2025年12月31日水曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(船内 2F 編)

階段を上がって 2F にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

2F には「2 等椅子席」があり……

2025年12月30日火曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(船内 1F 編)

「はやぶさ」の客室に入ったのですが……うわっ、これはどこの新日本海フェリー……(違います
「はやぶさ」は 3 層構造で、下から「車輌甲板」「1F」そして「2F」というシンプルな構成なのですが、船のど真ん中にある階段は……なんか随分とおしゃれな作りですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

フェリーと言えば

船のど真ん中にある階段から船首(OMOTE)方向を望みます。

2025年12月29日月曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(車輌甲板編)

共栄運輸「はやぶさ」の車輌甲板に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

入口に書かれていた通り、甲板は右から 1~5 のレーンに分かれているようです。

2025年12月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1327) 「菜実・ヌモトル山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

菜実(なのみ)

nanu-ni??
顔・木
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
里平川(厚別川東支流)の「里平橋りびらはし」の北に「菜実」三等三角点が存在します(標高 213.9 m)。「菜実」で「なのみ」と読ませるとのこと。

北海道実測切図』(1895 頃) には「菜實」と描かれています。これは当時「菜實村」が存在したことを示しています(1868 年~1909 年)。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「ナヌニ」と描かれています。ただこのあたりは描写がかなりデフォルメ?されていて、里平川流域が不当に小さくなってしまっています。「東西蝦夷──」の描写を信じる限り、「ナヌニ」は里平川河口の北、厚別川と里平川の間のあたりを指していたようにも思えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

其向岸
     ナヌニ
右のかた也。川東岸秦皮たものき赤楊はんのき・柳・樺等有る処の中に谷地川一すじ有。其名義往昔海嘯つなみの時此処え大船の*首板一枚流れ行しと云よりして号し也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.118 より引用)
「鷁首板」には * 印がつけられていて、頭註には「みよし板」「おもて板」「ナヌニ ナヌミ」とあります。「ミヨシ」は板船の船首部分の柱を意味するとのこと(参考)。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Nanu ni   ナヌ ニ   艗板オモテノイタ
洪波ノ時舟ノ艗板アリシニヨリ名クト云フ○菜實村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.242 より引用)
「津波の際に舟が打ち上げられたから」という定番の地名解ですが、この手の地名解は何故か山中に多く見られます。

「話を盛った」ものである可能性も高いと思うのですが、この手の地名解は何故か釧路から室蘭にかけての太平洋側に広がっているようで、実際に地震の多いエリアであるというところが少々気になるところです。地震で津波が押し寄せたことがあるからこそ、「いや実はな……」という感じで話を盛りやすくなる……ということでしょうか。

「顔の木」? それとも「クルミの木」?

nanu-ni という語は手元の辞書類では確認できていないのですが、nanu で「顔」を意味するとのこと。ni は「木」なので nanu-ni で「顔・木」ということになりますね。なるほど、板舟の正面にある柱の名称としてはありそうな感じがします。

松浦武四郎と永田方正の解釈が完全に一致しているので、これ以上の深追いは不可能のようにも思えますが、敢えて掘り下げてみるならば、ninum で「クルミの実」を意味する語があります。ni が「木」で num は「粒」や「球」あるいは「果実」や「木の実」を意味するのですが、num 単体で「クルミの実」を意味することもあるみたいです。

そして『植物編』(1976) によると、ninum-ni で「クルミの木」を意味するという用例が十勝で採取されているとのこと。となると理屈の上では num-ni で「クルミの・木」を意味したとしても不思議ではありません。ninum-ninum-ni が渾然一体となって nanu-ni に化けたとしても不思議なことでは無い……ような気もします。

まぁ、何もないところから「津波で舟が」というストーリーが湧いてきたとするよりは、何らかのヒントがあり、そこから「実はな……」という感じで話が盛られたとするほうが、ありそうな感じがしますよね。

ただ、実は全く違うストーリーである可能性もありまして……(つづく)

ヌモトル山

nima-utur-oma-nay?
皿・間・そこにある・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年12月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1326) 「芽呂川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

芽呂川(めろ──)

mem-o-ru?
水たまり・多くある・路
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年12月26日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1325) 「元神部・御弓内・茶良瀬橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

元神部(もとかんべ)

mo-{tuk-an}-pe??
小さな・{われ突出する}・もの
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「元神部川」は厚別川の東支流で、元神部川支流の「元神部左の沢川」が合流するあたりに「元神部」という三等三角点があります(標高 263.2 m)。現在の地名は「新冠町東川」ですが、1954(昭和 29)年までは「新冠村大字元神部」だったようです。

北海道実測切図』(1895 頃) には「キンペカモトカㇺペ」という川が描かれていました。支流の名前は充実しているのですが、「元神部川」 そのものの川名が確認できないような気も……?(見落とし?)


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モトカンヒ」と描かれているように見えます。

「初代の白樺樹皮」?

戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     モトカンヒベツ
右の方相応の大川也。樹立原の中也。其名義は此川口人家の建て始めは、此処より始まりしと云よりして此名有りとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.98 より引用)
これは……どういう意味でしょう。「雁皮ガンピ」という植物がありますが、道内においては「ガンビ」は「白樺」やその樹皮を意味したとのこと。もしかして「モトカンヒ」を「初代の白樺樹皮」と考えた……ということでしょうか。

意味不明……?

永田地名解 (1891) に至っては更に凄いことになっていて……

Moto kanbe   モト カムベ   元神部村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.250 より引用)
うん。そうですよね。

最近良くお世話になっている『新冠町郷土資料館調査報告書 3』(1991) には、次のように記されていました。

  • 鈴木源太郎氏によると、モトカンベと呼ばれているが意味は不明という。
(新冠町郷土資料館・編『新冠町郷土資料館調査報告書 3(アイヌ民族文化調査報告 3)』新冠町教育委員会 p.19 より引用)

「小さな尾根」?

あー……。万策尽き果てましたかね……。実はこの項もリライトなんですが、以前の記事では mo-tuk-an-pemo-tu-ka-an-pe という可能性を考えつつ、mo-tukan-pet じゃないか……と考えを改めていました。

ただ今更ながらですが、やっぱり mo-{tuk-an}-pe のような気がしてきました(汗)。「小さな・{われ突出する}・もの」で、やはり川の北側の尾根をそう呼んだのではないかな、と……。

御弓内(おゆんない)

ota-un-nay?
砂・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年12月25日木曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(乗船!編)

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」の乗船開始に向けて待機中です。これは「第 3 のりば」越しに見た「はやぶさ」ですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

それはそうと、この橋は何なんでしょう。存在するからには何らかの意図がある筈ですが……。海の向こうに見えるのは夏泊半島でしょうか?

2025年12月24日水曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(めちゃくちゃ広い青森港編)

「青函フェリー」の窓口のある「青森港フェリーターミナル」の建物を出ました。生憎の空模様ですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

よーく見ると、遥か遠く(と言っても 2~300 m ほど)に「津軽海峡フェリー」のフェリーターミナルも見えています。ガラス張りの建物に今風のロゴが並びますが、実は建物自体は「青森港フェリーターミナル」のほうが新しいんですよね。

2025年12月23日火曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(青森港フェリーターミナル編)

「青森港フェリーターミナル」にやってきました。「こちらは青函フェリーの窓口です」とあり、横には「施設のご案内」と題された地図が掲げられています。
青森と函館の間を結ぶフェリーは「津軽海峡フェリー」と「青函フェリー」の 2 ブランドがあり、「津軽海峡フェリー」はかつての「東日本フェリー」の「高速船ターミナル」を引き継いだため 300 m ほど離れた場所に立地しています。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

車検証を片手に窓口に向かいます。メールを確かめたのですが、この日はなんと事前予約無しで突撃していたっぽいですね。一日一便のフェリーとは違ってで頻繁に運行されている航路ならではのやり方です。

2025年12月22日月曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(はじめに)

「メモリアルシップ八甲田丸」から退船して、駐車場に戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この後は 11:35 発の青函フェリー 7 便に乗船します。この時点で 10 時過ぎですが、メモリアルシップ八甲田丸から青函フェリーのターミナルまでは車で 10 分ほどの距離なので、出港の 1 時間以上前に乗船手続きができそうです。

2025年12月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1324) 「節婦虎・蒙受冠」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

節婦虎(せぷとら)

{sep}-utur??
{節婦川}・間
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠節婦町(かつて JR 日高本線・節婦駅のあったところ)の北、節婦川と大節婦おおせっぷ川の間に聳える山の頂上からやや西に行ったところに「節婦虎」という名前の二等三角点が存在します(標高 146.8 m)。「節婦」ではなく「節婦虎」で「せぷとら」と読ませるそうですが……。

北海道実測切図』(1895 頃) には、なんとポンセプ川(=節婦川)とポロセプ川(=大節婦川)の間に「セプトラ」と描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「セツフ」と描かれているものの「セプトラ」に近い地名は見当たりません。

ちょっと「困ったなー」と思っていたのですが、『初航蝦夷日誌』(1850) の「蝦夷地行程記」に次のように記されていました。

一、従ホロセツフ        ホンセツフヘ     十丁
一、従ホンセツフ        セツフウトル     九丁
一、従セツフウトル       ホンノツカ      九丁
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.314 より引用)
なんと……。どうやら「節婦虎」は「ポロセプ川」と「ポンセプ川」の間なので {sep}-utur で「{節婦川}・間」だったみたいです。つまり壮大な出オチをやらかしたということに……(「節婦川と大節婦川のに」)。

ところが、よく見ると少々奇妙なことに気づきます。この行程によると「ホロセツフ」(=ポロセプ川)から「ホンセツフ」(=ポンセプ川)に向かい、その先に「セツフウトル」があることになっています。

ただ『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

     ホンセツフ
此所小川有。タカイサラ村なる土人二軒(コンヘ、コント)出稼せし家残れり。
     セツフウトル
     ホロセツフ
此処昔し夷家有し由。今はなし。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.524 より引用)
こちらは「ホンセツフ」と「ホロセツフ」のに「セツフウトル」が存在するように記されています。都合のいい解釈を切り出しているだけじゃないか……と言われそうですが、実測切図もそうなっているので……(汗)。

蒙受冠(もうくるかっぷ)

mo-ukur(-kina)-kar-p
小さな・タチギボウシ・採る・ところ
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年12月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1323) 「ヌカンライ沢川・ペツビリガイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヌカンライ沢川

nokan-nay?
細かい・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠ダムのダム湖である「新冠湖」の北を「ヌカンライ沢川」と「プイラル別川」という二つの(新冠川の)支流が流れていて、ヌカンライ沢川とプイラル別川の間に「ヌカンライ岳」が聳えています。頂上付近には「奴寒来ヌカンライ」という三等三角点もあります(標高 1,517.9 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ヌカライ子ㇷ゚」という川が描かれていますが、お隣の「プイラルイペッ」と比べると圧倒的に短い川として描かれています(「実測」なのに……)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ノカンライ子」と描かれているように見えます。


戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

またしばしを上りて
     ヌカンライ子
左りの方小川。其名義はしらず。源はヌカヒラの源と一枕に成るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.184 より引用)
残念ながら「その名義は知らず」とのこと。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nukara inep   ヌカラ イネㇷ゚   何處モ見エル處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.247 より引用)
「見る」を意味する nukar という語があるので、おそらく前半は nukar だと思うのですが、inep が謎ですね。ine-p で「四つの・もの」を意味するようですが……。あ、nukar-ine-p で「見る・四つの・もの」なので「四方が良く見える」ということ……?(文法的に適切かどうかは置いといて)

似た地名としては「糠内」や「野花南」などがありますが、いずれも nokan-nay で「細かい・川」を意味するんじゃないかな……と考えています。ただ「ヌカンライ沢川」が「細かい川」と言えるかと言うと……よく見ると細かい支流が結構ありますね(汗)。

もしかして:弟?

ただ、別の可能性も考えてみたいところです(何故)。以前に幌延の「パンケオーカンラオマップ川」を調べた時に気づいたのですが、nokan-ram で「弟」を意味するとのこと。

( 9 ) nokan-ram (-u)〔no-kán-ram ノかンラㇺ〕《ソオヤ》【常】弟。[nokan(小さい)+ram(子?)]。
「弟」を意味する語は akaki などが一般的で、nokan-ram に類する言い回しは宗谷方言や樺太方言などの北方で記録されています。新冠の山中の地名を北方の方言で解釈するのは無理があるような気もしますが、仮に「ヌカンライ沢川」が「ヌカンライ岳」に由来する(山名由来の川名)だとすると、「弟」という解釈は納得感があるんですよね。

では兄はどこに……という話ですが、5.5 km ほど東に「幌尻岳」があるので、「ヌカンライ岳」は「幌尻岳」の弟だったんじゃないか……という想像です。

ペツピリガイ沢

pet-pirka-i?
川・良い・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年12月19日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1322) 「シュウレルカシュペ沢・サツナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シュウレルカシュペ沢

si-urenka-us-pet?
大きな・並ぶ・そうである・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠ダムのダム湖である「新冠湖」は南部で十字のようになっていて、西が「モウレルカシュペ沢」とつながり、東は「シュウレルカシュペ沢」とつながっています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「シーウレンカウㇱュペ」と「モウレンカウㇱュペッ」という川が描かれていました。何故か現在と東西が逆になっていて、西側を「シーウレンカウㇱュペ」が流れていることになっています。また東側の川が不当に短く描かれているのも気になるところです。


なお陸軍図では既に「モウレルカシュペ澤」と「シウレルカシュペ澤」とあり、東西が逆になっていました。

向き合う川?

「実測切図」の「ウュ」という表記は永田地名解 (1891) 特有のものですが、ところが不思議なことに当の永田地名解には次のように記されていました。

Urenga ush pe   ウレンガ ウㇱュ ペ   向合ムキアヒ川 和親川トモ左右ノ支流相對シテ本川ニ注ク處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.247 より引用)
なかなか巧みな解ですね。ただ田村すず子さんの辞書には urenka は「皆そろう」という意味だとあり、また『アイヌ語方言辞典』(1964) には urenka は「並ぶ」という意味だとあります。

エゾフユノハナワラビ?

ところが、戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」にはかなり異なる形で記されていました。

またしばし過て
     モ×ウシヽカシベ
右の方相応の川也。其名義は不解也。或土人の云に、ウシヽキナと云草多く有るより号ると云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.182 より引用)
「其名義は不解也」としながらも「或土人の云に」として「ウシシキナが多くある」としていますが、すぐ先では……

扨また峨々たる山の間をしばし過て、同じく位の川有。
     シイウシヽカシベ
と云相応の大川也。是本のウシヽキナの有る川也と云り。下なるモと云は、少し小さきよりして、一字を附しもの也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.182 より引用)
今度は「ウシシキナのある川なり」と断定しています。usiskina は『植物編』(1976) によると「エゾフユノハナワラビ」を意味するとのこと。「カシベ」が若干謎ですが、usiskina-us-pet で「ウシㇱキナウㇱペッ」を早口で発音した……と言ったところでしょうか。

あるいは usiskina-kar-us-pet で「エゾフユノハナワラビ・取る・いつもする・川」だったが usiskina が長いので usis に略した……とかでしょうか。ただ usis は「ひづめ」を意味するので、果たして kina(草)を略すことがあったかどうか、ちょっと疑問も残ります。

「ウシシ」か「ウレル」か

ただ最大の疑問は「ウカシベ」と「ウカシュペ」のどちらが「正しい」かという点です。カタカナでは「シ」と「レ」は字形が似ていることもあり、互いに取り違えることがちょくちょくあるのですが、松浦武四郎はインフォーマントから川名を「聞いている」筈なので、「ウレル」あるいは「ウレン」を「ウシシ」と「読み間違える」ことはあり得ないでしょう。

では悪筆で名高い松浦武四郎が「ウレル」あるいは「ウレン」を「ウシシ」と書き間違える可能性はどうか……という話ですが、秋葉實さんは『午手控』(1858) を次のように解読していました。まずは「モ──」からですが……

モウレヽカシベG(道庁図モウレンカウシュペ) 右小川
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.79 より引用)
そして「シ──」のほうは……

シウレヽカシベH(道庁図シーウレンカウシュペ) 左中川
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.79 より引用)
これは……。ちょっと(かなり?)面倒なことになりましたね。秋葉さんは「シウレヽカシベ」だとしているのですが、最初の文字は「シ」で三文字目は「レ」なので、つまり「三文字目は『シ』じゃなくて『レ』だったよ」ということになります。

ただ松浦武四郎は、戊午日誌「毘保久誌」で「ウシシキナのある川なり」と明言しているので、これは「ウレレ」→「ウシシ」の転記ミスを否定していることになります。唯一の可能性は、松浦武四郎が「ウシシ」と誤記した時点でありもしないエピソードを追記したということになりますが……。捏造ということは無いにしても、他の川と混同した可能性はゼロではないので。

意外なオチ?

松浦武四郎などが記録した地名を永田方正が「違う、そうじゃない」と言って *改変* したケースは少なくない……いや、枚挙に遑がないとも言えるのですが、永田方正の「改変」が支持されず、結局元の鞘に収まってしまったケースもまた少なくありません。

ただ「シュウレルカシュペ沢」という川名は永田地名解の内容にかなり近い形で現在まで残っていて、川の北の山上には「賣山」という三角点があるのですが、これは「ウレルヤマ」と読むとのこと。また『北海道実測切図』や『永田地名解』よりも古い『改正北海道全図』(1887) にも「シユレヽカシヘ」とあります。

古い記録に大きな異同があった場合、「永田地名解がまたやりおったで」で片付けてしまう悪質な癖がありますが(汗)、今回に限っては松浦武四郎が「やらかした」可能性が高そうな感じもします。si-urenka-us-pet で「大きな・並ぶ・そうである・川」だったと見て良いのではないでしょうか。

サツナイ沢

sat-nay
乾いた・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年12月18日木曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (20) 「終点 Finish!」

1F「車両甲板」から 2F「船楼甲板」に戻る階段が見えてきましたが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そこにはなんと「終点 Finish!」「お疲れさまでした」の文字が(ピクセル等倍の残念な画質ですいません)。

2025年12月17日水曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (19) 「車両甲板ふたたび」

メモリアルシップ八甲田丸 B1F「第 2 甲板」の「発電機室」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「発 電 機」とありますが……見えているのは巨大な「給電盤」ですね。手前にあるのはビーバーエアコン……でしょうか。

2025年12月16日火曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (18) 「総括制御室」

メモリアルシップ八甲田丸の B1 階「第 2 甲板」を歩きます。「足もと注意」と書かれたプレートがありますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

あー、これは確かに「足もと注意」ですね(笑)。昭和の船で、しかも関係者以外は出入りしない場所だったので、バリアフリーなる概念とは無縁だったのも当然のことかもしれません。

2025年12月15日月曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (17) 「V 型 16 気筒×4」

メモリアルシップ八甲田丸「車両甲板」の船尾部にやってきました。車両甲板は 4 線ありましたが、船尾部で 2 番線と 3 番線が合流しています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

DD 16 31

「順路」に従って見学を続けましょう。キハ 82 101 の隣にはディーゼル機関車(DD 16 31)が置かれていました。

2025年12月14日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1321) 「オンウシ沢川・ホロピナイ沢・オケルンペ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オンウシ沢川

o-so-us-nay
河口・滝・ついている・もの
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ツウイ沢の東、ホロピナイ沢の南で新冠川に合流する南支流(東支流)です。えっ、もしかして……と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オーウシ」と描かれていました(やっぱり……)。


戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

またしばしにて
     ヲソウシナイ
右の方小川。崕樹峨々たる岩壁に垂れて、其趣至極妙なりと。川すじ滝有るよりして号るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.180 より引用)
松浦武四郎はこの川を実際には見ておらず、インフォーマントからの聞き書きの筈ですが、大絶賛なのが微笑ましいですね。

ところが永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

O sho ush nai   オ ショ ウㇱュ ナイ   扁磐多キ川 「シヨ」ハ敷物シキモノノ義因テ扁磐ノ義ニ用フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.246 より引用)
えっ、何を言ってるのこの人……と思ってしまいそうですが、実はこれも「正解」だと思われます。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されているのですが……

so そ(そー) ①水中のかくれ岩。②滝。③ ゆか(床)。④めん(面); 表面一帯。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.125 より引用)
松浦武四郎は良くある②の意味で解を記したのに対し、永田方正は①だとして、その上で so の本来の意味は③だとした……ということですね。

突き詰めると、そもそも滝とは何か……という哲学的な問いに昇華しそうな気もします。崖を落ちる水を指すのか、それとも水が落ちる岩を指すのか。後者であれば①と②は本質的に同じものを指している可能性も出てきます。

とりあえず「オンウシ沢川」は o-so-us-nay で「河口・滝・ついている・もの」と見て良いかと思われます。so の定義についてこれ以上長々と語るのも無粋ですので……。

ホロピナイ沢

poro-pinnay?
大きな・細く深い谷川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年12月13日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1320) 「コリバシシナイ川・パンケウクツライ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

コリバシシナイ川

yuk-pas-us-i?
鹿・走る・いつもする・ところ
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
北海道電力・岩清水発電所の南で新冠川に合流する南支流です。地理院地図には川として描かれていません(川名は国土数値情報による)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ユクハユンナイ」という名前の川が描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) には「コ?パシナイ」という川が何故か北支流として描かれていました。。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Korepa ush nai   コレパ ウㇱュ ナイ   蕗頭ノ澤 松浦地圖「ハシナウシナイ」ニ作ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.246 より引用)
あれ? 確かに『東西蝦夷山川地理取調図』には「ハシナウシナイ」という川も描かれていますが、「トエイ」(=ツウイ沢)と「ピンニ」(=ピンネ沢)の間に存在するように描かれています。他の川との位置関係を考慮すると、現在の「コリバシシナイ川」は「ユクハユンナイ」だと思われるのですが……。

「コレパ ウㇱュ ナイ」は「フキノトウの沢」とのことですが、知里さんの『植物編』(1976) によると「フキ」を意味する語は
  • kor
  • kor-ham
  • koram
  • koriyam
  • korkoni
  • ruwe-kina
  • ruye-kina
  • makayo
  • makao
  • pinne-makao
  • matne-makao
  • pinne-kina
  • paxkay
  • makayo-nonno
  • makayo-epuy
  • etetarax
  • kina-sapa
などがあるとのこと。ざっくりまとめると kor-hammakayo ですが、kor-ham は「フキの葉」で makayo が「フキノトウ」です。

「コレパ ウㇱュ ナイ」は {kor-ham}-us-nay で「{フキの葉}・多くある・川」かと思ったのですが、田村すず子さんの辞書によると koripas(あるいは koripasi)で「フキのたくさん生えている所」という語があるとのこと。koripas-us-nay で「フキのたくさん生えている所・ついている・川」とすれば、現在の川名「コリバシシナイ川」とも非常に近くなります。

「ユクハ──」と「コレパ──」

ただ、一つ大きな疑念が残ります。「東西蝦夷──」の「ユクハユンナイ」と「コレパウㇱュナイ」、発音は全く異なりますが「ユクハ──」と「コレパ──」の字形が *やや似ている* ようにも見えるのですね。午手控 (1858) の頭註にも「F コリパシシナイ川。岩清水。『ユクパ』を読み誤ったらしい」とあります(松浦武四郎選集 六 p.78)。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

しばしにて
     ユクパシユシナイ
右の方小川。其名義不解なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.180 より引用)
「其名義不解なり」とありますが、頭註には「ユク 鹿」「パシ 走る」「ウシ ところ」とあります。yuk-pas-us-i で「鹿・走る・いつもする・ところ」と解釈できそうですね。

果たして「コレパウㇱュナイ」という川は実在したのか? という疑問ですが、「コレパ──」と「ユクパ──」の字形の類似性が誤記・誤読の可能性を想起させる一方で、永田方正が「松浦地図『ハシナウシナイ』に作る」としたのはその想定と矛盾します。ただ永田方正が「松浦武四郎の地図」をチェックしていたことは間違いないとも言えるので、やはり「ユクパ」を「コレパ」と見誤った可能性を考えたくなります。

時系列的に逆はあり得ないので、「ユクパシユシナイ」と口伝されていた川名を永田方正が「コレパウㇱュナイ」に改変しちゃった……と見るべきでしょうか。

パンケウクツライ川

panke-ukouturu-nay??
川下側・あの間・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年12月12日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1319) 「スタップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

スタップ川

huttap?
カスベ(エイ)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠川の北支流で、北海道電力・岩清水発電所のすぐ西を流れています。てっきり「ヌタップ」の誤字かと思ったのですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「プッタㇷ゚」と描かれていました。そう来たか……という感じですね。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「アフユサンヘ」の隣に「フツタフ」と描かれていました。

武四郎一行の激闘

詳細を見ていきましょう。戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

河流屈曲甚しくして川すじ数条に成、其川すじえより木多く重りて、舟上りがたし。よつて是より最早一同岸によぢ上り、また川をこなたえこし、また彼方えこし等して上るに
     フツタフ
左りの方相応の川也。其名義此川すじには椴の木多く有るよりして号しものなり。
 〔上欄〕フツタフ
 かすべの義。むかし海嘯の時此処まで上りしと云より号く』
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.179 より引用)※ 〓は魚偏に華
ある程度より上の年齢の方であれば「ファイトー、いっぱーつ!」の掛け声で大量の試験管が飛んでくる映像に切り替わりそうな光景が繰り広げられています。そして次の文が続いているのですが……

余等此処にて最早是限りとして下りける也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.179 より引用)
これは、このあたりの記録は「聞き書き」ではなく、実際にここまで足を踏み入れたということを示しています(記録の信憑性を評価する上で重要なポイントです)。

大津波があったので?

そして永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Uttap   ウッタㇷ゚   カスベ 洪浪ノ時カスベ魚多ク此處ニ上リシヲ以テ名クト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.248 より引用)
これはどうやら松浦武四郎の解を追認したっぽいですね。uttap は「カスベ」で、知里さんの『動物編』(1976) によると「ガンギエイ;かすべ」とのこと。大別すると kasumpeuttap の二通りの表現があったようです。

永田地名解が「フツタフ」ではなく「ウッタㇷ゚」としたのは、「カスベ」は一般的には uttap だから……という判断があったのかもしれませんが、白糠のあたりでは huttap という記録もあります。新冠と白糠は随分と離れていますが、どちらもメナシュンクル(東の人)のエリアだったため、語彙にもある程度の共通性が見られた可能性もあるかもしれません。

白糠町鍛高との共通点

松浦武四郎や永田方正は、この地名は uttap で「カスベ」だとして「津波の際にカスベが打ち上げられたから」としていますが、「スタップ川」は海から新冠川を 30 km 近く(あるいはそれ以上)遡ったところにあります。仮に津波がそこまで遡ったのだとしたら大惨事なので、「話を盛っただけ」という可能性も考えたくなります。

ここで思い出されるのが白糠の「鍛高」です。tantaka は「カレイ」を意味し、同様に「津波の際にカレイが打ち上げられたので」というストーリーが存在します。「カレイ」を意味する語としては tantaka の他に samampe もありますが、samam-pe は「横になっている・者」だとも言われます。

『北海道方言辞典』(1983) で「カスペ」を調べてみたのですが、奇妙なことに「ヒラメ。エイの総称」とありました。知里さんの『動物編』によると、「ヒラメ」は ninaoyatuyosi-tantakasimuspe とあり uttaphuttap という記述は見当たりません。

「横臥した山」がある?

うまくまとまらないまま雑多な情報を書き並べてしまいましたが、要は uttap の含意も tantakasamampe と同じなのではないか……と考えてみました。つまり、近くに「横臥した山」があるのではないか……という推測です。

そう考えて地形図を眺めてみると、それっぽいような、そうでもないような……(どっちだ)。敢えて言うならば川の東側の山がそれっぽいでしょうか。でも縮尺を変えると西側の山もそれっぽく見えてきます。

椴の木が多いので?

ということで、個人的にはなんとなく納得した感じになったのですが、戊午日誌「毘保久誌」にこんな記述があったのを見逃していました。

其名義此川すじには椴の木多く有るよりして号しものなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.179 より引用)
あ、そうか。「トドマツ」は hup なので、 hup-ta-p で「トドマツ・切る・ところ」と解釈できちゃいますね。これは……困りましたね。

常識的に考えると hup-ta-p という地名が先にあり、それを huttap だとして「大津波」のストーリーを編み出した……と見るべきでしょう。ただ「トドマツが多い」のであれば hup-us-i で「トドマツ・多くある・ところ」とすれば良いよね? と思ってしまうのも事実です。

また「スタップ川」の周囲には「横臥した山」と言えそうな山が見られる……ように思えます(個人的な感覚ですが)。ということで、hup-ta-p という地名?が後出しだったんじゃないかな……と想像してみました。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2025年12月11日木曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (16) 「キハ 82 101」

メモリアルシップ八甲田丸の 1F「車両甲板」を歩きます。続いてはディーゼル特急が見えてきました(!)。
このディーゼル特急の保存展示は、個人的には賛否両論があったんじゃないかなぁ……と想像しています。というのも、青函連絡船における客車の航送は早い段階で廃止されていて、基本的には貨車を運ぶためのものだったので、ディーゼル特急を車両甲板に積載することは無かったと思われるのですね(新車の回送に使われた可能性はあるかもしれませんが)。

なお当時の国鉄は客車航送の復活を真剣に考えていたようで、「八甲田丸」の後に建造された「摩周丸」「羊蹄丸」「十和田丸」には 2F に繋がる階段を持つプラットホームが追加されていたとのこと。寝台車を積載して乗客は車両甲板の中で一夜を過ごす構想だったようですが、運輸省が OK を出さなかったために結局お流れになったそうです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ディーゼル特急の隣にもプラットホームがあり、2F「船楼甲板」に繋がる階段が見えます。プラットホームに向かうルートも整備されていますが、「通行禁止」の札がかかっていました。

2025年12月10日水曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (15) 「スユニ 50 509」

1F「車両甲板」を見学します。前方に青い保存車両が見えていますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右側のプラットホームのような構造物に上がるための階段には「非常口につき立入禁止」の札がかけられていました。

2025年12月9日火曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (14) 「流浪の『青森ベイブリッジ資料コーナー』」

エレベーターで 1F の「車両甲板」にやってきました。眼の前には「八甲田丸」のシンボルマークをつけた「車掌車」(緩急車かも。そもそも違いが良くわかってません)が!
よく見ると、プラットホームのようなものがあり、階段も設置されてありますが、鎖が渡してあります。以前はホーム?に上がることができたのでしょうか?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「車両航送船の特徴 車両甲板」と題された説明パネルがありました。フェリーの甲板は広々とした印象がありますが、津軽丸型の青函連絡船は 1 番線から 4 番線までしか無かったんですね。ちょっと意外な感じもしますが、太平洋フェリー「きそ」よりも小さなサイズの船だったので、そう考えると当然でしょうか?

2025年12月8日月曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (13) 「大事なことなので」

4F「航海甲板」にある「ブリッジ」の右舷側には「煙突展望台」に出るためのドアがあります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ドアには「冷房中」の文字が。そして「煙突展望台を見学される方は、この扉を開けてお進み下さい」という文字が、何故か上下に貼ってあります。

2025年12月7日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1318) 「アブカシャンペ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

アブカシャンペ川

apka-o-san-pe?
牡鹿・そこに・出てくる・ところ
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
北海道電力・岩清水発電所の 1.5 km ほど下流側で新冠川に注ぐ南支流です。地理院地図では「アブカシャンペ川」ですが、国土数値情報では「ブカシャン川」となっています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「アㇷ゚カサンペ」という川が描かれている……のですが、複数の支流を持つそこそこ大きな川として描かれています。現在の「アブカシャンペ川」は明確な支流は持ちませんが、いくつかの谷が枝分かれしているので解釈が難しいところです。ちょっと描かれ方が誇大ではあるものの、概ね今の「アブカシャンペ川」と同一の川を描いているのかもしれません。

右か、それとも左か

問題を更にややこしくしているのが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には新冠川の北側に「アフサンヘ」が描かれているという点です。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

又しばしを過て
     アフコサンベ
左りの方小川。其名義は不解よし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.178 より引用)
遅まきながら、表の出番ですかね……。

戊午日誌 (1859-1863)
「毘保久誌」
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)北海道実測切図 (1895 頃)国土数値情報
ヲサナイ
(左りの方相応の川)
ヲサナイサナイオサナイ川
ヲニセベツ
(左りの方小川)
セヘツ--
アフコサンベ
(左りの方小川)
アフサンヘ--
サツテキナイ
(右のかた小川)
-サッテキナイオニシベツ川
バユンナイ
(右の方高山の根
少しの滝川)
---
シユフトシユマナイ
(右の方高山の間)
シユフトシユマナイアㇷ゚カサンペマブカシャンベ川
--シットクㇱュマナイヤルカワ沢川
フツタフ
(左りの方相応の川)
フツタフプッタㇷ゚スタップ川

松浦武四郎が記録した「左右」が全て正しかったと仮定してみたところ、意外なことにそれほど大きく混乱することなく表にまとまりました(多少の混乱が見受けられますが、もっと酷いと思ってました)。大きな異同としては「アフコサンベ」と「サツテキナイ」の順番で、松浦武四郎は「アフコサンベ」を「サツテキナイ」の手前左側(=新冠川の北側)にある、としています。

松浦武四郎の記録が概ね正しく、かつ「ヲサナイ」(=オサナイ川)と「フツタフ」(=スタップ川)の位置が正しかったと仮定すると、「アフコサンベ」は現在の「オニシベツ川」の対岸の沢を指していた可能性がありそうです。

「牡鹿」か「われら歩く」か

肝心の地名解ですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Apkosanpe=Apku-o-san pe アプコサンペ   牡鹿ノ下ル處 松浦地圖「アフユサレヘ」ニ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.248 より引用)
「アブカシャンペ川」という川名については、ほぼ同名と言える「上アブカサンベ沢川」がお隣の新ひだか町(旧・静内町)にあり、既に現時点で想定される解について検討を行いました。この川名を悩ましくしているのが apka(雄のシカ)と apkas(歩く)という語の存在で、
  • apka-san-pe で「牡鹿・出てくる・ところ
  • {apkas-an}-pe で「{われら歩く}・もの(川)
という複数の解釈が成り立つ余地がありそうに思えるのです。

「上アブカサンベ沢川」の項でも記しましたが、知里さんは永田地名解の「牡鹿ノ下ル處」という解を追認していたようで、『アイヌ語入門』(1956) では音韻変化の実例として紹介していました。

   apka-o-san-pe(雄鹿〔が〕・そこへ・出てくる・所) →Apkosampe[あㇷ゚コサンペ](地名解 248)
(知里真志保『アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために』北海道出版企画センター p.160-161 より引用)
ということで、まずは apka-o-san-pe で「牡鹿・そこに・出てくる・ところ」と見て良さそうな感じですね。もっとも yuk という、事実上「エゾシカ」全般を意味する語があるにもかかわらず、敢えて「牡鹿」に限定したというのは謎ではあるのですが……。

「戸口」の可能性

そしてこれまた毎度のことですが、apa(戸口、入口)が転訛した可能性についても考慮したくなります。これはおそらく独自研究だと思うのですが、川の上流側を望んだ際に、山が邪魔をして上流側を覗えない地形を指して apa と呼んだ……というケースが少なからずあるように感じています。

「アブカシャンペ」も、強引に解釈すれば apa-kasu-us-pe で「戸口・上を越す・いつもする・もの(川)」となるかもしれませんし、あるいは apa-kasi-un-pe で「戸口・その上・にある・もの」と見ることも可能でしょうか。apa-kus-un-pe で「戸口・向こう・にある・もの」という解釈もできるかもしれません。

apa- ではないかという仮説の是非は、実際の地形と照らし合わせることで検討可能ですが、松浦武四郎が記録した「アフコサンベ」が現在の「アブカシャンペ川」と同一だったとすれば、確かに上流部を遮る形の山がいくつか存在するように見受けられます。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ただ、松浦武四郎は「アフコサンベ」を「新冠川の北」に位置するとしていて、その記述は実際の地形と(それなりに)整合性が取れているように思われます(上表参照)。松浦武四郎が記録した「アフコサンベ」の手前に、上流側の見通しを遮るような山があったかと言うと……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「・191」の南にちょっとした出っ張りがあり、それが(新冠川の)上流側を遮っているようにも見えますね……。まぁこんな地形はいくらでも存在するので、とても apa 説の「証拠」とは言えませんが、「大きな矛盾はない」とは言えそうな気がします。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2025年12月6日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1317) 「スネナイ・オニシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

スネナイ

sine-nay?
一つの・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
Google マップによると、新冠町若園に「スネナイ育馬場監視事務所跡」というスポットがあるとのこと。基本的には「現役地名」しか取り上げないポリシーですが、Google マップにスポットがある以上「現役」ですよね……?(跡なのでは


陸軍図には「脛内」と描かれていました。このあたりの旧地名っぽい感じですね。


『角川日本地名大辞典』(1987) の「わかその 若園」の項にも次のように記されていました(正式?には「わかの」と読むようですが)。

かつてはヤムワツカ・スネナイと呼称されたアイヌ集落の地域で,新冠御料牧場の一部。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1637 より引用)
この「脛内」こと「スネナイ」ですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「シユ子ナイ」と描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シ子ナイ」という川と、北東に「ホンシユ子ナイ」という川が描かれていました。「シ子ナイ」は「シユ子ナイ」の誤記と見て良さそうでしょうか。諸々の情報を総合すると、現在の「若園川」が「シュネナイ」あるいは「ポロシュネナイ」で、「御影橋」の北で新冠川に合流する川(名称不明)が「ポンシュネナイ」だったようです。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Pon shune nai   ポン シュネ ナイ   燒松ノ小川
Wakkaksh nai    ワㇰカ クㇱュ ナイ  水流川 平常水ナシ雨ヲ得テ水流ヲ故二名ク
Poro shu ne nai   ポロ シュネ ナイ   燒松ノ大川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.248 より引用)
どうやら「ポンシュネナイ」と「ポロシュネナイ」の間に「ワㇰカクㇱナイ」があったようです。「焼松」とは一体……と思ったのですが、これは「松明たいまつ」のことですね。改めて考えてみると「松明」を「たいまつ」と読ませるのも大概ですが……。

「スネ」は「松明」を意味するとのこと。『萱野茂のアイヌ語辞典』(2010) にも次のように記されていました。

スネ【sune】
 たいまつ,あかり,灯火.
萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂 p.281 より引用)
ただ「松明の川」というのもかなり意味不明な感じがします。戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」を見てみると、やはり異なる解が記されていました。

また平地赤楊・柳原等をしばし過行て
     シユ子ナイ
左りの方小川也。其名義は此川只枝もなくして山間を源まで上るが故に其名有る也。シユ子は一ツ沢と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.174 より引用)
「シユ子は一ツ沢と云儀」とあるのですが、これまた意味不明な感じがしますね。

『新冠町郷土資料館調査報告書 3』(1991) には次のように記されていました。

  • 溝尾一正氏はたい松の沢という意味ではないかと話をしてくれました。夜に魚をとる時に桜の皮を巻いたたい松を用意し、この魚とりのことをスネをすると言っていたという。
(新冠町郷土資料館・編『新冠町郷土資料館調査報告書 3(アイヌ民族文化調査報告 3)』新冠町教育委員会 p.11 より引用)
ふむふむ。意味不明だった「松明の沢」の姿が具体的になりましたね。ただ続きもあって……

また、枝沢がないのでシネップ・ナイ(一つの沢)の意味かもしれないという。
(新冠町郷土資料館・編『新冠町郷土資料館調査報告書 3(アイヌ民族文化調査報告 3)』新冠町教育委員会 p.11 より引用)
あ……! それだ! 「一個」を意味する sinep という語があり、これは sine-p に分解できるとされます。sine だけで「一つの」という意味なので、sine-nay で「一つの・川」ということになりますね。

含意も引用の通りで、「これと言った枝川を持たない川」なのだと思われます。かつての「スネナイ」だったと思われる「若園川」も、これと言った支流が無いと言えば無さそうなので……。ちょっと珍しい川名に思えたので、スルーするのは忍びなく、無理やり取り上げてみました(汗)。

オニシベツ川

o-nisey-pet?
河口・断崖・川
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2025年12月5日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1316) 「オシャマニ・奥真牛」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オシャマニ

o-samaw-ni
河口・横になっている・木
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年12月4日木曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (12) 「余裕ある操船」

4F「航海甲板」の前方にある「ブリッジ」(操舵室)にやってきました。このモスグリーンのカラーリングは、まさしく国鉄そのもの……!
昔の国鉄の電車も、運転室の中はだいたいこの色(灰緑色と言うのですか?)だったんですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

プロペラ制御盤

巨大な操舵室の真ん中……面白いことに、窓のすぐ後ろではなくて更に数メートルほど下がったところにあるんですよね……の左側には「プロペラ制御盤」が。

2025年12月3日水曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (11) 「連絡船と津軽海峡」

「ブリッジ」(操舵室)で死闘を繰り広げる前に、もう少しだけ「船内案内板のいろいろ」をチェックしましょう。
ここまでの展示で「グリーン船室」の椅子と「寝台室」を見てきたのですが、そう言えば鉄道の「普通席」に相当するグレードはどんなものだったのでしょう。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

よく見ると「自由席」のプレートは「椅子席」と「座席」に分かれていますね。意味不明な感じもしますが、「椅子席」が鉄道車輌のような「シートが並ぶ席」で、「座席」が雑魚寝ができる「絨毯席」だったのかな……と想像します。「マス席」は区切りのついた絨毯席とかでしょうか……?

2025年12月2日火曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (10) 「『森の湯』のタイル絵」

「メモリアルシップ八甲田丸」の船首部にやってきました。前方右側に薄っすらと見えるのは北海道……ではなく、脇野沢(むつ市)かと思ったのですが、方角を考慮すると(更に手前にある)「夏泊半島」でしょうか?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ちょいと引いたアングルから撮影すると……こんな場所です。上部の真ん中にゴーストが……?

2025年12月1日月曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (9) 「船長室」

青函連絡船を語る上では外せない「洞爺丸事故」についての展示もありました。詳細は敢えて繰り返しませんが、日本最大級の海難事故です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

洞爺丸海難者慰霊碑

「洞爺丸海難者慰霊碑」が紹介された河北新報の記事がスクラップされています。

2025年11月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1315) 「アクマップ川・リライベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

アクマップ川

ar-ku-oma-p?
もう一つの・仕掛け弓・そこにある・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠万世と明和の間あたりで新冠川に注ぐ東支流です。アクマップ川自体が複数の支流を持つ川で、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはもっとも南側の支流が「アクマウ」と描かれていました。

北海道実測切図』(1895 頃) では、現在の「アクマップ川」に相当する流れが「アㇰマㇷ゚」と描かれているように見えます。


『角川日本地名大辞典』(1987) の「明和 <新冠町>」の項には次のように記されていました。

地名は,アイヌ語のアクマップ(きれいな水の流れている川の小高い原っぱの意)から,明るく和やかな意をこめて,同25年開校の小学校名,および集落名としたことによる(新冠町史明和開基開校三十周年記念誌あくまっぷ)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1501 より引用)
むむむ……。「アクマップ」をどう解釈したら「きれいな水の流れている川の小高い原っぱ」になるのか……? 実は「アクマップ川」の記事はリライトなんですが、「きれいな──」があまりに傑作なので、今回も引用することにしたのでした。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

こへて
     アクマ(プ)
右の方小川、相応にひろし。其名義は未だしれずと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.156 より引用)
残念なことに「未だしれず」ですが、頭註には次のように記されていました。

明 和
ア  我ら
ク  飲みに
オマ 入る
プ  所
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.156 より引用)
ふむふむなるほど、a-ku-oma-p で「我ら・飲む・そこに入る・ところ」か……と思ったのですが、良く考えてみると ku「飲む」という動詞を oma が受けていることになっています。これは文法的におかしい(あり得ない?)のではないかと……。

ということで、慌てて再検討してみたのですが、a- を抜いて考えてみると ku-oma-p で「仕掛け弓・そこにある・もの(川)」となりますね。となると a-ar- で「もう一つの」と考えるのが自然でしょう。ar-ku-oma-p であれば「もう一つの・仕掛け弓・そこにある・もの(川)」ということになります。

「仕掛け弓」は獲物が通りそうなところに糸を張っておいて、獲物が糸に振れると鏃に毒が塗られた矢が飛んで獲物に一直線……という仕組みです。余談ですが、矢羽根を見ると誰が仕掛けた矢なのかわかる仕組みになっているのだとか。

『新冠町郷土資料館調査報告書 3』(1991) には、「アクマップ」について次のような記述がありました。

  • 川越貢氏氏(故人)は、つり針という意味で、もとは魚がたくさんとれたという。
  • 溝尾一正氏は、この水が清らかであり、休み休み飲みに来たのではないかということから、アク・オマ・プ(水を飲み歩く所)の意味ではないかと推定している。
  • 狩野義美氏によれば、鹿などを捕えるためのワナなどを仕かけるという意味と聞いているという。
(新冠町郷土資料館・編『新冠町郷土資料館調査報告書 3(アイヌ民族文化調査報告 3)』新冠町教育委員会 p.10 より引用)
なんと! 「ワナを仕掛ける」という言い伝えがあったのですね。あくまで各論併記のうちの一つではありますが、これは注目に値するのでは……!

リライベツ川

{rer-an}-pet??
{われ沈む}・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年11月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1314) 「トキシベツ・旭別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

トキシベツ

{tu-tuk}-us-pet?
{出崎}・ついている・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠高江の西を「高江川」が流れていて、川沿いに「町道高江トキシベツ線」が通っています。町道高江トキシベツ線には「トキシベツ 1 号橋」から「── 6 号橋」まで 6 つの橋が存在するとのこと。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トキシヘツ」という川が描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) では「トプケㇲペツ」と描かれていました。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Top kes pet   トㇷ゚ ケㇲ ペッ   笹ノ端川 松浦地圖「トキシヘツ」ニ作ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.249 より引用)
ふむふむ……と思ったのですが、「笹の端」とは一体……?

ということで戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」を見てみたところ、案の定、異なる解が記されていました。

また西岸に
     トキシベツ
西岸小川也。其本名はトトキウシベツの転じ也。トヽキは*参の事也。此処にトヽキ多く有るが故なりしとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.144 より引用)
「砂参」は、頭註によると「沙参」で「つりがねにんじん」を意味するとのこと。ということで『植物編』(1976) を見てみたのですが、「ツリガネニンジン」の項には次のように記されていました

§ 32. ツリガネニンジン Adenophora verticillata Fisch.
    エゾツリガネニンジン Adenophora Thunbergiana Kudo
( 1 ) mukekasi (mu-ke-ka-si) 「ムけカシ」[muk(→ §34, 注 1)ekasi(祖父,翁)] 根 《北海道各地》 → 補註(11).
知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.22 より引用)
( 1 ) があるからには ( 2 ) 以降もあるのですが、名寄では moskarpe、真岡や白浦(どちらも樺太)では moskaraperaypusi と呼んだとのこと。「トトキ」という記録は見当たりません。

もしや……と思って『北海道方言辞典』(1983) を見てみたところ、p.232 に「トドキ 名 ツリガネソウ(キキョウ科)」とありました。知里さんの『植物編』等々には「トトキ」という語が採録されておらず、一方『北海道方言辞典』で確認できるということは、「トトキ」はアイヌ語ではなく和語に類するものである可能性が高くなります。

ということで、totoki-us-pet で「ツリガネソウ・多くある・川」ではないか……という話ですが、「トトキ」ってどこかで聞いたことがあるんですよね。もしや、と思って『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見てみたところ……

tú-tuk と゚ート゚ㇰ 出崎。[<tu(山の走り根)etok(先)]
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.135 より引用)
あー、これだ! 「トキシベツ」こと「トトキウシベツ」も {tu-tuk}-us-pet で「{出崎}・ついている・川」だったのでしょう。「トキシベツ」も tu-tuktu- が略されたと捉えるべきかと思われます。

旭別(ぎょくべつ)

ki-oro-pet
茅・の中にある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年11月28日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1313) 「去童橋・ドブシナイ川・姉去橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

去童橋(さるわらべばし)

sar-pa-ray(-pet)?
葭原・かみ(上)・死んだように流れの遅い(・川)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 209 号「滑若新冠停車場線」が「チョリバライ川」を横断する橋です。2018 年度 全国橋梁マップによると同名の橋が「町道朝日集乳所線」にも存在するとのこと(同じく「チョリバライ川」を渡っています)。

「去童」は 1868(明治初)年から 1923(大正 12)年まで存在した村名で、既に失われた地名だと思っていたのですが、橋の名前として生き残っていたみたいですね。ただかつての「去童村」は、『北海道実測切図』(1895 頃) では「去童橋」よりも上流側に描かれています。


ただ陸軍図では現在の「去童橋」のあたりに「去童村」と描かれているので、「実測切図」はやや正確ではない位置に村名を描いてしまったのかもしれません。


更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 去童(さるわらんべ)
 新冠町の旧字名。アイヌ語のサㇽ・ワ・ル・ウン・ペ(湿地のわきに道のある川)と思われる。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.81 より引用)
ただ永田地名解 (1891) は次のように記していました。

Sori pa rai    ソリ パ ライ   草履ヲ見付シ處 ○去童村ソリパライ
So para-i    ソー パ ライ   瀑廣キ處「ソリパライ」ノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.249 より引用)
これは……更科さん……やっちゃいましたね……。

ということで改めて「ソリパライ」の位置を確認したいのですが、『北海道実測切図』では現在の「去童橋」に近い位置に「ポロソリパライ」が描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) ではやや上流側に描かれているようにも見えますが……

また「ソリハライ」の支流として「ソウシソリハライ」が描かれているのも要注意ですね。「ソウシ──」は so-us- である可能性が高そうなので、永田地名解の「瀑廣キ處」という解は怪しくなります(「滝のついている滝が広いところ」はおかしいかと)。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

またしばしを過て
     ソリハライ
左りの方相応の川すじ也。其名義は不解なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.146 より引用)
うーむ、これは困りましたね……。

この「ソリハライ」は現在の「チョリバライ川」のことだと考えられるのですが、実は「チョリバライ川」はずっと前に記事にしたことがありました。その際は sar-pa-ray(-pet?) ではないかと考えたのですが、改めて検討すると……悪くない解に思えます(ぉぃ)。

ということで今回も sar-pa-ray(-pet) で「葭原・かみ(上)・死んだように流れの遅い(・川)」かなぁ、ということでお茶を濁して次の記事へ(ぉぃ)。

あ、チョリバライ川を遡った先に「取拂山」という二等三角点があるのですが(標高 389.9 m)、これは「とりはらいやま」と読むとのこと。おそらく「チョリバライ川」が元ネタなんでしょうね。

ドブシナイ川

top-us-nay
竹・多くある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)