツの峻嶺にして、其名義は此麓にカモイトウと云る周り凡一里計の深き沼有。よつて此名有りと。トウフチとは沼端と云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.381 より引用)
「トウフチとは沼端と云儀」とありますが、この考え方には疑問が残ります。pet-cha で「川・岸」を意味するのですが、to-pet-cha であれば「沼・川・岸」となりますし、そもそも「カムイトウ」には流出河川がありません。

「トヨイ」は「トオイ」?

『竹四郎廻浦日記』は「一つの沼有。是をトヨイと云」と記していて、沼の名前が「トヨイ」だったと示唆していますが、「トヨイ」は to-o-i で「沼・ある・もの」だったのかもしれません。

北海道地名誌』(1975) にも次のように記されていました。

こちらの山は「ト・オ・イ」で沼ある所と解されている。東裾にカムイトウ(神の沼)と呼んだ豊似湖がある山。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.582 より引用)
ただ、それだと「トヨイ」の「ヨ」の音が出所不明になるので、to-e-o-i で「沼・頭・ある・もの」あたりの可能性も考えてみたのですが、to-y-o-i で「沼・(挿入音)・ある・もの」と考えるほうが現実的でしょうね(-y は意味を持たない)。

いずれにせよ、沼は to でしか無いので(あるいは kamuy-to)、「トヨイ」が沼の名前だったと考えることはナンセンスだとは言えそうです。

「トヨ」が「トヨ」に化けたのは、広尾の「豊似」も同様ですが、そもそもの地名の由来は全く関係無さそうです(偶然の一致)。

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2025年3月28日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(下船の準備編)

「おがさわら丸」は「海ほたる」の沖合を通過中ですが……
あっりゃー……。西行きの車線が完全に渋滞しちゃってますね。「海ほたる PA」への入口はガラガラなので、アクアトンネル側が渋滞しちゃってるみたいです。

2025年3月27日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(海ほたる編)

14:06 に、再び右舷側の展望デッキにやってきました。
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右手前方にお目当てのものが見えてきました(ワイド端:フルサイズ 27 mm 相当で撮影)。

2025年3月26日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(中ノ瀬航路編)

右舷側デッキから後方を眺めたところ、少し前に追い越したコンテナ船と、同じく少し前に追い越したセメント運搬船?がコリジョンコースに入ったような……? よく見ると手前にはモーターボート?もいるようで、めちゃくちゃカオスな感じが……。
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ちなみにこれは 3 分後に撮影したものですが、第二海堡の奥にコンテナ船が見えていて、ほかに米軍?の艦船やらボートやら、一体何隻いるのだろう……という状態でした。

2025年3月25日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(第二海堡編)

13:33 になり、「おがさわら丸」の右側に「第二海堡」が見えてきました。
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目一杯(フルサイズ 450 mm 相当)ズームしてみました。灯台らしき建物が見えます。

2025年3月24日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(第一海堡編)

13:14 になりました。「おがさわら丸」は浦賀水道を北上中です。
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横須賀の沖合で貨物船とすれ違います。後ろに見えているのは「横須賀火力発電所」だと思うのですが……

2025年3月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1222) 「登川・チャツナイ川・丹根内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

登川(のぼり──)

nupuri-{sarorun}??
山・{猿留川}
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町東北部を流れる「猿留川」の北支流です。猿留川との合流点から登川を 1 km ほど遡ったところで、登川の北支流である「チャツナイ川」が合流しています。

北海道実測切図』(1895 頃) を見てみたところ、妙なことになっていることに気づきました。現在「登川」とされる川は「サッテキサロルン」(sattek-{sarorun} で「痩せている・{猿留川}」となっていて、支流の「チャツナイ川」に相当する川が「ヌㇷ゚リサロルン」となっています。

陸軍図では、既に現在の「登川」が「登澤」で「チャツナイ川」が「チャツナイ澤」となっています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、「サルヽ」(=猿留川)の北支流として「ノホリサル」と「サッテクサルヽ」が描かれていました。「サッテクサルヽ」が相当な長さの支流として描かれているのに対し、「ノホリサル」はとても短く描かれています。

『午手控』(1858) には次のように記されていました。

○サルヽヘツ
 サリヘツ 左小川、番屋の向ふ也
 サツサルヽ 右小川
 ナンフケ
 ノホリサルヽ 右小川
 カルシコタン 左小休所。小川
 タン子ナイ 右小川
 此上小川多けれども当時名しれず
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.88 より引用)
また『東蝦夷日誌』(1863-1867) には次のように記されていました。

(平山、二十四丁) サツテクサルヽ(川原)是サルヽの乾たる義也。(一丁) ノホリサルヽ(川幅七八間)橋有、共にサルヽ〔猿留〕川に落る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.241 より引用)
また「猿留川川筋」の情報として、次のようにも記されていました。

 川兩濱にて(番の向)サリベツ(左川)、ヌフリサルヽ(右川)、ナンフケ(左川)是椎茸しいたけ取の住み所也。ワヽウシ(渡場)、カルシコタン(右川)、タンネナイ(右川)、此源少川數條有、さけますあめます桃花魚うぐい杜父魚かじか多し。水淺冷、兩岸奇石怪岩多し。また瀑布も有て、分入る時は頗る奇觀有也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.242-243 より引用)
これらの情報と、『東西蝦夷山川地理取調図』や『北海道実測切図』などの情報を照らし合わせると……

東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
午手控東蝦夷日誌北海道実測切図陸軍図
サルヽサルヽサルヽベツサロルンウシ川猿留川
-サリヘツサリベツオン子ナイ-
-サツサルヽ---
-ナンフケ---
---オン子ペッ(川名不明)
ノホリサルノホリサルヽヌフリサルヽヌㇷ゚リサロルンチャツナイ澤
サツテクサルヽ--サㇰテキサロルン登澤
ロウシ----
ナンフケ-ナンフケ--
--ワヽウシ--
カルシコタンカルシコタンカルシコタンカルシコタンワラビタイ
タン子ナイタン子ナイタンネナイタン子ナイ丹根内澤

「実測切図」の「ヌㇷ゚リサロルン」を軸にしてみたのですが、『午手控』の記録を少し疑ったほうがいいかもしれませんね。『午手控』の記録の順序を入れ替えて、複数の資料で確認できない記録を削ると表はかなりシンプルになります。

東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
午手控東蝦夷日誌北海道実測切図陸軍図
サルヽサルヽサルヽベツサロルンウシ川猿留川
-サリヘツサリベツオン子ナイ-
ノホリサルノホリサルヽヌフリサルヽヌㇷ゚リサロルンチャツナイ澤
サツテクサルヽサツサルヽ-サㇰテキサロルン登澤
ナンフケナンフケナンフケ--
カルシコタンカルシコタンカルシコタンカルシコタンワラビタイ
タン子ナイタン子ナイタンネナイタン子ナイ丹根内澤

「ノホリサルヽ」あるいは「ヌㇷ゚リサロルン」と言うのは、nupuri-sarorun でアイヌ語由来の地名と見て良いかと思われます。ただ nupuri-sarorun は「山・{猿留川}」となり、川名としては奇妙な形なので、nupurisarorun の間に存在した何らかの語が抜け落ちたと見るべきでしょう。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 登沢川 (のぼりさわがわ) 猿留川下流左支流でアイヌ語「ヌプリ・サロロペッ」(山のサロロペツ) の意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.584 より引用)
やはり「ヌㇷ゚リサロルン」が「登川」に転じた……と見て良さそうな感じでしょうか。ただ前述の通り『北海道実測切図』における「ヌㇷ゚リサロルン」と「登川」の流路が異なるという点が気になるところです。

チャツナイ川

chasi-nay?
砦・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)

2025年3月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1221) 「オニトップ川・猿留川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オニトップ川

onne-tu?
大きな・峰
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ビタタヌンケの南、国道 336 号「黄金道路」の「目黒トンネル」と「荒磯トンネル」の間を流れる川です。川から 1.5 km ほど北(ピタタヌンケ川の 0.7 km ほど南なので、ビタタヌンケのほうが近い)には「鬼頭府オニトップ」という四等三角点(標高 248.9 m)もあります。

陸軍図には「オニトップ」という地名が描かれていました。また『北海道実測切図』(1895 頃) には「オン子トㇷ゚川」と描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲン子トウ」とありますが……。

『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

     ヲン子トウ
是は此川上ニ有る名、海岸之字になりしものなり。ヲン子は大、トウは沼也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.349 より引用)
onne-to で「大きな・沼」ではないかとのこと。確かにそう解釈するしか無さそうですが、それらしき沼が見当たらないという致命的な問題が……。

同じような疑問を持ったのか、永田地名解 (1891) では次のように記されていました。

Onne top   オンネ トㇷ゚   大竹(岬) 「アイヌ」此竹ヲ取リ籠ヲ作ルト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.289 より引用)
ふむふむ。onne-top で「大きな・竹」と考えたのですね。確かにこの解であれば近くに沼が無くても問題はないのですが、都合よく「竹」という対案が出てきたあたりに疑いの目を向けたくなるんですよね(性格が悪いのでは)。

ということで永田地名解に負けじと対案を考えているのですが(ぉぃ)、改めて地形図を眺めてみると「オニトップ川」の南の尾根が特徴的に見えてきました。これを onne-tu で「大きな・峰」と呼んだとは考えられないでしょうか……?

『初航蝦夷日誌』には「是は此川上ニ有る名」とありますが、「オニトップ川」自体も中流部で二手に別れていて、その間も tu(峰)と呼べそうな地形になっています。これはどちらにも取ることができそうですね。

猿留川(さるる──)

sarorun??
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)

2025年3月21日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(「第二おりいぶ」編)

13 時になりました。「おがさわら丸」はついに東京湾の中に入ったようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

これは……プレジャーボートの大群ですが、何をしているのでしょう。もしかして:釣り?

2025年3月20日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (176) 黒石(黒石市) (1878/8/5(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十信」(初版では「第三十五信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

夢による前兆

ここからは「夢による前兆」セクション(原文:Omens and Dreams)です。

 もちろん夢は極めて重要な力を持つとみなされています。というのは、黒い球体となった魂は眠っている間に、その肉体から離れ、色々な働きのために出て行くと思われているのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
「幽体離脱」(Wikipedia:体外離脱)という怪現象?がありますよね。眠っている自分を上から俯瞰するような「体験」ですが、こういった「体験」は 20 世紀に突然始まったものでは無いでしょうから、「経験者」の口伝で「魂は睡眠中に浮遊する」と言われるようになった……ということでしょうか。

寝ている間に魂が浮遊する……ということは、寝ている人を急に起こすと「外出中」の魂が肉体に戻ることができないので、結果としてその人は「死んでしまう」と考えられていたとのこと。

そう言えば……という話ですが、寝ている間というか、意識を取り戻す?直前に(夢の中で)自由落下するような感覚に陥ることって(偶に)ありますよね。あれってもしかして「幽体離脱」からの帰還なんでしょうか……?

わが国でもそうなのですが、夢というものは、しばしば、逆夢だと思われています。したがって、誰かに刺されたり、お金をなくした夢を見ることはいいことがあるということで、逆に、お金を拾う夢をみたならば、きっと近々物乞いに身を落とすことになるのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
「正夢」と「逆夢」という概念も人類普遍のもの、ということでしょうか。「予知夢」というものもありますが、何年も、あるいは何十年も経ってから「ああ、あの時見た夢はこのことだったのか」と実感したことがある人も少なくないことでしょう。

人種や文化によって夢を見るメカニズムに違いがあるとも思えない……と書こうと思ったのですが、「乳酸菌飲料を飲むと悪夢を見る」みたいな(噂レベルの?)話もあるので、「眠りの質」との関連も考慮しなくてはいけないな……などと思ったりもします。

つまるところ、夢見においてはその人物がどれだけのストレスに曝されているかが肝要であり、それ以上でもそれ以下でも無いような気もしてきたのですが……あれ、何の話でしたっけ()。

でも、日本の十二支の一つである「の日」に、寺で買い求めた大黒の絵を枕の下に置いて富の夢を見ると、1 年以内に運を呼び寄せることは確かです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
あははは(笑)。一体何を根拠にそんなことを……。でもまぁ、こういった「根拠の無い希望」というのも人生を豊かにする上で必要なのかもしれません。宝くじ、そろそろ当たらないかなぁ……。

愛と復讐

そして「愛と復讐」と題されたセクションに進みます。

 愛情と結び付けられた迷信には限りがありません。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
「愛情と結びつけられた迷信」という表現に違和感をおぼえたので原文を見てみたのですが、The superstitions connected with love are endless. とありました。時岡敬子さんはこれを「恋愛にまつわる迷信は際限がありません」と訳出していました。

イザベラは、「恋愛にまつわる迷信」は「英国やドイツで見られるものと似ているものもある」(One is akin to those practised in England and Germany)とした上で、次のような例を挙げていました。

女の子がタタミに、頭髪から長いヘアピン[簪、笄]を落とすと、その落ちた場所から畳の端まで畳の目を数えて、一つ目を「すき」二つ目を「きらい」……と続け、恋人が信頼できるかどうかを占います。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128-129 より引用)
あー。「好き」「嫌い」と口にしながら物事を一つずつ数えるというのは、確かに昔からある(なんの根拠もない)占いですよね。

ここで話題がコロっと変わるのですが……

 神道が栄えるところにはどこでも、神聖な木(御神木)があり、それにはところどころひらひらした藁の付いた「なわ」の輪のしるし[注連縄しめなわ]がついていてその神聖さを記しています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
いきなり注連縄のついた御神木の話になりました。御神木を穢すと「神が報復する」とのことですが、要はこれは「祟られる」ということですよね。イザベラは、「日本のもっともどす黒い迷信の一つは『祟り』と緊密に結びついている」と言うのですが……。

私は以前に愛の絶望がしばしば自殺を惹き起こすと述べました。しかし場合によっては、失恋した乙女は神の助けを借りた復讐へと駆り立てられるのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
あぁー、そういうことですね!

裏切った恋人にみたてた粗末な藁人形を作り、その身代わりの人形と釘と金槌を手にして、「うしの刻」、つまり朝方の 2 時[丑三つ時]に、神社の杜に通う。そして、神聖な木に、藁で作った男を釘で打ちつけ、そうすることで、神に彼女の恋人に木を穢した罪を負わせ、その男に彼女の復讐を遂げるように神に拝みます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
「丑の刻参り」と「迷信」が等価であるという見方は今ひとつピンと来なかったのですが、「丑の刻参り」が科学的かと言われると、どう考えてもそれは無いわけで、となると間違いなく迷信の一種と言えますよね。ただ「好き」「嫌い」と口にしながら数を数えるのとは決定的に違う「何か」がありそうな気もします。

丑の刻参り」は、そのこと自体で「殺人罪」や「殺人予備罪」にはには問えないとされるものの、その「どす黒い」怨念は畏怖すべきものです。

このお参りは、復讐の相手が病になり死ぬまで、同じ時刻に毎晩続けられます。私は、そのような藁人形の男が打ち付けられた木を見たことがある──悲しみと情念の証しであり、いつの世もどんな国でも、心と心のあり方は一家のように似ていて、また嫉妬の徴しでもあり、これも他のどこの国でもそうであるように、日本でも「墓のように残酷」なのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
「心と心のあり方は一家のように似ていて」というのが良くわからなかったのですが、原文を見てみると……

I have seen such a tree with the straw effigy of a man nailed upon it ─ a token of sorrow and passion, of the family resemblance of heart to heart in all ages and lands, and of the jealousy which in Japan as elsewhere is “cruel as the grave.”
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、"the family resemblance" を「一家のように似ていて」と訳した……ということでしょうか。ちなみに時岡敬子さんは「それは年齢や土地柄を超えて心から心に伝わる共通の悲哀と激情の象徴であり」と訳していますが、"family resemblance" で「家族的類似」という概念も存在するとのこと。

但しこの概念を提唱したルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは 1889 年生まれなので、イザベラが「家族的類似」という概念について言及することは(時系列的に)不可能です。

また「墓のように残酷」という表現(原文では "cruel as the grave")とあるのも何やら曰くありげに見えますが、これは旧約聖書の中の一編である Song of Solomon(「雅歌」)の一節 "Jealousy is cruel as the grave" の引用とのこと。

イザベラはこれらの「迷信」を「無造作に選んだにすぎない」とし、またこういった「迷信」は都市部ではすでに廃れたものだとしながらも、「北の方の原始的な生活をしている人々の間では、まだ古い勢力を持ち恐ろしい古来の力を振るっている」と締めていました。

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2025年3月19日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(間もなく東京湾編)

12 時を少し過ぎた頃、右舷側に陸地が見えてきました(!)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

大小さまざまな船が増えてきました。確実に東京湾に近づきつつあるようですね。

2025年3月18日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(昼食編)

11:38 になりました。「おがさわら丸」の東京湾突入に備えて早めの昼食をいただくことにしました。
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昼食は夕食と同様に豊富なメニューの中から選ぶことになるのですが、なんと「チキンのトマト煮 サフランライス付き」が「売り切れ」とのこと。

2025年3月17日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(伊豆大島編)

11:10 になりました。予定では伊豆大島に最接近する時間ですが、到着予定が「33 分遅れ」となっているので、若干遅れ気味……でしょうか。
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画面に表示された現在位置を見ても、少し遅れているように見えますね。

2025年3月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1220) 「ビタタヌンケ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ビタタヌンケ

pira-tunun-ke-p??
崖・間・削る・もの(川)
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾町の南端部、えりも町との町境付近の地名です。町境には「タタヌンケ川」が流れていて、南隣のえりも町目黒には「タタヌンケ川」が流れています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヒタヽヌンケ」と描かれています。また『北海道実測切図』(1895 頃) には「ピタタヌンケㇷ゚川」と描かれています。陸軍図には地名として「ピタタヌンケ」とあります。

「ビタタヌンケ」がどのように記録されていたか、手元の資料を眺めてみました。『蝦夷紀行』の「ビタヽヌイ」がやや異彩を放っていますが、殆どが「ビタタヌンケ」または「ビタタヌンケㇷ゚」となっています。

東蝦新道記 (1798)鐚田奴月-
東蝦夷地名考 (1808)ヒタヽヌンゲヒタヽは濡るゝの名、ヌンゲは撰事也
東行漫筆 (1809)ビタヽヌムケ「ヒタヽルムケ」表記もあり
大日本沿海輿地全図 (1821)ホンヒタ子シケ-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ビタヽヌンケ波の碎ると譯す
初航蝦夷日誌 (1850)ビタヽヌンケフ瓠也。ヌンケフは形也
蝦夷紀行 (1854)ビタヽヌイ-
竹四郎廻浦日記 (1856)ヒタヽヌンケ-
辰手控 (1856)ヒタヽヌンケ-
午手控 (1858)ヒタヽヌンケ-
東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
ヒタヽヌンケ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ビタヽヌンケビタヽは解く、ヌンケは撰む
少きより上り盛りし
此崕危き處を土人等爰を割開きし
改正北海道全図 (1887)ヒタヽヌンケ-
永田地名解 (1891)ピタタヌンケㇷ゚寶物ヲ與ヘタル處
北海道実測切図 (1895 頃)ピタタヌンケㇷ゚川-
十勝地名考 (1914)ピタタヌンゲプ「ピ」とは解く、「タタ」とは切る、
「ヌンケプ」とは選ぶという義
三等三角点「比多良毛」
点の記 (1917)
ピタランケ(現在の「ピタタヌンケ川」)
陸軍図 (1925 頃)ピタタヌンケ-

「物を濡らして選んだところ」説

秦檍麻呂の『東蝦夷地名考』には次のように記されていました。

一 ヒタ丶ヌンゲ
 ヒタヽは濡るゝの名、ヌンゲは撰事也。蝦夷此處にて物をぬらし撰たるより名となれる歟。
(秦檍麻呂『東蝦夷地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.29 より引用)
「ヒタヽは濡るゝ」の部分が意味不明ですが、pe-ta で「水・汲む」なので、頭の「ヒ」は pe の可能性もあるかもしれません。

「波が砕ける」説

上原熊次郎の『蝦夷地名考幷里程記』には次のように記されていました。

  夷語ビタヽヌンケとは波の碎ると譯す。扨、ビタヽとは解くと申事、ヌンケとは波の絶間なし、亦は撰むともいふ事にて、此海岸波のうね甲乙なく絶へす寄る故、地名になすといふ。
(上原熊次郎『蝦夷地名考幷里程記』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.59 より引用)
釧路地方のアイヌ語語彙集』に pitata は「解く」とありました。また numke は「選ぶ」とありますが、pitata-numke で「解く・選ぶ」というのは他動詞が続くことになるので、違和感が残ります。

「ヒョウタンの形」説

『初航蝦夷日誌』には次のように記されていました。

     ビタヽヌンケフ
訳而瓠也。ヌンケフは形也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.351 より引用)
「瓠」は「ひさご」で、ヒョウタンやユウガオなどの一年草を意味し、あるいは「ふくべ」で容器としてのヒョウタンを意味するとのこと。「ヌンケフは形也」というのも意味不明ですが、ヒョウタンの形をした何か(山?)があったのでしょうか。

「解いて選ぶ」説、「危ないところを切り開く」説

『東蝦夷日誌』には次のように記されていました。

大崖の下廻りて、(十九丁五十間) ビタヽヌンケ〔鐚田貫〕(川有、六間、小休所有)名義、ビタヽは解く、ヌンケは撰むと事故也(地名解)。またビタヽヌンケは少きより上り盛りしを言より〔しカ〕(リクナシ、イフイサシ申口)、又此崕危き處を土人等ここを割開きしに依てなづくると(惣乙名ハエヘク申口)。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.252 より引用)
pitata-numke で「解く・選ぶ」というのは上原熊次郎の解と同じですが、「少きより上り盛りし」と「此崕危き處を土人等ここを割開きし」については……どう解釈すれば良いのでしょう。pira-ta-nanke-p で「崖・にある・削る・ところ」と読めそうな気もしてきましたが……。

「宝物を与えたところ 説

永田地名解には次のように記されていました。

Pi tata nunkep   ピ タタ ヌンケプ   寶物ヲ與ヘタル處 「」ハ解ク、「タタ」ハ切ル「ヌンケプ」ハ擇ブ處ノ義往昔十勝「アイヌ」來攻大ニ敗ラル竟ニ荷物ヲ解キ切リテ寳物ヲ撰ミ之ヲ與ヘ降ヲ乞ヒシ處ナリト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.290 より引用)
何故か武勇伝(と敗走譚)の多いことで知られる「十勝アイヌ」が「日高アイヌ」との戦いに大敗したため、降伏に際して荷を解き宝物(賠償品)を差し出した場所だ……と言うのですが、山田秀三さん風に言えば「説話くさい」解ですね。『十勝地名考』もこの解をそのまま踏襲していました。

「小石川原」説

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) では、『東蝦夷地名考』と『蝦夷地名考幷里程記』、『東蝦夷日誌』と『永田地名解』の内容に言及した上で、次のように続けていました。

 土屋茂氏によると,土地のアイヌ古老や一般の人たちはビタランケと呼んでいた由。ピタル・ランケ(小石川原・を下す),あるいはピッ・ランケ(小石・を下す)と聞こえる。ピタタヌンケㇷ゚の簡略化された形であったか,あるいは元来からその称があったものか。難しい地名である。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.334 より引用)
また、鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) にも次のように記されていました。

 地元でアイヌ語の地名研究をしておられる土屋茂氏は、アイヌの古老や地元では、ピタランケと呼んでおり、現地を調査した結果ピタルは小石川原と解し、ヌンケについては不明であると記した(南十勝地名考)。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.14 より引用)
上記を承けて、鎌田さんは次のように続けていました。

アイヌの古老などがいうピタランケであれば、ピタル・ランケ・プ「小石川原・下方にある・もの(川)」と、解せそうである。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.15 より引用)
興味深い解ですが、一世紀以上に亘って記録されてきた「ヌ」の音を否定するというのは勇気が要りそうな感じもします。確かに三等三角点「比多良毛ビタラケ」の「点の記」には、現在の「ピタタヌンケ川」のところに「ピタンケ」と描かれていたりするのですが……。

「崖にある鉄砲水」?

pitar(小石川原)が「ピタタ」に転訛したと言うのであれば、pira-ta が「ピタタ」に転訛したという可能性も考えたくなります。これも「ヌンケ」が問題になるのですが、numke で「選ぶ」と考えるのは、やはり奇妙な感じが拭えません。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には numumke-wakka という語が採録されていて、これは「鉄砲水」を意味するとのこと。pira-ta-numunke(-p) で「崖・にある・鉄砲水」と読めたり……しないでしょうか(ただ numumke-wakka の項には「【ナヨロ】」とある点に注意が必要ですが)。

「崖にある削るところ」?

また、pira-ta-nanke(-p) で「崖・にある・削る(・ところ)」と読めそうな気もします。ただこの解釈の場合、「ピラタンケㇷ゚」となり、ずっと記録されてきた「ヌ」の音と異なる……という問題点が出てきますが、「ヌ」が「ラ」に化けたと考えるよりは、まだあり得るでしょうか。

「崖の間の谷」?

あるいは、『地名アイヌ語小辞典』には tununkot という語も採録されているのですが……

tununkot, -i ト゚ぬンコッ 谷間;狭間。[<utur(間)un(にある)kot ( 谷)]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.134 より引用)
pira-tununkot で「崖・間の谷」と考えられないでしょうか。これだと「ピラトゥヌンコッ」となりそうですね。

「小石川原の間の削るもの」?

いや、それだったらむしろ pitar-tununkot のほうがより違和感が無いかも……。t の前に来た rt に変化するので(音韻変化)、pitat-tununkot で「小石川原・谷間」となり、「ピタトゥヌンコッ」と発音することになりそうです。「ビタタヌンケ」にかなり近づいたのでは……。

もっとも、この考え方にも「ビタタヌンケ」の「ケ」ではなく「コッ」となる点で疑義があり、更には「ビタタヌンゲㇷ゚」の「ㇷ゚」が付加される余地がないという問題が残ります。であれば tununkotkot(谷)を ke-p(削る・もの)に差し替えたら……? pitat-tunun-ke-p で「小石川原・間の・削る・もの」ということに……?

「崖の間の削るもの(川)」?

pira-pitat-pitar- の音韻変化形)の間で逡巡しているのですが、「ビタタ──」という音との近さでは pitat- が優位にあるものの、実際の地形や地名としての違和感のなさを考えると pira-tununkot(崖の間の谷間)と考えたくなります。

もっとも、この考え方にも「ビタタヌンケ」の「ケ」ではなく「コッ」となる点で……いかん、無限ループですね。まぁ「ピラトゥ」が「ビタタ」になったんじゃないか……という時点で強引な考え方ですし、だったら「コッ」が「ケ」に化けてもいいのかもしれません(何が)。

……などと半ば投げやりになっていたのですが(汗)、巨視的に考えれば pira-tunun-ke-p で「崖・間・削る・もの(川)」という考え方が妥当に思えてきました。広尾町音調津とえりも町目黒(猿留)の間の崖をごっそり削った川の名称に相応しいんじゃないかな……と。

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2025年3月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1219) 「モエケシ・ルベシベツ・タンネソ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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モエケシ

moy-kes
湾・端
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾音調津おしらべつの南、ルベシベツの北西の地名です。1980 年代の土地利用図には「モイケシ」とあり、陸軍図では「ムイケシ」となっていました。

北海道実測切図』(1895 頃) では「モイケシ」で、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「ムエケシ」とあります。

地形図での表記は、揺れはあるものの一貫してカタカナですが、ジェイ・アール北海道バス日勝線のバス停は漢字で「萌岸」となっています。また「モエケシ」集落の西の山上には「岸」という名前の四等三角点(標高 142.1 m)があります。この三角点の読み方は不明ですが、「岸」の誤字である可能性が高そうな……。

松浦武四郎の各種記録では、何故か現在の「モエケシ」に相当する地名はスルーされているケースが多い(近藤重蔵が内陸部のルートを開削したことと関係があるか)のですが、東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。

(六丁卅間) ムエケシ(小澤、漁場) 灣の端と云儀。海中大岩有、是をレフンシユマと云。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.255-258 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Moi keshi   モイ ケシ   灣端
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
また『十勝地名考』(1914) にも次のように記されていました。

モイ・ケシ
 「モイ」とは静なるという心にして、ここは湾あるいは港をいう。「ケシ」とは端という意、函館の旧称臼岸(ウスケシ)、又厚岸(アッケシ) のケシと同意義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.94-95 より引用)
いずれも「湾の端」としています。実際の地形は「湾」と言うほどでは無いかもしれませんが、海岸線は陸側に入り込むような形で円弧を描いています。moy-kes で「湾・端」と見て良いかと思われます。

ルベシベツ

ru-pes-pet
路・それに沿って下る・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年3月14日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(朝食編)

「展望ラウンジ Haha-jima」から部屋に戻ってきました。時間は 6 時半を少し過ぎたあたりです。
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「おがさわら丸」はいつの間にか(寝ている間に……ですね)こんなに進んでいたのですが……

2025年3月13日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(展望ラウンジ Haha-jima 再び!編)

レストラン Chichi-jima で「ヒレカツカレー」を味わって、部屋に戻ってきました。父島・二見港を出港して 4 時間 20 分ほどが経過したことになりますが、まだまだ先は長そうですね……。
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ところが、翌朝にはなんと……!

2025年3月12日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(夕食編)

「レストラン Chichi-jima」前の通路にやってきました。そろそろ 18 時半なので、夕食をいただくことにしましょう。
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通路の手前の防水・防火扉には「レストラン営業時間」が掲出されていました。実は 17:30 から夕食営業が行われていたのですが、混雑を避けたかったので、念のため 1 時間ほど遅らせてみました(それほど混んでなかったかもしれませんが)。

2025年3月11日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(聟島列島編)

父島・二見港を出港して 1 時間 20 分ちょいが経過しました。「おがさわら丸」は北に向かって航行中です(まだまだ先は長いですが)。
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どうやら「聟島列島」に近づきつつあるようですね。

2025年3月10日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(2 等寝台・2 等和室編)

4 デッキの船尾部にある「2 等寝台・エコノミーベッド」エリアにやってきました。
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4 デッキ後方の 2 等寝台は 3 部屋あるのですが、https://www.ogasawarakaiun.co.jp/ship/ では船の横幅一杯の部屋が前後に 3 つ並んでいます(通路が見えません)。どういうことか謎だったのですが、寝台と寝台の間に通路があり、その通路が隣の部屋にも繋がっている……という構造だったようです。

2025年3月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1218) 「シュマラウス」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シュマラウス

suma-ran-us-i?
石・降る・いつもする・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾音調津から国道 336 号「黄金道路」を南に向かうと「音調津覆道」がありますが、覆道、あるいはその西の「烏山」三角点のあたりの地名……だとされています(地理院地図の「地名情報」に記載あり)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりません。ただ『北海道実測切図』(1895 頃) には「ヒマラニシ」という地名?が描かれていました。

野塚!?

手元の資料を眺めてみたところ、『北海道地名誌』(1975) に次のような記述がありました。

 シュマラウス 野塚川の北海岸。
 島臼 (しまうす) 野塚川口の北海岸。アイヌ語「シュマ・ウシ」で, 石が多いの意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.628 より引用)
あれ……。「野塚川口」と言えば、音調津よりも遥かに北のあたりです。確かに『北海道実測切図』には「エツキサイ」と「野塚」の間に「シュマウシ」という地名が描かれています。

行政区は音調津

ところが『角川日本地名大辞典』(1987) にはこんな記述も。

 しまらうす シマラウス <広尾町>
〔近代〕昭和23年~現在の広尾町の行政字名。もとは広尾町大字広尾村の一部。アイヌ語で岩,下り道のある所の意による地名。行政区は音調津(おしらべつ)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.672 より引用)
お。「行政区は音調津」と書いてありますね。どことなく「比例は○○党」のような印象が

果たして「シュマラウス」という地名は実在するのか、また実在するのであればそれはどこにあるのか……というレベルからのスタートになってしまったのですが、『北海道地名誌』の「野塚川の北海岸」説はトラップの可能性がありそうに思えてきました。

「シュマラウス」を探す

ということで、改めて手元の資料で「音調津」と「ビタタヌンケ」の間に記された地名をまとめてみました。

大日本沿海輿地全図
(1821)
ヨシランヘ川タン子イシヨホンヒタ子シケ
蝦夷地名考幷里程記
(1824)
ヲシランベツルベシベツビタヽヌンケ
初航蝦夷日誌
(1850)
ヲシラベツフトルベシベシ
ヱコアヱウタ
チカフシウシ
ソウウシベ
タン子シヨ
チヨマナイ
レフシベ
トモチクシ
ビタヽヌンケフ
竹四郎廻浦日記
(1856)
ヲシラヘツヲクチシ峠
ヒナイ
ヒタヽヌンケ
辰手控
(1856)
ヲシラヘツヲクチシ峠
ルヘ(シ)ヘツ
ヲクチシ崎
ヒナイ
ヒタタヌンケ
午手控
(1858)
ヲシラルンベサトシランベヒタヽヌンケ
東西蝦夷山川地理取調図
(1859)
ヲシラルシベツムエケシ
ルウクシ
カムイサンヌイワ
アエワタラ
エマコエウク
チカフンウシ
ソウウシベ
タン子エシヨ
チヨマナイ
レフシ
トモチクシ
ヒタヽヌンケ
東蝦夷日誌
(1863-1867)
ヲシラベツブトレフンシユマ
ムエケシ
ルベシベツ
ヒナイ
エコアエウシ
ホロイソ
ソウウシベ
タンネソウ
チヨマナイ
レフシヘ
トムチクシ
ホントモチクシ
ビタヽヌンケ
改正北海道全図
(1887)
音調津ルウシ
ヒナイ
ビタヽヌンケ
永田地名解
(1891)
オシラルンベオㇰチシ
モイケシ
ルペㇱュベ
アイワタラ
チカㇷ゚ウシ
ト゚モチクシ
ピタタヌンケㇷ゚
北海道実測切図
(1895 頃)
オシラルンペ川ヒマラニシ
モイケシ
ルペㇱュペ
チカㇷ゚ウシ
ルーラノシ
ヨコマ
サマイクニプ
タン子ソー
シモチクワㇰカ
エクシペワタラ
ト゚モチクシ
オタオッチシ
ピタタヌンケㇷ゚川
十勝地名考
(1914)
オシラルンベヒマラヌシ
モイ・ケシ
ルペシンペ
チカプ・ウシ
ローラノシ
ヨロマ
サマイクンプ
タンネ・ソ-
シモチク・ワッカ
ドモチケン
オタ・オツ
ピ・タタ・ヌンゲプ
陸軍図
(1925 頃)
音調津オシラベツムイケシ
ルベシベツ
タニイソ
ピタタヌンケ
地理院地図音調津字シュマラウス
モエケシ
ルベシベツ
タンネソ
ビタタヌンケ

南端を「ビタタヌンケ」に置いたのは完全な失敗でしたね(汗)。まぁ、こんな日もあります。ということで「音調津」と「ルベシベツ」の間に絞ってみると……

大日本沿海輿地全図 (1821)ヨシランヘ川---
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ヲシランベツ--ルベシベツ
初航蝦夷日誌 (1850)ヲシラベツフト--ルベシベシ
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲシラヘツヲクチシ峠--
辰手控 (1856)ヲシラヘツヲクチシ峠-ルヘ(シ)ヘツ
午手控 (1858)ヲシラルンベ---
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲシラルシベツ-ムエケシルウクシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲシラベツブトレフンシユマムエケシルベシベツ
改正北海道全図 (1887)音調津---
永田地名解 (1891)オシラルンベオㇰチシモイケシルペㇱュベ
北海道実測切図 (1895 頃)オシラルンペ川ヒマラニシモイケシルペㇱュペ
十勝地名考 (1914)オシラルンベヒマラヌシモイ・ケシルペシンペ
ルペシペツ
陸軍図 (1925 頃)音調津オシラベツ-ムイケシルベシベツ
地理院地図音調津字シュマラウスモエケシルベシベツ

随分とスッキリしたでしょうか。「ヲクチシ峠」と「ムエケシ」あるいは「モイケシ」が目立ちますが、「ムエケシ」あるいは「モイケシ」は現在の「字モエケシ」のことだと考えられます。

となると「ヲクチシ峠」は「音調津」と「モエケシ」の間と考えられるのですが、これは ok-chis で山の鞍部を意味すると思われるので、黄金道路の「モイケシ第1覆道」の南西あたりの可能性がありそうでしょうか。現在「字シュマラウス」とされる場所より南に位置するのではないかと想像されます。

「レフンシユマ」を探す

やはり有力情報としては『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、東蝦夷日誌の「レフンシユマ」も気になるところです。

東蝦夷日誌には次のように記されていました。

(六丁卅間) ムエケシ(小澤、漁場) 灣の端と云儀。海中大岩有、是をレフンシユマと云。名義、沖の岩と云義。濱まで(二十丁三十間)ヲシラベツブトに到る。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.255-258 より引用)
「濱まで(二十丁三十間)」とありますが、二十丁三十間はだいたい 2.2 km ほどで、これは現在の「モエケシ」と「音調津」の間の距離とおおよそ一致します。

なお「ルベシベツ」と「ムエケシ」(=モエケシ)の間の距離も「六丁卅間」とあり、これも約 0.7 km ほどなので、このあたりの記録はかなり信用できそうに思えます。

陸軍図によると、「音調津」と「ムイケシ」の間には「海中の大岩」が複数存在していたように見えます。

音調津のすぐ南にある「海中の大岩」は、現在の「字シュマラウス」の位置とほぼ一致するのですが、南にも「海中の大岩」が描かれていますし、何よりも現在の「地理院地図」では更に多くの「海中の大岩」が描かれているので、残念ながら「レフンシユマ」の位置の特定は難しそうですね。

落石注意!

残された最有力情報は『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、北海測量舎図には「ヒラニシ」と描かれていました。また『十勝地名考』には次のように記されていました。

ヒマラヌシ
 山あるいは岸などの高きところより、石の落ち来るところとの義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.94 より引用)
……何なんでしょうこれ。「ヒマラ」の部分が意味不明ですが、「ヒマラヌシ」が「シュマラウス」のことだとすると……あ! suma-ran-us だとすれば「石・降りる・いつもする」と読めるような……!

どうやら「レフンシユマ」(沖にある岩)は「シュマラウス」とは無関係で、更に言えば『北海道地名誌』の記述はやはりトラップだったようです。「シュマラウス」は、おそらく海沿いの「落石注意!」な場所をそう呼んだということなのでしょうね。suma-ran-us-i で「石・降る・いつもする・ところ」と考えられそうです。

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2025年3月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1217) 「音調津・コイカクシエオシラベ川・シンノシケオシラベ・コイポクオシラルンベ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

音調津(おしらべつ)

o-sirar-un-pet
河口・水中の岩盤・ある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾町南部の地名です。いつも思うのですが当て字が見事だなぁ……と。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲシラルシベツ」と描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「オシラルンペ川」と描かれていました。

海沿いの地名で記録が豊富だと思われるので、今回も例によって表にまとめてみましょう。

大日本沿海輿地全図 (1821)ヨシランヘ川-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ヲシランベツヲとは有るの訓。シラリは潮の事。
初航蝦夷日誌 (1850)ヲシラベツフト-
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲシラヘツ-
辰手控 (1856)ヲシラヘツ-
午手控 (1858)ヲシラルンベ-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲシラルシベツ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲシラベツブト-
改正北海道全図 (1887)音調津ヲシラルシ川
永田地名解 (1891)オシラルンベ磯多キ處
北海道実測切図 (1895 頃)オシラルンペ川-
十勝地名考 (1914)オシラルンベ岩石多き磯
陸軍図 (1925 頃)音調津オシラベツ-

全体的に予想以上にブレが少なく、若干拍子抜けでしょうか。伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』に「シランヘ川」とあるのが目を引きますが、これは「ヲ」を「ヨ」に誤記したと言うことでしょうね。

永田地名解には次のように記されていました(改めて引用するほどのボリュームでも無いのですが)

O-shirar’un be   オシラルン ベ   磯多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
o-sirar-un-pe で「河口・磯(水中の岩盤)・ある・もの(川)」と読めそうでしょうか。山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) にも次のように記されていました。

今の音調津の音は,たぶんオシラルンペッ(o-shirar-un-pet 川尻に・岩・がある・川)あるいは un を省いたオシラル・ペッの形から残った名であろう。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.332 より引用)
そうですね。永田地名解は -un-pe としましたが、-pet の形での記録も多いですし、『東西蝦夷山川地理取調図』では -us-pet で記録されています。

行ったら,海に岩が見えないのでおやと思ったが,聞いて見ると漁港のテトラポッドが積んであるのは岩礁の上だし,それから南は海難があって恐れられていた大岩礁だとのことであった。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.332 より引用)
陸軍図でも「津」の字の南に岩礁が描かれていますし、地理院地図でも「音調津覆道」の東に岩礁が描かれています。河口から少し離れているのが気になりますが、o-shirar-un-pet で「河口・水中の岩盤・ある・川」と見て良さそうに思えます。

コイカクシエオシラベ川

koyka-kus-{o-sirar-un-pet}
東(北)・通る・{音調津川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年3月7日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(まだ見ぬ硫黄島編)

4 デッキのエントランス(3 デッキに向かう階段の横)には、青い間接照明で彩られた船内案内図があります。ド派手な演出ですが、乗船してすぐのところに巨大な船内案内図があるというのは理にかなっていますよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

左舷側にも同様に、ド派手な間接照明で彩られたガントチャートがあります。

2025年3月6日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(船内うろうろ編)

引き続き船内をウロウロすることにします。6 デッキのエレベーター横には新幹線の車内とかで見かける電光掲示板が設置されていました。
この手の電光掲示板は、テキストデータを用意するだけで手軽に情報提供できそうなイメージがあります。デジタルサイネージと違って手間暇がそれほどかからないのがメリット……でしょうか?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

懐かしの 5 デッキ

階段を降りて 5 デッキに向かいます。

2025年3月5日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(デジタルサイネージ編)

ショップ ドルフィンのある 6 デッキに戻ってきました。デジタルサイネージではポケモンのイラスト入りのマンホール(ポケふた)が紹介されていました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

デジタルサイネージの右隣の「小笠原村観光協会(父島)」と題された地図には父島の観光スポットがリストアップされていました。

2025年3月4日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(スカイデッキ編)

7 デッキの外部デッキとの出入り口には「スカイデッキ」と題された額が掲げられていました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

外部デッキは出航の際に散々歩き回ったのですが、「スカイデッキ」という場所には記憶がありません。

2025年3月3日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(ミニサロン南島編)

4 デッキ右舷側にある「自動販売機コーナーの一角に、こんな張り紙がありました。
コーヒー・ココア・スープ・お茶などの温かい商品が「3 デッキ後部 サロン南島にて販売中」とあります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

竜宮城への道

ということで、4 デッキ最後部にやってきました。「ミニサロン南島」の案内があります。あ、「サロン」じゃなくて「ミニサロン」なんですね。

2025年3月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1216) 「ヲナヲベツ・オリコマナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヲナヲベツ

inaw-kor-pe?
木幣(イナウ)・持つ・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾美幌の南、黄金道路沿いの地名です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲナヲヘツ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オナウケオッペ」と描かれています。黄金道路の「泉浜覆道」の西には「雄名尾別」という名前の四等三角点(標高 190.5 m)もあります。

また国土地理情報では「ヲナヲベツ」の南、音調津よりも更に南のモエケシに何故か「オナオベツ川」があるということになっていますが、これは錯誤の可能性が高そうな……?

手元の資料では以下の記述が見つかりました。「ヲナヲベツ」が「ヲナウヘツ」に化けて、「エナヲベツ」から「オナウケオッペ」に変化を遂げたものの、何故か「ヲナヲベツ」に先祖返りを果たしています。

初航蝦夷日誌 (1850)ヲナヲベツ川有。歩行渉り。上ニ滝有。
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲナウヘツ-
辰手控 (1856)ホンヲナウヘツ-
東西蝦夷
山川地理取調図 (1859)
ヲナヲヘツ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)エナヲベツ小川 ここにて木幣を作り神に手向し故此名有
改正北海道全図 (1887)ヲナヲコツヘ-
永田地名解 (1891)オナウケオッペ蔓掛ツルカケ
北海道実測切図 (1895 頃)オナウケオッペ-
十勝地名考 (1914)オナヲベツ「オナウケ・オツ・ベ」で「蔓掛け」
陸軍図 (1925 頃)オナオベツ-
北海道地名誌 (1975)オナオベツ「オナウケオッペ」(そこに鈎をおくところ)
地理院地図ヲナヲベツ-

「イナウの川」説

まず『東蝦夷日誌』ですが、次のように記されていました。

過てエナヲベツ(小川)、寛政度近藤最上此處より新道を切初しが故に、ここにて木幣を作り神に手向し故此名有と。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.258 より引用)
inaw-pet で「木幣・川」では無いかとのこと。文法的には若干の違和感がありますが、-us あたりが中略されたと考えれば違和感はクリアできそうです。

「蔓を掛けるところ」説

一方で永田地名解ですが……

O-nauke ot pe   オ ナウケ オッ ペ   蔓掛ツルカケ 往時山道ノ入口ナル瀧ノ傍ニ葡萄蔓ヲ懸ケ之レヲ攀援シテ上下セシ處ナリト「アイヌ」云フ「オナウコツペ」ハ「オ、ナウケ、オツ、ペ」ノ急言、「」ハ山腰「ナウケ」ハ掛ケル、「オツペ」ハ在ル處ノ義
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
永田さんが熱弁を振るっている……ということは、自信のなさの現れだったりして……()。nawke ではなく nawkep であれば、『地名アイヌ語小辞典』(1956) に次のように記されていました。

nawkep, -i なゥケㇷ゚ 木かぎ。──自然の木の枝をそのまま利用してつくる。これで高い所にある枝を引きよせて果実を採集したり,山中で魚(マスなど)をとったが容器も縄もないというようなばあいに即席に木の枝を切ってこれを作り,5 本でも 10 本でもそれに剌して引いて来たりする。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.63 より引用)
永田方正は「ナウケ」を動詞と見ていますが、nawkepnawke-p だとすれば nawke という動詞的用法もあったのかもしれません。

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) にも、『東蝦夷日誌』と永田地名解の内容を承けた上で次のように記されていました。

ナウケという語を知らないが,木のまたを利用して作り,物を引っかける道具をナウケ・ㇷ゚という処から見ると,永田氏の書いたような意味があったのであろうか。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.332 より引用)
そうですね。その可能性もありそうです。

消えた「オナウケオッペ」の謎

ただ地味に気になるのが、永田方正の「オナウケオッペ」説は広汎に支持されているにもかかわらず、いつの間にか「ヲナヲベツ」に戻っている点です。これは地元では「『オナウケオッペ』じゃない『ヲナヲベツ』だ!」と認識されていたに他ならないと思われるのですね。

また nawke-ot という表現も個人的には違和感があったのですが、o-terke-ot-pe で「そこから・飛び越す・いつもする・ところ」という地名(現在の美深大手)があるので、o-nawke-ot-pe という地名があっても不思議はありません。

となると「オナウケオッペ」が何故「ヲナヲベツ」に「戻った」のかを考えたくなるのですが、o-nawke-ot-peo-nawke-pe になったとしても、「ヲナヲベツ」から「ケ」が消えたことが説明できないという問題が残ります。

「そこでいつも徒渉する川」?

さてどうしたものか……と思ったのですが、萱野さんの辞書には yanawe で「上った」を意味するとありました。そういえば wa で「徒渉する」という語もあったなぁ……と思って『──小辞典』を眺めてみたところ、

wa わ 【H 北;K】《不完》 水中を歩いてわたる; 徒渉する; かちわたりする。nay ~ 川を徒渉する。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.142 より引用)
このように記されていました。主に北方で使われる用法っぽいところが気になりますが、o-{nay-wa}-ot-pet で「そこで・{徒渉する}・いつもする・もの」と読めたりしないかな……と。

「イナウを持つもの」?

ただ、ここで立ち塞がったのが『改正北海道全図』(1887) の「ヲナヲコツヘ」という記載です。数年の差しか無いとは言え、永田方正が「オナウケオッペ」という新解釈を持ち込む前に「コ」の音が記録されているところが(個人的には)重くのしかかります。

「ヲナヲコツヘ」自体はやや意味不明な感じもしますが、inaw-kor-pe で「イナウ・持つ・もの(川)」と読めそうにも思えるのですね。転訛に転訛を重ねて「ヲナヲコツヘ」となったところに、永田方正が「それらしい解釈の語」を合わせてきたのではないか……と。

オリコマナイ

ur-ka-oma-nay?
丘・上・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)

2025年3月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1215) 「エビニマイ・美幌」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エビニマイ

e-pinni-oma-i?
頭(てっぺん)・ヤチダモの木・そこにある・ところ
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 336 号「黄金道路」の「フンベ第 1 隧道」の南側の地名です(地理院地図の「地名情報」に記載あり)。海沿いの地名だけあって記録も豊富なので、早速ですが表にまとめてみました。

大日本沿海輿地全図 (1821)フンヘヲマモイ-ビホロ川
蝦夷地名考幷里程記 (1824)--ビボロ
初航蝦夷日誌 (1850)フンベヲマナイヱヒヲアエヒヨロ
竹四郎廻浦日記 (1856)フンベマモイイヘニマヱヒホロ
辰手控 (1856)フンヘマモイイヒニマイ(山道)ヒホロ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)フンヘヲマナイヌヒンナイヒホロ
東蝦夷日誌 (1863-1867)フンベマムイ(岩岬)エヘニマイ(岩山幷び)ビボロ
改正北海道全図 (1887)フンヘモイ-美幌
永田地名解 (1891)フンベ オマ ナイイベニ マイピ ポロ
北海道実測切図 (1895 頃)ワッカチヨコキイイペニマイピポロ川
北海道地形図 (1896)ワㇰカチヨコキイ-ピポロ川
十勝地名考 (1914)フンベエビニマイ-
陸軍図 (1925 頃)濱フンベ-美幌
地理院地図(地名情報)フンベ字エビニマイ
字エヒニマイ
美幌

どうやら「エヒヲアエ」「イヘニマヱ」「イヒニマイ」「ヌヒンナイ」「エヘニマイ」「イベニマイ」「イペニマイ」「エビニマイ」「エヒニマイ」というバリエーションが存在するとのこと。サンプル数 10 に対してバリエーションが 9 というのは、中々のバラバラっぷりですね……(汗)。

手元の資料の中では最も古そうな『初航蝦夷日誌』の記述は……

     ヱヒヲアヱ
同じく岩磯なり。其風景さまざま目を驚かせり。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.353 より引用)
風光明媚な場所っぽいですが、それ以上のことは何もわかりませんね(汗)。

「エビニマイ」の詳細を検討するにあたっては、『東蝦夷日誌』に有力な情報が記されていました。

ビボロ〔美幌〕川を過て小石濱、(七丁五間)マタルクシ(小澤)名義は冬路越と言儀。昔し新道無りし頃に此上を越たる處のよし也。大岩崖の下を過、(一丁十間) エヘニマイ(岩山并び)、小瀧有。そうじて岩に當りて落、頗る風景の趣也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.259 より引用)
この記述により、ビボロ(美幌)から「エヘニマイ」までの距離がおおよそ「八丁十五間」(約 900 m ?)であることがわかります。『北海道実測切図』では「イペニマイ」は「ピポロ川」のすぐ北に描かれていたので、当初は美幌集落の北端を流れる「舟上橋」のあたりかと想定していたのですが、実際にはもう少し北の、地理院地図の地名情報に「字エビニマイ」あるいは「字エヒニマイ」と表示されているあたりだと考えて良さそうです。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) にも次のように記されていました。

イペニマイ
イベニマイ(営林署図)
 美幌から北へ 0.7 キロの小さな出先付近の地名。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.25 より引用)
位置の推定について(0.2 km ほどの誤差があるものの)概ね一致したようです。

永田地名解には次のように記されていました。

Ibeni mai   イベニ マイ   ? 「アイヌ」云墜雪ノ爲メニ行人死シタレバ此名アリト
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
おお、久しぶりに伝家の宝刀「?」が出ましたね。この解について前述の鎌田さんは次のように評していました。

場所がらこのような事故があることも考えられる地形ではある。イペ・ノ・オマ・イ(食物・充分・にある・所) とも解せそうであるが、どうも現地とあわない。何んともわからない地名である。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.25 より引用)
「なんともわからない」というのは同感です。また『十勝地名考』には次のように記されていたのですが……

エビニマイ
 原称は「エベノマイ」にて、真西に向うところとの意なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.92 より引用)
これまた「なんともわからない」ですね……。

ただ幸いなことに「エビニマイ」の場所はおおよそ推定できています。おそらくこのあたりだと思われるのですが……


仮にこの位置で合っているとしたなら、『十勝地名考』の「真西に向かうところ」は地名解ではなく単に場所の特徴を示していただけの可能性もありそうです。

そして「エヒヲアエ」「イヘニマヱ」「イヒニマイ」「ヌヒンナイ」「エヘニマイ」「イベニマイ」「イペニマイ」「エビニマイ」「エヒニマイ」について、鎌田さんが推測した解以外に考えられないか……という話になるのですが、e-pinni-oma-i で「頭(てっぺん)・ヤチダモの木・そこにある・ところ」あたりの可能性は……どうでしょうか?(誰に聞いている

美幌(びほろ)

pi-pi-oro?
小石・小石・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)