2022年1月31日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (218) 「宗谷アイヌの『柏木ベン』さん」

「稚内市北方記念館」の話題を続けます。これは常設展示(だったと思う)ですが、「『伊能大図』宗谷管内部分」とあります。先程見た展示では北海道全域の「伊能大図」が床一面に敷き詰められていましたが、それと同じものですね。
「アイヌと稚内」と題された展示もありました。

2022年1月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (905) 「俵真布・朗根内・横牛」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

俵真布(たわらまっぷ)

penke-sunku-taor-oma-p?
川上側の・エゾマツ・川岸の高所・そこに入る・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
辺別べべつ川中流部の地名で、同名の川も流れています(辺別川の南支流)。

明治時代の地形図には、「パンケシュムケタロマㇷ゚」という川が描かれています。また別の地形図には「パンケシユロケタロマプ」「ペンケシユケケタロマプ」という川が描かれていました。

どちらが現在の「俵真布川」に相当するのかという点は少々ややこしくて、現在の俵真布川は上流部が「ペンカシユケケタロマプ」で下流部が「パンケシユロケタロマプ」に当たると考えられます。人工的に流路改修が行われたような感じですね。

謎の多い「霧の多い」

このあたりのアイヌ語地名は、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」という実に良い資料があるのですが、「俵真布」については何故か記載が漏れています。ということで「角川──」を見てみたところ……

地名は,アイヌ語のパンケシュムケタロマプ(霧の多い,または霧の深い沢の意)に由来するといわれるが明らかではない。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.849 より引用)
うーむ、「パンケシュムケタロマプ」をどのように解釈すれば「霧の多い沢」となるのでしょうか……。

また,タロマプは,俵物の収穫を念じてつけたともいう。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.849 より引用)
あー。これは流石に後付のこじつけでしょうね。

「西側に出る」説

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

もとは「たわらまっぶ」といわず俵真布と書いて「たろまっぷ」といっていたが、いつの問にか文村通りの発音になってしまった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.133 より引用)※ 原文ママ
「文村通り」は「文字通り」なんでしょうけど、何故こんな誤植が……。

 ペンケは川上の方をさし、パンケは川下をさす言葉でシュムケは西側に出るという意味であると思われるがはっきりしない。タロマップは低いところにあるものと思われるが、これもはっきりしたことは言えない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.133 より引用)
panke-sum-ke-taor-oma-p で「川下側の・西・の所・低いところ・そこにある・もの(川)」と解釈したっぽい感じでしょうか。先程の「霧の深い沢」よりは具体的な感じが出てきましたが、「西側に出る」というのが良くわかりません。

「エゾマツの生い茂る高台」説

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハンケシユンクタロウシ」「ヘンケシユンクタロウシ」という名前の川が描かれていました。また丁巳日誌「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

     ハンケシユンクタロマツフ右の方
     ヘンケシユンクタロマツフ右の方
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.273 より引用)
松浦武四郎は実際に辺別川を遡ったわけではなく、インフォーマントから聞いた情報をそのまま記していますが、この情報は概ね正しそうな感じでしょうか。「ヘンケシユンクタロマツフ」は penke-sunku-taor-oma-p で「川上側の・エゾマツ・川岸の高所・そこに入る・もの(川)」と読めそうです。

sunku-taor というつながりが若干引っかかりますが、sunku-us-taor-us が略されたのかもしれませんね。

「ん、taor は『低いところ』じゃないのか?」という疑問を持たれるかもしれませんが、知里さんの「──小辞典」には次のようにありました。

taor, -i / -o タおㇽ ①川岸の高所。②【ビホロ】[<ra-or(低・所)]。沢の中;低い所。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.128 より引用)
ということで、むちゃくちゃ矛盾したことが書いてあるようで、実はそうでも無いのかもしれません(どっちだ)。

俵真布のあたりは辺別川の沖積平野っぽい平地が広がっていますが、川沿いの平地の南北には山地が広がっています(割と当たり前の話ですいません)。俵真布川の中流部から上流部は「川岸の高所」の「低い所」を流れているので、そう考えると整合性があるような、無いような……(だからどっちだ)。

朗根内(ろうねない)

rawne-nay
深い・川
(典拠あり、類型多数)
美瑛町俵真布の北西、東神楽町志比内の南のあたりの地名です。志比内と朗根内の間は道道 213 号「天人峡美瑛線」で結ばれていますが、この峠道はまるで人工の掘割のような地形ですよね。

この「朗根内」は、「東西蝦夷山川地理取調図」や丁巳日誌「再篙石狩日誌」には記録がありませんが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ラウネナイ(Ráune-nai「深い・沢」) 左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.328 より引用)
やはりと言うべきか、rawne-nay で「深い・川」と考えて良いようです。「ラウネナイ」は「らうねない」なので、「らう」が歴史的仮名遣いと誤解されて「ろうねない」になってしまったのかもしれません。

山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

諸地にラウネナイがあり,従来は深い川と訳されて来たが,行って見ると殆んどが水の深い川ではない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.110 より引用)
rawne は確かに「深い」という意味なのですが、「水が深い」という意味ではなく「深い位置にある」という意味だとされます(「水が深い」という意味は ooho だとされますね)。

ラウネは「低い処である」ぐらいの意味なのではないかと思って来た。多くは両側が高い,つまり低い沢の中の小川である。だがここのラウネナイは片側が山である小川でどうもはっきりしない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.110 より引用)
あー、なるほど。山田さんは「朗根内川」の位置を間違えていた可能性がありそうですね。現在の「朗根内川」は「朗根内町内」集落の東側の、両側を山に挟まれた川なのですが、沖積平野の北側を流れる用水路と間違えたとすれば納得です。地名解釈を行う場合は、位置を正確に把握することは大切だ、ということですね……。

横牛(よこうし)

yoko-us-i
狙う・いつもする・ところ(川)
(典拠あり、類型あり)
美瑛町朗根内の西のあたりの地名です。南側に「堀の沢川」と「ポン堀の沢川」という川が流れていますが、明治時代の地形図では「ポン堀の沢川」と合流後の「堀の沢川」の位置に「ヨコウシ」と描かれていました。やはり元は川の名前だったような感じです。

川の名前にしては -pet-nay もついていませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヨコウシヘツ」という名前の川が描かれていました。どうやら -pet はあっさりと省略されてしまったということでしょうか。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ヨコウシ(Yóko-ush-i 「狙い射ちし・つけている・所」) いつもそこで鹿を待ち伏せて狙い射った所の義。右,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.328 より引用)
yoko-us-i で「狙う・いつもする・ところ(川)」と考えて良さそうですね。道内のあちこちで目にする地名なので、「知ってたよ」という方も多いかもしれません。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 横牛(よこうし)
 ヨコウシ(いつも待伏せするところ)という地名は、山間のせまい谷間で鹿を待ち伏せしたり、海岸の出端で魚を待ったところなので、多く開拓されない土地なので、あまり漢字をあてたところがないが、愛別町の要越内と、ここの横牛もきれいに開拓されて漢字になっているが、実はこの地名の原地も辺別川の支流で、辺別川を伝って鹿が通り道にしていたので、ここで待ち伏せたのであった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.132-133 より引用)
「は、したり、で、で、が、と、が、で、で、あった。」と更科節が全開ですね。あまりに見事なので一文まるごと引用してしまいました(すいません)。yoko-us は更科さんの指摘の通り、愛別に「要腰内」があるほか、標津にも「横牛川」がありますね。

白老にも「ヨコスト川」がありますが、これは i-uk-us-to で「それ・採取する・いつもする・沼」の可能性が高そうです。

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2022年1月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (904) 「クワウンナイ川・化雲岳」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

クワウンナイ川

kuwa-un-nay??1
杖・入る・川
ka-un-nay??2
上・に入る・川
(??1 = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(??2 = 典拠未確認、類型あり)
美瑛町と東川町の境界となっている「天人峡」の中程、天人峡温泉のやや西側で忠別川に合流している南支流の名前です。川を遡った先には「化雲岳かうんだけ」や「トムラウシ山」などが聳えています。

「クワウナイ」は何処に

「東西蝦夷山川地理取調図」には、忠別川の最上流部に「クワウナイ」という名前の川が描かれていました。また丁巳日誌「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

少し上
     ヘタヌ
ヘタヌは二股のことなり。右の方少し小さし。是を
     クワウナイ
と云なり。左りの方則本川すじ也。此辺皆平
     シチユクベツ
と云、此辺両岸惣てヒラにて峨々たる高山なり。此フトより凡弐里も上え上りし処に
     ホロソウ
と云て大滝有りと聞り。其源より岳のうしろはトカチ川すじに当るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.282 より引用)
前後の文脈や実際の地形を考慮すると、「ヘタヌ」は現在の「クワウンナイ川」と「忠別川」の合流地点だと考えて良いかと思われます。となると「ホロソウ」は「羽衣の滝」かと考えたくなるのですが、クワウンナイ川と忠別川の合流点(ヘタヌ)から羽衣の滝までは 2.2 km ほどしか無いのがちょっと引っかかります(「およそ二里」だとすれば約 7.8 km ほど離れていることになります)。

「クワウンナイ川」と「化雲沢川」

また「其源より岳のうしろはトカチ川すじに当るとかや」とありますが、忠別川水系で十勝川の流域と接しているのは「クワウンナイ川」と、東側を流れる「化雲沢川」しかありません。

仮に「ヘタヌ」からクワウンナイ川を南に 7.8 km(=およそ二里)ほど遡ったところに大きな滝があるのであれば、「クワウナイ」と「シチユクベツ」の左右を間違えた可能性も出てきますが、良く考えてみると「忠別川」を遡って「化雲沢川」に入った場合も「水源の向こうは十勝川水域」になるので、やはりこのあたりの記述(聞き書き)は大きく間違っていないような気もしてきました。

美瑛町と新得町の境界(「トムラウシ山」の北)には「化雲岳」という標高 1,954.5 m の山が聳えています。化雲岳の西が「クワウンナイ川」流域で、化雲岳の北が「化雲沢川」の流域です。さてどっちが松浦武四郎の言う「クワウナイ」だったのか……と思って細かく検討してみたのですが、素直に「クワウンナイ川」が「クワウナイ」だったと考えて良さそうかな、と思えてきました。

「狩人の入る沢」説

肝心の地名解ですが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 クワウンナイ(Kuwa-un-nai 「狩杖・入る・沢」) 狩人の入る沢の義。「険阻ニシテ杖ニ依ラザレバ行ク能ハズ」と説くものがある(永田氏『地名解』)。右,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.329 より引用)
kuwa は「杖」を意味するようで、kuwa-un-nay で「杖・入る・川」と読めます。kuwa は「墓標」とも解釈できるようで、「墓標・ある・川」と読めたりしないか……と考えてみたのですが、ちょっと違和感が残るでしょうか。

「クワウンナイ」は「カーウンナイ」か?

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

 切替英雄氏がこの沢を溯られて,土地の人はカーウンナイのように呼んでいると教えられた。この川の上に化雲岳があって,何の意かと思って来たが,そのカーウンナイの上の山の意だったろうか(和人のつけた名らしいが)。音だけでいうならカー・ウン・ナイは「わな・が・ある・沢」となるが,ここは昔からクワ・ウン・ナイだったらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.109 より引用)
「クワウンナイ」は「カーウンナイ」だった可能性があるのではないか、という指摘ですね。確かに ka-un-nay は「罠・ある・川」と読めますが、「上・に入る・川」とも読めそうな気もします(他ならぬ「大雪山」にも「ヌタプカウシペ」という別名がありますが、それと似たような考え方です)。

化雲岳(かうんだけ)

kuwa-un(-nay)??1
杖・入る(・川)
ka-un(-nay)??2
上・に入る(・川)
(??1 = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(??2 = 典拠未確認、類型あり)
今更改めて立項しなくても良いんじゃないか……という説もありますが(汗)。

美瑛町と新得町の境界でトムラウシ山の北、五色ヶ原の西に位置する山の名前です。北西に「小化雲岳」が連なっていて、「小化雲岳」の南西側が「クワウンナイ川」の流域で北東側が「化雲沢川」の流域です。

地元の人は「クワウンナイ」を「カーウンナイ」と発音する……という話もありましたが、「クワウンナイ川」の源流部の山を「化雲岳」と呼び、その北東側の川を「化雲沢川」と呼ぶようになった……と言ったところでしょうか。

ややこしいことに「クワウンナイ川」の支流にも「カウン沢」があり、「カウン沢」を遡って分水嶺を越えた先に「化雲沢川」が存在します。

山の名前と川の名前が事実上ほぼ同じで、どちらがオリジナルなんだろう……と思ったりもしますが、道内では圧倒的に「川名由来の山名」が多いということもあり、ここも同様に考えられるようです。

kuwa-un-nay で「杖・入る・川」とされますが、あるいは ka-un-nay で「上・に入る・川」なのかもしれません。後者の場合は自己言及的な名称と言うことになりますが、似たような例は他にもいくつかあったかと思います。

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2022年1月28日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (217) 「宗谷の寝棺」

「北方記念館」の常設展示である「生活文化コーナー」にやってきました。
かなり圧迫感のある空間ですが、これは……

2022年1月27日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (216) 「ミニ企画展『稚内の鉄路』」

「開基百年記念塔」の土台部分である「北方記念館」にやってきました。随分と窓の少ない建物という印象ですが、こうやって見てみると……窓のところに展示を並べるのもなかなか大変なんだなぁ……と。

ミニ企画展「稚内の鉄路」

本来の展示スペースの手前に「ミニ企画展」として「稚内の鉄路 -天北線の記憶-」という展示が行われていました。たらこ色のキハ 40 がいかにも「国鉄」を感じさせますね。

2022年1月26日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (215) 「文芸の小径」

「ゲストハウス 氷雪」の前を直進してしまうと「開基百年記念塔」ではなく「稚内森林公園キャンプ場」に行ってしまうので、ちゃちゃっと U ターンして「開基百年記念塔」に向かいます(本日も彩度マシマシでお送りします)。
おや、こんなところに「文芸の小径」なる看板が。そう言えば「演歌の花道」ってありましたよね。いや、「それがどうした」という話ですが……。

2022年1月25日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (214) 「ドヤ顔の鹿」

稚内公園の「開基百年記念塔」に向かいます。道道は海抜 5 m のあたりを通っていますが、「開基百年記念塔」は海抜 168 m あたりにあるので、上り坂が続きます。
右に左にとカーブを繰り返しながら坂を登ります。このあたりも良く鹿が出るんですよねぇ……。

2022年1月24日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (213) 「稚内市カーリング場」

「ノシャップ 2 丁目」の交叉点にやってきましたが、ノシャップ岬には向かわずにそのまま道道 254 号「抜海港線」を直進します。

シカ横断注意

直進とは言っても左カーブが続くので(鈴鹿の「デグナーカーブ」のように)、進行方向は 120 度近く(= 90 度以上)変わるのですけど……うわっ!

2022年1月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (903) 「トラシエホロカンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トラシエホロカンベツ川

turasi-{e-horka-an-pet}
それに沿ってのぼる・{江幌完別川}
(典拠あり、類型あり)
富良野川は、上富良野駅のすぐ近くで「コルコニウシベツ川」(東支流)が合流していますが、合流点から 500 m ほど富良野川を遡ったところで「江幌完別川」(西支流)が合流しています。「トラシエホロカンベツ川」は「江幌完別川」の支流のひとつです。

「ホンホロカンベ」と「トラシエホロカンベツ川」

「東西蝦夷山川地理取調図」には「江幌完別川」や「トラシエホロカンベツ川」に相当しそうな川は描かれていません。但し「イワヲヘツ」(下流部は富良野川に相当)の西を並行して流れる川として「ホロカンベ」と「ホンホロカンベ」が描かれています。これは現在の「シブケウシ川」に相当しますが、実際の「シブケウシ川」よりも長い川として描かれているため、「シブケウシ川」の上流が「江幌完別川」であると誤認していた可能性もありそうです。

川名の「ホロカンベ」が「江幌完別川」に近い、ということも「誤認説」の可能性を高めるかもしれません。ただ、松浦武四郎は「十勝越え」の際に上富良野町を歩いているのですが、その際に「ホンカンベツ」と「ホロカンベツ」という川沿いを歩いたとしています。

「ホンカンベツ」か「ホロカンベツ」のどちらかが「江幌完別川」と見ることは(理屈の上では)可能ですが、現在の「トラシエホロカンベツ川」は松浦武四郎が歩いたルートから外れた位置にあるように思われるため、「トラシエホロカンベツ」が「ホンカンベツ」あるいは「ホロカンベツ」であると考えるのは難しそうです。

どこが horka だったのか

明治時代の地形図には「トラシエホロカアンペツ」という名前の川が描かれていました。ただ、現在の「トラシエホロカンベツ川」よりも遥かに短く描かれていて、美瑛と上富良野の境界もトラシエホロカンベツ川の中流部・上流部が存在しない想定で描かれていました。

「江幌完別川」は e-horka-an-pet で「頭(水源)・U ターンする・そうである・川」だと考えられます。改めて考えてみるとちょっと解釈に苦しむところがあって、富良野駅のあたりの空知川が南から北北西に向かって流れているのに対して、江幌完別川は北北西から南南東に向かって流れているので、そのことを指して e-horka と呼んだ……と考えると、一応筋は通ります。

ただ、江幌完別川には中流部に「金子川」と「旭川」という支流があり、これらの川は南東から北西に向かって流れています。江幌完別川の流れとほぼ逆向きに流れているので、江幌完別川から見た場合はこれらの支流が e-horka(水源・U ターンする)と見ることもできます。

また「金子川」と「旭川」は松浦武四郎が歩いたルート沿いにある可能性が考えられることから、「金子川」と「旭川」が「ホンカンベツ」と「ホロカンベツ」だった可能性もありそうです。

「それに沿ってのぼる江幌完別川」

ようやく本題の「トラシエホロカンベツ川」ですが、「江幌完別川」の西支流であり、また上流部に「開拓川」という西支流を持ちます。この「開拓川」は南から北に向かって流れていて、これも e-horka と呼ぶに相応しい流れの向きと言えます。

改めて言うまでも無いことですが、「トラシエホロカンベツ川」は「江幌完別川」と似た特色を有する「兄弟川」と考えられます。無駄に長い前フリを書いてしまったので、肝心の部分を山田さんにビシッと決めてもらいましょうか。

トラシ江幌完別川 トラシえほろかんべつがわ
 江幌完別川の西側を南流している支流の名。トゥラシ・エホロカアンペッ「turashi-ehorokanpet (道が)登っている・江幌完別川(の支流)」と読まれる。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.70 より引用)
やはり「トラシ」は turasi と考えて良さそうですね。この turasi は「それに沿ってのぼる」と解釈できます(ru-pes-pe でお馴染みの pes の対義語です)。「トラシエホロカンベツ川」は turasi-{e-horka-an-pet} で「それに沿ってのぼる・{江幌完別川}」となりますね。

富良野でタクシーに乗り,この川筋を上って旭川に出ようといったら、そんな道は知らないという。かまわずに川を溯り北の丘陵に上り,丘の上の畠の中の道を走っていたら,小川の水が向こうむけに流れている処に出た。そこにいた人に聞いたら,ここは上川の留辺蘂だという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.70 より引用)
山田さんの十八番である「タクシーで地名調査」のエピソードですね。引用文中の「旭川」は「旭川市」のことで、「江幌完別川」の支流の「旭川」ではありません。また「上川の留辺蘂」は「上川郡上川町」(旧称「留邊志部」)のことではなく、美瑛町の西部を流れる「瑠辺蘂川」のことです。

上富良野と美瑛の間には丘陵地帯が広がっていて、いつの間にか分水嶺を越えてしまう印象があります(故に村界の位置を大きく間違えたりしていました)。分水嶺が険しくないが故に、どの川筋を遡っても美瑛側に出るのは容易だと思われるのですが、中でも「トラシエホロカンベツ川」沿いを遡るルートは比較的短距離で歩きやすかった、ということなんでしょうね。

ひょうたんから駒?

昔のアイヌは上富良野から旭川に抜ける際に「トラシエホロカンベツ川」沿いを歩いていたと考えられます。となると松浦武四郎が「十勝越え」の際にこのルートを通っていないのは何故だろう……となるのですが、これは案内役のアイヌが意図的にこのルートの存在を隠蔽したという可能性も現実味を帯びてきます。

アイヌの交通路は徒歩での移動を前提としたもののため、「とにかく短距離」で「多少の勾配は気にしない」という特徴があります。この前提で考えると、旭川と十勝の間を結ぶルートの本命は、「美瑛川」を遡って「オプタテシケ山」の北東を越えて「十勝川」の上流部に出るルートだったと思われます。

松浦武四郎が歩いた当時のアイヌは、旭川から十勝までのルートを秘匿すべく、美馬牛経由で上富良野に出るという「隠蔽工作」を行ったのではないか……ということになるのですが、何の因果か、後に鉄道も国道も美馬牛経由で上富良野に抜けるルートを採用することになります。

松浦武四郎を案内したアイヌは、実は最適なルートを案内していたのではないか……とも考えてしまいますが、しれっと「川沿いを歩いていたら崖にぶつかってしまい進退窮まってしまった」と書かれていたりもするので、やはり「行きあたりばったりで適当に連れ回された」というのが正解かもしれませんね。

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2022年1月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (902) 「ホロベツナイ川」

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(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ホロベツナイ川

chep-ot-nay?
魚・多くいる・川
pe-pe-ot-nay?
水・水・にじみ出る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
北海道の地名に頻出する「──別」や「──内」は、それぞれアイヌ語の petnay に由来するもので、petnay のどちらも「川」を意味するということをご存知の方は多いと思います(もちろん例外も少なからず存在します)。

petnay の違いについては、pet が大きな川で nay はその支流の谷や沢である……という見方もありますが、これも数多くの例外があります。また道内でも pet の多い地域と nay の多い地域があることから、petnay の違いを地形だけに見出すのは無理があると考える人も多いようです。

petnay がどちらも川を意味するとすると、千歳市を流れる「内別川」という川名がなかなか傑作なことになります。「内」と「別」を意訳して「川」に置き換えると「川川川」となり小野篁っぽくなりますが、残念なことに(幸いなことに?)これは nay-putu で「川・河口」ではないかと考えられているようです。

「ベツナイ」=「ペポツナイ」?

ようやく本題の「ホロベツナイ川」ですが、この川は「ヌッカクシ富良野川」の南側を流れています。「ホロベツナイ」が poro-pet-nay であれば「大きな・川・川」となり、「大川川川」となる可能性を秘めていることになりますが……。

明治時代の地形図では、現在の「ホロベツナイ川」の位置に「ポロペポツナイ」と描かれていました。現在の「デボツナイ川」の位置には「ポンペポツナイ」と描かれているので、両者は似た特色を持つ河川だったと捉えられていたようです。

「デボツナイ」=「チェポツナイ」?

「東西蝦夷山川地理取調図」や戊午日誌「東部登加智留宇知之誌」には「レホシナイ」という川が描かれていて、これが現在の「デボツナイ川」ではないかと想定されます。

道庁が設置した「デボツナイ川」の看板では、「アイヌ語河川名:チエポツナイ (chepot-nai)」で「魚のたくさんいる川」としています。「チェポツナイ」=「レホシナイ」=「ペポツナイ」=「デポツナイ川」ということになりますが、この程度のブレは決してあり得ないものではないように感じられます。

「ペポツナイ」=「水がにじみ出る川」?

ただ「デボツナイ川」の南に「ベベルイ川」があることから、別の可能性もあるかなぁと考え始めています。具体的には pe-pe-ot-nay で「水・水・にじみ出る・川」と解釈できないかなぁ、と……。

この考え方は、奇しくも明治時代の地形図に描かれている「ペポツナイ」と一致するのですが、一帯の地形を巨大な扇状地と捉えた場合に、湧き水が多そうな場所に見えるんですよね(あくまで想像に過ぎませんが)。地下水が湧出することを pe-ot(水がにじみ出る)と表現して、それが川名になったのでは……という想像です。

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2022年1月21日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (212) 「稚内恵比須簡易郵便局」

Day 7 の朝を迎えました(と言ってももう 10 時を回っていますが)。ANA クラウンプラザホテル稚内のロビーには「INFORMATION」というパネルがあり、日付や当日と翌日の天気、最高・最低気温などが案内されていました。
ネット全盛の昨今、この手の情報は探せばすぐに得られますが、意外と能動的に調べようとはしないもので、このようにまとめられているのは助かります。日の出が早いのは当然として、日の入りが 18:48 というのはちょっと驚きですね……。あと端のほうには「大沼の白鳥飛来数」という情報も。

2022年1月20日木曜日

Bojan のホテル探訪~「ANA クラウンプラザホテル稚内」編(二度目の朝食編)

「ANA クラウンプラザホテル稚内」(現・サフィールホテル稚内)の話題を続けます。稚内での三日目の朝は……ちょいとびみょうな感じでしょうか。前日の朝が良い天気だっただけに……。

この記事は 2016 年 5 月に宿泊した際のものです。現在の「サフィールホテル稚内」で提供中のサービスとは異なる可能性がありますので、ご注意ください。

懲りずにこの日も「洋定食」

三日目の朝ということで二度目の朝食なのですが、この日も意図的に 9 時過ぎに 1 F のカフェレストラン「マリーヌ」に向かいました。朝 9 時まではバイキング形式なんですが、9 時を過ぎるとバイキングが終わって洋定食が提供される仕組みなので、ここはもちろん洋定食狙いということで……。

2022年1月19日水曜日

宗谷本線特急列車 (48) 「最北端の終着駅」

旭川から特急「スーパー宗谷 3 号」に乗車して稚内に戻ってきました。

Tilt 261

今の稚内駅は線路 1 本にホーム 1 つの棒線駅ですが、棒線駅であることを前提に作り直したようなものだからか、無駄に空き地が目立ったりと言ったことはありません。

2022年1月18日火曜日

宗谷本線特急列車 (47) 「ただいま、南稚内」

19:17 に旭川を出発して、19:26 に永山に運転停車した特急「スーパー宗谷 3 号」ですが、気がつけば時は移ろい 21:28 になっていました。と言っても完全に寝落ちしていたわけでは無いんですけどね……。

幌延に到着

天塩中川の次の停車駅は幌延です。天塩中川を 21:32 に出発して幌延に 22:04 に到着するので 32 分で走っていることになりますが、同じ区間を特急「サロベツ」が 37 分かかっていることを考えると、やはり 261 系が前提のダイヤなんでしょうか。

2022年1月17日月曜日

宗谷本線特急列車 (46) 「運転停車」

特急「スーパー宗谷 3 号」のグリーン席に着席しました。1 編成に 9 席しか無いプレミアム感満載の座席です。
旭川駅を出発しました。高架の線路から旭川の町並みを眺めるというのも、ガラスに車内風景が映り込むのも含めてなかなか趣があって良いものです。

2022年1月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (901) 「コルコニウシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

コルコニウシベツ川

korkoni-us-pet
ふき・ある・川
(典拠あり、類型あり)
富良野川の東支流で、上富良野駅の北を流れる川の名前です。上流には「日の出ダム」があります。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「コロクニウシコツ」という名前の山(丘?)が描かれていました。「コツ」が kot だとしたら「窪み」なので、山の名前としては適切ではないようにも感じられますが……。

「イワヲヘツ」とその支流

「東西蝦夷山川地理取調図」を見ると、現在の「富良野川」の河口に相当する位置に「イワヲヘツフト」と描かれています。この川の上流側には「イワヲヘツ」と描かれているため、当時「富良野川」は「イワヲヘツ」と認識されていたように見えます。

「イワヲヘツ」(=富良野川)にはいくつかの支流が描かれていて、中流部では北西から「フウラヌイ」「レリケウシナイ」「フシコヘツ」「イワヲヘツ」「レホシナイ」などの川が描かれています。「コロコニウシコツ」は「レホシナイ」の南東、「レホシナイ」と「ヘヽルイ」(現在の「ベベルイ川」)の「山」として描かれています。

戊午日誌「東部登加智留宇知之誌」には次のように記されていました。

其中五六丁を過て
     フウラヌイ
川巾弐間計、相応の川にしてふかし。シヤリキウシナイ、ホンカンベツ、ホロカンベツ等何れも此河に合してソラチえ落るよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.157 より引用)
先日の記事でも言及した通り、松浦武四郎の「十勝越え」は案内役のアイヌによって意図的に誤ったルート選定がなされた疑いが濃厚とされていますが、とりあえず美瑛から上富良野に抜けたという点は間違いないと思われます。

川の名前と特徴

このあたりの「東部登加智留宇知之誌」の記録は読めば読むほど謎が深まる感があり、実際にどのルートを歩いたのか推測することが非常に難しいのですが……順番に川の名前と特徴を表にしてみました。

川名特徴現在の川名(推定)
ビエナエイ小川
ホンビバウシ小川
ホロビハウシ川巾三間計(約 5.5 m)美瑛美馬牛川?
ホンカンベツ巾五六尺(約 1.5~1.8 m)
ホロカンベツホンカンベツから約 300 m。川沿いを下ると崖になる
シヤリキウシナイ形ばかりの小川
フウラヌイ川巾弐間計(約 3.6 m)
十七八丁(約 1.9 km)を過ぎて
クヲナイ小川・水源ビエノボリ
廿余丁(約 2.2 km)を過ぎて
レリケウシナイ川巾六尺計(約 1.8 m)款冬花ふきのとうあり
フシコベツ川巾七八間?(約 13 m)ホロベツナイ川?
イワヲベツ川巾五六間?(約 10 m)ヌッカクシ富良野川?
十七八丁(約 1.9 km)を過ぎて
レボシナイ小川デボツナイ川?
三四丁(約 380 m)を過ぎて
コロクニウシコツ小川
拾三四丁(約 1.5 km)を過ぎて山にかかり

この手の作業を始めると、だいたい途中で頭を抱えることになるのですが、今回もまさにそんな感じです。一部、推定される川名を記してみましたが、実は矛盾した内容が含まれています。具体的には「ホロベツナイ川」と「ヌッカクシ富良野川」の順番をしれっと入れ替えています。

「イワヲベツ」は「硫黄の焼ける処より来る」という明確な特徴があり、この特徴に合致するのは「ヌッカクシ富良野川」を措いて他にありません。しかし「イワヲベツ」と「フウラヌイ」の間に「フシコベツ」に該当する規模の川が見当たらないという大きな問題があります。

コルコニウシベツ川を「フシコベツ」と推定することも可能ですが、そうなると「クヲナイ」と「レリケウシナイ」に相当する川が見当たらないことになります。これらの矛盾は「東部登加智留宇知之誌」の「イワヲベツ」と「フシコベツ」の順序を入れ替えることで解消が可能になる……との認識です。

「フウラヌイ」と「クヲナイ」の順序も逆転させたほうが適切かもしれません。

「コルコニウシベツ川」とは

また、今回の本題である「コルコニウシベツ川」と「コロクニウシコツ」の位置は全く異なるということになります。「コロクニウシコツ」は Google マップに「東中金刀比羅神社 跡」とあるあたりの北側に相当するのでは、と考えられます。

要は「コロクニウシコツ」と「コルコニウシベツ川」は異なる場所ですよ……ということを証明したかったのですが、随分と長くなってしまいました(汗)。ではそろそろ本題に……(ぉぃ)。

「コルコニウシベツ川」は、松浦武四郎が「レリケウシナイ」(rerke-us-nay で「山向こう・にある・川」か?)と記録した川と思われ、korkoni-us-pet で「ふき・ある・川」という意味だと考えられます。

同じ茅原をまた廿余丁過て
     レリケウシナイ
川巾六尺計。両岸柏槲・樺・赤楊・柳多し。川中焼石のみ。水源ビエより来りソラチに落るよし。其辺り早藕・献春菜多し 。また款冬花ふきのとう有るによつて、是を摘み喰す。然るに土人は余り是を喰することを不好由なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.158-159 より引用)※ 原文ママ
「ふきのとう」があるということから「コルコニウシベツ」と呼ばれるようになった、と言ったところなのでしょうね。

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2022年1月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (900) 「勇振川・瓊発辺・経歳鶴」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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勇振川(ゆうふれ──)

yu-hure-nay?
湯・赤い・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
空知川の西支流で、JR 根室本線・山部駅の北を流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」や永田地名解にはそれらしき川が見当たらず、明治時代の地形図には川は描かれていたものの川名の記載がありませんでした(残念)。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 ユウフレ沢 芦別岳から流れ出し空知川に注ぐ小川。アイヌ語で湯が赤いという意味になるが,温泉がないので意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.307 より引用)
一方で、山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

富良野市役所の調べによれば「赤い温泉の意で上流に地獄谷があり,上流にリイフレナイがある」とのことであった。yu-hure(温泉・赤い)と解したものであるが, この文を総合して見ると,フレ・ナイ(赤い川)という川があって,その一脈がユー・フレ・ナイ(温泉のある・赤川)だったのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.71 より引用)
yu-hure-nay で「湯・赤い・川」と考えたようですが、どうも温泉の有無について真っ向から見解が分かれているようです。

十勝岳の周辺には温泉が多いのですが、芦別市との境界に聳える「芦別岳」のまわりには名のある温泉は見当たらないように見えるので、果たして「赤い温泉」説が妥当なのかどうか、ちょっと疑問に思えてきます。「富良野市役所の調べによれば」というイントロはとても説得力があるのですが……。

ユーフレナイに湯は出たか

山田さんの「フレ・ナイ(赤い川)という川があって,その一脈がユー・フレ・ナイ(温泉のある・赤川)だったのかもしれない」という推測は、確かに「ありそうな説」に思えます。松浦武四郎の紀行文でも「赤土」や「赤い水」に関する記述が散見されるほか、現在の「布礼別川」のことと考えられる「フウレヘツ」という川名も記録されています(但し何故か「東西蝦夷山川地理取調図」には描かれていません)。

とりあえずこのあたりには「フレナイ」や「フレベツ」がわんさかあるので、それぞれを識別するために独自のキーワードを頭に追加していた……と考えて良いのかな、と思えます。芦別岳のあたりには温泉が無さそうに見えますが、だからこそ鉱泉レベルでも「湯の出るフレナイ」と呼ばれた可能性も出てきますし、あるいは i-o-hure-nay で「アレ・多くいる・赤い・川」だった可能性もあるかもしれません。「アレ」は「ヒグマ」かもしれませんし、あるいは「マムシ」あたりかもしれません。

今の段階では山田さんの記した yu-hure-nay で「湯・赤い・川」説を否定するだけの根拠を持ち合わせていないのですが、「いやいや上流にも湯なんて出ないよ」という話になったならば……ということで。

瓊発辺(ぬぽっぺ)

num-ot-pe??
胡桃・多い・もの(川)
(?? = 典拠未確認、類型あり)
JR 根室本線の布部駅の北側を「布部川」という川が流れています(空知川の東支流です)。布部川を遡って東に向かうと麓郷の市街地がありますが、麓郷の市街地から見て北東、トウヤウスベ山の西南西に「瓊発辺」という名前の二等三角点があります。

」という字がおそろしく難読ですが、戦国時代に「安国寺恵瓊」という僧籍の武将?がいたのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。「瓊」を「ケイ」と読むのは漢音のようで、訓読みでは「たま」または「に」や「ぬ」と読むとのこと。

この三角点は「布部川」の流域(山の上ですが)にあるので、「瓊発辺」と「布部」は由来を同じくすると考えるのが自然でしょうか。「布部」は num-ot-pe で「胡桃・多い・もの(川)」だと言われていて、「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ヌモツベフト」「ヌモツヘイトコ」などの川名や地名が描かれています。

明治時代の地形図にも「ヌモッペ」「サルンヌモッペ」「ポンヌモッペ」などと描かれていて、いずれも「ヌモッペ」で統一されています。その中で、上流部に存在するこの三角点だけが「ぬぽっぺ」なのが気になるところです。

「布部」の num-ot-pe も他所で見かけない解だけに、実は「ヌポッペ」が本来の形に近いんじゃないか……と考えたくなります。nup-o-pet で「野原・にある・川」と読むことも可能ですが、山田秀三さんによると……

 アイヌ語の語尾の子音ムもプ(m, p)も不破裂音で,唇を閉じたままであるためか,よくムがプに訛って残った。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.242 より引用)
「ム」が「プ」に訛るケースが多かったとのこと。この「ヌポッペ」もその一例だったのかもしれません。

2022年1月14日金曜日

宗谷本線特急列車 (45) 「スーパー宗谷 3 号」

5 番線に入線していた特急「オホーツク 7 号」が定刻通りに出発しました。あっ、最後尾の車輌はスラントノーズだったんですね。

快速「なよろ 7 号」

そして 3 番線には石北本線の伊香牛からやってきた 4546D が入線してきました。この車輌はこの先、快速「なよろ 7 号」として名寄に向かうことになります。

2022年1月13日木曜日

宗谷本線特急列車 (44) 「旭川・その3」

旭川駅で特急「スーパー宗谷 3 号」の到着を待っているところです。この先は各駅停車ではないので、題名をちょこっとだけ変更しています。

L 特急「スーパーカムイ 42 号」

特急「スーパー宗谷 3 号」は 4 番線に入線予定ですが、18:58 時点では札幌行きの L 特急「スーパーカムイ 42 号」が発車を待っていました。

2022年1月12日水曜日

宗谷本線各駅停車 (43) 「旭川・その2」

旭川駅に到着しました。ついさっきまで乗車していた 328D は、一瞬のうちに深川行き 928D に変身してしまいました。
階段を降りて改札に向かいます。線路の下ですから「跨線橋」ではありませんし、でも地下でも無いので「地下道」でもありません。改札の中なので「自由通路」でも無いですし……どう表現すれば良いものでしょう。

2022年1月11日火曜日

宗谷本線各駅停車 (42) 「旭川四条・旭川」

旭川行き 328D は新旭川駅を出発しました。新旭川から先は複線電化区間です。
牛朱別川を渡ります。「永山新川」ができて水量は少なくなっている筈ですが、それでもそこそこ流れていますね。

2022年1月10日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (127) 神宮寺(大仙市) (1878/7/21)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

慰めのない日曜日

「日本奥地紀行」は、章の副題として「神宮寺にて 七月二十一日」と言った風に所在地と日付が記されています。一章につき数日分の出来事が記されているのが常なので、出来事のあった日付は副題から逆算することで求めることができます。

1878/7/21 は日曜日で、続く「第二十一信」は「月曜日の朝に──」で始まっているため、イザベラは神宮寺で一泊したと想定されます。ところが……

午後には小さな行列が家の前を通った。一台の飾られた駕籠を僧侶が担いで、ぞろぞろ歩いていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248-249 より引用)
これまでの内容から、イザベラは 7/21(日) の朝に横手で神社を散策して、午後には六郷で「社会見学」した後で神宮寺に到着したと推定していました。イザベラが翌朝に神宮寺を発ったのだとすれば、「午後には──」で始まる経験ができる筈が無いので、どこかに間違いが潜んでいることになりますね。

ここ数日分の旅程が一日前倒しで進んでいた可能性について確認してみたのですが、どうやらイザベラが金山に逗留したのが三泊ではなく二泊だった……と思えてきました。つまり、イザベラが横手で神社を散策したのは 7/20(土) の朝だったことになります。7/20(土) が「友引」なのが気になりますが、明治新政府は六曜の暦注を禁止したという話もあるため、気にするべきでは無いのかもしれません。

そしてイザベラは神宮寺で二泊したことになるので、日曜日の午後に次のようなイベントを目にした、ということになりそうです。

僧侶たちは真っ赤な式服や白い法衣の上に肩マントやストラ(祭服)をかけていた。この箱には紙片が入っていて、人々の恐れる災害や人間の名前が書きこんであるという。僧侶たちはこの紙片を川に持っていって捨てるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)
それにしても……これは何なんでしょう。僧侶が神輿を担いでいるかのように見えてしまうのですが。

無法な侵入

イザベラは「慰めのない日曜日」をまるまる休息に費やし、翌朝の出発に備えて早く寝ることにしたようですが……

眼を閉じると、九時ごろ足をひきずって歩く音やささやき声でざわざわし、しばらく続くので、眼を上げたところ、向かい側に約四十人の男女と子どもたち《伊藤は百人だという》が、顔を灯火に照らされながら、みな私の姿をじっと見ていた。彼らは、廊下の隣の障子を三枚、音もなく取り去っていたのである!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)
うわー……。イザベラはさらっと「事実」を記していますが、これ、読めば読むほど恐怖……ですよね。部屋で寝入ったところ、いつの間にか壁が取っ払われて数十人以上に寝姿を監視されていた、ということですからね。

さすがのイザベラも恐怖に慄いたのか、大声で伊藤を呼び出します。イザベラが騒いだだけではその場を立ち去ろうとしなかった群衆も、伊藤がやってきたことでようやく逃げ去ります。見世物扱いされることには慣れていたイザベラも、さすがに今回の仕打ちは堪えたようで……

私は、戸外で群集が集まってきてじろじろ見られることには、辛抱強く、ときには微笑してがまんしてきた。しかし、この種の侵入には耐えられない。伊藤は反対したけれども、彼を警察にやって、家から人々を追い出してもらおうとした。宿の亭主にはそれができないからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)※ 原文ママ
警察に事態の収拾を依頼するしか無い、との結論に至ったのでした。

じっと見る特権

興味深いことに、伊藤は警察の介入に反対していました。それが「事なかれ主義」によるものなのか、それとも他に理由があったのかは明らかではありませんが、もしかしたら「警察を呼んだところで碌なことにならない」という確信があったのかもしれません。

今朝私が着換えを終わると、一人の警官が私の部屋にやってきた。表面上は人々の不作法を詫びるためであったが、実際には警察の特権で私をじろじろ見ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)
伊藤にしてみれば「ほら、やめたほうが良いと言ったでしょ」となるのでしょうか。失望を隠せずにいたイザベラに対して、伊藤は渾身のジョークで追い打ちをかけます。

特に彼は、私の担架式寝台と蚊帳からほとんど眼を離さなかった。それらを見世物にすれば一日一円儲けることができる、と伊藤は言っている!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.249 より引用)
イザベラが担架式寝台と蚊帳によるビッグビジネスの可能性に思いを馳せる中、件の警官氏が事の真相を激白します。

人々は今まで外国人を見たことがないものだから、と警官は言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.250 より引用)
うん、知ってた。

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2022年1月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (899) 「神女徳岳」

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神女徳岳(かむいめとくだけ)

kamuy-metot??
神・山奥
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
富良野市と上富良野町の境界に「富良野岳」という山があるのですが、その頂上付近に「神女徳岳」という名前の一等三角点があります。「富良野岳」の旧称が「神女徳岳」だったのかな? と考えたくなりますが、そう単純な話でも無さそうです。

「富良野岳」の旧称

松浦武四郎は「十勝越え」の際に「前富良野岳」と「富良野岳」の鞍部(標高 1,359 m)を越えたとされています。当該区間について、戊午日誌「東部登加智留宇知之誌」には次のように記されていました。

右の方
     ヲツチシバンザイウシベ
と云て、上尖りし山。此山のうしろはソラチの川に到るよし。又左りの方は、
     ヲツチシベンザイウシベ
と云て、是又右の方に培しての高山。頂は岩山にして、其つゞきビエ、べヽツ、チクベツ岳の方に連り、此間を号て、
     ルウチシ
と云たり。ルウチシは路をこゆると云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.163 より引用)
松浦武四郎が通過した「鞍部」が「ルウチシ」で、これは ru-chis で「路・中くぼみ」と解釈できます。松浦武四郎は旭川から十勝に向かっていたので、富良野岳は「左りの方」、すなわち「ヲツチシベンザイウシベ」だったことになります。

「ヲツチシベンザイウシベ」の意味するところですが、「ヲツチシ」は ok-chis で「うなじ・中くぼみ」となり、具体的には「」を意味すると考えられます。

「バンザイウシベ」と「ベンザイウシベ」の「バン」と「ベン」は、pankepenkepanpen で、それぞれ「川下側の」「川上側の」と考えられます。「ザイウシベ」は sa-e-us-pe で「前・頭(山頂)・ついている・もの」と言ったところでしょうか。

「カムイメトㇰヌプリ」という山名

松浦武四郎は「十勝越え」の際に意図的に「間違ったルート」を案内されたと見られ、松浦武四郎もそれを承知の上で記録していたと考えられるとのこと(このあたりの事情については「松浦武四郎選集 五」の p.53-57 に詳述されています)。

そのことが原因だったかどうかは不明ですが、明治時代の地形図には「ヲツチシベンザイウシベ」の名前は見当たりません。「十勝岳」は現在とほぼ同じ位置に描かれていて、南西の「上ホロカメットク山」の位置には「ペナクシホロカメトㇰヌプリ」と描かれていました。

そして、「十勝岳」と「ペナクシホロカメトㇰヌプリ」の間(の狭い場所)に「カムイメトㇰヌプリ」という山が描かれていました。どうやら一等三角点「かむいとく岳」の名前は、この「カムイメトㇰヌプリ」に由来すると考えられそうです。

「ホロカメットク」

「カムイメトㇰヌプリ」という山名は既に使われなくなって久しいですが、「ペナクシホロカメトㇰヌプリ」は「上ホロカメットク山」という名前で健在です(また南東に「パナクシホロカメトㇰヌプリ」という山が記録されていますが、これは現在「下ホロカメットク山」と呼ばれています)。

2014/2/23 の記事では「ホロカメットク」を horka-mem-etok?? ではないか……と考えてみましたが、今から思えばやはり無理があったかな、と思えます。問題は「メトㇰ」「メットク」「メトック」に該当する語が見当たらないというところなのですが……。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 上ホロカメットク山 1,887 ㍍ 南富良野町新得町との境界の山。アイヌ語「ホㇽカ・メトッ」で,さかさ川の山奥の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.337 より引用)
horka-metot で「U ターンする・山奥」と考えたのですね。鎌田正信さんもこの解釈を追認していたようで……

パナクシポロカメトックヌプリ
下ホロカメトック山(地理院・営林署図)
ペナクシポロカメトックヌプリ
上ホロカメトック山(地理院・営林署図)
 いずれも十勝川本流の水源にあって、十勝と空知の支庁界に位置している。
 パナ・クㇱ・ホㇽカ・メトッ・ヌプリ「pana-kus-horka-metot-nupuri 下手の方を・通る・後戻りする(川の)・山奥の・山」と解したいが、ホㇽカ・エトㇰ・ヌプリ「horka-etok-nupuri 後戻りする(川の)・水源」とも読める。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.127 より引用)
鎌田さんは道東の方なので、道東側から見た解釈(十勝川本流の水源)になっているのが面白いですね。そして metot だと「ク」の出どころが不明になるからか、etok の可能性を残しているのも面白いです。

「メットク川」

このように「メトㇰ」の解釈はややスッキリしない状態だったのですが、「カムイメトㇰヌプリ」という用例をあわせて検討することで新たな発見が無いか、ちょっと考えてみました。

……考えてみたのですが、これと言った発見が無く……(ぉぃ)。地形図を見てみると、十勝岳の東を「メットク川」「下メットク川」という川が流れていることがわかりました。ただ、どちらの川を遡ったところで「十勝岳」に辿り着くのが精一杯で、「上ホロカメットク山」という名前の由来と考えるのは厳しそうに思えます。

ただ、山の名前として horka(U ターンする)が出てくるのもかなり不自然です(horka は、川を遡るうちに方角が逆になってしまう「川」を指すのが一般的です)。

「カムイ」は何処に

ということで、「ホロカ」は川名由来ではないかと思われるのですが、そうすると「カムイメトㇰヌプリ」の「カムイ」はどこから出てきたのか……という点が問題になってきます。kamuy-kotan であれば「神様の村」ですが、これは「人が近づくべきではない場所」と解釈できます。

では「カムイメトㇰ」はどう考えれば良いのか……という話になりますが、kamuy-metot であれば「神・山奥」となり、「人が近づくべきではない山奥」と解釈できるでしょうか。kamuy-etok であれば「神・水源」となり、一見意味不明な感じもしますが、kamuy-wakka-etok だとすれば「神・水・水源」となります。

kamuy-wakka は「神・水」としましたが、より意図を汲み取るならば「魔・水」とすべきだ……という考え方もあります。見た目は清冽な水なのに、実際には毒性の物質が混入していて、飲用すると死に至るような水のことを kamuy-wakka と呼び怖れたとのこと。

この手の「ヤバい水」は火山活動の盛んなところに多く見られるのですが、上ホロカメットク山の西(富良野岳の北)には温泉が湧出しているところがいくつか存在するようです。

「メトㇰ」は「メトッ」だったか

ただ、horkakamuy のどちらにも etok(m)etok としてくっついた……と考えるのは、さすがに無理がありそうな気がします。ここはやはり horka-metotkamuy-metot と考えるのが自然に思えますし、もしかしたら「メトッ」が「メトㇰ」に誤読された……という可能性を考えたほうが良さそうに思えてきました。

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2022年1月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (898) 「鹿越・厚平内」

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鹿越(しかごえ)

yuk-ru?
鹿・路
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
苫小牧東 IC の西北西、トキサタマップ川の源流部に存在する四等三角点の名前です。「鹿越」と言えば南富良野町の「鹿越」「東鹿越」が有名ですが、いえいえここは苫小牧で……。

南富良野の「鹿越」は yuk-turasi-pet(「鹿・それに沿って登る・川」)を意訳したものだとされます。同じ考え方で近辺に yuk 系の地名(川名)が無いか探してみた所……ありました。それも困ったことに千歳市側に。

ママチ川の支流

更に困ったことには「東西蝦夷山川地理取調図」しかネタ元が見当たらない状態で……。「東西蝦夷──」によると、「マヽツブト」で千歳川に合流する川(→ママチ川)の上流に「ホンユクル」と「ホロユクル」という川が存在するとのこと。これらは pon-yuk-ruporo-yuk-ru で、「小・鹿・路」と「大・鹿・路」と読めます。

明治時代の地形図では、「ママチ川」が「ママツ川」になっていて、支流の「イケジリママチ川」との合流点よりも上流側(西側)では「フプ子ウシ」、更にその上流部では「マクフプ子ウシ」と「サンケフプ子ウシ」に分かれているように描かれています。

また南支流の「イケジリママチ川」は「イケシリママツ」とあり、「烏柵舞第一林道」沿いの支流が「ポンママツ」と描かれていました。

「東西蝦夷──」の記録を明治時代の地形図と照らし合わせると、「イケシリママツ」の上流部に「ホンユクル」と「ホロユクル」があったと捉えられます。

厳密には「ヲサヌシ」の支流として描かれているのですが、明治時代には現在の「柏陽五丁目」の西を流れる川が「オサーノシ」として認識されていたようなので、河川名の取り違えなどがあった可能性もあります。

「イケジリ」の検討

そもそも「イケジリママチ川」という川名自体に注意が必要で、明治時代に既に「イケシリママツ」と呼ばれていたことを考えると、「イケシリ」は池尻大橋ではなくアイヌ語由来と考えるべきだったかもしれません。上流部が pon-yuk-ruporo-yuk-ru と呼ばれていたとすると、「イケシリ」は yuk-ru であると考えてみるのも一興……じゃないや。一理あるかもしれません。

yuk-ruyuk-kus-ru で「鹿・通行する・路」だったとしたら、「ユクスル」と聞こえた可能性もありそうですし、訛りを逆補正するような感じで「イケシリ」になった……と言う可能性もあるんじゃないかなぁ、と考えてみました。

なぜ「鹿ユㇰ」は苫小牧に?

すっかり「イケジリママチ川」の話になってしまっていますが、ママチ川の支流の名前(に由来する地名?)が市境から 3 km 以上離れた苫小牧市に存在するのかは……何故なんでしょうね(ぉぃ)。

可能性は二つほど考えられるのですが、一つは「鹿に市境は無い」という考え方で、千歳と苫小牧の分水嶺を越えた鹿が、苫小牧市の「鹿越」のあたりを通っていた……というものです。

もう一つはお決まりの「川名がうっかり移転した」というものですが……この話はまた後ほど(ぉぃ)。

実はそもそも移転などしていなかった……という可能性が高くなったのですけどね。

厚平内(あっぺない)

ar-{pin-nay}?
もう一方の・{細く深い谷川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
植苗川の上流部沿い、標高 84.9 m の四等三角点の名前です。この三角点は千歳市との市境から 300 m ほどしか離れていません。

「アッペナイ」の位置を探る

大正時代に測図された「陸軍図」では、植苗川ではなく勇払川の流域の、現在「苫小牧市勇振取水場」の施設と思しき建物があるあたりが「アッペナイ」として描かれていました(神社もあったようです)。

少し時代を遡って明治時代の地形図を見てみると、勇払川ではなく植苗川の位置に「アッペナイ」と言う名前の川が描かれていました。……珍しくここまでは順調に来た印象がありますね。

更に時代を遡って「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみたところ……げげっ。なんと(問題の)ママチ川の上流部の名前として「アツヘナイ」と描かれています。明治時代の地形図では「サンケフプ子ウシ」と描かれている川に相当する可能性がありそうです。

「『東西蝦夷山川地理取調図』しか無い」のカラクリ

前項の「鹿越」で「困ったことには『東西蝦夷山川地理取調図』しかネタ元が見当たらない」と記していましたが、ようやくカラクリが見えてきました。戊午日誌「東西新道誌」には次のように記されていました。

またしばし上るや追々椴松の山に成りて、其処を
     クウシ
と云。是フフウシの詰りと思はる。また上りて右のかたに
     アツヘナイ
小川。是より二股になりて追々山さが(嵯峨)しくなり、タルマイの麓に成ると。
     ホンユフル
是右のかたに行、シコツ山の麓に到るよし。また
     ホロユフル
是タルマイの麓に到ると。両岸峨々たる高山也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.440 より引用)
そろそろ「あっ」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。やはり「東西蝦夷山川地理取調図」が「アツヘナイ」を「ママチ川上流部」に描いたのは間違いで、正しくは「ユブル」こと「勇払川(勇振川)」の右支流(北支流)だったと考えるべきだ、ということでしょう。「『東西蝦夷山川地理取調図』しかネタ元が見当たらない」のは当然の帰結だったと言えそうです。

「ユクル」と「ユフル」

そして「あっ、あっ」と言わずにおられないのが「ホンユフル」と「ホロユフル」で、これは「小さな勇振川」と「大きな勇振川」なのですが、巳手控には次のように記されていました。

○同所ユウル
 ホロナイ左   クウシナイ
 アツヘナイ右  ホンユクル左
 ホロユクル右
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 四」北海道出版企画センター p.304 より引用)
ああああっ。「東西蝦夷──」でママチ川の上流部の川として描かれていた川は、「アツヘナイ」だけではなく全て「ユブル」こと「勇振川」の支流だったのですね。そして「ホンユクル」「ホロユクル」は「ホンユフル」「ホロユフル」だった可能性が……。良く見ると「東西新道誌」にも

     クウシ
と云。是フフウシの詰りと思はる。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.440 より引用)
とあり、「フ」が「ク」に化けるケースがあることを示唆していました。

まとめ

そろそろまとめに入ろうと思うのですが、まず「鹿越」の元となったと思われる「ホンユクル」あるいは「ホロユクル」は、元々は「ホンユフル」「ホロユフル」だった可能性が高そうに思えてきました。

そもそも「ユブル」こと「勇振川」の解釈自体、類型に乏しく怪しい感じがするので、「ユブル」が実は「ユクル」だったとすら考えたくなります。

そして「アツヘナイ」は……ar-pe-nay で「もう一方の・水・川」あたりでしょうか。あるいは ar-pi-nay で「もう一方の・小石・川」かもしれませんし、ar-{pin-nay} で「もう一方の・{細く深い谷川}」とも読めそうです。

「ユブル」が松浦武四郎が言うように「湯」に関連する川名なのであれば「水の川」という川名に頷けるものがありますし、「美々川」の存在から「小石の川」という名前もありそうに思えます。ただ「勇払川」(勇振川)とともに台地を深く刻んでいるように見える地形から考えると、ar-{pin-nay} が「ありそうな感じ」がするんですよね。

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2022年1月7日金曜日

宗谷本線各駅停車 (41) 「北旭川・新旭川」

永山駅を出発した旭川行き 328D ですが、右側の少し離れたところに線路が見えてきました。
線路の向こう側は工業地帯のように見えます。貨車の車体部分を転用した物置?も見えますね。

2022年1月6日木曜日

宗谷本線各駅停車 (40) 「北永山・永山」

328D は南比布駅を出発して、終点の旭川に向かいます。気がつけば途中の停車駅はあと 4 つ、時刻は 18:15 になっていました。
今更ですが、比布町は上川盆地の北東部に位置しています。西隣は旭川市ですが、旭川市との間に「突哨山」が聳えています。町境を意識しやすい地形と言えそうです。

2022年1月5日水曜日

宗谷本線各駅停車 (39) 「比布・南比布」

旭川行き 328D は北比布駅を出発しました。車窓からは相変わらず雄大な大雪山の姿を眺めることができます。
比布町内の宗谷本線は、左右に鉄道林っぽい用地が確保されているように見えます。ただ「防風林」と呼ぶにはちょっと木が少ない印象も……。

2022年1月4日火曜日

宗谷本線各駅停車 (38) 「蘭留・北比布」

旭川行き 328D は塩狩峠を越えて下り勾配に差し掛かりました。標高 255 m ほどの塩狩峠から標高 184 m ほどの蘭留駅まで、右に左にカーブして距離を稼ぎながら駆け下ります。
気がつけば、あと 5 分で 18 時になろうとしていました。5 月なので比較的日は長いとは言え、日の出の早い北海道なので、日没まであまり余裕は無さそうな感じでしょうか。

2022年1月3日月曜日

宗谷本線各駅停車 (37) 「塩狩」

旭川行き 328D は和寒駅を出発しました。線路のすぐ近くを国道 40 号が通っていて、その向こうには学校の体育館のような形をした農業倉庫が並んでいるのが見えます。
和寒は米どころのようで、「JA 北ひびき」の「和寒ライスセンター」はなかなか熱いデザインのペイントがなされていました。それはともかく「北ひびき」という組織名?、周辺地域の JA が合併してできたネーミングだと思うのですが、今ひとつ由来が良くわからないものが多い印象が……。

2022年1月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (897) 「幌内(苫小牧市)・稚内(苫小牧市)」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幌内(ほろない)

poro-nay
大きな・川
(典拠あり、類型多数)
「苫小牧西港フェリーターミナル」と東隣にある「日本軽金属工場」の間を「幌内川」という川が流れています。幌内川の上流部は「北海道大学研究林」の中を流れていて、源流部は国道 276 号の北に位置します。勇払川や勇振川、苫小牧川と比べると若干短いものの、そこそこ長い川の一つです。

幌内川中流部の流域は、現在は「苫小牧市字高丘」と呼ばれていますが、かつては地名も「幌内」だったようです。北大研究林の施設のすぐ南には「高丘浄水場」があり、浄水場の敷地のすぐ北に三等三角点「幌内」があります(標高 52.1 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には、「ユウブツ」の南支流として「ホロナイ」という川が描かれていました。現在のようにフェリーターミナルに向かって直接注ぐ流路ではなく、もともとは湿原の中を東に向かって流れていたようです。

戊午日誌「東西新道誌」にも「ホロナイ」と記録されていました。意味は素直に poro-nay で「大きな・川」と考えて良いかと思われます。

稚内(わっかない)

wakka-nay???
水・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
苫小牧中央 IC と支笏湖を結ぶ国道 276 号には、かつて「王子軽便鉄道」という鉄道路線が並走していました。線路跡は「自転車専用道路」として整備されていますが、自転車専用道路として整備されるに際して途中に立体交叉が設置されています。


厳密には「線路跡」はこの立体交叉の手前までのようで、ここから支笏湖までは、自転車専用道路は線路跡から 100 m ほど離れた国道の南側を通っています(線路跡には送電線があるため、航空写真で容易に識別できます)。

二等三角点と三等三角点

前置きが長くなりましたが、立体交叉の近くには標高 106.1 m の二等水準点があり、そのすぐ近くに「稚内」という名前の二等三角点があります(但し成果状態が「処置保留」となっているため、現在は三角点として機能していないのかもしれません)。

更にややこしいことに、二等三角点「稚内」から 4 km ほど支笏湖方面に向かったところ(自転車道の南側)にも「稚内」という名前の三等三角点があります(標高 160.4 m)。こちらは成果状態も「正常」のため、現在も三角点として機能しているようです。

謎の「ワッカナイ」

「稚内」と言うからには、このあたりに「ワッカナイ」と解釈できる地名(おそらく川名)があったのだと考えたくなりますが、手持ちの情報は全くありません(ぉぃ)。

二等三角点「稚内」と三等三角点「稚内」はいずれも国道 276 号沿いで、苫小牧川の北側に位置しています(厳密には、三等三角点「稚内」は勇払川の流域と言えそうですが)。

少なくとも川に名前はあった

現在の「苫小牧川」は、「東西蝦夷山川地理取調図」では「マコマイ」という名前で描かれていました。支流として「マサラマヽ」があり、上流部には「ホンマコマイ」と「ホロマコマイ」という名前の川が描かれています。

一方で明治時代の地形図を見てみると、下流部に「ヲテイ子ウシ」という支流が描かれていて、中流部に「ポンコマナイ」という西支流が描かれています。また三等三角点「稚内」の近くを「チヨロノプンナイ」という支流が描かれているほか、更に上流側の西支流として「ヒヒポノウシユマコマナイ」という川が描かれていました。

「ヒヒポノウシユマコマナイ」は「コヒポクウシユマコマナイ」の可能性があるかもしれません。だとしたら随分な誤字ですが……。

とりあえずこれらの情報からわかることは、松浦武四郎(や永田方正)の記録は完全なものでは無いということ(何を今更という話ですが)と、苫小牧川(マコマイ)の支流にもアイヌ語で解釈できる川名があったらしい、ということです。

「チヨロノプンナイ」とは

三等三角点「稚内」の近くを流れていたと思しき「チヨロノプンナイ」は chironnup-un-nay で「キツネ・いる・川」と解釈できるかもしれません。chironnup (cironnup) は主に「キツネ」と解釈する場合が多いようですが、本来は「獲物」「けだもの」と考えるべきのようで、「タヌキ」や「エゾイタチ(オコジョ)」を意味する場合もあるとのこと。また派生型として worun-chironnup で「カワウソ」を意味するようです(水にいる・けもの)。

獲物の棲息地を意味する川名があるということは、猟師がこの山の中に分け入ることもあったと考えられます。苫小牧川(マコマイ)にはいくつもの支流がありますが、その中で飲水を得るのに適した川を wakka-nay で「水・川」と呼んだ……としても不思議はないかも……と言ったところでしょうか。

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2022年1月1日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (126) 六郷(美郷町)~神宮寺(大仙市) (1878/7/20~21)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていき……あれっ。

高梨謙吉さん訳の「日本奥地紀行」では何故か「第二十信(続き)」が二つ続けて存在してしまっているのですが、原文では LETTER XXV.──(Continued.)LETTER XXV.──(Concluded.) となっています。

どうやら高梨さん(と編集者)のうっかりミスに思えるのですが、不思議なことに時岡敬子さんの「イザベラ・バードの日本紀行(上)」でも「第二五信(つづきその一)」と「第二五信(つづきその二)」となっています。Concluded をどう和訳するかはなかなか悩ましいですが、「結論」だとちょっと重いので「結」あたりが良さそうでしょうか……?

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

思いがけない招待

イザベラは六郷(美郷町)で「社会見学」を行った後、再び神宮寺(大仙市)に向けて出発しました。人力車で移動中のイザベラが休憩を取っていたところ……

 人力車に乗って六郷を出てから間もなく路傍の茶屋で休んだが、そこで脚気が流行していたときに院内インナイに滞留していた若い医師に会った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.247 より引用)
院内でのエピソードは「第二十五信」で詳述されています(「日本奥地紀行」を読む (118) 院内(湯沢市) (1878/7/19))が、今度は久保田(秋田)に帰る途中で「おや、また会いましたね」となったようです。

この若い医師はイザベラに勤務先(病院)に来るように招待するとともに、ワールドクラスの有能さと抜け目のなさを持ち合わせた伊藤に重大な情報をリークします。

彼は伊藤に、「西洋料理」を食べられる料理店のことを話した。これは楽しい期待で、伊藤はいつも私に、忘れないでくれ、と念を押している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.247 より引用)
旅の道中でこんなチャンスは滅多に無いですからね。しかもこの先は「蝦夷地」に向かうのですから、「西洋料理」どころか専業の「料理店」すら存在するかどうかも怪しいですし……。

伊藤は通訳をしているくらいですから、当時の日本人としては欧米への理解も深かったと思われますが、洋食好きだったのでしょうか。実は単に「料理店」の料理が食べたかっただけだったりして……。

ばかげた事件

単なる「休憩」だった筈が思わぬ形で「西洋料理店」の情報をゲットして、実はウハウハ(死語?)だったと思われるイザベラですが、移動中に囚人を連行した警察官に遭遇します。警察官に遭遇した車夫の取った行動は……?

私の車夫は、警官の姿を見ると、すぐさま土下座して頭を下げた。あまり突然に梶棒を下げたので、私はもう少しで放り出されるところだった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.247 より引用)
「梶棒」という言葉は個人的に耳慣れないものですが、要は人力車の前の棒のことのようです。人力車は車輪が左右に一輪ずつしか無いので、梶棒を下げると前傾姿勢になってしまうのですが、車夫がいきなり梶棒を下げてしまったので、イザベラは前方に放り出されそうになってしまいます。

車夫が慌てて土下座した理由ですが、もしかしたら服を着ないで人力車を走らせていたから、だったのかもしれません。

彼は同時に横棒のところに置いてある着物を慌てて着ようとした。また人力車を後ろで引いていた若い男たちも、私の車の後ろに屈んで急いで着物をつけようとしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.247 より引用)
イザベラは「車夫が畏れ慄いていた」のを見ていますが、これは処罰を恐れていたと考えることもできます。慌てて服を着たのは、少しでも心象を良くしようと考えたのでしょうか。

警官の礼儀正しさ

イザベラは、すっかり萎縮してしまった車夫の姿を次のように記しています。

スコットランドの長老教会の祈躊の中で聞く奇妙な文句「両手で口をおおい、ひれ伏して口を地面につけよ」そのままの姿であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
土下座しながら警察官に申し開きを行う車夫の姿があまりに気の毒だったからか、イザベラは助け舟を出すことにしました。

その日はたいそう暑かったので、私は彼のために取りなしてやった。他の場合なら逮捕するのだが、外国人に迷惑をかけるから今日のところは大目に見よう、と警官は言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
イザベラの「介入」は効果覿面だったようで、車夫は無罪放免を勝ち取ります。服を着ずに人力車を走らせることがどの程度の罪に相当するのかは不明ですが、あっさりと外圧に屈した感がするのと、恣意的な摘発基準の変動があったという点は少々モヤッとしますね……。

イザベラの車を引いていた年配の車夫は、流石にしょんぼりしたままだったようですが……

しかし道路を曲がって、警官の姿が見えなくなると、二人の若い車夫はたちまち着物を放り出し、大声で笑いながら、梶棒をとり全速力で駆け出したのである!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
あははは(笑)。懲りないですね!

慰めのない日曜日

イザベラ一行はようやく神宮寺(大仙市)に到着します。これは予定通りの行動なのかと思ったのですが……

 神宮寺シンゴージに着くと、私は疲れて、それ以上進めなかった。低くて暗く、悪臭のする部屋しか見つからず、そこは汚い障子ショージで仕切ってあるだけで、ここで日曜日を過ごすのかと思うと憂鬱であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
……どうやら疲労困憊だったイザベラがギブアップした、というのが真相だったようです。まぁ慣れない着物を着たりしたので、いつも以上に疲れが出たのかもしれません。

片側からは、黴の生えた小庭が見え、ぬるぬるした藻類が生えていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
これは……苔むした趣のある庭園だったのかもしれませんが、イザベラ姐さんの筆致にかかればコテンパンですね……。もっともイザベラが「小庭」を苦々しく見ていたのは、隣家の住人が「異人さん」をひと目見ようと出入りしていたから……だったようですが。

イザベラが「憂鬱な日曜日」を過ごすことになった宿ですが……

暗くならないうちから蚊が飛びまわり、蚤は砂蠅のように畳の上をはねまわった。卵はなくて、米飯ときゅうりだけであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
もはや毎度おなじみとなった感がありますね。イザベラが毎回超人的な引きで「限界宿」を引き当てていると考えるのは流石に無理があるので、当時の一般的な宿屋はこんなレベルだった、と考えるべきなのでしょう。

日曜日の朝五時に外側の格子に三人が顔を押しつけているのを見た。夕方までには障子は指穴だらけとなり、それぞれの穴からうす黒い眼が見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
ふわー……。イザベラはこれまでも繰り返しプライバシーの欠如を訴えていましたが、これまた相変わらず……ですね。

一日中、静かな糠雨で、温度は八二度。暑さと暗さ、そして悪臭はとても堪らなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)
「82 度」は「28 度」の誤植ではなく、「華氏 82 度」らしいのですが、これは摂氏 27.778 度に相当するとのこと。……ほぼ 28 度でしたね(汗)。

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