2024年5月17日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (188) 「『秘境』を自らアピールするスタイル」

道道 593 号「屈足鹿追線」を西に向かい、新得町に入りました。
上体がやや立ち上がり気味ですが、膝がしっかりと前に入っていて良い姿勢ですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

直前に「急カーブ・急勾配」という警告が出ていましたが、予告通りにカーブが増えてきました。

2024年5月16日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (187) 「道道 593 号『屈足鹿追線』」

「扇ヶ原展望台」を後にして、再び道道 85 号「鹿追糠平線」を西に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

北海道らしい一本道区間に戻ってきました。

2024年5月15日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (186) 「扇ヶ原展望台」

道道 85 号「鹿追糠平線」沿いにある「扇ヶ原展望台」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

大雪山国立公園 扇ヶ原展望台」との文字が刻まれた石碑……と言うよりは岩……が置かれています。

2024年5月14日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (185) 「駒止湖」

然別湖を後にします。右折して道道 85 号「鹿追糠平線」を南に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「歩行者有注意」でおなじみの「湖畔トンネル」の入口が見えてきました。南北で出入り口の形状が全く異なるんですね。右側に見えているのは「ホテル福原」の建物です。

2024年5月13日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (184) 「然別湖」

車を停めて、然別湖畔を散策します。駐車場の正面に見えるのは「ホテル福原」ですが、二ヶ月ほど前の 2017 年 3 月に営業を休止してしまいました。
休業は「老朽化のため」とされていて、全面改築も含めて検討されていたようですが、結局ホテルは売却されたようで、現時点でも営業は再開されていません。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駐車場から湖畔に向かいます。右側に見えるヨーロッパの山小屋風の建物が「然別湖ネイチャーセンター」で、左に見えるのは「然別湖畔温泉ホテル風水」です。

2024年5月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1137) 「ピラウンナイ川・トンベ川・イロベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ピラウンナイ川

pira-un-nay
崖・に入る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 392 号の「あきら橋」と「美恵みえ橋」の間、茶路川が大きく蛇行しているあたりで南西から合流する支流(西支流)です。ピラウンナイ川と南隣のシュウトナイ川の間には「平雲内」という三等三角点(標高 398.2 m)もあり、こちらは「びらうんない」と読ませるようです(「点の記」の解像度が不足していて、濁点か半濁点か明瞭では無いのですが)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヒラヲンナイ」という名前の川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) では「ピラウンナイ」と描かれていて、途中で枝分かれする南支流は「ポンピラウンナイ」と描かれていました。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Pira un nai   ピラ ウン ナイ   崖ノ川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.323 より引用)
pira-un-nay で「崖・ある・川」と読めますが、-us ではなく -un なので、「崖・に入る・川」と捉えたほうが良いかもしれません。

なお、OpenStreetMap では、かつて「ポンピラウンナイ」と呼ばれていた川が「メノー川」となっていますが、これは「瑪瑙」に由来する可能性もありそうです(=アイヌ語由来では無いかも)。

トンベ川

tu-un-pet?
峰(尾根)・に入る・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年5月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1136) 「ホロヤムワッカ川・幌内・オクチャック川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ホロヤムワッカ川

poro-yam-wakka
大きな・冷たい・水
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 392 号の「あきら橋」の北で北東から茶路川に注ぐ支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ホロヤムワツカ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Poro yam wakka   ポロ ヤㇺ ワㇰカ   大ナル冷水
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.323 より引用)
poro-yam-wakka で「大きな・冷たい・水」と読めますが、nay あたりが略されているような感じがします(あるいは pet か)。きっと「大きな『冷たい水』の川」で、冷たい飲水を供給してくれる川だったのでしょうね。

幌内(ほろない)

poro-nay?
大きな・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年5月10日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (183) 「湖畔トンネル」

道道 85 号「鹿追糠平線」を北上して「然別湖」に向かいます。あ、対向車が道を譲ってくれたようです(恐縮です)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

遠くの方に湖が見えてきました!

2024年5月9日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (182) 「白樺峠」

「扇ヶ原展望台」をスルーして、「東ヌプカウシヌプリ」と「西ヌプカウシヌプリ」の間にある「白樺峠」に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

覆道(駒止覆道)が見えてきました。一気に山道っぽくなりましたね。

2024年5月8日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (181) 「パールスカイライン」

道道 85 号「鹿追糠平線」を北に向かいます。対向車線を走っているのは北海道拓殖バスの「帯広駅前」行き路線バスですが、このバスは然別湖からやってきたっぽい感じですね。
然別湖と帯広駅前の間は 60 km 近くあるので凄いなぁと思ったのですが、帯広駅前と広尾の間は 80 km 以上あったので、大したこと無かったですね(汗)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路脇に「とかち鹿追ジオパーク ビジターセンター」の案内がありました。何故か道道から 200 m ほど離れたところにあるようです。

2024年5月7日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (180) 「馬横断あり」

鹿追高校の前を通り過ぎ、更に北に向かいます。左に「めん処しかめん」の看板が見えますが……
注目すべきは「鹿追消防署」への案内標識です。白地に青文字が定番ですが、なんと文字が赤くなっています。消防署だから、でしょうか……?

2024年5月6日月曜日

北海道のアイヌ語地名 (1135) 「縫別・神ノ牛山・シュウトナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

縫別(ぬいべつ)

nuye-pet?
豊漁・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道東道・白糠 IC のあたりの地名です。表記には揺れがあり、「ノイベツ」や「ヌイベツ」とカタカナで表記される場合もあります。同名の支流もあり、白糠 IC の東を北から南に流れています。かつては国鉄白糠線にも同名の駅がありました。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ノイヘツ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) では「ノイペツ」と描かれています。茶路川の支流の中でも大きな川ですが、何故か永田地名解 (1891) には記載が無いようです。

「北海道駅名の起源」には次のように記されていました。

  縫 別(ぬいべつ)
所在地 (釧路国)白糠郡白糠町
開 駅 昭和39年10月 7 日 (客)
起 源 アイヌ語の「ニウンペッ」(木のある川)から出たもので、これが「縫別」に転かしたのである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.151 より引用)
一方、鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には異なる解が記されていました。

 ヌイェ・ペッ(nuye-pet 豊漁の・川) の意である。鮭をはじめ多くの魚がとれた川なのであった。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.220 より引用)
白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」も「ヌイ(豊漁・たくさんある)・ペツ(川)」説を取っていました。

現在の地名は「縫別」ですが、元々は「ノイヘツ」と記録されていたことを考えると、ni-un-pet で「流木・ある・川」よりは nuye-pet で「豊漁・川」と見たほうが妥当かもしれませんね。

神ノ牛山(しんのうしやま)

sin-not-us-nupuri
山・崎・ついている・山
(記録あり、類型あり)

2024年5月5日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (164) 碇ヶ関(平川市) (1878/8/2(木))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信(続き)」(初版では「第三十三信(続き)」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

子どもの遊戯

イザベラは「異様に行儀の良い」日本の子どもについて所感を綴っていましたが、更に次のように続けていました。「こどもの日」にピッタリのネタですね。

 子どもには特別の服装はない。これは奇妙な習慣であって、私は何度でも繰り返して述べたい。子どもは三歳になると着物キモノと帯をつける。これは親たちも同じだが、不自由な服装である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
イザベラは「子どもには特別な服装がない」ことを「奇妙な習慣」と断じていますが、そう言われてみれば今の子どもには「子ども服」がある……ということでしょうか。

この服装で子どもらしい遊びをしている姿は奇怪グロテスクなものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
うーん。「見た目は大人、中身は子ども!」というのは確かに奇妙なのかもしれませんが……。ただ「子ども服」が無いということが、ここまで特筆すべきことなのか、ちょっと疑問もあるのですが……。

しかし私は、私たちが子どもの遊びといっているものを見たことがない──いろんな衝動にかられてめちゃくちゃに暴れまわり、取っ組みあったり、殴りあったり、転げまわったり、跳びまわったり、蹴ったり、叫んだり、笑ったり、喧嘩をしたりするなど!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
これはどういうことなんでしょう。子どもたちがイザベラの目を憚っていたということであれば良いのですが、普通、小さな子どもはイザベラの言うような「衝動的な遊び」に興じると思うのですが……。これは小さなうちから極端な「しつけ」がなされていた可能性を想起させます。今風に言えば「ヤングケアラー」として育てられるのが当然だった、と思えてしまうんですよね。

賢明な例

イザベラは更に「賢明な子ども」の例を挙げていました。

 頭のよい少年が二人いて、甲虫の背中に糸をつけて引き綱にし、紙の荷車をひっぱらせていた。八匹の甲虫が斜面の上を米の荷を引きながら運んで行く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
いかにも「子どもらしい」遊びですが、イザベラはこの「遊び」にもイギリスと日本の子どもの違いを見出していたようです。

英国であったら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるか、あなたにはよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見つめている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
なるほど、そういうことですか。これも「日本の子どもは異様なまでに行儀が良い」という文脈を補強するエピソードです。

街路にあって速く流れる水路は、多くのおもちゃの水車を回している。これがうまくつくられた機械のおもちゃを動かす。その中で脱穀機の模型がもっともふつうに見られる。少年たちはこれらの模型を工夫したり、じっと見ながら、大部分の時間を過ごす。それは実に心をひきつけるものがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
昭和の頃は、模型飛行機を作ったりプラモデルを組み立てたり……と言った「子どもの娯楽」もあったと思いますが、こういった風習が日本独自のものだった、なんてことは無いですよね……?(急に不安になってきた) ただ「脱穀機の模型」を独自に改良するとか、子どもの頃からエンジニアリングの「いろは」に触れるというのは、これは確かに素晴らしいような……。

ここで話題が少し変わるのですが……

休暇になっているが、「休暇の宿題」が与えられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313-314 より引用)
随分と唐突な文章ですね。ただ原文でもいきなり It is the holidays, で始まっているので、これはこう訳すしか無さそうな感じです。今は夏休みだ、と言うことですね。

休暇が終わって学校がまた始まると試験がある。学期の終わりに試験があるのではない。これは学生たちに休むことなく知識を増進させたいというまじめな願望を示す取り計らいである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
明治の時点で既に「詰め込み教育」が始まっていたのですね。まぁ学問の道を極めたものがちゃんと出世できるという、まともな社会だったとも言えるのかもしれませんが。

凧上げ競争

そういえば、『日本奥地紀行』には「初版」と「普及版」があり、「普及版」では「奥地紀行」と直接関わりのないトピックはカットされるのが常でしたが、今回はここまでカットされたトピックが無いんですよね。

 今日の午後は晴れて風があった。少年たちは凧をあげていた。凧は竹の枠に丈夫な紙を張ったもので、すべて四角形である。五フィート平方もあるのがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
相変わらずヤード・ポンド法には苦しめられますが、5 フィートは約 1.5 m とのこと。1.5 m 平方の凧というのは、結構なサイズですよね。

二つの大きな凧の間に非常に面白い競争があった。それを見るために村中の人々が出てきた。どちらの凧の糸も、枠の下から三〇フィート以上も、砕いたガラスでおおわれ、これは粘り強い糊でびったりと糸にくっついていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
この記述でピンと来た方もいらっしゃるかもしれませんが、これは凧を操って相手の糸を切ろうとしているのですね。なるほど、刃物ではなくガラスの破片を糸につけるのですか……。

この「凧あげバトル」は二時間ほど続き、勝者が糸を切られた凧を手に入れて終わりました。

そして勝者と敗者は三度頭を深く下げて挨拶をかわした。人々は、橋が破壊されるときも黙って見つめていたが、このときも沈黙のまま、この手に汗にぎる試合を見ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
現代だと観衆は声援を送ったり野次を飛ばしたりしそうなものですが、黙って見ていたというのは、よほど緊迫感のあるバトルだったのでしょうか。あるいは何らかの吉凶を占う神事のようなものだったとしたら、静けさに包まれたのも理解できそうですが……。

子どもたちは竹馬に乗りながらも凧をあげた。これはたいへん手練のいる技で、誰でもできるものではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
え……? 「たいへん手練のいる技」とありますが、腕が二本では足りないような気も……?

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2024年5月4日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (163) 碇ヶ関(平川市) (1878/8/2(木))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十八信(続き)」(初版では「第三十三信(続き)」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

乏しい気晴らし

碇ヶ関に到着したものの、折からの豪雨で「平川」を渡る橋が落ちてしまい、イザベラはまたしても足止めを食うことになってしまいました。

 私がこの土地で気晴らしにやることは、ほとんど尽きてしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
そりゃそうだろうなぁ……と思わせますが、碇ヶ関でのイザベラのアクティビティは思った以上に多岐にわたるものでした。

それは、川の水がどれほど下がったか、毎日三度見に行くこと。それからまた私は宿の亭主や村長コーチョーと話をする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
この辺は至極当然な内容でしょうか。

子どもたちが遊ぶのや屋根板を作るのを見る。おもちゃや菓子を買って、それをくれてやる。一日に三度、たくさんの眼病の人に亜鉛華目薬をつけてやる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
橋が落ちてしまって「孤立した」碇ヶ関ですが、商店でお菓子を買い求めることはできたのですね。「亜鉛華」は「酸化亜鉛」のことで、炎症をやわらげる効果があるとのこと。イザベラは碇ヶ関で四日間足止めされることになるのですが、「亜鉛化目薬」の点眼は「三日間のうちにすばらしい効き目があった」と記しています。

料理、糸紡ぎ、その他に台所ダイドコロでやる家庭の仕事を見る。実際に家の中に住んでいる馬に、乾草ではなく青い草の葉を食べさせるのを見る。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
この辺は、イザベラお得意の「社会見学」のようですね。

それから癩患者たちを診る。彼らはその恐ろしい病気を治療とまでゆかなくとも抑えることができると思っている鉱泉があるので、ここにやってきているのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
癩病に効能がある(と信じられている)鉱泉がある(あった?)のですね。現在も「碇ヶ関温泉会館」という施設があるみたいですが、関連が気になるところです。

そして、ベッドに横になって縫い物をしたり、『アジア協会誌』の論文を読んだり、青森に至るあらゆる可能な道筋ルートを調べたりする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
イザベラは論文も携帯していたのですね。「奥地紀行」ではありますが、よく考えると「極地紀行」では無いですし、(折りたたみベッドをはじめとした)荷物は駄馬や人夫に運ばせていたので、我々が思っている以上にいろんな荷物を持っていた、と考えたほうがいいのかもしれませんね。

「青森に至るルートを調べる」というのは「え、今頃?」と思わないでも無いのですが、最適な道筋を調べるのはこれまでも現地で行っていたんでしたね。今回は豪雨の影響もあるので、今まで以上にいくつかのルートを想定する必要があったのかもしれません。

目薬をつけてやるので、村の人々は私にたいそう親切になった。私にみてくれと多くの病人を連れてくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
イザベラが眼病患者に点眼したのは、地元民の人気を得るためでは無かったのでしょうけど、そのことが元で慕われたのは悪い気がしなかったでしょうね。イザベラは村人が連れてきた病人について、次のように記しています。

その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
やはり衛生面の問題が大きい……と見ていたようですね。

日本の子ども

イザベラは碇ヶ関の子どもたちにおもちゃや菓子を買い与えていましたが、これも純粋に子どもたちへの愛情によるものだったようです。

 私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
この評価は手放しで喜ぶべきものか、今となっては少々疑いも残るのですが……。

日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これ、なんですよね。いかにも封建的な「過去からの因習」によって、子どもたちが抑圧されていたが故の結果とも取れますし、おそらくその見立ては間違ってないと思えるのです。

英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騒したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これは現代の日本では普通に見られる光景となりつつあるでしょうか。子どもの権利をきちんと尊重するならば、こうなるのが普通のような気もします。程度の違いはあるかもしれませんが、まだまだ古臭い考え方が染み付いているが故、なのかもしれません。

イザベラは、子どもたちが「自分たちだけで面白く遊べるように」「いろいろな遊戯の規則を覚えている」ことにも感心していたようです。こういった「遊戯の規則」にはローカルルールが存在することも少なくないのですが……

規則は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
いかにも「昔の日本」っぽい雰囲気が漂っていますね。昭和の頃には「ガキ大将」というポジションが存在していたと思うのですが、そういえば今はどうなんでしょう。年長の子が年少の子の「面倒を見る」という行為自体は存在していると思いますが、昔と比べるとその行為はより事務的になっているのでは……と思ったりもします。

子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これは子どもの数が多く、また大人にそれだけの余裕が無かったということなのでしょうね。

イザベラは子どもたちに菓子を買い与えていましたが……

しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
うーん。正しいと言えば正しい判断なのですが、子どもの自律性が極限まで損なわれているようにも思えます。これじゃあまるでロボットのような……。

許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これは手放しで「良い風習」と呼べそうですね。共同体の中での「富の分配」は重要なので……。

子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
イザベラは異様に「行儀の良い」日本の子どもを愛でながらも、微かな違和感をおぼえていたのかもしれません。

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2024年5月3日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (162) 碇ヶ関(平川市) (1878/7/31(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信」(初版では「第三十三信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

原始的な宿屋

イザベラ一行は雨の降る中、秋田と青森の県境である「矢立峠」の強行突破を試み、峠についたところで激しい雨に襲われて進退窮まったところで、偶然にも青森側からやってきた馬と馬子に遭遇し、眼の前で橋が落ちてゆく中を北に向かっていました。そしてついに、碇ヶ関に到着します。

 私たちは最後の橋を渡ると碇ガ関イカリガセキに入った。ここは人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
「狭い岩棚となっている」というのがちょっと良くわからないのですが、原文では on a narrow ledge between an abrupt hill and the Hirakawa となっていました。現在の地図ではピンと来ないのですが、これは「碇ヶ関駅」が集落の北西側に設置されたことによるもので、本来の「碇ヶ関」は「平川」に「大落前おおらくまえ川」が合流するあたりだったようです。

碇ヶ関は木材加工の村だったようで、イザベラは「あらゆる形をした材木が山のように積み重ねてあった」と記していて、次のように続けていました。

ここは永住の村というよりは材木切り出し人の野営地のように見えた。しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
「美しい環境にあり」としつつ「様子がちがっていた」というのですが……

 街路は長くて狭く、両側に石の水路の川が流れていた。しかしこれらも水があふれて、男や女、子どもが、四角なダムを作って畳に上がってこないように堰止めていたが、水はすでに土間に達していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
あー……。まぁ、峠であれだけの雨が降っていたのであれば、麓の川も大変なことになっているのも当然ではあるのですが。「四角なダム」は square dams で、時岡敬子さんも「四角い堰」と訳されていました。

 人馬を流すような豪雨の中を、水溜まりになった鞍に腰をかけながら、もう数時間も前からびしょ濡れになって、この非常に原始的な宿屋に到着した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307-308 より引用)
ついにイザベラは宿屋にたどり着いたようですが、「非常に原始的な」とは……。家屋の多くは「粗末な板を縄で直立材に結びつけているだけ」と記していますが、宿屋もそんな感じだったのでしょうか。

宿の下手は台所で、大雨で足どめされている学生たちの一団や、馬や鶏、犬などがいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
「学生たちの一団」がいた、というのは意外な感じがしますね。

私の部屋は梯子で上って行く屋根裏のあわれな部屋であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
屋根裏部屋……。それは確かに哀れな感じが。もっとも洪水の心配が比較的無さそうなのが救いでしょうか。

梯子の下は泥沼のようになっていたので、下りるときにはウェリントン・ブーツ(膝まで来る長靴)を履かねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
まるで田んぼの上で寝泊まりするような状況だったのですね(汗)。屋根裏部屋ということは天井=屋根なので、雨が激しく屋根を叩きつける音で会話もままならない状況だったとのこと。

ベッドはずぶ濡れになっており、私の箱に水が入っていて、練乳の残りも溶けていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
これは雨漏りのせいか……と思ったのですが、良く考えると宿屋にベッドがある筈も無いので、これはイザベラが携行していたベッドのことですね。大雨の中を移動していたので当然と言えば当然なのですが……。

イザベラは眠りにつこうとしていたところで、伊藤の叫ぶ声で目を覚まします。

私たちが先ほど村に入るときに渡った橋が落ちそうだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
この橋は、現在の国道 7 号の「番所橋」に相当するものと思われるのですが……

そこで、川の土手まで走って行って大群集の中にまじった。彼らは今にも迫っている災害に気をとられ、今まで見たこともない外国婦人には少しも気づかなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
普通であれば確実に耳目を集める筈のイザベラがスルーされた時点で、事態の切迫ぶりがわかりますね……。

川の増水

イザベラは、今にも橋が落ちそうになっている川について、次のように記していました。

 平川は、一時間前までは単に深さ四フィートの清冽な谷川であったが、今や一〇フィートも深くなって、ものすごい音を立てながら、濁流となって突進していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
4 フィートは約 1.2 m で、10 フィートは約 3 m とのこと。これは……確かに危機的状況ですね。そして「急げばなんとかなる」とイザベラを急き立てた馬子の見通しが実に正しかった……ということになりますね。

  どの波も黄褐色の泡をふきながら
  波頭を立てていた──
  栗毛の馬のたてがみにも似て
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308-309 より引用)
突然、詩が出てきましたが、これはウォルター・スコットThe Lay of the Last Minstrel からの引用とのこと。

群衆に紛れて今にも崩壊しそうな橋を眺めていたイザベラは、その時の状況を次のように綴っています。

 切り出した大きな材木や樹木、木の根や大枝、小枝が数限りなく流れ下ってきていた。こちら側の橋台は根元をだいぶ削りとられたが、中央の橋脚に丸太が衝突するたびに震えるだけで、橋そのものはしっかり立っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
「落橋しそう」とは言ったものの、イザベラが「りっぱな橋」「しっかりしたもの」と評した橋は濁流に揉まれてもすぐさま崩壊するようなことは無かったようです。

実際まだしっかりしていたから、私が着いてからも、二人の男が、向こう岸にある自分の持ち物をとってこようと橋を渡って行ったほどである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
これは結果的には正しい判断だったのかもしれませんが、命がけですよね……。

イザベラの「実況」が続きます。

やがて、かんなをかけた大きな木材と、木のつけ根やいろんな残骸物が下ってきた。上流のりっぱな橋が落ちたので、三〇フィートもある四十本ものりっぱな材木が流れて来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
この時点では眼の前の橋は健在だったものの、状況は刻々と悪化していました。

上流の土手では、流れてくる材木を捕らえようと努力がなされたが、二十本のうち一本ぐらいしか救うことができなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
懸命に努力したものの、結果には殆ど結びつかず……と言ったところでしょうか。

これらの材木が下ってくる壮大な光景は、たいそう面白かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
「たいそう面白い」とは酷い言い草ですが、原文では most exciting となっていたので、間違ってはいないですね……。この「エキサイティングな光景」は、やがて予想された結末を迎えることになります。

この後一時間して、三〇フィートは充分にある二本の丸太がくっついて下ってきて、ほとんど同時に、中央の橋脚に衝突した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
30 フィートは約 9.1 m ですが、このサイズの丸太が橋の中央の橋脚を直撃し……

橋脚が恐ろしく振動したかと思うと、この大きな橋は真っ二つに分かれ、生き物のような恐ろしい唸り声をあげて、激流に姿を没し、下方の波の中に姿をまた現わしたが、すでにばらばらの木材となって海の方向へ流れ去った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309-310 より引用)
橋は断末魔の叫び声を残して砕け散ってしまったのでした。

後には何一つ残らなかった。下流の橋は朝のうちに流されたから、川を歩いて渡れるようになるまで、この小さな部落は完全に孤立した。三〇マイルの道路にかかっている十九の橋のうちで二つだけが残って、道路そのものはほとんど全部流失してしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.310 より引用)
イザベラは「下流の橋は朝のうちに流された」としているのですが、当時の羽州街道は「平川」の東岸の「古懸こがけ」を経由していたのでしょうか。現在の国道 7 号は大鰐町唐牛かろうじまで、川の西側を経由しています。

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2024年5月2日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (179) 「鹿追市街」

鹿追町に入りました。鹿の後ろに湖が描かれたカントリーサインです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の右側に駐車帯が整備されています。このあたりは「鹿追町美蔓びまん」のようで、「美蔓」という地名はお隣の清水町と共有しているようです。

2024年5月1日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (178) 「札幌から 187.5 km」

道道 75 号「帯広新得線」を北に向かい、清水町に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「帯広新得線」と言うくらいですから、新得が終点なのだと思われますが、青看板には次の主要地として「富良野」までの距離が案内されています。

2024年4月30日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (177) 「毛根 27 号」

道道 75 号「帯広新得線」を西に向かいます。河西郡芽室町に入り、前方に「帯広・広尾自動車道」の立体交叉が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

青看板の支柱に十字路の警告標識がある……のは良いのですが、その下に「西士狩西十九号」という縦書きの標識があるのが面白いですね。

2024年4月29日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (161) 矢立峠(大館市)~碇ヶ関(平川市) (1878/7/31(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信」(初版では「第三十三信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

水の力

小雨が降る中、矢立峠を強行突破したイザベラ一行でしたが、ついにイザベラの強運も尽きたか、またしても雨が激しく降り始めてしまいます。

私は何週間も雨に降られていたので、はじめのうちはあまり気にもしなかったが、まもなく眼前に変化が起こり、私の注意はそれにひきつけられた。いたるところに烈しい水音が聞こえ、大きな木が辷り落ち、他の木もまきぞえをくって倒れた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.304 より引用)
雨が降るからには水量も増大するのは当然の理ですが、「大きな木がすべり落ち」というのは穏やかではありませんね。しかも……

地震のときのように音を轟かせながら山腹が崩れ、山半分が、その気高い杉の森とともに、前に突き出し、樹木は、その生えている地面とともに、まっさかさまに落ちて行き、川の流れを変えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.304 より引用)
どこからどう見ても、単なる長雨ではなく「土砂災害」ですよねこれ……。イザベラが「すばらしい道路である」と絶賛していた矢立峠の峠道も……

現実に私の眼の前で、この新しい道路が急に現われた奔流のために崩れ去り、あるいは数カ所で崖崩れのために埋まった。少し下方では、一瞬のうちに百ヤードも道路が消えてしまい、それとともにりっぱな橋が流され、下の方の奔流に横になって倒れたままになっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
良く整備された道路がほんの僅かな間に崩壊するというのは衝撃的ですが、イザベラはこの状況をどう乗り越えたのでしょう……?

困難増す

不思議なことに、イザベラは矢立峠から先に進むことができていたようで……

 山を下って行くと、事態はさらに悪化し、山崩れが滝のように樹木や丸太、岩石を押し流していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
少なくとも「山を下る」ことはできた、ということですね。イザベラ一行は偶然にも大館に向かっていた駄馬とその馬子に出会い、荷物と情報を交換します。

彼らは、もし急げば彼らが出てきた村へなんとか行きつくことができるだろう、と語った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
「彼ら(馬子)が出てきた村」の詳細は不明ですが、この先の文脈を考えると「いかりヶ関」(平川市)でしょうか?

しかし話をしているうちに、下の橋が流れてしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
カタストロフィですね……。能代から大館への移動(舟行)も相当危険なものでしたが、今回も負けてないような……?

イザベラ、鞍上に固定される

碇ヶ関?からやってきた馬子は、イザベラの身を案じ、イザベラを鞍上に固定することを強く勧めます。

彼らは、私を荷鞍にしっかり結びつけてあげよう、と言ってきかなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
これはイザベラが落馬しないように……ということだと思われるのですが、時岡敬子さんは少し違ったニュアンスで訳出されていました。

馬子は荷鞍に乗れとわたしをき立てました。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 上』講談社 p.435 より引用)
ちなみに原文では次のようになっていて……

They insisted on lashing me to the pack-saddle.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
今回は、高梨謙吉さんの訳のほうがリアルな感じがしますね。lash ではなく rush であれば、時岡さんの訳でバッチリなのかもしれませんが。

あの大きな谷川は、前にはその美しさを賞賛したのだったが、今ではもう恐ろしいものとなり、浅瀬がないところを四度も歩いて渡らねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.305 より引用)
何事もままならないのが人生ですが、今回の「天国?から地獄へ」の切り替わりの速さはこれまでの中でもトップレベルのような……。

イザベラ一行は、降り注いだ豪雨が滝のように流れ、山の斜面を樹木が滑り落ちてくる異常事態の中で山を下り……

最後に渡った川では、流れが強くて、男たちも馬も力の限りをつくした。私は馬に結びつけられていたから動きがとれず、実は眼を閉じて観念していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
あー、やはりイザベラは馬に固定されていたんですね。それにしても、あのイザベラが「目を閉じて観念する」というのは、やはり相当に危険な状況だったと言わざるを得ないような……。

イザベラ、ようやく固定を解除される

峠を越えたところで天候が急変したため、いずれにせよ山を下りるという選択肢しか無かったイザベラ一行ですが、青森側の馬子と偶然コンタクトが取れたというのは、やはりイザベラの強運のなせる業だったのでしょうか。結果的に、イザベラは峠から北に進むことに成功しているように見えます。

そこをやっと通り越すと、この村のある土地にやってきた。水田は土手が破れ、他の作物を耕作している美しい畑は、うねあぜもすべて跡形もなくなっていた。水量が増してきたから急がなければならない、と男たちは言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
田畑のあるところまで戻ってきた(イザベラにしてみれば「進んだ」)ということになりますね。

彼らは、私を結んでいる綱をとき、もっと気持ちよく馬に乗っていられるようにしてくれた。彼らは馬に話しかけ、駆け足で進んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
落馬防止のために綱で固定されていたイザベラですが、ここでようやく自由な姿勢で乗馬できるようになったようです。イザベラの馬の馬沓は渡河で傷んでしまい、馬は痛みと疲労でヨレヨレの状態だったようです。

突然、馬上のイザベラに異変が起こります。

雨は滝のように降ってきたので、ひょっとして鞍から私が押し流されたらどうなるだろうかと考えていたとき、突然眼の前に火花がどっと散って、言語に絶したものを感じた。私は息がつまり、打撲傷を受けていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
一体イザベラの身に何が起こったのか、という話ですが……

やがて私は三人の男たちによって溝から救い出された。そこでようやく知ったのだが、馬が険しい坂を下りるときに転んでしまい、私は馬の前に飛ばされたのだった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306 より引用)
イザベラの馬が下り坂で転倒し、イザベラは前方に投げ出されてしまった……ということのようでした。ここまでの旅でイザベラが落馬したことはあったでしょうか(気性の激しい馬に苦労したことはありましたが)。あったとしても、ここまで激しい落馬はこれまで無かったような……?

男たちは駆け足で、馬は躓いて水をはねながら、私たちはりっぱな橋を渡って平川を越え、また半マイル先で別の橋を渡って同じ川を横切った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.306-307 より引用)
イザベラが渡った「りっぱな橋」ですが、「遠部沢」を渡る「岩淵橋」と「津刈つがり川」を渡る「船岡橋」でしょうか。もしそうだとすると、厳密には「同じ川」を横切ったとは言えないのですが……。

日本の他の橋も、すべてこのようにしっかりしたものであればよいと思った。橋はどちらも長さ一〇〇フィートで、中央に橋脚があった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
矢立峠からの下りで、眼の前で橋が流されたのを見ているだけに、イザベラのコメントは重みがありますね……(汗)。

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2024年4月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1134) 「イオロウシ川・セタラ沢・鍛高」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イオロウシ川

e-woro-us-i
頭・水についている・いつもする・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
茶路川の東支流で、白糠町高台のあたりを流れています。国土数値情報では「イオロウシ川」の北隣を「イオロウシ沢川」が流れていることになっていますが、陸軍図では現在の「イオロウシ川」の位置に「イオロウシ澤」と描かれています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲルルシ」という川が描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) には「イオロウシ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ioro ushi   イオロ ウシ   川崎 川中ニ出デタル山崎○ 安政帳「イオルシ」トアルハ急言ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.323 より引用)
白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」にも、次のように記されていました。

「エ(頭)・ウオロ(水についている)・ウシ(ところ)」に由来していて、山がせり出し、その先端が川にせまっているようすを表します。
(広報しらぬか「茶路川筋のアイヌ語地名」より引用)
e-woro-us-i で「頭・水についている・いつもする・ところ」と読めそうでしょうか。イオロウシ川の南に標高 125 m ほどの山が伸びていて、その先端(西端)が崖になっています。

現在は国道(とかつての国鉄白糠線)を通すための崖にしか見えませんが、かつては茶路川が今よりも崖に近いところを流れていたようで、そのことから「山の先端」(=頭)がいつも水についている、と呼ばれたものと思われます。東川町の「江卸」と同型の地名と言えそうですね。

セタラ沢

setar-nay?
エゾノコリンゴ・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年4月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1133) 「マカヨ・御仁田・トンケシ川・トンヤ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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マカヨ

makayo?
ふきのとう
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
茶路小中学校」のあたりで茶路川に合流する「マカヨ川」という東支流があるのですが、地名としての「マカヨ」はこの川の流域を中心に、茶路川の東岸に広がっています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「?カヨ」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) (1895 頃) にも、ほぼ現在と同じ位置に「マカヨ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Makayo   マカヨ   蕗臺
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.322 より引用)
「蕗臺」は「ふきのとう」のことで、確かに makayo は「ふきのとう」を意味します。白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」によると、「マカヨ」は「マカヨ・タ・ナイ」が略されたもので、makayo-ta-nay で「ふきのとう・刈る・川」では無いかとのこと。

確かに「マカヨ」という地名はそう考えるのが自然ですが、makayo-ta-nay という川名の原典はあるのでしょうか。白糠地名研究会の『アイヌ語地名と原日本人:先住者の心をたずねて』(1983) に makayo-ta-nay とあるのは確認できたのですが、できればもう少し古い記録が欲しいところです。

余談

現在、「マカヨ川」の傍にある「茶路小中学校」のあるあたりは「白糠町松川」という地名なのですが、『アイヌ語地名と原日本人:先住者の心をたずねて』の付録「白糠町内会の由来一覧」には次のように記されていました。

 マカヨ沢のマカヨはアイヌ語で「松のたくさん、おいしげっている川」という意味である。この川に架けてある橋の名は松の生えている川にちなんで、松川橋なので、原語のマカヨそのままでは町名としてはへんだということになり、検討の末、松川部落と名づけられた。
(松本成美、白糠地名研究会『アイヌ語地名と原日本人:先住者の心をたずねて』現代史出版会 p.271 より引用)
「マカヨ」が「松のおいしげっている川」というのは何かの間違いなのですが、果たして本当に「ふきのとう」が自生していたのか、微かに疑いも抱いてしまいます。あえて「ふきのとう」以外の解釈を考えてみるなら、mak-wa-o で「山手・に・ある」と読めたりしないかな……とも。

マカヨ川は途中で二手に分かれていますが、西側(地理院地図に「マカヨ川」と記されているほう)は、茶路川とほぼ並行する向きに流れているので、その事を指して「山手にある」と呼んだのかな……という想像です。

御仁田(おにた)

o-nitat(-un-pet)
河口・湿地(・そこに入る・川)
(記録あり、類型あり)

2024年4月26日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (176) 「黄色地に黒文字と言えば」

「プロパンアンダーパス」で JR 根室本線の下をくぐると、程なく国道 38 号線との交叉点に辿り着きます。道道 151 号「幕別帯広芽室線」の単独区間はこの交叉点までっぽいですが、そのまま直進して北に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

国道 38 号から北は道道 214 号「川西芽室音更線」になるようです。

2024年4月25日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (175) 「プロパンアンダーパス」

道道 214 号「川西芽室音更線」は帯広広尾自動車道と交叉した直後で左に向かってしまいましたが、そのまま直進して市街地に入りました。ここは帯広市大空町の西側……の筈です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右折して、すぐ左折して、再び北に向かいます。すぐ近くに「公園線」という名前の四等三角点(標高 87.7 m)があるそうです。

2024年4月24日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (174) 「消えた白樺並木」

道道 62 号「豊頃糠内芽室線」を西北西に向かいます。
左折すると「岩内仙峡」ですが、この交叉点は、ホテルから岩内仙峡に向かう途中で通ったここですね。

2024年4月23日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (173) 「幻の?『戸蔦 1 号農道』」

道道 55 号「清水大樹線」から外れる形で直進して帯広市に戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

帯広市道らしい道を直進すると、左側に神社が見えてきました。この神社は「中戸蔦神社」と言うのだそうです。Google マップを見ると、2 区画ほど北西にも「戸蔦神社」があるっぽいのですが、結構な密度ですよね……。

2024年4月22日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (172) 「紫竹ガーデンまで 11 km」

道道 55 号「清水大樹線」の「上札内小学校入口」まで戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

わざわざこうやって小学校の入口をアピールするのも珍しく感じられるのですが、上空から見ると「あ、こりゃ看板が必要だな」と実感できるかもしれません(「55」の数字の上あたりに看板があります)。


ただ良く見ると、駐車場は北側から出入りするようになっているようなので、この看板は「正門」の位置を知らせるためのもの……でしょうか。徒歩で来場する人のための看板なのかもしれません。

道道 240 号「上札内帯広線」の起点となる交叉点に戻ってきました。左折すると「岩内仙峡」で、右折すると上札内小学校の駐車場です。

2024年4月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1132) 「大苗・フレイベツ川・御札部」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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大苗(おおなえ)

oo-nay?
深い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国鉄白糠線の上白糠駅があったあたりから少し西(茶路川の上流側)のあたりの地名で、同名の川も流れています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲウナイ」とあり、『北海道実測切図』(1895) にも「オオナイ」と描かれています。

白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」によると、「オオナイ」は「オオ(深い)・ナイ(沢)」だとあります。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) にも次のように記されていました。

 オオ・ナィ(oo-nay 水の深い・川)の意であるが現在は、明渠排水工事によって直線化され、川底もブロックを張りつめて、昔の形を見ることはできない。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.216 より引用)
oo-nay で「深い・川」だと考えられるのですが、鎌田さんはわざわざ「水の深い川」としています。どの辺が「水の深い川」だったのかは明言されていません。

地名において「深い」を意味する語には ooohoooho も同型)と rawne があります。oo は「水嵩のある」と言った意味で、rawne は「深く切り立った」という意味で解釈されます。鎌田さんはこの両者の違いを認識した上で「水の深い」と解釈したようです。

ただ、地形図を見た限りでは、大苗川は河口付近を除けば谷を流れる川で、流域面積も決して広いようには見えません。長雨でも無いと水嵩が上がりそうには思えないのですね。もちろん河口部が深く水を湛えていたと考えることも(理屈の上では)可能ですが、沼があったようにも見えないですし、果たして本当に「水の深い川」だったのか……という疑問が残ります。

oo あるいは oohorawne の代わり?のようになっていると思しきケースは、特に道東エリアにおいて散見されます。この「大苗川」も「深い・川」ですが、水深があるのではなく、深く切り立った谷を流れる川だったのでは……と思えて仕方がありません。

フレイベツ川

hure-pet
赤い・川
(記録あり、類型あり)

2024年4月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1131) 「ポンビラ・カリシヨ川・キナチャシナイ」

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ポンビラ

pon-pira
小さな・崖
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
茶路川西岸の地名で、Google マップでは白糠のアメダスの西のあたりと表示されます(一応は現役地名ということで)。『北海道実測切図』(1895) では、もう少し北側の、茶路川が山塊に迫っているあたりに描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でもほぼ同様の位置に描かれています。

東蝦夷日誌 (1863-1867) に「モ平(左川)」とあるのが、この「ポンビラ」のことかもしれません(mopon は意味が近いので)。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Pon pira   ポン ピラ   小崖
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.322 より引用)
ざっくりとした解が、後に知里さんに多大なる批判を浴びることになる永田地名解ですが、これは文句をつけることも無さそうな感じでしょうか。pon-pira で「小さな・崖」と見て良いかと思われます。

小さな崖があるということは、大きな崖もあっても良さそうなものですが、(現在の)キラコタンの対岸、戻辺川の東あたりの崖が「タン子ピラ」と呼ばれていたみたいです。tanne-pira で「長い・崖」だったのでしょうね。

カリシヨ川

kar-us-i??
発火器・多くある・もの
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年4月19日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (171) 「ピョウタンの滝」

「札内川園地」の駐車場に車を停めて……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「日高山脈山岳センター」を見に行くことにしました。

2024年4月18日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (170) 「札内川園地」

「虹大橋」で札内川を渡ります。欄干の向こうに見えているのが「ピョウタンの滝」です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

橋を渡った先には駐車場がありました。「札内川園地 日高山脈山岳センター」が右側にあると言うのですが……

2024年4月17日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (169) 「ピョウタンゲート」

道道 111 号「静内中札内線」でピョウタンの滝に向かう途中で、村道 55 号と交叉したのですが……
ここにも謎のキャラが。流石に気になったので調べてみたのですが、このキャラは「ピータン」という名前だそうで、ひよこの「ピー」と「ピョウタンの滝」の「タン」なのだとか(参考)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

白樺並木の道路ですが、左側には簡易型の路肩マーカーが立っていました。

2024年4月16日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (168) 「中札内の謎のキャラ」

中札内村に入りました。このあたりの道道 240 号「上札内帯広線」は「四十八号」の直線区間ですが、「八号」が帯広・広尾自動車道のあたりを通っていて、そこから数えて殖民区画 40 区の南を通っている、ということになるようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

中札内村に入りましたが、帯広市の「通行止のお知らせ」が立てられていました。戸蔦別川と岩内川を渡る橋が 3 箇所で通行止めになっていましたが、橋があるのはいずれも帯広市内なので……ということなのでしょうね。

2024年4月15日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (167) 「国鉄バスの廃車体」

「岩内自然の村」に向かった筈が、何故か「ポロシリの森」に向かう道に入り込んでしまってさあ大変……という話の続きです。前方に「緑栄橋」という橋が見えてきました。
ちなみにこの「緑栄橋」、岩内仙峡の「仙境橋」のすぐ近くで、滝のように岩内川に合流していた「五線沢川」の橋です。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

林道はダート路……というか、改めて思えば砂利が敷き詰められているようにも見えるのですが、ここから先は草生しているように見えます。

2024年4月14日日曜日

今週の出来事(2024/4/8~13)

今日は移動の最終日なので、ここまでの旅のまとめ(という名目の手抜き記事)です。なるべく写真や内容かぶらないようにしましたが、数枚ほどめちゃくちゃ気に入った写真があるので、その辺は堂々と重複しています(汗)。

Day 0 (2024/4/8)

京都駅で「のぞみ」に乗車しました。新幹線に乗るのは数年ぶりですが、相変わらず外国人観光客が多いですね……。
ちゃちゃっと都内に向かい、ホテルにチェックインを決めました。

2024年4月13日土曜日

きょうの出来事(2024/4/13)

今日は父島最終日です。最終日らしく(?)ツアーで南島に向かうことにしました。
ガイドさん兼船長さんは、この位置で船を操縦します。

2024年4月12日金曜日

きょうの出来事(2024/4/12)

父島三日目は、伊豆諸島開発の「ははじま丸」で母島に日帰り往復してきました。
「ははじま丸」は、父島と母島の間を約二時間で結びます。「おがさわら丸」と比べるとずいぶんとコンパクトな船です。

2024年4月11日木曜日

きょうの出来事(2024/4/11)

父島二日目は、レンタカーで島内一周となりました。まずは「ウェザーステーション展望台」に向かうと……
鳥がいました。特徴のあるカラーリングですが、名前は後で調べます……(汗)。テレ端 70 mm のレンズを「全画素超解像ズーム」で 140 mm 相当にしたのですが、やはり色々と物足りないなぁ……。ということで

2024年4月10日水曜日

きょうの出来事(2024/4/10)

竹芝桟橋から小笠原は父島の二見港まで、小笠原海運の「おがさわら丸」で移動です。
外海で、しかも低気圧が通過したとあって、海はなかなかの荒れ模様でした。

2024年4月9日火曜日

きょうの出来事(2024/4/9)

雨が降る中、竹芝桟橋フェリーターミナルにやってきました。
低気圧接近により高速船は欠航が出ていますが、「おがさわら丸」は予定通り運航のようです。

2024年4月8日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (166) 「白樺林の中のダート路」

「岩内仙峡」で渓谷美を堪能したので、どうせなら「岩内自然の村」にも行っておこう……と思い立ってしまいました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ということで「岩内仙峡」の駐車場を出て、右(南西)に向かいます。

2024年4月7日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1130) 「マサルカ・戻辺川・キラコタン」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

マサルカ

{masar-ka}?
{海岸の草原}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠町には「マサルカ」を名乗る地名が二つあり、一つは「庶路マサルカ」で、もう一つが白糠駅周辺の「マサルカ」です。『角川日本地名大辞典』(1987) によると「昭和46年~現在の白糠しらぬか町の行政字名」としつつ、「昭和54年一部が東 1 条~東 3 条の各南北,西 1 条南となる」とのこと。これを見る限り、白糠駅周辺の市街地の大半が「マサルカ」だったことになりますね。

Google Map や Mapion などの Web サイトでは、「白糠町マサルカ」は茶路川河口の東側の地名として出てきます(Google Map は、何故か「シラリカップ川」上流域にも出てきますが)。

『マサルカ」は「海岸の草原」を意味する語で、「小辞典』にも次のように記されています。

masar-ka マさㇽカ もと「マサルの上」の義。海岸の草原。これは砂浜より一段高くなっているのが普通である。
知里真志保地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.58 より引用)
これによると masar-ka は「海岸の草原」とありますが、masar の項にも……

masar, -i マさㇽ 浜の草原。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.57 より引用)
「浜の草原」とあり、masarmasar-ka の違いが今ひとつ良くわかりません。元々は masar上手かみてを意味していたのが、やがて事実上 masar と同義に変化した……とかかもしれません。

『角川日本地名大辞典』にも次のように記されていたのですが……

地名の由来は,アイヌ語の(サンケ)マサルカ(海岸の砂地に続くはまなすなどのある草原の意)による。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1408 より引用)
『地名アイヌ語小辞典』(1956) によると、海岸部の名称には大きく分けると ota(砂浜)と masar(草原)があり、masar の海側が sanke-masar(前に出る・草原)だとのこと。sanke-{masar-ka} だと「前に出る・草原の上手かみて」になってしまうので、やはり masar-kamasar と同義になっていたと見るべきかもしれません。

戻辺川(もとっぺ──)

motot-pet??
背骨・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年4月6日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1129) 「オクネップ川・茶路」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オクネップ川

o-kunne-p?
河口・黒い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠の市街地の東側を流れ、漁港に注ぐ川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲ子フ」とありますが、「リ」は「ク」の誤字である可能性がありそうです。『北海道実測切図』(1895) には「オク子ㇷ゚」と描かれています。

流木が多かった?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Okunep   オクネㇷ゚   塞ル處 流木多キ小川ナレバ此名アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.321 より引用)
鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) では、この解を受けて次のように続けていました。

オㇰ・ネッ・プ「ok-net-p ひっかかっている・流木・所(川)」の意で、流木によって川口がふさがれたと解した。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.210 より引用)
どうやら ok-net-p で「引っかかる・流木・ところ」と解したようです。割と珍しい解のように思えますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のように記されていました。

ok おㇰ 《完》引っかか(ってい)る。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.74 より引用)
また、加賀家文書『クスリ地名解』(1832) にも次のように記されていました。

ヲブニブ ヲブ・ニブ 留る・木だ
  此所に小川有。時化毎に寄木にて川尻を(閉)る故斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.256 より引用)
「ヲブニブ」の逐語解は不明ですが(o-mu-ni-o-p で「河口・塞がっている・流木・多くある・もの」とか?)、少なくとも大枠での意味は共通しているように思えます。永田地名解が記録した ok-net-p で「引っかかる・流木・ところ」というのも文法的に違和感があるのですが、あるいは ok-net-un-pe あたりが略された……ということでしょうか。

「河口が黒い川」では?

どうにも違和感が凄いので悩んでいたのですが、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

今行って見ると,石炭岬の処から,街を流れるオクネップ川(o-kunne-p。川尻・黒い・もの,川か?)までの海中が岩礁で,渦潮時は海中に没し,白波が見える。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.282 より引用)
やはり、普通に考えるとそうなりますよね。加賀伝蔵以来の「塞がる川」という解釈に引っ掻き回された感がありますが、o-kunne-p で「河口・黒い・川」と見て良いのではと思います。なぜ河口が黒いのか……という話ですが、きっと流木が溜まっていて、それが黒く見えたのではないかと……。

茶路川(ちゃろ──)

charo-o-pet?
その口(入口)・そこにある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)