2022年1月8日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (898) 「鹿越・厚平内」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

鹿越(しかごえ)

yuk-ru?
鹿・路
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
苫小牧東 IC の西北西、トキサタマップ川の源流部に存在する四等三角点の名前です。「鹿越」と言えば南富良野町の「鹿越」「東鹿越」が有名ですが、いえいえここは苫小牧で……。

南富良野の「鹿越」は yuk-turasi-pet(「鹿・それに沿って登る・川」)を意訳したものだとされます。同じ考え方で近辺に yuk 系の地名(川名)が無いか探してみた所……ありました。それも困ったことに千歳市側に。

ママチ川の支流

更に困ったことには「東西蝦夷山川地理取調図」しかネタ元が見当たらない状態で……。「東西蝦夷──」によると、「マヽツブト」で千歳川に合流する川(→ママチ川)の上流に「ホンユクル」と「ホロユクル」という川が存在するとのこと。これらは pon-yuk-ruporo-yuk-ru で、「小・鹿・路」と「大・鹿・路」と読めます。

明治時代の地形図では、「ママチ川」が「ママツ川」になっていて、支流の「イケジリママチ川」との合流点よりも上流側(西側)では「フプ子ウシ」、更にその上流部では「マクフプ子ウシ」と「サンケフプ子ウシ」に分かれているように描かれています。

また南支流の「イケジリママチ川」は「イケシリママツ」とあり、「烏柵舞第一林道」沿いの支流が「ポンママツ」と描かれていました。

「東西蝦夷──」の記録を明治時代の地形図と照らし合わせると、「イケシリママツ」の上流部に「ホンユクル」と「ホロユクル」があったと捉えられます。

厳密には「ヲサヌシ」の支流として描かれているのですが、明治時代には現在の「柏陽五丁目」の西を流れる川が「オサーノシ」として認識されていたようなので、河川名の取り違えなどがあった可能性もあります。

「イケジリ」の検討

そもそも「イケジリママチ川」という川名自体に注意が必要で、明治時代に既に「イケシリママツ」と呼ばれていたことを考えると、「イケシリ」は池尻大橋ではなくアイヌ語由来と考えるべきだったかもしれません。上流部が pon-yuk-ruporo-yuk-ru と呼ばれていたとすると、「イケシリ」は yuk-ru であると考えてみるのも一興……じゃないや。一理あるかもしれません。

yuk-ruyuk-kus-ru で「鹿・通行する・路」だったとしたら、「ユクスル」と聞こえた可能性もありそうですし、訛りを逆補正するような感じで「イケシリ」になった……と言う可能性もあるんじゃないかなぁ、と考えてみました。

なぜ「鹿ユㇰ」は苫小牧に?

すっかり「イケジリママチ川」の話になってしまっていますが、ママチ川の支流の名前(に由来する地名?)が市境から 3 km 以上離れた苫小牧市に存在するのかは……何故なんでしょうね(ぉぃ)。

可能性は二つほど考えられるのですが、一つは「鹿に市境は無い」という考え方で、千歳と苫小牧の分水嶺を越えた鹿が、苫小牧市の「鹿越」のあたりを通っていた……というものです。

もう一つはお決まりの「川名がうっかり移転した」というものですが……この話はまた後ほど(ぉぃ)。

実はそもそも移転などしていなかった……という可能性が高くなったのですけどね。

厚平内(あっぺない)

ar-{pin-nay}?
もう一方の・{細く深い谷川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
植苗川の上流部沿い、標高 84.9 m の四等三角点の名前です。この三角点は千歳市との市境から 300 m ほどしか離れていません。

「アッペナイ」の位置を探る

大正時代に測図された「陸軍図」では、植苗川ではなく勇払川の流域の、現在「苫小牧市勇振取水場」の施設と思しき建物があるあたりが「アッペナイ」として描かれていました(神社もあったようです)。

少し時代を遡って明治時代の地形図を見てみると、勇払川ではなく植苗川の位置に「アッペナイ」と言う名前の川が描かれていました。……珍しくここまでは順調に来た印象がありますね。

更に時代を遡って「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみたところ……げげっ。なんと(問題の)ママチ川の上流部の名前として「アツヘナイ」と描かれています。明治時代の地形図では「サンケフプ子ウシ」と描かれている川に相当する可能性がありそうです。

「『東西蝦夷山川地理取調図』しか無い」のカラクリ

前項の「鹿越」で「困ったことには『東西蝦夷山川地理取調図』しかネタ元が見当たらない」と記していましたが、ようやくカラクリが見えてきました。戊午日誌「東西新道誌」には次のように記されていました。

またしばし上るや追々椴松の山に成りて、其処を
     クウシ
と云。是フフウシの詰りと思はる。また上りて右のかたに
     アツヘナイ
小川。是より二股になりて追々山さが(嵯峨)しくなり、タルマイの麓に成ると。
     ホンユフル
是右のかたに行、シコツ山の麓に到るよし。また
     ホロユフル
是タルマイの麓に到ると。両岸峨々たる高山也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.440 より引用)
そろそろ「あっ」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。やはり「東西蝦夷山川地理取調図」が「アツヘナイ」を「ママチ川上流部」に描いたのは間違いで、正しくは「ユブル」こと「勇払川(勇振川)」の右支流(北支流)だったと考えるべきだ、ということでしょう。「『東西蝦夷山川地理取調図』しかネタ元が見当たらない」のは当然の帰結だったと言えそうです。

「ユクル」と「ユフル」

そして「あっ、あっ」と言わずにおられないのが「ホンユフル」と「ホロユフル」で、これは「小さな勇振川」と「大きな勇振川」なのですが、巳手控には次のように記されていました。

○同所ユウル
 ホロナイ左   クウシナイ
 アツヘナイ右  ホンユクル左
 ホロユクル右
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 四」北海道出版企画センター p.304 より引用)
ああああっ。「東西蝦夷──」でママチ川の上流部の川として描かれていた川は、「アツヘナイ」だけではなく全て「ユブル」こと「勇振川」の支流だったのですね。そして「ホンユクル」「ホロユクル」は「ホンユフル」「ホロユフル」だった可能性が……。良く見ると「東西新道誌」にも

     クウシ
と云。是フフウシの詰りと思はる。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.440 より引用)
とあり、「フ」が「ク」に化けるケースがあることを示唆していました。

まとめ

そろそろまとめに入ろうと思うのですが、まず「鹿越」の元となったと思われる「ホンユクル」あるいは「ホロユクル」は、元々は「ホンユフル」「ホロユフル」だった可能性が高そうに思えてきました。

そもそも「ユブル」こと「勇振川」の解釈自体、類型に乏しく怪しい感じがするので、「ユブル」が実は「ユクル」だったとすら考えたくなります。

そして「アツヘナイ」は……ar-pe-nay で「もう一方の・水・川」あたりでしょうか。あるいは ar-pi-nay で「もう一方の・小石・川」かもしれませんし、ar-{pin-nay} で「もう一方の・{細く深い谷川}」とも読めそうです。

「ユブル」が松浦武四郎が言うように「湯」に関連する川名なのであれば「水の川」という川名に頷けるものがありますし、「美々川」の存在から「小石の川」という名前もありそうに思えます。ただ「勇払川」(勇振川)とともに台地を深く刻んでいるように見える地形から考えると、ar-{pin-nay} が「ありそうな感じ」がするんですよね。

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