(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
オニトップ川
onne-tu?
大きな・峰
大きな・峰
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
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ビタタヌンケの南、国道 336 号「黄金道路」の「目黒トンネル」と「荒磯トンネル」の間を流れる川です。川から 1.5 km ほど北(ピタタヌンケ川の 0.7 km ほど南なので、ビタタヌンケのほうが近い)には「陸軍図には「オニトップ」という地名が描かれていました。また『北海道実測切図』(1895 頃) には「オン子トㇷ゚川」と描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲン子トウ」とありますが……。
『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。
ヲン子トウonne-to で「大きな・沼」ではないかとのこと。確かにそう解釈するしか無さそうですが、それらしき沼が見当たらないという致命的な問題が……。
是は此川上ニ有る名、海岸之字になりしものなり。ヲン子は大、トウは沼也。
同じような疑問を持ったのか、永田地名解 (1891) では次のように記されていました。
Onne top オンネ トㇷ゚ 大竹(岬) 「アイヌ」此竹ヲ取リ籠ヲ作ルト云フふむふむ。onne-top で「大きな・竹」と考えたのですね。確かにこの解であれば近くに沼が無くても問題はないのですが、都合よく「竹」という対案が出てきたあたりに疑いの目を向けたくなるんですよね(性格が悪いのでは)。
ということで永田地名解に負けじと対案を考えているのですが(ぉぃ)、改めて地形図を眺めてみると「オニトップ川」の南の尾根が特徴的に見えてきました。これを onne-tu で「大きな・峰」と呼んだとは考えられないでしょうか……?
『初航蝦夷日誌』には「是は此川上ニ有る名」とありますが、「オニトップ川」自体も中流部で二手に別れていて、その間も tu(峰)と呼べそうな地形になっています。これはどちらにも取ることができそうですね。
猿留川(さるる──)
sarorun??
鶴
鶴
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)
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えりも町目黒で海に注ぐ川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「サルヽ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「記録が大量にありそうなので、ささっと表にまとめてみましょう。
東蝦夷地名考 (1808) | サルヽベツ | サルヽは鶴の名 |
---|---|---|
東行漫筆 (1809) | サルヽン | - |
大日本沿海輿地全図 (1821) | サルヽ川 | - |
蝦夷地名考幷里程記 (1824) | サロヽ | シヤリヲロの略語 濕沢の在る |
初航蝦夷日誌 (1850) | サルヽ | - |
蝦夷地名奈留邊志 (1859) | サルヽ | シヤリヲロの訛り 萱の有処 |
東西蝦夷山川地理取調図 (1859) | サルヽ | - |
戊午日誌 (1859-1863) | サルヽ | シヤリヲロの訛り |
東蝦夷日誌 (1863-1867) | サルヽン | 昔し此山中に鶴多く住し |
永田地名解 (1891) | サロルン ウシ | 鶴多キ處 |
北海道実測切図 (1895 頃) | 猿留 サロルンウシ川 | - |
アイヌ地名考 (1925) | SARURU (佐留留) | 「ツルの地」または「スゲの地」 |
陸軍図 (1925 頃) | 猿留 | - |
アイヌ語地名解 (1982) | 猿留 | サル・ルで湿地の道 |
いやー、いい感じに票(?)が割れましたね。特に気になったのが東蝦夷日誌で、これまで「シヤリヲロ」(sar-oro で「茅原・その中」?)としてきたのに対し、「鶴が多い」という解釈に改めていることは注目に値します。
永田地名解は次のように記していました。
Sarorun ushi サロルン ウシ 鶴多キ處 川名舊地名解「シヤリオロ」ニテ濕澤ノ處ト譯スト○更科源蔵さんは、『アイヌ語地名解』にて次のような見解を記していました。猿留 村ト稱ス
鶴は百人浜などにも姿を見せるので、サロルン・ウㇱかもしれないが、サル・ルで湿地の道とも思われる。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.89 より引用)
あれ、よく見たら既存の説に微妙な変化を加えていますね。表に追記せねば……。「鶴」か、それとも「葦原」か
山田秀三さんの旧著『北海道の川の名』(1971) では、東蝦夷日誌と永田地名解を引用した上で、次のように続けていました。鶴は、サロルン・チリ(Sar-or-un-chir 葦原・の中・にいる・鳥)、あるいはサロルン・カムイ(神) で、サロルンはその略語。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.150 より引用)
これはその通りですが、知里さんの『動物編』(1976) では次のように記されていました。「略語」と言うよりは正式名称?の一つと見ても良さそうな……。( 3 )sarórun(サろルン)[sar-or-un-čir の下略] 《レブンケ;ピラトリ;オギフシ;シズナイ;クッシャロ》
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.212 より引用)※ 原文ママ
『北海道の川の名』に戻りますが、次のように続いていました。ここはサロルンあるいはサロルと呼ばれたところで、永田氏の解についているウシは、土地のアイヌか、あるいは永田氏が、意味を説明するためにつけた蛇足であろう(その形ならサロルヌシと発音していなければおかしい)。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.150 より引用)
アイヌ語の地名には「連声(リエゾン)」の決まりがあり、これは知里さんが永田地名解を批判する上でのトピックの一つとなっていました。ただリエゾンが 100 % 行われていたかと聞かれると、必ずしもそうでも無かったように思えます。そして次のように締めていたのですが……
永田氏の書いた第二説はシャリ・オロ(Shari-or)その葦原・の処)であったものか、あるいはふつうの語形の、Shar-or(葦原・の処)を単語別に説明した形か。後者なら地名として続けて呼べばシャロロあるいはサロロで、もっもらしい説明。ただし sar(葦原)の中の川だったか否かは未調。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.150 より引用)※ 原文ママ
ところが、後の『北海道の地名』(1994) では若干トーンが変わり……永田地名解は「サロルン・ウシ。鶴多き処」と記す。松浦氏同じ。だが古い上原熊次郎地名考は「サロロ。夷語シヤロロなり。則シヤリヲロの略語にて湿沢の在るといふ事」と書いた。
北見紋別郡の沙留と同じ形である。上原説により,一応サロロ(sar-or 葭原・の処)と解したい。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.337 より引用)
いかにも山田さんらしく、古い記録を尊重した書き方になっていました。ただ上表を見ればわかるように、より時代を遡ると見られる『東蝦夷地名考』には「サルヽは鶴の名」と明記されているんですよね。そして荒井保恵の「東行漫筆」にも「サルヽン」とある点にも注目したいところです。sar-or と「サルルン」の間には多少の開きがあり、また興部の「沙留」や「斜里」、「沙流」などには「鶴」という説を見聞きしないというところから、逆に?「猿留」は sarorun で「鶴」だったのではないか……と考えたくなりました。
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