2026年2月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1353) 「額平川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

額平川(ぬかびら──)

nokan-pira?
細かい・崖
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川の最大の支流で、中流部に 2022 年に完成した「平取ダム」が存在します。陸軍図には「額平川」と描かれていますが、『北海道実測切図』(1895 頃) には平取町芽生のあたりに「ヌカピラ川」と描かれています。

「形像のある崖」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nuka pira   ヌカ ピラ   形跡アル崖
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.234 より引用)
山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には更に詳細が記されていました。

合流点東岸上手に崖があって,その上の部分に半円形の形像が見える。文化神オキクルミの妹が天に上る時に忘れていっただという。それでムイ・ノカ(箕・の形像)と呼ばれているとの事。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.365 より引用)
「合流点」とありますが、これは「沙流川本流と額平川」の合流点とのこと。「額平」は noka-pira で「形像・崖」だとあります。

地理院地図には、額平川を 2 km ほど遡ったところの南岸に、「ピリカノカオキクルミのチャシ及びムイノカ」と記されたスポットが、何故か複数描かれています。

山田さんは「この姿も萱野さんに案内してもらって教わった」と記していて、ここまで見る限り一点の曇りも無さそうに思えます。

「額平川」と「貫気別川」

ただ、松浦武四郎の記録を見ていくと、ちょっと様相が変わってきます。

現在は沙流川の支流が額平川で、額平川の支流として「貫気別川」が存在することになっていますが、ところが戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

      ヌツケヘツの部
 此巻はサル川すじの支流ヌツケヘツ川すじを誌るすが故に、ヌツケヘツ誌ともすべけれども、其川口はサルフトえ落るが故、別に表題を別たずしてサル日誌となし置。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.13 より引用)
「サル川すじの支流ヌツケヘツ川すじ」とあり、ここでは「ヌツケヘツ」(=貫気別川)がの支流という扱いになっています。ただ不思議なことに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、現在の「貫気別」のあたりに「ヌツキヘツ」と描かれていて、この描かれ方は「額平川の支流」という扱いです。


戊午日誌「左留日誌」の記述はちょっと面倒なことになっていて……

     ヌツケベツフト
またヌカビラフトとも云り。前巻に志るすヘテウコヒの事なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.13 より引用)
これは沙流川の「貫気別川河口」は「額平川河口」とも言うよ……と読み取れます。河川において本流と支流が名前を共有するということは滅多にないと思うのですが、ちょっと面白い現象ですね。

「額平」はどこのことか

「額平」の地名解ですが、戊午日誌「左留日誌」には次のように記されていました。

扨また二股より左りの方川巾凡弐十七八間有り。是も十五六丁を上り見分致し帰りたりけるが、此方を
     ウカヒラ
と云本名ヌカヒラの由也。其名義は昔し爺二人婆一人レヽヱカニと云て、まがり刎て歩行しと云が故に如此号しと云へり。其訳未だしらず。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.29-30 より引用)
前述の通り、戊午日誌の「左留日誌 巻の三」は「ヌツケヘツの部」で、この「ウカヒラ」は「ヌツケベツ村」(=平取町貫気別)の先で出てきます。この描かれ方は「貫気別川との合流点より上流側が『ウカヒラ』」であるようにも見えますが、松浦武四郎は現在の平取町貫気別のあたりを「二股」と記録し、そこから「一字下げ」で「ヌツケベツ」とのその支流を記録しています。

「箕の形の岩崖」の初出は

かなりややこしいことになっているので、改めて箇条書きにすると……
  1. 平取町荷負で沙流川に合流するのは「ヌツケベツ」で、またの名が「ヌカビラ」である
  2. 「ヌツケベツ」と「ヌカビラ」は二股(平取町貫気別)で合流する
  3. 「ヌツケベツ」は「ヌカビラ」の支流である(一字下げ)
  4. 「ウカヒラ」(ヌカビラ)は本流だが、二股(平取町貫気別)より上流の名前(かもしれない)

……箇条書きにしてもややこしいですね(汗)。そもそも 1. と 3. は矛盾していますし、4. については恣意的な読み方かもしれません。あともう一つ、重要なポイントを追記すると……

  • 箕の形の岩崖の話は出てこない

という点です。松浦武四郎の記録が完璧だとは言いませんし、インフォーマントの選択でハズレを引いたのかもしれません。ただ noka(形像)の話の初出が『永田地名解』であるという点に……どことなく胡散臭さを感じるんですよね(言い切ったな)。

というわけで

「じゃあ『ヌカビラ』はどういう意味なんだよ」とお叱りを受けそうですが、nokan-pira で「細かい・崖」だったんじゃないでしょうか。平取町芽生から平取ダムのあたりにかけて、細切れになった崖が点在しているようにも見えるので……。

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2026年2月27日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1352) 「オパラダイ川・シクケンオマナイ川・トウナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オパラダイ川

para-tay?
広い・林
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取ペナコリの西で「にぶたに湖」に西から注ぐ川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「パラタイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ハラタナイ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また其向
     ハラタイ
西岸小川也。其名義は山の中え入るや広きよゐ(林)と云事なりと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.692 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Para tai   パラ タイ   野林 平野ニ樹木アル處松浦地圖「ハラタナイ」ニ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.230 より引用)
para-tay であれば「広い・林」と見て良さそうですね。「ハラタナイ」とあるのは少々謎ですが、para-tay-nay で「広い・林・川」ということでしょうか。文法的には違和感がありますが、taynay の間に存在した何らかの動詞が失われてしまった……と言ったところでしょうか。

現在は何故か「パラダイ川」となっていますが、「オ」がどこから出てきたのかは謎です。

シクケンオマナイ川

sir-kes-oma-nay
断崖・端・そこにある・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年2月26日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (18) 「いつか見た BMW」

室蘭市に入りました。室蘭 IC まであと 1 km ですが、見事にカントリーサインが邪魔をしちゃってますね(笑)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

室蘭 IC の手前で中央分離帯のフェンス?が復活です。

2026年2月25日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (17) 「『SA でひと休み』」

伊達市に入りました。このカントリーサインは……謎ですね(敢えて調べようとはしないスタイル)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

伊達市に入ったばかりですが、早速 1,500 m の追越車線がお出迎えです。舗装も直したばかりっぽいですね。

2026年2月24日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (16) 「Exit of Abuta-Toyako IC is 2km ahead」

洞爺湖町に入りました。写真は例によってチャカチャカと補正していますが、やや曇り気味なのは隠せませんね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「清水トンネル」に入りますが、国境どころか町境ですら無く、長さも 860 m しかありません。国道 37 号だと「チャス隧道」と「クリヤ隧道」に相当するあたり……と言えば「ああ、あの辺か」と思う方もいらっしゃるかも?

2026年2月23日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (184) 函館(函館市) (1878/8/13(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十三信」(初版では「第三十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

社会的退屈

普及版の「第三十三信」は「風光」「風の都」「奇異な屋根の波」だけで終わっていますが、初版(完全版)の「第三十八信」はその後に「社会的退屈」「伝導拠点」「無秩序なミサ」「日々の説教」「仏教寺院」「仏教の説教」と題されたセンテンスが続いていました。これらは軒並み「普及版」でカットされた訳ですが、大半の内容が宗教に関するもので「奥地紀行」とは直接関係ないため、まぁカットされたのも当然の帰結でしょうか。

イザベラは函館に居住する外国人が 37 人いる……とした上で、「道徳や行状上の対立があるため社交的な交際はほとんどなく」と続けていました。同じ外国人なんだから仲良くすればいいのに……と思ったりもしますが、どのような相違が彼らの関係を冷え切ったものにしたのか、ちょっと気になるところです。

イザベラによると、9 月の末には「訪問者」が去り、長い冬が始まったあとは退屈な日々が続くとのこと。その代わりに夏の間は活況を呈していたようです。

 しかし今のような夏には頻繁に西洋の軍艦の出入りや健康志向の外国人──彼らは活火山であるコモノタケ[駒ヶ岳]の麓に横たわる幾つかの美しい湖や名ばかりの道都である遥か内陸の札幌までも冒険に出かける──の訪問があり活気づいています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
「コモノタケ」とありますが、原文では Komono-taki となっていました。これは文脈から読み取らないと訂正が難しそうですね。また「名ばかりの道都」という表現がありますが、これは the nominal capital を訳したもののようです。

要は the capital を「道都」と訳したことになりますね。時岡敬子さんは「首都」ならぬ「主都」と訳していましたが、「道都」のほうがより一般的な言い回しであるようにも思われます。

函館における外国人の娯楽としては、他には以下のものが紹介されていました。

 他には、山に登るか、開拓使庁の実験農場の一つであるナナイ[七飯]を見に行くか、シギ撃ちに行くだけが、気晴らしなのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
登山とシギ撃ちは「わかる」のですが、「気晴らしに開拓使の実験農場を見に行く」というのは、なかなか渋い趣味?なのでは……。

伝道拠点

続いては「伝道拠点」と題されたセンテンスが続きますが、原文では Mission Agencies とのこと。あと「そう言えば」という話ですが、原文では「第三十八信」自体に The Mission Work というサブタイトルがつけられていたのですが、面白いことに各種の和訳本ではどれもこの手のサブタイトルが無視されているんですよね。

 ここに伝道拠点のある四つの教会組織は教会の会堂を建てています。そのうち、カトリック教会は最も大きく、最も飾りたてられたギリシャ正教[ロシア正教]教会の壁は絵画で覆われています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
なるほど、「四つの教会組織」がそれぞれ宣教師を派遣していたのですね。「道徳や行状上の対立がある」というのも、なんとなく理解できそうな気もします。

ここまでは、ロシア正教は改宗に関しては大成功をおさめていますが、ニコライ神父がたった一人で、4、5 人の現地の助手を任命してやってきたのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
ロシア正教は千島でも熱心に伝道活動を行っていて、少なからぬ千島アイヌがロシア正教に帰依したと聞いた記憶もあります。近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てたことが知られていますが、実はその設置の際に「ロシアの建てた標柱を撤去した」という話もあるとのこと。

父親が牧師で、「奥地紀行」でもカトリック教会の支援を受けていたイザベラとしては、もちろんスポンサーへの配慮もしっかりと行っていました。

最近数人の「シスター」が到着してカトリックの伝道に加わりましたが、多分伝道にはずみがつくでしょう。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
イザベラによると、「CMS」こと Church Mission Society英国聖公会宣教協会)は「どちらかといえば新参者」とのこと。

今私が滞在している家のデニング氏とサムライ階級出身の際立ってかしこい現地の福音伝道者である小川氏が担当しています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
歯の浮力で体全体が浮き上がりそうな勢いですね……(汗)。

しかし、蝦夷は仏教徒の地で、その一つの場所である大野では非常に反発が強い。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
高畑さんは翻訳の専門家では無い(と思う)からか、ちょくちょく文体がブレることがあるような……。「蝦夷は仏教徒の地」とありますが、道南は早くから和人の居住が認められた「和人地」であり、「蝦夷は仏教徒の地」という言い回しは若干主語が大きすぎるようにも思われます。

イザベラは「荷駄用の子馬」に乗って大野に向かいます。

 私たちは荷駄用の子馬に乗って、探検旅行に行きました。「蝦夷登り」と呼ばれるのに適当な歩調で行ける路がずうっと続いています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
「蝦夷登り」は、原文では Yezo Scramble と表現されていました。「適当な歩調で行ける」は at a pace felicitously とのこと。

土地の主部と頭に当たる部分を繋ぐ土地の首にあたる部分を過ぎると、輝かしい太陽の光を浴びながら、砂地を行く、楽しい乗馬旅行でした。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
なんか原文の紹介ばかりになっちゃってますが……(汗)。原文では After leaving the neck of land which unites the headland with the mainland とあります。これは函館駅のあたりから七重浜に向かっていた、ということでしょうか……?

 砂地の荒川村から、風光の美しい村落、非常に美しい森林に囲まれた田舎を通って大きな村である大野へと乗馬道は導かれます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134-135 より引用)
この「砂地の荒川村」が謎なのですが、地図を眺めてもそれらしい地名を見つけられません。あ、もしかして「有川埠頭」の「有川」でしょうか? 原文が the sandy village of Arakawa となっているのが諸悪の根源なのですが……。

「大野」と言えば現在の北斗市(旧・大野町)ですが、イザベラは次のように記していました。

そこには政府から配給されたたくさんの外国の木々や花々が生い茂っています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
イザベラは何度か「ナナイの実験農場」のことを記していますが、『七重官園』は現在の七重小学校の近くに存在したとのこと。大正時代の『陸軍図』ではその跡を確認できないのですが、これは 1894 年に既に廃止されていたからかもしれません。


一方、イザベラが向かった大野には農事試験場があり、現在も「北海道立道南農業試験場」として存続しているようです。イザベラはこの農業試験場に向かった、ということなんでしょうか……?


大野の近くには、カシワの一種の丈夫な葉をえさにしている山繭の丈夫な絹の生産の操業をしている官営の工場があります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
「山繭の丈夫な絹の生産」というのは「製糸工場」かと思ったのですが、どうやら「大野養蚕場」が存在していたとのこと。時岡敬子さんの訳も若干ニュアンスが異なるように見えるので、これは原文に当たるべきですね。

Near Ono there is a Government factory, where they are utilising the strong silk of the mountain silk-worm, which feeds on the tough leaves of a species of oak.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
これは……敢えてケチをつけるならばイザベラの文章そのものに対してでしょうか。間違っている訳では無さそうですが、どうにも意味が掴みづらいように思えます(自分には)。高梨謙吉さんなら訳文をしれっと三つに分割しそうな予感も……。

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2026年2月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1351) 「看看川・マカウシノ沢川・ペナコリ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

看看川(かんかん──)

kankan
小腸
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川の東支流で、「びらとり温泉ゆから」の北を流れて「にぶたに湖」に注いでいます。国道 237 号の橋は「看々橋」という名前です。

北海道実測切図』(1895 頃) には「カンカン」という名前で描かれていました。北に「ポンカンカン」という支流もあったみたいです。ピッタシですね(何が)。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「カンカン」という川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過る哉
     ホンカンカン
東岸に小川有。其名義は鹿の腸也。昔し此処に鹿の腸を神が童子共え呉給ひしかば、我も我もともらひしとかや。よつて号る也。しばし過て
     カンカン
東岸平地に相応の川也。其名義前に云ごとし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.689 より引用)※ 原文ママ
なんか色々と「地名説話」らしきことが記されていますが、永田地名解 (1891) を見てみると……

Kankan   カンカン   曲折 類膓ヲ「カンカン」ト云此處曲折甚シ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.231 より引用)
随分とシンプルになりましたね。この kankan については『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも立項されていました。

kan-kan, -i かンカン 原義‘小腸’。川など小腸のように屈曲して流れている部分をいう。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.43 より引用)
看看川は、巨視的にはそれほど迂回しているようには見えませんが、細かいレベルでかなりクネクネした川なので、{kan-kan} で「小腸」と呼んだ……ということなのでしょうね。

図らずも松浦武四郎と永田方正の「記録に対する姿勢の違い」が明らかになりましたが、松浦武四郎の「説話的な解」を永田方正が「現実的な解」にサクッと置き換えてくれるのは、ぶっちゃけとても助かるんですよね(まぁ度が過ぎることが多いのがアレですが……)。

マカウシノ沢川

mak-us-i??
奥に・ある・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年2月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1350) 「ルオマナイ川・ダイケシ川・オボウシナイ川」

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ルオマナイ川

ru-oma-nay
路・そこにある・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川歴史館」の対岸あたりで沙流川(にぶたに湖)に合流する西支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「クルマッオマナイ」と描かれていますが……


ところが『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) を良く見てみると、「クロマトマナイ」の隣に「ルヲマナイ」が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     ルヲマナイ
西岸小川。此辺皆崖なり。其名義は此川まゝ路有りと云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.686 より引用)
やはりと言うべきか、ru-oma-nay で「路・そこにある・川」と見て良さそうな感じですね。この川を遡って分水嶺を越えると(鵡川の支流の)「中の沢川」で、むかわ町有明の北に出ることができます。

ダイケシ川

tay-kes-oma-p
林・端・そこにある・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年2月20日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1349) 「オサツ川・二風谷」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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オサツ川

o-sat
河口・乾いている
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
二風谷小学校の北で「にぶたに湖」に注ぐ東支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲサツ」という川が描かれていて……


北海道実測切図』(1895 頃) には「オサチ」という川が描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ヲ サ ツ
東岸なり。小川。其名義は川口が干上たと云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.686 より引用)
どうやら o-sat で「河口・乾いている」と見て間違いなさそうな感じですね(おそらく -nay あたりが省略されたのでしょう)。現在は二風谷ダムができてしまったため「河口が乾く」ことは難しくなってしまいましたが……。

二風谷(にぶたに)

nup-ta-i?
野原・切る・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年2月19日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (15) 「虻田洞爺湖仮出入口」

虻田郡豊浦町に入りました。胆振総合振興局の管内に入ったことになりますが、ちょいとおさらいすると、大沼公園 IC から渡島総合振興局を脱出するのにちょうど 60 分、そして黒松内町(後志総合振興局)を抜けるのに 12 分とのこと。
ちょうど 11 時を過ぎた頃ですが、あと 7~8 時間で稚内に辿り着く……と考えると「えっ、マジで?」と思ってしまいますね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

豊浦 IC

豊浦 IC まであと 2 km となりました。中央分離帯はワイヤーロープ式防護柵です。

2026年2月18日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (14) 「IC の無かった町」

黒松内町に入りました。カントリーサインは「最北のブナの森」と「クマゲラ」をあしらったものでしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりの道央道では「競走馬輸送車」を目にすることが多いような気がします。

2026年2月17日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (13) 「白い縁取り」

長万部 IC まで 2 km の地点にやってきました。中央分離帯はラバーポールが立っているだけのシンプルなものです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

出口の案内は「長万部」のみで、周辺の地名は表示されていません。あえて考案するなら「長万部 静狩」あたりかなぁと思ったりもしますが、静狩駅や静狩峠まではちょいと距離があるので、案内に含めるべきでは無いのでしょうね。

2026年2月16日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (12) 「国縫 PA 予定地」

長万部町に入ります。かつての交通の要衝で、最近では極端な形の人口ピラミッドでも知られて……いたかどうかは知りませんが(ぉぃ)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

長万部町に入ってすぐのところに 1,100 m の追越車線があります。


決して長いとは言えない追越車線が終了し……

2026年2月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1348) 「ピンニ川・オクマウシ川・ユオイ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ピンニ川

pinni
ヤチダモの木
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
二風谷ダムの 0.7 km ほど南西で、西から沙流川に注ぐ支流……とされています(国土数値情報による)。ピンニ川の北には「敏技沢ぴんぎざわ」という四等三角点(標高 270.4 m)もあるのですが、当該三角点は「オクマウシ川」の水源の近くにあるので、なぜ「敏技沢」という名前になったのかは謎です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には何故かそれらしい名前の川が見当たりませんが……


北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンニ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また此山の上の処に
     ヒ ン ニ
西岸相応の川也。其名義は此川すじ秦皮たも多く有るが故に号るとかや。ヒンニは秦皮の夷言也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.685 より引用)
pinni は「ヤチダモの木」を意味します。これも単独では地名・川名としてはおそらく適切ではなく、pinni-us-i で「ヤチダモの木・多くある・ところ」や、pinni-ta-us-i で「ヤチダモの木・切る・いつもする・ところ」と言った地名だった可能性がありそうですが、他の地名との比較という意味では pinni という情報があれば十分だったので、おそらくその後ろがバッサリと略されてしまった……ということだと思われます。

オクマウシ川

o-kuma-us-i?
河口・横山・ついている・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年2月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1347) 「小平・パンケオユンベ川・シケレべ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

小平(こびら)

ku-o-pira
仕掛け弓・ある・崖
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取本町から「平取橋」を渡った先(沙流川の東側)の地名です。「こだいら」でも「おびら」でも無く「こびら」と読みます。

北海道実測切図』(1895 頃) には「クピラ」と描かれているように見えますが……


意外なことに、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりません。川名ではなく地名であるが故、でしょうか。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

扨また是より屈曲たる処を上り行ことしばしにて
     クヲヒラ
東の方さして高く無れども、峨々たる崖の下平になりたり。其名義は此上弓を仕懸置処なり。其が故に号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.681 より引用)
どうやら ku-o-pira で「仕掛け弓・ある・崖」と見て良さそうな感じですね。「仕掛け弓」は獲物が通りそうなところに予め弓を仕掛けておいて、獲物が「さわり糸」に引っかかったタイミングで矢が射出されるというものです(無人で狩りができる)。鏃にはトリカブトなどの神経毒が塗られているので、一本の矢が当たっただけで致命傷を与えることができた……ということなのでしょうね。

「仕掛け弓」は獲物のサイズに応じたセッティングがなされているので、うっかり通りがかりの人が「さわり糸」を引っ掛けても大丈夫なようになっている……らしいですが、それでもうっかり人に当たってしまうという「事故」はちょくちょくあったみたいです。

そのため「仕掛け弓のある場所」は広く周知する必要があり、故に地名として残った……ということなのでしょうね。「実測切図」の「クピラ」は「ヲ」を「ラ」に誤読あるいは誤記してしまった、ということだと思われます。

パンケオユンベ川

panke-o-i-un-pe?
川下側の・河口・湯・ある・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年2月13日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1346) 「ユーラップ川・シツキの沢・織乙」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ユーラップ川

yu-rap?
湯・おおぜい降りる
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アベツ川の南支流で、国道 237 号の「新平取大橋」のすぐ東でアベツ川に合流しています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ユーラㇷ゚」と描かれていますが……


不思議なことに、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりません。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

扨また此川まゝイをしばし上りて左り
      ユウラツプ
 土人共此名義をしらされども、山越内のユウラフと同名にして、考ふ時はユーランヘツにして、源に温泉の気有るが下り来る川と云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.679 より引用)
「地元のアイヌは由来を知らないが」と前置きした上で「山越内のユウラフと同名」としていますが、これは松浦武四郎の見解ということでしょうか? 確かに yu-rap で「湯・おおぜい降りる」となるのですが……。

マムシが多い!?という仮説

別の解も考えられるので記しておきますと、i-o-rap で「アレ・多くいる・両翼」とも考えられるのではないかな……と。rap は「羽;翼」という意味のほか、「両翼を張ったように突出ている出崎」を意味する場合もあります。

i は言挙げを憚るものを言い表す際に使用される代名詞で、ヒグマやマムシなどに使われることが多いものです。よりドリルダウンした表現に直すと「マムシの多い出崎」と言ったところでしょうか(ハヨピラの先あたりで「マムシ注意」の看板を見たことがあるので、i は「マムシ」かなぁと推測してみました)。

シツキの沢(シツキノ川)

supki
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年2月12日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (11) 「こだわりの『上下線分離』」

道央道でまずは札幌に向かいます。八雲 IC を通過しましたが、札幌まで 225.5 km ということでしょうか。先は長いですね……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

八雲 IC から国縫 IC にかけての区間は、上下線が独立した形の「暫定 2 車線」が続きます。これは橋だと思うのですが、まるで「暫定」ではなく「完成 2 車線」のような構造ですね。4 車線化する時はどうするのでしょう。

2026年2月11日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (184) 函館(函館市) (1878/8/13(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。ようやく「蝦夷に関するノート」を読み終えたので、今日からは、普及版の「第三十三信」(初版では「第三十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

風光

「風光」というサブタイトルですが、原文では Form and Colour となっていました。時岡敬子さんの訳では「形と色」で、これはこれでストレートな訳ですが、高梨謙吉さんはこれを「風光」としていて、ちょっと謎ですね……。

イザベラは、よりによって夜行便で大荒れの津軽海峡を渡って函館にやってきたのですが、函館上陸の翌日になって「ようやく美しく晴れてきた」と記していました。

ここの気候は本土よりも爽快に感じられる。ここも日本なのであるが、何か異なったところがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.339 より引用)
函館に上陸してからのイザベラの文章には共感できるところが多いのですが、これなんかもそうですね。日本なんだけど日本離れした爽快さがある……と感じる人は今でも多いはずです。

霧が晴れると、一面に緑で包まれた山々ではなくて、裸の峰や火山が現われてくる。火山は、ほんの最近に爆発したもので、赤い灰が昼の太陽の下に燃え、夕日には桃色から紫色に変わってゆく。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.339 より引用)
これは恵山や駒ヶ岳を念頭に置いた記述でしょうか。「ほんの最近に爆発」とありますが、駒ヶ岳(北海道)は 1856 年に大噴火を起こした記録があるとのこと。1888 年にも噴火の記録があるようですが、これはイザベラの蝦夷紀行の 10 年後の出来事です。

町の背後に聳える二つの山は、杉の林におおわれて、それほど険しくも見えない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.339 より引用)
「町の背後に聳える二つの山」ですが、一つは「横津岳」でしょうか。もう一つがやや謎ですが、「木地挽山」あたりでしょうか。

砂浜が岬と本土を結んでいるので、ジブラルタルと地形が非常によく似ている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.339 より引用)
北海道は本州よりも緯度がヨーロッパに近いということもあってか、イザベラは蝦夷地の景色にヨーロッパの面影を重ねようとしていたようです。

しかし西欧世界のことを考えていると、人力車クルマが前を走って通り、お寺の太鼓が聞こえてくるが、それは「英国のドラムのすり打ち」とは似ていないものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.339 より引用)
(笑)。本州と比べて冷涼で快適な気候であるとは言え、少なくとも函館の町中は間違いなく「日本」だったようですね。

風の都

イザベラは「お寺の太鼓」や「大八車」で我に返ったのか、函館の街の印象を次のように記していました。

 函館を一見しただけで、やはりどこからどこまでも日本的だと感ずる。街路は非常に広くて清潔だが、家屋は低くてみすぼらしい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.340 より引用)
我らのイザベラ姐さんが帰ってきましたね。函館の町並みについても一刀両断です。

この町はあたかも大火からようやく復興したばかりのように見える。家屋は燃えやすいマッチも同然である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.340 より引用)
函館はこれまで何度も大火に見舞われていて、日本語版 Wikipedia にも「函館大火」という記事ができていました。これによると 1871 年と 1873 年にも 1,000 戸以上が焼失する火事があったとのこと。イザベラが函館を訪れた 1878 年には道路の拡幅が実施されたとのことで、これが「復興したばかりのように見える」一因だったのかもしれません。

奇異な屋根の波

そしてイザベラは函館の町並みに「瓦屋根」が見られないことに気づきます。

町はまた骸骨のような様相を呈している。それは屋根の上にたくさんのがっちりした「物干し台」が見えるせいもあろう。しかし恒久性のものに石がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.340 より引用)
「しかし恒久性のものに石がある」というのはどういう意味だろう……と疑問に思ったのですが、原文では Stones, however, are its prominent feature. とある部分でしょうか。

時岡敬子さんはこれを「とはいえ、突出した特徴は石です」と訳していました。あっ、もしかして……高梨さんは prominentpermanent と見間違えた……とか?

高いところから町を見下ろすと、何マイルも、灰色の丸石が波のように続いて見える。この風の都の屋根は、どれも敷き石の重みで押さえつけてあることが分かる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.340 より引用)
イザベラは、函館の家屋の多くが瓦ではなく丸石を積んでいるだけではなく、小石を敷き詰めたものや芝生や草花で覆われたものがあることにも気づいたようです。イザベラは、これらの構造を「火の粉を防ぐため」としています。

これらの屋根に葺いてある石は、このように風の多い地方の家屋の屋根を守るために最も安価な方法であることは確かである。しかしそれは奇妙に見える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.340 より引用)
確かにその通りでしょうね。ちょっと明確ではないように思えるのが玉石積みを選択した理由で、単に瓦よりも安価だからなのか、それとも普通の瓦ではすぐに飛んでしまうからなのか……。両方の理由の合わせ技のような気もしますが、どうなんでしょう。

 街路はどれも注目をひかないが、丘を高く登って行く街路だけは、りっぱな寺院や境内が並んでいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.341 より引用)
これはもしかして八幡坂のあたりでしょうか……?

ほとんどどの家も商店である。たいていの店は、多数の貧乏な住民が消費する日用品だけを販売している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.341 より引用)
「多数な貧乏な住民」とか、また身も蓋もない表現が……と思ってしまいますが、原文では poor population とのこと。こればかりは時岡敬子さんも「貧しい住民」と訳すしか無かったようです。

本物や偽物の外国商品が本通りに満ちているが、珍しいものは毛皮、皮革、角で、その専門店に豊富に出ている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.341 より引用)
ちょっと文意が掴みにくい感じもありますが、「毛皮」「皮革」「角」は外国商品ではなく地場のもの、ですよね。

私は熊の毛皮や、アイヌ犬の濃いクリーム色の毛皮が欲しい。それはりっぱであるとともに安価でもある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.341 より引用)
あ、イザベラ姐さんも普通に毛皮が欲しいのですね。ちょっと意外な感じがしたもので……。

多くの古物商、すなわち「骨董屋」と呼ばれるものが多い。青森から来る安価な漆器も旅人の心を誘う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.341 より引用)
「骨董屋」は原文では "curio" となっていました。「津軽塗」の漆器はアイヌにも出回っていたのか、ちょっと興味が湧いてきました。

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2026年2月10日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (10) 「八雲だけに」

「八雲まで 3 km」という案内が出ていますが、これは PA の案内のようです。八雲 IC と八雲 PA は 8.4 km ほど離れたところにあり、八雲 PA の最寄り駅は JR 函館本線の「山越駅」です。
個人的には、PA には歴史ある「山越」の名前が使用されたら嬉しかったのですが、地元としては「八雲」という現行地名をアピールしたいでしょうから、まぁ已むを得ないネーミングでしょうか。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

実際には「八雲 PA」は八雲町山越ではなく八雲町浜松に所在するのですが、流石に「浜松 PA」を名乗るわけにはいかなかったのかもしれません。

2026年2月9日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (9) 「野田生の立場は」

八雲町に入りました。以前は山越郡八雲町でしたが、2005 年に爾志郡熊石町と合併した際に「二海郡八雲町」となりました。
噴火湾に面した旧・八雲町と日本海に面した旧・熊石町が合併したことによるネーミングですが、この合併によって旧・熊石町域が檜山振興局から渡島総合振興局のエリアに「お引越し」してしまい、檜山振興局エリアが南北に分断されることになってしまいました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「とび出し注意」の標識はキタキツネが描かれています。

2026年2月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1345) 「アベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

アベツ川

apa-o-i?
戸・ある・ところ
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取本町の東、国道 237 号の「新平取大橋」のあたりで沙流川に合流する東支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) では「アペ川」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「アヘツ」と描かれている……のだと思いますが、「マヘツ」あるいは「フヽヘツ」のようにも見えますね。

楡の樹皮が多かった?

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

扨此処より岸処々石原有、山多くは雑木立。過て
     アヽベツ
東岸中川。鱒・あめます・チライ・桃花魚うぐい多し。其名義はアツベのよしにて転じたりと。昔し楡皮多かりしより号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.679 より引用)
オヒョウ(楡)の樹皮から紡いだ糸で織られた「アットゥㇱ」(衣服)は交易品になるほど人気のあるもので、そのためオヒョウの自生地は地名にも良く残っています。オヒョウニレの樹皮は at なので、「アアベツ」は「アツベ」で at が多かったことによる……というのが松浦武四郎が記した説ですね。

座るところ?

一方で、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

A pe   ア ペ   坐處 「」ハ坐スルノ義靜内郡「シピチヤリ」川ニモ「アペウンナイ」ノ地名アリ義同シ○松浦地圖「マベツ」ニ作ルハ誤ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.229 より引用)
「松浦地図」の「マベツ」は誤りなり……としていますが、確かにあれは「マベツ」と読める……というか、そうとしか読めないですよね(汗)。

そして『北海道実測切図』には「アペ川」と描かれていますが、なるほどこの解を参考にした可能性が高そうですね。a-pe で「座る・ところ」だと言うのですが、「座るところ」とは何ぞや……という話の前に「ほらほら他所にも類例があるよ」という話にしちゃうあたり、永田方正もなかなかやりますね……(何を)。

戸があるところ?

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

 以上の二説は,ア・ペッ「a-pet(何かが)坐る(坐っている)・川」,またアッ・ペッ「at-pet おひょう楡(の木)の・川」のように理解できるが,まだ説が出て来そうな名である。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.363 より引用)
そうですね。まだ説が出せそうな気がしています(汗)。

「アパ」あるいは「アペ」系の地名は apa(戸、入口)と解釈できてしまう場合が多いように感じています。apachise(家)の入口に相当する部分で、外から家の中が丸見えにならないような位置に設けられています(風雪を凌ぐ意味もあるのでしょうが)。

2026年2月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1344) 「ヤミノ沢・オバウシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヤミノ沢

yam-e?
栗・そこに
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取本町の南、荷菜大橋の東で沙流川に合流する南支流です。短い川ですが、この川を遡った先に「遍景野無江(ぺんけのむえ)」という三等三角点も存在します(標高 191.6 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンケヤムエ」という名前の川が描かれていました。どうやら「ペンケヤムエ」に「遍景野無江」という字を当てたものの、間違った読み方が「三角点の記」に記載されたっぽい感じでしょうか……。


『北海道実測切図』には「ペンケムエ」の西隣に「パンケヤㇺエ」も描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ニチンケフ」という川が描かれているのみで、「ペンケヤムエ」らしき名前の川は見当たりません。


ただ、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばしを過て
     ヤ メ
西岸小川。本名はヤムのよし也。此川すじ栗多きよりして号しとかや。今訛りてヤメと号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.673 より引用)
yam は「冷たい」という意味ですが、道南では yam ではなく nam とされます。yam には「栗」という意味もあり、道南においてはこちらが一般的ですね。

問題は「ヤムエ」あるいは「ヤㇺエ」の「エ」ですが……永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Yam e   ヤㇺ エ   栗ヲ食フ 松浦地圖「ヤメ」トアルハ急語ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.229 より引用)
いやー、確かに e は「食べる」ですが、地名で「栗を食う」は無いでしょう……。たとえば yam-e-us-i で「栗・そこに・多くある・ところ」のような地名があり、やがて -us-i が略されてしまった……といった可能性を考えたくなります。

ただ -us-i というのは想像でしかないので、現時点では yam-e は「栗・そこに」と見るしかなさそうでしょうか。あるいは、更に「もしかしたら」ですが、yam-o-i で「栗・多くある・ところ」が転訛に転訛を重ねて「ヤㇺエ」と聞こえるようになった……という可能性も、無いとは言い切れないかも……。

「ヤメ」あるいは「ヤㇺエ」が「ヤミ」に転訛し、そのまま「ヤミノ沢」という川名になって現在に残る……ということになりそうです。

オバウシナイ川

o-pa-us-nay??
河口・湯気・多くある・川
(?? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)

2026年2月6日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1343) 「荷菜」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

荷菜(にな)

ninar
台地
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取本町の西隣の地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) には現在の去場に近い位置に漢字で「荷菜」と描かれていました。これは当時「荷菜村」が存在したことを示しています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には沙流川の南側に「ニナ」と描かれていました。よく見ると『北海道実測切図』にも沙流川の南側に「ニナー」という川が描かれていますね。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     ハンケニナ
     ヘンケニナ
東岸小川並びて有。此川端昔し村なりしが、今は只畑のみ残りたり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.661 より引用)
「実測切図」では沙流川の南岸(東岸)に「ニナー」「パンケヤㇺエ」「ペンケヤムエ」が並んでいましたが、「左留日誌」では「ハンケニナ」と「ヘンケニナ」が並んでいたことになっています。このあたりの川名は『東西蝦夷山川地理取調図』と『北海道実測切図』で相違が激しいのですが、「ニナ」あるいは「ニナー」という川が存在したことは間違いなさそうでしょうか。

木が多い? それともヒラメ?

この「ハンケニナ」「ヘンケニナ」ですが、「左留日誌」は次のように記していました。

其名義しれず。恐らくは木多きよりして号しもの也と思はる。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.661 より引用)
ni は「木」あるいは「流木」を意味するので、そこからの類推でしょうか。『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると ninani-na で「木・をとってくる」を意味するとのこと。『地名アイヌ語小辞典』(1956) では nina は「木・切る」で「焚木を切る」という意味だとしています。

松浦武四郎は「ニナ」について「其名義しれず」と記しつつ、何故か次のように続けていました。

其名義は昔し海嘯の時テツクヒ(和語方言)と云比目魚ひらめが此処まで上り来りしによつて号とかや。テツクヒは松前方言なり。ニナは比目魚の夷言也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.661 より引用)
「テツクヒは松前方言なり」とありますが、『北海道方言辞典』(1983) にはそれらしい語彙を確認できませんでした。

知里さんの『動物編』(1976) を見ると、確かに nina で「ヒラメ」を意味するとのこと。

§ 53. ヒラメ Paralichthys olivaceusTemminck et Schlegel
( 1 ) nina(niná ニナ)成魚《オシャマンベ;レブン;アブタ;シラオイ;シャマニ》注.──バチラー氏の辞書に Nina-chep テッフィ Nina《虻;長;様;白》C 228 小型の内はアオッパ,大きくなればヒラメ,さらに大型になればテックイ。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.27-28 より引用)
あ、なるほど。やはり「ヒラメ」=「テックイ」なんですね。長万部礼文虻田白老様似とありますが、この礼文(レブン)は「礼文島」ではなく「虻田郡豊浦町」なので注意が必要です。

要は太平洋側で採集された語ということになるのですが、それ以外では藻汐草 (1804) の simuspe が併記されているくらいで、太平洋側以外では si-tantaka(大きなカレイ)という程度の認識だったのかもしれません。

薪ではなくヒラメ?

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Ninā   ニナー   ヒラメ魚 方言テツクイ○薪ヲ負フヲ「ニナ」ト云ヒ「テツクイ魚」ヲ「ニナー」ト云フ同語ノ如クナレトモ發音ハ異ナリ、古ヘ此邊ニテ「テツクイ」ヲ漁シタルヲ以テ名クト云フ○荷菜村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.228 より引用)
どうやら永田方正は「荷菜」=「ヒラメ」説を取ったようで、曰く「木をとってくる」の ni-na と「ヒラメ」を意味する nina は発音が異なるとのこと。

『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていたのですが……

昔,大津波のあと泥の中にヒラメがもがいていたと伝えられ,この地方では平目の姓が多い(平取村開村五十年史)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1106 より引用)
これは良くあるストーリーで、たとえば白糠鍛高なんかもほぼ同じでした(津波でカレイが上がったので「タンタカ」)。ところが永田方正は「古ヘ此邊ニテ『テツクイ』ヲ漁シタル」と記していて、まるでヒラメの漁場だったようにも見えますが、これは「ヒラメが上がったことがあった」という認識……でいいんですよね?

荷菜? 荷菜摘?

「荷菜」という地名でちょっと不思議なのが、近辺に似た地名がちらほら存在するところです。かつては日高町(旧・門別町)平賀にも「荷菜摘」があったほか、日高門別川上流のクッタリ川ハトナイ川の間あたりにも「ニナチミ」があったとのこと。また平取町幌毛志の「ポロケシオマップ川」にも「蜷摘になつみ橋」が存在します。

どこも「ニナチミ」あるいは「ニナツミ」なのに「荷菜」だけ「ニナ」なのもちょっと不思議ですが、平賀の「荷菜摘」について山田秀三さんは次のように記していました。

元来は川上のペナコリの南の辺の地名であったが,その部落の人たちが諸地を遍歴し,ここに落ちついたが,旧地の名をそのままここに残したという。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.362 より引用)
むー。妙に平取近辺に「ニナチミ」あるいは「ニナツミ」が多いのは、移転地名だった可能性があるんですね。移転地名は地形から判断できない場合が多いので、難しいんですよね……。

焚き木でもヒラメでもなく

なんか意図的に本題から話をそらし続けているような気もするのですが、nina は果たして「焚き木を取る」なのか、それとも「ヒラメ」なのか……という話でした。自分の見立てでは「ヒラメ」は「言葉遊び」の域を出るものでは無く、また「焚き木を取る」についても「なんとも言えない」というのが正直なところです。

上流からの流木(小枝レベルのもの)が打ち上げられる場所は、手軽に焚き木を入手できることが重宝されてそういう地名が残っても不思議はないのですが、一般的には ni-o-i あたりになろうかと思います。平取町には「荷負」があるので、似て非なる地名をそれほど遠くないところにつけるかと言うと、ちょっと微妙に思えるのですね。

「荷菜」あるいは「荷菜摘」が移転地名である可能性を考慮すると判断材料としては微妙ですが、やはり ninar で「台地」と見るべきではないかと思うのですが……。

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2026年2月5日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (8) 「鷲ノ木遺跡トンネル」

道央自動車道で札幌方面に向かいます。森 IC まであと 500 m のところに来ましたが、案内には「森 鹿部」と表示されています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そして道路情報表示板には「鹿」「注意」の文字が。鹿部だけに……と考えると、なかなか空気を読んでいますよね。

2026年2月4日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (7) 「謎の 1.8 km」

大沼公園 IC で道央道に入りました。そろそろ将来的に本線になるであろう位置ですが、制限速度は 50 km/h とのこと。
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「S272」とあるのが気になったのですが、これはどうやら札幌 JCT からの距離のようですね。

2026年2月3日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (6) 「HKB Sightseeing」

森町に入りました。ピクセル等倍ですが、ブレが補正できなかったのか、残念な画質で申し訳有りません……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

森町に入ったところで、国道 5 号は再び 4 車線になりました。このあたりを走るのはおそらく 2008 年以来で、その時は日没後だった筈なので、ほぼ土地勘はありません。

2026年2月2日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (5) 「レストラン&ボウル ハイウェー大沼」

事前に「トンネル出口 信号機あり」と散々注意喚起がなされていた「大沼トンネル」を抜けました。確かにトンネルの出口は下り勾配の左カーブになっていて、その先に交叉点が見えます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この交叉点は大沼の南に位置する「小沼」の南端に相当します。右折すると道道 338 号「大沼公園線」で大沼駅方面に出ることができます。

2026年2月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1342) 「タップコサラ川・去場・スタップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

タップコサラ川

tapkop-sar
小山・葭原
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川の北支流で、平取町立紫雲古津小学校の北を流れています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「タㇷ゚コㇷ゚サラ」と描かれていました。この図を見ると一目瞭然ですが、現在の「タップコサラ川」の下流部はかつて沙流川の分流だったようです。また「タッサラ」は「タㇷ゚ㇷ゚サラ」の転記ミス……でしょうね。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タツコサラ」という名前で描かれていました(よく見ると位置がややおかしいですが)。面白いことに「フシュコペッ」(=旧川)は描かれていません。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

扨また屈曲まゝをしばし上りて左りの方に
     タツコサラ
西岸相応の川也。此辺にて平地に成り、上に小山有。其名義は小山の傍の蘆荻原と云り。タツコは小山、シヤラは湿沢蘆荻原也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.656 より引用)
欲しい情報がこの上なく簡潔にまとめられていますね……(素晴らしい!)。tapkop は「たんこぶのような山」を意味しますが、「タㇷ゚コㇷ゚」と「たんこぶ」が似ているのは偶然の一致なのか、それとも……? 「円山」と表現する場合が多いですが、そうか「小山」でも問題ないかもしれませんね。

sar は「湿原」や「葭原」を意味するので、tapkop-sar で「小山・葭原」となるでしょうか。これは間に -us などの動詞があり、それが省略されたとの想定が必要になります。

tapkop-sarsar を「湿原」や「葭原」と考えるのではなく「沙流川」と見ることも可能かもしれません。一支流に過ぎない「タップコサラ川」が「沙流川」を名乗るのは妙な感じもしますが、下流部分がかつて沙流川の分流だったことを踏まえると可能性はゼロではないかも……?

去場(さるば)

sar-pa
葭原・かみて
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)