2021年5月5日水曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

「日本奥地紀行」を読む (118) 院内(湯沢市) (1878/7/19)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信」(初版では「第二十五信」)を見ていきます。

脚気

ここで話題が変わり、厄介な病気についての話になります。「蛇籠」の話題があっさりとカットされたのに対して、「脚気」の話題が普及版に残ったというのもちょっと不思議な感じもしますが……。

 上院内と下院内の二つの村に、日本人の非常に恐れている脚気という病気が発生している。そのため、この七ヵ月で人口約千五百のうち百人が死亡している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.236 より引用)
半年で人口の 6.6 % が死亡というのは、これは確かに恐ろしいですね。でも……あれ? 原文には次のようにあります。

In the two villages of Upper and Lower Innai there has been an outbreak of a malady much dreaded by the Japanese, called kak’ké, which, in the last seven months, has carried off 100 persons out of a population of about 500,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
訳文には「人口約千五百」とありましたが、原文には "about 500" とあるような……。母数が 1/3 だとしたら、人口の 20 % が死に追いやられたことになりますね……。

久保田の医学校から二人の医師が来て、この地方の医師の応援をしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.236 より引用)
ご存じの方も多いかと思いますが、「久保田」というのは現在の「秋田」のことです。そしてこの文面からは、「脚気」がまるで風土病のようにも読み取れるのですが、院内のあたりは異常に脚気が多かったんでしょうか……?

脚気をヨーロッパでは何と呼んでいるのか私には分からない。日本名は脚の病気を意味している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.236 より引用)
脚気」の項が「普及版」でも残ったのは、やはり奇怪にして恐るべき「風土病」の情報は広く伝わるべきだ……と考えたのかもしれませんね。イザベラは脚気の症状について詳細を記した上で、次のように続けていました。

慢性のものは、症状がゆっくり進行し、神経を麻輝させ、身体を消耗させる病気である。もしこれを抑えないと、六ヵ月から三年の間に、麻痺と消耗の結果、死を招く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.236 より引用)
なるほど、これは確かに「恐るべき病」ですね……。

命を奪う病

イザベラは、東京で千百人以上の患者を調べたとされるアンダーソン博士の文章から、患者の最期の姿を詳らかに引用していました。

「今や、患者は、身体を横にすることもできない。彼は床の上に身体を起こし、絶えず身体の位置を変える。(中略)ここでは医者はほとんど無力で、脈搏と体温が落ちてゆくのを調べるだけであり、頭脳が炭化した血液によって麻痺し無感覚となる瞬間を待って、臨終の病人がその最後の瞬間を、幸いにも意識のない状態であの世へ去るのをただ見ているだけである」(*)。
   *原注──ウィリアム・アンダーソン(英国外科医学会員)「脚気」(『日本アジア協会誌』 一八七八年一月)。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.236-237 より引用)
手の施しようのない病に倒れた人を看取るというのは、いつの時代も苦しく悲しいものですね。

発病原因

イザベラが東北・北海道を旅したのは 1878 年のことで、2 年後の 1880 年に「日本奥地紀行」の「初版」が刊行されています。「普及版」の刊行は 1885 年で、「脚気」がビタミンの欠乏によって引き起こされると判明したのはそれより後の 1910 年代のこととされます。

「初版」には脚気の「発病原因」という項がありましたが、「普及版」ではバッサリとカットされていました。

 私は脚気に関するこの文書──私がひと駅間乗り合わせた久保田から来た医者の一人から私が貰ったこの病気の報告書──を持っているので、私はこの病気についての話にはとても興味を持った。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.87 より引用)
「私がひと駅間乗り合わせた」の意味を掴みかねたので原文等をチェックしてみたのですが、"with whom I rode for one stage" とありました。現在、院内には JR 奥羽本線の駅がありますが、駅の西側のあたりが「上院内」で東側のあたりが「下院内」のようで、「ひと駅間乗り合わせた」というのは上院内から下院内への移動のことと考えれば納得できます。

イザベラが旅した時点では、奥羽本線は工事すら行われていないので、もちろん鉄道に乗ったわけではありません。

それはそうと、脚気の報告書を「医者の一人から貰った」とありますが、随分と気前のいいお医者さんですね。内容を暗唱できるほど熟読していたのか、あるいはもはや自分の手には負えないと感じていて、イザベラを介して脚気という「命を奪う病」の危うさを世に広めようとしたのでしょうか。後者なのだとしたら、その目論見は大当たりだったのかもしれません。

彼は、地元の医者の意見によれば(アンダーソン医師と同じく)、悪い排水、湿気、混雑、風通しの悪さが病気を惹き起こす原因であると言い、さらに彼は、兵士や警察官の間に極度に多いのは彼らの履いている外国の靴が乾いているときより湿っている場合の方が多いことが原因と考えられると付け加えた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.87 より引用)
これを読む限りでは、やはり正解(ビタミンの欠乏)にはたどり着いておらず、いわゆる「風土病」の一種と捉えていたことが見て取れます。「兵士や警察官に多い」という状況から「外国の靴が原因だ」という荒唐無稽な仮説が導かれたものの、実際には「白米中心の食生活」がトリガーだったと考えられます。

伊藤もまた、この意見に確信を持っていて、道路が濡れているときには、決して外国の長靴を履こうとしない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.87 より引用)
後に「通訳の元勲」と称揚されることになる伊藤少年も、割と流行?に敏感なところがあったようで、巷説をしっかりと信じてしまっていたようでした。

 それはセイロンやインドの混雑した刑務所や兵舎で時おり吹き荒れるベリベリという名前で呼ばれているものと同じ病気と考えられる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.87 より引用)
「脚気」の原因については正確なところを掴めていなかったものの、「ベリベリと同じものである」という認識は正しいものでした。風土的に異なる場所で同様の奇病が広がっているというのは、原因を推定する上で良いヒントになったのでは無いでしょうか。

なお、Wikipedia には「白米が流行した江戸において疾患が流行した」とあります。院内で脚気が流行してしまったのは、何が原因だったのでしょう……?(必ずしも白米だけが原因とは限らないのですが)

ちなみに、脚気はビタミン B の欠如が原因でしたが、ビタミン C が欠如した場合は「壊血病」になるとのこと。正直、少し混同していました……(汗)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

新着記事