2022年1月23日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (903) 「トラシエホロカンベツ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トラシエホロカンベツ川

turasi-{e-horka-an-pet}
それに沿ってのぼる・{江幌完別川}
(典拠あり、類型あり)
富良野川は、上富良野駅のすぐ近くで「コルコニウシベツ川」(東支流)が合流していますが、合流点から 500 m ほど富良野川を遡ったところで「江幌完別川」(西支流)が合流しています。「トラシエホロカンベツ川」は「江幌完別川」の支流のひとつです。

「ホンホロカンベ」と「トラシエホロカンベツ川」

「東西蝦夷山川地理取調図」には「江幌完別川」や「トラシエホロカンベツ川」に相当しそうな川は描かれていません。但し「イワヲヘツ」(下流部は富良野川に相当)の西を並行して流れる川として「ホロカンベ」と「ホンホロカンベ」が描かれています。これは現在の「シブケウシ川」に相当しますが、実際の「シブケウシ川」よりも長い川として描かれているため、「シブケウシ川」の上流が「江幌完別川」であると誤認していた可能性もありそうです。

川名の「ホロカンベ」が「江幌完別川」に近い、ということも「誤認説」の可能性を高めるかもしれません。ただ、松浦武四郎は「十勝越え」の際に上富良野町を歩いているのですが、その際に「ホンカンベツ」と「ホロカンベツ」という川沿いを歩いたとしています。

「ホンカンベツ」か「ホロカンベツ」のどちらかが「江幌完別川」と見ることは(理屈の上では)可能ですが、現在の「トラシエホロカンベツ川」は松浦武四郎が歩いたルートから外れた位置にあるように思われるため、「トラシエホロカンベツ」が「ホンカンベツ」あるいは「ホロカンベツ」であると考えるのは難しそうです。

どこが horka だったのか

明治時代の地形図には「トラシエホロカアンペツ」という名前の川が描かれていました。ただ、現在の「トラシエホロカンベツ川」よりも遥かに短く描かれていて、美瑛と上富良野の境界もトラシエホロカンベツ川の中流部・上流部が存在しない想定で描かれていました。

「江幌完別川」は e-horka-an-pet で「頭(水源)・U ターンする・そうである・川」だと考えられます。改めて考えてみるとちょっと解釈に苦しむところがあって、富良野駅のあたりの空知川が南から北北西に向かって流れているのに対して、江幌完別川は北北西から南南東に向かって流れているので、そのことを指して e-horka と呼んだ……と考えると、一応筋は通ります。

ただ、江幌完別川には中流部に「金子川」と「旭川」という支流があり、これらの川は南東から北西に向かって流れています。江幌完別川の流れとほぼ逆向きに流れているので、江幌完別川から見た場合はこれらの支流が e-horka(水源・U ターンする)と見ることもできます。

また「金子川」と「旭川」は松浦武四郎が歩いたルート沿いにある可能性が考えられることから、「金子川」と「旭川」が「ホンカンベツ」と「ホロカンベツ」だった可能性もありそうです。

「それに沿ってのぼる江幌完別川」

ようやく本題の「トラシエホロカンベツ川」ですが、「江幌完別川」の西支流であり、また上流部に「開拓川」という西支流を持ちます。この「開拓川」は南から北に向かって流れていて、これも e-horka と呼ぶに相応しい流れの向きと言えます。

改めて言うまでも無いことですが、「トラシエホロカンベツ川」は「江幌完別川」と似た特色を有する「兄弟川」と考えられます。無駄に長い前フリを書いてしまったので、肝心の部分を山田さんにビシッと決めてもらいましょうか。

トラシ江幌完別川 トラシえほろかんべつがわ
 江幌完別川の西側を南流している支流の名。トゥラシ・エホロカアンペッ「turashi-ehorokanpet (道が)登っている・江幌完別川(の支流)」と読まれる。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.70 より引用)
やはり「トラシ」は turasi と考えて良さそうですね。この turasi は「それに沿ってのぼる」と解釈できます(ru-pes-pe でお馴染みの pes の対義語です)。「トラシエホロカンベツ川」は turasi-{e-horka-an-pet} で「それに沿ってのぼる・{江幌完別川}」となりますね。

富良野でタクシーに乗り,この川筋を上って旭川に出ようといったら、そんな道は知らないという。かまわずに川を溯り北の丘陵に上り,丘の上の畠の中の道を走っていたら,小川の水が向こうむけに流れている処に出た。そこにいた人に聞いたら,ここは上川の留辺蘂だという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.70 より引用)
山田さんの十八番である「タクシーで地名調査」のエピソードですね。引用文中の「旭川」は「旭川市」のことで、「江幌完別川」の支流の「旭川」ではありません。また「上川の留辺蘂」は「上川郡上川町」(旧称「留邊志部」)のことではなく、美瑛町の西部を流れる「瑠辺蘂川」のことです。

上富良野と美瑛の間には丘陵地帯が広がっていて、いつの間にか分水嶺を越えてしまう印象があります(故に村界の位置を大きく間違えたりしていました)。分水嶺が険しくないが故に、どの川筋を遡っても美瑛側に出るのは容易だと思われるのですが、中でも「トラシエホロカンベツ川」沿いを遡るルートは比較的短距離で歩きやすかった、ということなんでしょうね。

ひょうたんから駒?

昔のアイヌは上富良野から旭川に抜ける際に「トラシエホロカンベツ川」沿いを歩いていたと考えられます。となると松浦武四郎が「十勝越え」の際にこのルートを通っていないのは何故だろう……となるのですが、これは案内役のアイヌが意図的にこのルートの存在を隠蔽したという可能性も現実味を帯びてきます。

アイヌの交通路は徒歩での移動を前提としたもののため、「とにかく短距離」で「多少の勾配は気にしない」という特徴があります。この前提で考えると、旭川と十勝の間を結ぶルートの本命は、「美瑛川」を遡って「オプタテシケ山」の北東を越えて「十勝川」の上流部に出るルートだったと思われます。

松浦武四郎が歩いた当時のアイヌは、旭川から十勝までのルートを秘匿すべく、美馬牛経由で上富良野に出るという「隠蔽工作」を行ったのではないか……ということになるのですが、何の因果か、後に鉄道も国道も美馬牛経由で上富良野に抜けるルートを採用することになります。

松浦武四郎を案内したアイヌは、実は最適なルートを案内していたのではないか……とも考えてしまいますが、しれっと「川沿いを歩いていたら崖にぶつかってしまい進退窮まってしまった」と書かれていたりもするので、やはり「行きあたりばったりで適当に連れ回された」というのが正解かもしれませんね。

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