2020年4月12日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (719) 「幌内府・武威岬・来岸」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幌内府(ほろないふ)

poro-nay-put??
大きな・谷・口

(?? = 典拠なし、類型あり)
積丹町西部、国道 229 号の「西河トンネル」と「武威トンネル」の間の一帯の地名で、同名の川も流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホロナイ」という川(だと思われる)が描かれていました。「西蝦夷日誌」には「ポロナイ(小川、一町廿間)」と記されていたほか、「竹四郎廻浦日記」にも「ホロナイ」と記されていました。

永田地名解にも次のように記されていました。

Poro nai  ポロ ナイ  大川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.102 より引用)
ここまで見た限りでは、poro-nay 以外の選択肢が無さそうに思えますが、ところが明治時代の地形図には「ポロナップ岬」と描かれていました。

「北海道地名誌」には、次のように記されていました。

 幌内府 (ほろないぷ) 一般は「ほろないふ」という。幌内府川からでたと思われるが,意味ははっきりしない。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.204 より引用)
まぁ、そんなところでしょうね。また「川」のカテゴリーにはこんな記述も。

 幌内府川 (ほろないふがわ) 幌内府で日本海に注ぐ小川。「ポロ・ナイ」は大事な(魚がたくさん入って)川であるが,古い 5 万分図にはポロナップ川とあり,疑問の地名の一つである。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.202 より引用)
poro を「大事な」と解釈するのはいかにも更科さんっぽいですね。

一方で、山田秀三さんがこの「疑問の地名」をどう捉えていたか……という話ですが、「北海道の地名」には次のように記されていました。

ポロ・ナイ(大きい・沢)だったのであろうが,それにどうしてプ(府)がついたのか分からない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.481 より引用)
あー、山田さんも「分からない」で締めちゃいましたか……。

「ポロナップ」あるいは「ホロナイフ」という音からは、poro-nay-put で「大きな・谷・口」ではないかなぁ、と考えてみました。幌内府川はそれほど大きな川ではありませんが、一方で「谷」としてはそこそこ広いものです。

そして河口の西には「武威岬」があり、東にも岬(古い地図には「ポロナップ岬」)があります。岬に囲まれた河口を put と呼んだのではないか……と考えてみました。

武威岬(むい──)

muy

(典拠あり、類型あり)
積丹町幌内府と、西隣の来岸の間は、国道 229 号の「武威トンネル」で直結されています。このトンネルは武威岬をスキップするだけではなく、西隣にあるもうひとつの岬(古い地図には「來岸岬」と記載あり)もスキップするものです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「武威岬」に相当する描写が見当たりませんが、「西蝦夷日誌」や「竹四郎廻浦日記」には「ムイ」という地名?が記録されていました。そこそこ古い地名だということは間違い無さそうな感じです。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 武威岬 (むいみさき) 幌内府地先の岬。「ムイ」は箕のこと,箕の形をしているからかと思う。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.202 より引用)
muy で「」と考えられそうですね。前述の通り、国道 229 号の「武威トンネル」は「武威岬」と「来岸岬(通称かも)」をまとめてくぐりぬけていますが、この二つの岬によって形成された地形が「箕」のように見える、ということなのだと思います。

muy は「静かな海」を意味する moy という語彙と似ていて紛らわしいですが、moy よりも muy と解釈したほうがいい場所が、時折ありますよね。

来岸(らいきし)

{sí-sam}-{ray-ke}-us-i?
{日本人}・{殺す}・いつもする・ところ
{si-sam}-raykew-us-i???
{日本人}・遺体・多くある・ところ

(? = 典拠あり、類型未確認)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
国道 229 号の武威トンネルを抜けた先(西側)一帯の地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ライキシ」と描かれているほか、「竹四郎廻浦日記」には「ラヱケイシ」と言う地名が記録されています。

また「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。

過て(三町四十間)シヽヤモラエキシ〔來岸〕(小灣、番や有、三町)此處にオカムイの拜殿と云もの有。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.139 より引用)
気になる「シヽヤモラエキシ」の意味ですが、永田地名解には次のように記されていました。

Shishamo raike ushi  シシャモ ライケ ウシ  日本人ヲ殺シタル處 今來岸村ト云フハ誤ル
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.102 より引用)
うーむ。{sí-sam}-{ray-ke}-us-i で「{日本人}・{殺す}・いつもする・ところ」ということ……でしょうか(汗)。

少しだけ穏当な解釈もできるかもしれません。{ray-ke} だと「殺す」となりますが、raykew であれば「遺体」ですから、{si-sam}-raykew-us-i だと「{日本人}・遺体・多くある・ところ」となります。

あと、樺太で採取された語彙のようですが、raykewkina で「センダイハギ」というものがあるそうです。raykewkina-us-i で「センダイハギ・多くある・ところ」が略しに略された上にあらぬ脚色をされて「日本人をいつも殺すところ」になった可能性も……これは流石に無理がありますかね。

ただ、積丹半島沖を舟行中に遭難する日本人は実際に多かったのでしょうね。そういった連続がやがて地名の由来に差し替えられた、という可能性もあるんじゃないかな、と考えたりします。

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