2020年4月30日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (1) 「制限速度は 60 km/h」

ある晴れた春の日……(ぉぃ)。ということで、2016 年のゴールデンウィークにタイムスリップしてみましょう。ええ、まだ 4 年前のネタを残していたんですね……(汗)。
ということで、まずは大阪府は太子町に入ります。あれ、よく見たら「大阪府」だけ公団フォントですね。あれれ?

14 号松原線で大阪市内へ

阪神高速の 14 号松原線で市内中心部に向かいます。阪神高速は 2020 年に大和川線が全通したので、この看板も少しデザインが変わっている筈です。
数え切れないほどオービスがある 14 号松原線を抜けて、環状線に入りました。なんばを過ぎたあたりでしょうか。

3 号神戸線へ

3 号神戸線が分岐する「西船場 JCT」が近づいてきました。ここで環状線を抜けて神戸線に向かいます。
「阿波座 JCT」で改めて 3 号神戸線に向かいます。……北海道に行く筈なのに、一体どこへ向かっているのか……。
「海老江 JCT」のあたりにやってきました。3 号神戸線は昔ながらの都市高速なので、制限速度は 60 km/h です。
えー……、制限速度は 60 km/h です(さっきも聞いた)。
ですので、制限(もういいよ

西の「オービス銀座」を通り過ぎ

オービスの数という話では「14 号松原線」に尋常ではない数が設置されているのですが、3 号神戸線もなかなかのものですよね。
もっとも、3 号神戸線は 14 号松原線と比べると若干線形もいいので、杓子定規に 60 km/h 制限というのもなかなかつらいものがあります。せめて 70 km/h 制限にならないかなー……
これは「N システム」ですよね(ナンバープレートを撮影するだけで、速度取締は行わない)。たまに N システムの手前で急ブレーキを踏む車がいるので気をつけたいところです。
こういった構造の道路をちょくちょく見かけますが、これは左右の防音壁を連結して支えるためのものでしょうか……? ゴルフ場の近くでも似たようなものを見かけますが、3 号神戸線のものは上にネットがついているわけでは無いんですよね。

神戸っぽい景色

六甲山が近づいてきて、そしてタワマンがちょくちょく目立つようになってきました。神戸っぽい景色になってきましたね。
「神戸っぽい」と言えばこのアングルも。阪神高速の上をなぜか国道 2 号が通っているという謎構造です。阪神高速の上、国道の下をポートライナーが通過中ですね。

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2020年4月29日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (101) 小松(川西町)~洲島(川西町) (1878/7/14)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第十八信」(初版では「第二十三信」)を見ていきます。

性悪の馬

小松(羽前小松)で「ダイミョーの部屋」に泊まったイザベラは、翌朝、出発の刻を迎えました。イザベラ一行の出発を見送るのは、毎度おなじみ「怖いもの見たさ」で集まってきた大群衆です。

 私が小松を出発するとき、家の中には六十人もおり、外には千五百人もいた。塀や縁側、屋根さえも満員であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
この手の描写を読むと、多少なりともイザベラは話を盛っていたんじゃないかと疑いたくもなってしまうのですが、実際のところはどうだったのでしょう。いや、川西町小松にそれだけの人が住んでいたのだろうか、と疑問に思えてくるのです。

そもそも「東置賜郡小松村」にどれだけの人が住んでいたのだろう……と思って「川西町」の Wikipedia を見てみたところ……

1878 年、旅行家のイザベラ・バードが旅の途中、小松の肝煎りであった金子十三衛門家の邸宅に宿泊した。その際、町の住民の半数が外国人の見物に集まったという。
(Wikipedia 日本語版「川西町 (山形県)」より引用)
既に史実になっていました(汗)。ちなみに「東置賜郡小松村」は成立の翌年に町制施行して「小松町」になったとのことで、1950 年時点での総人口は 7,489 人だったとのこと。なるほど、「町の住民の半数」がイザベラ見物に繰り出したということであれば、数字上の矛盾は無いですね(汗)。

イザベラはこれまで馬や牛を乗り継いできましたが、小松では新たな出会いがあったようです。

日光から小松まで例外なく牝馬が用いられてきたが、ここで初めて恐ろしい日本の駄馬に出会った。二頭の恐ろしい形相の馬が玄関にいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
ふーむ。やはり牝馬のほうが性質がおっとりしていて乗りやすい、ということなんでしょうか。そして早々と悲劇に見舞われます。

私が馬に乗ると、群集がついてきた。進むにつれて群集は増し、下駄の音や群集の声に驚いた馬は、ついに頭につけた綱を切った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217 より引用)
あー……(汗)。やはり馬も異様な雰囲気に飲まれてしまったんでしょうか。

驚いた馬子が馬を手放すと、馬は主に後脚で街路を駆けて行き、声をあげ、前脚で乱暴に打ちまくるので、群集は右へ左へと散った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217 より引用)
馬がブチ切れるとこんな感じになるんでしょうね。イザベラの描写はすごくリアルなので、その時の光景を容易に想像できそうです。「暴れ馬」は警察署の前で警官によって取り押さえられましたが、後ろを振り返ると……

ふり返ると、伊藤の馬は後脚で立っており、伊藤は地面に落ちていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217 より引用)
あー、このオチのつき方、なんか既視感があると思ったら、どことなく「ギャグマンガ日和」の芭蕉と曾良に通じるものがあるような……。

結局、芭蕉と曾良……じゃなくてイザベラ一行は赤湯までこの暴れ馬と付き合うことになりますが、伊藤氏は赤湯でも落馬の憂き目に遭っていたようです。あれ、そういやイザベラは落馬しなかったんですかね? 「その野獣のような動作には、馬によく慣れている私もとてもかなわなかった」とありますが、「馬から落ちた」とはどこにも書いていないような……。

アジアの楽園

小松での「エクストリーム・暴れ馬」イベントをクリアした(?)イザベラ一行は、東に向かって進みます。次の目的地は赤湯っぽいので、現在だと県道 102 号「南陽川西線」沿いのルートも取れそうな気がするのですが、どうやら県道 7 号「高畠川西線」沿いに移動したようです。

 たいそう暑かったが、快い夏の日であった。会津の雪の連峰も、日光に輝いていると、冷たくは見えなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217-218 より引用)
7 月ですが、会津の山々には雪が残っていたのですね。「快い夏の日」ということは、良く晴れていたのでしょうか。

米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)
「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」は、原文では "tilled with a pencil instead of a plough" とありました。これは Ralph Waldo Emerson"English Traits" へのオマージュだったようです。"English Traits" の第 3 章 "Land" の中に、こんな文章がありました。

England is a garden. Under an ash-colored sky, the fields have been combed and rolled till they appear to have been finished with a pencil instead of a plough.
(Ralph Waldo Emerson, "English traits" より引用)
colored……アメリカ英語……(そこか)。ちなみにエマーソンが亡くなったのは 1882 年のこととのことで、イザベラが米沢盆地を旅した頃は存命だったことになります。

米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)
イザベラは随分と米沢盆地の旅を満喫しているように見えます。新潟から米沢に移動する間、途中で極貧の村々を見てきただけに、米沢盆地の豊かさに、イザベラ自身の心も満たされたようですね。

彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)
米沢藩と言えば上杉家ですが、米沢盆地には他に天領もあったとのこと。統治面でも住民は比較的恵まれた環境に置かれていたのかもしれません。

イザベラは、米沢盆地の農村における解放感のある暮らしぶりにいたく感銘を受けていたようですが……

それでもやはり大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)
現世での生々しい利益を追い求めるスタイルについては、「野蛮なもの」と感じていたようですね。

 美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)
はて「松川」なんて川があったっけ……と思ったのですが、改めて陸軍図を見てみると、現在の「最上川」に「川 松」と描かれているではありませんか。どうやら米沢盆地では「最上川」のことを「松川」と呼ぶ流儀があったようです。

経由地のチェック

山間部を移動する場合、起点と終点が明らかになっていればおおよそのルートが特定できるのに対し、平野部の場合は様々なルートを取ることができるので、なかなか足取りを追うのは容易ではありません。ただ、ありがたいことにイザベラは経由した地名もいくつか書き残していました。

私たちが通過したり傍を通った村々は、吉田、洲島(セモシマ)、黒川、高山、高滝であったが、さらにこの平野には五十以上も村落の姿が見えて、ゆるやかに傾斜する褐色の農家の屋根が林の間からのぞいていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)
この「吉田」「洲島」「黒川」「高山」「高滝」ですが、まず原文ではどう表記されているか確認しておきましょう。

Besides the villages of Yoshida, Semoshima, Kurokawa, Takayama, and Takataki, through or near which we passed,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
Yoshida については、県道 7 号沿いに「川西町吉田」があります(但し現在は「──よした」と発音するようです)。Semoshima については少々謎ですが、やはり「川西町洲島」(すのしま)と考えるしか無さそうです。

TakayamaKurokawa についても、それぞれ「川西町高山」「川西町黒川」と考えるしか無さそうです。ここまで見てわかることは、「吉田」「洲島」「黒川」「高山」はどうやら順不同と思われる、ということでしょうか。

謎の「高滝」

問題は「高滝」で、現存地名には見当たらないようなのですね。この「高滝」を、赤湯駅からそれほど遠くない「高梨」(南陽市)ではないか、と考える向きもあるようですが、イザベラ一行は渡し舟で最上川(松川)を渡って「津久茂」(高畠町)にたどり着いた、との記載が後で出てきます。

高畠町津久茂から赤湯には、現在は国道 13 号で直行することができます(実はイザベラも「よく手入れがしてある広い道路を移動した」と記しています)。わざわざ赤湯の西の「高梨」に立ち寄るとは考えにくいのですね。

となると、イザベラが Takataki と記した地名はどこだったのか……ということになりますが、県道 7 号が「黒川」を渡るあたりに「高橋」という小字?があるので、おそらくこれでは無いでしょうか。

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2020年4月28日火曜日

伯備線ちょっとだけ各駅停車 (終) 「新見駅 伯備線ホーム」

新見駅は、1 番のりばが芸備線ホームで、2 番のりばが姫新線ホームとなっています。2 番線と伯備線ホームの間にはホームを持たない 2 本の中線があるので、伯備線ホームは「5 番のりば」と「6 番のりば」になっている……らしいのですが、
あれ。普通に「3 番のりば」と「4 番のりば」ですよねどう見ても。おっかしーなーと思って Wikipedia の「新見駅」の記事を確かめたところ、変更されたのは 2019/3/16 とのこと。2017/1/30 時点では「3 番のりば」「4 番のりば」だった、というオチでした。
伯備線ホームにやってきたところ、ちょうどいいタイミングで西出雲行きの各駅停車(831M)が入線してきました。前面がめちゃくちゃ平べったい車輌ですが、これ、確か 115 系電車なんですよね。

本日の特急やくも号編成表

地下通路から階段を上がってすぐのところに「本日の特急やくも号編成表」が掲出されていました。朝 6 時台から 20 時台まで、見事に 1 時間 1 本ペースで走るようです。
ちなみに裏側は「米子・松江・出雲市方面行」の「本日の特急やくも号編成表」でした。こちらも見事に 1 時間 1 本ペースのようですね。国鉄時代に「本線」ではなかった路線で、これだけの頻度で特急が走っているところって、あまり無いような気が……(あとは京葉線、篠ノ井線、阪和線、千歳線くらい? あ、湖西線もあるか)。

伯備線 標準時刻

ホーム上には、もちろん普通の時刻表も設置されています。「伯備線 米子 出雲市 方面 標準時刻」を見ると、特急が 15 本あるのに対して普通列車が 8 本しか無いことがわかります。
あれっ、そう言えばいつの間に……。2 番のりばに 16:33 発の姫新線・津山行き 864D が入線していたようです。
「米子 出雲市 方面」の裏側は、「伯備線 倉敷 岡山 方面」です。特急が 15 本なのは同じですが、普通列車(電車かな?)も 15 本走るようです。

「おもてなし花壇」ふたたび

そして時刻表の後ろには、この日の朝に「サンライズ出雲」の車内から見かけた「ようこそ 新見 へ」の文字が光る「おもてなし花壇」が。
製作者の皆さんに敬意を表して、改めてご紹介です。

「やくも 22 号」で岡山へ

新見からは、特急「やくも 22 号」で岡山に向かうことにしました。
線路にわずかに雪が残っているのは、地下道の上だからでしょうか。
新見駅の「3 番のりば」(当時)に、特急「やくも 22 号」がやってきました。
久しぶりの「特急」なので、少し奮発してグリーン車にしてみました。グリーン車は普通車と比べて列車ごとにバリエーションが豊かなのが良いですよね(あと比較的空いているのも素晴らしいですが)。

ご愛読ありがとうございました!

……ということで、「寝台特急『サンライズ出雲』乗車記」から続く形で進めてきた「木次線各駅停車」は今回で最終回となります。ご愛読ありがとうございました!

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2020年4月27日月曜日

伯備線ちょっとだけ各駅停車 (41) 「新見 その 2」

次の乗り換えは少し時間に余裕がありそうなので、一度外から新見駅の駅舎を見てみることにしました。地下通路を右に曲がって、階段を上がって改札に向かいます。

「たまがきと祐清」像

改札をささっと出て、そのまま駅舎の外まで出てしまいました。新見駅の駅舎も昔ながらの佇まいですが、臙脂色の瓦屋根が美しいですね。
駅前広場はコンパクトながら機能的なレイアウトに見えます。バス停は 3 つあり、それぞれ屋根が設けられています。
新見駅は高梁川の南側にあり、駅前広場から 50 m ほど歩けばすぐに高梁川です。
駅前広場の西側には謎の銅像が。これは「たまがき」と「祐清」という、室町時代を生きた人物の像のようです。たまがきが書いたとされる手紙が「東寺百合文書」の中に存在するとのこと。

「千屋牛の里」

ということで、ささっと新見駅に戻ってきました。駅舎の中には切符の自販機があり、山陰線だと揖屋(松江市)まで、木次線だと出雲八代(奥出雲町)までの切符が購入できます。横には随分とエグゼクティブな感じの待合室があります。
時刻表の向こうに電車が見えます。どうやら岡山からやってきた新見止まりの電車のようですね。
待合室の西側に、以前は店舗だったのではないかと思わせるスペースがありました。
牛の写真がすごくインパクトがありますね。牛の情報のみならず、周辺の観光情報がまとめられているようでした。

伯備線ホームへ

乗り換えにはもう少し時間がありますが、伯備線のホームに向かうことにしましょう(姫新線に乗るという手もあったのですが、途中で日没を迎えてしまいそうで、またカメラの電池も切れそうだったので)。
あっ、目の前で芸備線の東城行き 453D が出発してしまいました。
それでは、地下通路をまっすぐ歩いて伯備線のりばに向かいましょう。

新見市の「春夏秋冬」

新見駅の地下通路には「春夏秋冬」の名所が描かれていました(新見高校美術部の皆さんの作品のようです)。「春」をテーマにした絵は「鯉が窪湿原」が描かれています。哲西町矢田にあるとのことで、鉄道だと矢神駅が最寄りでしょうか。
「夏」は「大佐山」でパラセーリング……ですね。中国道に「大佐 SA」というサービスエリアがありますが、JR 姫新線の刑部駅のほうがより近そうです(旧・阿哲郡大佐町)。「鯉が窪湿原」と「大佐山」は相当離れていますが、どっちも新見市です。もしかしてこれらの絵は大合併記念だったのでしょうか?
「秋」は「絹掛の滝」とのこと。伯備線の井倉駅と広石信号場の間、正確には高梁川の向かい側の国道 180 号沿いにある滝だそうです。ここまで新見市の南西部(鯉が窪湿原)、北東部(大佐山)と来ていましたが、今度は南東部のスポットです。
「冬」は「千屋スキー場」とのこと。駅舎の中に貼り出されていた牛の写真は「千屋牛」でしたが、新見市北部の地名のようです。
「新見市」は 2005 年に「大佐町」「神郷町」「哲多町」「哲西町」と対等合併しています。地下通路の「春夏秋冬」で選ばれたスポットは「哲西町」「大佐町」「新見市」「新見市」ということで、バランスがうまく取れているようにも見えます。

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2020年4月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (723) 「能蘭山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

能蘭山(のうらん──)

no-ru-e-ran??
クマ・道・そこから・降りている
mo-ru-e-ran??
小さな・足跡・そこから・降りている

(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
オネナイ川の南に位置する山の名前です。また海側には「ノーラン岬」もあり、かつては国道 229 号で行くことができたのですが、現在は「川白トンネル」で通過してしまうため「ノーラン岬」に車で行くことは難しくなっています。

「能蘭山」の位置の検討

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ノロラン」という名前の山が描かれていました。但し位置は若干ズレているようで、珊内の南、国道 229 号が「キナウシトンネル」で抜けているあたりの山として描かれているように見えます。

ただ「西蝦夷日誌」を見た限りでは、おおよそ現在の「能蘭山」と思しき位置に「モロラネ(崖)」と言う記録があります。「ノーラン」「ノロラン」とは少し違う形なのが気になりますが、少なくとも珊内の南にそれらしき山または崖の記録は見当たらないため、「モロラネ」が現在の「能蘭山」を指している可能性が高そうです。

前後関係を正確に把握するために、ちょっと長いですが引用してみます。

サネナイ〔珊内、柵内〕(番や、板くら、夷家二軒)、我等此所へ下りしなり。従
レ是轉太濱、エナヲ岬、ホンイカウシ(磯)、イカウシ(崖)、ホロシヨシケ(同)、ホンシヨシケ(同)、ウシヨロ(小灣)名義、懐の義。モロラネ(崖)上に高山あり。名義、大落崩義。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.125 より引用)
「西蝦夷日誌」では「モロラネ(崖)」の次が「ヲンネナイ(瀧)」となっています。これはオネナイ川を指すと考えられますので、「モロラネ(崖)」は厳密には「ノーラン岬」ではなく、能蘭山の西、川白トンネルの北側入り口のあたりを指していると見られます。明治時代の地形図では「ノトロ」(not-oro で「鼻のところ」)となっているあたりです。

現在の「ノーラン岬」ですが、大正時代に測量された陸軍図では「ノナマイ岬」となっていました(ついでに言えば、「西蝦夷日誌」で「エナヲ岬」と呼ばれている岬のことかもしれません)。やはり「能蘭山」とは関係なさそうな感じです。

ちょいと細かい話ですが

「モロラネ」と「ヲンネナイ」の間については、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ウシヨロ 少し澗也。
     モロラ子
此辺に到るや岩石峨々たるに、其辺飛越刎越其岩間には浪打込候て其奇絶如何とも云がたし。又此辺鹿骨多し。是は皆冬分熊に追出され来りて喰殺されしものなりと。其角中々数え尽さるべきものにあらず。又少し出岬やワシリ等をこへて、
     ヲン子ナイ 滝有。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.382 より引用)
「ウシヨロ」というのは小樽の「忍路」と似た地形だと考えられますが、規模こそ違えど確かにそれっぽい地形があります。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「モロラネ」が「出岬」を指すのか、それともその麓を指すのかが若干曖昧ですが、おおよその位置は特定できたような気がします。

「此辺鹿骨多し」

また「此辺鹿骨多し」という記述がありますが、これは「西蝦夷日誌」にも次のようにありました。

此濱に鹿の骨多く、恰も寄木の如くあり。是は冬分山に住難く、濱え出來り、雪にそり過て落死するを、熊はそれを夜々出來りて喰よし。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.125 より引用)
また、永田地名解にも同様のストーリーが記されていました。

Noro ran  ノロ ラン  鹿ノ下ル處 十年前ハ冬雪ノ際山中ノ鹿寒ヲ避ケ此ノ絶壁ニ出テ墜落死スル者甚タ多ク熊來テ之ヲ食ヒ「アイヌ」亦來テ斃鹿ヲ拾ヒ取リシト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.106 より引用)
「あまりの寒さに鹿が山から飛び出してきて、崖から落ちて死んだ」という筋書きのようですね。これだけだと若干「ほんまかいな」感がありますが、「竹四郎廻浦日記」では「熊に追われて」との補足があります。なるほど、これだったら筋が通りますね。

地名解の検討

ということで肝心の地名解ですが、「ノロ ラン」で「鹿の下るところ」と解釈できるかと言われると……ちょっと厳しいような気がします。また永田地名解が「東西蝦夷山川地理取調図」の流れを引く「ノロラン」なのに対し、「西蝦夷日誌」や「竹四郎廻浦日記」が「モロラネ」なのも気になるところです。

「ノロラン」であれば、no-ru で「尊い・足跡」という語彙があり、転じて「クマの道」を意味するので、no-ru-e-ran で「クマ・道・そこから・降りている」と解釈することができそうです。ただ、これだと「熊が落ちた場所」になりそうですし、また古い記録には「モロラネ」とあることも考慮する必要があります。

もしかしたら、mo-ru-e-ran で「小さな・足跡・そこから・降りている」と考えられないかな……とも思い始めています。「室蘭」の由来が mo-{ru-e-ran-i} で「小さな・坂」ではないかとされていますが、それととても良く似た地名ということになりますね。

室蘭(元室蘭)とヲネナイの地形を見たところでは、どちらも海岸まで尾根がせり出しているという共通点がありそうです。ただ、元室蘭の mo-ru-e-ran-i は人が行き来する道路だったと考えられる一方で、能蘭山は「鹿が落っこちる場所」なので、ニュアンスはかなり異なる……ような気もします。

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2020年4月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (722) 「ノット・川白・ヲネナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ノット

not
あご

(典拠あり、類型あり)
神恵内村北西部の地名で、同名の川もあります。「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ノツト」と言う地名?が描かれています。また「西蝦夷日誌」にも次のように記されていました。

カモイヘカシ(磯)、ノツト(番や、船澗)岬の義也。雑喉多し。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.126 より引用)
あ。あっさりと「岬の義なり」と書かれちゃいましたね。ただ、地形図を見てみると、「ノット川」のあたりには岬が見当たりません。

これはどうしたことか……と思って暫し考えてみたのですが、「オブカル石」や「二ッ石」「川白」などとの位置関係を考えると、「ノット」が移転地名だと考えるのも厳しそうです。

改めて地形図を見直してみると、ノット川の河口のあたりで、北側の山が崖のようにせり出していることに気がつきました。not は「岬」の意味だとされますが、本来は「あご」を意味します。神恵内村の「ノット」の場合は、「岬」というよりも「あご」と表現したほうが、より適切なのではないかなぁと思います。

川白(かわしら)

kapas-sirar
平らな・岩
kapar-us-i
平たい・そうである・もの(岩)

(典拠あり、類型あり)
ノットから国道 229 号の「窓岩トンネル」で南に向かった先の地名です。ちなみに「窓岩」はノットの北、ノットとオブカル石の間の沖合にあるのですが、なぜ随分と南に離れたトンネルの名前に使われているのでしょう?

この「川白」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」にも「カハシラ」と描かれています。明治時代の地形図には「カワヒラ」と描かれたケースもありますが、「川白」という漢字表記で「かわしら」と読む形で定着したようです。

永田地名解には次のように記されていました。

Kapara shirara  カパラ シララ  薄磯
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.106 より引用)
そうでしょうね。kapar-sirar で「平らな・岩」という地名がありますが、これが音韻変化して kapas-sirar になるケースがあるようです。折角なので知里さんの「──小辞典」を引用しておきましょうか。

kapas-sirar, -i カぱㇱシラㇽ 海岸の扁盤。海に臨んで俗に千畳敷などと云われるような表面の平らな岩。[<kapar-sirar(平らな・岩)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.43 より引用)
「かわしら」という音からは、kapar-sirarkapas-sirar と発音されるようになった、と考えられそうですね。

「カハルシ」説

一方で「西蝦夷日誌」には次のようにありました。

カハルシ〔川白〕(番や、蔵、人家)和人カハシラと云。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.126 より引用)
また「竹四郎廻浦日記」にも「カワルシ 岬也。」と記されています。実はこれらは kapas-sirar 説と全く意味で、知里さんの「──小辞典」にも次のように項目があります。

kaparus, -i カぱルㇱ 水中の平岩;海または川のなかにあって,しければ水をかぶり,なぎれば現われる平たい岩。[kapar-us-i(ずうっと平たくなっているもの)?]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.43 より引用)
はい。ということで「カハシラ」説と「カハルシ」説は、ほぼ誤差の範囲と言えそうな感じです。

kapar-sirar に由来する地名は、特に道南を中心にちょくちょく見られる印象があります。「かわしら」と聞いて真っ先に思い出したのが奥尻の「蚊柱」でした。「蚊柱」と比べると「川白」は随分と穏当?な字を当てたものですね。

ヲネナイ

onne-nay
年老いた・川

(典拠あり、類型多数)
川白の南東に位置する地名です。近くに川も流れていますが、川の名前は何故か「オネナイ川」です。更に言えば大正時代に測量された陸軍図では、地名も「イナネオ」(つまり「オネナイ」)と表記されていて、現在なぜ「ヲ──」になっているのか謎だったりします。

「東西蝦夷山川地理取調図」では「ヲン子ナイ」と描かれています。どう見ても onne-nay で「年老いた・川」と考えるしかなさそうなのですが、ところが「永田地名解」には斬新な解釈が記されていました。

Onne nai  オンネ ナイ  音川 アイヌ云音聲アル川ノ義此川瀧トナリテ崖下ニ落ツ故ニ名クト然レトモ「オンネナイ」ハ老川即チ大川ノ意ナレトモ暫ク「アイヌ」ノ説ニ従フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.106 より引用)
山田秀三さんによると、積丹半島の西海岸には「オンネナイ」が多いとのことで、神恵内の中心部から泊村に向かう途中にも「尾根内大橋」という橋があります。この「尾根内」についての項で山田さんは次のように記していました。

たぶん音を「おん」,「ね」という日本語がアイヌに伝わっていて,それで解して永田氏に話したのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.476 より引用)
ありそうな話ですね。また積丹半島の西海岸に妙に「オンネナイ」が多いという点についても、次のような考えを記されていました。

 積丹半島の西海岸には妙にオンネナイが多く,①神恵内市街の南②赤石・大森の間(これは殆ど忘れられた)③川白の南④沼前の北と並んでいた。全道に散在し,しかもその意味がはっきりしないオンネナイを研究する上での一つの材料となるのではなかろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.480 より引用)
今回の「ヲネナイ」は「③川白の南」に該当します。また「④沼前の北」については既に 2020/4/18 の記事にて紹介済みです。③と④について見た限りでは、河口近くが滝のようになっているのが共通点かな、と思えます。「威厳のある川」のような解釈が成り立ったりしたら面白そうです。

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2020年4月24日金曜日

伯備線ちょっとだけ各駅停車 (40) 「新見 その 1」

新見行き 444D は、最後の停車駅だった布原を出発しました。
布原駅のホームのすぐ脇に「西川」が流れていますが、これから向かう新見市は西川の流域ではなく「高梁川」の流域です(新見駅の真ん前を流れています)。布原から新見に向かう道路は「川面峠」(こうもだわ)という峠を越えることになりますが、JR 伯備線はトンネルで一気に高梁川流域に抜けています。
ということで、トンネルを抜けたので改めて運賃表の写真です。

謎の線路跡

布原から新見の間はもちろん(?)単線ですが、なぜか左手に線路の跡が見えてきました。
理由は不明ですが、新見駅の西側は 1.5 km ほど複線区間があります。かつてはこの謎の複線区間が更に 0.5 km ほど伸びていたのですが、道路(「川面峠」に向かう際に通る道です)の上にかかる橋が老朽化でもしたのか(あるいは合理化のためか)、一本にまとめられた、ということのように見えます。

新見駅(にいみ──)

444D は、定刻通りに新見駅の 1 番線に滑り込みました。
駅舎の壁には絵が描かれています。新見の風景を描いたものなんでしょうか……?(なんとなくそんな気が)
駅舎の庇がちょっと長い目になっていて、その下を通行できるようになっていたみたいですね(雪国で良く見られる構造のように思えます)。今はプロパンガスのボンベや自転車、エアコンの室外機などが並んでいるので、庇の下を歩くのは難しそうですが……。

東城行き 453D

新見行き 444D ですが、16 分後に東城行き 453D として折り返します。正面の方向幕は早くも「東城」に変わっていました。キハ 120 は JR になってから新製された車輌だったと思いますが、こうやって見るとなかなか格好いいですよね。
新見駅の 1 番のりばは芸備線用ですが、向かい側(2 番のりば)は姫新線用となっています。そのため、次の停車駅として(姫新線の)「岩山駅」が表示されています。
主に姫新線の列車が使用する 2 番線と、伯備線のホームの間には 3 番線と 4 番線があります。そのため伯備線のホームは「5 番のりば」と「6 番のりば」とのこと。

5:18 発の快速列車

芸備線の時刻表です。このスペースに 1 日 6 本なので、空白が目立ちますね……。
そして 1 日 6 本のうち、最初の列車が朝の 5:18 発という……。しかも東城までは矢神以外の全駅を通過するという、明らかに東城・備後落合に車輌を送り込むことが目的のようです(東城駅に夜間滞泊させたくない、ということなんでしょうか)。
新見行き 444D 改め東城行き 453D ですが、あれ、前方の方向幕は「新見」のままですね。

とりあえず地下に潜る

駅舎のメイン部分?は臙脂色の瓦屋根です。手前の、窓の下に絵が描かれている部分が通路になっていて、地下通路から改札に向かう際に通るようです。
ホームの端の地下通路に潜ります。壁のペイントもしっかりしていて、とても手入れが行き届いている感がありますね。
「中国勝山・津山方面」が姫新線、「東城・三次方面」が芸備線です。

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