この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
夢による前兆
ここからは「夢による前兆」セクション(原文:Omens and Dreams)です。もちろん夢は極めて重要な力を持つとみなされています。というのは、黒い球体となった魂は眠っている間に、その肉体から離れ、色々な働きのために出て行くと思われているのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
「幽体離脱」(Wikipedia:体外離脱)という怪現象?がありますよね。眠っている自分を上から俯瞰するような「体験」ですが、こういった「体験」は 20 世紀に突然始まったものでは無いでしょうから、「経験者」の口伝で「魂は睡眠中に浮遊する」と言われるようになった……ということでしょうか。寝ている間に魂が浮遊する……ということは、寝ている人を急に起こすと「外出中」の魂が肉体に戻ることができないので、結果としてその人は「死んでしまう」と考えられていたとのこと。
そう言えば……という話ですが、寝ている間というか、意識を取り戻す?直前に(夢の中で)自由落下するような感覚に陥ることって(偶に)ありますよね。あれってもしかして「幽体離脱」からの帰還なんでしょうか……?
わが国でもそうなのですが、夢というものは、しばしば、逆夢だと思われています。したがって、誰かに刺されたり、お金をなくした夢を見ることはいいことがあるということで、逆に、お金を拾う夢をみたならば、きっと近々物乞いに身を落とすことになるのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
「正夢」と「逆夢」という概念も人類普遍のもの、ということでしょうか。「予知夢」というものもありますが、何年も、あるいは何十年も経ってから「ああ、あの時見た夢はこのことだったのか」と実感したことがある人も少なくないことでしょう。人種や文化によって夢を見るメカニズムに違いがあるとも思えない……と書こうと思ったのですが、「乳酸菌飲料を飲むと悪夢を見る」みたいな(噂レベルの?)話もあるので、「眠りの質」との関連も考慮しなくてはいけないな……などと思ったりもします。
つまるところ、夢見においてはその人物がどれだけのストレスに曝されているかが肝要であり、それ以上でもそれ以下でも無いような気もしてきたのですが……あれ、何の話でしたっけ(ぉ)。
でも、日本の十二支の一つである「子 の日」に、寺で買い求めた大黒の絵を枕の下に置いて富の夢を見ると、1 年以内に運を呼び寄せることは確かです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
あははは(笑)。一体何を根拠にそんなことを……。でもまぁ、こういった「根拠の無い希望」というのも人生を豊かにする上で必要なのかもしれません。宝くじ、そろそろ当たらないかなぁ……。愛と復讐
そして「愛と復讐」と題されたセクションに進みます。愛情と結び付けられた迷信には限りがありません。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128 より引用)
「愛情と結びつけられた迷信」という表現に違和感をおぼえたので原文を見てみたのですが、The superstitions connected with love are endless. とありました。時岡敬子さんはこれを「恋愛にまつわる迷信は際限がありません」と訳出していました。イザベラは、「恋愛にまつわる迷信」は「英国やドイツで見られるものと似ているものもある」(One is akin to those practised in England and Germany)とした上で、次のような例を挙げていました。
女の子が畳 に、頭髪から長いヘアピン[簪、笄]を落とすと、その落ちた場所から畳の端まで畳の目を数えて、一つ目を「すき」二つ目を「きらい」……と続け、恋人が信頼できるかどうかを占います。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.128-129 より引用)
あー。「好き」「嫌い」と口にしながら物事を一つずつ数えるというのは、確かに昔からある(なんの根拠もない)占いですよね。ここで話題がコロっと変わるのですが……
神道が栄えるところにはどこでも、神聖な木(御神木)があり、それにはところどころひらひらした藁の付いた「なわ」の輪のしるし[注連縄 ]がついていてその神聖さを記しています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
いきなり注連縄のついた御神木の話になりました。御神木を穢すと「神が報復する」とのことですが、要はこれは「祟られる」ということですよね。イザベラは、「日本のもっともどす黒い迷信の一つは『祟り』と緊密に結びついている」と言うのですが……。私は以前に愛の絶望がしばしば自殺を惹き起こすと述べました。しかし場合によっては、失恋した乙女は神の助けを借りた復讐へと駆り立てられるのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
あぁー、そういうことですね!裏切った恋人にみたてた粗末な藁人形を作り、その身代わりの人形と釘と金槌を手にして、「丑 の刻」、つまり朝方の 2 時[丑三つ時]に、神社の杜に通う。そして、神聖な木に、藁で作った男を釘で打ちつけ、そうすることで、神に彼女の恋人に木を穢した罪を負わせ、その男に彼女の復讐を遂げるように神に拝みます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
「丑の刻参り」と「迷信」が等価であるという見方は今ひとつピンと来なかったのですが、「丑の刻参り」が科学的かと言われると、どう考えてもそれは無いわけで、となると間違いなく迷信の一種と言えますよね。ただ「好き」「嫌い」と口にしながら数を数えるのとは決定的に違う「何か」がありそうな気もします。「丑の刻参り」は、そのこと自体で「殺人罪」や「殺人予備罪」にはには問えないとされるものの、その「どす黒い」怨念は畏怖すべきものです。
このお参りは、復讐の相手が病になり死ぬまで、同じ時刻に毎晩続けられます。私は、そのような藁人形の男が打ち付けられた木を見たことがある──悲しみと情念の証しであり、いつの世もどんな国でも、心と心のあり方は一家のように似ていて、また嫉妬の徴しでもあり、これも他のどこの国でもそうであるように、日本でも「墓のように残酷」なのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.129 より引用)
「心と心のあり方は一家のように似ていて」というのが良くわからなかったのですが、原文を見てみると……I have seen such a tree with the straw effigy of a man nailed upon it ─ a token of sorrow and passion, of the family resemblance of heart to heart in all ages and lands, and of the jealousy which in Japan as elsewhere is “cruel as the grave.”
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、"the family resemblance" を「一家のように似ていて」と訳した……ということでしょうか。ちなみに時岡敬子さんは「それは年齢や土地柄を超えて心から心に伝わる共通の悲哀と激情の象徴であり」と訳していますが、"family resemblance" で「家族的類似」という概念も存在するとのこと。但しこの概念を提唱したルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは 1889 年生まれなので、イザベラが「家族的類似」という概念について言及することは(時系列的に)不可能です。
また「墓のように残酷」という表現(原文では "cruel as the grave")とあるのも何やら曰くありげに見えますが、これは旧約聖書の中の一編である Song of Solomon(「雅歌」)の一節 "Jealousy is cruel as the grave" の引用とのこと。
イザベラはこれらの「迷信」を「無造作に選んだにすぎない」とし、またこういった「迷信」は都市部ではすでに廃れたものだとしながらも、「北の方の原始的な生活をしている人々の間では、まだ古い勢力を持ち恐ろしい古来の力を振るっている」と締めていました。
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