上体がやや立ち上がり気味ですが、膝がしっかりと前に入っていて良い姿勢ですね。
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直前に「急カーブ・急勾配」という警告が出ていましたが、予告通りにカーブが増えてきました。
2024年5月17日金曜日
2024年5月16日木曜日
2024年5月15日水曜日
2024年5月14日火曜日
2024年5月13日月曜日
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2024年5月12日日曜日
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Pira un nai ピラ ウン ナイ 崖ノ川pira-un-nay で「崖・ある・川」と読めますが、-us ではなく -un なので、「崖・に入る・川」と捉えたほうが良いかもしれません。
2024年5月11日土曜日
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Poro yam wakka ポロ ヤㇺ ワㇰカ 大ナル冷水poro-yam-wakka で「大きな・冷たい・水」と読めますが、nay あたりが略されているような感じがします(あるいは pet か)。きっと「大きな『冷たい水』の川」で、冷たい飲水を供給してくれる川だったのでしょうね。
2024年5月10日金曜日
2024年5月9日木曜日
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2024年5月8日水曜日
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2024年5月7日火曜日
2024年5月6日月曜日
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縫 別(ぬいべつ)
所在地 (釧路国)白糠郡白糠町
開 駅 昭和39年10月 7 日 (客)
起 源 アイヌ語の「ニウンペッ」(木のある川)から出たもので、これが「縫別」に転かしたのである。
ヌイェ・ペッ(nuye-pet 豊漁の・川) の意である。鮭をはじめ多くの魚がとれた川なのであった。
2024年5月5日日曜日
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
子どもには特別の服装はない。これは奇妙な習慣であって、私は何度でも繰り返して述べたい。子どもは三歳になると着物 と帯をつける。これは親たちも同じだが、不自由な服装である。
この服装で子どもらしい遊びをしている姿は奇怪 なものである。
しかし私は、私たちが子どもの遊びといっているものを見たことがない──いろんな衝動にかられてめちゃくちゃに暴れまわり、取っ組みあったり、殴りあったり、転げまわったり、跳びまわったり、蹴ったり、叫んだり、笑ったり、喧嘩をしたりするなど!
頭のよい少年が二人いて、甲虫の背中に糸をつけて引き綱にし、紙の荷車をひっぱらせていた。八匹の甲虫が斜面の上を米の荷を引きながら運んで行く。
英国であったら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるか、あなたにはよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見つめている。
街路にあって速く流れる水路は、多くのおもちゃの水車を回している。これがうまくつくられた機械のおもちゃを動かす。その中で脱穀機の模型がもっともふつうに見られる。少年たちはこれらの模型を工夫したり、じっと見ながら、大部分の時間を過ごす。それは実に心をひきつけるものがある。
休暇になっているが、「休暇の宿題」が与えられている。
休暇が終わって学校がまた始まると試験がある。学期の終わりに試験があるのではない。これは学生たちに休むことなく知識を増進させたいというまじめな願望を示す取り計らいである。
今日の午後は晴れて風があった。少年たちは凧をあげていた。凧は竹の枠に丈夫な紙を張ったもので、すべて四角形である。五フィート平方もあるのがある。
二つの大きな凧の間に非常に面白い競争があった。それを見るために村中の人々が出てきた。どちらの凧の糸も、枠の下から三〇フィート以上も、砕いたガラスでおおわれ、これは粘り強い糊でびったりと糸にくっついていた。
そして勝者と敗者は三度頭を深く下げて挨拶をかわした。人々は、橋が破壊されるときも黙って見つめていたが、このときも沈黙のまま、この手に汗にぎる試合を見ていた。
子どもたちは竹馬に乗りながらも凧をあげた。これはたいへん手練のいる技で、誰でもできるものではない。
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2024年5月4日土曜日
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
私がこの土地で気晴らしにやることは、ほとんど尽きてしまった。
それは、川の水がどれほど下がったか、毎日三度見に行くこと。それからまた私は宿の亭主や村長 と話をする。
子どもたちが遊ぶのや屋根板を作るのを見る。おもちゃや菓子を買って、それをくれてやる。一日に三度、たくさんの眼病の人に亜鉛華目薬をつけてやる。
料理、糸紡ぎ、その他に台所 でやる家庭の仕事を見る。実際に家の中に住んでいる馬に、乾草ではなく青い草の葉を食べさせるのを見る。
それから癩患者たちを診る。彼らはその恐ろしい病気を治療とまでゆかなくとも抑えることができると思っている鉱泉があるので、ここにやってきているのである。
そして、ベッドに横になって縫い物をしたり、『アジア協会誌』の論文を読んだり、青森に至るあらゆる可能な道筋 を調べたりする。
目薬をつけてやるので、村の人々は私にたいそう親切になった。私にみてくれと多くの病人を連れてくる。
その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。
私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。
日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。
英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騒したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。
規則は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。
子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。
しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。
許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。
子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
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2024年5月3日金曜日
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
私たちは最後の橋を渡ると碇ガ関 に入った。ここは人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。
ここは永住の村というよりは材木切り出し人の野営地のように見えた。しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた。
街路は長くて狭く、両側に石の水路の川が流れていた。しかしこれらも水があふれて、男や女、子どもが、四角なダムを作って畳に上がってこないように堰止めていたが、水はすでに土間に達していた。
人馬を流すような豪雨の中を、水溜まりになった鞍に腰をかけながら、もう数時間も前からびしょ濡れになって、この非常に原始的な宿屋に到着した。
宿の下手は台所で、大雨で足どめされている学生たちの一団や、馬や鶏、犬などがいた。
私の部屋は梯子で上って行く屋根裏のあわれな部屋であった。
梯子の下は泥沼のようになっていたので、下りるときにはウェリントン・ブーツ(膝まで来る長靴)を履かねばならなかった。
ベッドはずぶ濡れになっており、私の箱に水が入っていて、練乳の残りも溶けていた。
私たちが先ほど村に入るときに渡った橋が落ちそうだという。
そこで、川の土手まで走って行って大群集の中にまじった。彼らは今にも迫っている災害に気をとられ、今まで見たこともない外国婦人には少しも気づかなかった。
平川は、一時間前までは単に深さ四フィートの清冽な谷川であったが、今や一〇フィートも深くなって、ものすごい音を立てながら、濁流となって突進していた。
どの波も黄褐色の泡をふきながら
波頭を立てていた──
栗毛の馬のたてがみにも似て
切り出した大きな材木や樹木、木の根や大枝、小枝が数限りなく流れ下ってきていた。こちら側の橋台は根元をだいぶ削りとられたが、中央の橋脚に丸太が衝突するたびに震えるだけで、橋そのものはしっかり立っていた。
実際まだしっかりしていたから、私が着いてからも、二人の男が、向こう岸にある自分の持ち物をとってこようと橋を渡って行ったほどである。
やがて、鉋 をかけた大きな木材と、木のつけ根やいろんな残骸物が下ってきた。上流のりっぱな橋が落ちたので、三〇フィートもある四十本ものりっぱな材木が流れて来た。
上流の土手では、流れてくる材木を捕らえようと努力がなされたが、二十本のうち一本ぐらいしか救うことができなかった。
これらの材木が下ってくる壮大な光景は、たいそう面白かった。
この後一時間して、三〇フィートは充分にある二本の丸太がくっついて下ってきて、ほとんど同時に、中央の橋脚に衝突した。
橋脚が恐ろしく振動したかと思うと、この大きな橋は真っ二つに分かれ、生き物のような恐ろしい唸り声をあげて、激流に姿を没し、下方の波の中に姿をまた現わしたが、すでにばらばらの木材となって海の方向へ流れ去った。
後には何一つ残らなかった。下流の橋は朝のうちに流されたから、川を歩いて渡れるようになるまで、この小さな部落は完全に孤立した。三〇マイルの道路にかかっている十九の橋のうちで二つだけが残って、道路そのものはほとんど全部流失してしまった。
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2024年5月2日木曜日
2024年5月1日水曜日
2024年4月30日火曜日
2024年4月29日月曜日
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私は何週間も雨に降られていたので、はじめのうちはあまり気にもしなかったが、まもなく眼前に変化が起こり、私の注意はそれにひきつけられた。いたるところに烈しい水音が聞こえ、大きな木が辷り落ち、他の木もまきぞえをくって倒れた。
地震のときのように音を轟かせながら山腹が崩れ、山半分が、その気高い杉の森とともに、前に突き出し、樹木は、その生えている地面とともに、まっさかさまに落ちて行き、川の流れを変えた。
現実に私の眼の前で、この新しい道路が急に現われた奔流のために崩れ去り、あるいは数カ所で崖崩れのために埋まった。少し下方では、一瞬のうちに百ヤードも道路が消えてしまい、それとともにりっぱな橋が流され、下の方の奔流に横になって倒れたままになっていた。
山を下って行くと、事態はさらに悪化し、山崩れが滝のように樹木や丸太、岩石を押し流していた。
彼らは、もし急げば彼らが出てきた村へなんとか行きつくことができるだろう、と語った。
しかし話をしているうちに、下の橋が流れてしまった。
彼らは、私を荷鞍にしっかり結びつけてあげよう、と言ってきかなかった。
馬子は荷鞍に乗れとわたしを急 き立てました。
They insisted on lashing me to the pack-saddle.
あの大きな谷川は、前にはその美しさを賞賛したのだったが、今ではもう恐ろしいものとなり、浅瀬がないところを四度も歩いて渡らねばならなかった。
最後に渡った川では、流れが強くて、男たちも馬も力の限りをつくした。私は馬に結びつけられていたから動きがとれず、実は眼を閉じて観念していた。
そこをやっと通り越すと、この村のある土地にやってきた。水田は土手が破れ、他の作物を耕作している美しい畑は、畝 も畦 もすべて跡形もなくなっていた。水量が増してきたから急がなければならない、と男たちは言った。
彼らは、私を結んでいる綱をとき、もっと気持ちよく馬に乗っていられるようにしてくれた。彼らは馬に話しかけ、駆け足で進んだ。
雨は滝のように降ってきたので、ひょっとして鞍から私が押し流されたらどうなるだろうかと考えていたとき、突然眼の前に火花がどっと散って、言語に絶したものを感じた。私は息がつまり、打撲傷を受けていた。
やがて私は三人の男たちによって溝から救い出された。そこでようやく知ったのだが、馬が険しい坂を下りるときに転んでしまい、私は馬の前に飛ばされたのだった。
男たちは駆け足で、馬は躓いて水をはねながら、私たちはりっぱな橋を渡って平川を越え、また半マイル先で別の橋を渡って同じ川を横切った。
日本の他の橋も、すべてこのようにしっかりしたものであればよいと思った。橋はどちらも長さ一〇〇フィートで、中央に橋脚があった。
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2024年4月28日日曜日
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Ioro ushi イオロ ウシ 川崎 川中ニ出デタル山崎○ 安政帳「イオルシ」トアルハ急言ナリ白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」にも、次のように記されていました。
「エ(頭)・ウオロ(水についている)・ウシ(ところ)」に由来していて、山がせり出し、その先端が川にせまっているようすを表します。
2024年4月27日土曜日
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Makayo マカヨ 蕗臺「蕗臺」は「ふきのとう」のことで、確かに makayo は「ふきのとう」を意味します。白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」によると、「マカヨ」は「マカヨ・タ・ナイ」が略されたもので、makayo-ta-nay で「ふきのとう・刈る・川」では無いかとのこと。
マカヨ沢のマカヨはアイヌ語で「松のたくさん、おいしげっている川」という意味である。この川に架けてある橋の名は松の生えている川にちなんで、松川橋なので、原語のマカヨそのままでは町名としてはへんだということになり、検討の末、松川部落と名づけられた。
マカヨ川は途中で二手に分かれていますが、西側(地理院地図に「マカヨ川」と記されているほう)は、茶路川とほぼ並行する向きに流れているので、その事を指して「山手にある」と呼んだのかな……という想像です。
2024年4月26日金曜日
2024年4月25日木曜日
2024年4月24日水曜日
2024年4月23日火曜日
2024年4月22日月曜日
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2024年4月21日日曜日
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オオ・ナィ(oo-nay 水の深い・川)の意であるが現在は、明渠排水工事によって直線化され、川底もブロックを張りつめて、昔の形を見ることはできない。
2024年4月20日土曜日
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Pon pira ポン ピラ 小崖ざっくりとした解が、後に知里さんに多大なる批判を浴びることになる永田地名解ですが、これは文句をつけることも無さそうな感じでしょうか。pon-pira で「小さな・崖」と見て良いかと思われます。
2024年4月19日金曜日
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2024年4月18日木曜日
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2024年4月17日水曜日
2024年4月16日火曜日
2024年4月15日月曜日
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2024年4月14日日曜日
2024年4月13日土曜日
2024年4月12日金曜日
2024年4月11日木曜日
2024年4月10日水曜日
2024年4月9日火曜日
2024年4月8日月曜日
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2024年4月7日日曜日
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masar-ka マさㇽカ もと「マサルの上」の義。海岸の草原。これは砂浜より一段高くなっているのが普通である。これによると masar-ka は「海岸の草原」とありますが、masar の項にも……
masar, -i マさㇽ 浜の草原。
地名の由来は,アイヌ語の(サンケ)マサルカ(海岸の砂地に続くはまなすなどのある草原の意)による。
2024年4月6日土曜日
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Okunep オクネㇷ゚ 塞ル處 流木多キ小川ナレバ此名アリ鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) では、この解を受けて次のように続けていました。
オㇰ・ネッ・プ「ok-net-p ひっかかっている・流木・所(川)」の意で、流木によって川口がふさがれたと解した。
ok おㇰ 《完》引っかか(ってい)る。
ヲブニブ ヲブ・ニブ 留る・木だ
此所に小川有。時化毎に寄木にて川尻を留 る故斯名附由。
今行って見ると,石炭岬の処から,街を流れるオクネップ川(o-kunne-p。川尻・黒い・もの,川か?)までの海中が岩礁で,渦潮時は海中に没し,白波が見える。