2020年4月29日水曜日

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「日本奥地紀行」を読む (101) 小松(川西町)~洲島(川西町) (1878/7/14)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第十八信」(初版では「第二十三信」)を見ていきます。



性悪の馬

小松(羽前小松)で「ダイミョーの部屋」に泊まったイザベラは、翌朝、出発の刻を迎えました。イザベラ一行の出発を見送るのは、毎度おなじみ「怖いもの見たさ」で集まってきた大群衆です。

 私が小松を出発するとき、家の中には六十人もおり、外には千五百人もいた。塀や縁側、屋根さえも満員であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)

この手の描写を読むと、多少なりともイザベラは話を盛っていたんじゃないかと疑いたくもなってしまうのですが、実際のところはどうだったのでしょう。いや、川西町小松にそれだけの人が住んでいたのだろうか、と疑問に思えてくるのです。

そもそも「東置賜郡小松村」にどれだけの人が住んでいたのだろう……と思って「川西町」の Wikipedia を見てみたところ……

1878 年、旅行家のイザベラ・バードが旅の途中、小松の肝煎りであった金子十三衛門家の邸宅に宿泊した。その際、町の住民の半数が外国人の見物に集まったという。
(Wikipedia 日本語版「川西町 (山形県)」より引用)

既に史実になっていました(汗)。ちなみに「東置賜郡小松村」は成立の翌年に町制施行して「小松町」になったとのことで、1950 年時点での総人口は 7,489 人だったとのこと。なるほど、「町の住民の半数」がイザベラ見物に繰り出したということであれば、数字上の矛盾は無いですね(汗)。

イザベラはこれまで馬や牛を乗り継いできましたが、小松では新たな出会いがあったようです。

日光から小松まで例外なく牝馬が用いられてきたが、ここで初めて恐ろしい日本の駄馬に出会った。二頭の恐ろしい形相の馬が玄関にいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)

ふーむ。やはり牝馬のほうが性質がおっとりしていて乗りやすい、ということなんでしょうか。そして早々と悲劇に見舞われます。

私が馬に乗ると、群集がついてきた。進むにつれて群集は増し、下駄の音や群集の声に驚いた馬は、ついに頭につけた綱を切った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217 より引用)

あー……(汗)。やはり馬も異様な雰囲気に飲まれてしまったんでしょうか。

驚いた馬子が馬を手放すと、馬は主に後脚で街路を駆けて行き、声をあげ、前脚で乱暴に打ちまくるので、群集は右へ左へと散った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217 より引用)

馬がブチ切れるとこんな感じになるんでしょうね。イザベラの描写はすごくリアルなので、その時の光景を容易に想像できそうです。「暴れ馬」は警察署の前で警官によって取り押さえられましたが、後ろを振り返ると……

ふり返ると、伊藤の馬は後脚で立っており、伊藤は地面に落ちていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217 より引用)

あー、このオチのつき方、なんか既視感があると思ったら、どことなく「ギャグマンガ日和」の芭蕉と曾良に通じるものがあるような……。

結局、芭蕉と曾良……じゃなくてイザベラ一行は赤湯までこの暴れ馬と付き合うことになりますが、伊藤氏は赤湯でも落馬の憂き目に遭っていたようです。あれ、そういやイザベラは落馬しなかったんですかね? 「その野獣のような動作には、馬によく慣れている私もとてもかなわなかった」とありますが、「馬から落ちた」とはどこにも書いていないような……。

アジアの楽園

小松での「エクストリーム・暴れ馬」イベントをクリアした(?)イザベラ一行は、東に向かって進みます。次の目的地は赤湯っぽいので、現在だと県道 102 号「南陽川西線」沿いのルートも取れそうな気がするのですが、どうやら県道 7 号「高畠川西線」沿いに移動したようです。

 たいそう暑かったが、快い夏の日であった。会津の雪の連峰も、日光に輝いていると、冷たくは見えなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.217-218 より引用)

7 月ですが、会津の山々には雪が残っていたのですね。「快い夏の日」ということは、良く晴れていたのでしょうか。

米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)

「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」は、原文では "tilled with a pencil instead of a plough" とありました。これは Ralph Waldo Emerson"English Traits" へのオマージュだったようです。"English Traits" の第 3 章 "Land" の中に、こんな文章がありました。

England is a garden. Under an ash-colored sky, the fields have been combed and rolled till they appear to have been finished with a pencil instead of a plough.
(Ralph Waldo Emerson, "English traits" より引用)

colored……アメリカ英語……(そこか)。ちなみにエマーソンが亡くなったのは 1882 年のこととのことで、イザベラが米沢盆地を旅した頃は存命だったことになります。

米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)

イザベラは随分と米沢盆地の旅を満喫しているように見えます。新潟から米沢に移動する間、途中で極貧の村々を見てきただけに、米沢盆地の豊かさに、イザベラ自身の心も満たされたようですね。

彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)

米沢藩と言えば上杉家ですが、米沢盆地には他に天領もあったとのこと。統治面でも住民は比較的恵まれた環境に置かれていたのかもしれません。

イザベラは、米沢盆地の農村における解放感のある暮らしぶりにいたく感銘を受けていたようですが……

それでもやはり大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)

現世での生々しい利益を追い求めるスタイルについては、「野蛮なもの」と感じていたようですね。

 美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)

はて「松川」なんて川があったっけ……と思ったのですが、改めて陸軍図を見てみると、現在の「最上川」に「川 松」と描かれているではありませんか。どうやら米沢盆地では「最上川」のことを「松川」と呼ぶ流儀があったようです。

経由地のチェック

山間部を移動する場合、起点と終点が明らかになっていればおおよそのルートが特定できるのに対し、平野部の場合は様々なルートを取ることができるので、なかなか足取りを追うのは容易ではありません。ただ、ありがたいことにイザベラは経由した地名もいくつか書き残していました。

私たちが通過したり傍を通った村々は、吉田、洲島(セモシマ)、黒川、高山、高滝であったが、さらにこの平野には五十以上も村落の姿が見えて、ゆるやかに傾斜する褐色の農家の屋根が林の間からのぞいていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.218 より引用)

この「吉田」「洲島」「黒川」「高山」「高滝」ですが、まず原文ではどう表記されているか確認しておきましょう。

Besides the villages of Yoshida, Semoshima, Kurokawa, Takayama, and Takataki, through or near which we passed,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

Yoshida については、県道 7 号沿いに「川西町吉田」があります(但し現在は「──よした」と発音するようです)。Semoshima については少々謎ですが、やはり「川西町洲島」(すのしま)と考えるしか無さそうです。

TakayamaKurokawa についても、それぞれ「川西町高山」「川西町黒川」と考えるしか無さそうです。ここまで見てわかることは、「吉田」「洲島」「黒川」「高山」はどうやら順不同と思われる、ということでしょうか。

謎の「高滝」

問題は「高滝」で、現存地名には見当たらないようなのですね。この「高滝」を、赤湯駅からそれほど遠くない「高梨」(南陽市)ではないか、と考える向きもあるようですが、イザベラ一行は渡し舟で最上川(松川)を渡って「津久茂」(高畠町)にたどり着いた、との記載が後で出てきます。

高畠町津久茂から赤湯には、現在は国道 13 号で直行することができます(実はイザベラも「よく手入れがしてある広い道路を移動した」と記しています)。わざわざ赤湯の西の「高梨」に立ち寄るとは考えにくいのですね。

となると、イザベラが Takataki と記した地名はどこだったのか……ということになりますが、県道 7 号が「黒川」を渡るあたりに「高橋」という小字?があるので、おそらくこれでは無いでしょうか。

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